東京西部の多摩地区に住む筆者にとって、幼少から小学生時代まで都電は身近な乗り物ではなく、時折青山の伯父の家に行く時に、渋谷から乗る程度のものであった。そうした縁の薄い存在ではあったが、1967年12月に行われた都電第1次廃止の後、中高時代に残りの路線を訪ね歩き、1972年11月、現在の荒川線=さくらトラムを除く全線が廃止されるまで撮影を続けた。これは子供の頃からのバスウォッチングで醸成された、路面交通への興味が影響していると思うが、いずれにしても都電は、筆者にとって乗り物撮影の原点であるとともに、現在に続く路面電車の記録の基盤となっている。今回から数回にわたり、本連載のファイナルとして、1960~1970年代の東京都電を振り返る。(S)

 都電は1952年にトロリーバスに代替された〈26系統〉を除けば、40もの系統で23区内の主要地域を網羅する、国内最大規模の路面電車であった。しかし1967年12月には、品川―銀座―上野を結ぶ〈1系統〉ほか9つの系統が廃止され(ほかに短縮2)、代替バスに置き換わった。その大義名分は自動車の増加による定時性の悪化~利用者減少~収益の悪化であったが、背景には昭和30年代前半より、自動車が増えつつある道路交通の中で都電が邪魔な存在になったということがある。東京では自動車増加に伴う事故防止という目的のもと、1959年から軌道敷内の自動車乗り入れが可能となり、それを機に都電は平均速度を大幅に下げた。ただそれよりも早い1955年頃から、種々の審議会により道路混雑緩和を目的とする都電廃止と、地下鉄・バス・トロリーバスへの代替が提言されていたという。都交通局は地下鉄の未整備などを理由に抵抗したが、1960年代に入り都電の走行環境がより悪化する中、都電撤去に同意したとされる。その序章が、1963年以降、地下鉄丸ノ内線への需要のシフトを終えた杉並線と地下鉄三田線工事の影響を受ける志村線の計3つの系統の廃止や、1964年の東京オリンピックに向けた街路整備に伴う一部区間の廃止であった。そして1967年度から向こう4年間で都電の全線廃止が決まり、1967年12月に第1次廃止が実施され、以降年に1~2回のペースで廃止が進んだ。最後に残った城東地区は住民の反対などから廃止が1年先送りになるとともに、大方が専用軌道である現荒川線は存続が決まったものの、結局は39近い系統が路面から消え去った。
この時代、大都市の公営路面電車を概観すると、大阪市は1969年3月、神戸市は1971年3月、横浜市は1972年3月、名古屋市は1974年3月、京都市はやや遅れて1978年10月、各々全路線が廃止された。この中で京都は1970年代前半、一部路線の存続を打ち出していたが、結局叶うことはなかった(もし存続していたら、現在のインバウンド対応にどれだけ役立っていただろうか)。そうした状況からは、地下鉄・鉄道の整備計画の度合にかかわらず、都市計画と密接にかかわる公営交通が自動車優先の時代の流れに抗えなかったことがうかがえる。また東京を見る限り、1968年には通勤電車に初の冷房車が登場するなど、高度経済成長の中で利用者のニーズや意識も急速に変化していった(路線バスへの冷房の波及はその後10年近くを要したが)。都電という交通機関が定時性の悪化だけでなく、近代化の面でも利用者から色褪せて見えたことは想像に難くない。
現在まで運行を続ける路面電車は、北は札幌から南は鹿児島まで、公営・民営を合わせて全国で10数カ所を数える。その多くが苦難の時代を経てきたであろう。中にはLRTに脱皮した例もあるが、これらが時代に即した変化を続ける限り、利用者は確実に付いてくると信じている。関係者の方々のご健闘を心から祈念している。
今回の参考文献:東京都交通局80年史、季刊バス創刊号

