辰野基康のブログ

音楽会のご報告 日々の雑記などをメモしています。 メインのサイトは http://sitar.holy.jp/ ご連絡は tatsuno123@yahoo.co.jp

音楽

神の月、懐かしい音に包まれたひととき

■40年前のカルカッタの音の思い出

シタールの安藤さんが、タブラの逆瀬川さんと、練習に訪ねてきました。
お互いマイペースで続けていられることには感謝ですよね。
お二人のそれぞれの音には、それぞれが昔から育ててこられた音の歴史が息づいていて、それが素晴らしく、また勉強にもなりました。
時間をかけて育ててきた音には人の心がこもり、そこに神様が宿るのだと信じています。
「神の月」に神様の音に包まれたひととき。
懐かしい思い出とともに、楽しい時を過ごしました。
安藤さん、逆瀬川さん、ありがとうございました!

また一年後再会して音を出せればうれしいですよね。
ただ私がその時まで生きていられるかなぁ・・あまり自信はないのですけれど。
でも、ともあれ健康に過ごしていきたいです。


練習2025-10-28


■思い出のDuo

お二人と初めてお会いしたのは、40年以上前、インドのカルカッタ(現コルコタ)の街の中。
それぞれ、音楽を学びに来ていたのです。
今に比べて、インドの音楽を学ぶための情報は、とても少なかった時代です。
わからないことだらけの中で、学んでいく音楽をどのように理解していくか、それぞれが模索していました。
分離独立したときの混乱の傷跡もまだ各所で感じられた当時のカルカッタの街でした。

帰国後の40年ほど前、下北沢の「あしゅん」で安藤さんとシタールのDuoをしたことがありました。
ほとんど習ったことしか弾けなかったのでした。
だから、ちょっと弾いて、はい!と相手に渡し、弾き終わるのを待って、またちょっと弾く・・最後に一緒に盛り上がって終わる、というパターンです。
どちらかというと発表会のような演奏だったのかも知れません。
しかも、ときどきつっかえたり間違ったりしながらです。
それでも楽しかった。
お客さんたちも、一緒に喜んで下さいました。
そこにいる皆それぞれが、音楽を奏でることや音楽を聴く楽しさを、さらに自分なりの生き方を模索する空気感がありました。

■拙い演奏だけれども

思い返せば、長く続けてきたものです。
こんなに長くシタールを弾くとは少しも思いませんでした。
長く続けてきてわかったことは、長くやっているけれども、自分はまだ初心者ということです。
わからないことだらけだし、練習していれば「あ、そうだったんだ!」と初歩的なことへの気づきがたくさんあります。
才能とか技術とか非凡なものはなにも持っていない平凡な人間だから、それは自然なことなんですけれど。

でも、平凡な人間だって、音楽を楽しむことは出来ると思います。
拙い演奏であっても、心込めた音には祈りがあるのでしょう。
だから、自分で楽しめる音を探して、喜んだり、びっくりしたり、がっかりしたりしながら、歩んでいきたいです。
このことは大事にしたいです。


響き 音楽ホールの響きとHimangshu Roy氏の教え

トッパンホールの会場の下見に行ってきました。
都会の中のホールですが、静かな雰囲気があります。

音響性能を徹底的に追求したクラシック音楽中心に音響設計をされているホールとのこと。
下見として確認した範囲ですが、音響設計の技術が素晴らしいです。

ステージは木でふんわりと包まれている感じ。
木も、檜など音響に適した木材を使った作りで、壁から背面まで柔らかく緩やかな襞の曲線です。
ステージの音は、木の壁に反射して、客席の上、およそ天井のあたりでしょうか、そこに集まっているように聞こえます。それに加えてステージの音も自然にブレンドされています。
それは例えばトンネルとか体育館とかそれらの響きとは全く違います。
ほど良くここちよい残響・・
残念ながら、ステージでは、その素晴らしい残響は聞こえません。遠くで鳴っている感じ。
でもそれだけ自分の音に繊細に集中できるので、それがとても良いのです。

