辰野基康のブログ

音楽会のご報告 日々の雑記などをメモしています。 メインのサイトは http://sitar.holy.jp/ ご連絡は tatsuno123@yahoo.co.jp

タゴール10の物語 出版記念講演会

メコン社から出版された「タゴール10の物語」大西正幸訳 西岡直樹挿絵
の出版記念講演会が、横浜市の大倉山記念館で11月16日に開催されました。

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プログラムは、奥田由香さんのタゴール歌曲、西岡直樹さんの講義、大西正幸さんの講義

奥田さんから歌のマイクセッティングを頼まれました。
今回の歌はタンプーラと歌というシンプルな構成です。

奥田さんとは何度か、シタールで歌の伴奏をさせていただいているのですが、自分ではなかなかタゴールの歌のイメージが掴めず苦労していました。

タゴールの歌を理解するために、メロディを追いかけて歌詞の意味を理解していくだけでは、どうしても軽いものとなってしまいます。
またネットには、たくさん動画はあるのですが、様々なアレンジが加わっているものが多いのです。
それらは、ちょっと聴くと軽音楽のようにも聞こえたりします。
タゴールのメロディを「素材」として軽音楽としてのアレンジを加える・・
そういったものがあっても良いのかも知れませんし、タゴールもそう考え作った作品もあるでしょう。でもそれだけでタゴールの詩歌を理解して良いのかな・・という問いかけはいつも奥田さんの歌から感じていたのです。
娯楽のための音楽ではなく、心を耕し人生の内面を照らしてくれる、そういったものとしての詩と歌。

シャンティニケタンの先生方の歌曲のビデオを何度も聴くことで、少しずつ自分なりの理解が進んでくれたのかも知れません。

そうした結果、私なりの未熟な中での理解は、タゴールの歌曲は一見素朴だけれども、実は詩と歌が複雑に交差して、とても繊細で深い内容を含むというイメージです。
生涯をかけて深めていくべきものだとも思います。

詩人タゴールが自分の詩に旋律をつけて作った作品。
言葉のひとつひとつの抑揚やリズム感、言葉が生み出す感情はとても細やかで、それに旋律を重ねて作られた作品です。
多くの調べは古典音楽の伝統的な旋律体系Ragaに準じて作られています。

作者の心境に少しでも近づけるように表現していくことは大事。
言葉の壁はあるでしょうが、言葉の意味がわからなくても、伝えようとする気持ちは伝わるはずです。
それは、自分が体験してきたことなので、はっきりそう感じるのです。

シタールで歌の伴奏をしながら、少しでも芸術作品として作りたいと願っていました。
ただどうしてもシタール1本でタゴール歌曲の伴奏を支えるのは、自分の実力ではおぼつかないものでした。
今回は、音響装置やマイクのセッティングとミキサー卓での調整をしましたが、シタールで伴奏をしている時と同じように、歌声や調べの移り変わりをよく聞きながら音を調整しました。

ミキサー卓にいてわかったのですが、歌の独唱の音響の調整は楽器伴奏とほとんど同じ。
特に奥田さんは、本当に美しく歌われますが、自分自身の美声を聴かせようということではなく、歌を通してタゴールの詩と歌が描く世界を伝えていきたいという想いが強いようにいつも思うのです。
ですから。自分としてはベンガル語がわからないのが恐縮なのですが、訳詩を参考にしたり、少ない語彙から理解することにつとめながら、至らないかも知れないですが自分の音楽的な感性で、奥田さんの謙虚で真摯な想いを引き立てる努力をしました。

シャンティニケタンの木陰に集い柔らかい風に吹かれながら響く歌声、時に木の葉を揺する風のざわめきや遠くに聞こえる鳥の鳴き声・・そのようなイメージを含めながら音作りをしました。

ただしあくまで会場の自然な響きが一番大事で、作為的、意図的な音響は、タゴール歌曲の場合、不似合いです。

今回、大西さんが作ってきて下さった奥田さんのキーに合わせたボーカル用のタンブーラを使いました。
豊かな響きがあるので、奥田さんはタンプーラに歌声を乗せることにとても秀でていますので、この弦の響きと歌声が合わさった魅力はとても大きいのです。

このタンプーラの工房は、以前、私が大西さんに大きなボーカル用の駒(ジャワリ)を購入していただいた職人さんの工房です。
その時の手仕事がとても誠実な仕事のようだったそうで、その後、大西さんご自身のエスラージの修理と奥田さん用のタンプーラを購入されたそうです。

西岡さんと大西さんの講義も素晴らしいものでした。
そしてとても貴重なものでもありました。
そんな催しにお手伝いのスタッフとして参加出来たことは、ありがたく貴重な体験でもありました。

この短編集は途中まで読んだ段階なのですが、訳がとても素晴らしく注釈や解説も充実していて、楽しく、味わい深く読んでいます。

今の世の中、ネットの情報が氾濫して飛び交っている状況です。
多くの言葉が「情報」として乱用されて、言葉に疲れてしまうこともあるように思えたりします。

だからこそ、吟味された言葉を味わえる良書と出会うことは、人生の宝ものなのかも知れませんね。


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ディワリイン・ヨコハマ2024でのソロ演奏

11月4日のディワリイン・ヨコハマ2024でソロ演奏でした。
マハトマガンジーの愛唱歌と言われている「ラガパティ」をシタール・ソロ用にアレンジしました。

会場は、横浜開港記念会館のホール
今まで、山下公園の屋外ステージで朝一番の演奏でしたので、感じが違いますね。
山下公園の朝の屋外ステージですと、出店準備の屋台のスタッフの声、のんびり犬を連れて朝の散歩をしている方、港の汽船の汽笛の音、そんな雰囲気の中での演奏でした。
今までの20年来の屋外ステージでの朝一番での演奏ですと、催し自体の立ち上がりですから、ゆっくりしたトークや親しみやすい短い調べなどではじめ、後半で少しだけ盛り上げて、その後の催しの楽しさを期待せつつ演奏を終える、といった構成が多かったです。


