雑記

連節バスに想う

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今春デビューした国産初のハイブリッド連節バス,エルガデュオ&日野ブルーリボンハイブリッド連節バス。元々いすゞ主導で開発が始まったと記憶するが,パワーユニット自体は日野製。だから日野HLの派生車にも思うが,型式はLX525/KX525といすゞ式。またエルガ現行モデルで消えた前グライド扉の復活や,ターンテーブルはもとよりアクスルへの海外製品の活用なども興味深い。東京2020での活躍が期待されるが,これまで連節バスを入れたくても,輸入車ばかりだったため躊躇していた事業者にも朗報かと思う。ただし連節バスの全長は国内の自動車から外れた基準であるうえ,第3軸の軸重は10トンを超え,導入に際しては輸入車と同じく基準緩和の措置を受けることになる。
バスラマ最新号では連節バス・エルガデュオにテストコースで試乗し,各部をつぶさに確認。セレガと同じ9リットルエンジンを組み込んだハイブリッドシステムによる軽快な走り,優れた機動性なども体験した。詳しくは本誌175号をご覧いただきたい。なお175号の読者投稿欄“FROM READERS”にも,連節バスへの感想や意見が数多く見られ,関心の高さを裏付けている。
写真はいすゞ自動車藤沢工場のテストコースを疾走するエルガデュオ。日本で連節バスが高速で走るなどまずないだろうが,それだけパワーがあるということで。(S)

路面電車メモリアル14  東京都電(1)

東京西部の多摩地区に住む筆者にとって、幼少から小学生時代まで都電は身近な乗り物ではなく、時折青山の伯父の家に行く時に、渋谷から乗る程度のものであった。そうした縁の薄い存在ではあったが、1967年12月に行われた都電第1次廃止の後、中高時代に残りの路線を訪ね歩き、1972年11月、現在の荒川線=さくらトラムを除く全線が廃止されるまで撮影を続けた。これは子供の頃からのバスウォッチングで醸成された、路面交通への興味が影響していると思うが、いずれにしても都電は、筆者にとって乗り物撮影の原点であるとともに、現在に続く路面電車の記録の基盤となっている。今回から数回にわたり、本連載のファイナルとして、1960~1970年代の東京都電を振り返る。(S)

 都電は1952年にトロリーバスに代替された〈26系統〉を除けば、40もの系統で23区内の主要地域を網羅する、国内最大規模の路面電車であった。しかし1967年12月には、品川―銀座―上野を結ぶ〈1系統〉ほか9つの系統が廃止され(ほかに短縮2)、代替バスに置き換わった。その大義名分は自動車の増加による定時性の悪化~利用者減少~収益の悪化であったが、背景には昭和30年代前半より、自動車が増えつつある道路交通の中で都電が邪魔な存在になったということがある。東京では自動車増加に伴う事故防止という目的のもと、1959年から軌道敷内の自動車乗り入れが可能となり、それを機に都電は平均速度を大幅に下げた。ただそれよりも早い1955年頃から、種々の審議会により道路混雑緩和を目的とする都電廃止と、地下鉄・バス・トロリーバスへの代替が提言されていたという。都交通局は地下鉄の未整備などを理由に抵抗したが、1960年代に入り都電の走行環境がより悪化する中、都電撤去に同意したとされる。その序章が、1963年以降、地下鉄丸ノ内線への需要のシフトを終えた杉並線と地下鉄三田線工事の影響を受ける志村線の計3つの系統の廃止や、1964年の東京オリンピックに向けた街路整備に伴う一部区間の廃止であった。そして1967年度から向こう4年間で都電の全線廃止が決まり、1967年12月に第1次廃止が実施され、以降年に1~2回のペースで廃止が進んだ。最後に残った城東地区は住民の反対などから廃止が1年先送りになるとともに、大方が専用軌道である現荒川線は存続が決まったものの、結局は39近い系統が路面から消え去った。
この時代、大都市の公営路面電車を概観すると、大阪市は1969年3月、神戸市は1971年3月、横浜市は1972年3月、名古屋市は1974年3月、京都市はやや遅れて1978年10月、各々全路線が廃止された。この中で京都は1970年代前半、一部路線の存続を打ち出していたが、結局叶うことはなかった(もし存続していたら、現在のインバウンド対応にどれだけ役立っていただろうか)。そうした状況からは、地下鉄・鉄道の整備計画の度合にかかわらず、都市計画と密接にかかわる公営交通が自動車優先の時代の流れに抗えなかったことがうかがえる。また東京を見る限り、1968年には通勤電車に初の冷房車が登場するなど、高度経済成長の中で利用者のニーズや意識も急速に変化していった(路線バスへの冷房の波及はその後10年近くを要したが)。都電という交通機関が定時性の悪化だけでなく、近代化の面でも利用者から色褪せて見えたことは想像に難くない。
現在まで運行を続ける路面電車は、北は札幌から南は鹿児島まで、公営・民営を合わせて全国で10数カ所を数える。その多くが苦難の時代を経てきたであろう。中にはLRTに脱皮した例もあるが、これらが時代に即した変化を続ける限り、利用者は確実に付いてくると信じている。関係者の方々のご健闘を心から祈念している。
今回の参考文献:東京都交通局80年史、季刊バス創刊号

