辰野基康のブログ

音楽会のご報告 日々の雑記などをメモしています。 メインのサイトは http://sitar.holy.jp/ ご連絡は tatsuno123@yahoo.co.jp

健康

■ 透析と人生 ■ 音楽の時間 ■ 師から学んだこと

気ぜわしい日々が過ぎて、ようやくのんびりしています。

■ 透析と人生

相変わらず、週3回、血液透析に通っています。

「血液透析をはじめると、一生透析しないといけない」と嘆く方がいらしたりします。
でも、逆に言えば、透析をしているので生きていられるのですよね。

受け止め方は、人それぞれでしょうし、第一、<透析をしている>といっても、患者の一人一人で疾患は異なるし、ひとりひとりの人生は違います。

私の場合は、一回の透析時間は4〜5時間、それを週3回、それを透析室で過ごします。
日本は医療保険制度が充実していて、透析医療は患者の医療費負担はありません。
通っている透析室は患者が快適に治療時間を過ごせるように気づかいされていて、TVはあるしスマホも使えます。
また、透析後の時間は普通に過ごせます。
だから、自分の時間は、家族との時間に使ったり、体に無理がかからない範囲の仕事をしたり、自分の心にとって本当に大切なこと、大事にしたいことに時間を使いたいと思うようになりました。

■ 音楽の時間

インドの古典音楽をやっていて良かったと思えるのは、自分の時間を、古典音楽の探求に使えることです。

若い頃は、難しい技術を身に着けたり、難しい曲を覚えたりすることに関心があったりしました。
それは外向けの姿勢だと思います。それもとても大事なことでしょう。

今は、その反対に素朴なものの関心が多いかな。
技巧よりも素朴な音を磨くことや、シンプルなRagaの中にある味わいの深さを見つけることとか、そちらのほうが、楽しいです。

良く芸事では「芸が枯れてきた」などと言ったりすることがありますけれど。
もっとも自分ではそうは思ってはいないのです。

いつも、輝くような光、活き活きとさせてくれるもの、そういったことを求めているわけで・・
要するに、<基本に戻っている>のです。

以前は基本を大事にしないで、どんどん前に進んでいこうと、背伸びをしていたのかも知れません。
それだって、華やかな演奏になすれば、聴かれる方々は喜んで下さります。
喜びを皆で共有できるのは、音楽の素晴らしさです。

でも、もう一度、基本に戻って、音楽の味わいや楽しさ、美しさを、自分なりの方法で表現したくなったのです。

■ 師から学んだこと

考えれば、ものすごい回り道をしてきたのですね。
もっとも今も回り道の途中なのかも知れません。
もっとも、道を楽しむと書けば「道楽」になりますが、自分では、ただ好きなことをしてきたとか、道楽をしてきたという感覚はないです。

拙く未熟ながらも仕事としてやってきたつもりですし、もしそれが道楽に見えるなら、それはひとえに私の力不足のせいで恐縮しています。

思い返せば、何だか未熟なことばかりを繰り返してきただけなので。

道を楽しむという道楽ではないし、道を苦しんで歩んでいるわけでもないし。
時に景色の良いところで一休みしたりもします。険しい道に苦労したりもします。
その道そのものが回り道や迷路だったりするのかも知れません。

けれど、それでも、自分なりに自分の足で歩んでいきます。

それが私の師から学んだことです。

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治療、闘病  facebookより

近況報告です。

■治療、闘病
2017年の末の血液透析の導入から4年になります。
糖尿病ではないのですが、
原因は不明で病院で分かった時は、腎臓はかなり機能しなくなっていました。

現在、腎機能はおよそ5パーセント程度です。
なにもしないと、毒素が体内に溜まり死んでしまうのですが、現代の医療は透析という腎臓代替療法が確立されていて、長期間の生存も可能にはなっています。


多少の食事の管理、制限などはありますが、それでも日常生活には大きな差し障りはありません。
ただ、透析はあくまでも人工のものですので、腎臓の代役を完全にはカバー出来ていません。

現在、予後は良いのですけれども、医療の過信も出来ないから、なるように任せています。
人間いずれは死んでいくもので、後は自然の成り行きに任せていいかなと、思ったりしています。
週3日、4時間の透析のために近所のクリニックに通院しています。


