
バブル再来
今は、情報のバブル期のようだ。
Youtuberが職業として成り立つほどに、情報量が金を生む。
そのため、情報量が溢れて、情報が情報を生む。
情報のプラットホーム事業は、雪だるま式に膨れ上がり、
国家を越え巨大なビジネスにまで成長する。
短期間で世界を圧巻したのは、コロナだけではない。
情報のバブルは、既存体制に対して、時に圧倒的な破壊力さえ持つ。
それは、さながら、巨大津波が、湾岸地帯を破壊しつすようなパワーだ。
東日本震災で報道された途方もない津波のエネルギーと、
自分のイメージの中で被ってしまうことさえある。
圧倒的なエネルギには、ただ呆然としてしまうだけだ。
けれども、津波のような物理的な破壊力とは異なり、
情報の津波の破壊力は、「人の力」で止めることが出来るはず。
その「人の力」とは、心の力のこと、想像力。破壊力に対して、破壊力で対抗するのではなく、
心の力を持って対抗する。
それは、マハトマ・ガンジーの唱えたインド独立の理念、サティヤーグラハ
と通ずるものがあるのではないか。
情報に圧倒されることなく、価値観を操作されることなく、
心の独立を得るのため、ガンジーの理念を、もう一度思いかえしたい。
モモ
ミヒャエル・エンデの「モモ」がまた読みだされているということ。
今の「情報の氾濫」を
モモでは、「時間泥棒」という比喩的な存在で擬人化されていた。
「時間」に数字を与えて、そこに価値をつけていく「時間泥棒」の手口は、
今なら、「いいね」や「閲覧回数」といった「数値」に価値が持たされていることと、酷似している。
いつの間にか、気が付かないうちに、その数値が絶対的な価値観になってしまうという
人心のコントロールのトリックも今と似ているし、
「情報」を氾濫させることでしか生きていけない寄生虫的な存在が生まれるという指摘もある
それらのバブリーな流れを乗り越えていくのは、
古来から誰もが持っている「心」だ。
コロナ禍
それに加えて、このコロナ禍だ。
いつかは収束するのだろうけれど、
コロナ以降の価値観は、変化していくだろう。
情報と言う知恵の実を食べて、味を知ってしまった人類は
何を見て、どこに向かって歩んでいくのだろう。
ふと、吉野弘の詩「夕焼け」を何故か思い出した。
「やさしい心」あるゆえに、その心に責められる人もあれば、
「やさしい心」が持てないゆえに、その心に責められる生き方もあるはずだ。
<詩中>の受難者は、「やさしい心」の持ち主だけとは限らない。
・・そう思う。