辰野基康のブログ

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2013年01月

日本の音楽について・その2言葉の持つ力

※日本の民族音楽について知識もあまり無いシタール弾きの私ですが
自分の勉強も兼ねて綴っている記事です。



民族音楽の多様性


前回の記事(日本の音楽について・その1

では、邦楽の分類を検索しました。

そして、改めて、日本音楽の多様性に驚きました。

継いでいくもの・世代を越えて長年育てていくもの
それは、日本では、伝統的に「家」(家元)となりますよね。
それが、長い歴史のあるものですと、時に、もしかすると分裂や統合など
繰り返されて、さらに伝統の芸能として形成されるのでしょうか。


人の行いが「時間」によって、成熟させられたり、試練をあたえられたりするのが
歴史というものでしょうか。

音楽(の創作)が、個人から、地域へ、国家・民族のような広い社会へ
何代に受け継がれ、あるいは、改ざんされることもあるでしょう。
また、別の地域、別の社会の音楽や文化と、融合したり、反発したり

・・それらが、「時の試練」なのかも知れません。

そして、それによって、表現はダイナミズムを持つのでしょう。

だからこそ、どんな伝統芸能でも、今の現在が、完成形なのでなく、
それを演ずる、受け取るがいる限り、絶えず変わっていくものなのでしょうか。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。  方丈記


言霊の幸はふ


さて、そういった多様性のある日本の伝統音楽ですが
調べてみると
「歌」「語り」という「声」による表現が、とても重要になっているようです。

そこには、
歌い継いでいく・語り継いでいく・・
そういった、気持ちがあるのかも知れません。
「民族音楽」の本質の一部を感じたりもします。

昔から続いている<和歌>が、深く関わっているのかも知れません。

<言霊の幸はふ国>
神代より言ひ伝来らく そらみつ大和の国は 皇神(すめかみ)のいつくしき国
 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり 今の世の人もことごと 目の前に見たり知りたり
山上憶良<万葉集> 

古代の人は、言葉には呪術的な力があるということを信じていたように思います。


邦楽分類表








日本の音楽について・その1自分の文化の根っ子を探して


自分の文化の根っ子は


インドの楽器でインドの音楽を弾いたりしていると、

どこかで、「自分のアイデンティティ」と言いますか

「自分の音楽の根っ子」というのでしょうか、それが気になります。


つまり、こういうことです・・

 コンサートで

インドの楽器を持って

インドの服を着て

インドの曲を弾いて

インド(音楽)のことを話したりします

 でも、私は、生まれも育ちも、日本なのです。



まぁ、私としては

シタールは良い楽器と考えていますし

インドの古典音楽(ラーガ)は、とても味わい深い音楽だと思っています。

つまり「インド音楽ファン」ではあるのでしょうが・・


けれども、

音楽も含めてですが、

自分のID、つまりアイデンティティ、つまり「自分らしさという根っ子」

のことを、いつも考えます。



そこで、日本音楽のことです。


「日本音楽」といっても、

じゃあ何が「日本」の音楽なんでしょう・・


それではと、Wikipedia先生^^で検索してみます。

邦楽

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E6%A5%BD)


・・なるほど・・いろいろありますね。


いきなり全部理解しようなんていうのは、すごく手強そうです


でも、調べてみると、意外と面白いことに気がついたりします。


日本のクラッシック音楽、邦楽を、そのまま「邦楽ですよ」と演奏するのもいいですが

いったん邦楽の要素を、

ぜんぜん違う楽器で、あるいは、別のスタイルで音楽にすれば

それは、伝統を昇華した創作 であるかも知れません。

あるいは、伝統を壊してしまった作品 であるかも知れません。

もちろん、それに対して、どれほどの価値を認めるのか、

どれほどの価値がつけられるか・・

ということは

とても微妙な部分ではあります。


ともあれ、

表現の分野と言うのは


技巧と素朴さ 

聖と俗

神聖と猥雑


それら2つの相反するものが、

矛盾なく同居したりするようです。








音の風景・年末年始のメロディとは?


季節の調べ


前回の記事の「音の風景」(サウンドスケープ)は、<除夜の鐘>でしたね。

さて、お正月になると
テレビやお店などのBGMで、「春の海」が流れます。
<<春の海ひねもすのたりのたりかな>>
 与謝蕪村の有名な句を思い出します。

実際のお正月の海は、
冬の風も吹いていたりするでしょうし、冬の海を渡る風ですから、
あの曲想のような感じとは違うのでしょう。

しかし、
「今年も穏やかな一年を過ごせますように」、
あるいは
「お正月は、のんびりと過ごしたい」、という願いなどもあって
あの曲が選ばれているのでしょうか。

ところが残念なことに
三が日の初売りセールが終わると
「春の海」も聞こえなくなります。
良い曲ですので、何だか、もったいないような気もします。


もっとも、
12月になると
賛美歌やクリスマス・ソングが街には溢れていました。
クリスマス・ソングはクリスマスのメロディでしょうが
賛美歌は、お祈りの歌でクリスマスだけのものではないのでは?と
クリスチャンでないながら、つい、そう考えてしまいます。
でも、期間限定のケーキみたいにクリスマス・セールのBGMの感じで街に流れて
クリスマスが過ぎると曲は、ぴたりと聞こえなくなります。


そんなことを考えると
「季節の調べ」は、その曲の本来の意義とは異なり
<季節のセールス>のBGMにもなるのでしょうか?

街が活性化して、経済が活気付くのは、とてもいいことですが・・
ただ、セールス用のBGMは、少しばかり気を使って欲しいなぁ
などと思うこともあります。

BGMとして作られたわけではない音楽が、
販売促進用のBGMとして「停滞」しているのは、
売り上げの「停滞」につながるのではないの?・・などと思ってみたり・・

ちなみに
芸術音楽?というのでしょうか、(よくわからないのですが)
ともあれ、そういった音楽を愛好するのは、もちろん素敵なのですが、
それが過ぎるあまり、
商業的な音楽を、何となく、下に見たり、卑しんだりする風潮というのも、
世間には、あるような気もします。
でも、私としては、これは変なことだと考えます。
(音楽的に未熟な私が言うのもおこがましく、恐縮の限りなのですが)

芸術的、高尚な音楽というのは、よく権威付けられたりしていませんか?
そうではないものもあるでしょうけれど。
権威は、時に「国威を高揚する」「階級社会を作る」などと結びついたり。
それも人間社会の一面ではあるのでしょうね・・

しかし、一方では、
庶民の営みと音楽が、ともに身近なものである、
大衆音楽、ポピュラー音楽、さらに、童謡やわらべ歌
さらに、地方の民謡、郷土芸能など、あります。
そうした音楽も、本当に素晴らしいものです。

権威とか、学術とか関係なく、
人の「ハート」というか「心」というか、
そうしたものと音楽との関わりあって、育ってきた音楽だから、と私は考えています。



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