路面電車メモリアル

路面電車メモリアル14  東京都電(1)

東京西部の多摩地区に住む筆者にとって、幼少から小学生時代まで都電は身近な乗り物ではなく、時折青山の伯父の家に行く時に、渋谷から乗る程度のものであった。そうした縁の薄い存在ではあったが、1967年12月に行われた都電第1次廃止の後、中高時代に残りの路線を訪ね歩き、1972年11月、現在の荒川線=さくらトラムを除く全線が廃止されるまで撮影を続けた。これは子供の頃からのバスウォッチングで醸成された、路面交通への興味が影響していると思うが、いずれにしても都電は、筆者にとって乗り物撮影の原点であるとともに、現在に続く路面電車の記録の基盤となっている。今回から数回にわたり、本連載のファイナルとして、1960~1970年代の東京都電を振り返る。(S)

 都電は1952年にトロリーバスに代替された〈26系統〉を除けば、40もの系統で23区内の主要地域を網羅する、国内最大規模の路面電車であった。しかし1967年12月には、品川―銀座―上野を結ぶ〈1系統〉ほか9つの系統が廃止され(ほかに短縮2)、代替バスに置き換わった。その大義名分は自動車の増加による定時性の悪化~利用者減少~収益の悪化であったが、背景には昭和30年代前半より、自動車が増えつつある道路交通の中で都電が邪魔な存在になったということがある。東京では自動車増加に伴う事故防止という目的のもと、1959年から軌道敷内の自動車乗り入れが可能となり、それを機に都電は平均速度を大幅に下げた。ただそれよりも早い1955年頃から、種々の審議会により道路混雑緩和を目的とする都電廃止と、地下鉄・バス・トロリーバスへの代替が提言されていたという。都交通局は地下鉄の未整備などを理由に抵抗したが、1960年代に入り都電の走行環境がより悪化する中、都電撤去に同意したとされる。その序章が、1963年以降、地下鉄丸ノ内線への需要のシフトを終えた杉並線と地下鉄三田線工事の影響を受ける志村線の計3つの系統の廃止や、1964年の東京オリンピックに向けた街路整備に伴う一部区間の廃止であった。そして1967年度から向こう4年間で都電の全線廃止が決まり、1967年12月に第1次廃止が実施され、以降年に1~2回のペースで廃止が進んだ。最後に残った城東地区は住民の反対などから廃止が1年先送りになるとともに、大方が専用軌道である現荒川線は存続が決まったものの、結局は39近い系統が路面から消え去った。
この時代、大都市の公営路面電車を概観すると、大阪市は1969年3月、神戸市は1971年3月、横浜市は1972年3月、名古屋市は1974年3月、京都市はやや遅れて1978年10月、各々全路線が廃止された。この中で京都は1970年代前半、一部路線の存続を打ち出していたが、結局叶うことはなかった(もし存続していたら、現在のインバウンド対応にどれだけ役立っていただろうか)。そうした状況からは、地下鉄・鉄道の整備計画の度合にかかわらず、都市計画と密接にかかわる公営交通が自動車優先の時代の流れに抗えなかったことがうかがえる。また東京を見る限り、1968年には通勤電車に初の冷房車が登場するなど、高度経済成長の中で利用者のニーズや意識も急速に変化していった(路線バスへの冷房の波及はその後10年近くを要したが)。都電という交通機関が定時性の悪化だけでなく、近代化の面でも利用者から色褪せて見えたことは想像に難くない。
現在まで運行を続ける路面電車は、北は札幌から南は鹿児島まで、公営・民営を合わせて全国で10数カ所を数える。その多くが苦難の時代を経てきたであろう。中にはLRTに脱皮した例もあるが、これらが時代に即した変化を続ける限り、利用者は確実に付いてくると信じている。関係者の方々のご健闘を心から祈念している。
今回の参考文献:東京都交通局80年史、季刊バス創刊号

