8月27日は、三味線演奏家早乙女和完さんの絵画の個展でのコラボ演奏でした。
横浜の風雅堂という古民家ギャラリー。街中にある、ちょっとした一息つける隠家のようなところ。
和完さんとは長年の知己です。30年以上前のことです。最初、ロック三味線を演奏すると、楽器を持って訪れてくれました。ロック三味線というのは、三味線を使い、ロック(のような)音楽を演奏するということ。
詳しく話しを伺うと、彼自身は伝統的な長唄を学んでこられて、けれども、オリジナリティある演奏を作っていく必要性を痛感して試行錯誤なされている、シタールの音色を良く聴いてみたいとのことでした。
伝統ある世界に属し、伝統ある音楽を深めていくことは、とても意義あることでしょう。
ただ、それが権威つけられ硬直化して本来持っている活力を失いかねなくなれば、新たな表現の模索がはじまるのはとても自然なこと。
「権威」とか「伝統」とかで感性を硬直化させてしまい新たな試みに耳を塞ぐことは、新たに生み出される音楽の可能性を塞いでしまうことではないでしょうか。
和完さんはそんな想いを持たれてらっしゃるのでしょう。
実はこの合奏の準備として、ネットに上げられた長唄の曲などを聴いていました。もっとも、結局にわか仕込みの理解しかできなかったのですが。
宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か
メリヤスもの ちょっと粋ですね。聴きながらシタールでちょっと味付け、という練習をしてみる。
歌舞伎十八番 勧進帳。義経が弁慶に叩かれるところに涙したりします。
あれ?長唄の世界、意外に面白い。
そんなにわか長唄ファンになって、和完さんとの合奏に臨みます。
三味線・和完さん タール・村崎さん シタール・辰野 という構成
音量を合せるために、全員PAを通します。
だから、聴き馴染んだ古典の長唄三味線よりは音の響きが強い感じです。
といっても、津軽の太棹三味線とはまるで違います。
やっぱり、明るく繊細な細棹三味線の響きです。時々エフェクターを通した音。
ロック三味線なのかどうか、自分ではわかりませんが、伝統的な技法も使いながら、ご自身の中にある音を表現されているような気もしました。そこには学んできた長唄の伝統の音、生きていた中で接していた様々な音楽、それらが混然と混ざり合わせることで、オリジナル音楽を作っていこう、という意欲が凄かったです。それは何十年もそれにかけてこられた人の音です。
展示されている絵も、その延長にある気がしました。
オリジナルの即興での歌、三味線とタールの伴奏、そこにシタール演奏を加えていきます。
シタールは隙間を埋めていくというようりは、音の流れに参加して、うねりを作っていくという感じでしょうか。
勧進帳「滝流し」を聴いていたのが参考になりました。
タールの村崎さんとは、タールクラブのコンサート以来、懐かしかったです。リズムを叩くというより太鼓による環境音という感じが強かったでしょうか。色々な音色があって楽しかったです。
ともあれ、ベーシックなものが違う楽器同士のコラボ的な演奏は、ともあれ音を出す人と人の関係が大事に思えます。
当たり前のことですが、相手へそして相手の音楽への敬意、リスペクトはもちろんだけれど、でも自分の音楽へのリスペクトも大事。このバランスが重要。
これは、その前の末森さんの歌のナマステ楽団とのコラボの時もとてもそうでした。
熱演だとややもすると心を閉ざし夢中になるのですが、そうではなくて、心を広げて緩やかに。正確な音程とリズムとダイナミズム、でも心と頭はヘラヘラしてユルユルで。
これって、一種の瞑想なのでしょうかね。
三味線は弦の響きに「さわり」という効果音がついていて、それはシタールのジャワリと同じ種類の効果音です。
ただ、三味線は皮が張られた胴と絹糸の弦で、シタールのような木のボディ、金属弦とは違います。
また、三味線の大きな特徴だと思うのですが、伝統的な歌唱法に合うように音色が調整され奏法が作られている気がします。
三味線は、一般に、義太夫節の太棹三味線(津軽三味線もこれ)、地歌、民謡などの中棹三味線、長唄、小唄などの細棹三味線、琉球音楽の三線などがあるらしいです。
