2007年03月09日
求めよ、さらば開かれん 1
誰の為にでも鐘は鳴る
どんな幸せを犠牲にしてでも手に入れたいチカラがある。僕にとってのそれは、絵の才能であり、文ちゃんにとってのそれは、物書きの才能だった。
「戦乱の世もようやく一息ついた。私たちにも束の間の平穏が訪れる。」
佐藤さんの声だ。僕には演劇の事はよく判らないけれど、彼女の声はすばらしいと思う。発声もいいし、何より、迫力…といえばいいのか…そう、存在感がある。役柄によって、声の表情がガラリと変わるのもすごいと思う。本当に、あの大人しくてちょっと強風が吹いたら吹き飛んでしまいそうな女の子から発されているとは思えない。僕…事、栗原 陽は、手にしていたジュースも忘れて、佐藤さんの声に聞き入っていた。
「男どもは暢気に女を口説き、音楽を奏で、平和を満喫している。…俺には合わない。なぜって?目に入らないのか、俺のこの醜い姿が。生まれながらのこの姿のせいで、どんな中傷を受けてきたか…!誰も俺を愛さない。とても、愛しい人と愛を育むなんてできやしない。」
どこかで聞いた台詞だ。何かの本で読んだ。…否、読まされたというべきか。特徴ある台詞だから覚えていたけれど、実際に名前が出てこないところをみると、そんなに興味を持たなかったのだろう。僕に文学は、猫に小判だ。
そろそろ室内に入らないと、この腕の中にあるジュースを待っている部員からブーイングが来る。このまま佐藤さんの声を聞いていたいという欲求をなんとか押し殺し、ドアノブに手をかける。ギギギィという音が耳障りだ。誰かいい加減に油をさしてくれてもいいのだけれど。
「 …ならば、やるべき事はただ一つ。悪党になってやる。」
――思わず、歩みを止めた。薄暗い室内に、燃える決意を秘めた者の声。鋭利な刃物をつきつけられたような気がして。
「…なんか、暗くない?」
「ん、そうですか?」
蛍光灯のスイッチを入れようと、腰を浮かせる佐藤さん。彼女に、先ほどの鋭利な殺気は微塵も感じられない。普段どおりの彼女だ。僕は、安心したような気がぬけたような気持ちになって、思わず苦笑していた。
「そっちじゃないわよ。台詞が暗いって言ってんの。」
馬鹿ね、とはき捨てられても、佐藤さんはムッとするでもなく、
「そうですか?確かに脚色はしてありますけど、筋は原作どおりですよね。…もしかして美濱さん、原作読んだ事ないんですか?」
と、平然と切り替えす。佐藤さん事、佐藤 純。彼女に言い返された、美濱 麗菜はおもしろくなさそうに顔をしかめている。と、
「なによ美濱。アタシの脚本に文句あるわけ!?」
鈴が鳴るような心地良い声。僕ら、第一学院演劇部の脚本担当、櫻庭 文香の登場だ。その名前から、部員からは“ぶんちゃん”と呼ばれている。彼女の趣味は、文章を書くこと。技術の未熟さは否定できないけれど、展開や言い回しが斬新で非常に面白い。去年の夏に、小さな会社から、小説を1冊共同出版している。大ヒットとまではならなかったけれど、小説家志望にしてはそこそこいい成績を出す事ができたらしい。彼女の、夢を掴むためにがんばっている姿を見るたび、僕はどうしてか、一人だけ取り残されたような気分になる。
「ヒロミ、ジュース。」
「あ、うん。」
腕の中にあったジュースの一本を彼女に渡す。
「あれー、ヒロミちゃん、いつからいたのー?」
「お疲れ様です。」
先ほどの二人以外からも声がかかったので、仕方なく暫くジュース配りに専念する。この演劇部での僕の役割は、『美術』。そんなわけで、台詞あわせやシナリオの打ち合わせ――といっていいのかわからない程、僕は演劇に疎いのだが――では出番が無く、こうした雑用も請け負っている。
「何ヒロミちゃん、お菓子買ってきてくんなかったの?」
「ヒロミちゃん、こっちにもジュース!」
「ヒロミー、新作のジュース買ってきてって言ったじゃない!!」
…そう思っておいた方が幸せだ。
そんな僕に構わず、部員の会話は続いている。
「でもさー、美濱のいう事は間違ってねーんじゃん?確かに暗いよ。一般受けするかな?」
「一般受けを意識する程、客が来るのか…?」
空気が凍った。佐藤さんが苦笑して、
