Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年05月

「「三島由紀夫」とはなにものだったのか -橋本治」読みました。5


「三島由紀夫」とはなにものだったのか
著者: 橋本治
文庫: 479ページ
出版社: 新潮社 (2005/10)




最初にはっきりと申し上げます。
「分からない」と。
理解し得ない・・・

私には、三島由紀夫(1925.1.14-1970.11.25)との関連性の認識が無かった。関連性の認識が無かったのであるから、著作を手にすることも、興味を抱くことも無かった。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で壮絶な自決を遂げた天才作家。高いカリスマ性を有し、”何だか分からないけど、すごい人”、ただそれだけ。世の中には、彼だけじゃなく”すごい人”は沢山存在する。
それだけだったんだけど、色々な本を読み進めるうちに、時折顔を覗かせる存在、川端康成が、橋本治が、時にその名を目に耳にする。それ位、全く何も知らない。
ある意味では、知る必要が無かった、であり、知ったとしても理解ができなかった、であろうが。
それでも、何かの必然に導かれた今であっても、理解し得ないことに変わりは無く、三島由紀夫(作家)と、平岡公威(本名)と、橋本治(評論家随筆家)と、実在の人物と、作中の登場人物と、誰が誰やら、誰が語った言葉やら、橋本治個人の想像なのか、混濁が解かれることが無い。それ故に「分からない」のではあるが、「分かった」になるためには、三島由紀夫の作品を読むことは勿論、生い立ちであり、哲学や思想、歴史的事件への理解が欠かせない、などとも考える私は、だから、橋本治を好み、三島由紀夫にも惹かれるのであろう。何とも面倒な考え方ではあるが、しょうがない。


”大人の心を傷つけるのが怖くてならなかつた子供”
だった『三島由紀夫』。
そして、
”興ちやんや、おばあさんは暫らく身を隠すけれど興ちやんの行末はきつと守つてあげるから、うんとうんとえらくならなければなりません。お前さんのお父つあんのやうな小人になつてはなりません。ばば”
であり、三島由紀夫の本名は『平岡公威勢(きみたけ)』である。
祖母と、母、女性ばかりの中に育ち、”女”を意識し認識し、自らの”男”を意識し認識する。
祖母の大名華族意識を受けて、決して特権階級ではないものの、学習院に進み、東京帝国大学を卒業し、大蔵省に勤める、やっぱり立派な家系のお坊ちゃま。
それでも、決して身体が大きくも無く(163cm)、どちらかといえば幼少の頃は虚弱体質だった彼は、”汚穢屋(おわいや)”の少年に興味を抱く。汚穢屋とは、下水道整備前の人間の糞尿の汲取り回収屋で、紺色の股引を穿いた労働者階級であり、労働者階級の中でも下位に属し、階級の差異を感じつつ、身体的な逞しい体躯に自らの虚弱体質との差異を感じつつ、紺色の股引の股間に”悪意”を感じる。
そして何故か、「汚穢屋になりたい」であり、そこには、肉体労働に勤しむ少年の肉体の美であり、権力者としての祖母への嫌悪であり、嫌悪されて自由を得たいなどなど、一筋縄ではいかない複雑な精神構成が垣間見えるのである。そんな解析をされても、それはやっぱり当事者たり得ない橋本治の理論であり、様々な出来事や事実の裏付けから深く納得させられるものの、それでもやっぱり当事者にしか理解し得ない部分を否定できないであろうし、一方では当事者だってそんな深層までの認識を理解することなく、無意識の行動ということもあろう。ますます、訳が分からない世界に入り込んでいく。

虚弱体質で、家庭生活においては女性ばかりの中に存在し、女性であり男性である”性別”に”悪意”を感じ、”嫉妬”し、それぞれをいずれも”嫌悪”し、その存在を”拒絶”し、、、
で、ボディビルで逞しい肉体を自ら手に入れ、男らしい男になってしまった、30代の三島由紀夫。自らの内に秘める”女”を乗り越えたのに、”女”を乗り越えて”男”になったと思った作家という”芸術家”は、ある意味では、男とか女とかの性別を超越して人間という生き物としての”愛”を感じたのかしら。
”「近代的知性の持ち主」とは「すべてを一人で引き受ける孤独な存在」”
なのであり、
”作家である自身を嫌悪しながら、作家であることを続ける”
孤高の天才は、
小説”金閣寺”で、
”「生きようと私は思つた」”
のに、
小説”豊饒の海”を書き終えると、自らの命を絶つ。

1970年11月25日。
その三島由紀夫が自決した同じ年に、私はこの世に生を受けた。
たった11ヶ月間ではあったが、同じ地球上に存在をしていたことになる。直接的な記憶は無いけれど、全くの接点が無い訳ではない。特別な”縁”を感じることは無いけれど、全く”縁”を感じ無い訳ではない。


「分からなかった」けれど、「読んで良かった」である。


三島由紀夫であり、橋本治であり、天才の考えることは、「分からない」。それでも、同じ人間なんだから、どこか共通する部分はあろう。全く共通する部分が無い訳は無い。
だから「知りたい」のでもある。








「旅 2007年07月号 −北欧」読みました。5


旅 2007年 07月号
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livedoor BOOKS
書評/旅行・娯楽



私の北欧のイメージは、、、
映画「かもめ食堂」かなぁ!? 映画は、フィンランドが舞台だったから、今回の特集のメインのコペンハーゲン(デンマーク)とはちょっと異なるけれど、広く北欧という括りの中で・・・
演出による部分を割り引いても、画面から溢れる雰囲気、癒し、心の安らぎ。脳裏に残る、どこか漂う、豊かな大らかなイメージ。

静かな蒼い海。それでもその海は、決して澄んだ青ではなくて、白い砂浜のビーチでもない。湾の内側の、寂れた漁港?!、小さな観光船や客船だって停泊するけど、人影は多くなく、賑わいを感じることはない。平穏な静かな静かな旧い街。そよぐ海風も、流れる時間も、全てが静かでゆったりと・・・
空だって鉛色で、雲間から漏れる優しい陽射しが照らすのは、味気ないコンクリートの岸壁に佇む、草臥れた猫を抱える初老の物憂げな男性。それでも、何かに急かされて、追い立てられることもなく、ただただ流れ往く時間にその身を委ねている。聴こえてくる、鉛色の大空を飛び交うウミネコの鳴き声。
蒼い海間に浮かぶ、旧い漁船やら客船やら。静かな海に、ただただ静かに漂う。
街を見渡すと、旧いんだけど、愛情たっぷり鮮やかなペンキに彩られた、ビルというには忍びないアパートメント?!たち。オレンジに、黄色に、緑色に、青色に、茶色に、ベージュに、白、、、 それぞれが個性を主張していて、オーナーたちの愛情に満たされて、とっても誇らしげ?!
旧い石畳の路地に面したアパートメントビルの一階の小さな食堂は、やっぱり旧いんだけれど、真っ白いペンキでお化粧されて、明るい清潔感に溢れる。高い天井まで大きく開いたガラス窓から射し込む陽射しは優しく室内を照らす。お客さんが誰もいない食堂には、小さな日本人の女性がひとり、キッチンのカウンターの前でグラスを磨いている。大切に大切に、愛情を籠めて・・・


