「一緒に死んでくれるの?」
「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」
「冷たいのね」
「昼飯をご馳走してもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」
◯
「交渉するなら、今ですよ」
「じゃあ、3000円払うからプーチンを止めてくれないか?」
◯
「あなたは一体何を抱えこんでいるの?」
「たいしたことじゃないよ」
「いつも嫌な夢を見るの?」
「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけどね」
「きっとあまりしゃべりたくないのね?」
「きっとうまくしゃべれないことなんだ」
「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない?」
「わからないな」
◯
「子供は作らないの?もうそろそろ作ってもいい年だろう?」
「欲しくないんだ」
「そう?」
「だって僕みたいな子供が産まれたら、きっとどうしていいかわかんないと思うよ」
「あんたは先に先にと考えすぎるんだ」
「いや、そういう問題じゃないんだ。つまりね、生命を生み出すのが本当に正しいことなのかどうか、それがよくわからないってことさ。子供達が成長し、世代が交代する。それでどうなる?もっと山が切り崩されてもっと海が埋め立てられる。もっとスピードの出る車が発明されて、もっと多くの猫が轢き殺される。それだけのことじゃないか」
「それは物事の暗い面だよ。良いことだって起きているし、良い人だっているさ」
「三つずつ例を挙げてくれれば信じてもいいよ」
「でもそれを判断するのはあんたたちの子供の世代であって、あんたじゃない。あんたたちの世代は……」
「もう終わったんだね?」
「ある意味ではね」
◯
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
◯
「ポロリさんって、笑ったら目元が高橋一生にすごく似てるって言われません?」
「高橋二世って呼んでもらって大丈夫ですよ」
◯
「そのあとのことを話すのはとても辛い。この辛さはどんな風にしゃべっても君にわかってもらえないんじゃないかと思う。できれば君の方から質問してくれないか?君にももうだいたいのところはわかっているんだろう?」
「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」
◯
「最初に君に会ったときから、僕はこう感じているんだ。君はなにかを強く求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとしているって。君にはそう思わせるところがある」
「求めるって、どんなものを?」
「さあ、どんなものだろう。僕にはわからない。ただの印象をただの印象として述べているだけだ」
◯
「人間の意識って、『顕在意識』と『潜在意識』の二種類に別れているらしいんですよ」
「どこかで聞いたことがある」
「その二つのうち、大事なのは『潜在意識』の方なんです、その本によれば。
例えば、その人にとって不利益になるような出来事に運悪く遭遇したとするじゃないですか。
それって実はその人の潜在意識がそうなることを望んだ結果だったりするらしいんですよ」
「そうかもしれない」
◯
「君はいなくなったけど、君はいつもそこにいた」
◯
「手に入らないものって、欲しくなりませんか?」
「あるいは、欲しくなるから、手に入らないのかもしれない」
「そういうものかな?」
「言い方を変えれば、手に入れようと思えば大抵のものは手に入るのに、本当に欲しいものが手に入らない」
「ポロリさんが本当に欲しいものってなんですか?」
「これ以上失えないほどの喪失感」
◯
「永遠の苦痛を心配するよりも、確実な虚無を信じた方が気が楽だわ」
◯
「僕は昔からいつも自分を、色彩とか個性に欠けた空っぽな人間みたいに感じてきた。それがあるいは、あのグループの中での僕の役割だったのかもしれないな。空っぽであることが」
「よくわからないな。空っぽである事がどんな役割になるんだ?」
「空っぽの容器。無色の背景。これという欠点もなく、とくに秀でたところもない。そういう存在がグループには必要だったのかもしれない」
「いや、おまえは空っぽなんかじゃないよ。誰もそんな風に思っちゃいない。おまえは、なんと言えばいいんだろう、他のみんなの心を落ち着けてくれていた」
「みんなの心を落ち着けていた?エレベーターの中で鳴っている音楽みたいに?」
「いや、そういうんじゃない。説明しづらいんだが、でもおまえがそこにいるだけで、おれたちはうまく自然におれたちでいられるようなところがあったんだ。おまえは多くをしゃべらなかったが、地面にきちんと両足をつけて生きていたし、それがグループに静かな安定感みたいなものを与えていた。船の碇のように。おまえがいなくなって、そのことが改めて実感できた。おれたちにはやはりおまえという存在がひとつ必要だったんだって」
◯
「でも不思議なものだね」
「何が?」
「あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」
◯
「死ぬ前に言い残す事はあるか?」
「………できれば4月13日まで生きたい」
「なぜだ?」
「その日、村上春樹の新作が発売する」
「………」
「………」
「おれも全作読んでる」
◯
秋が終り冷たい風が吹くようになると、彼女は時々僕の腕に体を寄せた。
ダッフル・コートの厚い布地をとおして彼女の息づかいを感じとる事ができた。
でも、それだけだった。
闇の中に消えてゆく螢、心の中に焼け落ちる納屋。
君の言葉、僕の心、そして歳月。
リリシズムとユーモアの交錯する青春の出逢い。
それはメンズエステにおいてのみ起こりうる、かもしれない。
◯
きみがぼくにそのメンズエステを教えてくれた。
ポロリの挑戦シリーズ
第6弾
限りなく村上春樹に近いメンズエステ
「人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う」と女は言った。
おれは何かを言わなくてはと思ったが、言葉が出てこなくて、小さく悲しい咳をした。
1 風の歌を聴け

「完璧なメンズエステなどといったものは存在しない。完璧な文章が存在しないようにね。」
僕がブログを書き始めたころ偶然に知り合ったあるエロブロガーは僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧なメンズエステなんて存在しない、と。
☆
僕は文章についての多くを「もるだの塔」のもるだに学んだ。殆んど全部、というべきかもしれない。不幸なことにもるだ自身は全ての意味で不毛な書き手であった。読めばわかる。ホームページは見辛く、更新頻度は不規則であり、情報は不確かだった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な書き手の一人でもあった。イケダハヤト、はあちゅう、そういった時代を牽引したブロガーに伍しても、もるだのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う。ただ残念なことに彼もるだ、には最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であるということはそういったものなのだ。
☆
この話は2022年の10月14日の午後1時に始まり、4時間半後、つまり同じ日の午後5時半に終る。
☆
その日、僕は有給をとって神戸の街へ出かけていた。鮮やかな秋の気配がすでに訪れ、外に出ても暑さを感じなかった。JR元町駅で電車を降り、南へ3分ぐらい歩くと雑居ビルの地下一階にジャズ喫茶がある。神戸に来た時は、よほど時間が切迫していない限り、僕はこの薄暗いジャズ喫茶を訪れることにしている。別に気に入っているわけじゃない。ちょっとした見栄を張るためにすぎない。
僕は大音量でジャズが流れる店に足を踏み入れ、いつもと同じ「会話禁止」と書かれたエリアの壁際の席に座り、椅子に背を預けて店の中を見渡してみた。これと言って特徴のない暇そうなオッサンと、スピーカーの真ん前に陣取る紳士風の老人。それだけだった。物語が起きそうな気配はない。
僕はブレンドコーヒーとホットドッグを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。メンズエステの女たちがあるていど出勤し始める14時過ぎまで、ここで過ごすつもりだった。読んでいるのは小川洋子の「人質の朗読会」。彼女の小説はいつも僕を物語の世界へと連れて行ってくれた。ジャズミュージック、コーヒーとホットドッグ、そして人質の朗読会。悪くない、と僕は思う。
☆
1時間ほどが経ち、僕は椅子から立ち上がり、代金を支払う。1000円ちょうどだった。ジャズ喫茶をあとにして、晴れた神戸の街を東へとゆっくりと歩く。センター街でジュンク堂書店に立ち寄って、本を数冊買う。書店を出て、さらに三宮駅方面へと歩く。「ミント神戸」に入り、エスカレーターに乗ってタワーレコードへ。数日前にラジオでたまたま知ったバンドのアルバムを購入する。
一通り買い物を済ませ、鞄が少し重くなったところでようやくメンズエステに行こうという気になった。アイフォンで目星をつけていた店に電話をかける。
「はい、ミセステノールです。」と電話に出た店員が言う。
「あ、すいません、今、三宮にいるんですけど、このあと利用ってできますか?」と僕は言う。
まったく問題のない応対をする店員がこの後の予約を取り付けてくれた。三宮駅から徒歩で5分ほどのところにあるマンションに行けばいいらしい。スムーズなやり取りを終え、電話が切れる。
今回選んだ店は、20代半ばから40歳ぐらいまでの、比較的高い年齢層の女を揃えた店だ。若い女の施術によるヴィヴィッドで鮮烈な喜びより、年を重ねた女による複雑で洗練された深い喜びをどこかで僕は求めていた。「ミセステノール」。ジャズっぽい響きもある名前だ。悪くない。
すぐに店からマンションの住所がショートメールで送られてきた。Googleマップを見て大体の位置をつかんでから、そのマンションに向かう。
引き続きアイフォンを操作し、サファリを起動する。メンズエステ店のホームページで公開している本日の出勤情報を確認すると、「今すぐ案内可能」だった3名のうち、一番若い金髪ギャルの25歳が「120分後空き」に変わった。おそらくこの女がマンションで僕を待っている。
☆
僕は36歳になる。中年と言うには早すぎるかもしれないが、以前ほど若くはない。僕はこれまでに3人のブログ読者の女の子と実際に会った。
最初の女の子はシャネルのワンピースを着た明らかに金持ちそうな人だった。阪急百貨店の入口で待ち合わせて、綺麗な景色が見えるカフェ&バーでとりとめのない会話をしたあと、街をブラブラして別れた。
僕たちはその日以降もラインでやり取りをしたけど、いつの間にか連絡は途絶えた。
二人目の相手は環状線の福島駅で会ったものすごく地味な顔の人だった。彼女が着ていた象のようにデカいダウンジャケットがゲロみたいな色をしていたのが印象的だった。食事をしてすぐに帰った。
三人目の相手は地方在住のOLで、彼女が大阪に遊びに来た際に会ってセックスした。全身という全身が性感帯で、どこに触れてもすさまじく敏感な反応を示した。会って数年後、彼女が交通事故に遭い、生死をさまよっているのを知った僕は新幹線に乗って彼女の住む街までお見舞いに行った。入院中の病院に行くと、笑うことも出来ないぐらい激しく体が損傷した彼女がベッドに横たわっていた。彼女に似合いそうなお見舞いの花を置いて帰った。その後、時間はかかったものの、無事に回復したようだった。
3人とも、二度と会うことはないと思う。それどころか、僕のくだらないブログなんかとっくに読まなくなっているだろうし、僕のことを覚えてすらいないと思う。人生とはそういうものだ。そうこうしているうちに僕は37歳になり、順調にいけば次の年に38歳になる。
☆
ぴったし5分歩くと指定されたマンションにたどり着いた。やや老朽化が目立つ建物だった。エントランスで再度店に電話をする。先程の店員から部屋番号を告げられ、オートロックに入力する。愛想のいい声が機械から発せられ、解錠される。エレベーターに乗る。
部屋のベルを押す。ドアが開き、女が現れる。パネルから想像していたのは強い顔立ちのギャルだったが、実際に現れたのは童顔のカワイイ系の色白の女だった。25歳と表示されていたが、20歳でも通用しそうなあどけなさがあった。女は髪の毛の色が金髪の部分と青の部分と赤の部分の3つに分かれていた。その配色は財政が破綻しかけたヨーロッパの国の国旗みたいだった。
黒いワンピースを着た女に、最低限の好意と敬意を表して迎え入れられる。部屋の中へ。
ローテーブルの前の座椅子に座り、紙コップに入ったお茶をいただく。
まずは料金を支払う。90分13000円だ。すると、もう1000円払うと「衣装チェンジ」のオプションが付けられ、そばにあるハンガーラックにぶら下がった白いキャミワンピに着替えてくるのだと女は言う。そのワンピースに着替えたからといって、何が起こるわけでもないのは明らかだったが、僕は14000円を女に支払った。
支払い済ませ、シャワーを浴び、紙パンツを履いて部屋に戻ると女は白いキャミワンピに着替えていた。
うつ伏せに寝転がり、なごやかな雰囲気でマッサージが始まる。全身への指圧→足元からのオイルマッサージという典型的な流れだった。女の体の触れ方に、何ともいえないセンスを僕は感じた。
女と雑談しながらマッサージは進んだ。女は前は別のメンズエステで働いていたが、この店に移籍して今日が10回目ぐらいの出勤だと言う。それに対して僕も自分のメンズエステの利用歴を適当に述べる。
天真爛漫な感じの女は喋りやすくて、会話をしていて楽しかった。しかし、もっとごくあたり前の状況でめぐりあえたとしたら、僕たちは少しも楽しい時間を過ごせなかったと思う。そんな気がした。いずれにせよ、ごくあたり前の状況で女の子にめぐりあうというのがどういうことなのか、僕にはまるで思い出せなかった。
「お尻、めちゃくちゃ綺麗ですね。」女は僕の大臀筋辺りを揉みながら感心したように言う。
「普通とか、平均がどう言うものかわからないけど、ありがとう。」と僕は言う。
カエル足と呼ばれる体勢に移行し、太ももや鼠蹊部が揉まれる。女は紙パンツからはみ出しかけている僕の睾丸には何があっても触れないコースでストロークをした。その代わり、ところどころで挟まれるフェザータッチが効果的で、それなりの快感を僕は感じた。そのフェザータッチが女の最大の武器のようだった。
次に四つん這いの体勢になる。お尻や鼠蹊部に女からのアプローチがかかる。この体勢でも女は通常のタッチとフェザータッチを交互に繰り出した。
再度うつ伏せになり、背中や肩を揉んでもらう。その際も通常タッチ→フェザータッチ、のコンボは繰り出された。というか、最後まで一貫してそのやり方だった。ストレートとカーブしか投げられないピッチャーみたいだった。
仰向けになる。白いワンピース姿の女が微笑んでいた。女はそんなに美人なわけではないが、白いワンピースの胸元から覗く形のいい美巨乳が見応えがあった。
女は僕の太ももや腕、そして鼠蹊部を先ほどから延々と繰り返されるコンボでタッチする。流石に同じパターンすぎてすでに飽きていたが、あるがままに女の施術を受け入れた。
そうこうしているうちにタイムアップのタイマーが鳴る。マッサージが終了する。
☆
シャワーを浴びて、服を着て部屋に戻ると新しいお茶が提供された。それを一口で飲んだところで、お別れとなる。玄関で女に見送られる。
ドアを開けると外の光が入ってきて、女の髪の毛の金と赤と青を綺麗に照らした。僕は女とお礼とお別れの言葉を交わして、ドアを閉める。マンションを出て、僕は不思議なくらい鮮明な夕暮の中、意味不明な建物が立ち並ぶ静かな三宮の街を南へとゆっくりと歩いた。
歩いていると、僕が36年間抱き続けたメンズエステへの憧憬はまるで舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。
2 1973年のピンボール
見知らぬメンズエステの女の話を聞くのが病的に好きだった。
彼女たちはマッサージの手を止めることなく実に様々な話を語り、そして語り終えると一様にその余韻を残したまま沈黙する。あるものは気持ちよさそうにしゃべり、あるものは腹を立てながら喋った。実に要領良くしゃべってくれるものもいれば、始めから終りまでさっぱりわけのわからぬといった話もあった。退屈な話があり、涙を誘うもの哀しい話があり、冗談半分の出鱈目があった。それでも僕は能力の許す限り真剣に、彼女たちの話に耳を傾けた。そうすると、近いようでどこまでも遠くにいる、そして永遠に交わることもないであろう人間の生のゆるやな、そして確かなうねりを感じることができる。
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これは「僕」の話であるとともにポロリと呼ばれる男の話でもある。
2022年11月下旬、この記事はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。
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その日は神戸で仕事があった。かなり精神的な負担の大きい業務内容だった。出口の見えない案件を僕たちは抱えていた。その案件の致命的な問題点の解決の糸口が見つからないまま、退勤となった。
そのままの気分で大阪に帰るのがためらわれた。なので僕は近くのメンズエステを利用することにした。アイフォンでめぼしい店を検索する。その時点で出勤しているセラピストのラインナップが一番よさそうだったのが「パームプリンセス」という店だった。なかなかお洒落な名前だ。
ホームページ上に記載されていた電話番号をタップする。電話に出た受付は女性だった。90分で利用したい旨を僕は伝える。すると受付は13000円のコースか18000円のコースのどちらかを選択できると言う。無論、18000円のほうがいいサービスを受けられるはずだ。18000円の方を選択する。
電話を切る。すぐにショートメールが送られてくる。利用するマンションの名前と住所が記載されていた。現在地からすぐのところだ。そちらへ向かう。
果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。出口の見えない案件の状況が好転するわけではないが、とりあえず今日はこの後のひとときを楽しもう、と僕は思った。
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入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えばメンズエステ。
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「女の子が今、準備してますので、19時15分になりましたら〇〇号室でお願いします」
マンションの前で再度店に電話をしたら、先程の受付の女はそう言った。電話を切ってアイフォンの画面を見ると19時8分だった。特に見所のない住宅エリアの中、ツイッターやインスタグラムを閲覧して少し待つ。19時16分に僕は受付が言った部屋番号をオートロックに入力する。するとあっさりとした声が機械から聞こえてきた。解錠される。
エレベーターに乗り、部屋へ。この、オートロックからエレベーターに乗って部屋に向かう時は、付き合って半年ぐらい経つガールフレンドの家を訪ねる時の気分に通じるものがある。
インターフォンを押すとドアが開き、癒し系のルックスの柔らかな空気感の女が現れる。顔の造作は控えめでスッキリしているが、首から下はそこそこ豊かな肉付きをしていた。僕は女と曖昧な挨拶を交わす。
部屋の中に案内される。後ろを向いた女の姿を眺めると、丈が短くて生地の薄い白いワンピースの下にショッキングピンクのTバックが思いっきり透けていた。なかなかの格好だ。
テーブルの前にある大きな椅子に座る。お茶を頂き、料金を支払う段階で、例によってオプションをやんわりとすすめられる。僕はなんとなく「衣装チェンジ」を選択した。ちょっと地味目な顔をした女の衣装が今のスケスケワンピース以上にエッチなものにグレードアップするのを見てみたかった。利用料金は総額20000円になった。デリヘルや店舗型ヘルスで全裸の女の子にフェラや素股をしてもらって射精できる金額だ。この金額で、女の子が脱ぎもせず舐めもせず、こちらからタッチもできず、射精も基本的には禁止されているメンズエステを利用するのだ。最高に贅沢な金の使い方だと僕は思う。
僕は1万円札を2枚財布から取り出し、女に渡す。そしてお決まりの「誓約書」にサインをして、シャワーへと移動する。
シャワーを浴びて、紙パンツを履いてバスタオルを腰に巻いて洗面所を出ると、部屋の電気は消され、淡い間接照明だけになっていた。
2000円を費やして達成された女の衣装チェンジはというと、エメラルド色をしたキャミワンピに変わっていた。さっきは部屋に電気がついていた関係もあって、透け感の差はいまいちわからなかった。でも、最初の白いワンピースで全然よかった。むしろそっちの方がよかった。
うつぶせから施術が始まる。
マッサージが始まって数秒で、女の手つきが完全にド素人のものだというのが伝わってきた。メンズエステを何回も利用するうちに、そのあたりはすぐに分かるようになる。僕の経験上、ある水準を超えたメンズエステの女は、その手を用いて「対話」をする。こちらの肉体が無意識に発信しているメッセージに耳を澄ませ、ささやきかけるような施術をする女が確かに一定数、存在するのだ。しかし今回の女の触れかたはあくまでも一方通行だった。サーブだけ打って終わりで、ラリーのないタッチを女は施した。そんな稚拙で単調なストロークを僕は享受する。
マッサージの間も会話は続いた。誰と話す時でもそうなのだろうか、女はゆっくりと、そして正確な言葉を捜しながらしゃべった。その淡々としたペースは最初から最後まで崩れることはなかった。呼吸を乱さずに一定の速度で走り続けるマラソンランナーのように。
話題は互いの仕事の話から始まり、女の身の上話に移行する。
女は今年の夏に「新型コロナウイルス」に感染したらしい。その頃、女は飲食店のバイトと夜職を掛け持ちしていて感染のリスクが比較的高かったため、やむなしといった感じだったが、後遺症が強く出てしまい、相当苦しんだのだと言う。感染してから3ヶ月以上が経った今はだいぶ落ち着いているものの、在籍していた職場の全てに出勤できなくなってしまい、結局辞めることになってしまった。
今はとりあえずつなぎでこのメンズエステと、単発の派遣の仕事をたまにやって生計を立てている状態である。以上の内容を女は抑揚の少ない声で語った。
僕は女の話に対して、高価なワイングラスの水気を拭き取るような相槌をうち続けた。すると女は問わず語りでさらに自分の過去について話した。女は短大を卒業したあとに就いた正社員の仕事での人間関係をはじめとして、家族関係、恋愛関係でうまくいかなくて精神を病んだ。心療内科にかかったところ、自律神経失調症の診断がつき、結局仕事を辞め、彼氏と別れ、家族とも距離を置いてフリーター生活を始めたと言う。
女が体験した派遣のバイトでの特に盛り上がりのないエピソードを丁寧に説明されているうちに時間は過ぎていった。途切れることなく穏やかに語り続ける女の淡々とした口調に、どうしようもない悲しみが内包されているのに僕は気づいていた。その悲しみは女が先天的に携えている要素なのか、女が人生を歩む上で付き合うことになった困窮や抑鬱によるものなのかは分からない。いずれにせよ、僕は女が抱える女なりの小さな世界が嫌いではなかった。
足元からお尻、背中へとまずまずのテンポで施術は進行していく。女の単調な手は、僕の敏感な部分から必ず一定の距離をとるように動いた。カエル足→四つん這いという定番の体勢を経て、女の膝の上に乗っかるようなポジションで背後から腹部をサワサワされる。女の手つきが今一つな上に、こちらの敏感な部分への接近が一切なかったので特に満足感を得られることはなかった。
女に促されて仰向けになる。女は僕の太もも付近のなんとも言えない部分をさするようにマッサージする。女の手技の均質さはここに来ても失われることはなかった。女のつぶらな瞳を見つめながら、相変わらず大して面白みのない雑談を継続させる。
タイマーが鳴る。体感的に終了ではなく、「あと数分で終了」を予告するタイマーだと思われる。飛田新地の1回目のチャイムがなった時のあれだ。学校で言うところの「予鈴」みたいなものだ。
女の口調と手技が淡々としすぎているせいで、この後もう一山あるのか、締めくくりムードになっているのかちょっと分からなかった。停滞した空気が流れる。
「どこが一番気持ちよかったですか?」と女が言う。どうして過去形で言うんだ、と僕は思った。
どこも全然気持ちよくなかったわボケ、と言いたくなるのをこらえて「全部」と僕は雑に答える。
「上?下?」と女はなおも問いかける。
「上」と僕は適当に言う。
質問が過去形だったのにも関わらず、無意味な手の動きは止まらなかった。駐車したのにエンジンを切り忘れた車のように。この中途半端な感じのまま、最終のタイマーが鳴るまで過ごすんだろうな、と僕は思った。
すると、唐突に女の顔が僕の眼前に接近した。
それに呼応するように、僕の指先が女のTバックに素早く接近する。そして。
そして。
続きは有料です。
🌲
「続きは有料です」と書かれたブログの下書きを目にして、2023年12月のポロリはため息をついた。
ポロリはいつも女の子と別れた帰り道に、その日の出来事を全てを殴り書きして下書きの形で保存するようにしていた。天気や街の雰囲気から始まり、女の外見や性格や、行為の流れや印象的な会話や駆け引きなどを書き尽くしておく。そして実際に記事を書く際、その下書きを整理して文章の形にして、全体的に肉付けをして推敲して記事を完成させるのだ。それがポロリの2020年代におけるブログの執筆スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、ポロリが固めた。
しかし、今回の下書きの肝心な部分は、2022年11月のポロリによって「続きは有料です」とボカされていた。読者向けにこのネタを使おうとしたのだろう。しかしそのせいで、実際に最終的に女とどのような行為に及んだのか、分からなくなってしまった。残念なことに記憶にも全く残っていない。キスをしたかもしれないし、手マンしたかもしれないし、手コキをしてくれたのかもしれないし、全てを拒絶されたのかもしれない。
いずれにせよ、最もポロリの記憶に強く刻まれているのは、女に漂う、強まったり弱まったりすることのない、安定した穏やかな虚無感だった。
2023年12月のポロリはこの記事を梅田の純喫茶で書いている。最近の趣味のレトロ喫茶めぐりを兼ねてだった。店の名前は「喫茶サンシャイン」。
この喫茶店の創業は、1973年だった。
🌲
で、タイマーが鳴った。今度こそ施術終了を意味するタイマーだ。「続き」を続けたかったけど、流石に粘りすぎてはいけないと思い、密着した女から身を離す。女の方も息は荒いままながらも、「続き」をしたいのかしたくないのかよく分からない態度だった。ただ、こちらのアプローチに対してはしっかりとヌルヌルっとした反応なのは間違いなかった。
曖昧な雰囲気のまま、終了となる。浴室に移動し、シャワーを浴びる。
部屋に戻ると電気がついていた。オイルまみれのエメラルド色のキャミワンピを着た女が柔らかに微笑みながら待っていた。
女は12月から正社員で働くことが決まっていて、このメンズエステ店はあと数週間で辞めてしまうのだと言う。僕は女がその正社員の仕事もすぐに辞めるだろうと想像した。
「じゃあ、辞めるまでに、行けたらまた行っていい?」と僕は言う。女は快く了承する。
「ツイッターって、やってます?」と女は言う。
「やってない」
「じゃあ、ライン、やってますか?」
「やってる」
ラインを交換する。互いに適当なスタンプを1つずつ送信し合う。
玄関に移動する。もう一度女と「続き」を少しだけした。
「またどこかで会おう」と僕は言う。
「またどこかで」と女は言う。
ドアを開け、女と別れる。この玄関のドアが今日の入口でもあり出口でもあった。しかしメンズエステ自体に出口はなかった。
僕は一人駅までの道を歩き、秋の夜の光が溢れる火曜日の神戸の街を眺めた。何もかもが死に絶えてしまいそうなほどの11月の静かな火曜日だった。
3 羊をめぐる冒険
二〇二三年八月十二日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。
それは「羊をめぐる冒険」みたいな、うさぎをめぐる冒険だった。

