長い間準備していた聲明コンサートが終了しました。
共演の奥田さん、聲明の導師の方々、ともに最高に素晴らしい表現をしていただきました。
また素晴らしいスタッフ、そして主催の方々、同じステージに参加させていただいものとして最大の感謝してもあまりあります。
聲明との共演をさせていただきました。
未熟な私で、至らなかったことも多分にありましたが、
出来る中での精一杯のことをしました。想いはいろいろありますが、知らなかったこと学んだことが多くて、改めて自分が音楽の初心者なのだと感じました。
でも、それを知ることが出来たことは、とても幸せなことですよね。
今まで、当たり前のこととして見過ごしていた事柄の見直し
・タンプーラの位置づけ
タンプーラ、あるのはごく普通のことで当たり前だと考えていました。
だから電気タンプーラがあれば、深く考えず簡単に代用していたのですが・・
生音の響きが活かせるホールで、人間が紡ぐ音としてのタンプーラの位置づけをしてみたかったのです。
タンプーラは、不思議な楽器です。
ただ持続音を背景で流す、それだけの役割なら、機械的に作る音で十分に間に合うのです。
人の手で紡ぎ出す音の魅力はかけがえのないものです。
シタールの演奏をタンプーラと共振させる位置づけ
そのアイデアを考えると、ワクワクします。
・生音の魅力
インドでは、大きなホールで、聴衆(おそらく生徒たち)を舞台に上げたコンサートを見ました。
これは<演奏者の演奏を間近で体験する>ことと<生の音を聴く最高の機会を与える>という意図もあるのでしょう。
ところが、音響設計されたホールでは生音の魅力が少し違います。
少し離れた場所の方が、楽器のいろいろな位置にある響きが壁にあたり反響して客席に響きます。
抱えて演奏する弦楽器は、演奏者が体感している弦の振動や余韻の音が、耳で聴く音と少し異なります。
それとは少し異なるのかも知れませんが、おそらく似たような効果が会場に伝わったと思えます。
・聲明とのコラボの方法論
聲明の音の動きは、日本の伝統音楽と似ているように感じます。
けれども、箏の平調子とは違うようです。
能、民謡、わらべ歌の音階、旋律
小泉文夫先生の著書では、日本の古典音楽は5音音階を基本としているように書かれていますね。
また、音の動きについてテトラルコードという法則性を指摘されているのですが、理解力の低い私には十分に理解できていません。
簡単に「日本音楽」と言ったりしますが、ところが、日本について、日本の文化の独自性について、どれだけ深めているのでしょう・・いつも考えています。
単に国籍があるということが、日本文化のアイデンティティだとは思いません。
日本島の成り立ち、地域ごとの特徴や独自の文化、先住民や移住民族の交流、実に複雑な多様性があり文化体系がある島です。美意識ひとつとっても、地方ごとに洗練されたものがありますよね。
聲明との合奏では、自分なりに感じたRagaの一部の音の動きを解析してみました。
自分の解釈をあまり強調して主張しすぎることで、音の調和が壊れてしまわないように注意しました。
もともとが、伝統的に継がれてきた唱法ですから、いくらコラボだからといっても、代々引き継がれてきた音楽の良さを壊してしまうのは、忍びなかったのです。
今回、この点に一番悩みました。
演奏の数日前まで、合せられる部分はほんの数分程度かとも思っていました。
でも落ち着いて、何度も解析して、少しづつ音を重ねられる部分を広げてきました。
やってみれば「コロンブスの卵」のようなことですが。
それでも、繊細な感覚で、見極めていく必要はありますね。
聲明の内容について
とても深いのです。
音として合わせることだけを考えて準備を進めていたのですが、振り返ってみると、歌われる内容、つまり歌詞を理解することがとても大切だと痛感しました。
合せたところは「唱禮」「百八讃」「般若心経」「総回向」
それぞれの経文についておおよその理解はしていましたが、特に般若心経は、良く知られていますが解釈は難しいです。
今でも、自分の解釈(演奏)で良かったのか、音の表面をなぞっただけで消化不足ではなかったのか・・思い返すことは多いです。
コラボは終わりましたが、自分では、天台声明で歌われた歌詞の内容を理解していこうと改めて思います。
とても深いのです。
音として合わせることだけを考えて準備を進めていたのですが、振り返ってみると、歌われる内容、つまり歌詞を理解することがとても大切だと痛感しました。
合せたところは「唱禮」「百八讃」「般若心経」「総回向」
それぞれの経文についておおよその理解はしていましたが、特に般若心経は、良く知られていますが解釈は難しいです。
今でも、自分の解釈(演奏)で良かったのか、音の表面をなぞっただけで消化不足ではなかったのか・・思い返すことは多いです。
コラボは終わりましたが、自分では、天台声明で歌われた歌詞の内容を理解していこうと改めて思います。
今回の合奏が、完成した作品になったかどうか、自分でもわかりません。
さらに練り込まれたものにする必要があるのか、
けれども、こうした作品は「完全なものを完成」させることではなくて、過程を残した形が完成なのかも知れません。

ピカソ アルルカン姿のパウロ
描きかけのようだけれど、見方によれば、これで「完成」

松林図屏風 長谷川等伯 安土桃山時代