どこまでも、ゆったりと流れる時間・・・
何も変わらない。
誰かに何かに、急かされることも、追い立てられることもなく、ただただ流れる時間にその身を委ね、自らが大切に愛するものと過ごす時間。誰のためでも、何のためでもなく、自らと、自らが愛するもののために紡がれる時間。自らが、自らの意思で紡ぐ時間が大切だから、その大切な時間は、愛するモノ(物)と過ごしたい。愛するモノは、誰のためでもなく自分のためのモノだから、誰かと比較することは一切不要で、だからこそ、本当に自らが欲する、自らの身の丈に合ったモノを、必要な分量だけ手にすればいい。手にした必要な分量だけの大切なモノには、常にたっぷりの愛情を注いで、長く長く大切に大切に遣い込む。愛情たっぷりに大切に大切に遣い込まれるモノたちだって、愛でられれば、それは誰だって嬉しいし、やっぱり素敵に誇らしげに、いつまでも輝きを失わない。



甘味たっぷり、愛情たっぷりのスイーツたちもいいけれど、
”をとこ”の私は、『船乗りたちが愛用した、まるいグラスの物語。』に魅せられる。
老舗グラスメーカー、ホルメゴー社の「シップグラス」。
”親しみやすく、丈夫で素朴なグラスたち。
 海からの風を感じて。”

とあるように、セーリングやボートなどの海上スポーツを愉しむ、海を愛する人々に好まれてきたグラスたちには、当然に高い耐久性が求められ、どこか逞しさすら漂い、遣い込むほどに馴染んできそう。
1971年に発表されたシリーズというから、決して旧い歴史とは言えないけれど、それでも35年以上の歳月を経て、語り継がれる物語は、ただただきらめく美しさだけではない、深い味わいを醸し出す。



”小さな町へ小さな旅”特集は、
天橋立(陸奥の松島安芸の宮島と並ぶ、日本三景)に見守られた、潮風の城下町『京都 宮津伊根』。
自然の不思議な微妙なバランスに創り出された造形美。
百人一首にも詠まれている古代からの名所。
おやおや、現在では、侵食問題により縮小・消滅の危機にあるらしい。
戦後、河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積・侵食バランスが崩れたためであり、その対策として、行政では砂州上にそれと直交して小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂をそこで食い止めようとしている(Wikipediaより抜粋)とある。
とっても現実的な問題。



私のお気に入りは、やっぱり”旅に持って行く本”!
何と、アリス・マンロー「林檎の木の下で」が一押しされております。
確かに、旅に持って行って、贅沢な時間を贅沢に愉しむに値する著作です!
私が参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”に、素晴らしい書評の数々がアップされています。愉快爽快痛快な物語では決してないんだけれど、読み易い作品では決してないけれど、それでも深い満足感に浸れる秀作。



時にリアルであり、妄想であり、”旅”という”非日常”に求め、そしてそこから得られる幸福感。
リアルに、目で見て、耳で聴き、鼻で嗅ぎ、身体全体で感じる感覚、お洒落をして、たまには贅沢な時間を費やす必要もあろう。








「ヨモギ・アイス(文庫) -野中柊」読みました。5


ヨモギ・アイス
著者: 野中柊
文庫: 258ページ
出版社: 集英社 (2007/04)




最近、興味津津の”野中柊”の処女作品!
デビュー(1991年)より15年近く経過した最近の、密度の濃い短篇を手にしていた私と、その私が勝手に創造する著者に対するイメージ。著者のオフィシャルなプロフィール情報が少ないが故に高まる興味。ミステリアス。え〜、どうしてどうして、そんな深く鋭い感覚や、素敵な表現ができるの?、どんな経験を積み重ねてきたのかしら??、と。
敢えて短篇という表現形式を採るが故に、極限まで削ぎ落とされ、全てが必要であり、その必然に導かれて構築される物語。どうしたって、パターンは似てくることがあっても、そのバリエーションの豊富さと、一方では表面的な特異さにある意味では惹き付けられつつも、その実、人間の本能の本質的な部分の行動とその描写に、すっかりどっぷり魅せられている。
生真面目に正直に真剣に一生懸命なストレートさが心地好い。
当然に、その物語を紡ぎ出す著者に抱かれる興味、、、となる。


物語は二篇で、いずれも日本人の若い女性が、アメリカ人の男性と国際結婚をして、アメリカで送る新婚生活「ヨモギ・アイス」であり、アンダーソン家にヨメ(夫婦別姓を主張するけど、受け入れられない・・・、自由の国アメリカにだって絶対的に存在する旧体質?!)として迎え入れられる結婚式のそのパーティーに綴る思い「アンダーソン家のヨメ」であり。
著者の私小説かと。
男と女の”結婚”に纏わる物語であり、赤の他人同士が共同生活を営み、しかも、当事者同士だけでなく、親や兄弟姉妹、親戚縁者まで巻き込む、色々な思惑や、時に血や私欲まで絡み合う、人生の一大イベントであったりする訳で、当然にそこには思想や文化や階級(?!)の差異があって、それが国際結婚であれば、さらに宗教であり人種や、マイノリティーとかマジョリティーとか、であり、何だか考えただけでも眩暈がしそうなほどの圧倒的な現実がある。共感や共有できる(したい!?)部分を有しているから、互いに”結婚”という共同生活を営むのではあろうけれども、どんなに頑張ったところで、個々に独立した人間という存在である以上、絶対的に完全な一致は有り得ない。まぁ、完全に一致する必要も有り得ない訳で、完全な一致を目指し、求めてしまう部分に、実は既に無理が生じている。結婚の理想と現実。
先日手にした「失楽園の向こう側 -橋本治」にあって、妙に感心させられた記述があって、人間の在り方として、夫婦ではあっても、ひとつの”家族”という丸の中にふたつの丸(ふたり)が存在する在り方ではなく、それぞれの個人の独立した人間としての丸が重なり合っている部分の、その部分が”夫婦”としての生活である・・・、みたいな。結婚したばかりの時であれば、重なり合う部分が大きくって、年月を経れば当然に小さくなっていって、、、 それでも、それ(家族)だけでは生きていけなくって、当然に、現実的に生活していくための”仕事(または会社)”の丸が在り、その重なり合う部分もあり、大抵は、そのふたつ(家庭と仕事)の丸の重なり合う部分で結構いっぱいいっぱいになっちゃうんだけど、それ以外のその他の丸の重なり合う部分の存在が重要だ!、って理論。世に言うマザコンでファザコンで、自立していない依存症の人間が陥る不自然な在り方が曝け出されていて、正直、ドキッとさせられた。否定できない。

そうそう、自立した女性、― 頭が良くって、お家(上流階級)も良くって、ちゃんとした教育を受けて、環境を与えられて、深い深い考察と高度な判断能力と豊富な知識と教養を持ち合わせていて―、だからこそ、doing nothinng(家事とか何もしない・・・)をモットーに、異国の地で、自力で生きていける。嫉妬しちゃうほどに、羨ましい、尊敬に値する。


実は、短篇の爽快な心地好さのイメージで挑んだ私には、中篇の内容盛り沢山の、哲学や思想が熱く籠められた物語に、正直、違和感を感じつつ、、、
もうもう、色々考えさせられて、
ひとつには、やっぱり15年もの年月を、多くの読者の支持を受けて、活躍されている人気作家の、バックボーンの底知れない深さと、その哲学と思想と豊富な知識。
だからこそ感じてしまう、自らの不甲斐なさ。自らの不勉強が招いた、やるべき時にやるべき努力を怠った絶対的な自らの責任を、それでもやっぱりなかなか受容れ難くって、ついつい現実逃避して、誰かのせいや、社会や世間のせいにしたくなる、どうしょうも無い存在であり、その現実。
多角的な側面、時に現在を形成するに至る過去であり、その深層に踏み込んだ解釈を求め、導き出すために、だからやっぱり、ますます深まり高まる興味。









「次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家 -牧山桂子」読みました。5


次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家
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書評/歴史・記録(NF)