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「ねえ、あと十分ばかりで大事な電話がかかってくるわよ」
「電話?」僕はベッドの脇の黒い電話機に目をやった。
「そう、電話のベルが鳴るの」
「わかるの?」
「わかるの」
「うさぎのことよ」と彼女は言った。「たくさんのうさぎと一羽のうさぎ」
「うさぎ?」
「うん」と言って彼女は半分ほど吸った煙草を僕に渡した。「そして冒険が始まるの」
少し後で枕元の電話が鳴った。僕は四回ベルを鳴らしておいてから受話器を取った。
「すぐこちらに来てくれないか」と僕の相棒が言った。ぴりぴりとした声だった。「とても大事な話なんだ」
「どの程度に大事なんだ?」
「来ればわかるよ」と彼は言った。
「どうせうさぎの話だろう」
「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてうさぎをめぐる冒険が始まった。
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梅田に着いたのは15時過ぎだった。地下鉄の改札を抜けて歩きながらメンズエステに電話をする。店の名前は「うさぎのお部屋」。適当に検索して見つけた店だ。他のメンズエステ店とは一線を画すメルヘンなホームページの作りと、在籍女性の顔写真が全てアニメチックに加工したものである点に、店側のコンセプチュアルな姿勢を感じたので利用しようと思い立った。
電話に出たのは不貞腐れたような口調の愛想のない店員だった。全然「うさぎのお部屋」っぽくないテンションだ。彼は声が異様に小さくて滑舌が悪かった。地下街の喧騒の中、常に耳に神経を集中させながらの通話となった。
今から利用したい旨を伝える。すると店員は何事か問いかけてきたが、何を言っているのか全く聞き取れなかった。おそらくセラピストの指名の有無か何分コースかの質問だ。
「(指名は)特にないです。あ、90分コースで考えてるんですけど」と僕は言う。
それに対する返答もろくに聞きとれなかった。聞き返すと「兎我野町」という単語がかろうじて聞きとれた。その後も何回か聞き返した上で、兎我野町にある「シーズ」というホテルに行き、建物の前で再び店に電話をかければいいことが分かった。
電話を切り、目的地へと向かう。
辿り着くのは「うさぎのお部屋」なのか、それとも。
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この世にうさぎの種類はどのくらいあるのだろうか。
インターネットで調べたらすぐにわかる。うさぎの品種の数は国によって数え方が異なり、日本ではARBA(全米うさぎブリーダー協会)の公認に準拠した51種類のうさぎが純血品種として認識されている。一方、イギリスのブリーダー協会によると150種以上が種として公認されているとのことだ。出典は定かではない。しかし、正確な情報を知ったところでどうしようもないことではある。
日本でペットとして人気があるうさぎは10種類ほどで、ネザーランド・ドワーフ、ホーランド・ロップ、ライオンラビット、ドワーフホト、ジャージー・ウーリー、ダッチ、ミニ・レッキス、イングリッシュアンゴラ、アメリカン・ファジーロップ、ドワーフパピヨンあたりが挙げられるらしい。
その一方でメンズエステのセラピストは言うまでもなくこのように種類分けされていない。かと言って一人一人に系統立った特色がないわけではない。むしろ、メンズエステでは良くも悪くも、様々な個性を持った女性が現れる。
僕がメンズエステを繰り返し利用していくうちに強く思ったこと、それは「同じ人間は絶対にいない」ということだ。そんなの当たり前のことかもしれない。しかし、その当たり前のことを本当の意味で発見した時、僕はその事実を強く噛み締めるようになった。同じ人間は絶対にいないのだ。それはとても美しいことであるとともに悲しいことだと僕は思う。
👇

途中で通りがかった、改装工事が完了した「泉の広場」。工事によって、あらゆる冒険の可能性を秘めた地下ダンジョンのセーブポイントが、冷たく非人間的でよそよそしいスポットに様変わりしたと僕は感じる。
泉の広場から地上に出て、真夏の午後の歓楽街を少し歩く。目的のホテルが見えてきた。風俗店の利用で何度か訪れたことのあるホテルだ。
再び電話をする。先程の店員が出る。地上の静かなところで通話をしても男の声は非常に聞き取りづらかった。何かの試練を課せられているかのようだった。しかしそれに苛立つことは自らの敗北を意味する。
「インフィニティで100分、とフロントにお伝えください」と彼は言ったようだった。しかし「100分」の部分しか聞き取れなかった。
「ごめんもう一回、なにで100分って?」と僕は言う。
「イ・ン・フィ・ニ・ティ」
フランス語の過去分詞の性数一致について講義するように店員は声のボリュームを上げてしっかりと発音した。大した「お・も・て・な・し」精神だ。礼を言って電話を切る。
部屋番号の報告のためにこのあともう一度店に電話をかけなければならない。やれやれ、と僕は思った。
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ホテルに足を踏み入れる。ドアの開く位置がトリックアートのように分かりにくかった。
フロントで僕は受付の男性に向かってアクリル板越しに「イ・ン・フィ・ニ・ティで100分」と言う。男は無言で僕に部屋の鍵を渡す。彼の左手の小指と中指は第二関節から先がなかった。
どうして「うさぎのお部屋」の店員は最初の電話でこの合言葉を伝えずにホテルの前で電話をもう一度かけさせたのだろう。そして、合言葉が「うさぎのお部屋」ではなく「インフィニティ」であることに対して少し引っかかるものはあった。
とりあえず、利用する部屋に入る。

中途半端に撮影された現場の風景。パッと見はある程度キレイに撮れたものの、実際は部屋中に饐えた臭いが広がり、いたるところに埃が降り積もる不潔な部屋だった。「いるかホテル」の方がよっぽどまともだと思う。
店に電話をする。同じ店員が出る。部屋番号を伝える。三度目の電話となれば流石に学習していたので、僕は電話口の男の声の超絶な聞き取りにくさに対して全力で耳をチューニングした。そのおかげか、最後の男の言葉は聞き返さずに一発で理解できた。
「すぐに女の子が参ります」
電話を切る。トイレに行き、洗面所で最終の身だしなみを整えて、ボロボロのソファに座って3分ほど待つ。
コンコンとノックが。ドアを開ける。うさぎ博士が僕の前に立っていた。
と言いたいところだが、普通にメンズエステの女が来た。
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やって来たのはメイクが濃いめのギャル系の30代の女だった。セミロングの髪の毛はすりきれたじゅうたんみたいにぱさぱさして、肌は健康状態を疑いたくなるほどガサガサしていた。服装はユニクロとかGUで購入したと思われる白い無地のTシャツにジーパン。女の外見だけで判断すると、うさぎを連想させる要素は皆無だった。それどころか、生活臭のあふれるその服装は、人に見られることを前提とした格好とはとても言い難かった。着の身着のまま、そこらへんの老朽化したアパートからとりあえず出てきましたみたいな風体だ。ただ、女は目鼻立ちがそれなりにはっきりとしていたので、無理やり美人ということにすれば美人と言えそうだった。
ソファに移動する。
「お姉さん、すごい美人ですね」と僕は言う。
「ありがとうございます」と女は言う。
「ホームページの写真、みんなアニメみたいに加工されたのんばっかやったからどんな感じか想像つかなかったんですけど、実物みてびっくりしました」
「あれっ?普通に写真、載ってるはずなんですけどね。でもありがとうございます」
女は接客用の人工的な笑顔ではなく、自らの素の部分が作り出した表情でなごやかに僕に接した。顔立ちの強さとは裏腹に落ち着いた柔らかな立ち振る舞いだった。
メンズエステに出勤するのが一ヶ月ぶりであると言う女は、段取りを思い出せずに動作がぎこちない部分があったが、彼女の醸し出すゆっくりとした雰囲気のおかげで、特に不安や苛立ちは感じなかった。
持参した大きな鞄から大きなタオルを取り出してベッドに設置したところで、女は思い出したように利用料金を僕に請求する。その際、女は鞄から出てきた二種類の衣装を僕に見せる。
「この普通のワンピースだと料金そのままなんですけど、3000円の追加料金を払ったら、こっちの透け透けのワンピースを着て、下着を取っ払うって感じなんですけど、どうしますか?」と女は言う。
「せっかくなんで、3000円のほうで」と僕は言う。
「じゃあ、合計18000円です」
僕は財布から1万円札を2枚取り出して女に提出する。2000円が速やかに返却される。
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女に促されてシャワーを浴びることに。紙パンツを手渡され、バスルームに移動する。
部屋同様、とてつもなく汚いバスルームだった。床におびただしいほどの黒カビが付着していた。嫌がらせをするためにわざとはやしたといったタイプのカビのはえかただった。そして、壁やバスタブのあらゆる部分に軍隊との激しい戦闘が起きたのかというくらい無数のキズが刻まれていた。僕はそのありさまを見て思わずため息をついた。その空間にいるだけで体が致命的に汚染されそうだった。しかし割り切って素早くシャワーを浴びる。シャワーヘッドから透明なお湯が出てきたのが奇跡だと思えるほど悲惨なバスルームだった。
タオルで体を拭いて紙パンツを履く。マッサージ終了後もこのバスルームを使用しなければならないと考えると、少しうんざりした。
「やれやれ」と僕は言った。
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部屋に戻る。ベッドのそばで女がスケスケのワンピースを着てスタンバイしていた。ワンピースが透けて見える女の肉体は全体的にたるみが目立った。もとからこうだったわけではなく、これまでの人生でそれなりに苦労してきたせいで崩れてしまった体型だと感じた。
うつ伏せからマッサージが始まる。定番の全身指圧→足元からオイルマッサージの流れだ。
「メンズエステはよく来るんですか?」と女は言う。
「めっちゃ久しぶりなんですよ」と僕は嘘をつく。
「前に利用したのっていつですか?」
「もう記憶にないぐらい昔です。メンズエステって、ハマる人はハマって、しょっちゅう通うって言うじゃないですか。でもおれは正直何がいいのか分からなくて、それっきり足が遠のいてて。で、なんか、久しぶりにどんなもんやったっけなーって思って、来ました」と僕はでまかせを言う。
「そうなんですね」
「なんか、マンションを訪れるイメージがあったんですけど、この店はこういうホテルに派遣する感じなんですね」
「正味、ここはヌキありの性感エステなんですよ」
「そうなんや」
「てゆうか、マンションタイプのメンズエステは大阪万博までに全部摘発されて、なくなると思います」
「へー。だから、こういうスタイルの店が今は主流になってきるんですかね」
「おそらく。私、かけもちでもう一つのお店にも勤務してるんですけど、そっちもホテルで施術する感じです」
「そっちは、その、普通のメンズエステなんですか?」
「いや、そっちも性感エステ」
会話を交わしながら僕は一つの疑念を抱いていた。今、僕が会話をしているのは本当に「うさぎのお部屋」というメンズエステ店のセラピストなのだろうか。
いくつか腑に落ちない点があった。まず、ここまで「うさぎ」を連想させる要素が皆無である点。しかし店がホームページなどで客向けに謳っているコンセプトと実際のサービスが乖離していることは往々にしてある。次に、ホテルのフロントに「うさぎのお部屋」ではなく「インフィニティ」と言って部屋を確保させられた点。まあそれもどうとでも説明はつく。最後に、女が「ホームページに普通にセラピストの写真が載っているはず」と言った点。こればかりはちょっと説明がつかない。明らかに僕が見たものとは別のホームページを指した発言だった。
一体、僕をマッサージしているこの女は何者なのか。「うさぎ」ではないのか、それとも。
答えはいくつか考えられる。「うさぎのお部屋」はホームページだけ存在していて、実質的な運営は別の性感エステが行っているのかもしれない。あるいは「うさぎのお部屋」の窓口に電話がつながったものの、何らかのやむを得ない事情により、他の派遣型性感エステ店に業務が振り分けられたのかもしれない。または、そもそも僕が何かの手違いで「うさぎのお部屋」ではない別の性感エステ店に電話をかけた可能性もある。
女と会話をしながらうつ伏せのマッサージが終わるころ、こういった自分の洞察が無意味であると僕は気づいた。真実はどうあれ、この女と90分18000円のひとときを過ごすことは揺るがないのだ。
女の指示で四つん這いになる。この辺りから一気に密着度が上がっていく。覆い被さるような体勢で、女の腕が僕の鼠蹊部をヌルリとストロークする。僕の睾丸に100パーセントタッチするルートで。当然のように、紙パンツの内側の僕の股間はむくむくと膨らんだ。
「お兄さん、肌めっちゃ綺麗ですよね。何歳なんですか?」と女は手技の艶かしさとは対照的な日常会話の声色で尋ねる。
「37です」と僕は少し快感に溺れかけた声で言う。
「えー、見えない。同い年ぐらいかと思ってた」
「お姉さんは何歳なんですか?」と僕は尋ねる。
「33歳」と女は言う。
「まじか、若く見える。20代かなーって思ってました。…結婚してます?」
「結婚はしてないけど中学生の子供がいます」
などと会話をしているうちに四つん這いが終わる。
女は次のルーティンを思い出すのに少し時間をかけたあと、僕に体勢変換を促す。
「えっと、私に背を向けたまま、あぐらをかいてもらっていいですか?」
女に言われた通りにする。
背後から接触してきたのは女の手ではなく唇だった。入居を検討中の3LDKを内見するように女の唇は僕の背部をくまなく探索した。やがて女は僕の耳をはむはむと甘噛みする。その力加減が絶妙だった。「もののけ姫」でサンが気絶したアシタカに口移しで食べ物を与える時のような力加減だった。おそらく僕の人生史上最高クオリティの耳たぶの噛み方だ。それと同時に女の腕が回ってきて、指先で乳首を優しくいじられる。かなり気持ちいい。屈強な男に締め殺されたみたいな変な呻き声が思わず出る。激烈に勃起する。
次の体勢になる。女の指示で仰向けになる。視線の先には女のはっきりとした顔があった。
「窪塚洋介に顔立ちが似てますよね」と女は言う。
「初めて言われた。お姉さんは誰似とか言われる?」と僕は言う。
「安室ちゃんとかかな」
「あー」
女は仰臥する僕の体にオイルが垂らす。マッサージが仕上げの段階に入る。女はためらいなく僕の一番硬くなった部分をしっかりとほぐしにかかる。
「乳首、弱いですか?」
「急所です」
僕の急所が二箇所同時進行で刺激されていく。女の手つきを堪能する。
「横に寝転んでいいですか」と言いながら女は僕に添い寝するような体勢に切り替えて同じ場所を攻め続ける。
顔が間近にあったので、僕は女に何回かキスをする。そして自然な流れでスケスケのワンピースの胸元に手を伸ばし、女のやや崩れたおっぱいに触れる。そのおっぱいは僕の手のひらにしっくりと馴染んだ。
「一応この店、お触り禁止なんですけど」と女は笑顔で言う。
もはやこの店、もルールもあったものではなかった。僕は無言で女の体にアプローチをかける。そうこうしているうちにフィニッシュとなる。的確な時間配分でマッサージは一連の流れを成し遂げた。
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そのままの体勢で数分間イチャイチャしながら雑談をする。女とは初対面の男女にありがちな、足りない言葉を探しながら会話を進める必要がなぜかなかった。それがとても心地よかった。
時間制限が迫ってきた。シャワーを浴びることに。汚いバスルームに移動する。やはりこれ以上汚くできないくらい汚いバスルームだった。
「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。
シャワーを速やかに浴び、部屋に戻る。
女は最初の白いTシャツとジーパンに着替えていた。雑談がそれなりに盛り上がった流れでラインを交換する。タイミングが合えば飲みに行こうと曖昧な約束を交わした。なんなら今日、女の退勤後に近くの居酒屋で軽く飲もうかという感じになった。しかし女がその店の価格帯を気にするそぶりを見せてきて、なんとなく女の困窮した生活が透けて見えるような気がして申し訳なくなり、今日はやめておくことになった。女と一緒にいればいるほど、女との親密さが失われてしまいそうな気がした。
ホテルを退出し、建物の前で女とサヨナラする。
八月の夕方の気持ち悪くなるくらい蒸し暑い梅田の歓楽街では、目に映る何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった。僕はその中を数分歩き、地下街に足を踏み入れる。どこに行けばいいのかはわからなかったけど、とにかく僕は歩き続けた。行き交う人々の話し声の中、背中に小さなうさぎの声が聞こえた。
4 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。

2023年6月上旬、大阪ミナミの「桜川」駅付近のマンションのエレベーターに私は乗っていた。メンズエステを利用するためだ。店の名前は「ミセス美オーラ」。ホームページを見ると、この店は「20代から40代までの大人ミセスが癒しを提供する」という漠然としたコンセプトを簡潔に掲げていた。詳細は実際に体感することでしか分かり得ない。
駅を降りて電話をかけると、紳士的な口調の男性店員が出た。こちらの好みの聞き取りや、このあとの段取りや駅からマンションまでの道のりや料金体系の説明に関して男は誠実に穴のない対応をした。私は清楚系で小柄でマッサージの上手いセラピストが理想であると伝えた。出勤情報を見る限り、その時点で4人の女がスタンバイしているようだった。男が私の希望に最も近い女性をあてがってくれることを期待した。すると男は案内する女の子の名前を明らかにする代わりに、指名料1000円が追加されるとサラリと説明する。彼が非常にうまい話の運び方をするため、私はその料金の上乗せを何の抵抗もなく受け入れた。結局90分13000円プラス1000円で利用料金は14000円になるようだ。手の指の数を数えるよりも簡単だと言わんばかりに、男は理知的な話し方で明確な料金説明をした。電話応対を繰り返しているうちに自然に身についたものなのか、それとも彼の本質がそうなのか、それはわからないが、洗練された上品さが男の声から感じられた。いずれにせよその結果、私は巡りあった女から誰にも理解されない無益なマッサージを享受するのだ。
電話を切ると即座にショートメールでマンションの住所が送られてきた。他のメンズエステ店と同じ受付の流れなのにも関わらず、ものすごくシステマティックに計算された抜かりのないスムーズな対応だった。そう感じさせる受付の男性店員はただものではないと私は思った。しかし受付の対応の質とサービスを行う女の子の質は必ずしも比例しないことを私はこれまでの経験上、知っていた。
アイフォンを操作してGoogleマップで方角を確認し、指定されたマンションに向かいながら店員が言ったセラピストのプロフィール画面を閲覧した。何十人もいる在籍女性の中で、その女だけが写真が掲載されていなくてツイッターアカウントもなかった。おそらく入店して間もないと思われる。その時点で少し不安がよぎったが、店員の割り当てを信じるしかない。
などと考えているうちに指定されたマンションに到着した。フロントで店に電話をかけると、先程の男性店員が部屋番号を私に告げた。礼を言ってその番号をオートロックに入力し、解錠してもらった。中に入るとすぐにエレベーターの入口が見えた。
そのようにして私はエレベーターに乗った。狭いエレベーターは緩慢な速度で上昇した。まるで人生の何かを示唆しているようだった。しかし人生のどういった要素の暗喩であるのかうまく考えつくことができないまま、6階に到着する。
廊下に出る。目的の部屋のインターフォンを押す。ドアがゆっくりと開く。
現れたのは黒髪で猫っ毛のぽっちゃりした20代後半の女だった。「新しい学校のリーダーズ」のツインテールの女の子に目鼻立ちが似ていた。「清楚」よりも「地味」の方が適切な気もしたが、清楚と言われても捉える人の寛容さ次第ではギリギリ嘘ではないと思う。限りなく地味に近い清楚、あるいは限りなく清楚に近い地味で票が割れる外見だった。
女は私の顔をしばらく確認するように眺めてから、私に向ってこっくりと頷く。なんか言えよ、と思いながら私は可能な限りなごやかに「お邪魔しまーす」と言いながら玄関で靴を脱ぐ。
女は太っていた。「太っていた」というより「少し太っていた」と言った方がより正確な表現だ。見るものの主観に左右されるかもしれないが、私はそう感じた。
私は彼女のうしろを歩きながら、彼女の首や腕や足を眺めた。夜の間にそれなりの量の雪が降ったみたいに、女の肉体には満遍なくふっくらとした肉が付着していた。人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くのタイプがある。この女の場合は対面する相手に残念な印象を与える太り方だった。ずんぐりとしたそのスタイルは私の好みに合っていなかった。ただ、私はそれほど多くのメンズエステの女に対して好感を抱くわけではない。どちらかといえばあまり抱かない方だと思う。だから女が太っていることはこの場合、直接的には関係のないことなのかもしれない。私はその地味で太った女のうしろについて廊下を歩きながら、だいたいそんな印象を抱いていた。彼女はブルーのノースリーブニットに白いタイトミニスカートという格好だった。ミニスカートの下にはTバックの下着が女の肉付きのいいお尻に強く食い込んでいるのが透けて見えた。
私がとおされたのはがらんとした6畳ぐらいの部屋だった。簡素なソファにテーブル、横長の鏡にマット。余分なものは何ひとつとしてない。女は私にソファに座るように言う。どういうわけか彼女はド緊張していて、接客の台本を読むので精一杯といった感じだった。聞くと、今日が初出勤で、私が初めての客なのだという。やれやれ、と私は思った。
ソファに座る。女はテーブルの上の問診票と誓約書に記入するように言う。かたわらに置いてあったペンを手に取り、問診票の必要事項にチェックを入れようとした瞬間、女は利用料金の提出を私に求めた。要領の悪い人間なら軽くパニックを起こしそうな、嫌がらせみたいなタイミングの悪さだった。やれやれ、と思いながら私はペンを置き、鞄から財布を取り出し、90分コースの14000円を女に支払う。そして再び問診票と誓約書の記入に戻る。適当に必要事項を埋める。
「書けました〜」と私は朗らかな口調を意識して言う。
「ありがとうございます」と女はわざとらしい猫撫で声で言いながら紙を受け取る。
「シャワーの準備をして参ります」と女は言う。
「あ、はい」と私は言う。
女が洗面所の奥に消える。15秒ぐらいシャワーの流れる音が聞こえてくる。そして部屋に戻ってくる。
「できました」と女は言う。
「あ、はい」と私は言いながらソファから立ち上がる。
バスルームに案内される。
「紙パンツの着用をお願いします」と女は言ってその場を立ち去る。
女はフィリップ・K・ディックの小説に出てくるアンドロイドみたいに機械的な語り口だった。完全にメンズエステ客に向けての作られた人格での対応だった。中途半端に愛想のいい声色だから余計に不気味だった。こちらからちょっとしたジョークを挟む余地が全くなかったので、単純な返事をせざるをえなかった。
シャワーを浴び、タオルで体を拭いて紙パンツを履いて洗面所を出ると、部屋の明かりは間接照明だけになっていた。
「うつ伏せになって下さい」
私が部屋に一歩足を踏み入れた瞬間に女はマットを指差して言った。やはりイラっとする間の悪い発言の仕方だった。ディストピアにおける完全管理社会のシステムに支配されたような雰囲気が演出されていた。しかし今さら「頼むからそのイケてない喋り方を改善してくれないか」と女に文句を言ったところで改善されるわけがない。受付の店員の対応の水準をどこかで期待してしまっていた私が愚かだっただけのことだ。期待をするから失望が生じるのだ。
うつ伏せからマッサージが始まる。無論、マッサージが始まる前から女のマッサージの腕にはあまり期待していなかった。
「力加減など、おっしゃってくださいね」と女は言う。
「強めがいいです」と私は間髪入れずに反応する。
女は足もとから順番にタオル越しに指圧を施す。予想に反して女はマッサージがうまかった。それは女自身の能力というよりは、きめ細やかに作成されたマニュアルに沿って忠実に動いた結果、ある程度の効果的なマッサージが達成されているといった感じだった。
そこそこの心地よさを感じながら程よいテンポでオイルマッサージが進んでいく。下半身をオーセンティックなストロークで終えた後に上半身に移行する。全身がムラなく膨らんだ女の肉体が私の腰元にのしかかる。特に圧迫される感じはしなかった。
上半身のマッサージが体感的にかなり早く完了した。それでも凝っていた首と肩が割としっかりとほぐれた感覚があった。ここまではエロ要素が限りなく排除された、ザ・マッサージだった。次は「カエル足」あるいは「四つん這い」か、はたまた早くも仰向けか、と思っていたら女はうつ伏せの体勢を変換することなく、再び下半身のオイルマッサージを初めからやり直し始めた。全く同じ手法の再現に唖然としたが、特に不服を申し立てることはしなかった。
そのまま同じ手順で上半身に移行し、それが終了するとようやく女は私に仰向けになるように言う。言われた通りに体勢を変換する。女の姿が視界に入ったが、殴りたくなりそうだったので女の顔を直視しないようにした。足もとから順に上へと普通のオイルマッサージが施されていく。私の股間周辺に女の手は決して接近しなかった。まるでそこから強力な反発力が発生しているかのように。その手がたどるルートは絶対的な諦念を私にもたらした。
まだ時間はかなり残っている。その時点で私は身体的にも精神的にも退屈を持て余していた。なので過去に体験した猥褻な体験を思い出してみようという気分になった。
その時、思い浮かんだエピソードがこれだ。
→ポロリの終りとハードボイルド・エロメンランド
過去の性行為の思い出に思考を委ねていたら、ちょっと勃起した。
女はそんな私の紙パンツのムックリとした膨らみにはお構いなしに、マニュアルに忠実だと思われる施術を進行させていく。仰向けにおいても、下半身→上半身ときて、再び全く同じ手順を一からやり直した。
女に促されて上体を起こす。女は私の背後から首と肩と背中をほぐしていく。もしかしたら本来のメンズエステとはそもそもこういうものなのかもしれない、と思わせる徹底的に普通のマッサージだ。私が認識していたメンズエステにあって然るべき「魂を揺さぶる奇跡的な何かが起きるかもしれない空気」が皆無だった。その時点で、女と私との間に決定的な断絶が存在していることに気づいた。
「本日はこれで終わりになります」
終了してからも女はマニュアルに忠実と思われる案内の仕方で、私をシャワーに案内する。
「ごゆっくりどうぞ」と言って女は洗面所を去る。
私は虚無的な気分で紙パンツを脱いでゴミ箱に投げ捨て、シャワーを浴び、体を拭いて服を着る。
部屋に戻る。テーブルの上に紙コップに入ったお茶が用意されていたのでいただく。
「力加減はいかがでしたか」と女は言う。
「よかったです」
肺炎をこじらせて死にかけた犬のため息のような声で私は女の顔を見ずに言う。一体どこの世界に「程よい力加減」を求めてメンズエステを利用する男がいるというのだろう。
「よかった」と女は機械的に言う。
「ここに墓を建てたくなるほど気持ちよかったです」と私は嫌味混じりでくだらない冗談を言った。
女はとくに反応しなかった。客がそう言ってきた場合の反応の仕方を事前に店側が教えていなかったからだと思う。
90分コースだったが、入室して75分ぐらいで女に見送られて部屋を退出した。世界の終りみたいなメンズエステ体験だった。どうせならハードボイルドでワンダーランドなアクシデントが起きて欲しかった。奇妙な電話が唐突にかかってきたり、ガスの点検をしに来た男に頭骨を盗まれそうになったり、見たこともないほどの巨大な男に1Kの部屋を徹底的に破壊しつくされたり。しかし現実はこんなものだ。世界の終りみたいだ。
5 ノルウェイの森

「たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くふりして一人でこっそり食べるのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『ごめんミドリ、苺のショート・ケーキはどこにもなかったよ』って申し訳なさそうな顔で言うの」

2024年2月。僕は38歳で、そのとき阪急電車の京都線のシートに座っていた。そのスマートなあずき色の電車は県境を越えて烏丸駅に到着しようとしているところだった。僕は顔を上げて目の前の誰も座っていない深緑のシートを眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
6年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕は彼女の最後の表情をはっきりと思い出すことができる。悲しくなるほど好きで、苦しくなるほど好きで、泣きたくなるほど好きで、死にたくなるほど好きだった彼女の、ダイヤモンドになれなかった最後の表情を。
やれやれ、また京都か、と僕は思った。
◯
陽が沈む頃に僕は用事を終え、京都の街をあてもなくぶらぶらしていた。あてもなく、というのは間違いかもしれない。京都の街はどこ歩いても、彼女の影を感じずにはいられないから、無意識のうちにそれを追いかけてしまうのだ。
気分を変えたくて僕はメンズエステに行くことにした。アイフォンで適当に検索すると、近くで利用できそうなメンズエステ店を見つけた。店の名前は「花鳥風月」。京都らしいネーミングだ。
電話をかける。数回のコールの後、感じのいい女性店員が電話に出る。このあとフリーで利用したい旨を伝える。店員は19時から案内可能であると答える。
通常のマンションタイプのメンズエステであれば、電話の後に利用するマンションの住所がショートメールで送られてくる流れになるはずだ。しかし。
「ショートメールが使えないので、まず、今から言うコンビニに行っていただいてよろしいでしょうか?」と店員は言う。
「あ、はい。コンビニっすね」と僕は言う。
「そちらに着きましたら、改めてお電話をいただいてよろしいでしょうか。利用するマンションと部屋番号をお伝えしますので」
「わかりました」
「それではファミリーマートの◯◯店にいったんお越しください」
電話を切る。グーグルマップを開き、店員が言ったコンビニを検索する。5分ほど歩けば着くようだ。僕は中途半端な高さのビルが建ち並ぶ烏丸通りを南下する。2月の冷ややかな空気には終わりかけた冬の匂いが混じり、遠くの音がいやにきれいに聞こえた。
目的のコンビニに向かいながら僕は「花鳥風月」というメンズエステのホームページを改めて確認する。女性が個人で経営するアットホームなメンズエステ店のようで、オーナーとセラピスト達とで仲良く食事に出かけたりする様子がSNSに投稿されていた。セラピストの紹介ページは至って健全なテイストだった。これほどまでに性的な要素が感じられないメンズエステも逆に珍しい、と僕は思った。
指定されたファミリーマートに到着する。僕は改めて「花鳥風月」に電話をかける。先ほどの女性店員が出る。多分この人がオーナーなのだろう。
コンビニに隣接するマンションに部屋があるようだ。予約時刻になればオートロックに部屋番号を入力するように店員は言う。僕はそれを了承して電話を切る。
隣の建物に移動する。無機質なデザインのコンクリート打ちっぱなしのマンションはどこか閉鎖的な雰囲気があり、マンションを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したマンションみたいな印象を見るものに与えた。しかしその建物は決して不潔ではないし、暗い印象もない。
19時になる。店員に告げられた部屋番号をオートロックに入力する。すぐに解錠される。
エレベーターに乗り、5階で降りる。おしゃれすぎて読みにくい字体で表示された部屋番号を確認し、インターフォンを押す。
黒いドアが開く。清楚系ど真ん中の20代前半の小柄な女が僕に顔を見せる。「SOD女子社員シリーズ」に出てきそうな顔立ちだ、と僕は女を見て最初に思った。ちなみに僕は10年ほど前、ほんの気まぐれで東京の中野にあるソフトオンデマンドの本社で女性向けAV男優の面接を受けたことがある。結果は不採用だった。
女はレースが品よくあしらわれた白いワンピースを着ていた。清楚で上品な格好に対し、女は程よくくだけたムードで僕を迎える。実家の隣の家にいた当時小学生だった女の子と15年ぶりに再会したみたいな空気感だ。
部屋の中に入る。外装と同様にコンクリート打ちっぱなしの室内は和のテイストを程よく取り入れたインテリアで構成されていた。間接照明が淡く部屋を照らす中、僕は畳素材の長椅子の上の座布団に座る。
女は暖房の温度設定を30℃にしているけど部屋がぜんぜん暖まっていないことを僕に詫びる。おそらくこの内装による保温性の低さのせいだと思われた。
女は冷蔵庫から缶に入ったお茶を出して僕に手渡し、僕は礼を言ってそれを飲んだ。お茶は半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。
料金を支払う。80分コースで14000円だった。オプションは特になかった。
「お兄さん、若いですよね!」と女はさっぱりとした口調で言う。
「いやいや。お姉さんも若いやん。大学生とかですか?」と僕は言う。
「働いてますよ〜」
「そうなんや。何歳なんですか?」
「24歳」
清楚な見た目ながら愛嬌のあるカジュアルな物腰の女は、普段は経理の仕事をしつつ、週に数回メンズエステの仕事をしているのだと言う。
互いの仕事の話を少しする。女は何事もストレートでハキハキとした喋り方で、僕にはそれが小気味よく感じられた。
寒々しい建物や薄暗い部屋と対照的に、今僕の目の前にいる女はまるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした目を見たのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。比較的落ち着いたルックスとのギャップが特によかった。「ノルウェイの森」で例えるなら「限りなく直子に近い緑」という感じだった。似ていると言われる芸能人がいるか訊くと「ヨコヤマユイ」と女は答えたが、僕は顔が思い浮かばなかった。
限りなく直子に近い緑は、長いあいだ京都在住であると言う。京都府民がオススメする京都の飲食店を教えてもらったりして数分間、雑談を交わす。
話がひと段落したところで女に促されてバスルームに移動する。シャワーを浴びる。
定番の紙パンツを履いて部屋に戻る。
あいかわらず部屋の中は肌寒いままだった。
限りなく直子に近い緑は僕にマットの上にうつ伏せで寝転ぶように言う。司法解剖が執り行われる台のように寒々としたマットだった。僕は言われた通りにする。
マッサージが始まる。女は僕の背部をまんべんなく指圧したあとにオイルを足元から順番に塗っていく。
限りなく直子に近い緑による両足のオイルマッサージの腕前は可もなく不可もなくといったところだった。これまでに僕はそれなりの数のメンズエステのセラピストのマッサージを受けてきたが、その中で最も「可もなく不可もなく」という評価が当てはまる施術だった。「可もなく不可もなく」というタイトルのインスタレーション作品として出品できるくらい可もなく不可もなかった。
可もなく不可もなくのマッサージを受けるとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くことーーそれだけだった。僕はライトアップされた巨大な水槽の中の無数の金魚や、待ち合わせをしたスターバックスや、山奥の温泉旅館や無人のレストランや、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。突然のメールや、棺桶の中の激しく損傷した死体や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。
幸福な生活を送ることが、最大の復讐である。
などと考えていると、限りなく直子に近い緑は僕に足の位置を変えるように指示する。
「これ、『カエル足』っていうんですよ。覚えて帰って下さいね」と女は言いながらマッサージを施す。
女の声色は快活で非常に可愛らしかった。メンズエステを利用する寂しい男にとったら、この女と日常会話を交わしているだけでディズニーランドに来たみたいに特別な気持ちを抱くことができるんだろうと僕は想像した。
女に促されて体を横向きにする。
側位で添い寝をするような体勢で女は後ろから腕と脚を伸ばし、それらを用いて僕の体のなんとも言えない部位を丁寧にマッサージする。まるで魂を癒すための宗教儀式のように。
「これ、『マーメイド』っていうんですよ、覚えて帰って下さいね」と女は言う。
ぴとりと僕の背中に体を寄せる女の息づかいがかすかに感じられた。でもそれはただそれだけのことだった。女の施術にはそれ以上の意味は何もなかった。
「カエル足、はなんとなく聞いたことがあるんですけど、マーメイドっていう技は初めて聞きました」と僕は言う。
「そうなんですね。私もこれ、講習で習ったんです」と女は僕の耳元で言う。
性的な要素がほとんど感じられないマッサージを進めながら、時々女はうしろから僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。
話題は休みの日の過ごし方についてになる。僕はほとんどの休日を読書をして過ごすと言う。
「お姉さんは本、読みますか?」と僕は尋ねる。
「読むは読むけど、がっつりハマるっていう体験は今までなかったです」と女は言う。
「そうなんや。どういうのが好きとかあります?」
「昔、ハリーポッターは好きで読んでました。好きな作家とかいます?」
「村上春樹」
「名前だけ聞いたことあります」
「そうなんや。機会があればぜひ読んでみてほしい」
「どの作品がいちばん好きですか?」
「うーん。。。まあ、『ノルウェイの森』が面白いですよ」
「そうなんや。ノルウェイの森。どんな感じの本なんですか?」
「なんていうか、いちばん好きな村上春樹の小説は?と質問されるといつも返答に窮してしまうんです。僕はノルウェイの森を小説としてかなり高く評価してるんですけど、あれはもう別格の作品で、『いちばん好き』とかそういう範疇にはとても入ってこないんです。でもまあ、とにかく面白いです。村上春樹の中でも異質と言われているから一番初めに読むべきではないって言うファンも多いんですけどね。この前も村上春樹が好きな人と喋ってて、『ノルウェイの森を最初に読むのは私はオススメしない』ってその人は言ってたんですけど、個人的にはノルウェイの森が最初の村上春樹でもいいんじゃないかなって思う。普通に読みやすいし、ボリュームもそこまでないし。で、どんな話かっていうと、一言で言ってしまうと基本的には恋愛小説なんですよね。でもそれだけでは説明しきれない面白さとか深い味わいがこの小説にはあって。そもそも小説の面白さってどういうところから来るのかって話なんですけど、色々あるとは思うけど、そのうちの一つが『対比構造を楽しむ』っていうことだと思うんですよ。恋愛の話だったら男と女、ハリーポッターだったら敵と味方、魔法学園の人たちと悪者みたいな対立構造があるじゃないですか。物語ってだいたいそういう構造を軸にして進んでいくと思うんです。で、ノルウェイの森の対比構造は何と何かっていうと、もちろん単純に恋愛小説としての男と女っていうのはあるけど、それ以上に重要なのが『聖』と『俗』の対比構造なんですよ。いわゆる純文学って呼ばれているジャンルの小説ではそれなりにあることなんですけど、良い悪いとか、正しいか間違ってるかとか、そういう単一の視点で捉えた現実世界の一般的な尺度が入る隙間のない、それを超えた人間の複雑さとか人生の深みを掘り下げた二項対立が描かれることがあって、ノルウェイの森の場合はそれが『聖』と『俗』なんです。言い換えれば地上世界と地下世界、とかまあ分かりやすく生の世界と死の世界っていうニュアンスもあったりするんですけど。ほんで、このノルウェイの森の登場人物、色々と出てくるけど、出てくる人物ほぼ全員がその『聖』か『俗』のどちらかに属していて、一人一人の『属し方』がめちゃくちゃ魅力的に表現されていて、それがものすごく立体的な人物像として読めるようになっているんですよ。さらに登場人物が属している『聖』と『俗』のそれぞれの人数の配分も、二つの要素の描写の分量も完璧すぎるバランスがとられていて、その計算され尽くしたかのようなバランス感覚がたまらなく良くて、小説としての完成度の高さに繋がっているんです。超スタイリッシュな建築物みたいなんです。例外的に主人公とその先輩だけが『聖』と『俗』の両方の間を行ったり来たりして揺れ動くポジションなんですけど、彼らが行動する場面を読む時は小説の世界の中でこちら側とあちら側を往復する大きな旅をしているような壮大な感覚におちいるんです。その時の彼らが『揺れ動く感』によって、人間とか人生の複雑さが凄まじいリアリティをともなって読む側の心に圧倒的な力強さで迫ってくるんですよ。あと、この小説は『喪失感』が一つのテーマになっているんですけど、読み手が読む時期によってその喪失感の捉え方が変化するっていうのもすごい点なんです。僕は大学生の時に初めてこの本を読んで、その時は登場人物に直接的に感情移入するタイプの読み方をして直接的な喪失感を感じたんですけど、それから年をとるにつれてそれなりに色々と経験した上で改めて読んでみると、また違った色合いの喪失感を感じるんですよね。それで30代になってまた読んでみると『完全に過去のものになってしまった喪失感』ってやつと出会えたんです。もっと言えばこの小説を初めて読んだ頃の懸命に生きていた自分のことを思い出さずにいられない、そういうノスタルジーみたいなのを感じたというか。めっちゃ奥が深いよなこの小説、ってなりました。僕、一回読んだ小説って基本的に二度と読まないんですけど、この村上春樹っていう作家だけは、まあまあ、他にもいるけど、この小説は本当に面白いのでたまに読みます。ほんと、これ以上面白い恋愛小説を読んだことないんですよ本当に。他の作家の小説を読んだりもするんですけど、本当にこれ以上面白い小説に出会ったことない。本当に面白いです。ノルウェイの森。ほんとね、これ以上面白い小説を、知りたいんですよ。ほんとは。でもこのノルウェイの森がほんとに面白くて、、本当に面白いです。本当に面白い、読んだらびっくりすると思うんですよ。ほんっとうに面白いです。これはもうほんとに、何度読んでもうなるんですよ。本当に面白いです。本当に、マッサージ止めてってくらいほんと面白いです。いつも面白い面白い言うんですけど、心の底から言ってます。僕、本を年間100冊以上読むのを20年ぐらい続けてるんですけど、その中でも本当に3本の指に入るぐらいこれ面白いです。とにかく面白いとしか言えないので、一回読んでみて欲しいです」
「読んでみます。じゃあ四つん這いになってもらっていいですか?」と限りなく直子に近い緑は言う。
僕は女に言われた通り四つん這いの体勢になる。女が背後からマッサージをする。女の指先は焦らすことなく普通に僕の乳首を刺激した。僕はそれに対してやや意識して敏感な反応を示す。
「乳首、弱いんですね」と女はあっさりと言う。
僕は言葉にならない声で返答する。しかしそれ以上に性的な領域に女の手が侵入することはなかった。
仰向けになる。女の施術の手は僕の太もも、鼠蹊部、デコルテ、そして乳首を満遍なく移動していく。なんとも言えない沈黙が続き、膠着状態になったところでタイマーが鳴る。マッサージが終了する。
僕は上体を起こし、女を軽く抱いて礼を言う。立ち上がり、バスルームに移動する。シャワーを浴びながら僕は素早くマスターベーションをした。一人暮らしの大学生がアルバイトに出かける前に手早く作るズボラ飯みたいなマスターベーションだった。
部屋に戻る。僕は最初に座った座布団の上に座り、女と締めくくりの雑談を交わす。退出の時間が来たようなので、荷物をまとめて玄関に移動する。
「疲れたらまた来てくださいね」と女は言う。
「疲れてなくてもまた来ます」と僕は言う。
玄関の外へ。笑顔で女と別れる。
二度と女に会うことはなかった。
マンションの外に出る。駅に向かって京都の街を歩く。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星から帰ってきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだ、これが彼や彼女のいない世界なんだと思って哀しい気持になった。
6 ダンス・ダンス・ダンス
よくメンズエステの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。
メンズエステそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりをはっきりと感じることができる。僕は、夢の中では、メンズエステの一部である。
そういう夢だ。
目が覚める。ここはどこだ?と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかける。「ここはどこだ?」と。でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは京都だ。
僕は企画で京都に来ていた。それは自分のブログ記事のために京都のメンズエステ店に潜入するという企画だった。誰もそういう記事を求めていないし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない、なんてこともない。しかし誰かは書くのだ。そういう記事を。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は11年半の間、こういう自己満足な文化的半端エロブログを続けていた。文化的雪かき、にすらならない。文化的オナニーだ。
◯
僕はメンズエステ店に電話をかける。すぐに人がでた。まるで待ち構えていたみたいに、すぐだった。
店の名前は「肉球たっぷ」。メンズエステ店にしては割と珍しい名前だ。メイドのコスチュームを着た20歳前後の女が男性客にマッサージを施すというコンセプトカフェみたいな要素を含んだ店のようだ。
「どうもーたっぷですー」と電話口から中年の男性店員の声が聞こえてくる。
「あ、すいません、このあと、フリーの90分コースで利用できればと思ってるんですけど」と僕は言う。
「このあとですね」
「はい。今、四条烏丸にいるんですけど」
「かしこまりました、えーっと、、ご利用可能ですよぉー」
男はフレンドリーな口調でありながら一歩引いた受け答えを忘れない、好感の持てる電話応対の仕方だった。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」と僕は言う。
「それではあの、ご利用代金がー、、通常だと、90分で13000円なんですけどね、、、」と男は急に歯切れ悪く言う。
僕は店員の言葉の続きを待つ。
「今、女の子が一人だけ待機している状態なんです」と男は言う。
「そうなんですね」と僕は言う。
「はい。それで、もしよければ指名料も合わせて、、、15000円で、ご利用の方、いかがですか?」
やれやれ、と僕は思った。どうしてこの店員はこんなにも下手な料金の案内をするのだろう。それなら最初から堂々と選択の余地なく総額15000円だと言っておけばいいのだ。
やわらかな物腰で下手くそな案内をする男に、失敗と敗退と挫折の影が染みついている哀しげな要素を僕は感じた。僕はそんな不器用ながらもどこか人情味のある男に対して少しの同情と親近感を抱きながら、その金額を支払うことを了承する。
「ありがとうございます!女の子も喜びます。◯◯ちゃんていう、とても可愛らしい女の子なのでね。このあと詳細をメールでお送りするので、そこにGoogleマップのURLが載ってますので。それをタップしたらマンションの場所が表示されますので」と男は言う。
「わかりました」と僕は言う。
「それではお待ちしております。よろしくお願いいたします」
「お願いします」
電話を切る。
果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。
◯
店員の言った通り、すぐにショートメールが送られてくる。URLをタップすると利用するマンションの位置が表示された。そこに向かう。
あまりパッとしない一角にそのマンションはあった。入り口がどこにあるのか分からなかった。
建物の前で店に電話をする。先程の店員が出る。
店員のナビゲートによって、非常に分かりづらい位置にオートロックがあるのを見つける。告げられた部屋番号を入力する。解錠される。
エレベーターに乗り、2階で降りる。こじんまりとした廊下だった。その狭さの割に設置されている部屋のドアの数が異様に多かった。
目的の部屋を見つけてインターフォンを押す。扉が開く。
メイド服を着た小柄ながらもややムチムチした体型の二十歳ぐらいの黒髪の女が現れた。女はマスクをしていたが、その内側はやわらかい表情をしているのが伝わるおだやかな雰囲気で僕を迎える。おっとりしていていい感じだった。まるでメンズエステの精がメイドの形態で出現したかのようだった。
入室する。6畳ぐらいのスペースの真ん中に大きなマットが部屋の主のように鎮座していた。そのマットが部屋から生活の匂いを消す役割を果たしていた。マットの周囲にはピンクのソファにガラスのテーブル、壁際にはお馴染みの横長の大きな鏡がたてかけられている。そしてハンガー・ラックに様々なコスチュームがぶら下がっているのが見えた。
僕が上着を脱ぐと女はすぐさまそれを受け取り、ハンガー・ラックの一番端にかけてくれた。男の欲望を満たすための衣装のラインナップの中に僕のビューティフルピープルの黒いコートが一時的に加わった。
どことなく非現実的な部屋の粗末なソファに座り、お茶を頂く。そして早い段階で料金の支払いとなる。受付の電話で男性店員が提示したのは15000円だったが、女はそこからさらにオプションとして「衣装チェンジ」を僕にすすめる。ハンガー・ラックにかかっている何種類かのコスチュームの中から好きなものを客が選択できるようになっていた。羊のコスチュームがあれば間違いなくそれを選んでいた。しかし現実はそううまく物事は繋がらない。
僕は少し迷った挙句、ベビードールを選択する。追加料金は5000円となり、総額2万円を僕は女に支払う。言うまでもなく経費で落ちるわけがない。「ところが落ちるんだよ」と五反田君なら言いそうだが、全額自腹だ。文化的オナニーだから。
ここまでの立ち振る舞いを観察する限り、女はメンズエステの仕事にあまり慣れていない様子だった。あとで店のホームページを確認すると「体験入店」と表示されていた。いずれにせよ、僕はこの女から2万円分のサービスをこれから受けることになる。
まずは女の案内でシャワーを浴びることに。僕はソファから立ち上がる。
するとそのタイミングで女は言った。
「2日前にインフルエンザにかかったので、マスクしたままだけど、いいですか?」
やれやれ、と僕は思った。先程の店員といい、どうして今日はこんなにもノーと言いにくい問いかけをされるのだろう。僕は特に気の利いた冗談が思い浮かばず、シンプルに了承する。
シャワーを浴び、お馴染みの紙パンツを履いて部屋に戻る。限りなく下着に近いベビードールに着替えた女が待っていた。
マッサージが始まる。最初はうつぶせ、ではなく、鏡に向かってあぐらをかいて座るように言われる。初手にこの体勢は珍しい。
後ろから女が僕にタオルをかぶせる。女はタオル越しに僕の肩を指圧する。「指圧」というより「指で軽く押す」の方が適切な動作だった。「ど素人かよ」と思いながらその動きが数十秒続いた後、女は僕に言う。
「膝の上に乗っていいですか?」
この問いかけに対しても僕はノーと言えずに了承する。
女が僕の視界に入ってくる。そして対面座位のような体勢であぐらをかいた僕の膝の上に女は腰をおろす。そのポジションで女は僕の首や肩を揉んでいく。
女の背後にある鏡にティーバックを履いた女の大きなお尻が映っていた。とても綺麗なお尻だった。美しく、優雅で、生命感に溢れていた。オリンピックの開会式で登場してきそうなお尻だ。思わず腕を回してそのお尻を鷲掴みにする。女が拒絶しなかったのでそれを撫で続けて過ごす。
次にうつ伏せの体勢に移行する。
女は僕の足元から順番にオイルを塗りひろげていく。完全に初心者の手つきだった。大した心地よさも快感も得られないまま「カエル足」までがあっさりと終了した。
マッサージをしてもらいながら僕らはゆっくりとしたペースで会話をした。最低限のプロフィールネタを互いに披露する段階で、女は生まれてからずっと京都在住であると言う。だから僕は京都のオススメスポットを尋ねる。しかし女はどこを紹介すればいいか思いつかない様子で口ごもる。
そんなに難しい質問をしたつもりはなかったが、都合が悪いところが何かあるのなら仕方ないと思い、僕は話題をもう少し世間一般的なものに変えた。
しかし女は高畑充希もリュウジのバズレシピも村上春樹も知らなかった。僕がそういった固有名詞を口にするたびに、女は何か言わなくてはと思ったが何を言えばいいのかわからないといった様子で口を閉ざした。
逆に世の中について何を知っている?と言いたくなるほど女は何も知らなかった。10月の次に何月がくるのかも知らなさそうだった。世俗の垢にまみれず生きてきた、というより現実世界に生き損ねた結果こうなったみたいな感じだった。それは結果的に女のメンズエステの精感が強調されることとなった。
マッサージ、というより単なるオイルの塗布は進んでいく。
女に促されて仰向けになる。
相変わらずゆっくりとした手つきで定められたコースをきちんと辿るように塗布が続く。しかし僕は段々と女の手つきに「天然のいやらしさ」を感じはじめた。それは文字通り女の先天的な才能によるものだ。際どい部分へのタッチがないのにも関わらず、結果的に僕は勃起する。
この女は時間をかけて適切な訓練を受ければかなりのテクニシャンになりそうな予感がした。しかしおそらくセラピストの技術的な教育をろくにしていなさそうなこの店に在籍している限り、その可能性は低いと僕は思った。
やがて、僕の勃起したチンコに手首や肘がかすめるストロークを女はくりだすようになった。その際どさは「いよいよか」と一瞬だけ僕に思わせたが、そこから更にギリギリの領域に突入する気配はなかった。
同じ動作が続いているうちにさすがにチンコはしぼんだ。そのタイミングで女は背面騎乗位の体勢に変換する。僕の腹部に乗っかった女がふとももや足の付け根にオイルを塗布する。
女の素敵なお尻が僕の目の前にあった。よく見ると女は僕と同じティーバックの紙パンツを履いていた。女がオイルを塗るたびに、僕の紙パンツと女の紙パンツが微妙にこすれあう。
僕は女のお尻を再び撫でて堪能した。お前が俺の全てだと、手触りで言ってみせるよ、みたいな触り方だった。その流れで別の部位に手を伸ばそうとするも、紙パンツの内側は禁断のエリアであり、それを打ち破ることを女は許さなかった。
「横に寝ていいですか?」と女はこちらを振り向いて言う。
僕は了承する。営業用の表情と私生活の表情をうまく使い分けられない様子で、女は横たわって僕の胸に頭をのせ、体をぴたりとわきにつけた。添い寝の体勢で女は僕の体の中途半端な所をオイルを用いてさする。女の頭頂部が間近にあった。僕は女の体に腕を回して抱きながら、その頭皮に鼻をくっつけて匂いを嗅いでみたが、全くの無臭だったので少し虚無状態になりながら最後の時間を過ごす。
僕の頭の中の羊男が僕に語りかける。
「あんたは自分が何を求めているのかがわからない。あんたは見失い、見失われている。何処かに行こうとしても、何処に行くべきかがわからない。あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった。でもそれに代わるものがみつけられずにいる。それであんたは混乱しているんだ。自分が何にも結びついてないように感じられる。そして実際に何にも結びついていないんだ。あんたが結びついている場所はここだけだ」
やがてタイマーが鳴って終了となる。
女は「お疲れ様でした」と言いながら僕から身を離してゆっくりと立ち上がる。
マッサージが終了したことで僕は虚しい気持ちになったが、それは以前にも経験したことのある虚しさだった。そして自分がその虚しさを上手くやりすごせるということもわかっていた。
女に促されてバスルームに移動してシャワーを浴びる。
部屋に戻ると女は最初のコスチュームに着替えていた。女の目元のホクロがチャーミングなことに気づいたからそれを褒めてみる。すると女は少し居心地が悪そうに微笑んだ。
玄関で互いに礼を言いながら、最後にハグをしてサヨナラをする。
二度と女に会うことはなかった。
◯
マンションの外に出る。駅へと向かう。
僕は年明けの京都の、平和な静けさの中を歩く。自分が何にも結びついてないように感じられる。そして実際に何にも結びついていないんだ。と僕は思った。僕は見失っているし、見失われている。混乱している。どこにも結びついていない。
そして、平和な静けさも、メンズエステも、永遠だとは思えなかった。
7 国境の南、太陽の西