  新宿
撮影は1968年から始めたが、今回はカラー画像が残る新宿方面のルートをいくつか紹介する。1970年3月26日、靖国通りにあった新宿終点の最終日。ここからは11・12・13系統の3本が発着していたが、銀座・月島方面の11系統が先に消え、この日を迎えたのは靖国通り経由で岩本町をめざす12系統と、外堀通り経由で岩本町に達する13系統だけだった。なお両系統とも1968年に一度短縮され、岩本町で打ち切られていた。車両は都電の将来を見越して短い耐用年数で設計されていた8000形が3両と、7000形・6000形(あるいは3000形)各1両。画面左奥には大ガードの上を行く国鉄中央線の101系電車、その上に後年セゾンに吸収されたクレジット販売の緑屋の看板が見える。当時カセットテープのトップブランドだったTDKのネオンや、合併でなくなった都市銀行の名も懐かしい。
九段再度軽
いささか褪色が目立つが、1970年元日の九段坂。神保町方面に坂を駆け降りる電車は12系統の6000形である。12系統は靖国通り経由で新宿―市ヶ谷―九段―岩本町を結んでいた。廃止の日から運行開始した代替の都バス512系統は後に秋72系統に改称、1980年3月にルートを同じくする地下鉄新宿線の開通に伴い廃止された。
併走する都バスは渋谷からお茶ノ水・順天堂病院に向かうB-S416号:三菱ふそうMR410/三菱(1968年度購入車)。当時、渋谷―お茶の水間のバスは後に茶80系統となった都電10系統代替の510系統(四谷経由)と、後に茶81系統となった隼町経由の46系統があったが、方向幕の経由地が判読できず、どちらの系統なのかは不明。茶80系統は1979年11月、茶81系統は2000年12月に廃止された。現在この場所には高71系統が走るが、神保町・岩本町へと貫くバスルートは無い。

 秋葉原
 同じく1970年元日の、こちらは外堀通り経由で新宿―河田町―飯田橋―岩本町を結んだ13系統。秋葉原(外神田)付近を行く8000形である。飯田橋からは中央・総武線に並行しながら水道橋、御茶ノ水、外神田の電気街を辿り、岩本町に至った。廃止の1970年3月27日から運行開始した都バス513系統は、後に秋76系統に改称されたが、2000年、ルートが一部重複する地下鉄大江戸線の開業を機に廃止された。ちなみにコンビニなどなかった当時の元日は、商店や飲食店のほぼすべてが休業し、車の少ない場所はゴーストタウンの趣すらあった。この日はついに飲まず食わずで撮影を続けたことを思い出す。