上流階級実業家白洲次郎”(1902-1985)を父に、随筆家の”白洲正子”(1910-1998)を母に、ふたりの天才の間に生まれ育った長女”牧山桂子”が語る、白洲家のメモワール(回顧録・手記)。

同僚のデスク上に置いてあった”白洲次郎の流儀”↓が、ある意味では手にしたキッカケ?!
パラパラめくると、素敵な写真が盛り沢山、雰囲気満点。
男の私の目から見ても、白洲次郎は、ダンディーで、カッコいい!
腕のいいカメラマンの選り優りのカットではあろうが、撮られ慣れてて、何処までも自然。
あぁ〜、本物はいいなぁ、凄いなぁ、、、などと妙に感心させられた。
その記憶が、私をこの著作に引き寄せた。

で、上流階級の流れを汲む著者 牧山桂子は、旧白洲邸を一般公開する”武相荘 -buaiso”の館長を務める。
富の還流・・・
下流庶民の戯言、羨望、嫉妬、、、
正直に、羨ましい。
「何かが変だ」と思ったとしても、経済的な不安を一切抱くことなく、悠々自適、好きなことを好きなだけ、素敵なものに囲まれて・・・ などと、優雅な暮らしを思い浮かべては、自らの現実とのギャップに、思わず漏れる溜息。

それでも、垣間見える現実もある。
上流階級には上流階級なりの、与えられた者には与えられた者なりの、富める者には富める者なりの、持てる者は持てる者なりの、それなりの苦労が、絶対的に存在する。
資産があれば、当然にそれを護る責任があり、付け狙う輩(?!)や世間・社会との応対に、神経を磨り減らす。行動や言動のひとつひとつに注目を浴び、羨望の情も相まって、時に誹謗や中傷もあろう。
数々のエピソードは、その与えられた立場の、状況の、環境の、その圧倒的な現実を裏付ける出来事であり、あくまでも、著者側から見た一方的な情報でしかないものの、それでも、その出来事に垣間見える心理状況に、関心は絶えない。

はっきりと申し上げてしまえば、本作においては、ある意味では浮世離れした物語(エピソード)でありながら、物語性に欠ける語り口に、最後まで強い関心を抱くことはできなかったが、、、
それでも、今を時めき、時代を生きてきた、ふたりの天才の間に生まれ育ち、その人生の、非日常的ではあるけれども日常の生活と、その想いを、書き記し、後世に遺す事業としての意義。
現在の日本においては、高度資本主義経済の急発展などにより、上流階級という絶対的な存在を感じる機会は多くない。 一億総中流社会の崩壊を経て、混迷を増す日本経済社会、富の平等?!、不均衡?!
それでも、その表面的には不公平で不平等とさえ思える、旧い”階級社会”という社会システムに、保たれていたバランスもあろうかとも。
歴史を紐解いて、上流階級、階級社会に、興味津津。


白洲次郎と正子、互いに自由奔放な天才振りを発揮しながら、もしかしたら、天才振りを発揮するために?!、時に喧嘩をしながらも、運命の人として、寄り添っているのかしら???!、などと勝手な想像を浮かべる・・・
 合掌









↓素敵な写真満載です!↓

白洲次郎の流儀
著者: 白洲次郎・白洲正子・青柳恵介・牧山桂子
単行本: 143ページ
出版社: 新潮社 (2004/9/22)



「あなたのそばで -野中柊」読みました。5


あなたのそばで
著者: 野中柊
単行本: 264ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/9/8)




”はじめて千鳥ちゃんに会ったとき、なんだか、僕は懐かしい気持ちになった。なぜなのか、すぐにはわからなかった。でも、今は、こんなふうに思っている ―彼女は、明信さんや僕の心の隙間にぴたりと合うかたちをしているせいじゃないかな?と。”
 〜「さくら咲く」より抜粋〜

”「知ってるんでしょう?気づいているんでしょう?なのに、恭子さんは、そんなふうに悠然と構えて」
鼓膜と唇が凍ったように感じられて言葉もなく立ち尽くしていると、彼女はさらに言い募った。
「私はおふたりの世界から、いつ追放されちゃうのかと、いつもびくびくしているんですよ。こわくってしょうがない。私、俊さんのことも好きだけど、恭子さんのことは、もっと、もっと好きなの。私が恭子さんに成り代わりたいくらい好き。あなたなんて消えてしまえばいいのに」
椿ちゃんは涙をぽろぽろこぼした。
孤独の扱いを心得ていないのだろう。痛々しい。でも、気前よく盛大に涙を流すことがでっきる彼女が羨ましくもあった。
私は手を伸ばし、椿ちゃんの手首をつかんだ。そして、ゆっくりと引き寄せ、彼女の涙にくちづけた。
・・・
死んでも、生まれ変わって、また出会える。私たちはふたたび共に生きることができる。なんとなく、そんな気がした。”

 〜「運命のひと」より抜粋〜


最近、お気に入りの”野中柊”、心を揺さ振られて、堪え切れない。どっぷりと、深く深く沁み込んで、電車の中では堪えることができても、ひとりの部屋では嗚咽が涙が止まらない。
結構、本質的な心の深層に踏み込んだ、生々しい”物語”なだけに、所謂、世間的に”常識”的といわれる方には、嫌悪感を感じるのかな?!、とも。

心を揺さ振る短編が、緩く微妙に絡み合う、連作六篇。
時に痛く、それでも、本能にびんびん響いて、やっぱり心地好い。

だってね、「運命のひと」では、
結婚して互いにフリーなデザイナーとして共同事務所で一緒に仕事をしている夫婦でありながら、男は、アルバイトの女子大生(椿ちゃん)と、肉体関係があって、主人公の女性(恭子ちゃん)は薄々気が付いていながら、それでも、敢えて容認しちゃっていて、だからという訳では無いんだろうけれど、輸入雑貨屋さんの吉田くんと、やっぱり肉体関係がある。狭い世界に絡み合う人間模様、愛?、恋?、本能?、欲!
で、物語の締め括りは、それなのに”運命のひと”なのである。

おいおい、ちょっと待て!!、倫理とか、貞操観念とは!?、、、
何てことを持ち出そうモノならば、話しは早い、”野中柊”を読まなければいい。ただそれだけ。要は、手にして、読み切っちゃう人は、それなりに何か思うところがあるのであって、世間の”常識”と、自らの本音の心との”矛盾”であったり、運命やら宿命やらの、ある意味での”悪戯”みたいなものに、何か思うところがあるのだから。それが、善いとか悪いとか、そういう次元を超越しちゃって、自らの気持ちに正直に素直に生きる、当然に風当たりは強く、波風は立つけれど。だって、みんな生身の人間で、それぞれに真剣に一生懸命に生きているんだもんね。
それでも正直、いまだに私にはとてもとても理解し得なくって、受容れ難い事実であったりするんだけど。

時に、身近な大切な人(妹、父親、母親、祖父母)の”死”が、与える”心の痛み”。
誰かに話したところで、その痛みは、一度刻み込まれた”傷”は、決して消えることが無い。誰かに打ち明けて、年月を経て、記憶が徐々に薄れ、傷が少しずつ小さくなり、痛みが薄らぐことはあったとしても、一度受けた痛みや傷は消えない。
それでも、運命や宿命に導かれて、ある意味では必然に導かれて、引き起こされる現実。どんなに抵抗しても、足掻いたとしても、やっぱり、その必然には抗えない?!、それさえも現実。
であるとするならば、その必然の流れに身を委ね、圧倒的に現実を受容れちゃうしかない?!
それでも、それにもやっぱり時間が必要であろう。時間では解決されることが無い現実もあるけれど、決して、時間が経過しても消滅することが無い現実。
とどのつまり、心の持ち方であり、考え方でもあろうか。
やっぱり、心の整理は、自らが付けるしかない!、頭では理解した気になっても、それでも、そんなに簡単なことではない。