  新宿
撮影は1968年から始めたが、今回はカラー画像が残る新宿方面のルートをいくつか紹介する。1970年3月26日、靖国通りにあった新宿終点の最終日。ここからは11・12・13系統の3本が発着していたが、銀座・月島方面の11系統が先に消え、この日を迎えたのは靖国通り経由で岩本町をめざす12系統と、外堀通り経由で岩本町に達する13系統だけだった。なお両系統とも1968年に一度短縮され、岩本町で打ち切られていた。車両は都電の将来を見越して短い耐用年数で設計されていた8000形が3両と、7000形・6000形(あるいは3000形)各1両。画面左奥には大ガードの上を行く国鉄中央線の101系電車、その上に後年セゾンに吸収されたクレジット販売の緑屋の看板が見える。当時カセットテープのトップブランドだったTDKのネオンや、合併でなくなった都市銀行の名も懐かしい。
九段再度軽
いささか褪色が目立つが、1970年元日の九段坂。神保町方面に坂を駆け降りる電車は12系統の6000形である。12系統は靖国通り経由で新宿―市ヶ谷―九段―岩本町を結んでいた。廃止の日から運行開始した代替の都バス512系統は後に秋72系統に改称、1980年3月にルートを同じくする地下鉄新宿線の開通に伴い廃止された。
併走する都バスは渋谷からお茶ノ水・順天堂病院に向かうB-S416号:三菱ふそうMR410/三菱(1968年度購入車)。当時、渋谷―お茶の水間のバスは後に茶80系統となった都電10系統代替の510系統(四谷経由)と、後に茶81系統となった隼町経由の46系統があったが、方向幕の経由地が判読できず、どちらの系統なのかは不明。茶80系統は1979年11月、茶81系統は2000年12月に廃止された。現在この場所には高71系統が走るが、神保町・岩本町へと貫くバスルートは無い。

 秋葉原
 同じく1970年元日の、こちらは外堀通り経由で新宿―河田町―飯田橋―岩本町を結んだ13系統。秋葉原(外神田)付近を行く8000形である。飯田橋からは中央・総武線に並行しながら水道橋、御茶ノ水、外神田の電気街を辿り、岩本町に至った。廃止の1970年3月27日から運行開始した都バス513系統は、後に秋76系統に改称されたが、2000年、ルートが一部重複する地下鉄大江戸線の開業を機に廃止された。ちなみにコンビニなどなかった当時の元日は、商店や飲食店のほぼすべてが休業し、車の少ない場所はゴーストタウンの趣すらあった。この日はついに飲まず食わずで撮影を続けたことを思い出す。

大久保
11・12・13系統は廃止当時、大久保電車営業所(以下大久保車庫)が担当していた。新宿終点と大久保車庫の間には入出庫専用の軌道があり、入庫車は新宿終点を発車してほどなく、華やかな靖国通りから「うらぶれた」裏通りに分岐し、専用軌道で大久保車庫に向かった。写真は分岐地点の裏通りを靖国通りに向けて見たところで、わずかな距離だけ併用軌道であった。電車は『新宿・角筈(つのはず)』の方向幕を出したままの12系統の入庫車6000形。正面の丸井の看板は現在テナントが入居する丸井新宿東口ビルである。なお大久保車庫は新宿発車後に明治通りを経由してきた13系統の経由地でもあった。
大久保車庫への専用軌道は廃止後しばらく放置され、刑事ドラマなどにも登場したと記憶するが、1974年に新宿遊歩道公園『四季の路』となり現在に至る。また大久保車庫の敷地は区立新宿文化センターなどに再開発された。

 11系統軽

前掲のカラー写真の時期にはすでに廃止されていた11系統は、新宿―四谷―銀座―月島を結んでいた。写真上は1968年2月25日の路線廃止を目前に、晴海通り・築地付近を行く11系統の6000形。遠くに銀座を望む。
下のバスは写真の体を成していないが証拠として掲げる。2月25日から運行開始した11系統の代替バス511系統で、長距離路線304系統との再編により終点は晴海埠頭まで延長された。車両は代替バス用に杉並営業所に配属されたD-N662号、日野RE100/富士重工である。REでは初期グループだが、富士重工製REは日野独自のオーバルヘッドランプのハウジングをやや内側に取り付け、個性的なマスクであった。撮影は都電廃止の1カ月後、場所は上と同位置である。なお511系統は1972年の都電全廃を機に銀71系統に改称し、1988年には都市新バス・都03系統へと発展するが、2000年の大江戸線延長を機に晴海埠頭―四谷間に短縮・減回するとともに、その後さらに減回、免許維持路線的な存在になってしまったことは残念である




