この夏、心をざわつかせることが相次ぎました。

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ひとつは、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展」での一部の展示が「反日」だといって大阪維新の会の施政者と、名古屋市長によって横やりが入り、「表現の不自由展」が開幕3日で中止に追い込まれたことでした。(美術手帖の記事→こちら




その前の7月18日に起きた京都アニメーションへの理不尽なテロ事件(wikipedia記事→こちら)の卑劣なやり方、つまりガソリン缶を持って襲いに行きますよという脅迫Faxに屈する形で、中止が決まりました。これに関しては、日本国憲法第21条に定める表現の自由(条文:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。)を侵すものではないかと、日本ペンクラブをはじめ、多くの表現者が異を唱えています。(日本ペンクラブの声明について伝える新聞記事→こちら


韓国の従軍慰安婦の問題は、戦後74年経っても、なかなか根が深い問題なんだと感じます。名古屋市の川村市長が「どう考えても日本人、国民の心を踏みにじる行為。即刻中止していただきたい」と申し入れたことばの主語が「日本人」「国民」となっていることにも疑問を覚えます。

川村市長が訴えているのはいわゆるネトウヨ系の「一部の日本人」「一部の国民」であって、これが日本人の総意であるかというのは、違うと思うのです。というのも、私はまったく踏みにじられたとは感じていない。むしろ女性として、過去にどういう経緯であれ、戦争中に弱い立場で性的搾取された方々が事実いたことは、紛れもない真実であり、ここ何年か続いている#MeToo運動にもつながる問題で、看過できないのです。


私の母は、大正15年生れ。終戦の年は19歳でした。もしかすると、母がその時代、そうした性的搾取される側にいてもおかしくなかったのかもしれません。


たまたま母は、裕福な家庭で幼少期を過ごしました。母の父親は、母が小学校に上がるころに病死していますが、大阪船場の繊維商として財を成していたため、遺産が遺されたそうです。大阪の家を畳んで生まれ故郷の岐阜に戻っても、祖母は一度も仕事をすることなく5人の子ども(一男四女)をそれぞれ高等女学校、中学校を卒業させていました。

しかも住み込みの家政婦が2人いて、子どもたちの世話をしていたそうです。大きな二階家で庭にはブランコがあって、そこで遊んでいたことなど、母からだけでなくおば達からも聞いていました。


母は、女学校在学中に第二次世界大戦が始まると、学徒動員で軍需工場で働き、卒業後も能力が買われて、そのままそこで事務の仕事をしていたと聞いています。その後、岐阜は1945年7月に空襲に遭いますが、姐やと一緒に防空頭巾をかぶって降りかかる火の粉の中を逃げたこと、長良川を渡って振り返ったら、思い出の家が火に包まれていたとも聞きました。


いつも母は言っていました。もしも、父親に遺産がなく、貧しいまま母子6人放り出されていたら、あの時代、女の子は身売りするしかなかったかもと。それくらい紙一重だったと、言うのです。


私の父は、母の3歳年上ですから、終戦時は22歳でした。
父は、応召直前に事故に遭ったため、兵役につかずに終戦当時は、関釜連絡船の乗組員でした。その父は、満州国や朝鮮半島から強制的に徴用される人々を積んでくるのを、乗組員として目撃しています。


また、父の実家があった岡山県には耐火レンガ工場があり、そこでは徴用された朝鮮出身の人々が貧しいバラック小屋で生活していたことも覚えていました。奴隷のように扱われていたことも、父から聞いています。そんな父は、その当時の、身分の低い女性がどのように扱われていたかも、何度か話してくれていました。



戦時中に性的搾取された少女たちについて、私はこれまでふたつの記事を書いています。

ひとつは2012年10月18日の「Because I am a Girl. 国際ガールズデーに思う・・・」、そしてもうひとつは2018年5月30日の「のまりんの紙芝居劇場と、『花ばあば』のこと」です。


この慰安婦については、さまざまな意見が飛び交い、まるで無かったかのように言う人もいれば、韓国もその後のベトナム戦争では現地の女性に対して同じような性的搾取をしていたから、日本だけを責めるのはおかしいと言う人もいます。


あるいは、あれは民間人がやったことだ、女性たちは売春することでお金を得ていたからと、言い逃れする人たちもいます。でも、この記事を読めば(→こちら)やはり強制的に連れ去られた女性たちがいたことが判明しています。

朝日新聞が報じた従軍慰安婦問題での吉田証言に齟齬があったとした謝罪のあと、ネトウヨ側は軍部が関与していなかった、捏造だとしたのですが、中曽根元総理が「土人女を集めて慰安所を開設」と記した文書がみつかり、やはり軍が関与していたこともわかってきています。


また、「平和の碑」という正式名称があるあの少女像の制作秘話を知ると、単に日本軍の蛮行を糾弾するだけのものではないということがわかります。(→こちら「少女像はどのようにつくられたのか」)


