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ワーキングビークルズNo.72 発行!

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はたらくくるまの情報誌・ワーキングビークルズの最新号No.72は,12月5日発行です。
定期ご購読・ご予約の方は11月30日に当社より発送いたします。
その後12月5日頃までに順次書店で発売されます。ご期待ください!
内容については,当社ウェブサイト http://www.portepub.co.jp/    をご覧ください。

ワーキングビークルズ71号は8月5日発行

はたらくくるまの情報誌・ワーキングビークルズの最新号No.71は8月5日の発行です。
定期ご購読・ご予約の方はすでに当社より発送しております。
書店では8月5日頃までに順次発売されます。
(店頭でご不明の場合は,書店員の方におたずねください)
詳しい内容は,当社ウェブサイト http://www.portepub.co.jp/
でご案内しています。

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路面電車メモリアル14  東京都電(1)

東京西部の多摩地区に住む筆者にとって、幼少から小学生時代まで都電は身近な乗り物ではなく、時折青山の伯父の家に行く時に、渋谷から乗る程度のものであった。そうした縁の薄い存在ではあったが、1967年12月に行われた都電第1次廃止の後、中高時代に残りの路線を訪ね歩き、1972年11月、現在の荒川線=さくらトラムを除く全線が廃止されるまで撮影を続けた。これは子供の頃からのバスウォッチングで醸成された、路面交通への興味が影響していると思うが、いずれにしても都電は、筆者にとって乗り物撮影の原点であるとともに、現在に続く路面電車の記録の基盤となっている。今回から数回にわたり、本連載のファイナルとして、1960~1970年代の東京都電を振り返る。(S)

 都電は1952年にトロリーバスに代替された〈26系統〉を除けば、40もの系統で23区内の主要地域を網羅する、国内最大規模の路面電車であった。しかし1967年12月には、品川―銀座―上野を結ぶ〈1系統〉ほか9つの系統が廃止され(ほかに短縮2)、代替バスに置き換わった。その大義名分は自動車の増加による定時性の悪化~利用者減少~収益の悪化であったが、背景には昭和30年代前半より、自動車が増えつつある道路交通の中で都電が邪魔な存在になったということがある。東京では自動車増加に伴う事故防止という目的のもと、1959年から軌道敷内の自動車乗り入れが可能となり、それを機に都電は平均速度を大幅に下げた。ただそれよりも早い1955年頃から、種々の審議会により道路混雑緩和を目的とする都電廃止と、地下鉄・バス・トロリーバスへの代替が提言されていたという。都交通局は地下鉄の未整備などを理由に抵抗したが、1960年代に入り都電の走行環境がより悪化する中、都電撤去に同意したとされる。その序章が、1963年以降、地下鉄丸ノ内線への需要のシフトを終えた杉並線と地下鉄三田線工事の影響を受ける志村線の計3つの系統の廃止や、1964年の東京オリンピックに向けた街路整備に伴う一部区間の廃止であった。そして1967年度から向こう4年間で都電の全線廃止が決まり、1967年12月に第1次廃止が実施され、以降年に1~2回のペースで廃止が進んだ。最後に残った城東地区は住民の反対などから廃止が1年先送りになるとともに、大方が専用軌道である現荒川線は存続が決まったものの、結局は39近い系統が路面から消え去った。
この時代、大都市の公営路面電車を概観すると、大阪市は1969年3月、神戸市は1971年3月、横浜市は1972年3月、名古屋市は1974年3月、京都市はやや遅れて1978年10月、各々全路線が廃止された。この中で京都は1970年代前半、一部路線の存続を打ち出していたが、結局叶うことはなかった(もし存続していたら、現在のインバウンド対応にどれだけ役立っていただろうか)。そうした状況からは、地下鉄・鉄道の整備計画の度合にかかわらず、都市計画と密接にかかわる公営交通が自動車優先の時代の流れに抗えなかったことがうかがえる。また東京を見る限り、1968年には通勤電車に初の冷房車が登場するなど、高度経済成長の中で利用者のニーズや意識も急速に変化していった(路線バスへの冷房の波及はその後10年近くを要したが)。都電という交通機関が定時性の悪化だけでなく、近代化の面でも利用者から色褪せて見えたことは想像に難くない。
現在まで運行を続ける路面電車は、北は札幌から南は鹿児島まで、公営・民営を合わせて全国で10数カ所を数える。その多くが苦難の時代を経てきたであろう。中にはLRTに脱皮した例もあるが、これらが時代に即した変化を続ける限り、利用者は確実に付いてくると信じている。関係者の方々のご健闘を心から祈念している。
今回の参考文献:東京都交通局80年史、季刊バス創刊号

