辰野基康のブログ

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2020年11月

死生観(2)長生きすることが良いのか 奇跡の時間を生きて

トキ4-180

雨ニモマケル

宮沢賢治が病の床で書いたメモ(詩)「雨ニモマケズ
自分が病気になって弱気になったとき、この詩は心に染みる。
宮沢賢治が病床で書いた時の心持ちを、察することが出来るね。

自分なりの感想では、これは偉人の言葉ではなく、
病弱なものの、見果てぬ夢みたいなもの・・と感じたりする。

保険制度が充実している今は、
標準的な医療を受けられることは当たり前のことだけれど、
それまでは、そうした医療を受けられる人は、とても限られていたようだ。
梶井基次郎の「のんきな患者」では、
病気を抱える多くの人たちが、病院で受診できず、メダカを飲んだり、
迷信みたいなことに縋ったりしていた姿を描いている。

病人の現実

雨に打たれれば弱ってしまい
風に吹かれても、冬の寒さ夏の暑さにもへばってしまう。
痛みや苦痛、体調不良があれば、つい愚痴もでる。
煩悩いっぱいの自分にとって病気とは困ったものだ。


と言うのが、私のような凡人の感覚だろう。


私はなかなか「雨ニモマケズ」に書かれたような献身的なことは出来ない。
病気になると、自分の命を守る本能みたいなものが強まるからだろう。


たぶん宮沢賢治は、理想を夢見ていた人だろうか。
自分の病苦に対して、
それを献身や奉仕に転換していくエネルギーを夢見ていたのだろうか。
作品として発表していない。
つまり心の中のつぶやきだったのかな。

雨ニモマケズは
南無無辺行菩薩 ・・のマントラで終わっている。

「雨ニモマケズ」は、崇高で高貴な精神かもしれない。

でも、やっぱり、
「雨にも負けてしまう弱く身勝手なワタシです」
とぼやいている。

等身大の自分、
なんだか、潔いと思えたりする。


誰にでもあることだからこそ

死は、誰にも訪れるものだ。

離別の悲しみを持ちながらも、
自然の摂理を受け入れる。
それは、命を持つ生命の宿命なのかも知れない。

透析の治療を受けながら、
時々、思い返すのは、透析治療を受ける直前の自分の体調のことだ。
その当時、はっきり言って、近々、死ぬのではないかと思っていた。
そのくらい、体調が思わしくなかった。

今は、治療を受けて、順調な日々を過ごしている。
でも、それは「奇跡の時間」に過ぎない。
普通なら死んでしまうところを、
治療や服薬によって命が維持できている状態だからね。

それでも、「治療によってかろうじて生きている」割には、
元気で普通に暮らせている。

こんな奇跡の時間に生きている、
あるいは、医療と保険制度によって生かされているのなら、
社会に還元できるような立派な行いをできればいいのだけれど・・

相変わらず、平凡な喜怒哀楽の日々に終始している暮らしだ。

祈り

日坂部羊の小説を時々読んでいる。
高齢者医療に関わる現役の医師が書く小説は、リアリティがある。

終末医療の話は、時に重いけれど、時に、自分が与えられた「奇跡の時間」を
どうすごせばいいか、それを考える機会を与えてくれる。

・ただ、長生きすることだけが良いのか?
・生かされていることの意味
・自分の死後

これらは、「答えがないもの」かも知れない。
それでも、考えてしまう。



258ラスコー3

古代の人たちは、現在の私たちより、思考は劣っていて、
「未開人」とつい思ってしまいがちだけれど、
過酷な生存環境の中を生き抜いて、現在まで命を繋いできた。
これは、まさに奇跡だと思える。

狩猟は、食べ物を得ることという意味だけではなく、
それ以上に、自然への祈りであり、信仰なのだろう。

やがて、狩猟が農耕に移っていくにつれ、
農耕が、祈りや信仰のよりどころになる。

晩鐘
ミレー 晩鐘


飽食の時代になって
命を繋ぐものは、命そのものを扱う医療が担うことになっている気がする。
狩猟時代や農耕時代と同じように
それをコントロールできる人たちは、
圧倒的な権力を手にするけれど、
人類そのものの維持までも手中に収めることになる。
それは幸福か不幸かはわからない。

娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。

権力は、常に移ろいゆくものだ。
権力の移ろいは、時に周囲を巻き込み、大規模な大戦にまで広がることもある。
そこには、勝者も敗者もいない。
ただ、人類にとっての大きな不幸ということだけ。


考えることは、
孵化と似ている 祈りとも似ている
それは、当たり前のようなことだけれど、
生命の奇跡

ゆっくりした時間が必要だろうね。



<続く>

良い音とは何か モータの回転で再生される音

古い録音物へのノスタルジー

レコードなら、針を落として、
最初に小さなプチプチという音があったりして
その後、音楽がはじまる。
聴き方によっては、
ホールでの演奏会の始まりの観客の拍手みたいな感じだ。

たまに思い出したように、カセットテープで音を聴いたりしている。
懐かしい感じがするな。
その「懐かしさ」は何だろう。


録音した音を再現するための媒体、
アナログなら、レコード盤、そしてカセットなど。

レコードは溝が切ってあって、そこに針を乗せ回転させ、
針の振動を拡大して音を出す。
カセットは磁気テープが磁化されていて、読み取りのヘッドの上を
テープを回転させて磁気を読み取り、それを音にする。

そこで重要になるのは「回転」だ。

モーターの性能

回転させるためにはモーターが必要。
どうしても、「シュルシュル」という音がしてしまう。
これは、本来の音楽にはない音なので
どれだけその音を小さくするか、が大事なことだった。
あるいは、そのわずかな音があることが、
「録音物の存在感」みたいなものだったりもした。

レコードの針のプチプチと同じだ。

カセットの最盛期
ポピュラー音楽でロックが最盛期だったね。
強烈なドラムとベースのビートに乗った音は、
安価な最盛期のモーターの回転音なんか気にしなくても、
楽しめる音楽だった。

また、モーターには、回転ムラもあったりする。
携帯できる再生機、「ウォークマン」が出てきて
家の中だけではなく聞きたい音楽を聴けることになった。
小さな電池で動かすから、電池の電力が落ちると
回転ムラになる。

これをあまり、気にしないで聞いていたりした。

ところが、この回転ムラ
リズムが揺れるのは、かなり激しい回転ムラでだろうけれど
音程は、ちょっとのことで、ひどく揺れるんだ。

フニャフニャ・・と揺れる。

これは、インド古典音楽にとっては、とても困る。
この音楽にとって「命」とも言える装飾音、ガマカの魅力がまったくなくなってしまう。


sitar装飾2





死生観(1)闘病と死生観について

腎臓病

腎臓を傷めて、闘病をしていたけれど、
結局、血液透析をすることになったのは3年前。

腎臓は、血液を浄化する。

血液は、例えば、海のようなものだ。
体内をくまなく巡り、酸素を供給し、二酸化炭素を排出する。
栄養分を補給する。
傷ついた部分を補修し、外部からのウィルスなどを駆逐する。
腎臓により絶えず浄化されていて、不純物を体外に出す。


何らかの原因で、腎臓が機能しなくなると、
透析治療や移植をおこなわないと、毒素が溜まり、いずれ死んでしまう。
自然界の生物は、そうやって死んでいくのだし、
この療法がなかった時は、人間だって、死んでいく。


考え方、気持ちの持ちようなのだけれど
腎臓がほとんど機能しない状態でも、医療で生きていける。
これは、すごいことだ。

血液透析の治療は、一日おきで4〜5時間受けるだけで、
後は、若干の食事制限などの注意点があるけれど、普通に過ごせる。
仕事に就いている人も多い。

患者の死生観

透析治療をしていないと、やがて死んでしまう、ということは透析患者なら知っている。
つまり、日々は死と隣り合わせで暮らしている、ということになるね。

でも、私は日々の暮らしの中で、
死ぬことを怯えて暮らしているわけではない。

別に強がってそう言っているのではなく、
死と言うのが、自分にとって、自然なものであることを受け入れているのだと思う。

けれど、高邁な死生観を育てたり磨いたりしるいるわけでもない。

とっても凡庸にひっそりと死生観を育てているのだろう。

カワセミ2蓮3tatsu-s

<続く>

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