2012年01月

バスラマNo.130の事業者訪問は…

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昭和3X年,1秒でも早くバス停に着いてお客さんを拾おうと激しく競争していた東海vs伊豆箱根。実は今でも熾烈な争いが繰り広げられている。東洋のモナコ・熱海の直角コーナーで,東海バスがアウト側から猛烈に抜きにかかる!箱根山戦争&伊豆戦争,再び…。

というわけでは,もちろんありません。かつての戦場も,今ではグループの垣根を越えて協調が進む平和な観光地になっています。バスラマ次号の事業者訪問①は,伊豆半島を中心に三島・沼津まで広いエリアを路線域とする東海自動車グループです。風光明媚な伊豆半島を走る,歴史あるバス事業者の今をご紹介します。

箱根のスカイライトⅡ

正月休み,箱根に出かけた。同地のバスは箱根登山バスと伊豆箱根バスの2社がほぼ網羅している。前者はバスラマ№110で,後者は№116で訪問しているが,今回は箱根登山バスを数回利用した。
 箱根登山バスが走らせる『観光施設めぐりバス』は,マイカーを利用しない者にとってなかなか使い勝手がいい。当日は仙石からポーラ美術館まで,そこから強羅駅までの2回乗車したが,うち1回はふそうMK,そしてもう1回はバスラマで紹介したことのない新顔「スカイライトⅡ」。同路線には2008年秋から,日野レインボーⅡをベースにオリジナルの(ボンネットバスBH風)フロントスタイルと天窓を持つ「スカイライト」が採用され,現在3台が稼動するが,「スカイライトⅡ」はその増備車で,顔は標準で天窓だけ特別仕様というもの。その点で新宿WEバスと似ているのだが,外観は天窓付とは気が付かない。また「レインボーⅡベースのスカイライトⅡ」と,バスファンにとってはいささか紛らわしいかも。
 ちなみに次号のバスラマ№130の事業者訪問は東海自動車グループとウィラー・トラベルグループ。東海自動車は本誌では21年ぶりの訪問で,箱根エリアには1路線だけ乗り入れるが,メインは伊豆半島や沼津地区である。一方ウィラーは本誌ではここ数年,広告を含めて登場機会が多いが,2012年はツアーバス全区間を路線バス化するといい,その意気込みなどを語っていただく予定である。(S)

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上は仙石の,星の王子様ミュージアム付近を行くスカイライトⅡ。下は天窓からの景色。
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世田谷のコミュニティバス その1

 私が住んでる東京都世田谷区でコミュニティバスの実験運行が1月10日から始まった。小田急線の経堂駅と京王線の八幡山駅を結ぶもので,世田谷区のウィークポイントである南北の交通を確保する試みである。路線は小田急バスと京王バスの既存路線の一部をつなぎ合わせた形で,運行も両社が担当する。世田谷区全体の人口は約84万人もあり,人口集積の高い地域だからいろんな移動ニーズがあるようだ。かつバス路線網もそれなりに整備されているので,行政主導で違う事業者の路線をつないで,住民の利便を図るというアイデアも出てくるのかもしれない。経堂駅周辺はよく買い物に来るところで,駅は2年前に高架化されたが,バス乗り場は昨年,駅ビルの建て直しに伴って駅前に新設された。
  写真にコミュニティバスは写っていないが,バスラマ№130で紹介したい。(Y)
経堂駅バス乗り場

古参車発見の楽しみ


 昨秋,旭川で拾ったネタのうち,レゾナ&クオン除雪車はWV48で,富士重工7Eは本ブログで紹介したが,今回はその続編。首都圏ではすでに珍しくなりつつある先々代のコンドルである。昨年コンドルは約18年ぶりにフルモデルチェンジしたから,この車は若くても18~19歳というわけだ。
 件の除雪車のガレージの奥には『風のレンジャー』の除雪トラックが置いてあったから,この世代は当地では決して珍しくないことがうかがえる。実際,北海道でももっと東に行けば,ふそうがレストアを進めているVキャンターやその次のキャンターの現役が稀に見られたりするから,先々代コンドルなどまだ「若造」なのだが,写真のダブルキャブは「旭川130」のナンバーを付けているから,内地からの移籍車かと思われる。リヤボデーの『道路維持作業車』の部分には,以前は日本道路公団とでも書かれていたのだろうか? 
 かつてマイカーで各地を旅行した折は,こうした旧型の商用車や廃車体を目を皿のようにして探した時期もあった。現在はそうした機会も少ないが,廃車体は環境面の法規が強化されたこともあり,そうそう見つからないかもしれない。今回のコンドルは単に散歩していたら現れたから,なんとなく得をした気分になった。
 ちなみにロシアでは,地域によっては日本からの中古商用車がたっぷりと見られる。年末に同国を旅した友人から写真を見せられたが,特に小型系が多いようだ。(S)
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同時代、東西を越えてなんとなく似てるクルマ

昭和30年代、“もはや戦後ではない”日本はオリンピックに高度経済成長にまっしぐら。同じく敗戦国の東ドイツ。1960年初頭にベルリンの壁を建設し、優秀な頭脳&労働力の流出を食い止めるとともにこの瞬間は計画経済の歯車が噛み合い、共産圏の優等生として経済成長まっしぐら。ここに体制も経済も全く異なる2つの国で、何となく似たクルマが登場する。それがトヨタ・パブリカとVEBザクセンリンク・トラバント601。

仕事だ!ノルマだ!働け!運搬手段が必要だ!庶民でも何とか手の届くクルマも必要だ!鼻の先にニンジンをぶらさげろ!というわけではないけれど、パブリカは通産省の国民車構想を背景に、またトラバントは計画経済の中で誕生した。両方とも乗用車はもちろん、ライトバンの設定がある。ちなみにパブリカは初代が1961年に登場し、トラバントは1957年の初代モデルをモデルチェンジし、エンジンを大型化した601が1963年に登場する。ほぼ同時代の車両と言えよう。