路面電車メモリアル 13

かつては大分にも路面電車が走っていた。1900(明治33)年に開業し九州で最も古い電車線と言われる、大分交通軌道線=通称「別大線」である。
大分交通といえば現在ではバス事業者として名が通っているが、かつてはこの軌道線と、いくつかの鉄道線も運行していた。今回のエントリーで参考にした鉄道ピクトリアル1969年4月発行の臨時増刊(通巻223号)には、この時点で残されていた鉄道の耶馬渓線(1975年廃止)が大きな赤字を生み出す一方で、大分駅―春川駅18.4kmを走る軌道線は利用者数も堅調で黒字運営と記されている。ただし別大線は大分駅から約3 kmにわたる市街地区間を除けば国道10号を走行することで、1960年代後半から本格化したモータリゼーションの影響は深刻だったようだ。大分県・大分市から大分交通に対しては、自動車の増加した国道10号の混雑緩和(道路拡張の余地がなく、軌道敷を自動車用に利用する)を理由に、1969年時点ですでに再三の事業廃止の申し入れがされていたとされる。結局その力に抗えなかったのだろう、果たして別大線は1972年4月5日、72年の歴史をもって廃止された。
今回の写真は廃止数日前の1972年3月26日、国際観光港前で撮影したものである。本連載の長崎電軌と同じく修学旅行の時であるが、別大線は朝方、国道10号沿いのドライブインでの休憩時間に撮影したもの(ここで朝食をとったのかもしれない)。すでに廃止時期の情報は得ていたので、筆者にとって非常にラッキーではあったが、当然路線の全容をつかむことはできず、後ろ髪を引かれる思いでこの場を去ったことを思い出す。(S)


大分2
国際観光港前を行く100形112号。1928(昭和3)年・川崎車輌製で当時車齢44年という古豪である。この仲間は制御器などを改造された150形と合わせて16両が在籍し、全在籍車の約半数を占めていただけに、ファンからは別大線の典型的スタイルとして印象づけられていたと思う。遠方に西鉄バスの貸切車が数台止まっているのが見える。

大分4
車号の表記が見られないが、前後扉で比較的近代的なスタイル、また広告電車という点から、1954年に日立で2両が製作された300形である。なおこれ以降の新車は前中扉の単車と、連節車に移行するが、戦後製作された単車はご覧のように連結器を備え、連結運転ができた。

大分3
一連のネガにあった、電車の姿のない別大線の駅。単線の専用軌道の区間で、しかも国道が大きくカーブするところ。この次のカットでは、専用軌道を走る電車がわずかに映ることから、仏崎か田ノ浦と思われる。奥の線路は国鉄日豊本線だが、現代のストリートビューで確認しても、国道が拡幅されたこともあり場所が特定できない。事務室には駅員がいるが、右手の待合室らしきエリアにはベンチも見えず廃止の準備が進んでいるようだ。ちなみに当時の電車の運行は9~10分間隔、現在のバスは平日昼間で20分間隔だから、半世紀近くの間に半減していることになる。

