音楽という大海からすると、自分の能力や経験、知識は、ほんの一滴の存在でしかないのです。
音楽をヒマラヤや富士山のような美しく壮大な山で例えれば、その一つの石ころでしかないのですね。
でも、それがわかったことは、実はとても幸せなことなのです。
出来ることは小さいのだから、それをゆっくり丁寧にやれば良いのですから。
小さいことをゆっくり丁寧にやれば、それはやがて身に付きます。
もともと才能とかないので、小さく出来ることを積み上げていくだけです。
まあ、楽器のメンテナンスでは、これを長年やってきたのですけれども。


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シタールの和音の表現は、長年考えてきたことです。
ただ、これは簡単に考えると、いつもうまくいかないのです。

というのも、12平均律で表される和声(多くの場合ピアノで表現されることがありますが)とシタールのインド古典音楽の響きが、調和しないことがあるのでしょうね。
ただ12平均律は転調にもすぐ使えるし、便利なので、ごく普通に使われている音程です。

昔は(西洋古典音楽ではゴレゴリオ聖歌の時代とか)12平均律ではなかったらしいです。
民族音楽も、12平均律は本来使われていなかったのです。

ところが、たぶん音楽の商業化の波が、古典的な響きを失わせて、使い勝手の良く便利な12平均律に代えていったのでしょうか。
ま、便利で使いやすいから良いのでしょうけれど・・

でも、不便でも、より美しい響きだって、時には聴いてみたいものだと思いませんか。

無駄が多かったり、快適ではなくても、やっぱり美しいと感じられる響きには魅了されるのです。


ここで使いたいのは12平均律ではない和音、純正律を使った和音です。
12平均律と純正律の違いは、とても微妙な音程。
けれども注意深く聴いていれば、だんだんとわかってくるものなのです。

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ただ一点、これは決定的な問題なのですが、平均律で調律したいわゆる「普通の調律のピアノ」では絶対に純正律の響きは作れません。
ピアノの構造上、そうなるのです。
ただピアノは一音を3本の弦を叩いて響かせませすので、その3本の音程を微妙にずらすことで全体の響きのバランスをとっているようで、優れた奏者はそこからピアノらしい美しい響きを引き出すのでしょう。
ピアノは旋律の伴奏も多いので、そのピアノの「響き」を音楽全般の「響き」の基準としているようです。

ただ、シタールでは、なかなかそうしたピアノの響きと調和する音が出しにくいのです。
ピアノと合わせると、自分の弾くシタールの音がよく分からなくなってしまうんです。
もっともそれは私の才能や能力の問題かも知れませんけれど。


ともあれ、自分では自分で出来ることを、小さくやっていくことだけなのです。

シタールで表現するのは、3和音で曲を埋めるのではなく、時々効果的に使う和音です。

幾つかのRagaで試しています。
Ragaをベースにしてタンブーラ付きの音に和音を組み込ませるのですが、上手くいくと幻想的と言うか未来的?な音になる感じです。

聴いたことがない感じの響き。
この響きには、ちょっと中毒性があります。

この響きの感じは、やっぱりライブ感があっての響き、体験的な響きになるので、録音では何か不十分です。

いつか、どこかで発表できたら良いのですけれどね。

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