大久保
11・12・13系統は廃止当時、大久保電車営業所(以下大久保車庫)が担当していた。新宿終点と大久保車庫の間には入出庫専用の軌道があり、入庫車は新宿終点を発車してほどなく、華やかな靖国通りから「うらぶれた」裏通りに分岐し、専用軌道で大久保車庫に向かった。写真は分岐地点の裏通りを靖国通りに向けて見たところで、わずかな距離だけ併用軌道であった。電車は『新宿・角筈(つのはず)』の方向幕を出したままの12系統の入庫車6000形。正面の丸井の看板は現在テナントが入居する丸井新宿東口ビルである。なお大久保車庫は新宿発車後に明治通りを経由してきた13系統の経由地でもあった。
大久保車庫への専用軌道は廃止後しばらく放置され、刑事ドラマなどにも登場したと記憶するが、1974年に新宿遊歩道公園『四季の路』となり現在に至る。また大久保車庫の敷地は区立新宿文化センターなどに再開発された。

 11系統軽

前掲のカラー写真の時期にはすでに廃止されていた11系統は、新宿―四谷―銀座―月島を結んでいた。写真上は1968年2月25日の路線廃止を目前に、晴海通り・築地付近を行く11系統の6000形。遠くに銀座を望む。
下のバスは写真の体を成していないが証拠として掲げる。2月25日から運行開始した11系統の代替バス511系統で、長距離路線304系統との再編により終点は晴海埠頭まで延長された。車両は代替バス用に杉並営業所に配属されたD-N662号、日野RE100/富士重工である。REでは初期グループだが、富士重工製REは日野独自のオーバルヘッドランプのハウジングをやや内側に取り付け、個性的なマスクであった。撮影は都電廃止の1カ月後、場所は上と同位置である。なお511系統は1972年の都電全廃を機に銀71系統に改称し、1988年には都市新バス・都03系統へと発展するが、2000年の大江戸線延長を機に晴海埠頭―四谷間に短縮・減回するとともに、その後さらに減回、免許維持路線的な存在になってしまったことは残念である




いすゞ・日野の連節バス登場 !

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かねてから開発がアナウンスされてきた国産連節バスが、24日、報道陣に発表された。ペース車はジェイ・バス製の日野ブルーリボンハイブリッドと、その統合モデルであるいすゞエルガハイブリッドだが、これらの基本となったのは言うまでもなくいすゞエルガの現行モデルLV290であり、今回のモデルはエルガを基本にいすゞと日野が共同開発した商品としてデビューした。近日中に両社から正式に発売される。
国内で製作された連節バスは1985年の科学万博つくば'85のシャトルバス用として、富士重工がボルボの連節バスシャーシーにボデー架装した100台が最初。1998年には同様の手法で製作された10台が京成バスの一般路線に採用されたが、その後の連節バスは完成輸入車、かつノンステップバスとなり、ネオプラン、メルセデス・ベンツ、スカニアの3車種が採用されて現在に至っている。今回のモデルは国内の規格に沿った国産車を要望する事業者のニーズに応えるとともに、2020年のオリパラ輸送への起用を念頭に置いた開発とされる。なお連節バスの心臓部ともいえるターンテーブル部と、前・中・後の各アクスルは輸入品を活用している。
パワートレインは環境対応や燃費性能を重視したのだろう、日野お得意のハイブリッドシステムが選ばれた。ただしベース車の直4エンジンでは2車体を持つ連節バスを動かすには小さいことから、セレガRU1AS系と同じ直6の排気量8.9リットルエンジンが選ばれ、90キロワットモーターと組み合わせている。変速機は日野製の7速AMTである。
そのほか、連節バス専用のフロントデザイン、路線バスでは世界初装備のドライバー異常時対応システムEDSSなども特徴。さらに発表会では近い将来の技術としてプラットホームへの正着制御も披露された。
6月発行のバスラマNo.174ではこの連節バスの詳細をお伝えする。