路面電車メモリアル 番外編 札幌市電近況

2011年5月、路面電車メモリアル4で紹介した札幌市電は2015年12月に路線を延長、2013年からの新型低床車の導入とともに新しい時代を歩み出した。札幌市電は筆者にとって、函館市電と並んで40数年にわたるウォッチングの対象ではあるが、1974年に西4丁目―すすきの間約8.5kmを残して廃止された後は、車両の更新も散発的ということもあり、常に全廃の懸念を感じる危うい存在だった。一時期はバス事業者への事業委託も打診されたと記憶する。市電の沿線がほぼ成熟化され、将来像を描けなかったのは止むを得ないが、経営母体の市が腹を括れない運行ほど危ういものはない。
そうした時期を経て市電の存続が決まり、2015年の路線延長に至った。延長といっても1970年代に廃止された区間の再運行化ではあるが、都心部でも繁華な西4丁目―すすきの間約500mを再び結び循環化することで、新たな需要喚起やマイカーからのシフトを図り、市電を再び都市のシステムの一環に位置付けるねらいがあるようだ。また延長区間の軌道は道路中央ではなく、歩道脇で乗降できるサイドリザベーション方式を採用、利用者の安全性と利便性が図られるとともに、地下鉄との乗り換え指定電停も拡大して便宜が図られた。
そんな札幌市電に9月下旬、延長後初めて乗車した。いささか遅ればせの訪問ながら、ひととおりの車種に乗車、健在ぶりを確認した。思えば冬季オリンピックの翌年の札幌初訪問では、今回の延長区間はすでに地下鉄にとって代わられており、市電の全盛期は知る由もない。延長区間を眺めつつ、かつての連節車の花形A820、A830が走るシーンを想像もしてみた。延長後の輸送量は堅調というが、さらなる発展を期待したい。
なお今回の訪問は私用であったが、北海道胆振東部地震とそれによる停電の影響が癒えぬ時期。市営交通のダイヤはその数日前に全面回復した。また札幌市内では関東エリアで報道された清田区など地盤の弱い地域だけでなく、南区の一部地域などでも大きな被害があったと聞く。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げますととともに、一日も早い復旧をお祈りいたします。(S)

1

中央走行の既設区間からサイドリザベーションの延長期間へと左折するA1200形漣節車ポラリス。すすきの交差点のファストフード店2階から。ここはじょうてつバスも頻繁に行き来する


2
延長されたサイドリザベーション区間にある狸小路電停に停車中のポラリス。車両外観が白黒なのと、右手のビルが工事中なのでいささか無粋な景色ではある。なおポラリスは3両あるが、この10月には新型の単車1100形シリウス1両がデビューした


3
昭和30年代から走り続けてきた単車の、手前はM101、後ろは242。旧塗装を今に伝えるM101は元は親子電車の「親」であり、ラッシュ時は親子で、閑散時は親だけで運用したが、連節車の増車により早期に単独運用になった。親子電車のアイデアは、欧州風の連節車やゴムタイヤ地下鉄、寝台貸切バスなどを次々に具現化した当時の市交通局長によるものとされる。一方の242は度重なる更新と改造でかつての面影は薄れている


4
オマケ、もう1両のM101。といってもここは札幌市内からかなり離れた新千歳空港の中の飲食店街。サイズは小ぶりだがよく出来ている




路面電車メモリアル 12


①
不定期も甚だしい本連載だが,ここにきて初めて九州が登場。長崎電気軌道である。
なぜか長崎という地は取材でも私用でも訪れたことがなく,今回の写真は唯一,1972年に高校の修学旅行で撮影したものだ。修学旅行とはいえ,当時何らかのマニア的成果を求めていた筆者としては,西日本に数コース設定されていた中から,路面電車をたくさん見られそうな九州を選び,果たして長崎のほか,熊本と,廃止直前の大分で確認することができた。
長崎では何より,東京都電から移籍した700形との再開が楽しみであった。700形は東京時代に2000形を名乗り,東京都が西武鉄道から買収した新宿-荻窪間「杉並線」に専用されていた狭軌の都電である。6000形風の前後扉配置に7000形と同タイプの下側がガラスで透けた2枚引戸を組み合わせ,細面の顔と相まってなかなかのスタイリストであった。杉並線が地下鉄丸の内線に敗れて1963年に廃止された後は,軌間を広げて広尾方面など他路線に転用されたが,それもわずか数年の命だった。
幸いにも1955年製の最新グループ6両に長崎から白羽の矢が立ち,生まれ変わったのが700形である。修学旅行では自由行動の間に706に乗ることができ感激したが,言うまでもなくこれが修学旅行最大の思い出である。
写真上は706号。運転席には東京では想像すらつかなかったワンマン機器が並んでいた。車幅の狭さは長崎で重宝されたのかと思ったが,そうでもないらしい。下はプロパーの213号で1951年生まれである。
2017年現在,長崎電軌では700形のうち701号だけが残り,都電カラーで動態保存されている。一方,213号は現役である。(S)
②


