この日記は『二十日鼠と人間』に関する日記です。なので、『二十日鼠と人間』をまだご覧になっていな方、もしくはこれから見る予定があるというは御退出ください。

友人に紹介された映画ですが、すごくよかった。監督・主演はゲイリー・シニーズ。『スネーク・アイズ』や『グリーンマイル』に出てます(以下ジョージ)。レニー役にジョン・マルコヴィッチ。老犬を飼っていたキャンディーにレイ・ウォルンストンと僕の知らない俳優がごろごろです、笑。原作はジョン・スタインベッグの小説『Of Mice and Men(二十日鼠と人間)』。そして感覚的なもので申し訳ないのですが、非常にアメリカ的で、僕はすごい好きです。牧場の風景とか。

世界恐慌時のカルフォルニアが舞台で、二人の季節労働者、ジョージとレニーの悲劇の物語。今回はこの映画を誰にもたのまれず、分析してみたいと思います。相変わらず原作は見ていません。

いい加減読めよ!

たしかにそうでしょう。しかし、映画は映画の中で解釈・勝負する、というのが僕のスタンスです。決して面倒くさいから、とかそういうわけじゃありません。それでも構わないという方は最後までお付き合いください。

疑問点は3つで

1、なぜジョージに恋人がいないのか
2、レニーってなに?
3、最後ジョージがレニーを殺したことは何を意味するか

にしたいと思います。

1、なぜジョージに恋人がいないのか。
 主演のゲイリー・シニーズ。ジョージはとても男前です。まず僕が女性であったなら一目で惚れていたことでしょう。とてもハンサム、ナイスガイ。しかしながら、彼には恋人がいない。そのことが判明するやり取りを00:41から引いてみます。J=ジョージ W=カーリー(牧場の息子で元ボクサー)の妻
 W「遠くから来たの?」
J「かなり遠い」
 W「どのくらい遠いの?どの町から?」
J「名もない町さ」
 W「そこには恋人はいる?」
 J「いない」
 W「今まで恋人はいた?」
 J「いないよ」
 W「一度もいなかった?」
 J「そうだ」
 W「ふふ、うそばっかり。」
 ※J首をふる
 W「ハンサムだからモテるでしょ。」
 ※J下うつむいて、何かを言いかける。しかし、そこで馬の鳴き声が聞こえ邪魔をする。

 このやり取りの後に二人が倒れこむシーンでもあれば、「ジョージめ。ご謙遜を」ということになるのですが、そういうことにはならない。カーリーの妻が“うそ”といったことはどうやら嘘ではないらしい。それはジョージがやたらと神妙であることからもうかがえます。ホントにジョージには恋人が、それもたったの一度も(あんなにハンサムなのに!)いないようです。そして興味深いことは、この場面が約2時間におけるこの映画内において、ジョージが自分のことについて唯一語った場面でもあるということです。さらに興味深いのは、「ハンサムだからモテるでしょ。」と言われたあと、ジョージがうつむいて何かを語ろうとしたということ。このシークエンスで大事なことは2点。
 a ジョージにはホントに今まで一度も恋人がいない
 bジョージは何かを語ろうとしていたが、それが馬の鳴き声によってさえぎられた
ということです。
しかし、彼は女性に興味がないわけではありません。それは00:08からわかる。非常に細かいシーンで申し訳ないのですが、彼は町中で女性と三回すれ違います。この3度ともに彼は女性を見ている。しかも女性限定で。異性に興味がない男の行動とは思えない。むしろそんな細かいことより決定的なのは、00:41。カーリーの妻と話している時です。このシークエンスにおいてカーリーの妻はかなり挑発的です。麦の入った袋に座ってもたれかかり、その御足を見せつける(というかもうすぐでパンツが見えそうです)。それだけならいいのですが、初めレニーに「彼女が足を見せたらそっぽを向け」といっていた当のジョージ本人が、これを

ガン見です(カメラワークからわかります)。

女性に興味ありありで、かつハンサムな彼ですが、彼には恋人がいない。おそらく語られなかった過去が関係しているのだと考えられます。その所為で彼は恋愛という囲いの中から追い出されている。彼は恋人が持てない。大事なのは、

①ジョージには恋人がいない
②おそらくこのさきも恋人はいないだろう

ということです。そしてもし深読みすることが許されるなら、彼の過去についてこういう解釈もできます。00:27にジョージが宿舎のベッドを割り当てられた時のことです。彼はベッドの横にある棚に「シラミ。ゴキブリを確実に殺す」と書かれた殺虫剤的なものを見て、「ひどいベッドじゃないか」と怒ります。しかもこの時の彼の表情が、