島本さんのことがとても好きだ。
島本さんとは、村上春樹の「国境の南、太陽の西」という小説のヒロインだ。
村上春樹の小説で好きな女性の登場人物ランキングを作るとしたら、島本さんは全体の2位にランクインすると思う。ちなみに1位は「ノルウェイの森」の直子。3位は「1Q84」のふかえり。
このトップ3から分かるように、「ミステリアス」かつ「自分の思い通りにならない」女性に僕は心を動かされることが多い。
そしてこの二つの要素は、メンズエステで出会う女の子たちにも通底しているかもしれない。
◯
2023年12月上旬の昼。僕はメンズエステを利用するためにJRの「新大阪」駅で電車を降りた。
駅構内で電話をかける。店の名前は「彼女ん家」。名前の通り、「交際中の彼女の家に遊びに行き、そこでマッサージをしてもらう」というシチュエーションをコンセプトとしたメンズエステ店だ。こういう店はいかにコンセプトに忠実に全てが営まれているかが利用客の満足度に大きく関わる。楽しみだ。
電話に出たのは発言の4割ほどが何を言っているのか聞き取れないタイプの男性店員だった。こういった店に電話をかける際、それなりの確率でこういう対応をする店員に当たる。もうこれは宿命だと割り切るしかない。雨の日の外出を避けられないのと同じだ。なので冷静に前後の文脈から男性が発した言葉の意味を推測しながらやり取りを進める。たぶん共通試験の英語のヒアリング問題もこんな感じなんだろう。言うまでもなく、この受付の応対からすでにコンセプトが体現されていたら店として完璧だったけど、メンズエステにそこまで求めていられない。
このあと13時から90分コースの予約が取り付けられた。料金は1万2000円になると店員は言う。礼を言って電話を切る。
すぐにショートメールで「彼女ん家」のマンションの住所が送られてくる。東出口の改札から徒歩数分で「彼女」が待つ部屋に着きそうだった。グーグルマップで位置を確認しながら向かう。
◯
メンズエステに電話をかけて、馴染みのない街を歩いて利用するマンションに向かう時、「これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな」と僕はよく思う。
その点で「国境の南、太陽の西」の主人公の「僕」は、あまりにも僕過ぎる。感情移入して読めるなんてもんじゃない。僕のことが書かれている。そんな小説だ。だからこの作品を読むたびに僕はいつも少し恥ずかしくなる。
しかし「僕」は二度と島本さんに会うことはできない。
◯
マンションに到着する。建物は8階建てだったが、それはまるで大型のマッチ箱を縦においたみたいにのっぺりとしていた。
再び店に電話をする。先程の店員が出る。部屋番号を教えてもらう。
「お時間ちょうどの入室で、よろしくお願いします」と言って彼は電話を切る。
時刻は12時57分だった。3分間、オートロックの前で待機する。
13時ちょうどになる。指定された部屋番号を押す。すぐに解錠される。
エレベーターに乗る。ちょっと不気味なスーツの男と乗り合わせた。
メンズエステを利用する時のマンションのエレベーターで、かなりの割合でなんとも言えない空気を漂わせている男と一緒になるんですけど、あれって関係者なんですかね?構わんけど。
エレベーターを降りる。目的の部屋のインターフォンを押す。ドアが開く。
色白で黒髪ロングの小動物系のカワイイ女の子が人懐っこい笑顔で僕を迎える。その笑顔は「彼女ん家」で彼氏の来訪を待っていた「彼女」を表現するのに十分な笑顔だった。そして女の顔面は、付き合うことになったら周囲に写真を見せびらかして自慢できるほどの高いレベルだった。
女は常に微笑みを浮かべていた。それはどんなものにも決して乱されることのない強靭な微笑みだった。が、あまり好ましい微笑みではなかった。そこにはどこか人を小馬鹿にしたような傲慢さが含まれていた。僕は彼女の微笑みを見ていてほんの少しの苛立ちを感じた。「人生なんかチョロい」とその微笑みは語っているように見えた。具体的に言うと、少し前に人気だったAV女優の「姫川ゆうな」みたいな笑顔だった。
文句なしにカワイイ女の子だった。しかし、僕は女のそうした顔の奥に温かさや傷つきやすさを感じ取ることができなかった。自分の心の奥にある扉をそっと押し開けていくような、微熱を含んだ興奮がそこにはなかった。
女の案内で部屋の中へ。ソファもカーテンもラグも、クッションもブランケットもすべて薄いピンクで統一されたファンシーなテイストの部屋だった。女もそれに合わせるようにピンクの大きめのルームウェアを着ていた。
一人っ子の夢見がちな少女の部屋といった感じだった。それはいわば利用客=彼氏だけが中に入ることを許されている秘密の庭園のようなものだった。
女と並んでソファに座る。先に利用料金を支払う。
女がお金を受け取る時に見えた女のネイル・アートを褒めるところから会話が始まる。女は22歳の美容系の専門学生で、来年の春に卒業して、現在のバイト先のネイルサロンに就職が決まっているのだと言う。
話の流れで女にハンドマッサージをしてもらいながら会話が進む。誰とでもするような普通の会話だった。女がハイテンションで様々な事柄をベラベラと喋るので、僕は基本的に聞き役にまわった。
女の口にする言葉のほとんどは平板で深みを欠いていた。会話を始めて3分ぐらいで僕はそのことに気づいた。無意味な話を矢継ぎ早に展開していくことで制限時間を消費する女の典型だった。たくさんの言葉を並べ立てているにも関わらず、ある意味で女は何も語らなかった。小説についても音楽についても人生についても戦争についても革命についても、何一つ話さなかった。
僕は女の話に表面上は合わせながら、もっとこちらの興味をひくような中身のある話をしろよ、と内心で思っていた。
仮に女がいきなり「選択の公理の不在におけるバナッハ・タルスキーのパラドックスへの代替アプローチ」について語り出したら僕は猛烈に興奮したのかもしれない。でも当然そんなことにはならなかった。
無意味なトークタイムが15分ほど継続する。いくら話をしても、僕らの間には共通点が何一つないことがわかった。女の話は、人生の深みを理解している者にとっては空虚な発声にしか聞こえず、何も分かってないアホにとっては純粋に楽しさを感じられるんだろう。
女が喋れば喋るほど、僕の心の中に果てしない空白が広がっていった。こんなふうにノリだけで生きていけたら楽しいだろうな、と僕は横に座る女をうらやましく思った。女の話にいかにも興味深そうに相槌をうちながら。
会話の合間に僕は女の腰に手を回したり太ももを撫でたり手を繋いだりする。そういったアプローチに対して女は寛容だった。ルームウェア越しに女のお尻のサイド部分に触れた時、女は布面積のかなり小さいティーバックを履いているのが触覚でわかった。
あまりにも無意味すぎるトークタイムはなおも続く。部屋に設置されていた時計を見ると、入室してから40分が経過していた。90分12000円コースの約半分が女のクソつまらんカスみたいな話を聞いてイライラすることで費やされた。
僕の方からなかば強引に話を切り上げ、ようやくシャワーを浴びることに。
バスルームに移動する。もはやこの後にアツい展開が待っているわけがなかった。なので諦めムードでシャワーを浴びる。備え付けられていたバスタオルもしっかり薄いピンクであるところに店側の熱意を少し感じた。
部屋に戻る。電気が消えて、間接照明だけが点灯していた。
ようやくマッサージが始まる。マットの上にうつ伏せになり、女の施術を受ける。
両足→カエル足→腰、背中、肩→仰向けになり太もも→上半身という順に女は僕の体に触れていく。食パンにバターを塗るような、全く技巧のない触れ方だった。なお、女はマッサージのフェーズになると急にキャラ変する、といったことはなかった。ダメじゃん。
最後に女は僕の鼠蹊部をこれより適当にできないくらい適当に指圧する。そうしているうちにタイマーが鳴る。一丁上がりと言わんばかりに女は明るく終了の合図をする。
一連のサービスを受けて、このカワイイ女のことがはっきりと嫌いだと僕は思った。世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうくらい嫌いだ。
女に促されてシャワーを浴びる。
部屋に戻る。女の着ていたルームウェアはピンクからブルーになっていた。
その時点で入室してから90分が経過していた。制限時間いっぱいだ。しかし、女は僕に帰るように促さなかった。初期位置のソファに横並び体勢になる。そして女は無意味なトークタイムを再開した。
帰るに帰れず、女の深淵が見えてくるような質問を試しに投げかけたりしてみるも、女から吐き出される言葉は空虚そのものとしか言いようがない代物だった。
20分ほどが経過する。女のアイフォンに通知が。数分後に店のスタッフがオイルの補充にやってくるらしい。それを機にようやく退出することに。結局110分間このピンクの部屋にいたことになる。
玄関で女とお別れの挨拶をする。最後にキスしようとしたけど女はあっさりと拒絶した。その代わり女のブルーのルームウェアの上から乳を揉み、お尻を撫でた。
部屋を退出する。
つまらん女だ、というのが僕の中で今回の女に対する最終評価だった。怒りの感情すら湧いてこなかった。やれやれ、という虚無感だけがそこにはあった。
「彼女ん家」に遊びに来た恋人というより、異端者感覚を味わっただけだった。
二度と女に会うことはなかった。
◯
マンションの外へ。新大阪駅へと向かう。
僕は街を歩き、そこにある様々な建物や店を眺め、様々な人々の営みの姿を目にするのが好きだった。自分が二本の足で街の中を移動しているのだという感覚そのものが好きだった。でも今、僕のまわりを取り囲んでいるものは、何もかも陰鬱で虚ろに見えた。あらゆる建物は崩れかけ、あらゆる街路樹はその色を失い、あらゆる人々は新鮮な感情や、生々しい夢を捨て去ってしまったように見えた。
村上春樹の小説で好きな女性の登場人物ランキングを作るとしたら、「国境の南、太陽の西」の島本さんは全体の2位にランクインすると思う。ちなみに1位は「ノルウェイの森」の直子。3位は「1Q84」のふかえり。
このトップ3から分かるように、「ミステリアス」かつ「自分の思い通りにならない」女性に僕は心を動かされることが多い。
そして、この3人に共通している要素がもう一つある。
最後にはいなくなってしまうことだ。
「僕」は「島本さん」に二度と会うことできない。だから、そんな喪失感をまぎらわすために、僕はメンズエステに行くのかもしれない。
8 ねじまき鳥クロニクル

2023年12月。
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせて羊文学の『モアザンワーズ』を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかと思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、塩塚モエカは今まさにバンドアンサンブルをその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。新しい仕事の口のことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。
「メンズエステに行って欲しいの」、唐突に女が言った。
昼過ぎに僕は京都の「烏丸」駅で阪急電車を降りた。簡単な用事を済ませたあと、メンズエステ店に電話をかける。店の名前は「京椿」。名前だけでは何の店か分からないところが奥ゆかしくて、悪くないと思った。
大人しい口調の、おそらく中年の男性店員が電話に出る。僕は彼にこのあと利用できるか尋ねる。店員はたどたどしい口調で案内可能であると答える。「京都駅」付近か「四条烏丸駅」付近のどちらかの部屋を選択できるらしい。四条烏丸の部屋を利用したいと僕は言う。おおよその現在地を伝えると、10分も歩けば余裕で到着できると店員は言う。15分後開始で90分コースの予約が取り付けられる。割引イベントを適用すれば14000円が13000円になりそうだったが、なんとなくそのことを申告せずにいた。結局、店員は料金は正規の14000円となることを告げる。深い森の番人のように慎ましやかな応対をする店員に礼を言って電話をきる。
すぐにマンションの住所がショートメールで送られてくる。メールには部屋番号も記載してあった。なので今回はマンションの前でもう一度店に電話をかけて部屋番号を聞きだす必要がない。あれ、微妙に煩わしいですよね。
目的地に向かう。曇り空の下を歩くと、冬の始まりの京都の風が襟元を撫で回し、過ぎていく。果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。
道に迷わずに指定されたマンションに着いた。モダンなデザインの建物だ。少し入り口が分かりにくかった。オートロックに部屋番号を入力するとすぐに開錠される。これまた場所が分かりにくいエレベーターに乗って、5階で降りる。
指定された部屋のインターフォンを押す。ドアが開き、女が現れる。
出てきたのは女優の「仲里依紗」から生きがいを完全に失わせたような雰囲気の少しぽっちゃりした色白の20代前半の女だった。女の目は奥行きを欠き、輝きが一切見られなかった。この女が初対面で相手に好印象を与えることは一生ないんだろうな、と思った。
部屋着感全開の黒いキャミソールに黒いショートパンツを装着した女は、最低限の京都らしさを演出した和柄のベージュのペラペラのシャツを羽織っていた。しかし女の顔立ちと表情は京都らしい「はんなり」した感じとは対極にあった。
女はやる気のなさが滲み出てはいたものの、接客に必要な挨拶の言葉をなんとか発し、部屋へと案内してくれた。オシャレな内装の部屋だった。凝ったデザインの椅子に座る。女によってお茶が提供される。頂く。
女に促されて利用料金を支払う。1万5000円を支払い、1000円札が返ってくる。そして誓約書に署名する。市役所で印鑑登録の手続きをしているみたいな事務的な空気がずっと漂っていた。
シャワーを浴びることに。バスルームに移動する。狭くて簡素なバスルームだった。適当に洗浄を済ませる。置いてあったバスタオルは信じられないぐらいバリバリだった。強くこすると血が出そうだったので、体を拭く力加減に細心の注意を要した。そしてお決まりのティーバックの紙パンツを履いて部屋に戻る。
部屋では女が冷ややかな態度で待っていた。
ところで、「ねじまき鳥クロニクル」の女性の登場人物はわりと個性的、というかけっこう狂った人ばかりが揃っている。
夫が青いティッシュペーパーと花柄のトイレットペーパーを買ってきただけで激烈なヒステリーを起こす主人公の妻の「クミコ」、主人公にいきなり電話をかけて体の組成に有効な水について語りだす予知能力者の「加納マルタ」、ありとあらゆる肉体的な痛みに苦しんだ末に自殺未遂する娼婦「加納クレタ」、主人公を井戸の底に閉じ込める不登校の女の子「笠原メイ」…。設定もなかなかぶっ飛んでいるが、それ以上に、彼女たちのありとあらゆる立ち振る舞いにどこか生々しいまでのバイオレンスさが漂っていて、物語全体に横たわる狂気の現実味を底上げしている。
今日、僕が出会ったメンズエステの女には、そんな「ねじまき鳥クロニクル」に登場しそうなポテンシャルを秘めたギラっとした雰囲気がわずかに感じられた。しかし、90分のマッサージで女の奥深い部分にある狂気を引き出すには至らないかもしれない。
などと考えているうちにうつ伏せからマッサージが始まる。
それまでの態度から、女は終始無言で施術するタイプかなと思っていた。しかし意外にも女の方から雑談を振ってきた。
「今日は休みですか?」と女は言う。
「午後から半休なんです」と僕は言う。
「いいですね」
「実は、大阪に住んでるんですけど、今日こっちで用事があって」
すると京都在住の女はこのあいだ大阪に行った時のエピソードを軽く披露する。僕はそれに対して適当な相槌を打つ。そして女に京都府民から見た京都のオススメスポットを尋ねる。
しかし女はこれといって挙げられるスポットはない、と言う。京都なのに?と僕は言った。
「感性がないんです、私」と女は少し投げやりな感じで呟く。
「感性がないって、例えば?」と僕は尋ねる。
「綺麗な景色とか、立派なアートとかを見ても、全く何も思わないんです私。例えばこの前友達と一緒に関東に行ったんですけど、途中で富士山があって。それを見ても、ただ単にデカいなーとしか思わなくて。だから、どこに行っても何も感じないんです。休みの日に出かけるとしても、友達と温泉かご飯食べに行くぐらいのものです」
覚醒後の加納クレタにちょっと似てますね、と言いそうになったけどやめておいた。かと言って「感性がない人なんていないよ。たぶんどこにも」などと女に言うのも適切ではないと思った。結局、僕は女に対してぴったりと正しい言葉をうまく探し当てられなかった。
その後も適当に雑談を交わすも、大して盛り上がらなかった。左足のオイルマッサージが完了する頃に会話は終了した。右足に移行してからは全くの無言で進んでいった。女の口調には常にトゲがあり、喋っていて特に楽しいとは思わなかったので、別にそれでよかった。
女はトゲのある喋り方とは裏腹に、マッサージはそれなりに優しく丁寧で、与えられた仕事をきちんとこなそうとする実直さをその手つきから感じた。
無言のマッサージが数分間続く。
「カエル足お願いします」と女はクリニックの受付でマイナンバーカードの提出を求めるような口調で言う。言われた通りにする。
そこからは密着度の高いアプローチになった。若い女のムチムチとした肉体の接触は純粋な心地よさを僕にもたらした。紙パンツから少しはみでていた部分に女の体の様々な部分が頻繁に当たっていた。
「カエル足」が終了すると女は両膝を有効に使って僕のお尻や背中をグリグリした。素直に気持ちよかった。
女に促されて仰向けになる。足元から順番にオイルマッサージが施される。ふと女の方を見ると、黒いキャミソールからかなりくっきりとした胸の谷間が覗いていた。綺麗な線を描く谷間だった。女のおっぱいは僕が思っていたよりもずっと大きかった。女が動くたびに大きなおっぱいが僕の足にムニムニと露骨に押しつけられる。女のおっぱいは温かく、そして同時に冷たかった。
女は鼠蹊部サワサワ、からのデコルテという名の乳首イジイジ、という破壊力のあるコンボを繰り出す。その際、女の最大の武器が紙パンツ越しにコンスタントにヒットした。
それなりに評価できるアプローチをしているにも関わらず、女はあくまでも冷ややかな態度を貫いた。メンズエステの客に癒しを提供するスタンスにはほど遠かった。一揃いの骨格と、消化器と心臓と脳と生殖器を備えたただの生温かい肉塊を適当にいじくり回しているに過ぎない、どこまでも冷酷なマッサージだった。
そうこうしているうちにタイマーが鳴る。終了となる。
なんか早く帰りたかったので速やかにシャワーを浴びる。服を着て、お茶をもう一杯頂きながら女と軽く雑談をしてお別れとなる。
玄関でサヨナラの挨拶をする。その時、女は今日一番の笑顔を見せた。
部屋を退出する。
二度と女に会うことはなかった。
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「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」
「冷たいのね」
「昼飯をご馳走してもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」
◯
「交渉するなら、今ですよ」
「じゃあ、3000円払うからプーチンを止めてくれないか?」
◯
「あなたは一体何を抱えこんでいるの?」
「たいしたことじゃないよ」
「いつも嫌な夢を見るの?」
「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけどね」
「きっとあまりしゃべりたくないのね?」
「きっとうまくしゃべれないことなんだ」
「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない?」
「わからないな」
◯
「子供は作らないの?もうそろそろ作ってもいい年だろう?」
「欲しくないんだ」
「そう?」
「だって僕みたいな子供が産まれたら、きっとどうしていいかわかんないと思うよ」
「あんたは先に先にと考えすぎるんだ」
「いや、そういう問題じゃないんだ。つまりね、生命を生み出すのが本当に正しいことなのかどうか、それがよくわからないってことさ。子供達が成長し、世代が交代する。それでどうなる?もっと山が切り崩されてもっと海が埋め立てられる。もっとスピードの出る車が発明されて、もっと多くの猫が轢き殺される。それだけのことじゃないか」
「それは物事の暗い面だよ。良いことだって起きているし、良い人だっているさ」
「三つずつ例を挙げてくれれば信じてもいいよ」
「でもそれを判断するのはあんたたちの子供の世代であって、あんたじゃない。あんたたちの世代は……」
「もう終わったんだね?」
「ある意味ではね」
◯
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
◯
「ポロリさんって、笑ったら目元が高橋一生にすごく似てるって言われません?」
「高橋二世って呼んでもらって大丈夫ですよ」
◯
「そのあとのことを話すのはとても辛い。この辛さはどんな風にしゃべっても君にわかってもらえないんじゃないかと思う。できれば君の方から質問してくれないか?君にももうだいたいのところはわかっているんだろう?」
「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」
◯
「最初に君に会ったときから、僕はこう感じているんだ。君はなにかを強く求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとしているって。君にはそう思わせるところがある」
「求めるって、どんなものを?」
「さあ、どんなものだろう。僕にはわからない。ただの印象をただの印象として述べているだけだ」
◯
「人間の意識って、『顕在意識』と『潜在意識』の二種類に別れているらしいんですよ」
「どこかで聞いたことがある」
「その二つのうち、大事なのは『潜在意識』の方なんです、その本によれば。
例えば、その人にとって不利益になるような出来事に運悪く遭遇したとするじゃないですか。
それって実はその人の潜在意識がそうなることを望んだ結果だったりするらしいんですよ」
「そうかもしれない」
◯
「君はいなくなったけど、君はいつもそこにいた」
◯
「手に入らないものって、欲しくなりませんか?」
「あるいは、欲しくなるから、手に入らないのかもしれない」
「そういうものかな?」
「言い方を変えれば、手に入れようと思えば大抵のものは手に入るのに、本当に欲しいものが手に入らない」
「ポロリさんが本当に欲しいものってなんですか?」
「これ以上失えないほどの喪失感」
◯
「永遠の苦痛を心配するよりも、確実な虚無を信じた方が気が楽だわ」
◯
「僕は昔からいつも自分を、色彩とか個性に欠けた空っぽな人間みたいに感じてきた。それがあるいは、あのグループの中での僕の役割だったのかもしれないな。空っぽであることが」
「よくわからないな。空っぽである事がどんな役割になるんだ?」
「空っぽの容器。無色の背景。これという欠点もなく、とくに秀でたところもない。そういう存在がグループには必要だったのかもしれない」
「いや、おまえは空っぽなんかじゃないよ。誰もそんな風に思っちゃいない。おまえは、なんと言えばいいんだろう、他のみんなの心を落ち着けてくれていた」
「みんなの心を落ち着けていた?エレベーターの中で鳴っている音楽みたいに?」
「いや、そういうんじゃない。説明しづらいんだが、でもおまえがそこにいるだけで、おれたちはうまく自然におれたちでいられるようなところがあったんだ。おまえは多くをしゃべらなかったが、地面にきちんと両足をつけて生きていたし、それがグループに静かな安定感みたいなものを与えていた。船の碇のように。おまえがいなくなって、そのことが改めて実感できた。おれたちにはやはりおまえという存在がひとつ必要だったんだって」
◯
「でも不思議なものだね」
「何が?」
「あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」
◯
「死ぬ前に言い残す事はあるか?」
「………できれば4月13日まで生きたい」
「なぜだ?」
「その日、村上春樹の新作が発売する」
「………」
「………」
「おれも全作読んでる」
◯
秋が終り冷たい風が吹くようになると、彼女は時々僕の腕に体を寄せた。
ダッフル・コートの厚い布地をとおして彼女の息づかいを感じとる事ができた。
でも、それだけだった。
闇の中に消えてゆく螢、心の中に焼け落ちる納屋。
君の言葉、僕の心、そして歳月。
リリシズムとユーモアの交錯する青春の出逢い。
それはメンズエステにおいてのみ起こりうる、かもしれない。
◯
きみがぼくにそのメンズエステを教えてくれた。
ポロリの挑戦シリーズ
第6弾
限りなく村上春樹に近いメンズエステ
「人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う」と女は言った。
おれは何かを言わなくてはと思ったが、言葉が出てこなくて、小さく悲しい咳をした。
1 風の歌を聴け