路面電車メモリアル 11

かえつ①

ゆらゆらとした陽炎の向こうに路面電車…最近ニュースでよく見るこの光景は,富山市内の猛烈な暑さを報じたものだ。なぜかその車両は新型ではなく,決まって最古参の7000形なのだが,いかにも路面電車的な顔つきがカメラマンの撮影意欲をそそるのだろうか?
さて今回の路面電車は,その富山地鉄富山市内線ではなく,お隣に位置していた加越能鉄道高岡軌道線である。元々は地鉄が戦後開通させた軌道で,その後地鉄から分離した加越能鉄道が受け持ったという。訪問したのは1971年夏だったと思うが,当時は高岡軌道線の新湊と富山市内線の新富山を結ぶ地鉄射水線が健在であったほか,これら3路線には地鉄が導入した同型車5000系が走り,さらに高岡市内線の主力は富山市内線7000形(前中扉)と同系車体で前後扉の7000系であるなど,実際に訪れると富山市内線の一部のように感じる,妙な印象の路面電車であった(もっとも,わざわざ区別したがるのはマニアだけだったかもしれないが)。軌道線区間は新高岡(国鉄高岡駅)―新湊間と,米島口―伏木港間(訪問直後に廃止)で,専用軌道が多く,このほか鉄道線として新湊―越ノ潟間が運行され,新高岡からの軌道―鉄道直通運転もあった。
写真上は新高岡における,当時の主力車7000系7070形の最終番号車7076。『鉄道ピクトリアル1969年4月 臨時増刊』によれば,7070の多くはオレンジ色ながら,この車のみ直通乗り入れ用で,緑色だったという。下は5010形5021。元々地鉄が採用した鉄道区間用で,今見ると恐ろしいほどの高床車である。この時期はすでにラッシュ・増発用に転じたとされるが,この日はなぜか真っ昼間に本線を走っていた。
そんな高岡市内線,過去形で紹介しただけに廃止されたのだろうと思う向きもあろう。実際,2000年代初頭,加越能鉄道は不採算による廃止の意向を表明したが,これを受けて高岡市などは第3セクターの万葉線株式会社を設立,2002年度から新会社による運営となった。その後はLRTタイプの低床連節車も導入されているが,上の写真の7076も今なお健在のようだ。また加越能鉄道は鉄軌道からの撤退で近年加越能バスに改称している。
今回の写真も前回の和歌山市内線と同様,ハーフサイズのオリンパスペンEEでリバーサルフィルムを使用しており,証拠写真程度にご覧いただきたい。(S)
 
かえつ②

路面電車メモリアル10

2015-03-07-0037b

久しぶりの路面電車メモリアルは南海電鉄和歌山軌道線である。南海和歌山市駅などを拠点としていた和歌山軌道線を訪れたのは
1970年夏のこと。寝屋川の母方の親戚に呼ばれて伯母と万博に出向いた大阪滞在中の1日であった。この時は和歌山市内に転居した小学校時代の友人宅も訪ねたが,あいにく本人不在で(電話番号がわからずアポなしだったのかもしれない),結果的に軌道線だけが記憶にある初の和歌山行きだった。
明治に開業した同軌道はその経営主体がたびたび変わり,南海系であったり近鉄系だったり,あるいは独立会社だったりしたようだが,1961年からは南海直営に落ち着いたとされる。だがバス路線の伸展などによる利用者減少,道路整備などを理由に廃止が計画され,訪問した翌年の1971年,2回に分けて廃止された。和歌山訪問時点ではすでに鉄道誌で廃止の情報を得ていたが,思えば当時は路面電車廃止ブーム真っ最中であり,県庁所在地であっても規模の限られた市内電車の廃止など,社会的には大した話でなく,むしろ近代都市に路面電車は不要と信じられていたはずだ。
上の写真は和歌山市駅に並ぶ10001001700703。たまたま古いスタイルが並んだが,これまで戦前製あるいは戦後間もない製造と思っていた1000形は,ウィキペディアによれば1954年と,当時高1の筆者とご同輩であったのは意外である。700形は1961年に廃止された三重交通神都線からの移籍で戦前製。神都線といえば近年三重交通が新製した路面電車風オリジナルバス「神都バス」のモデルである。703の前身は神都モ581形で,バスのモデルであるモ541形より新しいはずだが,深いルーフなどに共通性が見られる。ちなみに神都線から和歌山へは13両が大挙して移籍し,いずれも700形を名乗った。
下は市内を行くモ250形。秋田市電から1966年に4両が移籍した元60形で,岡山電軌に行った元200形と兄弟の,所謂都電6000形タイプだが,移籍時に両端を整形されたという。張り上げ屋根に緑系の新塗装と,当時はプロパーの最終系列321形とともに近代的な印象だった。しかし和歌山も安住の地ではなく,結果的に移籍後4年と少しで廃車された。なお,以上の移籍車の動向は鉄道ピクトリアル19764月増刊号(No.319)を参照した。
今回の写真は,撮ったはずのモノクロネガの所在がはっきりせず,映りは悪いがカラーで掲げた。フィルム面積がハーフのオリンパスペンEEにリバーサルフィルムのフジカラーR100の組み合わせで,すでに褪色・変色していたこと,また手持ちのスキャナとポジとの相性が悪いこともあり,現代のソフトウェアによって何とか見られるようにしていることをご了承願いたい。(S)