「それ、部長の台詞じゃないですよ。いいじゃないですか。私、シェイクスピア原作の演劇って一度やってみたかったんです。それに、主人公のリチャード三世の気持ち、少しわかる所あるから、うまく演じられるかも。」
「よく言ってくれた!ありがとー純!!」
文香はぴょこぴょことジャンプしながら、佐藤さんを抱きしめている。茶色の長い、三つあみの髪が尻尾のように揺れている。大きな猫目を嬉しそうに細くして、人懐っこそうに笑っている。――可愛い。彼女が最近まで鬱病だったと言って、信じる人がどれくらいいるだろう。
「ま、いいだろ。勉強にもなるし、文ちゃんの新作脚本ができるまでは、これでいこうぜ。」
「う゛っ…なんだか心を抉られた気が。」
「がんばってよー、小説書き!」
「まだ卵だよ…。孵るかわからないね。」
苦笑しつつも、自分の好きな事を認められて嬉しそうだ。皆もそれをちゃんとわかっている。
「じゃあ、台詞あわせに戻ろう。純。」
「はい。」
――再び、佐藤さんの声。
こんな日常が、いつまでも続けばいい。ずっとずっと、続けばいい。
「ヒロミじゃん?」
夕日が建物を照らす様に見とれていた僕に声をかけてきたのは、軽薄そうな男子高校生と、同じような人種の女子高生だった。誰だろう。彼らには大変失礼だが、どこかで見たような気がするけれど、どうしても思い出せない。という事は、僕の中で彼らはそう大切な人物じゃないのだろう。
「えっと、ごめん…。」
「えー!栗原!?あの、ドモリの栗原陽!?」
…前言撤回。女子高生のバカでかい声で、思い出したくも無い記憶が蘇る。繰り返しはしつこいと文ちゃんにダメ出しされそうだが、あえて言う。彼らには大変失礼だが、僕にとって彼らと出会うことは、台所で害虫を見つけてしまったシチュエーションに等しい。ようするに、死んでも会いたくなかったのだ。
「里香、声でけーよ。」
「ごめーん。だって、栗原めっちゃ変わってるんだもん。超イケメンじゃん!?最後に会ったのって、中1の頃だよね??ねね、今、彼女いるの?」
「里香!」
男は不愉快そうに眉をしかめ、嫉妬を含んだ瞳で僕を見据えてきた。…僕が何をした。
「覚えてるか?俺、井上だけど。」
「なんとなく。」
井上の瞳に含まれた怒りの炎が、ゆらりと燃え上がったのを感じた。何事も正直に答えるのは良くないらしい。井上は、頭のてっぺんからつま先まで、僕を嘗め回すようにしてねめつけた。
「へぇ、私服。今何やってんの?フリーター?」
面倒臭い質問だ。明らかに見下した視線を無視しながら、淡々と言う。
「高校行ってる。」
「この辺に高校なんてねーだろ。」
「サポート校だから。」
「何それ。」
「全日制の通信みたいな感じ。校則無いから、私服でいいんだ。」
「…ふーん。」
他に返事の言葉が見つかられないといった風だった。僕の方も、これ以上の事を彼らに言うつもりも無い。と、
「ヒロミー!」
ナイスタイミング。文香が手を振りながらこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「ごめん、打ち合わせで遅くなっちゃった。…帰れる?」
「うん。…じゃ。」
これ以上煩く言われるのも嫌なので、無愛想だとわかってはいるものの、適当に挨拶して井上と里香の呪縛から逃れた。後ろを振り返れば、きっと井上がまだ蛇のような視線で何事かつぶやいているのだろうけれど、そんな事は重要ではない。重要なのは、今、僕の隣に文ちゃんがいるという事だ。
予期せぬ出会いから数歩離れたところで、文ちゃんが口を開く。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「さっきの人。…地元の高校の制服着てたから。ヒロミの知り合いかと思って。」
何でもお見通しなんだなと、苦笑しつつ、
「面白がってるだけだよ。そうじゃなきゃ、突然不登校になった奴の事、気にかけるはずがない。僕自身、あいつらの顔忘れてたし。どうって事ない。」
「……。」
文ちゃんの大きな瞳は、無理しなくていいんだよ。と、言いたげだった。あえて、見ないフリをする。ここで泣きつくなんて、あんまりにもかっこ悪すぎるじゃないか。