そのどれもが微妙に音色などが違うという、とても繊細な楽器であり、音楽なのです。
長年、シタールのジャワリの音を生で聴き続け、出し続けてきたので、ジャワリ系の音は少しづつだけれど聞き分けられるようになってきました。
だからかも知れませんが、三味線の音色はどれも素敵だし美しいものです。
うん!三味線音楽、良いじゃないか。
週末、シタールの練習のために帰国中の安藤さんが楽器を持って自宅に来てくれました。逆瀬川さんが仕事の合間の2時間ほどタブラ伴奏をしてくれました。
もう40年も前になるけれど、安藤さんと一緒に練習したりデュオでライブしたりしていたので、とても懐かしいかった。安藤さんのシタール演奏はとても素敵です。一緒に練習していると、いろいろなアイデアが豊かな演奏に、こちらまでワクワクします。即興音楽の楽しさもあります。即興演奏がたくさんある古典音楽の魅力です。そうだ、40年前も同じワクワクがあったな、と思い返していました。
こうした音楽は、商業化されず愛好者たちで、掌の中に包むようにして大事に育てていくのが最適のようにも思えてきます。消費されていくようなものにはしたくないです。
シタールのデュオは、一緒に練習するには、楽しいし面白いし勉強になると良いことが沢山あります。でも即興演奏に各自の演奏の特徴が混ざるから、こなれていないと、譲り合いしたりで、演奏的には受け渡しのタイミングが難しいこともありますね。けれど、そのことだって音楽だし、むしろそれがあるからこそ音楽、真っすぐで単調な道の先に、でこぼこ道やくねくねした曲道、時には見晴らしの良い風景があったり。
ちょっと気分を変えて、と器楽用タンブーラに持ち変えて弾いてみたのです。
そうしたら、当たり前のことなのですが、タンブーラとシタールはすごく合うのですよね。
タンブーラといえば、この頃では手軽に、アプリを使い音を出したりするのだけれど。
それでは「音叉」としては良いのですが、実際の演奏に混じると、どうしても機械的な音になってしまいます。
私なりの考えで恐縮ですが、タンブーラ伴奏は機械的な演奏は絶対に良くないです。
タンブーラの演奏は、実は単調に4〜6本の弦を開放弦の状態で弾くだけのことではあります。
まるで音の背景(texture)のようで、難易度が低くて簡単で誰にでも弾ける楽器のように思えてしまうのだけれど、実は違うのですね。
適切な伴奏には、聴こえてくる音楽全体のバランスを感じとるセンスや感性が大切。
あ、これってエフェクターだ。
自分的にはそう感じました。
そう、タンブーラはエフェクターの一種と捉えることもできます。
このエフェクターは完全に手動式で、自らも音を出しながら、音をブレンドします。
リバーブだったりコンプレッサーだったりEQだったり
それが、さりげなく、優雅に、かかるのです。
ちょっと、聴力テストみたいなところがあるけれど。
けれども、リアルタイムの演奏時、演奏されるものだけれど。
タンブーラが音楽的にこんなに面白い楽器だったとは驚きです。
だたし、とても慎重で丁寧なチューニングがされていないと、その効果は表れません。
チューニングメータなんかに頼っていては、ダメですね。
すべての弦がそれぞれ異なる音として聴こえ、同時にひとつの音に聴こえるように耳で確認します。
これは自分ではとても苦労します。でも苦労する甲斐はあるのです。
これも自分なりの考えで恐縮ですが、古典音楽のタンブーラの弾き方は、以下のように考えたりしています。
楽器の状態や正しいチューニングになっているか、確認する。
使われるRagaの特徴を理解して、主音、副主音(Vadi、Samvadi)を意識する。
即興演奏の中で、奏者が一番響かせたいフレーズを理解して、それが美しく響くように音量やテンポを微調整する。ただし、極端な変化はさせない。ほとんど気付かない程度の変化、かつ旋律の響きを美しく引き立てる。
リズムが加わった時は、旋律の美しさと同時にリズムの美しさも、音の背景として支える。
音楽の美しさに対する奉仕と献身の楽器かも知れません。
私が自分で考えられることはこれくらいで、更なるご教示をいただければ嬉しいです。