著作の数に比較して、プロフィール情報が極端に少ない、ミステリーに満ちた小説家に、私の興味は尽きない。








「イラクサ -アリス・マンロー」読みました。5


イラクサ
著者: アリス・マンロー
訳者: 小竹由美子
単行本: 448ページ
出版社: 新潮社 (2006/3/29)




”マイクは言わなかった。僕のせいなんだ、乗り越えることなんてできないよ、とは。僕はぜったいに自分を許せないだろう。でも、できるだけ許そうとはしているんだ、とは。
あるいは、妻は僕を許してくれるけど、彼女も乗り越えることはできないんだ、とも。
わたしたちはみんなわかった。これで、彼が最悪を経験した男であることがわかった。最悪というのが具体的にどういうものなのか ―わたしは知らないし、知りそうになったこともないが― 知っている人間であると。彼と彼の妻はともにそれを知り、そのことが彼らを結び付けている。そういったことはどちらかでしかないのだ、引き裂くか、一生結びつけるか。彼らが最悪の状態で生きるだろうというのではない。そうではなく、そんな状態を知っているということを共有していくだろうということなのだ ―その冷たく空っぽで閉じられた核心を。
誰にでも起こりうることだ。
そのとおり。だが、そういうふうには思えない。この人、あの人と、そこここで一人ずつ特別に選ばれているように思えてしまう。
わたしは言った。「不公平よね」・・・”

 〜〜「イラクサ Nettles」より抜粋〜


「林檎の木の下で -アリス・マンロー」を、理解し得なかったにもかかわらず、何故か手にしてしまった、448ページの超大作。
やっぱり理解し得なかった。
それでも、単なる自慰的な満足感だけではなく、不思議な感覚に満たされる。
400ページを越えた辺りから、何だか妙に離れ難い感覚に襲われて、、、


スタンス”・・・、辞書には、姿勢・態度・構え、と。
先日読了した「象の背中 -秋元康」以降、何かスッキリしない気分に覆われていた。
その人物から浮かび上がる”イメージ”。良くも悪くも、ある人物に対して、瞬間的に、また事あるごとに、人物像がイメージ付けられる。第一印象であり、積み重ねられた過去の出来事であり。あくまでも、他人が、断片的な情報から勝手に想像する、イメージでしかないから、全くあてにはならないけれど、それでも、そう判断された、という事実は事実として存在する。意図的に植え付けられるイメージもあれば、予想外の展開によるイメージもあろう。
それでもやっぱり、他人が勝手に想像する”イメージ”ではあっても、それを全て否定することはできない。醸し出されるものがあり、そう判断されるだけの事実が存在したのだから。

などと考えながら、その後に何気なく手にした「からだのままに -南木佳士」。どうしてだろう、不思議な”縁”を感じてしまう。いいんです、力の抜け具合(?!)が心地好い。
でもね、よくよく考えてみると、決して力を抜いている訳ではなくって、むしろ、誰よりも生真面目に真剣に一生懸命に生きている。逆に、ある意味では、痛々しいほどに。
それでいて、派手さが無い。どちらかといえば、”地味"。決してカッコ好くはない。
好んで手にする、「橋本治」も、突き詰めて考えていくと、実は「村上春樹」も?!


そう、この「イラクサ」の読書中にも、読了後にも、穏やかな心持ちでいられる”幸福”。
決して、派手では無いけれど、それでもドキドキさせられて、なるほど、そういうことなのね!、と納得させられる、長い年月に培われた深い経験から紡ぎ出される物語。私小説的部分を多分に含んでいるだけに、思いっ切り感情移入させられて、時に込み上げてくるものもある。
70余年という、生きてきた年数だけに積み重ねられてきたものではない、真面目に真剣に一生懸命に生きてきたからこそ、描くことができた物語を、こうして手にできる幸福。








「ハイドラ -金原ひとみ」読みました。5


ハイドラ
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書評/国内純文学



「そんなに簡単に、簡単な人間に戻れると思いますか?」
「簡単な人間って言い方はどうかと思う」
「楽しいことを楽しいと感じたり、悲しいことを悲しいと感じたり、腹立たしいことを腹立たしいと感じたり、そういう一足す一は二、っていうような人間のことです」

 〜本文より抜粋〜


昨日、一気に読了するものの、どうにも理解ができずに、どう解釈をしたらいいものか、考えが纏まらないままに、それでもここに止まることよりも、次に歩を進めるために書き記すことを選択する。

若き(1983年生まれ、23歳!)才能溢れる金原ひとみ、2003年に第27回すばる文学賞を、2004年に第130回芥川賞を受賞した話題の小説家であることは、世に疎い私といえども存じ上げておりましたが、実は著作を始めて手にした。それでも、多分、芥川賞受賞をメディアが報じる映像の強烈な印象だと思うのであるが、綿谷リサとの混同を生じている。比較すると派手な印象の方、と。


”美しい女性”が、この豊かな国(経済的・金銭的)には、数多く存在している。必要に迫られて繁華街(?!)に身を置くと、目の遣り処に困るほどに。万一目が合ってしまったらどうしよう、などと、ドキドキしてしまう。まぁ、私如きは、彼女達の目に映ることすら有り得ないのではあろうが。
それでも、細身の躯を美しく着飾って、高価なブランド装飾品を身に纏い、凛として颯爽と道行く姿には、当然に目を奪われる。素敵でカッコいい。当然に羨ましくもある。
美しくありたい!、という、ある意味では本能的な欲求。
その本能的な欲求を満たしているから。私の目には、彼女たちは充分に満たされていると映る。自由を満喫し、自信に満ち溢れて。だから正直に羨ましい、と感じる。

人間は、特に年齢が若ければ若いほど顕著に、常に自らの心の内に不安を抱えている。不安を抱えていない人間などは、年齢を重ねたとしても、経験を積み重ねて、ある意味では真理が導き出されたと確信したとしても、絶対的に存在し得ない。その不安が、大きいか、小さいかの差異こそあれ、絶対的に不安定で、不完全な生き物、それが人間という生き物。
不安定で不完全な存在だからこそ、ひとりでは生きていけなくって、互いに支え合い、そして保たれるバランス。


物語では、主人公の24歳のモデルの女性”早希”は、自らの容姿の”美”に異常とも思える執着を示す。密かに交際中のカメラマン”新崎”を巡り、対抗心を燃やすモデルの女性”小島蘭”との比較、その娘は”過食嘔吐”で、早希は”噛み吐き”で、食に対する本能的な欲求と、痩身(何と体重35kg!)を保つ自らの”美”意識に対する欲求を、同時に叶えるという、衝撃的な行動を繰り返す。それによって、彼女たちの中では保たれるバランス。その行動の善悪は、既に問題にするまでも無く、彼女達にとっての最重要課題であり、生きて、この世に存在して、自己満足を得られる、最善の方法の選択。
コンビニで、買い物カゴの九割方を埋める食べ物は、お弁当、おにぎり、サンドイッチ、おかし、デザートなど。店員が、当然の如く、四膳もの割り箸を渡すほどに大量の食べ物。使いっ走りOLを装い、手に入れた、その大量の食べ物を、黙々と”噛み吐き”をする描写は、その行為の裏側に潜む、その行為に至らせる必然と、その深層の心理を想うと、激しい心の痛みを感じないではいられない。
時に彼女は、正直に心の内を明かす、
”・・・良かった。初対面の四人の他人たちと二時間も一緒にいて、致命的な傷を負わずに、かつ人に嫌な思いをさせずに切り上げることが出来た。・・・”
”・・・他人に勝つためには、他人に傷付けられないためにも、私には拒食っていう武器が必要で、だから美月がしていた小島蘭の過食嘔吐の話は、私を怯えさせた。もっと痩せなきゃ、もっともっと痩せなきゃ乗り替えられる、新崎さんが小島蘭を撮ってしまう、捨てられてしまう。いつかそんな日が来るんじゃないかと、怯え続けた。・・・”