僕らの通う第一学院は、無認可のサポート校だ。サポート校というのは、高等学校の通信制の課程に在学する人を対象とする、高等学校教育課程の学習補習や、支援を提供する場所だ。学校教育法で定められた、法的な「学校」としての認可を受けていない教育施設だから、校舎は街中のビルの一角で、当然の事ながら、校庭なんかありゃしない。僕らの通う学校(僕は、この場所をあえて学校と呼ぶ。)は全日制だから、普通の学生と同じように週5で登校している。何故、この学校を選んだのか。その理由は千差万別で、とても一くくりにはできない。不登校だった過去や、癒えない心の傷を抱えたワケ有りの人も居れば、普通の学校であまりにも堕落してしまったため、金で高卒の資格を取りに来ている人も居る。かと思えば、明らかに社会人や一見ただの主婦に見える人達なんかが登校してきているから不思議だ。
僕は、第一学院を見つけるまでに様々なサポート校を見た。殆ど普通の学校に近いのだが、地理的条件、生徒数の事情によってサポート校にならざるをえなかった学校、明らかに、社会へ出る前段階のモラトリアム的場所としての学校、様々なオプションを付随させた、もはや専門学校といってもいい学校。“学校”という名のレールに乗っている時は気がつかなかったが、この世の中には、道から外れた人を救済してくれる施設もあれば、そういった人を食い物にする施設もあるという事だけはよくわかった。我らが第一学院はどうなのか。確かに、無認可校ゆえ学費は一般の学校よりはるかに高い。けれどこの場所は、普通の学校では生きてゆけなかった僕を、理解してくれた唯一の場所だ。生徒を支援する資格取得の情報を教えてくれたり、時にはフラッシュバックで授業が受けられなくなってしまった生徒の話を最後まで聞いてくれたり。普通の学校では間違いなく切り捨てられるはずの問題を、救い上げて、解決する事ができる。ここは、そういう場所だ。僕にとって、どんなに望んでも手に入らなかった安息が、ここでは得られるのだ。
まだ、サポート校の地位は不確である。それはそうだろう。僕だって、もし、不登校にならなかったとしたら、普通の高校へ進学して、美大を目指していただろう。何だかんだ行ったとて、所詮まだまだレールから逸脱した人間には厳しい社会。これを生き抜くのなら、余分な遠回りをするより、近道を歩いたほうが安全に決まっている。…まぁ、それができなかった上での選択というのであれば、僕はこの学校を選んで後悔していない。だからこそ、自分の足でしっかりと立ってゆける人間にならなくては。そんな事を、いつも思う。
「ヒロミはさ、今、幸せ?」
「…は?」
文香の唐突な問いに、ついつい素っ頓狂な声を上げてしまう。
「な、なななななんなんで?」
我ながら動揺ぶりが恥ずかしい。大分なおってきたはずだったのに、僕は緊張すると、未だにとてつもなくドモる。
「ん…ごめん。ちょっと聞いてみたくなっただけ。嫌だったら忘れて。」
「…普通。」
「――普通?」
「最悪からは脱したけど、先が見えているわけじゃないから。不安は尽きないけど、失いたくない日常があるから。…だから、普通。」
「それって、言葉だけ聞いていると、すごく幸せそう。」
「実際に体験してみると、幸せの実感って離散するから。」
「言えてるー。」
公園を通り過ぎて、味気ない大通りに入る。まだ日が高いせいか、あまり人がいない。
「・・・文ちゃんは、幸せなの?」
彼女は一呼吸置いて。
「うん。大切な友達がいて、好きな事も、小さい事ながら認めてもらえていて。嬉しいよ。」
…心中に薄もやがかるような、嫌な気分。まただ。彼女を、応援しなくてはならない場面なのに。胸の底からわきあがる本音を直視できていなくて、蓋をする。この蓋にも限界はあるし、いつ壊れてしまうかはわからない。けれど、僕はバカの一つ覚えのように蓋をする。
「生きててよかったって、思う。」
「そっか。」
きっと、僕自身が将来に対する結果を出せていないから、こんな最低な気持ちになるのだろう。――僕も、やるしか、ないんだ。
「一緒にガンバロ、ヒロミ!」
―――こんな所でも、なんでもお見通しなんだな。
僕は文ちゃんの隣で、本日2度目の苦笑をした。