「完璧なメンズエステなどといったものは存在しない。完璧な文章が存在しないようにね。」
僕がブログを書き始めたころ偶然に知り合ったあるエロブロガーは僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧なメンズエステなんて存在しない、と。
☆
僕は文章についての多くを「もるだの塔」のもるだに学んだ。殆んど全部、というべきかもしれない。不幸なことにもるだ自身は全ての意味で不毛な書き手であった。読めばわかる。ホームページは見辛く、更新頻度は不規則であり、情報は不確かだった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な書き手の一人でもあった。イケダハヤト、はあちゅう、そういった時代を牽引したブロガーに伍しても、もるだのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う。ただ残念なことに彼もるだ、には最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であるということはそういったものなのだ。
☆
この話は2022年の10月14日の午後1時に始まり、4時間半後、つまり同じ日の午後5時半に終る。
☆
その日、僕は有給をとって神戸の街へ出かけていた。鮮やかな秋の気配がすでに訪れ、外に出ても暑さを感じなかった。JR元町駅で電車を降り、南へ3分ぐらい歩くと雑居ビルの地下一階にジャズ喫茶がある。神戸に来た時は、よほど時間が切迫していない限り、僕はこの薄暗いジャズ喫茶を訪れることにしている。別に気に入っているわけじゃない。ちょっとした見栄を張るためにすぎない。
僕は大音量でジャズが流れる店に足を踏み入れ、いつもと同じ「会話禁止」と書かれたエリアの壁際の席に座り、椅子に背を預けて店の中を見渡してみた。これと言って特徴のない暇そうなオッサンと、スピーカーの真ん前に陣取る紳士風の老人。それだけだった。物語が起きそうな気配はない。
僕はブレンドコーヒーとホットドッグを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。メンズエステの女たちがあるていど出勤し始める14時過ぎまで、ここで過ごすつもりだった。読んでいるのは小川洋子の「人質の朗読会」。彼女の小説はいつも僕を物語の世界へと連れて行ってくれた。ジャズミュージック、コーヒーとホットドッグ、そして人質の朗読会。悪くない、と僕は思う。
☆
1時間ほどが経ち、僕は椅子から立ち上がり、代金を支払う。1000円ちょうどだった。ジャズ喫茶をあとにして、晴れた神戸の街を東へとゆっくりと歩く。センター街でジュンク堂書店に立ち寄って、本を数冊買う。書店を出て、さらに三宮駅方面へと歩く。「ミント神戸」に入り、エスカレーターに乗ってタワーレコードへ。数日前にラジオでたまたま知ったバンドのアルバムを購入する。
一通り買い物を済ませ、鞄が少し重くなったところでようやくメンズエステに行こうという気になった。アイフォンで目星をつけていた店に電話をかける。
「はい、ミセステノールです。」と電話に出た店員が言う。
「あ、すいません、今、三宮にいるんですけど、このあと利用ってできますか?」と僕は言う。
まったく問題のない応対をする店員がこの後の予約を取り付けてくれた。三宮駅から徒歩で5分ほどのところにあるマンションに行けばいいらしい。スムーズなやり取りを終え、電話が切れる。
今回選んだ店は、20代半ばから40歳ぐらいまでの、比較的高い年齢層の女を揃えた店だ。若い女の施術によるヴィヴィッドで鮮烈な喜びより、年を重ねた女による複雑で洗練された深い喜びをどこかで僕は求めていた。「ミセステノール」。ジャズっぽい響きもある名前だ。悪くない。
すぐに店からマンションの住所がショートメールで送られてきた。Googleマップを見て大体の位置をつかんでから、そのマンションに向かう。
引き続きアイフォンを操作し、サファリを起動する。メンズエステ店のホームページで公開している本日の出勤情報を確認すると、「今すぐ案内可能」だった3名のうち、一番若い金髪ギャルの25歳が「120分後空き」に変わった。おそらくこの女がマンションで僕を待っている。
☆
僕は36歳になる。中年と言うには早すぎるかもしれないが、以前ほど若くはない。僕はこれまでに3人のブログ読者の女の子と実際に会った。
最初の女の子はシャネルのワンピースを着た明らかに金持ちそうな人だった。阪急百貨店の入口で待ち合わせて、綺麗な景色が見えるカフェ&バーでとりとめのない会話をしたあと、街をブラブラして別れた。
僕たちはその日以降もラインでやり取りをしたけど、いつの間にか連絡は途絶えた。
二人目の相手は環状線の福島駅で会ったものすごく地味な顔の人だった。彼女が着ていた象のようにデカいダウンジャケットがゲロみたいな色をしていたのが印象的だった。食事をしてすぐに帰った。
三人目の相手は地方在住のOLで、彼女が大阪に遊びに来た際に会ってセックスした。全身という全身が性感帯で、どこに触れてもすさまじく敏感な反応を示した。会って数年後、彼女が交通事故に遭い、生死をさまよっているのを知った僕は新幹線に乗って彼女の住む街までお見舞いに行った。入院中の病院に行くと、笑うことも出来ないぐらい激しく体が損傷した彼女がベッドに横たわっていた。彼女に似合いそうなお見舞いの花を置いて帰った。その後、時間はかかったものの、無事に回復したようだった。
3人とも、二度と会うことはないと思う。それどころか、僕のくだらないブログなんかとっくに読まなくなっているだろうし、僕のことを覚えてすらいないと思う。人生とはそういうものだ。そうこうしているうちに僕は37歳になり、順調にいけば次の年に38歳になる。
☆
ぴったし5分歩くと指定されたマンションにたどり着いた。やや老朽化が目立つ建物だった。エントランスで再度店に電話をする。先程の店員から部屋番号を告げられ、オートロックに入力する。愛想のいい声が機械から発せられ、解錠される。エレベーターに乗る。
部屋のベルを押す。ドアが開き、女が現れる。パネルから想像していたのは強い顔立ちのギャルだったが、実際に現れたのは童顔のカワイイ系の色白の女だった。25歳と表示されていたが、20歳でも通用しそうなあどけなさがあった。女は髪の毛の色が金髪の部分と青の部分と赤の部分の3つに分かれていた。その配色は財政が破綻しかけたヨーロッパの国の国旗みたいだった。
黒いワンピースを着た女に、最低限の好意と敬意を表して迎え入れられる。部屋の中へ。
ローテーブルの前の座椅子に座り、紙コップに入ったお茶をいただく。
まずは料金を支払う。90分13000円だ。すると、もう1000円払うと「衣装チェンジ」のオプションが付けられ、そばにあるハンガーラックにぶら下がった白いキャミワンピに着替えてくるのだと女は言う。そのワンピースに着替えたからといって、何が起こるわけでもないのは明らかだったが、僕は14000円を女に支払った。
支払い済ませ、シャワーを浴び、紙パンツを履いて部屋に戻ると女は白いキャミワンピに着替えていた。
うつ伏せに寝転がり、なごやかな雰囲気でマッサージが始まる。全身への指圧→足元からのオイルマッサージという典型的な流れだった。女の体の触れ方に、何ともいえないセンスを僕は感じた。
女と雑談しながらマッサージは進んだ。女は前は別のメンズエステで働いていたが、この店に移籍して今日が10回目ぐらいの出勤だと言う。それに対して僕も自分のメンズエステの利用歴を適当に述べる。
天真爛漫な感じの女は喋りやすくて、会話をしていて楽しかった。しかし、もっとごくあたり前の状況でめぐりあえたとしたら、僕たちは少しも楽しい時間を過ごせなかったと思う。そんな気がした。いずれにせよ、ごくあたり前の状況で女の子にめぐりあうというのがどういうことなのか、僕にはまるで思い出せなかった。
「お尻、めちゃくちゃ綺麗ですね。」女は僕の大臀筋辺りを揉みながら感心したように言う。
「普通とか、平均がどう言うものかわからないけど、ありがとう。」と僕は言う。
カエル足と呼ばれる体勢に移行し、太ももや鼠蹊部が揉まれる。女は紙パンツからはみ出しかけている僕の睾丸には何があっても触れないコースでストロークをした。その代わり、ところどころで挟まれるフェザータッチが効果的で、それなりの快感を僕は感じた。そのフェザータッチが女の最大の武器のようだった。
次に四つん這いの体勢になる。お尻や鼠蹊部に女からのアプローチがかかる。この体勢でも女は通常のタッチとフェザータッチを交互に繰り出した。
再度うつ伏せになり、背中や肩を揉んでもらう。その際も通常タッチ→フェザータッチ、のコンボは繰り出された。というか、最後まで一貫してそのやり方だった。ストレートとカーブしか投げられないピッチャーみたいだった。
仰向けになる。白いワンピース姿の女が微笑んでいた。女はそんなに美人なわけではないが、白いワンピースの胸元から覗く形のいい美巨乳が見応えがあった。
女は僕の太ももや腕、そして鼠蹊部を先ほどから延々と繰り返されるコンボでタッチする。流石に同じパターンすぎてすでに飽きていたが、あるがままに女の施術を受け入れた。
そうこうしているうちにタイムアップのタイマーが鳴る。マッサージが終了する。
☆
シャワーを浴びて、服を着て部屋に戻ると新しいお茶が提供された。それを一口で飲んだところで、お別れとなる。玄関で女に見送られる。
ドアを開けると外の光が入ってきて、女の髪の毛の金と赤と青を綺麗に照らした。僕は女とお礼とお別れの言葉を交わして、ドアを閉める。マンションを出て、僕は不思議なくらい鮮明な夕暮の中、意味不明な建物が立ち並ぶ静かな三宮の街を南へとゆっくりと歩いた。
歩いていると、僕が36年間抱き続けたメンズエステへの憧憬はまるで舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。
2 1973年のピンボール
見知らぬメンズエステの女の話を聞くのが病的に好きだった。
彼女たちはマッサージの手を止めることなく実に様々な話を語り、そして語り終えると一様にその余韻を残したまま沈黙する。あるものは気持ちよさそうにしゃべり、あるものは腹を立てながら喋った。実に要領良くしゃべってくれるものもいれば、始めから終りまでさっぱりわけのわからぬといった話もあった。退屈な話があり、涙を誘うもの哀しい話があり、冗談半分の出鱈目があった。それでも僕は能力の許す限り真剣に、彼女たちの話に耳を傾けた。そうすると、近いようでどこまでも遠くにいる、そして永遠に交わることもないであろう人間の生のゆるやな、そして確かなうねりを感じることができる。
🌲
これは「僕」の話であるとともにポロリと呼ばれる男の話でもある。
2022年11月下旬、この記事はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。
🌲
その日は神戸で仕事があった。かなり精神的な負担の大きい業務内容だった。出口の見えない案件を僕たちは抱えていた。その案件の致命的な問題点の解決の糸口が見つからないまま、退勤となった。
そのままの気分で大阪に帰るのがためらわれた。なので僕は近くのメンズエステを利用することにした。アイフォンでめぼしい店を検索する。その時点で出勤しているセラピストのラインナップが一番よさそうだったのが「パームプリンセス」という店だった。なかなかお洒落な名前だ。
ホームページ上に記載されていた電話番号をタップする。電話に出た受付は女性だった。90分で利用したい旨を僕は伝える。すると受付は13000円のコースか18000円のコースのどちらかを選択できると言う。無論、18000円のほうがいいサービスを受けられるはずだ。18000円の方を選択する。
電話を切る。すぐにショートメールが送られてくる。利用するマンションの名前と住所が記載されていた。現在地からすぐのところだ。そちらへ向かう。
果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。出口の見えない案件の状況が好転するわけではないが、とりあえず今日はこの後のひとときを楽しもう、と僕は思った。
🌲
入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えばメンズエステ。
🌲
「女の子が今、準備してますので、19時15分になりましたら〇〇号室でお願いします」
マンションの前で再度店に電話をしたら、先程の受付の女はそう言った。電話を切ってアイフォンの画面を見ると19時8分だった。特に見所のない住宅エリアの中、ツイッターやインスタグラムを閲覧して少し待つ。19時16分に僕は受付が言った部屋番号をオートロックに入力する。するとあっさりとした声が機械から聞こえてきた。解錠される。
エレベーターに乗り、部屋へ。この、オートロックからエレベーターに乗って部屋に向かう時は、付き合って半年ぐらい経つガールフレンドの家を訪ねる時の気分に通じるものがある。
インターフォンを押すとドアが開き、癒し系のルックスの柔らかな空気感の女が現れる。顔の造作は控えめでスッキリしているが、首から下はそこそこ豊かな肉付きをしていた。僕は女と曖昧な挨拶を交わす。
部屋の中に案内される。後ろを向いた女の姿を眺めると、丈が短くて生地の薄い白いワンピースの下にショッキングピンクのTバックが思いっきり透けていた。なかなかの格好だ。
テーブルの前にある大きな椅子に座る。お茶を頂き、料金を支払う段階で、例によってオプションをやんわりとすすめられる。僕はなんとなく「衣装チェンジ」を選択した。ちょっと地味目な顔をした女の衣装が今のスケスケワンピース以上にエッチなものにグレードアップするのを見てみたかった。利用料金は総額20000円になった。デリヘルや店舗型ヘルスで全裸の女の子にフェラや素股をしてもらって射精できる金額だ。この金額で、女の子が脱ぎもせず舐めもせず、こちらからタッチもできず、射精も基本的には禁止されているメンズエステを利用するのだ。最高に贅沢な金の使い方だと僕は思う。
僕は1万円札を2枚財布から取り出し、女に渡す。そしてお決まりの「誓約書」にサインをして、シャワーへと移動する。
シャワーを浴びて、紙パンツを履いてバスタオルを腰に巻いて洗面所を出ると、部屋の電気は消され、淡い間接照明だけになっていた。
2000円を費やして達成された女の衣装チェンジはというと、エメラルド色をしたキャミワンピに変わっていた。さっきは部屋に電気がついていた関係もあって、透け感の差はいまいちわからなかった。でも、最初の白いワンピースで全然よかった。むしろそっちの方がよかった。
うつぶせから施術が始まる。
マッサージが始まって数秒で、女の手つきが完全にド素人のものだというのが伝わってきた。メンズエステを何回も利用するうちに、そのあたりはすぐに分かるようになる。僕の経験上、ある水準を超えたメンズエステの女は、その手を用いて「対話」をする。こちらの肉体が無意識に発信しているメッセージに耳を澄ませ、ささやきかけるような施術をする女が確かに一定数、存在するのだ。しかし今回の女の触れかたはあくまでも一方通行だった。サーブだけ打って終わりで、ラリーのないタッチを女は施した。そんな稚拙で単調なストロークを僕は享受する。
マッサージの間も会話は続いた。誰と話す時でもそうなのだろうか、女はゆっくりと、そして正確な言葉を捜しながらしゃべった。その淡々としたペースは最初から最後まで崩れることはなかった。呼吸を乱さずに一定の速度で走り続けるマラソンランナーのように。
話題は互いの仕事の話から始まり、女の身の上話に移行する。
女は今年の夏に「新型コロナウイルス」に感染したらしい。その頃、女は飲食店のバイトと夜職を掛け持ちしていて感染のリスクが比較的高かったため、やむなしといった感じだったが、後遺症が強く出てしまい、相当苦しんだのだと言う。感染してから3ヶ月以上が経った今はだいぶ落ち着いているものの、在籍していた職場の全てに出勤できなくなってしまい、結局辞めることになってしまった。
今はとりあえずつなぎでこのメンズエステと、単発の派遣の仕事をたまにやって生計を立てている状態である。以上の内容を女は抑揚の少ない声で語った。
僕は女の話に対して、高価なワイングラスの水気を拭き取るような相槌をうち続けた。すると女は問わず語りでさらに自分の過去について話した。女は短大を卒業したあとに就いた正社員の仕事での人間関係をはじめとして、家族関係、恋愛関係でうまくいかなくて精神を病んだ。心療内科にかかったところ、自律神経失調症の診断がつき、結局仕事を辞め、彼氏と別れ、家族とも距離を置いてフリーター生活を始めたと言う。
女が体験した派遣のバイトでの特に盛り上がりのないエピソードを丁寧に説明されているうちに時間は過ぎていった。途切れることなく穏やかに語り続ける女の淡々とした口調に、どうしようもない悲しみが内包されているのに僕は気づいていた。その悲しみは女が先天的に携えている要素なのか、女が人生を歩む上で付き合うことになった困窮や抑鬱によるものなのかは分からない。いずれにせよ、僕は女が抱える女なりの小さな世界が嫌いではなかった。
足元からお尻、背中へとまずまずのテンポで施術は進行していく。女の単調な手は、僕の敏感な部分から必ず一定の距離をとるように動いた。カエル足→四つん這いという定番の体勢を経て、女の膝の上に乗っかるようなポジションで背後から腹部をサワサワされる。女の手つきが今一つな上に、こちらの敏感な部分への接近が一切なかったので特に満足感を得られることはなかった。
女に促されて仰向けになる。女は僕の太もも付近のなんとも言えない部分をさするようにマッサージする。女の手技の均質さはここに来ても失われることはなかった。女のつぶらな瞳を見つめながら、相変わらず大して面白みのない雑談を継続させる。
タイマーが鳴る。体感的に終了ではなく、「あと数分で終了」を予告するタイマーだと思われる。飛田新地の1回目のチャイムがなった時のあれだ。学校で言うところの「予鈴」みたいなものだ。
女の口調と手技が淡々としすぎているせいで、この後もう一山あるのか、締めくくりムードになっているのかちょっと分からなかった。停滞した空気が流れる。
「どこが一番気持ちよかったですか?」と女が言う。どうして過去形で言うんだ、と僕は思った。
どこも全然気持ちよくなかったわボケ、と言いたくなるのをこらえて「全部」と僕は雑に答える。
「上?下?」と女はなおも問いかける。
「上」と僕は適当に言う。
質問が過去形だったのにも関わらず、無意味な手の動きは止まらなかった。駐車したのにエンジンを切り忘れた車のように。この中途半端な感じのまま、最終のタイマーが鳴るまで過ごすんだろうな、と僕は思った。
すると、唐突に女の顔が僕の眼前に接近した。
それに呼応するように、僕の指先が女のTバックに素早く接近する。そして。
そして。
続きは有料です。
🌲
「続きは有料です」と書かれたブログの下書きを目にして、2023年12月のポロリはため息をついた。
ポロリはいつも女の子と別れた帰り道に、その日の出来事を全てを殴り書きして下書きの形で保存するようにしていた。天気や街の雰囲気から始まり、女の外見や性格や、行為の流れや印象的な会話や駆け引きなどを書き尽くしておく。そして実際に記事を書く際、その下書きを整理して文章の形にして、全体的に肉付けをして推敲して記事を完成させるのだ。それがポロリの2020年代におけるブログの執筆スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、ポロリが固めた。
しかし、今回の下書きの肝心な部分は、2022年11月のポロリによって「続きは有料です」とボカされていた。読者向けにこのネタを使おうとしたのだろう。しかしそのせいで、実際に最終的に女とどのような行為に及んだのか、分からなくなってしまった。残念なことに記憶にも全く残っていない。キスをしたかもしれないし、手マンしたかもしれないし、手コキをしてくれたのかもしれないし、全てを拒絶されたのかもしれない。
いずれにせよ、最もポロリの記憶に強く刻まれているのは、女に漂う、強まったり弱まったりすることのない、安定した穏やかな虚無感だった。
2023年12月のポロリはこの記事を梅田の純喫茶で書いている。最近の趣味のレトロ喫茶めぐりを兼ねてだった。店の名前は「喫茶サンシャイン」。
この喫茶店の創業は、1973年だった。
🌲
で、タイマーが鳴った。今度こそ施術終了を意味するタイマーだ。「続き」を続けたかったけど、流石に粘りすぎてはいけないと思い、密着した女から身を離す。女の方も息は荒いままながらも、「続き」をしたいのかしたくないのかよく分からない態度だった。ただ、こちらのアプローチに対してはしっかりとヌルヌルっとした反応なのは間違いなかった。
曖昧な雰囲気のまま、終了となる。浴室に移動し、シャワーを浴びる。
部屋に戻ると電気がついていた。オイルまみれのエメラルド色のキャミワンピを着た女が柔らかに微笑みながら待っていた。
女は12月から正社員で働くことが決まっていて、このメンズエステ店はあと数週間で辞めてしまうのだと言う。僕は女がその正社員の仕事もすぐに辞めるだろうと想像した。
「じゃあ、辞めるまでに、行けたらまた行っていい?」と僕は言う。女は快く了承する。
「ツイッターって、やってます?」と女は言う。
「やってない」
「じゃあ、ライン、やってますか?」
「やってる」
ラインを交換する。互いに適当なスタンプを1つずつ送信し合う。
玄関に移動する。もう一度女と「続き」を少しだけした。
「またどこかで会おう」と僕は言う。
「またどこかで」と女は言う。
ドアを開け、女と別れる。この玄関のドアが今日の入口でもあり出口でもあった。しかしメンズエステ自体に出口はなかった。
僕は一人駅までの道を歩き、秋の夜の光が溢れる火曜日の神戸の街を眺めた。何もかもが死に絶えてしまいそうなほどの11月の静かな火曜日だった。
3 羊をめぐる冒険
二〇二三年八月十二日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。
それは「羊をめぐる冒険」みたいな、うさぎをめぐる冒険だった。