 〜本文より抜粋〜


所謂、”常識”と世間で言われる事柄が、若しくは、”非常識”であると非難の対象とされる事柄が、その事柄の一切を否定するつもりは一切無い。当然に、その”常識”と言われる”枠”であり、”ボーダーライン(線)”があることによって保たれる社会秩序の必要性を、強く感じている。その存在が無くなることによる不安は計り知れない。
それでも、この世の中に存在している人間という生き物は、それが、それぞれの存在が、不完全で不安定であるが故に、枠や線に納まり切らない存在が、絶対的に発生し得る。絶対的に発生し得る、ある意味では”異分子”(?!)的な存在は、世間的には、決して納まりが好いものではない。
枠や線の画一的な基準に当てはめ、排除し、否定することは、表面的な平静を取り戻す、ひとつの手段として、往々にして取り入れられる。時に、法治国家の名の下に、国家権力により。
表面的に取り戻された平静のために、押し遣られた”異分子”は、表舞台から押し遣られて、表舞台から見えない場所に存在させられるが故に、より一層の”歪み”をも生じさせる。それでも、絶対的に消えうせることが無い”存在”。


彼女が、美しいと感じ、大切であると感じるもの、その物語。








「からだのままに -南木佳士」読みました。5


からだのままに
著者: 南木佳士
単行本: 168ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/02)




”人の真実はそれぞれに多様で、表現するのは難しそうだけれど、現実をそのまま活字に置き換えるよりも、虚構を用いたほうがより雑多な真実を作品のなかに取り込めそうな気がした。そうしなければ、書かれた人物の輪郭や陰影を表せないと直感した。だれかにきちんと読んでもらえなければ、悩みを開示する意味はないのだから。
昭和五十六年二月の寒い朝、育ての親だった祖母が死んだ。
・・・
語り合う者を亡くしたとき、見慣れたはずの風景さえもがらりと形相を変える。医師になって四年目で、他者の死には慣れたはずだったが、想い出を共有した人を亡くすのは初めての体験だった。一人の人間の死が、永遠の不在が、これほどまでに強烈に、遺される者の世界を変容させる一大事なのだと、このときになってようやく気づいたのだった。”

 〜「浅間山麓で書く」より抜粋〜


著者の南木 佳士(1951年生まれ)は、大学卒業後の三十年を、九百ベッドを有する大規模総合病院佐久総合病院に勤務する、現役の医師であり、第53回文學界新人賞、記念すべき第100回芥川賞受賞の小説家である。

自らが、「母が三十代前半、祖父も五十そこそこで逝っている短命な家系」との宿命を感じていて、そして、現実に三十八歳でパニック障害、その後のうつ病、肺の手術を経て、五十五歳の今を生きる、その想いを綴るエッセイ集。

あとがきに
”過去は絶えず新たに制作されてしまうものだから、これもいまの想いにすぎないのだが、五十五年の頼りない足跡は、これまでの人生がまさにからだが生き延びるためのものであったことを明確に教えてくれる。・・・”
とある。

人の”死”が日常茶飯事となっている医療現場に携わっているが故に、”遣り甲斐”などとチープな言葉では表現し切れない複雑な想いがあろう。
一方では、不謹慎かもしれないが、ある意味では”商売”であるとの割り切りから、無頓着に感覚を麻痺させる選択肢、または考え方もあろう。考え過ぎて、結果的に好いことは無い。真剣に考えれば考えるほどに、悩み、苦しみ、精神的に尋常ではいられなくもなろう。特に、性格的に生真面目な場合、その精神的負担は、想像に難くない。私には耐えられる自信が無い。
それでも、世の中は上手くできたもので、その善悪を問わず、精神的に負担に感じない方も絶対的に存在する。ある意味では、”正義のミカタ”的な存在。絶対的に必要な存在。その存在無くして、正常な社会秩序(?!)が保たれない。また一方では、誰でも成り得るものではない。
そしてまた、精神的な負担と、深い苦悩の中から、それだからこそ生み出される、新たな側面と、その可能性を否定できない。順調な人生の中からは、決して窺い知ることができない事柄。
その必然に導かれて、そして保たれるバランスもあろう。



足繁く通う区立図書館の”新刊本コーナー”で目にして、何気なく手にした。
実は、かのガブリエル・ガルシア=マルケスの新刊『族長の秋 他6篇』(2007年4月27日発売)の予約準備が整った旨のメールが届いていたこともあり、それでも、現在は別の海外純文学の超大作(やはり新潮社のクレスト・ブックス!)に挑んでいる真っ最中にため、心の何処かで手軽な(?!)著作を求める弱い心が顔を出していて、一気に読めると思しき著作として手にした三冊のうちの一冊。こんな支離滅裂、気紛れな読み方をしているから、本格的な作品への理解が深まらないとの思いを有しつつも、それでも、本格的文学作品の”読了”に対する意義に重きを置く現実も。悩ましいが、とにかく本が読みたいのである。








「このベッドのうえ -野中柊」読みました。5


このベッドのうえ
著者: 野中柊
単行本: 205ページ
出版社: 集英社 (2007/02)




正直なところ、達矢に出会って、自分のことがわからなくなった。彼について知らないということ、以上に私は私自身を知らないということに怯えているのかもしれない。理性を失った闇の中で、恋する者たちは、たぶん、だれもひとりぼっちだ。それでいて、日常の中で、彼も私も、今ここにある、からだと言葉を使って、互いを確かめ合おうとする。凡庸で当たり前のやり方で。ほかに方法がないことをもどかしく感じつつも。

「うん。そう。食べちゃった。男のひとからもらったアクセサリーも、洋服も、本も、小物も、喜びも、悲しみも、痛みも、なにもかも、むしゃむしゃ食べて、血になった。皮膚になった。肉になった。骨になった。身につかなかったものは、きっと排泄しちゃったのね。トイレでざぁぁぁっと水に流しちゃった。すっきりした」

 〜「なんでもない感情」より抜粋〜


前日読了の「歳月 -茨木のり子」に引き続き、新潮社の女性誌「旅 2007年06月号」の”旅に持って行く本”で紹介されていて、手にしました。実は、先に「祝福」を手にしていたので、野中柊、2作品目となりますが、ますます高まる興味、関心。まだまだ遡って理解を深めたい。

8編の恋の物語。
明確な年齢設定と状況設定、呼び戻される過去の記憶。やっぱり、自らが積み重ねた過去の経験って、現在の人格というか、性格というか、環境や状況を理解するのに、圧倒的な関連性を有する。浮かび上がる背景。
どんなに取り繕っても、本心を隠したとしてもで、無理をしていると、何処かに歪みが生じて、安定性を欠いた状態は、長く継続できない。まぁ、それもこれも、全て経験だから、自らがやってみないと分からないことで、やってみたから、経験したから理解できることって少なくない。失敗して、痛みを感じて、やっと気が付くことが結構あって、それまでは周囲の好意からの忠言も、なかなか受容れ難かったりもする。
それだけに、自らの経験は、その過去の記憶が呼び戻される時点で、より一層、その現在の人格形成に影響が大きかったことも事実であろう。それは、時に、大切な人の”死”でもあり、、、

