辰野基康のブログ

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2015年01月

シタール弾きの妄想その3・今更自分の才能のなさに気づく

sitarと絵2-3

■才能がないことに気づいた

最初から、自分の音楽の才覚がないことは知っていたのではありますが、
それでも、楽器の演奏を続けていたなら、もしかしたら多少は、良くなるのでは・・と思いたくなるのは、人情と言うものでしょう。
それでも、才覚が無いというのは、どうひっくり返しても無いんですよね。

今月24日千葉県館山で、他のジャンルの方とインド音楽との合奏があります。

インド音楽の合奏も楽しいですが、また違った分野の音楽家の方との合奏も、教示されること学ぶことがたくさんあり、とても楽しみで、練習していますが、果たして、どこまで良い合奏が出来るか、一抹の不安もあります。
(演奏の前は、どんなときもいつもそうなのですが)

曲の構成がしっかりしているので素敵なのですが、
自分自身が、その構成をちゃんと把握して、演奏できるか、というところが、実は問題なのです。

以前は、ただ、思いつきの即興のように合奏していたことが多くて、
まぁそれでも成立するのが、音楽の良いところではありますけれど。


■音楽は上手、下手ではなく、自分の心、合奏する人、聴かれる人の心に、どう響くか、ですよね

構成されている曲では、
やはりそれに対して、何らかの構成された演奏があったほうが、いいなぁと、そう思うようになりました。

例えば、どんな旋律の動きがあるか、どんな和音がつけられているか、どんなリズムで構成されているかとか。
才覚がある人なら、それに対する応え(音)を作れることでしょう。
もちろん、和音に添った音でもいいし、リズムに乗った音でもいいですし、
事前に準備された音でもいいです。

さらに極論かもしれませんが、あえて言ってしまえば、
まったく和音と合っていなくとも、ぜんぜんリズムにあっていなくとも、
期待されているような「美しい音」ではなくとも・・・構わないのです。

それが、どれほど聴く人の心に残るものになるのか。

人は、喜びや悲しみ、賑わいや孤独、
生きていく中でいろいろな想いを抱えていきますよね。
その人生の場面の中で、出会い奏でられた音楽が、
聴かれる方の「生命」とどう共振していくか。

そのとこが大事に思うのです。

これは、もしかしたら、難しい曲、難曲を鮮やかに弾きこなすより
もっともっと、難しいことなのかも知れません。
もともとが下手な私なのに、さらにたいへんなことがあるわけです。

もう、自分には、絶望的なことです。

■愛から希望が生まれる、と願いたい

もっとも、音楽の才覚がなくても、ちゃんと出来ることはあります。
それは、音楽を愛することだと思います。
愛することから希望が生まれるのでしょうね。

音楽は、奏でられては消えていきます。
演奏する時間は、二度と戻ってこない「時」です。

演奏の才覚があろうが、無かろうが、
「時」はゆっくり、でも確実に進んでいきます。

だから、世の中の流れに流されることなく、ゆっくりマイペースで、
自分の「時間」を大切にして、練習をやっていきます。



シタール弾きの妄想その2・気楽な音楽とBGM

この妄想シリーズは気楽でいいです。
キリギリス


最近になって、ようやく、自分がいまさら何も知らない!ということに気がつきました。
モノを知らない私ですので、
正確な記事を書くのではなく、
ただ思いつきを書くようなエッセイは気楽です。



気楽とは、気が楽なことであります。
気楽な音楽とは、気が楽、そして、音も楽なもの、なのでしょうか。

気楽には、いろいろあるでしょうが・・

演奏側と聴く側では、「気楽さ」は少し違うところもあるかも知れませんが
どちらにしても「フォーマル」なものではなく「カジュワル」「普段着」みたいものなのでしょうね。

では、具体的に・・
例えば「雅楽」ですが、これは、儀式の音楽ですので
演奏側も改まった衣装です。
聴く側だってやっぱり改まった気持ちで聴く感じですね。
これは、一般には「気楽な音楽」ではないですよね。