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どうです、なんか似てません?車だけでなくて雰囲気も。

寸法はパブリカが全長3,555×全幅1,415×全高1,385ミリ、トラバントは全長3,560×全幅1,510×全高1,437ミリ。トラバントがかなり幅広なのは、欧米人と日本人の体格差!?そしてエンジンは、パブリカが4サイクル空冷水平対向2気筒(排気量697cc、出力28PS/4,300rpm・トルク5.4Kg/2,800rpm)、トラバントは混合給油式2サイクル空冷直列2気筒(排気量595cc、出力23PS/3,800-4,000rpm・トルク5.3Kg/2,700-2,800rpm)。なお駆動方式は大きく異なる。パブリカは当初はFFを目指したと言われるが結局FRを採用し、トラバントは初代以来のFFである。変速機はパブリカが4速コラムシフト(シンクロ2~4速)、トラバントはフルシンクロの4速コラムシフトである。

さて商用車として気になるのは、どれだけモノが積めるかということ。車重と積載量はパブリカが620Kgで2人乗車時300Kg、トラバントは650Kgで2人乗車時260Kg。ちなみに昔からドイツ人は日本人より大柄で、1人あたり65Kgの計算である。またパブリカで4人(定員)乗車すると驚くなかれ積載量は0になるのに対し、トラバントは95Kgを確保している。

「平日は工場や小ビジネスの軽輸送に、週末はキャンプや小旅行に」これはパブリカの売り文句ではなく、トラバントの売り文句。「バンというよりスマートなワゴン・タイプ。室内装備は乗用車なみ。レジャー・カーにも使いたい商用車です」これがパブリカの売り文句でした。

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路面電車メモリアル8

 名古屋市電を訪れたのは1971年8月のこと。名古屋に降りたのも初めてであり,駅前の道路の広さはインパクトがあった。駅前から始まった市電の撮影は比較的広い範囲にわたり,同年秋に廃止された築港口方面にも行ったが,どこへ行ったかよりも暑さだけが印象に残る撮影だった。
 

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 写真上は市立大学病院前を行きかう1400形。1400形は1936年から6年間で75両が製造されたという戦前の代表車で,その導入は名古屋汎太平洋平和博覧会(1937年)の観客輸送が主目的だったとか。いまで言えばリニモみたいなものだが,基本設計に優れていたのだろう,その後の市電の標準的モデルとして君臨し,製造から30年を経ても第一線で活躍したわけである。撮影時点ではその多くが存命していたようだ。下は早朝の名古屋駅前を行く2000形。2000形は和製PCCカー(路面電車復活を意図して1930年代からアメリカで開発製造された『PCCカー』の日本版)のひとつにあげられ,高性能・軽量などが特徴であった。台車をスカートで覆ったスタイルも目を引いた。なお1400形・2000形とも,現在でも『名古屋市 市電・地下鉄保存館』などで実物が見られる。
 さて名古屋市電は1974年3月末日をもって全廃された。その後バスでは中央走行方式の専用レーンを持つ基幹バスが登場し,それがさも画期的なシステムのように喧伝されたが,何のことはない,市電の軌道の焼き直しである。ガイドウェイバスも同類に思うが,かつて名古屋には路面電車という合理的かつエコな交通機関があり,それが自動車交通の犠牲となったことなど,交通行政にかかわる誰もが忘れているようにすら感じる。(S)

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路面電車メモリアル7

2012年もぽると出版ならびに本ブログをよろしくお願いいたします。
なお弊社は10日から営業いたします。
2012年最初のブログは,路面電車メモリアルの第7回。筆者好き放題の回想記にお付き合いのほど。

 ミナトヨコハマの市電は1972年3月末をもって9回目の廃止が行われ,全線が姿を消した。ファイナルには花電車が運行され,そこには市電の後釜となるはずの地下鉄の模型もディスプレイされたが,実際の地下鉄開通は同年末であり,その間は市営バスだけで代行したのである。また市電と同時に,国内の市街地用では最後となったトロリーバスも廃止され,これを機に「路面を電気で走る」横浜の市営交通はなくなった。だが2011年には慶応義塾大学の開発による電気バスが市内を試験走行したから,遠からず「路面を電気で走る」交通機関が再び市内を走り出すかもしれない。
 さて横浜市電は首都圏では都電に次ぐ規模の路面電車だったから,廃止から40年近くを経た現在でも多くの書籍やネット・ブログ等でその姿を見ることができる。筆者が撮影で訪ねたのは全廃の少し前,1971~1972年の2~3回にすぎないが,それより以前の1968年に家族と中華街に出かけた折,最初に目にしたのが単車500形であり,(東京からこんなに近い場所で)単車が営業運行していることにずいぶんと驚いた記憶がある。きちんと撮影するころには廃止が進み単車はいなくなっていた。だが当時主力の1500形は前後扉ながら窓が大きくスタイリッシュで,台車のグレードも高く,強い個性はないものの,好きな路面電車のひとつである。

横浜①

 写真上は都心の本町四丁目で。最盛期は6つの系統が集まっていたという市電のメインストリートで,現在でも多くのバスが走っている場所だ。下は桜木町駅前。現在の広場ができる前の景色で,市電は1500形が3両,バスは左手に日産ディーゼル4R,右奥にふそうMRが見える。手前の上屋はバス乗り場である。なお現在,市電の実車は歴代の7両が,市営バス滝頭営業所に隣接した市電保存館に残されている。(S)

横浜②


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