ディワリでは、出番の順番なども考慮して、演奏内容を考えます。

今回の横浜開港記念会館ホールは、天井の高い広い空間で残響も豊かです。
建物自体が文化財
まるでDarubar(宮廷)で演奏するような感じで、これは嬉しかったでした。

第一部プログラムの終盤、10分の枠の演奏でしたので、トークから演奏までコンパクトにまとめるように心がけました。
サウンドチェックの時間がとれなかったのですが、そこは成り行きで対応しようということで。
結局、お話用のワイヤレスマイクをスタンドにつけてPAしました。
お話用ワイヤレスマイクだと、微妙な音色の変化を楽しむ演奏は出来ないのですが、そこは割り切って、時間内で構成を楽しんでいただく演奏にしようと。
事前に用意していたアレンジ例のいくつかのパターンの中から、こうした状況用のパターンを使ったのでした。
起承転結をつけて5分+αくらいで簡潔にまとめる。
テーマの旋律に即興的なアレンジを加えながら、テーマのメロディを展開していくという構成。
これを「作曲」と言って良いのかどうかわかりませんが、ともあれ即興で構成をしました。

即興の演奏は、演奏が終わり、紡がれた音楽は<宇宙に還っていく>と思いたいのです。
人が何かを創造したとき、それは娯楽のために「消費」されるためのものではなく(たとえそれが娯楽を目的としたものでも)、創造する時間を生み出してくれた「宇宙(あるいは自然)」に還っていくものだと思うのです。
それは、人の人生、人の心も同じです。まして私自身は何かを残すような価値あることはなにひとつないので、何も残さず自然に還っていければそれが一番の幸いです。
そんな想いがあるので、その時の演奏を記録して残すことは自分からはしません。

でも、今回はafterglow.of.awaodoriさんが、丁寧に録画して動画に編集して下さいました。
日本の伝統的な踊り「阿波踊り」を記録されて残されている方です。
私の拙い演奏を、素晴らしい伝統舞踊を記録しているサイトにアップされるのは、光栄の至りです。

私の演奏の上手い下手は別にしても、ガンジーの平和の願いの想いが多くの方のお心に届きますように。



シタールソロ演奏の楽しさと難しさ 等身大の音楽をること

シタールを人前で弾き始めて、よくソロでの演奏をしてきました。
楽器ひとつで演奏が出来るので、短時間、楽器紹介のような場でよく弾かさせていただいていました。

Tabla伴奏付きの演奏は、弦楽器と太鼓との音色が混合した華やかさがあり楽しいです。
最近、Tablaとの合奏ではそれぞれの楽器の音色のことを気にするようにしたら、楽しさが増しました。
打楽器は<人が奏でるものでリズムマシーンではない>というのはごく当たり前のことなのですが、時に忘れがち。人それぞれの紡ぎ出す音と合わせることの大事さに気付くのは、うれしい発見です。
そこにTampuraが入ればさらに音響的にひろがりが生まれて良いですね。

それに比べると弦楽器1本でひとりで弾くソロの演奏は、楽器や奏者そのものの特徴、個性が出ます。
シタールのそれぞれの弦の響きの特徴を意識したほうが良いです。
また、自分の技術や理解度なども理解して演奏に臨むほうが良いですよね。

これは、私の場合のことなのですが、Tablaとの合奏の場合は、尺(ターラ)にしっかりハマることを気にするので、それぞれの弦の響きとか、その変化で生まれるリズム感とかは、割と後回しになりがちです。
ただ、そうなると、Ragaを変えても、何だか音階が変わっただけでかわり映えしない演奏・・になっちゃうんだよなぁ・・
もともと初心者で演奏力も未熟なので、本当にそれぞれのRagaの魅力が演奏できているかということも、疑問だったりするのですね。


ソロ演奏のために、いろいろ奏法などを工夫するのは楽しいこと。
「あれ、こんな音色もあるんだ」とか「こんな音も出せるんだね」とか、そういったことを発見するのはとても楽しいのです。
時々、お気に入りの奏法とかを見つけます。
すると嬉しくなって「これはもう大発見だ」とひとり喜びいろいろ弾いたりするのですけれど・・
ところがしばらく弾き続けているうちに、これはどうも違うなぁと思えるようになってきます。
画期的奏法と思っていたけれど、そうではなくて、音楽的にはけっこう退屈なだけ。
自分の勘違いに気付きます。
もっとも、これも完全な勘違いと言うより、不完全なだっただけの話で、何年かしてまた思い出して弾いているうちに、当時足りなかった技量や音楽的な解釈がちゃんとすると、もう少しましな技法になるのですけれどね。
といっても、それでも音楽的に多少ましなだけ。
結局、そこそこの音楽しかできないわけですが、まあ、これが自分なんだから、と納得しています。
そして、そんなこんなしながら、人生を過ごしていくのかな、と。
でも幸せな人生ではあります。
音楽とともに、等身大の演奏をして歩んで来られたのですからね!


即興演奏というのは、いうなれば破壊と創造とが同時進行しているような部分もあります。
ずっと残るという姿より、その場で生まれ消えていく、ということも音楽にはある思うのです。
これも自分の生き方と同じようなものですね。
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