 


一方、
同じ古くから大陸から伝わってきた散楽
曲芸や奇術なども含んでいたと言われますから
娯楽的なものだったのでしょう。
演じ手はもちろん真剣だけれど、鑑賞側は娯楽として楽しんだことでしょう。


散楽は、やがて田楽に受け継がれていく(らしい?)
田楽と言うと、これは、土に根ざした舞楽のようなものでしょうから
娯楽と祈りの要素が混ざった民衆の芸能でしょうか。
いつか、また、田楽のことはゆっくり調べてみたいですね。


近所のお風呂屋さんのことですが。
店内に箏の曲がBGMで流れています。
それは古典曲ではなく、例えば「なだそうそう」などポピュラー曲の箏アレンジ。
癒し系みたいな曲が多いです。
リラックスして湯船に浸かっているとき、何となく一緒に鼻歌を歌いたくなるような曲。
店舗やロビーに流れるBGMは、多くの場合
多くの方にとっては、「気楽な音楽」なのでしょう。


さて、
私が今まで続けてきたライブの中で
インドレストランやエスニックレストランで営業演奏は、
多くの場合、食事の間、楽器を演奏するBGMでした。

BGMだから、あまり音楽で主張はしにくいです。
でも、人が演奏するのだから、音に心を込めますよね。
この2つの矛盾が、苦労する点でもありました。

この話題も、また改めて。



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シタール弾きの妄想その1・不思議のサレガマ

インド古典音楽のマニアックな話題です。
しかも、それに加えて、私の妄想も入っているかも知れないことを
最初にお断りしておきます。

awase干潟未来へ



バー

インド古典音楽は、ドレミファソラシに対応するようにサレガマパダニという階名がついています。(略して「サレガマ」)
ところが、ドレミと違い、古典音楽の「サレガマ」はちょっと意味合いが似ているのですが異なる気がします。

そこで、何で違うのか考えたりしました。
そこでネット検索すると・・
音律 西洋音楽の音律の例
    ピタゴラス音律
    純正律
    中全音律
    平均律

・・ということは、これによると西洋音楽では
ピタゴラス音律のドレミファ
純正律のドレミファ
中全音律のドレミファ
平均律のドレミファ
などがある・・というやっかいなことになりますよね。

それぞれの音律をまた検索君で見てみると
さらに細かな表が出てきたりします。何だか、さらに難しいです。

■インド古典音楽の「サレガマ」
西洋音楽のどれかの音階に位置づけられるのか・・
あるいは、本来独自な音階体系をもつのか・・
わからないことが多いのですが
際立った重要な点はサレガマの最初の音「サ」が
インドの古典音楽では、「絶対的な基準となる音」
円で言えば「中心の点」つまり
それがあって、曲のすべてが成立する「点」

音の響きは中心の音「サ」と、旋律の音、その2つの響きです。
旋律の音は、
西洋音楽の和音のように、いくつかの音(note)が集まって生まれる響きとは、
根本的に考え方が違うように思います。

だから、「音律」が、根本的に違うのかも知れません。
だた、ライトクラシックの音楽、映画音楽のようなポピュラー音楽ですと、
今、普通に使われている平均律楽器で楽曲をまとめる(ハルモニウムとかキーボードとか)
という方法が普通に行われているようです。

バー


まぁ、
「音楽は音を楽しむと書く、だから楽しければいいし〜
細かいことは気にしない〜」
という考え方もあります。
そして、それは一面の真理である気がします。

「音」とか「楽」とかそれぞれの意味は深いと思うし、
そして、その二つが合わさった言葉の持つ意味は、多様性に富んでいる気がします。
その多様性こそが大事だし、
そうした多様性を受け入れ、いろいろな音楽表現を自分なりの感じ方で楽しむことは、
人の心を、本来の意味で豊かにしてくれるように思うのです。

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