物語で、恋する登場人物たちは、皆アルコールを口にする。
アルコールの効用(医学的な根拠も無く、想像の域で書き記すことの無責任さを承知で!?)として、気分の高揚と、現実逃避があろう。
実は、先日手にした「祝福」では、かなり具体的な性描写が盛り込まれていて(詳細は既に記憶に無いが・・・)、ちょっとした驚きを感じた。またその表現が、素直で自然であったから、全く違和感を感じることが無かったのでもあるが。当然に、恋物語を描くのであれば、愛する者同士の自然な、生理的な行為として、欠かすことが、むしろ不自然でもあったりする!?
その表現が、本作品「このベッドのうえで」では、マイルドな印象を受けた。人間の、特に私の記憶など、全くもって不確かで、いい加減なものであるので、あくまでも印象であるのではあるが、、、 ここにも、口にされたアルコールの効用があるのかな?、などと想像した。アルコールによる高揚感と、一方で繰り広げられる、現実逃避の妄想や想像の世界。妄想や想像の世界は、それだけで愉しい世界でもあり、現実を描くよりも、ある意味ではよりリアルであったりする。それ故に、現実を厳しく直視する必要性が薄れた?! まぁ、初出誌のカラー(読者層)の違いなのであろうが。
かくいう私も、ついつい、現実逃避の妄想の世界に耽るために、太陽がまだ高い時間から、アルコールを口にしてしまう。

素敵な装丁も、溢れる感性の物語に色を添え、手にするだけで、豊かな気分になれる。









”不在という存在感”の妙。

「歳月 -茨木のり子」読みました。5


歳月
著者: 茨木のり子
単行本: 135ページ
出版社: 花神社 (2007/02)




新潮社の女性誌「旅 2007年06月号」の”旅に持って行く本”で紹介されていました。
”詩人が遺した、たましいのラブレター”

2006年2月に、79年の生涯を閉じた、詩人茨木のり子が、最愛の夫を亡くした1975年からの31年間の、その尽きぬ思いが綴られた全39篇。
自分が生きている間には公表したくなかった作品たち。

赤裸々、という表現がきっと適切なのであろうか、
本能の、まさに”たましい”の言葉たち。
短い言葉で綴られるが故の、その短い中に織り込まれた深い想い。
時に、愛する気持ちであり、感謝の気持ち、寂しさ、切なさ、、、
短い言葉で表現されるだけに、余白が多いだけに、膨らむ想像、その想い。

「なれる」、では、
羅列される漢字たち、
狎れる、馴れる、慣れる、狃れる、昵れる、褻れる、、、
ちょっと意地悪な解釈をすると、最愛の夫と、早くに死に別れてしまったが故に、”なれ”が生じる前に離れたことが、だからこそ、ここまでの愛情の継続を生み出したのかな?!、などと、不謹慎なことを想いもする。
浅はかな私には、著者の”たましい”の真実の叫びを、嗅ぎ取ることができていないのに、こんなことを書き記すのは、全く失礼な話だなどとは思いつつ、それもまた人間の本能であり、悲しい性であったりもする現実もあろうかと。


それにしても、31年の歳月は、重い。
最愛の夫の元へ旅立たれた著者の、ご冥福をお祈りいたします。








「失楽園の向こう側 -橋本治」読みました。5


失楽園の向こう側
著者: 橋本治
文庫: 355ページ
出版社: 小学館 (2006/3/7)




「本の中に答えがある」というのは、やっぱり一種の欲張った思い込みで、答えは、「本を読む自分の中」にしかないものなのである。

生きて行くことは、「おもしろいこと」である以前に、「おもしろくもなんともなく、ただ淡々としているだけのこと」だということである。


それを言ってしまうと、全てが終わってしまうのであって、まさに橋本治は355ページに及ぶエッセイ集を締め括っている。
流石は、私が師と仰ぐ人物のひとり、その潔さが心地好い。そして、深く納得させられる。
浅く考えると、じゃぁ、今までの長い長い理論展開は何だったの??、ということにもなりかねないが、一方では、それまでに綴られた”哲学”であり”思想”の根底にある”真理”である訳で、その”真理”に辿り着くために必要な事柄が、それだけ沢山あった。、ということに他ならない。だから私には、これだけ長く語っていただいて、そして最後に真理を突いていただいて、ありがたい!、となる。
それ位に、本当に親切過ぎるほどに親切で、丁寧に道順を追って解説していただける、熱血先生でもある。

そんな私も、初めての橋本治が『恋愛論』であり、正直、違和感を感じなかった、と言うと嘘になるし、激しい衝撃を受けたのではあるが、それでも、不思議と心に深く沁み込んだ。心のドアが、す〜っと開いていく感覚、と言うのか、素直になれる、と言うのか、受容れられる、と言うのか。とにかく好きなのである。そして、著作に触れる度に深まるその想い。
実は、とっても頭の良い(最高学府の東京大学卒業です!)方で、膨大な知識量と、深い考察から導き出される、広く深い理論展開をされるので、不勉強な私には、理解し得ない部分が多くて、しかも、長篇の著作が多いので、文字を追うのが精一杯で、取り敢えず読みました!、という部分を否定しない。それでも、一度インプットされた情報は、時にボディーブローのように、時を経て、じわじわと効いてくる?!、みたいな、都合のいい解釈をしている部分が、私の中にはあって、結構テキトーだったりする訳で、だから、読み進める度に、解けていく部分も少なくなくって、好んで手にしている。
そんな訳で、いよいよ、三島由紀夫(私が生まれた年に自決!)であったり、源氏物語であったり、興味が傾きつつあり、ある意味では恐怖を感じてもいる(笑)!
それでも、それが愉しくもあるのではあるが・・・


そんな色々な”縁”を感じつつ、この著作「失楽園の向こう側」を手にした理由は、ズバリ、渡辺淳一「失楽園」である。分かり易く、動物的、衝動的ではあるが、興味を抱かないものに触手は伸びないし、興味を抱いた時点で、既に何かの必然に導かれていることでもあり、自然な流れを遮る理由も必要も無いであろうと考える。
当然(?!)に、渡辺淳一『失楽園』に触れる記述は一切無く、それはそれで、ある意味ホッとしていたりもするのではある。だって、素晴らしい文学作品だ!、何て個人的に超感動していた著作を、簡単に否定されちゃったりしたら、結構悲しかったりするから。


毎度毎度、書きたいこと、書こうと思っていたことって、なかなか書き記せないままに、文字だけが無為に並べられていって、時間ばかりが過ぎ去っていって、正直、自己嫌悪に陥って、まぁ、仕方ないか、と思い直して、次にはちゃんと書くぞ!、とか思うんだけど、やっぱり上手くいかなくって、、、
だから、私は、まだまだだと自覚して、ますます本を読み耽り、とにかく書き記し、、、
そうやって、保たれるバランスもあろうかと。









その当時はあまりそのようには言われなかったけど、今となっては、「1970年になにかが終わった」は明らかで、、その「なにか」もまた明らかである。終わった「なにか」とは、日本に支配的だった「ものの考え方」である。
1970年の日本では、「思想の左右対立状況」が無効になった。

論語』の中の孔子は、「吾、十有五にして学に志し、三十にして立つ」と・・・

「どういう意見を言えば、世間的に”いい意見”としてほめられるか?」という、模範解答を探す。自分が思っていなくても、「こう言えば”いい意見だ”とほめられそうだな」というウケ狙いをする。