最初の頃は、この4時間がとても長いと感じていましたが、今は、リラックできる時間のような感じでのんびりと過ごしています。

TVをみたり映画を観たり、音楽を聴いたり、読書したり、ベッドでストレッチをする方もいるようです。
透析日、休息、透析日という繰り返しで、あっという間に日が過ぎてしまいます。



次回は、日々の音楽、音作りのことなどを書きます。

新年の抱負 大切なもの

新年の抱負

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コロナ禍の一年だったけれど、
基礎疾患もある中、ともあれ、新たな一年を迎えられた。



障がい者手帳を持って3年、
自分が障がい者として生きていくことが信じられなかったけれどね。

透析治療は、正月休みはない。
2日からスタートだ。

さて、障がい者になって、生きる中でハンディを持ったのだけれど、
そのことで、高尚な気付きのようなものなんて、ちっともなかったな。
相変わらず凡庸で愚鈍な自分がいるだけだ。
仔猫3-52すまん

それが、自分なのだから、認めないとね^^



優しい気持ち

多くの方の支えあって、生きていられるのだけれど、
それでも、
自分の存在など、家族以外の方にとっては、
ほとんど、無に近いのかな、と思えたりもしている。

成功者だけが、さらに成功をしていく、
ちょっとでもこぼれた人は、さらに、落ちこぼれていく・・
そういった、雪だるま式に膨れ上がるようなシステムは、
この世にあるし、そのシステムは、場所によっては加速していくように出来ている。

透析をしていることよりも
こちらのほうが、正直、精神的にきついときもあるね。



悪意・・人は弱い生き物だから


華やかで眩い場所、
でも、そこでは、ゆったりとした優しい気持ちにはなれないよ。
競い合い、主張しあい、勝ち抜くための場。
共生感があるようで、実は、その中に隠された悪意があったりする。
そこに居て、生き甲斐を感じることは出来ないし、
そこで、光を浴びたいなんても思わない。

そういった現実があることは、自然なことだろう。
世間は、そうした場所を求める。
人は弱いものだから。
もちろん、自分自身も弱いのだ。
飲み込まれてしまえば、自分もそうなる。

それをよくわかることも、大事なことだろうね。

若い頃は、体力もあったし、
そういう渦中に飛び込むことも出来た。
それが自分のためにもなると思っていた。
けれど、やっぱり自分には合わない所だ。



<危うきに近寄らず>
なるべく、離れていようと、思う。



家族としっかり向き合って暮らせているのだから、
その時間に、感謝して暮らしていければ良いなぁ。


ありがたいこと


世間一般にとっては、無に近い存在の私ではあるけれど、
そんな私を長い間、静かに見守って下さる方もいる。
とてもありがたい限りだし、
それを感じるだけで暖かく優しい気持ちになれる。
それは、本当に貴重なこと、
文字通り「有難い」ことなんだね。

絵も音楽もそうだけれど
上手で、巧みで褒められようなんて欲はない。
ただ、静かで暖かく優しい気持ちが
自分の拙い表現の中から、少しでも届いてくれたらと願っている。



情報発信

自分なりの情報発信は、出来るだけやっていきたい。
それは、自分が生きている証のようなものだ。

病気との付き合いのことは大事なことだ。
これは日々、生きていくためのことだから。


病気と付き合いながら、音楽をやること
大事なことだ。
体を労わりながら音楽をやること。
病気で失うものあるけれど、
それまで気付いてなかったことを、見つけ出せることもある。
命とは不思議なものだ。

絵を描くことは、実はあまり大事ではない。
でも、大事ではないことにしておくことが大事と、ややこしい(笑)

結局「落描き」しているだけなのだ。
絵画というのでもなくイラストでもなく漫画でもなく、ラクガキ。
表現として、そういう形があっても良いと思う。
例えば、最近注目のバンクシーもある意味、そういう表現もしているよね。

ただ、表現は自由だけれど、
他人の建物に、勝手に描かれたら、
表現そのものではなく、その手法が問題になることもあるね。




今年も気負わず、やっていこうと思います。

練習4-3



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