👇
「ねえ、あと十分ばかりで大事な電話がかかってくるわよ」
「電話?」僕はベッドの脇の黒い電話機に目をやった。
「そう、電話のベルが鳴るの」
「わかるの?」
「わかるの」
「うさぎのことよ」と彼女は言った。「たくさんのうさぎと一羽のうさぎ」
「うさぎ?」
「うん」と言って彼女は半分ほど吸った煙草を僕に渡した。「そして冒険が始まるの」
少し後で枕元の電話が鳴った。僕は四回ベルを鳴らしておいてから受話器を取った。
「すぐこちらに来てくれないか」と僕の相棒が言った。ぴりぴりとした声だった。「とても大事な話なんだ」
「どの程度に大事なんだ?」
「来ればわかるよ」と彼は言った。
「どうせうさぎの話だろう」
「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてうさぎをめぐる冒険が始まった。
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梅田に着いたのは15時過ぎだった。地下鉄の改札を抜けて歩きながらメンズエステに電話をする。店の名前は「うさぎのお部屋」。適当に検索して見つけた店だ。他のメンズエステ店とは一線を画すメルヘンなホームページの作りと、在籍女性の顔写真が全てアニメチックに加工したものである点に、店側のコンセプチュアルな姿勢を感じたので利用しようと思い立った。
電話に出たのは不貞腐れたような口調の愛想のない店員だった。全然「うさぎのお部屋」っぽくないテンションだ。彼は声が異様に小さくて滑舌が悪かった。地下街の喧騒の中、常に耳に神経を集中させながらの通話となった。
今から利用したい旨を伝える。すると店員は何事か問いかけてきたが、何を言っているのか全く聞き取れなかった。おそらくセラピストの指名の有無か何分コースかの質問だ。
「(指名は)特にないです。あ、90分コースで考えてるんですけど」と僕は言う。
それに対する返答もろくに聞きとれなかった。聞き返すと「兎我野町」という単語がかろうじて聞きとれた。その後も何回か聞き返した上で、兎我野町にある「シーズ」というホテルに行き、建物の前で再び店に電話をかければいいことが分かった。
電話を切り、目的地へと向かう。
辿り着くのは「うさぎのお部屋」なのか、それとも。
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この世にうさぎの種類はどのくらいあるのだろうか。
インターネットで調べたらすぐにわかる。うさぎの品種の数は国によって数え方が異なり、日本ではARBA(全米うさぎブリーダー協会)の公認に準拠した51種類のうさぎが純血品種として認識されている。一方、イギリスのブリーダー協会によると150種以上が種として公認されているとのことだ。出典は定かではない。しかし、正確な情報を知ったところでどうしようもないことではある。
日本でペットとして人気があるうさぎは10種類ほどで、ネザーランド・ドワーフ、ホーランド・ロップ、ライオンラビット、ドワーフホト、ジャージー・ウーリー、ダッチ、ミニ・レッキス、イングリッシュアンゴラ、アメリカン・ファジーロップ、ドワーフパピヨンあたりが挙げられるらしい。
その一方でメンズエステのセラピストは言うまでもなくこのように種類分けされていない。かと言って一人一人に系統立った特色がないわけではない。むしろ、メンズエステでは良くも悪くも、様々な個性を持った女性が現れる。
僕がメンズエステを繰り返し利用していくうちに強く思ったこと、それは「同じ人間は絶対にいない」ということだ。そんなの当たり前のことかもしれない。しかし、その当たり前のことを本当の意味で発見した時、僕はその事実を強く噛み締めるようになった。同じ人間は絶対にいないのだ。それはとても美しいことであるとともに悲しいことだと僕は思う。
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途中で通りがかった、改装工事が完了した「泉の広場」。工事によって、あらゆる冒険の可能性を秘めた地下ダンジョンのセーブポイントが、冷たく非人間的でよそよそしいスポットに様変わりしたと僕は感じる。
泉の広場から地上に出て、真夏の午後の歓楽街を少し歩く。目的のホテルが見えてきた。風俗店の利用で何度か訪れたことのあるホテルだ。
再び電話をする。先程の店員が出る。地上の静かなところで通話をしても男の声は非常に聞き取りづらかった。何かの試練を課せられているかのようだった。しかしそれに苛立つことは自らの敗北を意味する。
「インフィニティで100分、とフロントにお伝えください」と彼は言ったようだった。しかし「100分」の部分しか聞き取れなかった。
「ごめんもう一回、なにで100分って?」と僕は言う。
「イ・ン・フィ・ニ・ティ」
フランス語の過去分詞の性数一致について講義するように店員は声のボリュームを上げてしっかりと発音した。大した「お・も・て・な・し」精神だ。礼を言って電話を切る。
部屋番号の報告のためにこのあともう一度店に電話をかけなければならない。やれやれ、と僕は思った。
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ホテルに足を踏み入れる。ドアの開く位置がトリックアートのように分かりにくかった。
フロントで僕は受付の男性に向かってアクリル板越しに「イ・ン・フィ・ニ・ティで100分」と言う。男は無言で僕に部屋の鍵を渡す。彼の左手の小指と中指は第二関節から先がなかった。
どうして「うさぎのお部屋」の店員は最初の電話でこの合言葉を伝えずにホテルの前で電話をもう一度かけさせたのだろう。そして、合言葉が「うさぎのお部屋」ではなく「インフィニティ」であることに対して少し引っかかるものはあった。
とりあえず、利用する部屋に入る。

中途半端に撮影された現場の風景。パッと見はある程度キレイに撮れたものの、実際は部屋中に饐えた臭いが広がり、いたるところに埃が降り積もる不潔な部屋だった。「いるかホテル」の方がよっぽどまともだと思う。
店に電話をする。同じ店員が出る。部屋番号を伝える。三度目の電話となれば流石に学習していたので、僕は電話口の男の声の超絶な聞き取りにくさに対して全力で耳をチューニングした。そのおかげか、最後の男の言葉は聞き返さずに一発で理解できた。
「すぐに女の子が参ります」
電話を切る。トイレに行き、洗面所で最終の身だしなみを整えて、ボロボロのソファに座って3分ほど待つ。
コンコンとノックが。ドアを開ける。うさぎ博士が僕の前に立っていた。
と言いたいところだが、普通にメンズエステの女が来た。
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やって来たのはメイクが濃いめのギャル系の30代の女だった。セミロングの髪の毛はすりきれたじゅうたんみたいにぱさぱさして、肌は健康状態を疑いたくなるほどガサガサしていた。服装はユニクロとかGUで購入したと思われる白い無地のTシャツにジーパン。女の外見だけで判断すると、うさぎを連想させる要素は皆無だった。それどころか、生活臭のあふれるその服装は、人に見られることを前提とした格好とはとても言い難かった。着の身着のまま、そこらへんの老朽化したアパートからとりあえず出てきましたみたいな風体だ。ただ、女は目鼻立ちがそれなりにはっきりとしていたので、無理やり美人ということにすれば美人と言えそうだった。
ソファに移動する。
「お姉さん、すごい美人ですね」と僕は言う。
「ありがとうございます」と女は言う。
「ホームページの写真、みんなアニメみたいに加工されたのんばっかやったからどんな感じか想像つかなかったんですけど、実物みてびっくりしました」
「あれっ?普通に写真、載ってるはずなんですけどね。でもありがとうございます」
女は接客用の人工的な笑顔ではなく、自らの素の部分が作り出した表情でなごやかに僕に接した。顔立ちの強さとは裏腹に落ち着いた柔らかな立ち振る舞いだった。
メンズエステに出勤するのが一ヶ月ぶりであると言う女は、段取りを思い出せずに動作がぎこちない部分があったが、彼女の醸し出すゆっくりとした雰囲気のおかげで、特に不安や苛立ちは感じなかった。
持参した大きな鞄から大きなタオルを取り出してベッドに設置したところで、女は思い出したように利用料金を僕に請求する。その際、女は鞄から出てきた二種類の衣装を僕に見せる。
「この普通のワンピースだと料金そのままなんですけど、3000円の追加料金を払ったら、こっちの透け透けのワンピースを着て、下着を取っ払うって感じなんですけど、どうしますか?」と女は言う。
「せっかくなんで、3000円のほうで」と僕は言う。
「じゃあ、合計18000円です」
僕は財布から1万円札を2枚取り出して女に提出する。2000円が速やかに返却される。
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女に促されてシャワーを浴びることに。紙パンツを手渡され、バスルームに移動する。
部屋同様、とてつもなく汚いバスルームだった。床におびただしいほどの黒カビが付着していた。嫌がらせをするためにわざとはやしたといったタイプのカビのはえかただった。そして、壁やバスタブのあらゆる部分に軍隊との激しい戦闘が起きたのかというくらい無数のキズが刻まれていた。僕はそのありさまを見て思わずため息をついた。その空間にいるだけで体が致命的に汚染されそうだった。しかし割り切って素早くシャワーを浴びる。シャワーヘッドから透明なお湯が出てきたのが奇跡だと思えるほど悲惨なバスルームだった。
タオルで体を拭いて紙パンツを履く。マッサージ終了後もこのバスルームを使用しなければならないと考えると、少しうんざりした。
「やれやれ」と僕は言った。
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部屋に戻る。ベッドのそばで女がスケスケのワンピースを着てスタンバイしていた。ワンピースが透けて見える女の肉体は全体的にたるみが目立った。もとからこうだったわけではなく、これまでの人生でそれなりに苦労してきたせいで崩れてしまった体型だと感じた。
うつ伏せからマッサージが始まる。定番の全身指圧→足元からオイルマッサージの流れだ。
「メンズエステはよく来るんですか?」と女は言う。
「めっちゃ久しぶりなんですよ」と僕は嘘をつく。
「前に利用したのっていつですか?」
「もう記憶にないぐらい昔です。メンズエステって、ハマる人はハマって、しょっちゅう通うって言うじゃないですか。でもおれは正直何がいいのか分からなくて、それっきり足が遠のいてて。で、なんか、久しぶりにどんなもんやったっけなーって思って、来ました」と僕はでまかせを言う。
「そうなんですね」
「なんか、マンションを訪れるイメージがあったんですけど、この店はこういうホテルに派遣する感じなんですね」
「正味、ここはヌキありの性感エステなんですよ」
「そうなんや」
「てゆうか、マンションタイプのメンズエステは大阪万博までに全部摘発されて、なくなると思います」
「へー。だから、こういうスタイルの店が今は主流になってきるんですかね」
「おそらく。私、かけもちでもう一つのお店にも勤務してるんですけど、そっちもホテルで施術する感じです」
「そっちは、その、普通のメンズエステなんですか?」
「いや、そっちも性感エステ」
会話を交わしながら僕は一つの疑念を抱いていた。今、僕が会話をしているのは本当に「うさぎのお部屋」というメンズエステ店のセラピストなのだろうか。
いくつか腑に落ちない点があった。まず、ここまで「うさぎ」を連想させる要素が皆無である点。しかし店がホームページなどで客向けに謳っているコンセプトと実際のサービスが乖離していることは往々にしてある。次に、ホテルのフロントに「うさぎのお部屋」ではなく「インフィニティ」と言って部屋を確保させられた点。まあそれもどうとでも説明はつく。最後に、女が「ホームページに普通にセラピストの写真が載っているはず」と言った点。こればかりはちょっと説明がつかない。明らかに僕が見たものとは別のホームページを指した発言だった。
一体、僕をマッサージしているこの女は何者なのか。「うさぎ」ではないのか、それとも。
答えはいくつか考えられる。「うさぎのお部屋」はホームページだけ存在していて、実質的な運営は別の性感エステが行っているのかもしれない。あるいは「うさぎのお部屋」の窓口に電話がつながったものの、何らかのやむを得ない事情により、他の派遣型性感エステ店に業務が振り分けられたのかもしれない。または、そもそも僕が何かの手違いで「うさぎのお部屋」ではない別の性感エステ店に電話をかけた可能性もある。
女と会話をしながらうつ伏せのマッサージが終わるころ、こういった自分の洞察が無意味であると僕は気づいた。真実はどうあれ、この女と90分18000円のひとときを過ごすことは揺るがないのだ。
女の指示で四つん這いになる。この辺りから一気に密着度が上がっていく。覆い被さるような体勢で、女の腕が僕の鼠蹊部をヌルリとストロークする。僕の睾丸に100パーセントタッチするルートで。当然のように、紙パンツの内側の僕の股間はむくむくと膨らんだ。
「お兄さん、肌めっちゃ綺麗ですよね。何歳なんですか?」と女は手技の艶かしさとは対照的な日常会話の声色で尋ねる。
「37です」と僕は少し快感に溺れかけた声で言う。
「えー、見えない。同い年ぐらいかと思ってた」
「お姉さんは何歳なんですか?」と僕は尋ねる。
「33歳」と女は言う。
「まじか、若く見える。20代かなーって思ってました。…結婚してます?」
「結婚はしてないけど中学生の子供がいます」
などと会話をしているうちに四つん這いが終わる。
女は次のルーティンを思い出すのに少し時間をかけたあと、僕に体勢変換を促す。
「えっと、私に背を向けたまま、あぐらをかいてもらっていいですか?」
女に言われた通りにする。
背後から接触してきたのは女の手ではなく唇だった。入居を検討中の3LDKを内見するように女の唇は僕の背部をくまなく探索した。やがて女は僕の耳をはむはむと甘噛みする。その力加減が絶妙だった。「もののけ姫」でサンが気絶したアシタカに口移しで食べ物を与える時のような力加減だった。おそらく僕の人生史上最高クオリティの耳たぶの噛み方だ。それと同時に女の腕が回ってきて、指先で乳首を優しくいじられる。かなり気持ちいい。屈強な男に締め殺されたみたいな変な呻き声が思わず出る。激烈に勃起する。
次の体勢になる。女の指示で仰向けになる。視線の先には女のはっきりとした顔があった。
「窪塚洋介に顔立ちが似てますよね」と女は言う。
「初めて言われた。お姉さんは誰似とか言われる?」と僕は言う。
「安室ちゃんとかかな」
「あー」
女は仰臥する僕の体にオイルが垂らす。マッサージが仕上げの段階に入る。女はためらいなく僕の一番硬くなった部分をしっかりとほぐしにかかる。
「乳首、弱いですか?」
「急所です」
僕の急所が二箇所同時進行で刺激されていく。女の手つきを堪能する。
「横に寝転んでいいですか」と言いながら女は僕に添い寝するような体勢に切り替えて同じ場所を攻め続ける。
顔が間近にあったので、僕は女に何回かキスをする。そして自然な流れでスケスケのワンピースの胸元に手を伸ばし、女のやや崩れたおっぱいに触れる。そのおっぱいは僕の手のひらにしっくりと馴染んだ。
「一応この店、お触り禁止なんですけど」と女は笑顔で言う。
もはやこの店、もルールもあったものではなかった。僕は無言で女の体にアプローチをかける。そうこうしているうちにフィニッシュとなる。的確な時間配分でマッサージは一連の流れを成し遂げた。
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そのままの体勢で数分間イチャイチャしながら雑談をする。女とは初対面の男女にありがちな、足りない言葉を探しながら会話を進める必要がなぜかなかった。それがとても心地よかった。
時間制限が迫ってきた。シャワーを浴びることに。汚いバスルームに移動する。やはりこれ以上汚くできないくらい汚いバスルームだった。
「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。
シャワーを速やかに浴び、部屋に戻る。
女は最初の白いTシャツとジーパンに着替えていた。雑談がそれなりに盛り上がった流れでラインを交換する。タイミングが合えば飲みに行こうと曖昧な約束を交わした。なんなら今日、女の退勤後に近くの居酒屋で軽く飲もうかという感じになった。しかし女がその店の価格帯を気にするそぶりを見せてきて、なんとなく女の困窮した生活が透けて見えるような気がして申し訳なくなり、今日はやめておくことになった。女と一緒にいればいるほど、女との親密さが失われてしまいそうな気がした。
ホテルを退出し、建物の前で女とサヨナラする。
八月の夕方の気持ち悪くなるくらい蒸し暑い梅田の歓楽街では、目に映る何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった。僕はその中を数分歩き、地下街に足を踏み入れる。どこに行けばいいのかはわからなかったけど、とにかく僕は歩き続けた。行き交う人々の話し声の中、背中に小さなうさぎの声が聞こえた。
4 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。

2023年6月上旬、大阪ミナミの「桜川」駅付近のマンションのエレベーターに私は乗っていた。メンズエステを利用するためだ。店の名前は「ミセス美オーラ」。ホームページを見ると、この店は「20代から40代までの大人ミセスが癒しを提供する」という漠然としたコンセプトを簡潔に掲げていた。詳細は実際に体感することでしか分かり得ない。
駅を降りて電話をかけると、紳士的な口調の男性店員が出た。こちらの好みの聞き取りや、このあとの段取りや駅からマンションまでの道のりや料金体系の説明に関して男は誠実に穴のない対応をした。私は清楚系で小柄でマッサージの上手いセラピストが理想であると伝えた。出勤情報を見る限り、その時点で4人の女がスタンバイしているようだった。男が私の希望に最も近い女性をあてがってくれることを期待した。すると男は案内する女の子の名前を明らかにする代わりに、指名料1000円が追加されるとサラリと説明する。彼が非常にうまい話の運び方をするため、私はその料金の上乗せを何の抵抗もなく受け入れた。結局90分13000円プラス1000円で利用料金は14000円になるようだ。手の指の数を数えるよりも簡単だと言わんばかりに、男は理知的な話し方で明確な料金説明をした。電話応対を繰り返しているうちに自然に身についたものなのか、それとも彼の本質がそうなのか、それはわからないが、洗練された上品さが男の声から感じられた。いずれにせよその結果、私は巡りあった女から誰にも理解されない無益なマッサージを享受するのだ。
電話を切ると即座にショートメールでマンションの住所が送られてきた。他のメンズエステ店と同じ受付の流れなのにも関わらず、ものすごくシステマティックに計算された抜かりのないスムーズな対応だった。そう感じさせる受付の男性店員はただものではないと私は思った。しかし受付の対応の質とサービスを行う女の子の質は必ずしも比例しないことを私はこれまでの経験上、知っていた。
アイフォンを操作してGoogleマップで方角を確認し、指定されたマンションに向かいながら店員が言ったセラピストのプロフィール画面を閲覧した。何十人もいる在籍女性の中で、その女だけが写真が掲載されていなくてツイッターアカウントもなかった。おそらく入店して間もないと思われる。その時点で少し不安がよぎったが、店員の割り当てを信じるしかない。
などと考えているうちに指定されたマンションに到着した。フロントで店に電話をかけると、先程の男性店員が部屋番号を私に告げた。礼を言ってその番号をオートロックに入力し、解錠してもらった。中に入るとすぐにエレベーターの入口が見えた。
そのようにして私はエレベーターに乗った。狭いエレベーターは緩慢な速度で上昇した。まるで人生の何かを示唆しているようだった。しかし人生のどういった要素の暗喩であるのかうまく考えつくことができないまま、6階に到着する。
廊下に出る。目的の部屋のインターフォンを押す。ドアがゆっくりと開く。
現れたのは黒髪で猫っ毛のぽっちゃりした20代後半の女だった。「新しい学校のリーダーズ」のツインテールの女の子に目鼻立ちが似ていた。「清楚」よりも「地味」の方が適切な気もしたが、清楚と言われても捉える人の寛容さ次第ではギリギリ嘘ではないと思う。限りなく地味に近い清楚、あるいは限りなく清楚に近い地味で票が割れる外見だった。
女は私の顔をしばらく確認するように眺めてから、私に向ってこっくりと頷く。なんか言えよ、と思いながら私は可能な限りなごやかに「お邪魔しまーす」と言いながら玄関で靴を脱ぐ。
女は太っていた。「太っていた」というより「少し太っていた」と言った方がより正確な表現だ。見るものの主観に左右されるかもしれないが、私はそう感じた。
私は彼女のうしろを歩きながら、彼女の首や腕や足を眺めた。夜の間にそれなりの量の雪が降ったみたいに、女の肉体には満遍なくふっくらとした肉が付着していた。人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くのタイプがある。この女の場合は対面する相手に残念な印象を与える太り方だった。ずんぐりとしたそのスタイルは私の好みに合っていなかった。ただ、私はそれほど多くのメンズエステの女に対して好感を抱くわけではない。どちらかといえばあまり抱かない方だと思う。だから女が太っていることはこの場合、直接的には関係のないことなのかもしれない。私はその地味で太った女のうしろについて廊下を歩きながら、だいたいそんな印象を抱いていた。彼女はブルーのノースリーブニットに白いタイトミニスカートという格好だった。ミニスカートの下にはTバックの下着が女の肉付きのいいお尻に強く食い込んでいるのが透けて見えた。
私がとおされたのはがらんとした6畳ぐらいの部屋だった。簡素なソファにテーブル、横長の鏡にマット。余分なものは何ひとつとしてない。女は私にソファに座るように言う。どういうわけか彼女はド緊張していて、接客の台本を読むので精一杯といった感じだった。聞くと、今日が初出勤で、私が初めての客なのだという。やれやれ、と私は思った。
ソファに座る。女はテーブルの上の問診票と誓約書に記入するように言う。かたわらに置いてあったペンを手に取り、問診票の必要事項にチェックを入れようとした瞬間、女は利用料金の提出を私に求めた。要領の悪い人間なら軽くパニックを起こしそうな、嫌がらせみたいなタイミングの悪さだった。やれやれ、と思いながら私はペンを置き、鞄から財布を取り出し、90分コースの14000円を女に支払う。そして再び問診票と誓約書の記入に戻る。適当に必要事項を埋める。
「書けました〜」と私は朗らかな口調を意識して言う。
「ありがとうございます」と女はわざとらしい猫撫で声で言いながら紙を受け取る。
「シャワーの準備をして参ります」と女は言う。
「あ、はい」と私は言う。
女が洗面所の奥に消える。15秒ぐらいシャワーの流れる音が聞こえてくる。そして部屋に戻ってくる。
「できました」と女は言う。
「あ、はい」と私は言いながらソファから立ち上がる。
バスルームに案内される。
「紙パンツの着用をお願いします」と女は言ってその場を立ち去る。
女はフィリップ・K・ディックの小説に出てくるアンドロイドみたいに機械的な語り口だった。完全にメンズエステ客に向けての作られた人格での対応だった。中途半端に愛想のいい声色だから余計に不気味だった。こちらからちょっとしたジョークを挟む余地が全くなかったので、単純な返事をせざるをえなかった。
シャワーを浴び、タオルで体を拭いて紙パンツを履いて洗面所を出ると、部屋の明かりは間接照明だけになっていた。
「うつ伏せになって下さい」
私が部屋に一歩足を踏み入れた瞬間に女はマットを指差して言った。やはりイラっとする間の悪い発言の仕方だった。ディストピアにおける完全管理社会のシステムに支配されたような雰囲気が演出されていた。しかし今さら「頼むからそのイケてない喋り方を改善してくれないか」と女に文句を言ったところで改善されるわけがない。受付の店員の対応の水準をどこかで期待してしまっていた私が愚かだっただけのことだ。期待をするから失望が生じるのだ。
うつ伏せからマッサージが始まる。無論、マッサージが始まる前から女のマッサージの腕にはあまり期待していなかった。
「力加減など、おっしゃってくださいね」と女は言う。
「強めがいいです」と私は間髪入れずに反応する。
女は足もとから順番にタオル越しに指圧を施す。予想に反して女はマッサージがうまかった。それは女自身の能力というよりは、きめ細やかに作成されたマニュアルに沿って忠実に動いた結果、ある程度の効果的なマッサージが達成されているといった感じだった。
そこそこの心地よさを感じながら程よいテンポでオイルマッサージが進んでいく。下半身をオーセンティックなストロークで終えた後に上半身に移行する。全身がムラなく膨らんだ女の肉体が私の腰元にのしかかる。特に圧迫される感じはしなかった。
上半身のマッサージが体感的にかなり早く完了した。それでも凝っていた首と肩が割としっかりとほぐれた感覚があった。ここまではエロ要素が限りなく排除された、ザ・マッサージだった。次は「カエル足」あるいは「四つん這い」か、はたまた早くも仰向けか、と思っていたら女はうつ伏せの体勢を変換することなく、再び下半身のオイルマッサージを初めからやり直し始めた。全く同じ手法の再現に唖然としたが、特に不服を申し立てることはしなかった。
そのまま同じ手順で上半身に移行し、それが終了するとようやく女は私に仰向けになるように言う。言われた通りに体勢を変換する。女の姿が視界に入ったが、殴りたくなりそうだったので女の顔を直視しないようにした。足もとから順に上へと普通のオイルマッサージが施されていく。私の股間周辺に女の手は決して接近しなかった。まるでそこから強力な反発力が発生しているかのように。その手がたどるルートは絶対的な諦念を私にもたらした。
まだ時間はかなり残っている。その時点で私は身体的にも精神的にも退屈を持て余していた。なので過去に体験した猥褻な体験を思い出してみようという気分になった。
その時、思い浮かんだエピソードがこれだ。
→ポロリの終りとハードボイルド・エロメンランド
過去の性行為の思い出に思考を委ねていたら、ちょっと勃起した。
女はそんな私の紙パンツのムックリとした膨らみにはお構いなしに、マニュアルに忠実だと思われる施術を進行させていく。仰向けにおいても、下半身→上半身ときて、再び全く同じ手順を一からやり直した。
女に促されて上体を起こす。女は私の背後から首と肩と背中をほぐしていく。もしかしたら本来のメンズエステとはそもそもこういうものなのかもしれない、と思わせる徹底的に普通のマッサージだ。私が認識していたメンズエステにあって然るべき「魂を揺さぶる奇跡的な何かが起きるかもしれない空気」が皆無だった。その時点で、女と私との間に決定的な断絶が存在していることに気づいた。
「本日はこれで終わりになります」
終了してからも女はマニュアルに忠実と思われる案内の仕方で、私をシャワーに案内する。
「ごゆっくりどうぞ」と言って女は洗面所を去る。
私は虚無的な気分で紙パンツを脱いでゴミ箱に投げ捨て、シャワーを浴び、体を拭いて服を着る。
部屋に戻る。テーブルの上に紙コップに入ったお茶が用意されていたのでいただく。
「力加減はいかがでしたか」と女は言う。
「よかったです」
肺炎をこじらせて死にかけた犬のため息のような声で私は女の顔を見ずに言う。一体どこの世界に「程よい力加減」を求めてメンズエステを利用する男がいるというのだろう。
「よかった」と女は機械的に言う。
「ここに墓を建てたくなるほど気持ちよかったです」と私は嫌味混じりでくだらない冗談を言った。
女はとくに反応しなかった。客がそう言ってきた場合の反応の仕方を事前に店側が教えていなかったからだと思う。
90分コースだったが、入室して75分ぐらいで女に見送られて部屋を退出した。世界の終りみたいなメンズエステ体験だった。どうせならハードボイルドでワンダーランドなアクシデントが起きて欲しかった。奇妙な電話が唐突にかかってきたり、ガスの点検をしに来た男に頭骨を盗まれそうになったり、見たこともないほどの巨大な男に1Kの部屋を徹底的に破壊しつくされたり。しかし現実はこんなものだ。世界の終りみたいだ。
5 ノルウェイの森

「たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くふりして一人でこっそり食べるのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『ごめんミドリ、苺のショート・ケーキはどこにもなかったよ』って申し訳なさそうな顔で言うの」

2024年2月。僕は38歳で、そのとき阪急電車の京都線のシートに座っていた。そのスマートなあずき色の電車は県境を越えて烏丸駅に到着しようとしているところだった。僕は顔を上げて目の前の誰も座っていない深緑のシートを眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
6年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕は彼女の最後の表情をはっきりと思い出すことができる。悲しくなるほど好きで、苦しくなるほど好きで、泣きたくなるほど好きで、死にたくなるほど好きだった彼女の、ダイヤモンドになれなかった最後の表情を。
やれやれ、また京都か、と僕は思った。
◯
陽が沈む頃に僕は用事を終え、京都の街をあてもなくぶらぶらしていた。あてもなく、というのは間違いかもしれない。京都の街はどこ歩いても、彼女の影を感じずにはいられないから、無意識のうちにそれを追いかけてしまうのだ。
気分を変えたくて僕はメンズエステに行くことにした。アイフォンで適当に検索すると、近くで利用できそうなメンズエステ店を見つけた。店の名前は「花鳥風月」。京都らしいネーミングだ。
電話をかける。数回のコールの後、感じのいい女性店員が電話に出る。このあとフリーで利用したい旨を伝える。店員は19時から案内可能であると答える。
通常のマンションタイプのメンズエステであれば、電話の後に利用するマンションの住所がショートメールで送られてくる流れになるはずだ。しかし。
「ショートメールが使えないので、まず、今から言うコンビニに行っていただいてよろしいでしょうか?」と店員は言う。
「あ、はい。コンビニっすね」と僕は言う。
「そちらに着きましたら、改めてお電話をいただいてよろしいでしょうか。利用するマンションと部屋番号をお伝えしますので」
「わかりました」
「それではファミリーマートの◯◯店にいったんお越しください」
電話を切る。グーグルマップを開き、店員が言ったコンビニを検索する。5分ほど歩けば着くようだ。僕は中途半端な高さのビルが建ち並ぶ烏丸通りを南下する。2月の冷ややかな空気には終わりかけた冬の匂いが混じり、遠くの音がいやにきれいに聞こえた。
目的のコンビニに向かいながら僕は「花鳥風月」というメンズエステのホームページを改めて確認する。女性が個人で経営するアットホームなメンズエステ店のようで、オーナーとセラピスト達とで仲良く食事に出かけたりする様子がSNSに投稿されていた。セラピストの紹介ページは至って健全なテイストだった。これほどまでに性的な要素が感じられないメンズエステも逆に珍しい、と僕は思った。
指定されたファミリーマートに到着する。僕は改めて「花鳥風月」に電話をかける。先ほどの女性店員が出る。多分この人がオーナーなのだろう。
コンビニに隣接するマンションに部屋があるようだ。予約時刻になればオートロックに部屋番号を入力するように店員は言う。僕はそれを了承して電話を切る。
隣の建物に移動する。無機質なデザインのコンクリート打ちっぱなしのマンションはどこか閉鎖的な雰囲気があり、マンションを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したマンションみたいな印象を見るものに与えた。しかしその建物は決して不潔ではないし、暗い印象もない。
19時になる。店員に告げられた部屋番号をオートロックに入力する。すぐに解錠される。
エレベーターに乗り、5階で降りる。おしゃれすぎて読みにくい字体で表示された部屋番号を確認し、インターフォンを押す。
黒いドアが開く。清楚系ど真ん中の20代前半の小柄な女が僕に顔を見せる。「SOD女子社員シリーズ」に出てきそうな顔立ちだ、と僕は女を見て最初に思った。ちなみに僕は10年ほど前、ほんの気まぐれで東京の中野にあるソフトオンデマンドの本社で女性向けAV男優の面接を受けたことがある。結果は不採用だった。
女はレースが品よくあしらわれた白いワンピースを着ていた。清楚で上品な格好に対し、女は程よくくだけたムードで僕を迎える。実家の隣の家にいた当時小学生だった女の子と15年ぶりに再会したみたいな空気感だ。
部屋の中に入る。外装と同様にコンクリート打ちっぱなしの室内は和のテイストを程よく取り入れたインテリアで構成されていた。間接照明が淡く部屋を照らす中、僕は畳素材の長椅子の上の座布団に座る。
女は暖房の温度設定を30℃にしているけど部屋がぜんぜん暖まっていないことを僕に詫びる。おそらくこの内装による保温性の低さのせいだと思われた。
女は冷蔵庫から缶に入ったお茶を出して僕に手渡し、僕は礼を言ってそれを飲んだ。お茶は半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。
料金を支払う。80分コースで14000円だった。オプションは特になかった。
「お兄さん、若いですよね!」と女はさっぱりとした口調で言う。
「いやいや。お姉さんも若いやん。大学生とかですか?」と僕は言う。
「働いてますよ〜」
「そうなんや。何歳なんですか?」
「24歳」
清楚な見た目ながら愛嬌のあるカジュアルな物腰の女は、普段は経理の仕事をしつつ、週に数回メンズエステの仕事をしているのだと言う。
互いの仕事の話を少しする。女は何事もストレートでハキハキとした喋り方で、僕にはそれが小気味よく感じられた。
寒々しい建物や薄暗い部屋と対照的に、今僕の目の前にいる女はまるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした目を見たのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。比較的落ち着いたルックスとのギャップが特によかった。「ノルウェイの森」で例えるなら「限りなく直子に近い緑」という感じだった。似ていると言われる芸能人がいるか訊くと「ヨコヤマユイ」と女は答えたが、僕は顔が思い浮かばなかった。
限りなく直子に近い緑は、長いあいだ京都在住であると言う。京都府民がオススメする京都の飲食店を教えてもらったりして数分間、雑談を交わす。
話がひと段落したところで女に促されてバスルームに移動する。シャワーを浴びる。
定番の紙パンツを履いて部屋に戻る。
あいかわらず部屋の中は肌寒いままだった。
限りなく直子に近い緑は僕にマットの上にうつ伏せで寝転ぶように言う。司法解剖が執り行われる台のように寒々としたマットだった。僕は言われた通りにする。
マッサージが始まる。女は僕の背部をまんべんなく指圧したあとにオイルを足元から順番に塗っていく。
限りなく直子に近い緑による両足のオイルマッサージの腕前は可もなく不可もなくといったところだった。これまでに僕はそれなりの数のメンズエステのセラピストのマッサージを受けてきたが、その中で最も「可もなく不可もなく」という評価が当てはまる施術だった。「可もなく不可もなく」というタイトルのインスタレーション作品として出品できるくらい可もなく不可もなかった。
可もなく不可もなくのマッサージを受けるとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くことーーそれだけだった。僕はライトアップされた巨大な水槽の中の無数の金魚や、待ち合わせをしたスターバックスや、山奥の温泉旅館や無人のレストランや、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。突然のメールや、棺桶の中の激しく損傷した死体や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。
幸福な生活を送ることが、最大の復讐である。
などと考えていると、限りなく直子に近い緑は僕に足の位置を変えるように指示する。
「これ、『カエル足』っていうんですよ。覚えて帰って下さいね」と女は言いながらマッサージを施す。
女の声色は快活で非常に可愛らしかった。メンズエステを利用する寂しい男にとったら、この女と日常会話を交わしているだけでディズニーランドに来たみたいに特別な気持ちを抱くことができるんだろうと僕は想像した。
女に促されて体を横向きにする。
側位で添い寝をするような体勢で女は後ろから腕と脚を伸ばし、それらを用いて僕の体のなんとも言えない部位を丁寧にマッサージする。まるで魂を癒すための宗教儀式のように。
「これ、『マーメイド』っていうんですよ、覚えて帰って下さいね」と女は言う。
ぴとりと僕の背中に体を寄せる女の息づかいがかすかに感じられた。でもそれはただそれだけのことだった。女の施術にはそれ以上の意味は何もなかった。
「カエル足、はなんとなく聞いたことがあるんですけど、マーメイドっていう技は初めて聞きました」と僕は言う。
「そうなんですね。私もこれ、講習で習ったんです」と女は僕の耳元で言う。
性的な要素がほとんど感じられないマッサージを進めながら、時々女はうしろから僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。
話題は休みの日の過ごし方についてになる。僕はほとんどの休日を読書をして過ごすと言う。
「お姉さんは本、読みますか?」と僕は尋ねる。
「読むは読むけど、がっつりハマるっていう体験は今までなかったです」と女は言う。
「そうなんや。どういうのが好きとかあります?」
「昔、ハリーポッターは好きで読んでました。好きな作家とかいます?」
「村上春樹」
「名前だけ聞いたことあります」
「そうなんや。機会があればぜひ読んでみてほしい」
「どの作品がいちばん好きですか?」
「うーん。。。まあ、『ノルウェイの森』が面白いですよ」
「そうなんや。ノルウェイの森。どんな感じの本なんですか?」
「なんていうか、いちばん好きな村上春樹の小説は?と質問されるといつも返答に窮してしまうんです。僕はノルウェイの森を小説としてかなり高く評価してるんですけど、あれはもう別格の作品で、『いちばん好き』とかそういう範疇にはとても入ってこないんです。でもまあ、とにかく面白いです。村上春樹の中でも異質と言われているから一番初めに読むべきではないって言うファンも多いんですけどね。この前も村上春樹が好きな人と喋ってて、『ノルウェイの森を最初に読むのは私はオススメしない』ってその人は言ってたんですけど、個人的にはノルウェイの森が最初の村上春樹でもいいんじゃないかなって思う。普通に読みやすいし、ボリュームもそこまでないし。で、どんな話かっていうと、一言で言ってしまうと基本的には恋愛小説なんですよね。でもそれだけでは説明しきれない面白さとか深い味わいがこの小説にはあって。そもそも小説の面白さってどういうところから来るのかって話なんですけど、色々あるとは思うけど、そのうちの一つが『対比構造を楽しむ』っていうことだと思うんですよ。恋愛の話だったら男と女、ハリーポッターだったら敵と味方、魔法学園の人たちと悪者みたいな対立構造があるじゃないですか。物語ってだいたいそういう構造を軸にして進んでいくと思うんです。で、ノルウェイの森の対比構造は何と何かっていうと、もちろん単純に恋愛小説としての男と女っていうのはあるけど、それ以上に重要なのが『聖』と『俗』の対比構造なんですよ。いわゆる純文学って呼ばれているジャンルの小説ではそれなりにあることなんですけど、良い悪いとか、正しいか間違ってるかとか、そういう単一の視点で捉えた現実世界の一般的な尺度が入る隙間のない、それを超えた人間の複雑さとか人生の深みを掘り下げた二項対立が描かれることがあって、ノルウェイの森の場合はそれが『聖』と『俗』なんです。言い換えれば地上世界と地下世界、とかまあ分かりやすく生の世界と死の世界っていうニュアンスもあったりするんですけど。ほんで、このノルウェイの森の登場人物、色々と出てくるけど、出てくる人物ほぼ全員がその『聖』か『俗』のどちらかに属していて、一人一人の『属し方』がめちゃくちゃ魅力的に表現されていて、それがものすごく立体的な人物像として読めるようになっているんですよ。さらに登場人物が属している『聖』と『俗』のそれぞれの人数の配分も、二つの要素の描写の分量も完璧すぎるバランスがとられていて、その計算され尽くしたかのようなバランス感覚がたまらなく良くて、小説としての完成度の高さに繋がっているんです。超スタイリッシュな建築物みたいなんです。例外的に主人公とその先輩だけが『聖』と『俗』の両方の間を行ったり来たりして揺れ動くポジションなんですけど、彼らが行動する場面を読む時は小説の世界の中でこちら側とあちら側を往復する大きな旅をしているような壮大な感覚におちいるんです。その時の彼らが『揺れ動く感』によって、人間とか人生の複雑さが凄まじいリアリティをともなって読む側の心に圧倒的な力強さで迫ってくるんですよ。あと、この小説は『喪失感』が一つのテーマになっているんですけど、読み手が読む時期によってその喪失感の捉え方が変化するっていうのもすごい点なんです。僕は大学生の時に初めてこの本を読んで、その時は登場人物に直接的に感情移入するタイプの読み方をして直接的な喪失感を感じたんですけど、それから年をとるにつれてそれなりに色々と経験した上で改めて読んでみると、また違った色合いの喪失感を感じるんですよね。それで30代になってまた読んでみると『完全に過去のものになってしまった喪失感』ってやつと出会えたんです。もっと言えばこの小説を初めて読んだ頃の懸命に生きていた自分のことを思い出さずにいられない、そういうノスタルジーみたいなのを感じたというか。めっちゃ奥が深いよなこの小説、ってなりました。僕、一回読んだ小説って基本的に二度と読まないんですけど、この村上春樹っていう作家だけは、まあまあ、他にもいるけど、この小説は本当に面白いのでたまに読みます。ほんと、これ以上面白い恋愛小説を読んだことないんですよ本当に。他の作家の小説を読んだりもするんですけど、本当にこれ以上面白い小説に出会ったことない。本当に面白いです。ノルウェイの森。ほんとね、これ以上面白い小説を、知りたいんですよ。ほんとは。でもこのノルウェイの森がほんとに面白くて、、本当に面白いです。本当に面白い、読んだらびっくりすると思うんですよ。ほんっとうに面白いです。これはもうほんとに、何度読んでもうなるんですよ。本当に面白いです。本当に、マッサージ止めてってくらいほんと面白いです。いつも面白い面白い言うんですけど、心の底から言ってます。僕、本を年間100冊以上読むのを20年ぐらい続けてるんですけど、その中でも本当に3本の指に入るぐらいこれ面白いです。とにかく面白いとしか言えないので、一回読んでみて欲しいです」
「読んでみます。じゃあ四つん這いになってもらっていいですか?」と限りなく直子に近い緑は言う。
僕は女に言われた通り四つん這いの体勢になる。女が背後からマッサージをする。女の指先は焦らすことなく普通に僕の乳首を刺激した。僕はそれに対してやや意識して敏感な反応を示す。
「乳首、弱いんですね」と女はあっさりと言う。
僕は言葉にならない声で返答する。しかしそれ以上に性的な領域に女の手が侵入することはなかった。
仰向けになる。女の施術の手は僕の太もも、鼠蹊部、デコルテ、そして乳首を満遍なく移動していく。なんとも言えない沈黙が続き、膠着状態になったところでタイマーが鳴る。マッサージが終了する。
僕は上体を起こし、女を軽く抱いて礼を言う。立ち上がり、バスルームに移動する。シャワーを浴びながら僕は素早くマスターベーションをした。一人暮らしの大学生がアルバイトに出かける前に手早く作るズボラ飯みたいなマスターベーションだった。
部屋に戻る。僕は最初に座った座布団の上に座り、女と締めくくりの雑談を交わす。退出の時間が来たようなので、荷物をまとめて玄関に移動する。
「疲れたらまた来てくださいね」と女は言う。
「疲れてなくてもまた来ます」と僕は言う。
玄関の外へ。笑顔で女と別れる。
二度と女に会うことはなかった。
マンションの外に出る。駅に向かって京都の街を歩く。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星から帰ってきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだ、これが彼や彼女のいない世界なんだと思って哀しい気持になった。
6 ダンス・ダンス・ダンス
よくメンズエステの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。
メンズエステそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりをはっきりと感じることができる。僕は、夢の中では、メンズエステの一部である。
そういう夢だ。
目が覚める。ここはどこだ?と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかける。「ここはどこだ?」と。でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは京都だ。
僕は企画で京都に来ていた。それは自分のブログ記事のために京都のメンズエステ店に潜入するという企画だった。誰もそういう記事を求めていないし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない、なんてこともない。しかし誰かは書くのだ。そういう記事を。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は11年半の間、こういう自己満足な文化的半端エロブログを続けていた。文化的雪かき、にすらならない。文化的オナニーだ。
◯
僕はメンズエステ店に電話をかける。すぐに人がでた。まるで待ち構えていたみたいに、すぐだった。
店の名前は「肉球たっぷ」。メンズエステ店にしては割と珍しい名前だ。メイドのコスチュームを着た20歳前後の女が男性客にマッサージを施すというコンセプトカフェみたいな要素を含んだ店のようだ。
「どうもーたっぷですー」と電話口から中年の男性店員の声が聞こえてくる。
「あ、すいません、このあと、フリーの90分コースで利用できればと思ってるんですけど」と僕は言う。
「このあとですね」
「はい。今、四条烏丸にいるんですけど」
「かしこまりました、えーっと、、ご利用可能ですよぉー」
男はフレンドリーな口調でありながら一歩引いた受け答えを忘れない、好感の持てる電話応対の仕方だった。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」と僕は言う。
「それではあの、ご利用代金がー、、通常だと、90分で13000円なんですけどね、、、」と男は急に歯切れ悪く言う。
僕は店員の言葉の続きを待つ。
「今、女の子が一人だけ待機している状態なんです」と男は言う。
「そうなんですね」と僕は言う。
「はい。それで、もしよければ指名料も合わせて、、、15000円で、ご利用の方、いかがですか?」
やれやれ、と僕は思った。どうしてこの店員はこんなにも下手な料金の案内をするのだろう。それなら最初から堂々と選択の余地なく総額15000円だと言っておけばいいのだ。
やわらかな物腰で下手くそな案内をする男に、失敗と敗退と挫折の影が染みついている哀しげな要素を僕は感じた。僕はそんな不器用ながらもどこか人情味のある男に対して少しの同情と親近感を抱きながら、その金額を支払うことを了承する。
「ありがとうございます!女の子も喜びます。◯◯ちゃんていう、とても可愛らしい女の子なのでね。このあと詳細をメールでお送りするので、そこにGoogleマップのURLが載ってますので。それをタップしたらマンションの場所が表示されますので」と男は言う。
「わかりました」と僕は言う。
「それではお待ちしております。よろしくお願いいたします」
「お願いします」
電話を切る。
果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。
◯
店員の言った通り、すぐにショートメールが送られてくる。URLをタップすると利用するマンションの位置が表示された。そこに向かう。
あまりパッとしない一角にそのマンションはあった。入り口がどこにあるのか分からなかった。
建物の前で店に電話をする。先程の店員が出る。
店員のナビゲートによって、非常に分かりづらい位置にオートロックがあるのを見つける。告げられた部屋番号を入力する。解錠される。
エレベーターに乗り、2階で降りる。こじんまりとした廊下だった。その狭さの割に設置されている部屋のドアの数が異様に多かった。
目的の部屋を見つけてインターフォンを押す。扉が開く。
メイド服を着た小柄ながらもややムチムチした体型の二十歳ぐらいの黒髪の女が現れた。女はマスクをしていたが、その内側はやわらかい表情をしているのが伝わるおだやかな雰囲気で僕を迎える。おっとりしていていい感じだった。まるでメンズエステの精がメイドの形態で出現したかのようだった。
入室する。6畳ぐらいのスペースの真ん中に大きなマットが部屋の主のように鎮座していた。そのマットが部屋から生活の匂いを消す役割を果たしていた。マットの周囲にはピンクのソファにガラスのテーブル、壁際にはお馴染みの横長の大きな鏡がたてかけられている。そしてハンガー・ラックに様々なコスチュームがぶら下がっているのが見えた。
僕が上着を脱ぐと女はすぐさまそれを受け取り、ハンガー・ラックの一番端にかけてくれた。男の欲望を満たすための衣装のラインナップの中に僕のビューティフルピープルの黒いコートが一時的に加わった。
どことなく非現実的な部屋の粗末なソファに座り、お茶を頂く。そして早い段階で料金の支払いとなる。受付の電話で男性店員が提示したのは15000円だったが、女はそこからさらにオプションとして「衣装チェンジ」を僕にすすめる。ハンガー・ラックにかかっている何種類かのコスチュームの中から好きなものを客が選択できるようになっていた。羊のコスチュームがあれば間違いなくそれを選んでいた。しかし現実はそううまく物事は繋がらない。
僕は少し迷った挙句、ベビードールを選択する。追加料金は5000円となり、総額2万円を僕は女に支払う。言うまでもなく経費で落ちるわけがない。「ところが落ちるんだよ」と五反田君なら言いそうだが、全額自腹だ。文化的オナニーだから。
ここまでの立ち振る舞いを観察する限り、女はメンズエステの仕事にあまり慣れていない様子だった。あとで店のホームページを確認すると「体験入店」と表示されていた。いずれにせよ、僕はこの女から2万円分のサービスをこれから受けることになる。
まずは女の案内でシャワーを浴びることに。僕はソファから立ち上がる。
するとそのタイミングで女は言った。
「2日前にインフルエンザにかかったので、マスクしたままだけど、いいですか?」
やれやれ、と僕は思った。先程の店員といい、どうして今日はこんなにもノーと言いにくい問いかけをされるのだろう。僕は特に気の利いた冗談が思い浮かばず、シンプルに了承する。
シャワーを浴び、お馴染みの紙パンツを履いて部屋に戻る。限りなく下着に近いベビードールに着替えた女が待っていた。
マッサージが始まる。最初はうつぶせ、ではなく、鏡に向かってあぐらをかいて座るように言われる。初手にこの体勢は珍しい。
後ろから女が僕にタオルをかぶせる。女はタオル越しに僕の肩を指圧する。「指圧」というより「指で軽く押す」の方が適切な動作だった。「ど素人かよ」と思いながらその動きが数十秒続いた後、女は僕に言う。
「膝の上に乗っていいですか?」
この問いかけに対しても僕はノーと言えずに了承する。
女が僕の視界に入ってくる。そして対面座位のような体勢であぐらをかいた僕の膝の上に女は腰をおろす。そのポジションで女は僕の首や肩を揉んでいく。
女の背後にある鏡にティーバックを履いた女の大きなお尻が映っていた。とても綺麗なお尻だった。美しく、優雅で、生命感に溢れていた。オリンピックの開会式で登場してきそうなお尻だ。思わず腕を回してそのお尻を鷲掴みにする。女が拒絶しなかったのでそれを撫で続けて過ごす。
次にうつ伏せの体勢に移行する。
女は僕の足元から順番にオイルを塗りひろげていく。完全に初心者の手つきだった。大した心地よさも快感も得られないまま「カエル足」までがあっさりと終了した。
マッサージをしてもらいながら僕らはゆっくりとしたペースで会話をした。最低限のプロフィールネタを互いに披露する段階で、女は生まれてからずっと京都在住であると言う。だから僕は京都のオススメスポットを尋ねる。しかし女はどこを紹介すればいいか思いつかない様子で口ごもる。
そんなに難しい質問をしたつもりはなかったが、都合が悪いところが何かあるのなら仕方ないと思い、僕は話題をもう少し世間一般的なものに変えた。
しかし女は高畑充希もリュウジのバズレシピも村上春樹も知らなかった。僕がそういった固有名詞を口にするたびに、女は何か言わなくてはと思ったが何を言えばいいのかわからないといった様子で口を閉ざした。
逆に世の中について何を知っている?と言いたくなるほど女は何も知らなかった。10月の次に何月がくるのかも知らなさそうだった。世俗の垢にまみれず生きてきた、というより現実世界に生き損ねた結果こうなったみたいな感じだった。それは結果的に女のメンズエステの精感が強調されることとなった。
マッサージ、というより単なるオイルの塗布は進んでいく。
女に促されて仰向けになる。
相変わらずゆっくりとした手つきで定められたコースをきちんと辿るように塗布が続く。しかし僕は段々と女の手つきに「天然のいやらしさ」を感じはじめた。それは文字通り女の先天的な才能によるものだ。際どい部分へのタッチがないのにも関わらず、結果的に僕は勃起する。
この女は時間をかけて適切な訓練を受ければかなりのテクニシャンになりそうな予感がした。しかしおそらくセラピストの技術的な教育をろくにしていなさそうなこの店に在籍している限り、その可能性は低いと僕は思った。
やがて、僕の勃起したチンコに手首や肘がかすめるストロークを女はくりだすようになった。その際どさは「いよいよか」と一瞬だけ僕に思わせたが、そこから更にギリギリの領域に突入する気配はなかった。
同じ動作が続いているうちにさすがにチンコはしぼんだ。そのタイミングで女は背面騎乗位の体勢に変換する。僕の腹部に乗っかった女がふとももや足の付け根にオイルを塗布する。
女の素敵なお尻が僕の目の前にあった。よく見ると女は僕と同じティーバックの紙パンツを履いていた。女がオイルを塗るたびに、僕の紙パンツと女の紙パンツが微妙にこすれあう。
僕は女のお尻を再び撫でて堪能した。お前が俺の全てだと、手触りで言ってみせるよ、みたいな触り方だった。その流れで別の部位に手を伸ばそうとするも、紙パンツの内側は禁断のエリアであり、それを打ち破ることを女は許さなかった。
「横に寝ていいですか?」と女はこちらを振り向いて言う。
僕は了承する。営業用の表情と私生活の表情をうまく使い分けられない様子で、女は横たわって僕の胸に頭をのせ、体をぴたりとわきにつけた。添い寝の体勢で女は僕の体の中途半端な所をオイルを用いてさする。女の頭頂部が間近にあった。僕は女の体に腕を回して抱きながら、その頭皮に鼻をくっつけて匂いを嗅いでみたが、全くの無臭だったので少し虚無状態になりながら最後の時間を過ごす。
僕の頭の中の羊男が僕に語りかける。
「あんたは自分が何を求めているのかがわからない。あんたは見失い、見失われている。何処かに行こうとしても、何処に行くべきかがわからない。あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった。でもそれに代わるものがみつけられずにいる。それであんたは混乱しているんだ。自分が何にも結びついてないように感じられる。そして実際に何にも結びついていないんだ。あんたが結びついている場所はここだけだ」
やがてタイマーが鳴って終了となる。
女は「お疲れ様でした」と言いながら僕から身を離してゆっくりと立ち上がる。
マッサージが終了したことで僕は虚しい気持ちになったが、それは以前にも経験したことのある虚しさだった。そして自分がその虚しさを上手くやりすごせるということもわかっていた。
女に促されてバスルームに移動してシャワーを浴びる。
部屋に戻ると女は最初のコスチュームに着替えていた。女の目元のホクロがチャーミングなことに気づいたからそれを褒めてみる。すると女は少し居心地が悪そうに微笑んだ。
玄関で互いに礼を言いながら、最後にハグをしてサヨナラをする。
二度と女に会うことはなかった。
◯
マンションの外に出る。駅へと向かう。
僕は年明けの京都の、平和な静けさの中を歩く。自分が何にも結びついてないように感じられる。そして実際に何にも結びついていないんだ。と僕は思った。僕は見失っているし、見失われている。混乱している。どこにも結びついていない。
そして、平和な静けさも、メンズエステも、永遠だとは思えなかった。
7 国境の南、太陽の西