 2015-03-07-0038b

路面電車メモリアル[番外編]滝頭訪問

昨年7月にリニューアルした横浜市電保存館を久しぶりに訪問した。同館は市電全廃翌年の1973年に滝頭車庫の敷地にオープンし,1983年に,新築された滝頭の市営住宅1階の現在地へと移転した。開館以来41年を経た今も,車両7両を保存するとともに,市電に関する各種資料を展示する。このほか,鉄道のHOゲージ,市電のOケージの各ジオラマなどもあり,ゆったりとしたスペースの中で昔日の市電の活躍を偲ぶことができる。お隣の東京都電が事業を継続しているとはいえ,全盛期の保存車両は実質2両(文末注)しかないことを考えると,滝頭の市電保存館は首都圏唯一の路面電車ミュージアムとして,非常に充実した施設といえる。
全盛期の横浜市電は浅間町,麦田,生麦,滝頭の4営業所を拠点にしており,浅間町は早い時期からバスと同居していたという。市電の最期,1972年3月31日まで残った滝頭営業所は廃止翌日からバス営業所に転換して現在に至るが,滝頭には交通局の本局も置かれていただけに,この地に市電が保存されているのは,ある意味当然なのかもしれない。
昨年のリニューアルでは,市電最後の塗装である「現在の市営バスに似た色」4両のうち,2両がかつての塗装=1両はコーヒーブラウン/白,1両は水色/アイボリーに塗り替えられた。
筆者が初めて市電を見たのは,単車が最後の活躍をしていた1967年頃だから,当然最後の塗装しか知らないし,今回の復刻色が展示車両そのものに塗られていたかはわからない。特にコーヒーブラウンは2両しかなかったとも聞くから,「こういう色がかつてこのスタイルの車両に塗られていた」ということかもしれない。(S)

(注 上野公園から移したPCCカー5501号と,愛好家から移管された6000形の計2両を指す。荒川車庫隣に5501とともに展示されている7500形はワンマン化で整形された改造車で,かつ職員有志の精力的な活動の末の保存。7500形のオリジナルは小金井市の江戸東京たてもの園にあるが,かつてのエリアからは遠く離れている。ちなみに1972年11月に荒川線以外を廃止する際,営業車は6000,7000,7500が残されたが,東京都交通局が能動的に保存しようとした車両は皆無であった)



①
↑1972年3月31日,横浜市電最終日を迎えた滝頭の車庫。右手にワンマン化され最終期まで主力だった1500形と1150形が並ぶ。中央のツーマン車1400形は使用路線の廃止により数年間保管されていたようだが,結局保存はされなかった。左手に営業開始を待つ新車のバス,日産ディーゼルPRと日野REが見える。