  新宿
撮影は1968年から始めたが、今回はカラー画像が残る新宿方面のルートをいくつか紹介する。1970年3月26日、靖国通りにあった新宿終点の最終日。ここからは11・12・13系統の3本が発着していたが、銀座・月島方面の11系統が先に消え、この日を迎えたのは靖国通り経由で岩本町をめざす12系統と、外堀通り経由で岩本町に達する13系統だけだった。なお両系統とも1968年に一度短縮され、岩本町で打ち切られていた。車両は都電の将来を見越して短い耐用年数で設計されていた8000形が3両と、7000形・6000形(あるいは3000形)各1両。画面左奥には大ガードの上を行く国鉄中央線の101系電車、その上に後年セゾンに吸収されたクレジット販売の緑屋の看板が見える。当時カセットテープのトップブランドだったTDKのネオンや、合併でなくなった都市銀行の名も懐かしい。
九段再度軽
いささか褪色が目立つが、1970年元日の九段坂。神保町方面に坂を駆け降りる電車は12系統の6000形である。12系統は靖国通り経由で新宿―市ヶ谷―九段―岩本町を結んでいた。廃止の日から運行開始した代替の都バス512系統は後に秋72系統に改称、1980年3月にルートを同じくする地下鉄新宿線の開通に伴い廃止された。
併走する都バスは渋谷からお茶ノ水・順天堂病院に向かうB-S416号:三菱ふそうMR410/三菱(1968年度購入車)。当時、渋谷―お茶の水間のバスは後に茶80系統となった都電10系統代替の510系統(四谷経由)と、後に茶81系統となった隼町経由の46系統があったが、方向幕の経由地が判読できず、どちらの系統なのかは不明。茶80系統は1979年11月、茶81系統は2000年12月に廃止された。現在この場所には高71系統が走るが、神保町・岩本町へと貫くバスルートは無い。

 秋葉原
 同じく1970年元日の、こちらは外堀通り経由で新宿―河田町―飯田橋―岩本町を結んだ13系統。秋葉原(外神田)付近を行く8000形である。飯田橋からは中央・総武線に並行しながら水道橋、御茶ノ水、外神田の電気街を辿り、岩本町に至った。廃止の1970年3月27日から運行開始した都バス513系統は、後に秋76系統に改称されたが、2000年、ルートが一部重複する地下鉄大江戸線の開業を機に廃止された。ちなみにコンビニなどなかった当時の元日は、商店や飲食店のほぼすべてが休業し、車の少ない場所はゴーストタウンの趣すらあった。この日はついに飲まず食わずで撮影を続けたことを思い出す。

大久保
11・12・13系統は廃止当時、大久保電車営業所(以下大久保車庫)が担当していた。新宿終点と大久保車庫の間には入出庫専用の軌道があり、入庫車は新宿終点を発車してほどなく、華やかな靖国通りから「うらぶれた」裏通りに分岐し、専用軌道で大久保車庫に向かった。写真は分岐地点の裏通りを靖国通りに向けて見たところで、わずかな距離だけ併用軌道であった。電車は『新宿・角筈(つのはず)』の方向幕を出したままの12系統の入庫車6000形。正面の丸井の看板は現在テナントが入居する丸井新宿東口ビルである。なお大久保車庫は新宿発車後に明治通りを経由してきた13系統の経由地でもあった。
大久保車庫への専用軌道は廃止後しばらく放置され、刑事ドラマなどにも登場したと記憶するが、1974年に新宿遊歩道公園『四季の路』となり現在に至る。また大久保車庫の敷地は区立新宿文化センターなどに再開発された。

