辰野基康のブログ

音楽会のご報告 日々の雑記などをメモしています。 メインのサイトは http://sitar.holy.jp/ ご連絡は tatsuno123@yahoo.co.jp

2012年12月

何とか立ち直ろうと思います 「そんなこんなで年の暮れ」



立ち直ろう



暮れになると、日照時間が短くなり、気持ちも、ちょっぴり落ち込みやすいのでしょうか。
自分の中には、子供の頃から、どこかでそうした「影」の部分があるように思ったりもします。
もっとも、誰でも、心の中は、日差しもあれば影もある、というように
いろいろな心の表情ってあるのでしょうね。

気にして下さった皆様、お気遣いありがとうございました。
ご迷惑をおかけしました。

気持ちは、ふと浮かび上がったり、また、沈んでいったり、さらに浮かんだり。

気持ちが、がっかりしたのは、
暮れにシタールのRavi Shankar(ラヴィシャンカール)さんが亡くなったこともあったのかも知れません。

自分のシタールの師ではありませんでしたし、普段はさほど意識していませんでしたが
やはり、自分がシタール弾きの道を進んでいく時、本当に大きな影響を受けた方でした。
心よりお悔やみを申し上げます。


心を表現するといったことをしていて、それが生業のようになっていました。

若い頃だったら、何でもやって生きていけるみたいな気持ちがあったのに
ふと気が付くと
他のことが、だんだん出来なくなってきて、出来ることはほんのわずか。
でも、そんな小さな「箱庭」みたいな世界で生きていくのも
あるいは、日本的?というか、島国的?というのでしょうか・・
自分にはいいのかも知れません。

また、自分自身の気質もそれに加わっています。
心は、時に大いに揺れたりすることもあります。
ところが、そうしたとき、皮肉なことにでしょうか、
思いがけない素敵なフレーズが思い浮かんだりすることもあるのです。
もちろん、ぜんぜん思い浮かばないこともありますし
気持ちが、悪循環してしまうことだってあります。

表現とは、そうしたものを全部抱えてのものでしょうけれど。





絵はお休みです



絵を描いてUPするのは、自分としては、楽しいものでした。

絵の最初は、ホームページを作るとき
当時、高価だったデジカメが買えずに、
しかたがなく安価なソフトで、小さなカットを描いてページを作っていったのでした。

しかし、それが面白くなり、そのうち時間を見つけては、
ヘタなりに描くようになりました。

奏でる先から消えていく「音」とは違い
描くものは、残り、さらにそこに重ねていくことで絵が出来てくることの面白さに
夢中になったりしたのですね。

考えたら、自分のためのものなのだし、
自分でプリントアウトして持っている程度でいいかなぁ、と思いました。

そう考えたら、気が楽になりました。

・・ということで、絵もしばらく(もしかしたらずっと)お休みです。




音楽自分のペースで


楽器(シタール)の扱いは、少しは慣れていると思います。
(ただ、楽器は奥が深いですから、わからないことばかりですけれど)

そんなこんなで、音楽は、自分のペースでやっていこうと思っています。

やっていれば、また、新たな発見や新しい驚きがあるものですよね。

演奏の場所も、さらに作っていきたいですし。

ネットで演奏風景を載せたとしても、
バーチャルなものは、どうしてもバーチャルに過ぎないというか・・
「確かにそうなんだけれど、どこか、まったく、根本から違うんだよなぁ」
と感じたりもするんですね。

「情報」となったとたん、何かが、するりと入れ替わっちゃうと言うかなぁ
情報の便利さに、自分が、何かを委ねちゃうというのかなぁ
でも、そのことも、自分で頼っているというか、心地よいと感じているというか
でも、その頼っていることに、がっかりしてみたりするし。
さらに・・「だまされるものか」というみたいな、自分を守る本能感覚いうのか。

・・ 言葉にするのが、すごく難しい感覚なのです。

ともあれ、これは、私にとっての、インターネットの7不思議です。


やっぱり、ライブとか演奏会などリアルな演奏が
いいなぁと思います。







そんなこんなの、年の暮れです
皆様、よいお年を!


すっかり自信をなくしてしまいました。

音楽の才能もないし、知識もない、
技術もなければ、技量もない
愛嬌でもあれば、またいいでしょうがそれもないし
仕事もなければ、体力もない

すべて、ないないづくしです。


自信をなくして、落描きみたいな絵を描く気も起きないですし
Blogに書くことも、何もないですし
_________

でも、これが、自分の宿命なのでしょうか。

そういえば大江健三郎さんのエッセイだったかな?
「厳粛な綱渡り」という作品があったように覚えています。
私の表現活動は、そんな厳粛でもないですし、綱渡りみたいなかっこいいのもないし。

内臓も
心臓と腎臓がしょぼくれちゃったし・・

いわば
「だらしのない散歩」といった人生です。

まぁ、もっとも、昔から意外と、
そんなこんなしながら死んじゃうことって、特別のことではなくって
芭蕉も、46才になって
「月日は百代のくぅわかくにして・・」とか言って
「先人も、旅先で死んだりしている(つまり、行き倒れですね)
まぁ、自分もそんな風にしたいものだ」
と、東北に旅に出たんですね。

そうした、潔さって、何だか、自然っぽいです。

自分らしく
だらしない散歩人生をして、行き倒れて
「あれ、ほら見て。この人、死んじゃってるよ」くらいの
セミが死んじゃったみたいな感じで
ゴミ捨て場に捨てられて、さっさと終われば
これはまた、さっぱりして、自分らしいし、自然でいいような気がします。



何もない、という詩を書いてみようと思います。
多少のカタルシスになるでしょうか・・



なにもない


さいのうとか のうりょくとか 

なにもないのです

あすのきぼうも ないのです


それならば 

ないないづくしの国にいけばいいのでしょう


ないないづくしの国には ね

なんにも ないのです

かなしみも よろこびも ないのです

でもそれは かなしいことでは ありません

なぜなら かなしみは ないのだから



かなしみが ないというのは そういうことなのです

かなしみがない人生は

よろこびがない人生と

おなじことなのです




IMG_000129




RSS
Archives