5月27日16時追記
この連節バスは先ほど、いすゞ自動車から「エルガデュオ」(型式LX)として、日野自動車から「日野ブルーリボンハイブリッド連節バス」(型式KX)として、それぞれ発売された。エルガデュオの税別価格例は8,780万円である(仕様等により実際の価格は異なる)。
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あるCNGバスの“運命”

今年のはじめ、以前本プログでも紹介した府中市の交通遊園で『新車』に出会った。バスが1台増車されたのである。『新車』は府中市コミュニティバス・ちゅうバスで稼働していた、京王バス中央の2008年式日野リエッセ・CNG(圧縮天然ガス)仕様である。
ちゅうバスは2003年の運行開始時からリエッセのCNG車を採用し、その多くは屋根上にCNGボンベを搭載した仕様だったが、一部の車両は高さ制限のある中央道のアンダークロスを経由する路線のため、室内最後部にCNGボンベを配置していた。今回の『新車』はその増備車だが、新車から10年足らずで引退して交通遊園にやってきたわけだ。
ただし2008年に採用された室内置きCNG仕様の僚車は、屋根上ボンベ搭載のCNG車がなくなった現在でも、後継のポンチョにまじって稼働している。『新車』はおそらくエンジン不調などの理由で廃車が早まったと推測できる。
CNG車は(車両本体ではなく)ボンベの製造時期から15年以内でボンベ交換をする規則があるが、大手事業者のCNGバスの大多数はボンベ交換をせずに廃車されており、またリセールが難しいことから解体されることが多いようだ。現在、8都県市で運行されているディーゼル車の最も古い世代はKK-、KL-車で、15年超の車両もあるだけに、CNGバスの短命さが一層浮き彫りにされよう。
CNGバスは新造も中止され、またボンベの使用期限により台数は減る一方だが、最近話題の燃料電池バスも水素貯蔵のためのボンベを搭載している。燃料電池バスは現状では年限を決めたリース導入と聞くが、長期の使用はどうなのか。イニシャルコスト・ランニングコストを含めたトータルでの環境対策・省資源を考える必要がありそうだ。(S)
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交通遊園に置かれた京王の2008年式リエッセCNG仕様。これからは子供達の遊び相手として余生を送るだろう。奥に都電6000と、京王の日産ディーゼルJP(中野に配置されていたワンステップ最終期車)がある

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交通遊園の車両と同時に導入された2008年式CNG車は現役である。ナンバープレートもわざわざ五輪仕様に切り替えられている

新年のご挨拶 そして…

新年あけましておめでとうございます。やや遅ればせながら、2019年のご挨拶を申し上げます。
今年は早々に熊本県を震源とする地震が発生し、九州内はもとより四国・中国でも揺れが観測されたとのこと。大事には至らなかったと報じられていますが、昨2018年は災害が多かっただけに、今年1年が安寧な年になることを願わずにはいられません。
ぽると出版は明日1月7日から営業開始します。今年度から例年12月中旬に発行してきた『年鑑バスラマ』を1月末発行にシフトしましたので、編集部は明日からすぐにフル稼働の状態が続きそうです。1月30日発行予定の『年鑑バスラマ2018→2019』は、2018年の話題を網羅して、従来にも増して充実した内容でお届けする予定です。ご期待ください。


2019年は5月1日に新元号に移行することが決まっており、4月1日には新元号が発表されるという。30歳より若い平成生まれの方々もそのうち『前時代の人』などと括られるのかもしれないが、昭和中期生まれとしては「昭和はますます遠くなりにけり」という印象を抱いてしまう。今回は昭和の時代のそれぞれ正月前後に撮ったバスの入った風景を、脈絡はないが数点ご紹介しよう。ストリートビューなどで現在の景色と比較すると興味深いと思う。(S)