  新宿
撮影は1968年から始めたが、今回はカラー画像が残る新宿方面のルートをいくつか紹介する。1970年3月26日、靖国通りにあった新宿終点の最終日。ここからは11・12・13系統の3本が発着していたが、銀座・月島方面の11系統が先に消え、この日を迎えたのは靖国通り経由で岩本町をめざす12系統と、外堀通り経由で岩本町に達する13系統だけだった。なお両系統とも1968年に一度短縮され、岩本町で打ち切られていた。車両は都電の将来を見越して短い耐用年数で設計されていた8000形が3両と、7000形・6000形(あるいは3000形)各1両。画面左奥には大ガードの上を行く国鉄中央線の101系電車、その上に後年セゾンに吸収されたクレジット販売の緑屋の看板が見える。当時カセットテープのトップブランドだったTDKのネオンや、合併でなくなった都市銀行の名も懐かしい。
九段再度軽
いささか褪色が目立つが、1970年元日の九段坂。神保町方面に坂を駆け降りる電車は12系統の6000形である。12系統は靖国通り経由で新宿―市ヶ谷―九段―岩本町を結んでいた。廃止の日から運行開始した代替の都バス512系統は後に秋72系統に改称、1980年3月にルートを同じくする地下鉄新宿線の開通に伴い廃止された。
併走する都バスは渋谷からお茶ノ水・順天堂病院に向かうB-S416号:三菱ふそうMR410/三菱(1968年度購入車)。当時、渋谷―お茶の水間のバスは後に茶80系統となった都電10系統代替の510系統(四谷経由)と、後に茶81系統となった隼町経由の46系統があったが、方向幕の経由地が判読できず、どちらの系統なのかは不明。茶80系統は1979年11月、茶81系統は2000年12月に廃止された。現在この場所には高71系統が走るが、神保町・岩本町へと貫くバスルートは無い。

 秋葉原
 同じく1970年元日の、こちらは外堀通り経由で新宿―河田町―飯田橋―岩本町を結んだ13系統。秋葉原(外神田)付近を行く8000形である。飯田橋からは中央・総武線に並行しながら水道橋、御茶ノ水、外神田の電気街を辿り、岩本町に至った。廃止の1970年3月27日から運行開始した都バス513系統は、後に秋76系統に改称されたが、2000年、ルートが一部重複する地下鉄大江戸線の開業を機に廃止された。ちなみにコンビニなどなかった当時の元日は、商店や飲食店のほぼすべてが休業し、車の少ない場所はゴーストタウンの趣すらあった。この日はついに飲まず食わずで撮影を続けたことを思い出す。

大久保
11・12・13系統は廃止当時、大久保電車営業所(以下大久保車庫)が担当していた。新宿終点と大久保車庫の間には入出庫専用の軌道があり、入庫車は新宿終点を発車してほどなく、華やかな靖国通りから「うらぶれた」裏通りに分岐し、専用軌道で大久保車庫に向かった。写真は分岐地点の裏通りを靖国通りに向けて見たところで、わずかな距離だけ併用軌道であった。電車は『新宿・角筈(つのはず)』の方向幕を出したままの12系統の入庫車6000形。正面の丸井の看板は現在テナントが入居する丸井新宿東口ビルである。なお大久保車庫は新宿発車後に明治通りを経由してきた13系統の経由地でもあった。
大久保車庫への専用軌道は廃止後しばらく放置され、刑事ドラマなどにも登場したと記憶するが、1974年に新宿遊歩道公園『四季の路』となり現在に至る。また大久保車庫の敷地は区立新宿文化センターなどに再開発された。

 11系統軽

前掲のカラー写真の時期にはすでに廃止されていた11系統は、新宿―四谷―銀座―月島を結んでいた。写真上は1968年2月25日の路線廃止を目前に、晴海通り・築地付近を行く11系統の6000形。遠くに銀座を望む。
下のバスは写真の体を成していないが証拠として掲げる。2月25日から運行開始した11系統の代替バス511系統で、長距離路線304系統との再編により終点は晴海埠頭まで延長された。車両は代替バス用に杉並営業所に配属されたD-N662号、日野RE100/富士重工である。REでは初期グループだが、富士重工製REは日野独自のオーバルヘッドランプのハウジングをやや内側に取り付け、個性的なマスクであった。撮影は都電廃止の1カ月後、場所は上と同位置である。なお511系統は1972年の都電全廃を機に銀71系統に改称し、1988年には都市新バス・都03系統へと発展するが、2000年の大江戸線延長を機に晴海埠頭―四谷間に短縮・減回するとともに、その後さらに減回、免許維持路線的な存在になってしまったことは残念である