辰野基康のブログ

音楽会のご報告 日々の雑記などをメモしています。 メインのサイトは http://sitar.holy.jp/ ご連絡は tatsuno123@yahoo.co.jp

心を込めること

◇どれだけ心を込めたかが大事◇

透析治療をはじめてから7年目
わりとしぶとく生きていると思います。
始めた頃は数年で死んでしまうのだろうと思っていましたから。
もっとも、長い方は20年30年と元気で暮らしています。
けれど、障害者1級です。早く亡くなる方もいます。
腎臓が悪いための合併症があったり、他の疾患で腎臓が痛んだり・・
透析患者は同じ透析治療を受けていてもひとりひとり症状が違うのです。

血液透析は週3回4時間〜5時間
これだけ治療のために拘束されます。
でも、ものは考えようです。
この治療を受けていないと、おおよそ1ヶ月以内には確実に死んでしまうわけで。
安心して治療を受けられる日本の医療制度のおかげで、今こうして生きて元気でいられるのです。
透析をすると体内の毒素が抜けるのですっきりするんです。
ただ翌日からまた毒素が溜まり出すので、また、それを抜いて体を回復させる。
すごい治療を考えたものですね。

あとどれくらい生きられるのかな
ふと考えることもありますが、あまり深刻に考えないようにしています。
死は命の先に必ずあるわけで、
だから、今どう生きるか、今どう老いていくか、それが大事なこと。

老いることも、自分に合ったことで良いのだから。
持病があったり、透析の治療をしたり、それが等身大の自分
だったら、それに添って今を生きて行く。
自分に合わない生き方はしない、ということですね。



音楽活動も、無理しない範囲で行っています。
無理ない範囲での演奏活動を理解していただき、支援して下さる方もいらっしゃいます。
これには、ただありがたい限りの気持ちです。
感謝は拙いながら精一杯の演奏で返したいです。

若い頃、体力がある頃、けっこう無理して演奏活動をしていました。
楽器と衣装や備品や機材を入れたスポーツバッグを担いでどこにでも行きました。
朝や深夜の満員電車は大変でした。
満員の中で楽器をかばうので、体に負荷がかかるのです。
長年荷物を持って移動していたので、背骨がS字型に曲がってしまうほどでした。
まあ、それも腎臓を傷めた遠因かも知れません。
それでも楽しかったし、体も丈夫だったからやれていたんです。

血圧が高くなり心臓に負担がかかり、そのため腎臓にも負担がかかり・・
結局、腎臓をすっかり悪くしてしまいました。
2つある腎臓のひとつは完全に動かなくなっていました。
透析治療を受け続けることになって、音楽への向き合い方が、少し変わったかも知れません。

結局、長年やっていても、自分はビギナーだという自覚、気付きがありました。
この気付きは、大きなことでした。
いつまでもビギナーであるからと悲観する必要は全くないのです。

難しいことをする必要はないんだ、出来る範囲のことを丁寧にやるようにすればいいんだ。
例えどれほど稚拙と言われても、自分が大事にしたいと思えることを大事にする。
音楽についても知らないことばかりだけれど、それで良いんだね。
ゆっくりすこしずつ無理せず、自分の範囲で理解していけば良い。
聴かれる方とは、そんな時間を共有するんだな・・

当たり前のことですが、つい忘れがちなことです。
演奏を重ねていったりする中で、何故か、それを忘れてしまうのです。

コンサートは成功だった、自分なりに満足できる演奏だった、お客様も喜んで下さった。
それなのに・・
何か大事なもの、今まで積み重ねてきた大事なものが、自分から抜け落ちていく、そんな感覚


マザーテレサの言葉の中に、
どれだけ心を込めてやるかが大事、
とありますが、なるほど本当にそうだと思えてきます。


ビギナーとして

◇ビギナーであることがわかった◇

最近、だいぶわかったことですが、私はかなりのシタールのビギナーなんですね。
今では当たり前にそれが思えていて、良かったなとつくづく思います。

初心者だから、出来ないことや知らないことがたくさんあります。
出来たと思い込んでいたりしていたことも多いですね。
日々、少しづつでも練習して身に着けたりできればそれはありがたいことです。
知ったかぶりをしたりして弾いていると、それが変な癖になるのか、何だか音がダメになる感じです。


