パウパウのブログ

そうです、私が変なパウパウです

好事徒然  文運東漸から考える

 江戸中期、およそ享保期ごろを境に、文化・経済の中心が上方から江戸に移る。この事を文運東漸(ぶんうんとうぜん)という事は、以前にも述べた。

 これと合わせて今年の大河ドラマだった『天地人』を見ていて思ったことがある。それは秀吉が天下統一してからの期間が意外に長く、その間は結構、国内的には太平な時期が続いていたということだ。
 本能寺の変で信長が殺されるのが天正十年(1582)、その後、家康と戦ったり、九州征伐をしたりしてるが、最終的に小田原落としをして天下統一を果たし、関白の位を授かるのが天正十九年(1591)のことである。

 その翌年から朝鮮出兵が始まり、息を引き取るのが慶長三年(1598)だが、その間、国内では目だった戦役というのはないように思う。天川分け目の一戦、関が原の戦いは翌々年の慶長五年(1600)、徳川家康が江戸に幕府を開くのは慶長八年(1603)。
 豊臣家が最終的に滅亡する大阪夏の陣が慶長二十年(1615)である。ここでようやく国内の内乱は、由比小雪の乱や島原の乱を除けば、おおよそ天下泰平の世の中になったと言える。

 しかし天下分け目の戦いや豊臣家滅亡などの戦いがあったとしても、時代は既に群雄割拠する下克上の時代ではなくなっていた。秀吉が天下を統一した後はもう、既に「天下人」の地位はある程度決まっており、誰もにチャンスがあるというような時代は既に終わっていたのである。
 実際、関が原から大阪の陣までが、実に15年ある。15年、というのは長い。この間、天下は一体、どうなっていたのであろうか? 僕が思うのは、普通、「江戸に広まる三河の家康」とかって覚える1603年から『江戸時代』が始まる、と思いがちだけど、実はこの時も依然として日本の中心は『上方』にあったんだろうということだ。

 「文運東漸」までは、経済も文化の中心も、全ては大阪京都の上方にあった。大阪城に居を構えている豊臣の政権というのは、まさに『日本の支配者』だったのだといえる。
 簡単に言うと天下統一の1591年から、大阪夏の陣で大阪城が落ちる1615年までの24年間、この間は『豊臣時代』というものが確かにあり、しかもそれは比較的「天下の安定した」時期といえたのだろうと思うのだ。

 家康は確かに江戸に幕府を開いた。しかしその頃の江戸なんてのは完全な湿地帯で、秀吉はそもそも家康の力を削ぐために、ここに転地させたといってもいいくらいである。家康が征夷大将軍になった1603年の段階では、秀吉の息子秀頼とその母淀君が大阪城に君臨していた。
 その意味では僻地の湿地帯である江戸に幕府を開いたところで、実質的な支配者は豊臣側にあったと思うのだ。地方に何が起ころうと、中央はがっちり豊臣家が君臨してたわけである。

 24年といえば四半世紀である。しかし僕達の習う日本史の感覚で行くと、信長、秀吉というのは徳川幕府までの『つなぎ』みたいな意味でしか習わないように思う。しかし実際にはそこで日本全国の人々が、その四半世紀を、天下の情勢に慄きながらも日々を過ごしていたのだ。
 しかし豊臣の天下は完全に崩れ去り、名実共に日本の支配者は徳川家ということになった。しかしそこからようやく、江戸の本格的な都市整備が始まる。それがひと段落つくのが、『文運東漸』期ということなのだろう。

 享保というのは西暦でいくと1716年から始まる。大阪夏の陣で徳川が豊臣家を滅ぼしてから、実に100年という時間が流れているのだ。それだけの時間をかけて、ようやく『江戸』という都市は、日本の真の中心になったということなのである。
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  • 社会と人間  日本の『世間』

     社会心理学者・山岸俊男の行った実験で、非常に興味深いものがある。それは日米比較質問紙調査で、その結果を先取りして言うと、それは「日本人はアメリカ人に対して、人を信頼する程度が低い」というものだった。

     それは「ほとんどの人は正直である」、「ほとんどの人は信頼できる」の質問を用意し、その程度を1~5までの度合いで答えてもらう、という調査である。その結果、アメリカ人被験者の回答の方が、より「人を信頼する」程度が高いという結果が得られたのである。
     「ほとんどの人は正直である」の男性回答の集計平均値は、日本人で3.5、アメリカ人で4.1である。また「ほとんどの人は信頼できる」では、日本人は2.65、アメリカ人では4.06でありかなり差があると見ていい。このような日米差は、女性の場合でも同様なのである。