島本さんのことがとても好きだ。
島本さんとは、村上春樹の「国境の南、太陽の西」という小説のヒロインだ。
村上春樹の小説で好きな女性の登場人物ランキングを作るとしたら、島本さんは全体の2位にランクインすると思う。ちなみに1位は「ノルウェイの森」の直子。3位は「1Q84」のふかえり。
このトップ3から分かるように、「ミステリアス」かつ「自分の思い通りにならない」女性に僕は心を動かされることが多い。
そしてこの二つの要素は、メンズエステで出会う女の子たちにも通底しているかもしれない。
◯
2023年12月上旬の昼。僕はメンズエステを利用するためにJRの「新大阪」駅で電車を降りた。
駅構内で電話をかける。店の名前は「彼女ん家」。名前の通り、「交際中の彼女の家に遊びに行き、そこでマッサージをしてもらう」というシチュエーションをコンセプトとしたメンズエステ店だ。こういう店はいかにコンセプトに忠実に全てが営まれているかが利用客の満足度に大きく関わる。楽しみだ。
電話に出たのは発言の4割ほどが何を言っているのか聞き取れないタイプの男性店員だった。こういった店に電話をかける際、それなりの確率でこういう対応をする店員に当たる。もうこれは宿命だと割り切るしかない。雨の日の外出を避けられないのと同じだ。なので冷静に前後の文脈から男性が発した言葉の意味を推測しながらやり取りを進める。たぶん共通試験の英語のヒアリング問題もこんな感じなんだろう。言うまでもなく、この受付の応対からすでにコンセプトが体現されていたら店として完璧だったけど、メンズエステにそこまで求めていられない。
このあと13時から90分コースの予約が取り付けられた。料金は1万2000円になると店員は言う。礼を言って電話を切る。
すぐにショートメールで「彼女ん家」のマンションの住所が送られてくる。東出口の改札から徒歩数分で「彼女」が待つ部屋に着きそうだった。グーグルマップで位置を確認しながら向かう。
◯
メンズエステに電話をかけて、馴染みのない街を歩いて利用するマンションに向かう時、「これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな」と僕はよく思う。
その点で「国境の南、太陽の西」の主人公の「僕」は、あまりにも僕過ぎる。感情移入して読めるなんてもんじゃない。僕のことが書かれている。そんな小説だ。だからこの作品を読むたびに僕はいつも少し恥ずかしくなる。
しかし「僕」は二度と島本さんに会うことはできない。
◯
マンションに到着する。建物は8階建てだったが、それはまるで大型のマッチ箱を縦においたみたいにのっぺりとしていた。
再び店に電話をする。先程の店員が出る。部屋番号を教えてもらう。
「お時間ちょうどの入室で、よろしくお願いします」と言って彼は電話を切る。
時刻は12時57分だった。3分間、オートロックの前で待機する。
13時ちょうどになる。指定された部屋番号を押す。すぐに解錠される。
エレベーターに乗る。ちょっと不気味なスーツの男と乗り合わせた。
メンズエステを利用する時のマンションのエレベーターで、かなりの割合でなんとも言えない空気を漂わせている男と一緒になるんですけど、あれって関係者なんですかね?構わんけど。
エレベーターを降りる。目的の部屋のインターフォンを押す。ドアが開く。
色白で黒髪ロングの小動物系のカワイイ女の子が人懐っこい笑顔で僕を迎える。その笑顔は「彼女ん家」で彼氏の来訪を待っていた「彼女」を表現するのに十分な笑顔だった。そして女の顔面は、付き合うことになったら周囲に写真を見せびらかして自慢できるほどの高いレベルだった。
女は常に微笑みを浮かべていた。それはどんなものにも決して乱されることのない強靭な微笑みだった。が、あまり好ましい微笑みではなかった。そこにはどこか人を小馬鹿にしたような傲慢さが含まれていた。僕は彼女の微笑みを見ていてほんの少しの苛立ちを感じた。「人生なんかチョロい」とその微笑みは語っているように見えた。具体的に言うと、少し前に人気だったAV女優の「姫川ゆうな」みたいな笑顔だった。
文句なしにカワイイ女の子だった。しかし、僕は女のそうした顔の奥に温かさや傷つきやすさを感じ取ることができなかった。自分の心の奥にある扉をそっと押し開けていくような、微熱を含んだ興奮がそこにはなかった。
女の案内で部屋の中へ。ソファもカーテンもラグも、クッションもブランケットもすべて薄いピンクで統一されたファンシーなテイストの部屋だった。女もそれに合わせるようにピンクの大きめのルームウェアを着ていた。
一人っ子の夢見がちな少女の部屋といった感じだった。それはいわば利用客=彼氏だけが中に入ることを許されている秘密の庭園のようなものだった。
女と並んでソファに座る。先に利用料金を支払う。
女がお金を受け取る時に見えた女のネイル・アートを褒めるところから会話が始まる。女は22歳の美容系の専門学生で、来年の春に卒業して、現在のバイト先のネイルサロンに就職が決まっているのだと言う。
話の流れで女にハンドマッサージをしてもらいながら会話が進む。誰とでもするような普通の会話だった。女がハイテンションで様々な事柄をベラベラと喋るので、僕は基本的に聞き役にまわった。
女の口にする言葉のほとんどは平板で深みを欠いていた。会話を始めて3分ぐらいで僕はそのことに気づいた。無意味な話を矢継ぎ早に展開していくことで制限時間を消費する女の典型だった。たくさんの言葉を並べ立てているにも関わらず、ある意味で女は何も語らなかった。小説についても音楽についても人生についても戦争についても革命についても、何一つ話さなかった。
僕は女の話に表面上は合わせながら、もっとこちらの興味をひくような中身のある話をしろよ、と内心で思っていた。
仮に女がいきなり「選択の公理の不在におけるバナッハ・タルスキーのパラドックスへの代替アプローチ」について語り出したら僕は猛烈に興奮したのかもしれない。でも当然そんなことにはならなかった。
無意味なトークタイムが15分ほど継続する。いくら話をしても、僕らの間には共通点が何一つないことがわかった。女の話は、人生の深みを理解している者にとっては空虚な発声にしか聞こえず、何も分かってないアホにとっては純粋に楽しさを感じられるんだろう。
女が喋れば喋るほど、僕の心の中に果てしない空白が広がっていった。こんなふうにノリだけで生きていけたら楽しいだろうな、と僕は横に座る女をうらやましく思った。女の話にいかにも興味深そうに相槌をうちながら。
会話の合間に僕は女の腰に手を回したり太ももを撫でたり手を繋いだりする。そういったアプローチに対して女は寛容だった。ルームウェア越しに女のお尻のサイド部分に触れた時、女は布面積のかなり小さいティーバックを履いているのが触覚でわかった。
あまりにも無意味すぎるトークタイムはなおも続く。部屋に設置されていた時計を見ると、入室してから40分が経過していた。90分12000円コースの約半分が女のクソつまらんカスみたいな話を聞いてイライラすることで費やされた。
僕の方からなかば強引に話を切り上げ、ようやくシャワーを浴びることに。
バスルームに移動する。もはやこの後にアツい展開が待っているわけがなかった。なので諦めムードでシャワーを浴びる。備え付けられていたバスタオルもしっかり薄いピンクであるところに店側の熱意を少し感じた。
部屋に戻る。電気が消えて、間接照明だけが点灯していた。
ようやくマッサージが始まる。マットの上にうつ伏せになり、女の施術を受ける。
両足→カエル足→腰、背中、肩→仰向けになり太もも→上半身という順に女は僕の体に触れていく。食パンにバターを塗るような、全く技巧のない触れ方だった。なお、女はマッサージのフェーズになると急にキャラ変する、といったことはなかった。ダメじゃん。
最後に女は僕の鼠蹊部をこれより適当にできないくらい適当に指圧する。そうしているうちにタイマーが鳴る。一丁上がりと言わんばかりに女は明るく終了の合図をする。
一連のサービスを受けて、このカワイイ女のことがはっきりと嫌いだと僕は思った。世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうくらい嫌いだ。
女に促されてシャワーを浴びる。
部屋に戻る。女の着ていたルームウェアはピンクからブルーになっていた。
その時点で入室してから90分が経過していた。制限時間いっぱいだ。しかし、女は僕に帰るように促さなかった。初期位置のソファに横並び体勢になる。そして女は無意味なトークタイムを再開した。
帰るに帰れず、女の深淵が見えてくるような質問を試しに投げかけたりしてみるも、女から吐き出される言葉は空虚そのものとしか言いようがない代物だった。
20分ほどが経過する。女のアイフォンに通知が。数分後に店のスタッフがオイルの補充にやってくるらしい。それを機にようやく退出することに。結局110分間このピンクの部屋にいたことになる。
玄関で女とお別れの挨拶をする。最後にキスしようとしたけど女はあっさりと拒絶した。その代わり女のブルーのルームウェアの上から乳を揉み、お尻を撫でた。
部屋を退出する。
つまらん女だ、というのが僕の中で今回の女に対する最終評価だった。怒りの感情すら湧いてこなかった。やれやれ、という虚無感だけがそこにはあった。
「彼女ん家」に遊びに来た恋人というより、異端者感覚を味わっただけだった。
二度と女に会うことはなかった。
◯
マンションの外へ。新大阪駅へと向かう。
僕は街を歩き、そこにある様々な建物や店を眺め、様々な人々の営みの姿を目にするのが好きだった。自分が二本の足で街の中を移動しているのだという感覚そのものが好きだった。でも今、僕のまわりを取り囲んでいるものは、何もかも陰鬱で虚ろに見えた。あらゆる建物は崩れかけ、あらゆる街路樹はその色を失い、あらゆる人々は新鮮な感情や、生々しい夢を捨て去ってしまったように見えた。
村上春樹の小説で好きな女性の登場人物ランキングを作るとしたら、「国境の南、太陽の西」の島本さんは全体の2位にランクインすると思う。ちなみに1位は「ノルウェイの森」の直子。3位は「1Q84」のふかえり。
このトップ3から分かるように、「ミステリアス」かつ「自分の思い通りにならない」女性に僕は心を動かされることが多い。
そして、この3人に共通している要素がもう一つある。
最後にはいなくなってしまうことだ。
「僕」は「島本さん」に二度と会うことできない。だから、そんな喪失感をまぎらわすために、僕はメンズエステに行くのかもしれない。
8 ねじまき鳥クロニクル

2023年12月。
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせて羊文学の『モアザンワーズ』を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかと思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、塩塚モエカは今まさにバンドアンサンブルをその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。新しい仕事の口のことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。
「メンズエステに行って欲しいの」、唐突に女が言った。
昼過ぎに僕は京都の「烏丸」駅で阪急電車を降りた。簡単な用事を済ませたあと、メンズエステ店に電話をかける。店の名前は「京椿」。名前だけでは何の店か分からないところが奥ゆかしくて、悪くないと思った。
大人しい口調の、おそらく中年の男性店員が電話に出る。僕は彼にこのあと利用できるか尋ねる。店員はたどたどしい口調で案内可能であると答える。「京都駅」付近か「四条烏丸駅」付近のどちらかの部屋を選択できるらしい。四条烏丸の部屋を利用したいと僕は言う。おおよその現在地を伝えると、10分も歩けば余裕で到着できると店員は言う。15分後開始で90分コースの予約が取り付けられる。割引イベントを適用すれば14000円が13000円になりそうだったが、なんとなくそのことを申告せずにいた。結局、店員は料金は正規の14000円となることを告げる。深い森の番人のように慎ましやかな応対をする店員に礼を言って電話をきる。
すぐにマンションの住所がショートメールで送られてくる。メールには部屋番号も記載してあった。なので今回はマンションの前でもう一度店に電話をかけて部屋番号を聞きだす必要がない。あれ、微妙に煩わしいですよね。
目的地に向かう。曇り空の下を歩くと、冬の始まりの京都の風が襟元を撫で回し、過ぎていく。果たして、今日はどんな展開が待ち受けているのだろうか。
道に迷わずに指定されたマンションに着いた。モダンなデザインの建物だ。少し入り口が分かりにくかった。オートロックに部屋番号を入力するとすぐに開錠される。これまた場所が分かりにくいエレベーターに乗って、5階で降りる。
指定された部屋のインターフォンを押す。ドアが開き、女が現れる。
出てきたのは女優の「仲里依紗」から生きがいを完全に失わせたような雰囲気の少しぽっちゃりした色白の20代前半の女だった。女の目は奥行きを欠き、輝きが一切見られなかった。この女が初対面で相手に好印象を与えることは一生ないんだろうな、と思った。
部屋着感全開の黒いキャミソールに黒いショートパンツを装着した女は、最低限の京都らしさを演出した和柄のベージュのペラペラのシャツを羽織っていた。しかし女の顔立ちと表情は京都らしい「はんなり」した感じとは対極にあった。
女はやる気のなさが滲み出てはいたものの、接客に必要な挨拶の言葉をなんとか発し、部屋へと案内してくれた。オシャレな内装の部屋だった。凝ったデザインの椅子に座る。女によってお茶が提供される。頂く。
女に促されて利用料金を支払う。1万5000円を支払い、1000円札が返ってくる。そして誓約書に署名する。市役所で印鑑登録の手続きをしているみたいな事務的な空気がずっと漂っていた。
シャワーを浴びることに。バスルームに移動する。狭くて簡素なバスルームだった。適当に洗浄を済ませる。置いてあったバスタオルは信じられないぐらいバリバリだった。強くこすると血が出そうだったので、体を拭く力加減に細心の注意を要した。そしてお決まりのティーバックの紙パンツを履いて部屋に戻る。
部屋では女が冷ややかな態度で待っていた。
ところで、「ねじまき鳥クロニクル」の女性の登場人物はわりと個性的、というかけっこう狂った人ばかりが揃っている。
夫が青いティッシュペーパーと花柄のトイレットペーパーを買ってきただけで激烈なヒステリーを起こす主人公の妻の「クミコ」、主人公にいきなり電話をかけて体の組成に有効な水について語りだす予知能力者の「加納マルタ」、ありとあらゆる肉体的な痛みに苦しんだ末に自殺未遂する娼婦「加納クレタ」、主人公を井戸の底に閉じ込める不登校の女の子「笠原メイ」…。設定もなかなかぶっ飛んでいるが、それ以上に、彼女たちのありとあらゆる立ち振る舞いにどこか生々しいまでのバイオレンスさが漂っていて、物語全体に横たわる狂気の現実味を底上げしている。
今日、僕が出会ったメンズエステの女には、そんな「ねじまき鳥クロニクル」に登場しそうなポテンシャルを秘めたギラっとした雰囲気がわずかに感じられた。しかし、90分のマッサージで女の奥深い部分にある狂気を引き出すには至らないかもしれない。
などと考えているうちにうつ伏せからマッサージが始まる。
それまでの態度から、女は終始無言で施術するタイプかなと思っていた。しかし意外にも女の方から雑談を振ってきた。
「今日は休みですか?」と女は言う。
「午後から半休なんです」と僕は言う。
「いいですね」
「実は、大阪に住んでるんですけど、今日こっちで用事があって」
すると京都在住の女はこのあいだ大阪に行った時のエピソードを軽く披露する。僕はそれに対して適当な相槌を打つ。そして女に京都府民から見た京都のオススメスポットを尋ねる。
しかし女はこれといって挙げられるスポットはない、と言う。京都なのに?と僕は言った。
「感性がないんです、私」と女は少し投げやりな感じで呟く。
「感性がないって、例えば?」と僕は尋ねる。
「綺麗な景色とか、立派なアートとかを見ても、全く何も思わないんです私。例えばこの前友達と一緒に関東に行ったんですけど、途中で富士山があって。それを見ても、ただ単にデカいなーとしか思わなくて。だから、どこに行っても何も感じないんです。休みの日に出かけるとしても、友達と温泉かご飯食べに行くぐらいのものです」
覚醒後の加納クレタにちょっと似てますね、と言いそうになったけどやめておいた。かと言って「感性がない人なんていないよ。たぶんどこにも」などと女に言うのも適切ではないと思った。結局、僕は女に対してぴったりと正しい言葉をうまく探し当てられなかった。
その後も適当に雑談を交わすも、大して盛り上がらなかった。左足のオイルマッサージが完了する頃に会話は終了した。右足に移行してからは全くの無言で進んでいった。女の口調には常にトゲがあり、喋っていて特に楽しいとは思わなかったので、別にそれでよかった。
女はトゲのある喋り方とは裏腹に、マッサージはそれなりに優しく丁寧で、与えられた仕事をきちんとこなそうとする実直さをその手つきから感じた。
無言のマッサージが数分間続く。
「カエル足お願いします」と女はクリニックの受付でマイナンバーカードの提出を求めるような口調で言う。言われた通りにする。
そこからは密着度の高いアプローチになった。若い女のムチムチとした肉体の接触は純粋な心地よさを僕にもたらした。紙パンツから少しはみでていた部分に女の体の様々な部分が頻繁に当たっていた。
「カエル足」が終了すると女は両膝を有効に使って僕のお尻や背中をグリグリした。素直に気持ちよかった。
女に促されて仰向けになる。足元から順番にオイルマッサージが施される。ふと女の方を見ると、黒いキャミソールからかなりくっきりとした胸の谷間が覗いていた。綺麗な線を描く谷間だった。女のおっぱいは僕が思っていたよりもずっと大きかった。女が動くたびに大きなおっぱいが僕の足にムニムニと露骨に押しつけられる。女のおっぱいは温かく、そして同時に冷たかった。
女は鼠蹊部サワサワ、からのデコルテという名の乳首イジイジ、という破壊力のあるコンボを繰り出す。その際、女の最大の武器が紙パンツ越しにコンスタントにヒットした。
それなりに評価できるアプローチをしているにも関わらず、女はあくまでも冷ややかな態度を貫いた。メンズエステの客に癒しを提供するスタンスにはほど遠かった。一揃いの骨格と、消化器と心臓と脳と生殖器を備えたただの生温かい肉塊を適当にいじくり回しているに過ぎない、どこまでも冷酷なマッサージだった。
そうこうしているうちにタイマーが鳴る。終了となる。
なんか早く帰りたかったので速やかにシャワーを浴びる。服を着て、お茶をもう一杯頂きながら女と軽く雑談をしてお別れとなる。
玄関でサヨナラの挨拶をする。その時、女は今日一番の笑顔を見せた。
部屋を退出する。
二度と女に会うことはなかった。
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