1969
50年前の1969(昭和44)年1月1日、国道246号の渋谷区道玄坂付近。この年の5月に廃止された東京急行電鉄玉川線の電車が渋谷駅に向かう。後ろを走る2台のバスは同じく東急の日産ディーゼル4R110/富士重工。長尺のラッシュバスで、いずれも2灯式なので1963~1968年前期式。外装は銀地に水色のデザイン、赤帯の旧塗装である。4R110は玉川線の代替輸送用にも4灯式で銀地/赤帯の簡易塗装の新車が大量導入されるなど、1970年まで計262台が採用された。まさに1960年代後半の東急バスを代表する車型である。ちなみに電車は150形で、1964年に4両が新造された、玉川線では最後の新車。東急の鉄道線ステンレス車7000形と共通性のあるスタイルだが、こちらはスチール製である。玉川線廃止後は世田谷線に残り、現在の300形に置き換えられるまで活躍した。(4R110をはじめ1960~1970年代の東急バス各車種はバスラマアーカイブス03『東京急行のバス達』に詳しい)

1978
41年前の1978(昭和53)年1月下旬、国鉄中央線武蔵小金井駅北口の朝。西武バスも多くの路線が乗り入れる駅だが、たまたま発車待ちする京王バス2台だけが写っている。左は1969年式日産ディーゼル4R104/富士重工、右は1971年式いすゞBU20/北村製3扉車で、いずれも府中営業所の所属。このうち4R104はこの年の5月に、1970年式4R105とともに廃車された。2サイクルエンジン車の早期淘汰の方針によるものと聞いたことがある。一方のBU20は当時の京王のいすゞ車では最長尺車で、京王では珍しい北村製。同型9台が1982年6月まで活躍した。なお武蔵小金井の駅舎は2007~2009年の中央線の高架化工事に併せて改築、2015年には高架化に伴うすべての工事が終了し、当時の面影はなくなってしまった。

1981
38年前の1981(昭和56)年2月初頭、東京・有楽町の日劇(日本劇場)付近。日劇は戦前の1933年にオープンした国内最大級の劇場で、ミュージカル、演劇、映画などが上演・上映された。戦争による被災も免れたが、1981年2月中旬、老朽化によりその幕を閉じ、隣接する朝日新聞の社屋などとともに取り壊された。現在は有楽町マリオンが建っている。撮影当時のカメラの画角では建物の全容が収まらず、ご覧のように上部が欠けてしまった(仕方なくその後、ビルの屋上に上って撮影できたが、果たしてどこのビルだったか)。走るバスは都営バスのS-T488号。1969年度前期に購入された深川営業所のいすゞBU05D/川崎である。

1986
33年前の1986(昭和61)年正月を目前にした1985年12月末の北海道・旭川駅前。発車待ちで並ぶバスは道北バスの日野RCあるいはREで、右の車は社番538、行先は急行名寄と読める。左のバスの奥には西武旭川店のB館が見える。同店舗は1975年に開店、近年は日本最北の百貨店とも言われたが2016年に閉店し、道内第2の都市である旭川市の経済に影響も与えた。また名寄行道北バスの乗り場も2018年に開設された駅隣接のバスターミナルに移動している。ちなみに2台のバスの車体広告には『ニトリ』の文字。札幌発祥の同社は今や全国区の大手チェーンだが、撮影当時の店舗は道内に限られていた。