     この結果に少し、驚きを持たないだろうか? 一般的には日本人の方が『信頼』に基づく社会を形成しており、アメリカ人は契約に基づく不信頼な社会イメージがあったりするのではないだろうか?
     この結果を受けて、山岸は『安心の社会』『信頼の社会』という議論を展開する。「ある人が、自分に急に危害を加えたりはしないだろう」という期待は、何によって形成されているのだろう? それを例えば「その人個人への信頼」ということによって見る見方が一方にある。

     しかし別の角度から考えれば、「その人が他人に危害を加えたりすることは、その人自身の得にならないからしないだろう」という期待もあるのではないか。その人個人を信頼するのが『信頼』であるとすれば、まわりまわってその人に期待できるのが『安心』というわけである。
     ここで山岸が考えたのが、「『安心の日本』『信頼のアメリカ』」ということだった。つまりアメリカ人の方がより「その個人」を信頼しているが、日本における犯罪発生率の低さやその他の社会的特徴は『安心』に基づくものである、と位置づけたのである。

     山岸俊男はこの差異をあえて「宗教の違い」とは説明せず、「戦略の違い」という風に説明している。(山岸俊男と糸井重里の対談のサイト。)http://www.1101.com/yamagishi_toshio/index.html また山岸や著作のなかでは、『安心』による社会秩序の維持が難しくなってきた現在において、「安心社会から信頼社会へ」の移行を提唱している。
     しかし僕がここに興味深く見出せるのは、『個人に内面化された神』というものを前提に持つ欧米社会と、『共同体の強制力によって秩序が保たれる日本』との差異である。それは「宗教の差異」というより、「宗教と習慣の差異」といったほうがいい。

     例えば「旅の恥はかき捨て」という言葉が示すように、日本は「自分の家」を離れると、野放図になるようなところがある。それは逆にいえば、自分の属する共同体では極めて厳重な『隣人の目』が働いているということだ。自分のムラや身内の視界界隈では、めったな事はしないというのが日本人的モラリティの基盤なのだといえる。
     これに対して『市民社会』とは、基本的に「公共意識」というモラリティに支えられた社会である。「公共性」とは、隣近所を指す言葉ではない。隣近所が見ていなくても、ルールを守る、それが「公共性」である。

     この意味で「公共性」とは、いわば「隣近所の目」ではなく「神の目」に監視された構造なのだといっていい。このような形で市民意識が内面化された『個人』によって形成されているのが、『市民社会』である。このような『個人』は、人を独立した存在と見做し、その上でそれぞれが社会形成に参画することを求める。
     「なんとなく、既に存在するもの」ではなく、「自らが作るもの」が市民社会というものなのだ。しかし日本では「長いものには巻かれろ」式に、大勢に従いながら形成するのが社会だと考えている傾向がある。この日本の社会構造の特徴を、以前にもあげた西洋中世史の大家・阿部謹也氏は『世間』という言葉で取り上げた。つまり欧米には『社会』があるが、日本にあるのは『世間』なのだと看破したのである。

    『ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、いまだはびこっておるわけですが、実際はヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。
     それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」の領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を広げていく。「世間」の解体を、多少はもたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。
      ~中略~
     自分が生まれ育ってきた生活のなかで、自分がどういう「世間」に縛られているか、あるいはどういう「世間」に生かされているのか、ということに目を向けて、気づいた時に初めてその人は、いわば広い世界のなかにいる自分に気づくわけですが。  』(『日本社会で生きるということ』)

     阿部謹也は自らが欧米的な意味での「近代市民社会」の成員であるかのような幻想をなくすべきだ、と言うと同時に、また自らの日本的な「世間」意識に埋没することも否定する。それは欧米化でもなく、また国粋でもないような選択肢である。
     しかし興味深いのはこの阿部謹也の『世間論』、学会方面からはほとんど無反応あるいは明確な拒否だったと阿部氏が書いていることである。長年来、西洋史を研究し、そこから欧米社会と日本社会の構造の差異を凝視した阿部氏の仕事に、日本の学会という『世間』は自らの存在位置を否定するものと知って無視を決め込んだのだろう。

    『西洋の文化圏に属していると思っている人は「世間」という言葉に耐えられないのである。彼らも日本人である以上「世間」のことはよく知っている。それだけに「世間」が自分の周囲にあることを明言したくないのである。
     「世間」は隠しておくべきものであり、あえて口に出すべきものではないのである。こうして「世間」に関する議論は知識人によって封殺されてきた。しかし一般の人々は「世間」のしがらみのなかで苦しんできたから、そこから解放されたいと願っている。その点が知識人とは違うのである。  』(『「世間」への旅』)