過去・現在・未来の区分、「三人の友人」

三島由紀夫午後の曳航」、「仮面の告白

ヨーロッパに、「労働者階級」と「支配階級」の二つの階級は歴然としてある。南米は、もっと極端で、「一握りの金持ち」と「圧倒的多数」の労働者だ。

「象の背中 -秋元康」読みました。5


象の背中
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書評/国内純文学



「情けない親父だよな? がっかりしただろう?」
「そんなことないよ。堅物に見えた親父の”人間くささ”を垣間見たような気がした」
「そこだ。俺が、五十年近く生きて来てわかったことは・・・。”人間、みんな、同じ”ってことだ。とびきりの善人もいなければ、とびきりの悪人もいない。多少、運がいいとか、悪いとかの差はあるにせよ、どんぐりの背くらべのような人生を送って、最後は、みんな、死ぬんだ。美空ひばりの『時の流れのように』だ」
「『川の流れのように』でしょ?」

  〜本文より抜粋〜


小説家 秋元康が描く『死』、映画化(2007年秋公開)も決定。
オビには、産経新聞連載時から「理想の死」「男の身勝手」と論争を生んだ 今、話題の小説!!、とある。

物語は、肺ガンで「余命半年」宣告された48歳の男の、残された時間の生き様が描かれる。中堅(上場)不動産会社の取締役部長という中間管理職で、経済的にも恵まれ、妻と大学生の長男と高校生の長女の平和な四人家族があって、帰る(?!)場所がちゃんとあって、ちゃっかり15歳年下(33歳)の愛人までいて、それがまたしっかりした独立心の強い女性で、経済的な負担無く、精神的な支えになってくれていて、保たれていた微妙なバランス。正直、羨ましい限りである。
何気なく受けた検査で発覚した末期ガンに戸惑いつつも、自らの”死”を受け入れ、延命措置を講じることなく、天命を全うしたい。それを自らの宿命と捉え、残された時間を自らと、自らが関わった人たちのために費やす時間。
それでも、確実に迫り来る”死”。
そして、終わりを迎える”生”の”時間”。

自らの”死”を受け入れたからこそ、今までは無限であると感じていた”時間”に限りがあり、終わりがあることに気が付かされる。限りがある”時間”であるからこそ、無為に過ごすことは耐え難いことであり、焦りや怖れや不安を抱く。それでも、焦っても、怖れても、怒っても、何をしても、それでも確実に”時間”が過ぎていく現実。絶対的に受け入れたくは無いけれど、それでも、受け入れないことには、どうにもこうにも仕方が無い。どうにもこうにも仕方が無いから、受け入れざるを得ない。それでも、何処までいっても、絶対に解消されない不安。
それでも、圧倒的な不安を抱えているからこそ、どうしようもない現実に苦悶しているからこそ、だからこそ、正直に素直な気持ちで物事に対応できる部分もあろう。そして、ある意味では弱った心に、普段は気付かなかった、見逃していたであろう些細なことが、響く。


なるほど、多くの読者の話題となり、映画化される所以も理解できる。
かくいう私も、息付く間もなく読了させられた。
当然に多くの涙を流した。
家族との対応は当然のことながら、互いに必要を感じ合って同じ時間を過ごした愛人でさえも、その胸の内を想像するに忍びない。愛人の存在は、決して褒められたことでも、許されることでも無いけれども、それでも現実的に、その存在が必要に導かれ、その存在により保たれていたバランスと、その現実を考えると、単純に否定することはできない。仮に否定したところで、取り残された現実は何処へ?、ある意味では、よっぽどバランスが悪い。

男は、大学生の長男に全てを託す。
病魔に侵され余命が半年であること、延命措置を受けず天命を全うすること、愛人がいたこと、、、



それでも、残念ながら、全てが「男の身勝手」であろう。
善悪を問うつもりは毛頭も無い。
私は、あくまでも「男の身勝手」であると考える。
確かに「理想の死」である部分を否定はしない。
正直な素直な言葉で表現で、自らの心を完全に開放(オープンに)して、ある意味では開き直って、思うがままに生き抜く人生。それも悪くは無い。

もしかしたら、私のイメージとして、秋元康おニャン子クラブ ⇒ 軽薄なメディアのプロデューサー、、、
という図式が確立してしまっている部分もあろう。
イメージとは恐ろしいもので、夢中で物語を読み進めているときには感じ得なかった軽薄さが、不思議と後から押し寄せてくる。
人の心の”ツボ”を押さえることを”業”とする、メディアの著名プロデューサーだからこそ、多くの読者の心を捕らえて離さない術を心得ていて、巧く自然に涙を誘われる、正直に上手い。そして、”業”としての目的である、より多くの”報酬”を得るための手段としての”映画化”。
悪くない、それが資本主義経済社会の、ひとつの形でもあろう。その形が、資本主義経済社会の、更なる発展を加速させていく、大きな原動力のひとつでもあろう。その形無くして、資本主義経済社会の発展は成し得ない。


「男の身勝手」の物語だけど、男に限らず人間という生き物が、本能的に身勝手で、圧倒的にどうしようもない存在である現実。
身勝手に生きられるのであれば、身勝手を貫き通して生き切ってしまう方が、本人にとっても、周りにとっても、ある意味では”幸福”なのかもしれない。








「旅 2007年 04月号 −アート特集」読みました。5


旅 2007年 04月号
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書評/旅行・娯楽



アートな気分!
美術芸術に興味津々。

瀬戸内海に浮かぶ直島(香川県)であり、台湾であり、ニューヨークであり、西伊豆 松崎(静岡県)であり。
アートに満たされる幸福感。
妄想の世界を飛び超え、飛び跳ね、どっぷり浸るのに、芸術作品から溢れる雰囲気は絶大。現実逃避の依存癖を自認しつつ、それでもやっぱり人間だもん。絶対的に必要だ。


直島
人為的な印象は否定できない(だってベネッセの出資でしょ?!)が、それでも瀬戸内の自然美と、万葉の頃より紡がれてきた歴史の、物語の数々をも感じさせる、溢れる魅力。
ベネッセアートサイト直島であり、地中美術館
元来、芸術活動の多くは、旧くから上流階級と称される人々の手により厚く護られ、発展してきた流れがあろう、時に武者小路実篤ら、大正時代の白樺派であり、、、 それが資本主義経済の発展により、一個人一族から会社組織の財力による支援に移行することも、必然なのであろう。
芸術は、直接的な利益を生み出さない。その芸術作品の価値(または可能性?!)を認める人が存在して、その芸術作品に出資(購入)する人があって、バックアップ(支援)する人や組織があって、成り立つ側面もあろう。ある意味では、芸術家に求められる要件が、才能だけでは無い現実もあろう。それでも、様々な困難(資金や生活など)を乗り越えて、また時に、経済的な不安を一切感じない恵まれた環境にある(上流階級出身者)からこそ、成し遂げられる活動でもあろう。それでも、創作の、生みの苦しみを乗り越えて導き出される、その圧倒的な迫力に、その垣間見える現実に、時に深い感動を覚える、その悦び。


東京に暮らしていると、敢えて旅に出て、足を伸ばすことをしなくても、本物の歴史的な芸術作品に触れる機会は少なくない。
それでも、敢えて自らが行動を起こすことによって得られる発見は少なく無い、旅に出掛ける、その直接的な目的から得られる果実は勿論、ある意味では、その移動に掛かる時間でさえ、日常から隔離されることによって得られる果実も否定できない。


絶対的に『旅』は必要だ!
自らの人生を愉しいものとするために、目一杯にお洒落をして、いざ出掛けませう!!