 11系統軽

前掲のカラー写真の時期にはすでに廃止されていた11系統は、新宿―四谷―銀座―月島を結んでいた。写真上は1968年2月25日の路線廃止を目前に、晴海通り・築地付近を行く11系統の6000形。遠くに銀座を望む。
下のバスは写真の体を成していないが証拠として掲げる。2月25日から運行開始した11系統の代替バス511系統で、長距離路線304系統との再編により終点は晴海埠頭まで延長された。車両は代替バス用に杉並営業所に配属されたD-N662号、日野RE100/富士重工である。REでは初期グループだが、富士重工製REは日野独自のオーバルヘッドランプのハウジングをやや内側に取り付け、個性的なマスクであった。撮影は都電廃止の1カ月後、場所は上と同位置である。なお511系統は1972年の都電全廃を機に銀71系統に改称し、1988年には都市新バス・都03系統へと発展するが、2000年の大江戸線延長を機に晴海埠頭―四谷間に短縮・減回するとともに、その後さらに減回、免許維持路線的な存在になってしまったことは残念である




ワーキングビークルズNo.70は4月5日発行

はたらくくるまの情報誌・ワーキングビークルズのNo.70は4月5日発行です。
今回は最新モデルとして,UDクオンの8Lエンジン搭載車,ボルボ新型FHほか,トヨタサクシードハイブリッドを取り上げ,各々試乗と解説で紹介します。またいすゞエルフをベースに東京R&Dが開発した燃料電池トラックにも試乗しました。
車両周辺情報として,市場展開の進むスカニアの直営ディーラーを訪問しメンテナンスを中心に取材するとともに,トルコンAT搭載車のユーザーからの声も紹介します。
自動運転の話題として,UDトラックスが開発中の“風神雷神”のデモンストレーションを取材しました。
このほか歴史記事として,いすゞプラザ企画展に見るベレットエキスプレス&ワスプ,新・はたらくくるまこの一台は三菱最初の軽四輪車・三菱360と三菱ミニカバンを取り上げました。さらに,ふそうeキャンターが大手事業者に相次いで採用,NEW環境展,東京オートサロンなど様々な記事で商用車の現況を紹介します。
ワーキングビークルズNo.70は,定期ご購読・ご予約の方は3月29日夕方に弊社より発送いたします。また常備店では4月5日までに順次発売予定です。なお各書店での発売日は弊社では把握できませんので,店頭でご不明の際は書店員さんにおたずねください。
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3月21日から消防自動車博物館でイベント開催

ワーキングビークルズNo.66でも紹介した千葉県御宿町の消防自動車博物館は,消防車ファンのS氏が個人で開設した博物館で,そのラインアップは同好の者の心を強くとらえてやまない。
同館では開館5周年を記念して,3月21日から4日間,記念イベントを開催するという。
ワーキングビークルズ次号での紹介では間に合わないので,取り急ぎブログで速報する次第。
詳しくは同館のTwitterをご覧ください。

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いすゞプラザの企画展を見る

一昨日の1月18日にエントリーした「年鑑バスラマの1月30日発行予告」から立て続けとなるが、現在いすゞプラザで開催中の企画展をご紹介。

すでにワーキングビークルズNo.69でご案内のように、藤沢市のいすゞプラザでは「レストアカー・バックヤードコレクション『ベレットとその仲間たち』」を開催中である。ベレットといえば日本で初めてGT(グランドツーリング)を名乗った“ベレG”ことベレットGTがあまりにも有名であるが、基本はファミリーカーとして売り出した小型セダンである。1963年のデビューから約10年間の間にセダン(4ドア、2ドア)、クーペやファストバックスタイルのGT、さらにセダンの前後のデザインを変えたBタイプ、セダン系スポーツモデルなどが販売された。これと併せてシャーシーフレームを持つ商用車のベレットエキスプレス(バン)、ワスプ(1トン積ピックアップトラック)も販売されたが、こうした幅広い展開は当時の小型乗用車系では珍しいものではなく、トヨタではクラウンおよびコロナ、また日産の場合はブルーバード/ダットサンの一連の系列で展開した。ただしベレットの場合は、ガソリンに加えて、お家芸たるディーゼルエンジンも乗用車とワスプの双方に設定されていたことが特徴的である。
企画展では4ドアセダン、ベレットエキスプレス、ワスプの3台が、常設展示場所ではなく、いかにも業務用といった風情のバックヤードスペースに展示されている。ベレットというと現在でもファンの多いベレGに光が当たりがちになるが、あえて地味な存在の3台にスポットを当てることで、ベレットの知られざる歴史を紹介する意図があるようだ。
今回は時間の関係もあり、オフィシャルな取材ではなく私的な観覧であったが、昭和の小型商用車ファンである筆者には、これまでのいすゞプラザ関連の取材でも登場しなかったワスプとの対面は楽しみであった。ワスプは比較的最近レストアを終えたようで、ディーゼルのC180型エンジンを搭載し4速コラムシフトを組み合わせる1967年式KRD10である。担当者によればレストアはまだ完ぺきというわけではなく、バンパーの色の修正などが今後行われる予定という。ちなみにベレットエキスプレスはいすゞプラザ開館準備段階の2016年12月に取材し、ワーキングビークルズNo.64に掲載している。
企画展は2月2日までの予定。いすゞプラザは土曜日・祝日が入場自由、平日は予約制となるので、詳しくはウェブサイトで確認されたい。(S)