ⅰレニーに女の足を見るなと言った時
ⅱ「(レニーが)カーリーにリンチにされる」と言われた時

と同じような剣幕になっていることです。非常に引っ掛かる。昨日森で爆睡していた輩が、不潔なベッドに対してそこまで激怒するものなのか。ということは、むしろ殺虫剤が関係あるのではないか。では殺虫剤が関係あるということは?『Get Backers』に出てくる蟲滅香の副作用からもわかるように、殺虫剤に「使用されている内分泌撹乱化学物質、いわゆる環境ホルモンと呼ばれる一連の化学物質が動物の生殖システムやED」の原因となる。このことから、実はジョージは天性のインポテンツではなかったか。だから女性と関係が持てない、と無理に結論づけることもできます。ただこの解釈は正直いって強引で、ジョージ=インポというのは作品の景観をかなり損ねるものであるので、今回は不毛にしたい(まぁ僕としてはすごい親近感が持てるわけですが、笑)。実際に死んだネズミを「不潔だから捨てろ」とレニーに言ってますしね。ほんとにただ不潔な環境がいやなだけだったのかもしれない。彼の過去については断言することができません。ただ、大事なのはやはり

①ジョージには恋人がいない
②おそらくこのさきも恋人はいないだろう

という事実と、今後も彼は家庭を持たないだろうという推測です。

2、レニーってなに?
 もちろん、人で、大男で、怪力で、頭脳が子供の程度で、ジョージに命令されたことをやって、単色が好きで(赤いドレス、赤いうさぎ、青いうさぎ、緑のうさぎ)、やわらかいものをなでるのが好き(ネズミ、犬、女性の髪の毛)というのは、劇中でくり返される事実なのでわかりきっている。僕が問いたいのはそこじゃない。僕が問いたいのは00:25で牧場のオーナーが問いかける「おまえ(ジョージ)はそいつ(レニー)の何なんだ?」の問いの裏返し。すなわち、「ジョージにとってレニーは何なのか?」ということです。レニーはジョージの相棒ですが、相棒にしては手がかかりすぎるし、厄介事を起こす。そんな彼をいつも隣に置いておくなんて。ジョージにとってレニーは一体何なのか。

この疑問を解消するために、レニーとジョージが二人でアップショットを交えながら会話をする4つのシークエンス(場面)を使いたいと思います。

Ⅰ 夜の森で、自分たちにはお互いパートナーがいるという話将来自分たちが夢見る牧場の風景について語るシーン(00:18)
Ⅱ 宿舎で将来自分たちが夢見る牧場の風景について語るシーン(00:58)
Ⅲ レニーのカーリーに殴られた傷あとをジョージが拭いてやるシーン(01:06)
Ⅳ 最後、レニーを撃ち殺す前に、自分たちにはお互いパートナーがいるという話と将来夢見る牧場について語る場面(01:43)

まず会話内容から共通性のある、Ⅰ、Ⅱ、Ⅳを検討します。内容は「おいつか俺たちは小さな家と数エーカーの土地をもち、そこで牛や豚や鶏を飼」ってレニーは「うさぎも飼」うということ。内容も確かに大事ですが、何より重要なのは、特にⅠ、とⅡにおいてこの夢の牧場の話をするジョージがとてもうれしそうだ、ということです。初めはレニーをなだめるための空想夢話だと思っていたのですが、実はそうではない。このまだ見ぬ牧場はどうやらジョージの夢で、ジョージの希望で、ジョージの望むべき未来であるようです。それをレニーに向かって話していて、レニーはそれがお気に入りだということです。
ただ、これではまだ、レニーが何なのか、よくわからないので、次にⅠ、Ⅲ、Ⅳを検討します。これらの場面で共通する要素はなにか。それはジョージの横にレニーがいるのは当然ですが、もうひとつ、これらの場面にはあるものが加わっています。ではそれは何か。

水です。Ⅰ、Ⅳでは小川とそのせせらぎが、Ⅲでは洗面器の水と雑巾の絞った音が加わっています。

では気になるところです。この水が意味するものとは一体何なのか。

 さんざん、映画は映画の中で勝負する、外部参考資料(コンテクスト)を使わない、と言ってきましたが、水が何を意味するのかという根源的な問いは僕では解決できないので、ここでガストン・バシュラールを引用させていただきます(なんて卑怯な・・・、笑)。ガストン・バシュラール『水と夢―物質的想像力試論』によれば、

