週3回、透析治療に通っています。
週1回、血液検査があり、月1回、胸部レントゲンや心電図検査があり、数か月に一度、手術室で血管の拡張処置を受けます。身体障碍者1級です。
現在の日本は保険制度があり血液透析の費用の多くを保険で負担してもらえます。
これがあって生きている状態です。
治療を行わなければ、高カリウム血症からの心停止や尿毒症など、直接的に死につながります。
治療は、回復するためのことではなく、生を維持するためだけの医療です。
臓器が動いていないので、死が当たり前の状態なのです。
医療の進歩によって、透析患者でも仕事をされたり、数十年元気に過ごされている方も多いのも事実です。
けれども、不意に亡くなる方も、あるいは透析を受けるのにも体力負担がありますが、それに耐えきれず透析治療を中止して亡くなる方もいらっしゃいます。
これらのすべてのことが今の自分の音楽の支えになってくれています。
そんなわけです、素晴らしい演奏は出来るわけはないけれど、自分の分相応の、等身大の演奏をする努力は続けていきたいです。
気負いや衒いなく、自分を卑下するのではなく、そのままの自分を認めて演奏をすることです。
等身大の音楽が奏でられれば、そこに<透明な音>が生まれてくるように思うのです。<透明な音>とは・・自分でも上手く説明が出来ないのですけれどね。
効果音のリバーブなどを利かした音というわけではないですよ。
天へ供え物をする心持ち。
そんな感触が<透明な音>のことです。
ここが難しいところで、技術として難しいことの追及は必要ないのですが、心持ちは自分を大切にすることです。
自分が出来ることの中で誠実に精一杯のことをすることの大切さです。
それを続けていけば、技術的なこともいつか身に付くから、そこに捕らわれるのではなく。
技術的な未熟さは、人としての未熟さではないのだから。
演奏の技術も人格としてもとても未熟な私が言うのも、矛盾していますけれどね。
心の芯がぶれないように注意深く。
本当にそうした音楽が演奏できれば、聴かれる人の心の琴線とどこかで響きあえるのではないかな。
そんなことを願っています。