こんな日常が、いつまでも続けばいい。ずっとずっと、続けばいい。
どんな幸せを犠牲にしてでも手に入れたいチカラがある。僕にとってのそれは、絵の才能であり、文ちゃんにとってのそれは、物書きの才能だった。
「戦乱の世もようやく一息ついた。私たちにも束の間の平穏が訪れる。」
佐藤さんの声だ。僕には演劇の事はよく判らないけれど、彼女の声はすばらしいと思う。発声もいいし、何より、迫力…といえばいいのか…そう、存在感がある。役柄によって、声の表情がガラリと変わるのもすごいと思う。本当に、あの大人しくてちょっと強風が吹いたら吹き飛んでしまいそうな女の子から発されているとは思えない。僕…事、栗原 陽は、手にしていたジュースも忘れて、佐藤さんの声に聞き入っていた。
「男どもは暢気に女を口説き、音楽を奏で、平和を満喫している。…俺には合わない。なぜって?目に入らないのか、俺のこの醜い姿が。生まれながらのこの姿のせいで、どんな中傷を受けてきたか…!誰も俺を愛さない。とても、愛しい人と愛を育むなんてできやしない。」
どこかで聞いた台詞だ。何かの本で読んだ。…否、読まされたというべきか。特徴ある台詞だから覚えていたけれど、実際に名前が出てこないところをみると、そんなに興味を持たなかったのだろう。僕に文学は、猫に小判だ。
そろそろ室内に入らないと、この腕の中にあるジュースを待っている部員からブーイングが来る。このまま佐藤さんの声を聞いていたいという欲求をなんとか押し殺し、ドアノブに手をかける。ギギギィという音が耳障りだ。誰かいい加減に油をさしてくれてもいいのだけれど。
「 …ならば、やるべき事はただ一つ。悪党になってやる。」
――思わず、歩みを止めた。薄暗い室内に、燃える決意を秘めた者の声。鋭利な刃物をつきつけられたような気がして。
「…なんか、暗くない?」
「ん、そうですか?」
蛍光灯のスイッチを入れようと、腰を浮かせる佐藤さん。彼女に、先ほどの鋭利な殺気は微塵も感じられない。普段どおりの彼女だ。僕は、安心したような気がぬけたような気持ちになって、思わず苦笑していた。
「そっちじゃないわよ。台詞が暗いって言ってんの。」
馬鹿ね、とはき捨てられても、佐藤さんはムッとするでもなく、
「そうですか?確かに脚色はしてありますけど、筋は原作どおりですよね。…もしかして美濱さん、原作読んだ事ないんですか?」
と、平然と切り替えす。佐藤さん事、佐藤 純。彼女に言い返された、美濱 麗菜はおもしろくなさそうに顔をしかめている。と、
「なによ美濱。アタシの脚本に文句あるわけ!?」
鈴が鳴るような心地良い声。僕ら、第一学院演劇部の脚本担当、櫻庭 文香の登場だ。その名前から、部員からは“ぶんちゃん”と呼ばれている。彼女の趣味は、文章を書くこと。技術の未熟さは否定できないけれど、展開や言い回しが斬新で非常に面白い。去年の夏に、小さな会社から、小説を1冊共同出版している。大ヒットとまではならなかったけれど、小説家志望にしてはそこそこいい成績を出す事ができたらしい。彼女の、夢を掴むためにがんばっている姿を見るたび、僕はどうしてか、一人だけ取り残されたような気分になる。
「ヒロミ、ジュース。」
「あ、うん。」
腕の中にあったジュースの一本を彼女に渡す。
「あれー、ヒロミちゃん、いつからいたのー?」
「お疲れ様です。」
先ほどの二人以外からも声がかかったので、仕方なく暫くジュース配りに専念する。この演劇部での僕の役割は、『美術』。そんなわけで、台詞あわせやシナリオの打ち合わせ――といっていいのかわからない程、僕は演劇に疎いのだが――では出番が無く、こうした雑用も請け負っている。
「何ヒロミちゃん、お菓子買ってきてくんなかったの?」
「ヒロミちゃん、こっちにもジュース!」
「ヒロミー、新作のジュース買ってきてって言ったじゃない!!」
…そう思っておいた方が幸せだ。
そんな僕に構わず、部員の会話は続いている。
「でもさー、美濱のいう事は間違ってねーんじゃん?確かに暗いよ。一般受けするかな?」
「一般受けを意識する程、客が来るのか…?」
空気が凍った。佐藤さんが苦笑して、