http://www.isuzu.co.jp/plaza/


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バックヤードスペースに3台並んだベレットファミリー。先頭の4ドアセダンはベレットを代表する車種だが、展示車はボルグワーナー製フロアシフトATを搭載した、MT全盛の当時にあってはレアなクルマで、1965年式の型式PR20。3台目の赤いベレットエキスプレスは1967年式KR10V


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今回の観覧目的たるワスプ。車体の構成はフレーム付でベレットとは別物だが、リヤボデーを含めてベレットと同基調でデザインされたスタイリスト。現代の海外向けピックアップSUVとも違う、真の商用車である。ちなみにワスプという名を今聞くと“変なネーミング”に感じるが、英語で蜂(スズメバチなど)を意味している


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会場では開館1周年記念企画展「いすゞプラザの世界~その誕生の記録」シーズン3「レストア」編も開催されていた。展示車のレストアの過程と、それに盛り込まれた技術を示したもので、エンブレムやグリルなど欠品パーツの一部は試作用の光造形機(3Dプリンターの一種)を活用して製作されたことも紹介されていた


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ビッグホーンを最後に2002年に国内の乗用車市場から撤退したいすゞだが、海外市場では乗用車系SUV/商用車を継続している。いすゞタイランドで生産された展示車mu-Xに装着されていた、タイ進出60周年記念のエンブレムには、かつてのいすゞマークが!


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いすゞプラザへの公共交通機関でのアクセスは、小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄ブルーラインの湘南台駅(東口3番バス乗り場)から、いすゞプラザシャトルバスが便利。1時間に2回運行されている。シャトルバス専用車はこのシルバーのガーラSHDで、現行スタイルのガーラがデビューした時のカタログ撮影車そのものだ。いすゞプラザのエントランス付近で

路面電車メモリアル 13

かつては大分にも路面電車が走っていた。1900(明治33)年に開業し九州で最も古い電車線と言われる、大分交通軌道線=通称「別大線」である。
大分交通といえば現在ではバス事業者として名が通っているが、かつてはこの軌道線と、いくつかの鉄道線も運行していた。今回のエントリーで参考にした鉄道ピクトリアル1969年4月発行の臨時増刊(通巻223号)には、この時点で残されていた鉄道の耶馬渓線(1975年廃止)が大きな赤字を生み出す一方で、大分駅―春川駅18.4kmを走る軌道線は利用者数も堅調で黒字運営と記されている。ただし別大線は大分駅から約3 kmにわたる市街地区間を除けば国道10号を走行することで、1960年代後半から本格化したモータリゼーションの影響は深刻だったようだ。大分県・大分市から大分交通に対しては、自動車の増加した国道10号の混雑緩和(道路拡張の余地がなく、軌道敷を自動車用に利用する)を理由に、1969年時点ですでに再三の事業廃止の申し入れがされていたとされる。結局その力に抗えなかったのだろう、果たして別大線は1972年4月5日、72年の歴史をもって廃止された。
今回の写真は廃止数日前の1972年3月26日、国際観光港前で撮影したものである。本連載の長崎電軌と同じく修学旅行の時であるが、別大線は朝方、国道10号沿いのドライブインでの休憩時間に撮影したもの(ここで朝食をとったのかもしれない)。すでに廃止時期の情報は得ていたので、筆者にとって非常にラッキーではあったが、当然路線の全容をつかむことはできず、後ろ髪を引かれる思いでこの場を去ったことを思い出す。(S)