路面電車メモリアル 13

かつては大分にも路面電車が走っていた。1900(明治33)年に開業し九州で最も古い電車線と言われる、大分交通軌道線=通称「別大線」である。
大分交通といえば現在ではバス事業者として名が通っているが、かつてはこの軌道線と、いくつかの鉄道線も運行していた。今回のエントリーで参考にした鉄道ピクトリアル1969年4月発行の臨時増刊(通巻223号)には、この時点で残されていた鉄道の耶馬渓線(1975年廃止)が大きな赤字を生み出す一方で、大分駅―春川駅18.4kmを走る軌道線は利用者数も堅調で黒字運営と記されている。ただし別大線は大分駅から約3 kmにわたる市街地区間を除けば国道10号を走行することで、1960年代後半から本格化したモータリゼーションの影響は深刻だったようだ。大分県・大分市から大分交通に対しては、自動車の増加した国道10号の混雑緩和(道路拡張の余地がなく、軌道敷を自動車用に利用する)を理由に、1969年時点ですでに再三の事業廃止の申し入れがされていたとされる。結局その力に抗えなかったのだろう、果たして別大線は1972年4月5日、72年の歴史をもって廃止された。
今回の写真は廃止数日前の1972年3月26日、国際観光港前で撮影したものである。本連載の長崎電軌と同じく修学旅行の時であるが、別大線は朝方、国道10号沿いのドライブインでの休憩時間に撮影したもの(ここで朝食をとったのかもしれない)。すでに廃止時期の情報は得ていたので、筆者にとって非常にラッキーではあったが、当然路線の全容をつかむことはできず、後ろ髪を引かれる思いでこの場を去ったことを思い出す。(S)


大分2
国際観光港前を行く100形112号。1928(昭和3)年・川崎車輌製で当時車齢44年という古豪である。この仲間は制御器などを改造された150形と合わせて16両が在籍し、全在籍車の約半数を占めていただけに、ファンからは別大線の典型的スタイルとして印象づけられていたと思う。遠方に西鉄バスの貸切車が数台止まっているのが見える。

大分4
車号の表記が見られないが、前後扉で比較的近代的なスタイル、また広告電車という点から、1954年に日立で2両が製作された300形である。なおこれ以降の新車は前中扉の単車と、連節車に移行するが、戦後製作された単車はご覧のように連結器を備え、連結運転ができた。

大分3
一連のネガにあった、電車の姿のない別大線の駅。単線の専用軌道の区間で、しかも国道が大きくカーブするところ。この次のカットでは、専用軌道を走る電車がわずかに映ることから、仏崎か田ノ浦と思われる。奥の線路は国鉄日豊本線だが、現代のストリートビューで確認しても、国道が拡幅されたこともあり場所が特定できない。事務室には駅員がいるが、右手の待合室らしきエリアにはベンチも見えず廃止の準備が進んでいるようだ。ちなみに当時の電車の運行は9~10分間隔、現在のバスは平日昼間で20分間隔だから、半世紀近くの間に半減していることになる。

トレーラーと牽引車(トラクター)展を見る

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東京・品川の物流博物館では12月24日まで「トレーラーと牽引車(トラクター)」という企画展を開催している。すでに12月5日発行のワーキングビークルズ69号では開催概要を報じたが、ただ筆者を含む編集部自身が行く機会を得られず、昨日ようやく行くことができたので、会期終了目前ではあるが簡単に紹介しよう。
この博物館は日本通運の資料施設が前身で、元々同社の資料が基礎になっているが、この企画展ではそれよりさらに遡り、同社社員として戦前から物流やトレーラー実用化の研究に携わるとともに、戦後に荷役研究所を設立した平原 直氏の旧蔵資料が基礎となっている。
それによれば、民間でトレーラーが実用化されたのは1933年に鉄道省(現JR)が運行開始したバス・トレーラーで、バスが鉄道の手荷物や郵便物を積んだトレーラーを牽引するもの。考え方は現代の貨客混載に相通じる点がある。1940年には本格的なセミトレーラーが民間に導入された。トレーラーは金剛製作所(戦後トレーラーバスも製作したメーカー)製で、米フルハーフを手本に製作されたという。戦後は日本通運で、運用効率向上を目的とした、オート三輪をベースにした小口配送用のトレーラーが実用化されるとともに、超重量物輸送の分野にもトレーラーが進出、現在のトレーラー普及の基礎を築いていく。
展示物は豊富だがあいにく紹介はできないので、博物館外観と案内板のみ紹介するが、筆者としては1933年頃に試作された日産90をベースとする※日本初のセミトレーラー、黒部第4ダム建設で活躍したメルセデス・ベンツ8000ターボのセメントトレーラー、さらに会場のカラー動画でも紹介される、日本通運で多数活躍した愛知機械製ジャイアントやダイハツなどの三輪車ベースの小口輸送や国鉄コンテナ用トレーラーなどに心を惹かれた。(※追記:90→80に訂正。また日産80は1937年以降なので、展示写真は試作時期よりも後に製作されたセミトレーラーと推測される)
すでに会期終了まで8日足らずとなったが、23・24日の連休まで開催されるので、首都圏在住でトレーラーやトラックの歴史に興味のある方は、ぜひ足を運ぶことをお勧めする。
物流博物館はJR・京急の品川駅、浅草線高輪台から各徒歩8分程度。三田駅・白金高輪駅からは港区ちぃばすで「東京高輪病院」下車すぐ。
http://www.lmuse.or.jp