「それ、部長の台詞じゃないですよ。いいじゃないですか。私、シェイクスピア原作の演劇って一度やってみたかったんです。それに、主人公のリチャード三世の気持ち、少しわかる所あるから、うまく演じられるかも。」
「よく言ってくれた!ありがとー純!!」
文香はぴょこぴょことジャンプしながら、佐藤さんを抱きしめている。茶色の長い、三つあみの髪が尻尾のように揺れている。大きな猫目を嬉しそうに細くして、人懐っこそうに笑っている。――可愛い。彼女が最近まで鬱病だったと言って、信じる人がどれくらいいるだろう。
「ま、いいだろ。勉強にもなるし、文ちゃんの新作脚本ができるまでは、これでいこうぜ。」
「う゛っ…なんだか心を抉られた気が。」
「がんばってよー、小説書き!」
「まだ卵だよ…。孵るかわからないね。」
苦笑しつつも、自分の好きな事を認められて嬉しそうだ。皆もそれをちゃんとわかっている。
「じゃあ、台詞あわせに戻ろう。純。」
「はい。」
――再び、佐藤さんの声。
こんな日常が、いつまでも続けばいい。ずっとずっと、続けばいい。
「ヒロミじゃん?」
夕日が建物を照らす様に見とれていた僕に声をかけてきたのは、軽薄そうな男子高校生と、同じような人種の女子高生だった。誰だろう。彼らには大変失礼だが、どこかで見たような気がするけれど、どうしても思い出せない。という事は、僕の中で彼らはそう大切な人物じゃないのだろう。
「えっと、ごめん…。」
「えー!栗原!?あの、ドモリの栗原陽!?」
…前言撤回。女子高生のバカでかい声で、思い出したくも無い記憶が蘇る。繰り返しはしつこいと文ちゃんにダメ出しされそうだが、あえて言う。彼らには大変失礼だが、僕にとって彼らと出会うことは、台所で害虫を見つけてしまったシチュエーションに等しい。ようするに、死んでも会いたくなかったのだ。
「里香、声でけーよ。」
「ごめーん。だって、栗原めっちゃ変わってるんだもん。超イケメンじゃん!?最後に会ったのって、中1の頃だよね??ねね、今、彼女いるの?」
「里香!」
男は不愉快そうに眉をしかめ、嫉妬を含んだ瞳で僕を見据えてきた。…僕が何をした。
「覚えてるか?俺、井上だけど。」
「なんとなく。」
井上の瞳に含まれた怒りの炎が、ゆらりと燃え上がったのを感じた。何事も正直に答えるのは良くないらしい。井上は、頭のてっぺんからつま先まで、僕を嘗め回すようにしてねめつけた。
「へぇ、私服。今何やってんの?フリーター?」
面倒臭い質問だ。明らかに見下した視線を無視しながら、淡々と言う。
「高校行ってる。」
「この辺に高校なんてねーだろ。」
「サポート校だから。」
「何それ。」
「全日制の通信みたいな感じ。校則無いから、私服でいいんだ。」
「…ふーん。」
他に返事の言葉が見つかられないといった風だった。僕の方も、これ以上の事を彼らに言うつもりも無い。と、
「ヒロミー!」
ナイスタイミング。文香が手を振りながらこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「ごめん、打ち合わせで遅くなっちゃった。…帰れる?」
「うん。…じゃ。」
これ以上煩く言われるのも嫌なので、無愛想だとわかってはいるものの、適当に挨拶して井上と里香の呪縛から逃れた。後ろを振り返れば、きっと井上がまだ蛇のような視線で何事かつぶやいているのだろうけれど、そんな事は重要ではない。重要なのは、今、僕の隣に文ちゃんがいるという事だ。
予期せぬ出会いから数歩離れたところで、文ちゃんが口を開く。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「さっきの人。…地元の高校の制服着てたから。ヒロミの知り合いかと思って。」
何でもお見通しなんだなと、苦笑しつつ、
「面白がってるだけだよ。そうじゃなきゃ、突然不登校になった奴の事、気にかけるはずがない。僕自身、あいつらの顔忘れてたし。どうって事ない。」
「……。」
文ちゃんの大きな瞳は、無理しなくていいんだよ。と、言いたげだった。あえて、見ないフリをする。ここで泣きつくなんて、あんまりにもかっこ悪すぎるじゃないか。