     「世間論」を発表してから、阿部謹也は民間の講演などによく呼ばれるようになったという。それだけ日本社会の自己像の描出に、多くの人が関心を持っていたということだろう。現在はどうだろうか? 「自己責任」なんて言葉を欧米気取りで使ってる趨勢では、それすらも忘却してるかもしれない。  
     
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  • 好事徒然  考証家という人たち

     最近取り上げている杉浦日向子さんという方、もう存命ではないのだけど、元々は漫画家で、そこから『考証家』というものに転向した人ということになっている。ちなみに漫画の方もなかなか味わい深い江戸テイストを醸し出している。

     順を追って話すと、まだ今ほど江戸に深入りしてなかった時のこと。図書館で本草学関連の本を探す傍ら、ふと『時代劇を考証する』という本が偶然目に留まり借りて帰った。この本の著者が稲垣史生という人である。
     読んでみると、なかなか驚くようなことが書いてある。江戸時代基本的に医者は坊主だったし、『非戦闘員』ということで「男の屑がやるものだった」とまで蔑まれるような存在だったとか書いてある(この事は前に田代三喜のことを紹介したときにも書いた。けど三代続いた医者というからには、そこまで卑下されてたわけでもなかったろうとも思う)。

     で、読後に「この作者はどんな人だろう?」とか思ってウィキを見ると、最初は作家としてデビューしたみたいなのだけど「時代考証家」として紹介されている。NHKの大河ドラマなんかの時代考証を手がけていたような人だったのだ。
     ちょっと驚いたのは、時代考証って、江戸時代あるいは日本中世史かなにかやってる大学の先生とかがやってるわけじゃないんだ、ということ。そういう『史学』とは別に、「考証家」がいるのである。多分、隣接はしてるだろうけど。

     この稲垣史生さんの本での大きな収穫は、岡本綺堂先生の本をそこで知ったことである。なにせ稲垣さんの本は読んでいくと、「ここはこういう事が起こるわけはない」「これは現代風に変えられている」と、とにかく手厳しい。
     「じゃあ、どういう作品だったらしっかりしてるんだろう?」と思うと、「岡本綺堂の『半七捕物帳』のような美しい物語が出来上がる」と、ここだけはベタ褒めである。ああ、『半七』! 聞いたことはあるけど、読んだことはない。
     
     ってんで調べてみると、岡本綺堂は明治初期の生まれで、いわゆる「時代小説」というジャンルの始まりの部分に当たる人だと判った。それで借りて読んでみると、全く知らなかったような江戸の風俗がイキイキと活写されている。その後の僕の『半七』好きは、改めて言うまでもない。
     ただ最近、岡本綺堂について調べていて判ったのは、岡本綺堂本人も明治生まれなので、決して「当時代人」として江戸の小説を書いたのではない、ということ。そして実は本人が英語ペラペラで、原文で『シャーロック・ホームズ』を読み、そういうモダンなセンスから『半七』はインスパイアされてる、ということである。
     
     しかしこの『半七』における時代考証というのは綿密なもので、大変に正確らしい。特に地理に関してはほぼ正確らしいのだけど、全ての事件でどの場所で何が起きて、みたいなことを綿密に裏づけ調査してる人がいる。今井金吾さん、という方である。
     ちくまの大判の『半七捕物帳』の編集もされてるのだけど、この人のつける注、それから解説が実に詳細で勉強になる。ちくまの大判では江戸の図絵なんかも挿入されてるのだけど、これも実に念の入った趣向で判りやすい。

     また『半七』の一部は、別のシリーズを『半七』に置きなおした話が結構あるらしいのだけど、このために半七の一部が記述と年表が合致しなくなるということが起きたらしい。この矛盾は岡本先生存命中は解決されなかったそうだけど、このちくまの大判では今井氏の編集で、矛盾のない年表と記述が実現できたということである。…凄い。
     まあ、これは比較的最近の話。ちょっと話を戻す。で、また別のとき。何かの文庫本をブックオフで買ったとき、その時の新刊案内のチラシみたいなのが、その本に挟みこまれたままだった。で、それをなんとなく読んでると、江戸に関して書いたらしい、女性のエッセイのような本が紹介されている。それが杉浦日向子さんだったのである。
     
     「この杉浦日向子って誰?」みたいな感じでウィキを調べると、やはりこの人も「考証家」と紹介されている。そして実に驚いたのは、杉浦さんって、最初にあげた稲垣史生氏のお弟子さんなのだそうだ。
     お弟子? 考証家って、徒弟制なんだろうか? という冗談はさておき、文化センターで江戸学みたいのを稲垣氏がやっていて、杉浦さんはそこの生徒さんだったそうである。そのなかでも特に熱心で、体調等の問題もあり漫画を止めるつもりだった杉浦さんは、本格的に稲垣氏に教えを請うたのだそうである。