ステージ上で残響豊かな音になると、自分で自分の出す音に酔ってしまうわけです。
それでは他人に聞いていただく演奏にはなりません。
と言ってまったく残響のない音では、音を出している本人は味気ないのです。

自分での音に対して、細かい気配りをしつつ、客席に響いている音も想像する、というイメージでしょうか。
そのイメージを作ることだけでもワクワクします。


普段、楽器の振動そのものに鳴りを感じ、その響きに一喜一憂したりするのですが、そうした鳴りがマイクを通しスピーカーを通してではなく、「空間」を通して客席にしっかり伝わることは、とても魅力があります。
もともとが生楽器、弦楽器ですので、弦と爪があたる音、フレットに指が当たる音、楽器をちょっと持ち替えたりしてガサガサする・・とか、実はそうした「雑音」もたくさん出ています。
でもそれは人間が何かを弾いたり擦ったり叩いたり声を出したり、上手くいくこともあれば失敗したりもする、いろいろなことをしながらも、心地よい音を作ろうとしている証しです。
そしてそれは心地よい音が生み出す世界、調和に満ちた世界を願い求めることに他なりません。
これはなかなか創造的なことだと考えるのです。


用意して作った曲の一音一音の響きを吟味して、何度も練習して、そして演奏するという形にとてもふさわしいホールのようにも思えます。
そうした演奏にしようかとも考えたりしたのですが、やはり普段の自分らしく、やっぱり即興演奏主体にします。
即興演奏と言っても、身近い部分部分は繰り返し練習して高めていきます。
また、このホールに応じた響きになるように、楽器も試行錯誤して調整していきましょう。


自分では客席では聞けないですが、タゴールソングや天台声明の声の響きもきっと素晴らしいことでしょう。
それらの美しい響きにつながるように、至らない自分ながら、シタールの音に願いを込めたいです。
昔、シタールメーカーのHimangshu Roy氏とのさりげない会話の中で学んだたくさんのこと。
弦1本1本の役割や響きへの意識、気遣うことの大切さ。


ここまで音響が素晴らしいホールで演奏させていただいた体験はないし、これほど音響の豊かな空間を意識したこと自体なかったので、本当に貴重な機会です。

西洋クラシック音楽の中心のホールですが、こうした専用のホールを作りそれを維持していくのは、相応の努力や尽力が必要なのでしょう。






等身大の音楽 透明な音 天へ供え物を

週3回、透析治療に通っています。
週1回の血液検査、月1回の胸部レントゲンや心電図検査、数か月に一度、手術室で血管の拡張処置を受けます。身体障碍者1級。
現在の日本には保険制度があり治療費の多くを保険で負担してもらえます。
治療を行わなければ、高カリウム血症からの心停止や尿毒症など、直接的に死につながります。
治療は、回復するためのことではなく、生を維持するためだけの医療です。
個体差もあるでしょうけれど、今とりあえず標準の医療で生きられているだけです。
医療の進歩によって、透析患者でも仕事をされたり、数十年元気に過ごされている方も多いのも事実です。
けれども、不意に亡くなる方も、あるいは透析を受けるのにも体力負担がありそれに耐えきれなくて亡くなる方もいらっしゃいます。

生きるために重要な臓器が動いていないから死が当たり前の状態です。

これらのすべてのことが今の自分の音楽の底辺にあり、あるいは心の支えになってくれています。
人目を惹く素晴らしい演奏が出来るわけはないけれど、自分の分相応の、等身大の演奏をする努力は続けていきたいです。
気負いや衒いなく、自分を卑下するのではなく、そのままの自分を認めて演奏をする。
等身大の音楽が奏でられれば、そこに<透明な音>が生まれてくるように思うのです。
<透明な音>とは・・自分でも上手く説明が出来ないのです。
天へ供え物をする心持ちです。
そこから生まれる<透明な音>です。

難しい技術を追及することには興味ないのですが、自分の心持ちを大切にすることを大事にしたい。
自分が出来ることの中で誠実に精一杯のことをする大切さです。
心の芯がぶれないように注意深く。

本当にそうした音楽が演奏できれば、聴かれる人の心の琴線とどこかで響きあえるのではないかな。
そんなことを願っています。


吾唯知足2

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