「水を物質とし、また口実とする〈イマージュ〉は、土や水晶や金属や宝石によって提示されるイマージュの普遍性や堅固性を有していない。(中略)
水から生まれたいくつかの形態がもっと魅力や執念や一貫性を所有することがあるが、それはもっと物質的で深い夢想が発生するからであり、われわれの内的存在が根元的に参加し、われわれの想像力が一層接近して創造行為を夢想するからなのだ。そのとき反映のポエジーにおいては感じられなかった詩の力が突然現れるのだ。水は重たくなり、暗くなり、深くなる、つまりおのれが物質となる。」

 端的に言えば、水にはあらゆる映画に通用する決まった意味というのがなく、そして自身の深い夢想を誘う装置だということです。たとえば、春の小川を想像してください。春の小川。現実にいた自分はやがて目を閉じて川のせせらぎに聞き入ります。そうなれば、そこから自分の空想の中に埋没していくという姿は想像に難くないでしょう。水というのは不思議なもので、自分を取りこんでしまうような、全てを内包してしまいそうな不思議な力を持つ。ナルシストで有名なナルシスは、湖に映る自身の顔を見て、自分の顔が美しい、と精神世界に入っていったそうです。音楽をしている人は“アンプ”を思ってください。自分の空想(音)を水(アンプ)が拡大していく、という感じです。水は精神世界を広げる装置です。そしてそれは主人公の物質的な“生”を広げることもあれば、“死”を広げることもある。

 この映画においては、水は“生”や“死”のシニフェ(象徴)ではなく、ジョージの農場の夢(空想)を助長する装置である、と僕は解釈しています。
 Ⅱにおいても、ジョージはレニーに自身が夢見る牧場について語りますが、そこには水が無く、逆に老犬を撃たれたキャンディーに声をかけられることで、ハッとし、現実に戻ったような姿を見せます。それから、二人が一切話してこなかった“金の話”が出てくる。ジョージは「金が問題だ」といいながらも自身の金銭の無さにはキャンディーと一緒に対話するまで一切触れません。ここで彼は現実的に金の問題について考え始めます。
 Ⅲにおいては、牧場のことに関しては一切触れませんが、レニーを非常に愛でます。彼の傷を丁寧に拭いて、そして「お前は悪くない」と非常に母性的な所を見せる(これはⅣも共通)。そして、レニーに対してのみ夢を語るということを加味すると、レニーはジョージの希望の鏡像であり、それを“なでる”というのは、自身の夢を愛でているのと同義です。
 つまりジョージにとってレニーとは、相棒というのは当然ですが、

a 自分の牧場を持つという夢の象徴

だということです。ジョージはレニーがいないと、自分の牧場のことを話す人がいない。レニーがいないと、彼は希望を保持し続けることができない。
 夢の牧場の話をする相手はレニーでなければいけません。
 キャンディーでは役不足です。それは「一緒に送付金を送ろう」といったキャンディーの提案に「考えとくよ」と保留したことからもわかります。完全に信頼しきっていない。
 穀物班のスリムでも役不足です。一見、ジョージとスリムの間にはしっかりした信頼関係があるように見えますが、しかし、ジョージはスリムに牧場の話を一度もしない。スリムではジョージの空想を受けきれない。これはレニーでなければいけません。
 なぜレニーがカーリーにリンチされるのが嫌なのか。それはレニーが彼の夢そのもので、彼の分身だからです。

3、最後ジョージがレニーを殺したことは何を意味するか
 カーリーの妻の首をへし折って殺したレニーを探しに、ジョージは再び森へと行きます。面白いのは、レニーをキャンディー以外の全員が追うということです。腰の悪い黒人も、“銃を貸す”ということでこの一件に加担し、信頼の厚いスリムもジョージと何度も視線を交わしながらも牧場(全体)の秩序を優先し、レニーを追いかけます。しかも彼は「カーリーが行けばきっと殺したがる」「たとえ縛り上げて連れ帰ったとしても―殺されるさ」と、レニーの死を確信しながらも、出発します。つまり、ジョージは長年連れ添った老犬を殺されたキャンディーと同様、ここで完全に孤立し、孤独になります。
 ジョージは、老犬を殺したカールソンの銃(リボルバーのやつ)を宿舎に戻ってこっそり持ち出し、それを持って森へ行く。
 そしてレニーと約束をしておいた茂みの近くで、彼を後ろから撃ち殺します。
 01:43でレニーはジョージに例の相棒の話と牧場の話をしてくれと頼みます。この時、初めは「この前みたいに話してくれ」といっていたのが、「前みたいに話しなよ」という言い方に変わります。ジョージはレニーに、00:18でプリーズ、プリーズといってせがまれた話を、「話しなよ」と言われる。再びこの話をするといく行為は、ジョージに確認させるということを意味します。
レニーがいることで