     稲垣史生氏の考証学は、ざっくばらんな文章で現在の間違った描写に手厳しい。また時代劇が元で普及してしてしまった間違ったイメージの修正にも手抜かりがない。読むと大分、自分の持ってる既成概念を修正する必要を感じる。
     対して杉浦さんの本というのは、凄く身近な話題から入っていって、「え?」と思うような江戸の人たちの「感性」を伝える。例えば江戸は「粋(いき)」の美学だけど、上方は「粋(すい)」の美学で、それぞれ違いがあるんだ、とか。読むと、はっとさせられる。ちなみに杉浦さんは、NHKの『コメディー お江戸でござる』の時代考証なんかをしてたそうである。

     そしてそんなこんなで考証家っていう人たちがいるんだなあ、と思ってた矢先、ついに大御所に出会った。ある古本屋である。文庫本が並んでるところをボーッと眺めてると(余談だけど、時間があるときは古本屋の棚の端から端まで眺めるのが好きだ)、ふと江戸っぽい題名のものが目に留まる。
     見ると『鳶魚江戸文庫』というシリーズで出てる中公文庫のうちの数冊だった。作者は…『三田村鳶魚』。……みたむら…とびうお?

     不正解! みたむら「えんぎょ」でした。実はこの三田村鳶魚という人の本、全集がバラで古本屋で平売りされていたりするのをたまに見かけたことがあったりしたのだ。そのたびに、「この人、何関係の人なんだろう?」と、思いつつもそのままにしていたのである。
     で、例によって調べてみると、明治三年生まれで『江戸学の祖』とかウィキでは紹介されてる。げ!? 大本命じゃん! この人を知らずして江戸を語ったらモグリ、というような感じの人だよね、多分。

     案の定、そういうことである。ちなみに稲垣史生さんの著作を図書館で検索したら、三田村鳶魚の『江戸生活辞典』なんてのが幾つか出てくる。稲垣氏、三田村鳶魚の本の責任編集か何かを手がけているようなのである。ということは系図で行くと、『杉浦日向子←稲垣史生←三田村鳶魚』ということじゃないか!
     さらに岡本綺堂関係の本を読んでいて、三田村鳶魚氏本人の文章に初めて触れた。端正でしっかりとした文章なのだが、その内容に驚く。岡本綺堂は劇場用の戯曲を書く劇作家でもあったのだけど、その岡本綺堂を含めた数人の作家・劇作家に、最近の時代物の表現についての苦言を呈するための手紙を書いたというのである。

     げ!? 岡本先生が「苦言を呈される側」? マジかよ。ちなみに吉川英治や直木三十五のように文書を返した以外の多くの作家・劇作家からはなんの反応もなく、直接会う機会を得たのは岡本先生だけだったそうである。
     岡本綺堂と三田村鳶魚が会談してたわけである。なる~。そんなわけで既に期待に胸膨らませて、図書館に三田村鳶魚を借りに行った。で、検索してみると、収蔵場所が「書庫」とか「一般」ではなく、「市民文庫」になっている。

     「これは何処においてあるんですか?」と司書の人に聞くと、「ああ、それは入り口付近の特設コーナーのことなんですよ」と答えてくれた。へ~、そんな目だったところに置かれるような人なのか。と、思ってビックリ!
     その特設コーナーって、「八王子ゆかりの文人」のコーナーだったのである。実は三田村鳶魚、八王子の人だったんですな、いやあビックリ。ちなみに八王子車人形という文楽のような伝統芸能があるんだけど、それを「坪内逍遥に紹介した」とか説明されてた。はは、近代文学の祖と面識があったと、なるほど。

     不思議な縁に驚きながらも、今は三田村鳶魚の本を読んでいるのだけど、非常に緻密で情報量が多く、面白い! ああ、江戸時代というだけで、こんなに知らないことだらけなのか、とか驚かされる日々である。
     余談だけど、『不思議な縁』をみんな振り返ってみて、実は僕がこれらの人たちを知ったのが、ほとんど『偶然』によるものが判るだろう。図書館で見た、ビラを見かけた、古本屋で見た、とか全くアナログな検索手段による発見が大きいのである。

     知った後ではパソコンを通じての情報収集が大変役にたつけど、実は「出会い」それ自体は偶発的なものだ。「紙の本なんてなくしちゃえば?」という人がいるけど、僕はなんとなく本棚をダーッと眺めてたりするところに、意外な重要性があるんじゃないか、なんて思う。
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