②
↑現在の市営バス滝頭営業所。長らく日産ディーゼル主体だったが,同社のバス撤退と競争入札による車種決定,CNG充填設備の廃止に伴う浅間町との車両入れ替えなどで,現在の配置車は多彩になった.また浜松―横浜間の遠州鉄道の都市間高速バス(左端2台)はこの車庫を休憩地としている。


③
↑保存館内。左手前は4両在籍した市電最後の新車1600形1601。4枚折戸の前中扉が特徴だったが,それゆえワンマン化はされず13年の薄命に終わった。この紺系のカラーリングは1989年に西工製中型バスRB80で復刻された。その奥は水色とクリームに復刻された1300形1311。1971年まで(まだ大きな空が広がっていた)横浜駅東口と山元町を行き来していた。一番奥,最終期のカラーリングは1000形1107で,1970年に運行を終えたという。天井に張られた架線のディスプレイが嬉しい。


④
↑1500形1510。1951年から導入され市電最終期まで主力で活躍した「横浜版PCCカー」。保存館のリニューアルに際してコーヒーブラウン色(むしろカフェオレ色?)に変更されたが,このカラーリングは同じスタイルで後発の1150形のうち2両のみという説が、専門書に見られる。筆者にとっては最も懐かしいスタイルだけに,イメージ塗装ならばその旨を記してほしいところだが…。奥に,全廃の際に花電車となった無蓋貨車10号がいる。

下は1510の車内。大きな窓が印象的。今回のリニューアルでは車内外の広告板や路線図などにも配慮され,一部の車体には「イメージです」として,当時のキリンビールの広告が広告枠に入れられているが,こうした昭和レトロな演出は個人的に好きである。

⑤

路面電車メモリアル9

 昨年1月以来のご無沙汰となった「路面電車メモリアル」,今回は川崎市交通局を取り上げる。川崎市電は戦中の1944年に,軍需工場の輸送力確保を目的に開業した。戦後もそのまま工業地帯の足となり,国鉄貨物列車の乗り入れによる一部三線軌条化,さらには京浜急行大師線の一部に乗り入れるとともに,その後同区間を買収,そして買収区間の一部を国鉄貨物駅の開業で休止するなど,短期の間に様々な変化を遂げた歴史がある。しかし市内のバス路線拡充の中で運行は開業以来の1路線にとどまり,19693月末をもって廃止された。営業期間はわずか25年,完全な工場輸送のための路面電車という点では異色だったといえる。

 筆者が訪れたのは最終日当日であった。川崎に出向いたのもそれが初めてだったと思うが,どんよりした雲が空を覆い,いかにも川崎らしい雰囲気などと勝手に思ったものである。1969年は5月に東急玉川線の廃止が予告され,また都電も横浜市電も路線を減らしており,首都圏だけに限っても路面電車の廃止ブームの最中といえた。それだけに路線規模の小さな川崎市電がなくなるのは,当然とは言わないまでも大した話でなかったかといえる。

 運行区間は川崎駅前-池上新田間の1系統だけだから,労もなく全線を撮り歩いた。成就院前にあった車庫も訪問したが,構内で不用品が焼かれる中(いまなら環境問題でNGだ),部品を頂戴したことも想い出である。その一つ,ブレーキレバーは昨年まで所蔵していたが,腐食が進んでいたことからやむなく処分した。写真の一枚はバスラマ№45にも掲載したが,ここではそれ以外のカットを紹介しよう。(S)

 PICT0001 














上:併用区間の第一国道電停での装飾電車。周囲には初代日野レンジャー,日産クリッパー,2代目後期型トヨエース,日産ディーゼルサングレイト,
130セドリックタクシーなどが見える。なお最終日当日,川崎駅前や主要停留所にはカメラを持ったファンや沿線住民が見られたが,あくまでも限られた存在。最近の東横線渋谷駅地下化の時のような「誰でもカメラマン」状態など,当時は想像もつかなかった。


下:工場地帯に入ると専用軌道だったから,自動車の影響はほとんどなかった。その一部区間は単線で,タブレット交換も見られた。終着の池上新田で,別れを惜しむ装飾電車。左端に見える線路は国鉄の貨物線であろう。700形は市電の最後を飾った車両では主力の一つ。

PICT0004






記事検索
プロフィール

portepublishing

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