A 孤独でなく
B 夢(希望)を持てた

という確認。そしてレニーを撃ち殺すとこの2つを失うことになります。レニーはここでジョージに確認させます。「お前は孤独になり」「夢を失う」ということを。ここでジョージとレニーの立場が逆転した形になる。そしてジョージはレニーを撃ち殺すことで、孤独でなく、未来に希望を持っていた自分を殺すことになります(夢がかなわないということはうすうすジョージも感づいていたんでしょうが)。この二人の会話の終盤に、カーリーの連れた犬の鳴き声が入ってきます。これは夢から覚めろ、夢を捨てろという暗示です。ジョージが夢想に耽っていた空間はここで完全に崩壊します。
 つまり、レニーを殺すということは、夢を失くすということです。2で僕が触れたように、ジョージが“自分の農場を持つ”という夢はレニーがいなければ成立しません。さらに1で触れたように彼は今後家庭も持つことがない、つまり一生の孤独です。

Q、では、ジョージは農夫として下働きに徹し、この先の孤独な生を消費していくのか?

実はこれも違います。ジョージはレニーを追って森に入ってく際、カウボーイハットを持っています。レニーを追うのにこのカウボーイハットは不自然です。正直いらない。しかし彼はそれを持っていき、そして、01:40で、これを藪の中へ捨て(落とし)ます。そんなの偶然だよ、そう言ってしまえばそうですが、ハットをわざわざ持っていくという不可解な行為、映画は人が作ったもの、ということを考慮にいれれば、ここにも一つの意味が宿る。カウボーイハットは農夫・牧童の象徴です。つまりここで彼が帽子を失くすということは、農夫でなくなるということです(農夫としての持ち物も全て宿舎です)。未来の希望を失った彼には働く意味なんてありませんからね。
では彼はどうするのか。これが一番重要な結論なのですが、ジョージはこれからどうするのか「わからない」んです。00:09でレニーに「どこへ行くの?」と言われた時、はっきりと明言したジョージはもうここにはいません。今までレニーを導いていた彼は、レニーを失うことで、完全に自分の行く先も失います。なぜなら夢もなく、恋人もなく、「名もない町」から来た彼には、行く場所が全くない。働く意味もない。最初と最後、暗闇の中で貨物列車に乗るジョージは自分の行く先がもはや「わからない」んです。この映画は、相棒を失ったとか悲劇とか、そんなものではない。“完全な未来の喪失”です。ジョージにはもう何もありません。ハンサムも役には立たないし、積み上げてきた農夫の経験も生かすことができない(農夫やめましたから)。彼はここで全てを失います。こうした完全なバッドエンドで映画は幕を閉じます。

 以上が僕の見た『二十日鼠と人間』です。いやぁ、重い!良い映画ですが非常に重い。ぐっとくる映画です。その分、麦畑が明るかったり、牧場の風景が和やかだったりするんでしょうね。1992年と作品は古いですが、僕としては『レインマン』以来のヒットです。非常に面白い映画でした。アメリカでは教材にもなっていたらしいですよ。今はどうか知りませんが。
 相変わらず根拠を全て劇中に頼っていますので、これが正解とは言いません。一つの解釈としてお楽しみいただければと思います。
 
 特に3番目の問いは、「なぜジョージはレニーを殺さなければならなかったか」というものに変えると、解釈ががらりと変わります。結論から言うと、レニーを殺さなければならなかったのは、彼が夢から覚め、現実に立ち返るため、というものになります。自分の農場の夢を捨て孤独な農夫として生きる。ジョージはスリムのような人生を送るだろうと推測できます。しかしそこにはカウボーイハットというシニフィアンが立ち入る隙がないし、一種のジョージの成長物語のようなニュアンスになるので、僕の好みでない。レニーを殺したジョージにはもっと深い絶望を与えたかったという僕の思いが勝りました、笑。だってそうしないと、最後にジョージとレニーが二人で麦袋を詰め込むシーンの重さが変わってくるから。僕はとびきり重くて深いものにしたかったんです。こだわってます、映画監督が作品にこだわるように僕も自分の解釈にはこだわってます、笑。

長々と読んでいただき、ありがとうございます。感想・批評等ございましたら、またコメントやメールください。ありがとうございました。