僕らの通う第一学院は、無認可のサポート校だ。サポート校というのは、高等学校の通信制の課程に在学する人を対象とする、高等学校教育課程の学習補習や、支援を提供する場所だ。学校教育法で定められた、法的な「学校」としての認可を受けていない教育施設だから、校舎は街中のビルの一角で、当然の事ながら、校庭なんかありゃしない。僕らの通う学校(僕は、この場所をあえて学校と呼ぶ。)は全日制だから、普通の学生と同じように週5で登校している。何故、この学校を選んだのか。その理由は千差万別で、とても一くくりにはできない。不登校だった過去や、癒えない心の傷を抱えたワケ有りの人も居れば、普通の学校であまりにも堕落してしまったため、金で高卒の資格を取りに来ている人も居る。かと思えば、明らかに社会人や一見ただの主婦に見える人達なんかが登校してきているから不思議だ。
僕は、第一学院を見つけるまでに様々なサポート校を見た。殆ど普通の学校に近いのだが、地理的条件、生徒数の事情によってサポート校にならざるをえなかった学校、明らかに、社会へ出る前段階のモラトリアム的場所としての学校、様々なオプションを付随させた、もはや専門学校といってもいい学校。“学校”という名のレールに乗っている時は気がつかなかったが、この世の中には、道から外れた人を救済してくれる施設もあれば、そういった人を食い物にする施設もあるという事だけはよくわかった。我らが第一学院はどうなのか。確かに、無認可校ゆえ学費は一般の学校よりはるかに高い。けれどこの場所は、普通の学校では生きてゆけなかった僕を、理解してくれた唯一の場所だ。生徒を支援する資格取得の情報を教えてくれたり、時にはフラッシュバックで授業が受けられなくなってしまった生徒の話を最後まで聞いてくれたり。普通の学校では間違いなく切り捨てられるはずの問題を、救い上げて、解決する事ができる。ここは、そういう場所だ。僕にとって、どんなに望んでも手に入らなかった安息が、ここでは得られるのだ。
まだ、サポート校の地位は不確である。それはそうだろう。僕だって、もし、不登校にならなかったとしたら、普通の高校へ進学して、美大を目指していただろう。何だかんだ行ったとて、所詮まだまだレールから逸脱した人間には厳しい社会。これを生き抜くのなら、余分な遠回りをするより、近道を歩いたほうが安全に決まっている。…まぁ、それができなかった上での選択というのであれば、僕はこの学校を選んで後悔していない。だからこそ、自分の足でしっかりと立ってゆける人間にならなくては。そんな事を、いつも思う。
「ヒロミはさ、今、幸せ?」
「…は?」
文香の唐突な問いに、ついつい素っ頓狂な声を上げてしまう。
「な、なななななんなんで?」
我ながら動揺ぶりが恥ずかしい。大分なおってきたはずだったのに、僕は緊張すると、未だにとてつもなくドモる。
「ん…ごめん。ちょっと聞いてみたくなっただけ。嫌だったら忘れて。」
「…普通。」
「――普通?」
「最悪からは脱したけど、先が見えているわけじゃないから。不安は尽きないけど、失いたくない日常があるから。…だから、普通。」
「それって、言葉だけ聞いていると、すごく幸せそう。」
「実際に体験してみると、幸せの実感って離散するから。」
「言えてるー。」
公園を通り過ぎて、味気ない大通りに入る。まだ日が高いせいか、あまり人がいない。
「・・・文ちゃんは、幸せなの?」
彼女は一呼吸置いて。
「うん。大切な友達がいて、好きな事も、小さい事ながら認めてもらえていて。嬉しいよ。」
…心中に薄もやがかるような、嫌な気分。まただ。彼女を、応援しなくてはならない場面なのに。胸の底からわきあがる本音を直視できていなくて、蓋をする。この蓋にも限界はあるし、いつ壊れてしまうかはわからない。けれど、僕はバカの一つ覚えのように蓋をする。
「生きててよかったって、思う。」
「そっか。」
きっと、僕自身が将来に対する結果を出せていないから、こんな最低な気持ちになるのだろう。――僕も、やるしか、ないんだ。
「一緒にガンバロ、ヒロミ!」
―――こんな所でも、なんでもお見通しなんだな。
僕は文ちゃんの隣で、本日2度目の苦笑をした。
こんな日常が、いつまでも続けばいい。ずっとずっと、続けばいい。