自分がビギナーとわかってからは、弾き方を丁寧に修正する練習をしたり。
綺麗な音を作る訓練したり。
それでも、力量不足であれば、何だかイマイチだったりします。
ずっと練習を続けても、いつまでも冴えない音もあるでしょう。
まあそれはそれで。

それが自分なんだから
等身大の自分としてありつづけられること、当たり前のことですが、それがうれしいです。

いつまでも下手なままでいても、面白いとかワクワクする音楽的な発見、
演奏技法の発見とか、そうしたものはあります。


演奏では聴いていただける方とそうしたワクワク感を少しでも共有できたら嬉しいですね。


美しい響きを求めて シタールと和声、純正律 

音楽という大海からすると、自分の能力や経験、知識は、ほんの一滴の存在でしかないのです。
音楽をヒマラヤや富士山のような美しく壮大な山で例えれば、その一つの石ころでしかないのですね。
でも、それがわかったことは、実はとても幸せなことなのです。
出来ることは小さいのだから、それをゆっくり丁寧にやれば良いのですから。
小さいことをゆっくり丁寧にやれば、それはやがて身に付きます。
もともと才能とかないので、小さく出来ることを積み上げていくだけです。
まあ、楽器のメンテナンスでは、これを長年やってきたのですけれども。


バー


シタールの和音の表現は、長年考えてきたことです。
ただ、これは簡単に考えると、いつもうまくいかないのです。

というのも、12平均律で表される和声(多くの場合ピアノで表現されることがありますが)とシタールのインド古典音楽の響きが、調和しないことがあるのでしょうね。
ただ12平均律は転調にもすぐ使えるし、便利なので、ごく普通に使われている音程です。

昔は(西洋古典音楽ではゴレゴリオ聖歌の時代とか)12平均律ではなかったらしいです。
民族音楽も、12平均律は本来使われていなかったのです。

ところが、たぶん音楽の商業化の波が、古典的な響きを失わせて、使い勝手の良く便利な12平均律に代えていったのでしょうか。
ま、便利で使いやすいから良いのでしょうけれど・・

でも、不便でも、より美しい響きだって、時には聴いてみたいものだと思いませんか。

無駄が多かったり、快適ではなくても、やっぱり美しいと感じられる響きには魅了されるのです。


ここで使いたいのは12平均律ではない和音、純正律を使った和音です。
12平均律と純正律の違いは、とても微妙な音程。
けれども注意深く聴いていれば、だんだんとわかってくるものなのです。

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ただ一点、これは決定的な問題なのですが、平均律で調律したいわゆる「普通の調律のピアノ」では絶対に純正律の響きは作れません。
ピアノの構造上、そうなるのです。
ただピアノは一音を3本の弦を叩いて響かせませすので、その3本の音程を微妙にずらすことで全体の響きのバランスをとっているようで、優れた奏者はそこからピアノらしい美しい響きを引き出すのでしょう。
ピアノは旋律の伴奏も多いので、そのピアノの「響き」を音楽全般の「響き」の基準としているようです。

ただ、シタールでは、なかなかそうしたピアノの響きと調和する音が出しにくいのです。
ピアノと合わせると、自分の弾くシタールの音がよく分からなくなってしまうんです。
もっともそれは私の才能や能力の問題かも知れませんけれど。


ともあれ、自分では自分で出来ることを、小さくやっていくことだけなのです。

シタールで表現するのは、3和音で曲を埋めるのではなく、時々効果的に使う和音です。

幾つかのRagaで試しています。
Ragaをベースにしてタンブーラ付きの音に和音を組み込ませるのですが、上手くいくと幻想的と言うか未来的?な音になる感じです。

聴いたことがない感じの響き。
この響きには、ちょっと中毒性があります。

この響きの感じは、やっぱりライブ感があっての響き、体験的な響きになるので、録音では何か不十分です。

いつか、どこかで発表できたら良いのですけれどね。

sitar背景2

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