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札幌のバス 勝手にウォッチング

過日エントリーした路面電車メモリアル番外編に続き、今度はバスファンの方を意識して(?)バスの話をしたい。
札幌市営バスが全廃されて以降、個人的に、札幌のバスに接する機会は大きく減ってしまった。何より市営バスには独特の魅力があり、それが民営バスには見出せないからだろう。しかし事業廃止から15年近くが経った。もし市営バスが今なお健在であっても、標準化や競争入札の波の中で、昔のような魅力は感じられないかもしれない。
9月の訪問では、久しぶりに街角でバスも撮ってみた。市電は走る位置が決まっているから手前のクルマやバイクに注意さえすればいいのだが、バスは電車ほど決まっていないし、速度にもバラつきがある。やっぱりバスの撮影は難しい。(S)
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北24条駅前に集まる北海道中央バス。今回はこの駅の最寄の場所に用があったので、バスターミナルには何度か出入りした。かつて(1970年代半ば)この場所には市営バスの4R110やらMR450やらが集まっており、ウォッチングには好適だった。当時の所属は北光営業所が多かったと思う。写真はその後できた新川営業所の現在の配置車。

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北海道中央バスは一時期9mクラスを一括採用するなどしたが、現在の新車は再び長尺車が主流。一方で中古車はいろんなサイズがある。神奈川県から来たふそうKC-MP717Kワンステップ。短尺車は個人的に、札幌に似合わないサイズに映る。大通で。

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富士重工製の日産ディーゼルKC-UA460LAN。独特のテールランプから出どころは尾張方面とわかる。

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1996年式日野KC-HU2MPCA。いわずと知れた(?)元札幌市営。復刻塗装で緑に塗ってくれないものか? あるいは赤でもいい。とはいうもののこの車、市営バス時代より中央バスの暮らしの方がずっと長くなった。1997年式のKC-MP717P改も確認した。

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週末だったので自衛隊前の交通資料館にも出向いたが、なんと地下鉄のポイント増設工事とかで休館中。電車もバスもあらかたどこかへ運び出され、ボンネットバスとローザと思しき2台だけがブルーシートに包まれていた。かつて4RAといすゞステンレス車の2台の貸切バスを『廃棄』した過去を持つ博物館だけに、いま遺している車両は永遠に将来に伝えてほしい。

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真駒内に現れたじょうてつのいすゞエルガ短尺車。ラッピングしているが、屋根だけ前所有のグループ会社のままに見える。

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ついにきちんと撮れなかった北都交通のスペースアロー。新千歳空港連絡用で、スペースアロー最終モデルの直6エンジン+AT車。前身も空港連絡バスのようだ。先代のV8エンジン車も確認した。元々ふそうメインだった北都交通も銀嶺バスとの統合後は、中古車を含めて4車種が揃いバラエティ豊かになった。

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