椅子に座る少女は、まだあどけなさの残る14歳前後だと言われています。そしてその隣に必ずだれも座ってない椅子が置いてある。

少女像には影がついていて、影は少女ではなく腰の曲がった老女の姿になっているのです。


この少女像は、戦争という蛮行によって奪い去られた女の子の青春を、そして心身とも傷つけられた女性たちのその後の辛い人生を象徴しています。


vlcsnap-2019-08-05-17h41m29s888-600x338あの椅子に座っていたのは、私の母だったかもしれない・・・私たちは自分の生まれる国も、時代も選べません。たまたま母が生まれたのが日本だったから、母は慰安婦にはならなかった。たまたま母は、家庭が裕福だったから、身を売る必要もなかった。


でも、紙一重で、母もあの時代に生きたほかの女性たちと同じように、性的搾取の対象になっていたかもしれない・・・そう思うと、やはり他人事で済ませてはいけないと思うのです。


慰安婦問題については、さまざまな研究が行われていて、無かったわけではないということが判明しています。こちらの記事サイゾーウーマン「今さら聞けない慰安婦問題」は、とてもわかりやすく解説してくれています。ぜひこちらの記事も読んでほしいと思うのです。


慰安婦問題は、ひとたび戦争が起きると犠牲になるのは女性や子どもたちであることをあぶりだしています。第二次世界大戦以降の各地の紛争、内戦でも、女性が拉致され、凌辱され、支配される事例が今も起き続けています。

戦いに駆り出される男性も、もちろん極限状態に置かれ、理性が働かなくなる。どちらも不幸というしかない状況になるのです。では、そもそも戦争を起こさないようにするにはどうしたらよいのだろう?平和な世界を求めることは無意味なのか?それを考えるきっかけになるのではと思うのです。

(このブログをUPしたあとで公開された、兵士もまた追い込まれていたとする、サイゾーウーマンの続報、これも良い記事です。→「なぜ兵士は慰安所に並んだのか、なぜ男性は「慰安婦問題」に過剰反応をするのかー戦前から現代まで男性を縛る“有害な男らしさ”」)


今回のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展」は、その名称の通り、すでにその他の場所で展示が出来なかったり、中止に追い込まれた作品を集めたものでした。


準備段階での、主催者側の不備や、奢りがなかったわけではないでしょう。でも、「表現の不自由展」で、なぜそれが展示できなかったのか、議論を巻き起こしたかったという視点は、悪くないと思います。「国民の心を踏みにじられた」という名古屋市の川村市長は、なぜそう思ったのか、頭ごなしではなく、きちんと対話すべきだったと思います。


ヒステリックに中止を申し入れたのは、逆に脛に傷をもっているからではないか。つまり、東南アジアに買春ツアーに出かけて行くような下衆な感覚をもっているオヤジだったからこそ、自分たちがそういう人間だと突き付けられたことが悔しかったのではないかと思うのです。


女性を男性よりも一段下に見ているからこその、怒りのように感じました。


女性の人権、それは敵味方関係なく、ひとりひとりの人権を尊重する立場であれば、あの少女像を見てさまざまな想いを感じる時間を持つことは、決して悪いことではないのです。


そういえば、LA郊外のグレンデール市にも「少女像」が設置されています。夫が住んでいたパサデナから車で30分、よく行くショッピングセンターのすぐ隣の公園です。この像があるからといって、日本人が糾弾されているというよりも、この像を通して私たちは過去をどのように清算するべきなのか前向きに考えるきっかけになるのではと思うのです。



どこの国籍であっても、どんな家庭に生まれても、無理やり性奴隷にされてしまうような悲劇があってはならないと思うのです。なぜそういうことになってしまうのか、女性だけでなく、子どもも含めて、基本的人権が著しく制限される戦争そのものを回避するにはどうしたらよいか、前向きに議論する契機になればいいのにと思います。


私の中学時代の親友は在日韓国人でした。彼女がいわれなき差別にあっているのを一緒に感じていました。彼女と仲良くすることで、私までいじめの対象になってしまったからです。


子どもたちの友人にも、海外生活の中で出合った韓国人がたくさんいます。去年、今年と我が家にその韓国人の友人たちがホームステイしていました。うちで一緒に食事をしたりしながら、お互いの国のかつての戦争について、あるいは今の政治について話題になったりしますが、基本的には個人間の友情は変わらないということです。



だれかを糾弾するのではなく、ひとりひとりが、あの少女は自分の祖母だったかもしれない、いやもしかすると自分自身だったかもしれない、未来の私の孫娘かもしれない・・・そう想像してみるといいのです。



そこから、初めて対話が生まれると思うのです・・・「表現の不自由展」はそれを生み出す場になったかもしれないのです。

なので、中止を取りやめにする署名活動に参加しました。(→こちら

サイゾーウーマンが、良記事を連発しています。こちらもブログを書いたあとにみつけました。参考までに→「平和の少女像」を考える」
→「戦地であったがゆえの凄惨な性暴力