大分2
国際観光港前を行く100形112号。1928(昭和3)年・川崎車輌製で当時車齢44年という古豪である。この仲間は制御器などを改造された150形と合わせて16両が在籍し、全在籍車の約半数を占めていただけに、ファンからは別大線の典型的スタイルとして印象づけられていたと思う。遠方に西鉄バスの貸切車が数台止まっているのが見える。

大分4
車号の表記が見られないが、前後扉で比較的近代的なスタイル、また広告電車という点から、1954年に日立で2両が製作された300形である。なおこれ以降の新車は前中扉の単車と、連節車に移行するが、戦後製作された単車はご覧のように連結器を備え、連結運転ができた。

大分3
一連のネガにあった、電車の姿のない別大線の駅。単線の専用軌道の区間で、しかも国道が大きくカーブするところ。この次のカットでは、専用軌道を走る電車がわずかに映ることから、仏崎か田ノ浦と思われる。奥の線路は国鉄日豊本線だが、現代のストリートビューで確認しても、国道が拡幅されたこともあり場所が特定できない。事務室には駅員がいるが、右手の待合室らしきエリアにはベンチも見えず廃止の準備が進んでいるようだ。ちなみに当時の電車の運行は9~10分間隔、現在のバスは平日昼間で20分間隔だから、半世紀近くの間に半減していることになる。

トレーラーと牽引車(トラクター)展を見る

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東京・品川の物流博物館では12月24日まで「トレーラーと牽引車(トラクター)」という企画展を開催している。すでに12月5日発行のワーキングビークルズ69号では開催概要を報じたが、ただ筆者を含む編集部自身が行く機会を得られず、昨日ようやく行くことができたので、会期終了目前ではあるが簡単に紹介しよう。
この博物館は日本通運の資料施設が前身で、元々同社の資料が基礎になっているが、この企画展ではそれよりさらに遡り、同社社員として戦前から物流やトレーラー実用化の研究に携わるとともに、戦後に荷役研究所を設立した平原 直氏の旧蔵資料が基礎となっている。
それによれば、民間でトレーラーが実用化されたのは1933年に鉄道省(現JR)が運行開始したバス・トレーラーで、バスが鉄道の手荷物や郵便物を積んだトレーラーを牽引するもの。考え方は現代の貨客混載に相通じる点がある。1940年には本格的なセミトレーラーが民間に導入された。トレーラーは金剛製作所(戦後トレーラーバスも製作したメーカー)製で、米フルハーフを手本に製作されたという。戦後は日本通運で、運用効率向上を目的とした、オート三輪をベースにした小口配送用のトレーラーが実用化されるとともに、超重量物輸送の分野にもトレーラーが進出、現在のトレーラー普及の基礎を築いていく。
展示物は豊富だがあいにく紹介はできないので、博物館外観と案内板のみ紹介するが、筆者としては1933年頃に試作された日産90をベースとする※日本初のセミトレーラー、黒部第4ダム建設で活躍したメルセデス・ベンツ8000ターボのセメントトレーラー、さらに会場のカラー動画でも紹介される、日本通運で多数活躍した愛知機械製ジャイアントやダイハツなどの三輪車ベースの小口輸送や国鉄コンテナ用トレーラーなどに心を惹かれた。(※追記:90→80に訂正。また日産80は1937年以降なので、展示写真は試作時期よりも後に製作されたセミトレーラーと推測される)
すでに会期終了まで8日足らずとなったが、23・24日の連休まで開催されるので、首都圏在住でトレーラーやトラックの歴史に興味のある方は、ぜひ足を運ぶことをお勧めする。
物流博物館はJR・京急の品川駅、浅草線高輪台から各徒歩8分程度。三田駅・白金高輪駅からは港区ちぃばすで「東京高輪病院」下車すぐ。
http://www.lmuse.or.jp


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