「新釈 走れメロス 他四篇 -森見登美彦」読みました。5


新釈 走れメロス 他四篇
著者: 森見登美彦
単行本: 219ページ
出版社: 祥伝社 (2007/3/13)




今の俺は、万人を軽蔑する中身のない傲慢が、ただ人の形を成しているだけのものだ。だからこそ俺は天狗なのだ。
 〜「山月記」より抜粋〜

きっと自分を魅了するものができるだろうという確信があったからだ。僕が映画を撮るのは人を楽しませたり魅了するためじゃないんだ。僕はただ、自分を魅了するだけに撮る。
・・・
僕の見のうちでは嫉妬の炎がごうごう燃えて、彼女はその照り返しを受けている。だからいっそう美しいのだ。

 〜「藪の中」より抜粋〜

「そういう友情もあるのだ。型にはめられた友情ばかりではないのだ。声高に美しき友情を賞賛して甘ったるく助け合い、相擁しているばかりが友情ではない。そんな恥ずかしい友情は願い下げだ!俺たちの友情はそんなものではない。俺たちの築き上げてきた繊細微妙な関係を、ありふれた型にはめられてたまるものか。クッキーを焼くのとはわけがちがうのだ!」
 〜「走れメロス」より抜粋〜

そこは空虚な場所なのだと、男は漠然と思いましたが、自分こそが空虚なのだとも思われました。
 〜「桜の森の満開の下」より抜粋〜


あとがきには、
これをきっかけにして原典を手に取る人が増えることを祈るのみである。
とある。


先日(2007年5月)、「夜は短し歩けよ乙女」で、第20回山本周五郎賞を受賞した、森見登美彦
通勤電車の中でも、読者が多い。「夜は短し歩けよ乙女」であり「きつねのはなし」であり「太陽の塔」であり。
多くの読者を惹き付ける魅力に溢れる。

表面的な(?!)、表現の言葉の美しさ。これは、豊富な知識と、類いまれなる豊かな感性から導き出される?! 巧い。趣きのある言葉や表現を巧みに織り込み、時に失笑を誘い、軽快なリズムが心地好い。
そして、世界観というか、哲学であり思想の部分に魅力を感じる。

誰もが、その心の内に秘めている不安や苦悩。
ある意味では、完全な人間って、何処にもいなくって、不完全だから人間味があって、それぞれが個性であり、それぞれの必然に基づいて存在の意義を有している。
そんな、自らの不甲斐なさや不安定さを、だからこそ敢えて物語の形式で曝け出す。
時に、小説家としての苦悩であり、それが公務員やサラリーマンであっても苦悩は絶対的に存在するし、男と女の愛情であったり、友情であったり、、、 人間が人間として、現実の世の中で与えられたフィールドで生きて、生活していくことが、絶対的に大小の違いこそあれ、必ず何らかの問題を抱えている現実。
それでも、その現実を受容れることって、格好の好いことでは無いし、泥臭い感じもするし、できれば避けたいことであろう。それでも、やっぱり避けて通ることができない現実があって、まずは自らを否定することから始まるのかなぁ?! 否定されて、嬉しい感情は絶対的に生まれないけど、自らの全否定無くして、飛躍は有り得ない?!
だからこそ、時に失笑を誘う表現などを用いて物語の中に織り込まれる、人間の本能的な行動の数々に、心を揺さ振られる。
あっ、一緒だ、えっ、いいんだぁ、何だ私だけでは無いんだぁ、、、 不思議な共感を覚え、湧き起こる安堵。


物語は、歴史的文学作品を、著者なりの勝手な解釈で、全く新たな物語として紡ぎ出される短篇集。
著者の思惑通り、原典を手にしたくなる。
故に、☆×5つ!






日本の旧き良きもの、、、
京都、行きたい〜!



「ライブドアに物申す」読みました。5


ライブドアに物申す
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書評/経済・金融



ライブドア事件(2006年1月16日 東京地検特捜部の強制捜査、同1月23日 代表取締役堀江貴文ら逮捕、現在も係争中の事案)発生後、ライブドア社内から自発的にあげられた企画の書籍化。メディアとしての自浄能力、自己批判能力を発揮すべく、公共性の見地から、44人の各界の有識者、オピニオンリーダーからの、ありのままの寄稿を掲載。
質問内容は、
1.会社「ライブドア」について、
2.「ライブドア事件」について、
3.「堀江貴文」という人物について、
4.その他、ご意見・ご指摘等がありましたら、ご自由にご記入ください。
以上の四項目。

寄稿しているのは、幅広い世代の、評論家経済学者ジャーナリストライター記者法医学評論家、コラムニスト作家、企業経営者、精神科医社会学者編集者ネットワーカーブロガー、パートナー(外資系企業、法律事務所監査法人、税理士法人などにおける共同経営者) 、劇作家演出家映画監督ドキュメンタリー作家、経済アナリスト経済評論家(エコノミスト)、政治評論家公認会計士大学教授などなど、
それぞれの分野で活躍されている面々の、それぞれの見解。
当然に、それぞれの解釈に基づき、異なる見解、意見、だからこそ垣間見ることができる様々な事実もあろう。
それぞれの専門分野があり、その積み重ねてきた経験があり、色々な角度からの鋭い視点で、ひとつの物事(事件)が掘り下げられることによって浮かび上がる事柄。
時に、歴史は繰り返される?!


いわゆる”評論家”とは、
.事物の説明・評価等の評論を行うことを業とする者のこと。
.自分で実行しないで、他者の行為をあれこれ言う者のこと。
とある。
当然に、業として報酬を得ている専門家ならではの深い考察や洞察による見解に、素直に感嘆させられる部分を多く有するものの、、、
既に起こってしまった結果に対して、したり顔で批判的な意見を述べる。まさに、△陵輿蠅窺える場合が少なくない。
まるで、『正義のミカタ』の如く。自らの解釈による”正義”を振りかざし、使命感に燃えて諸悪を断つ!、みたいな、、、 『正義のミカタ』は、時に必要ではあるのだけれど。
一方ではまた、それを業とするが故に、言いたくても言えないこと、逆に意図的な発言もあろうかとも。特に、フリーランスの場合には、依頼者のご機嫌を損ねることは、死活問題ともなるであろうし、雇用されている場合には、組織(会社)の圧力を否定できない。その中で、如何に注目を浴び、仕事の依頼を獲得していくか、その手法に工夫を凝らす必要があろうし、その努力が重要な課題でもあろう。
その歪みが垣間見える瞬間が少なくない。

そんな意味からも、ひとつの事柄(ライブドア事件と堀江貴文)について、44人もの意見が並べられていると、見えてくるものもあろう。


資本主義経済や法治国家の歪みや必然であり、隙間(グレーゾーン)が絶対的に存在する現実。
若くして成功し、お金も名声も地位も手に入れた堀江貴文に対する嫉妬心もあろう。乱された経済的バランスに対する国家権力(検察庁)の発動も否定できないであろう。様々な社会的な時流のタイミングもあったであろうし、堀江貴文自身の心の内の歪みや、メディアやマスコミに踊らされてしまった側面もあろう。

それでも既に発生してしまった過去の事件について、たらればの仮定の話をしても、事実は、何も変わることは無い。当事者以外には知り得ない、理解し得ない事実。
歴史は繰り返されるとはよく言ったもので、絶対的に歪みが存在し得る現実社会において、このような社会的な事件は、時に繰り返される。
だからこそ、その分析が必要なのであろう。


とどのつまり、人間は誰しも過ちを犯す生き物である。不安定な弱く儚い生き物であろう。
人間である以上、絶対は有り得ないけれど、それでも、それだからこそ、それぞれ各個人が、この世に生まれた意義や必然を見出し、それぞれの哲学や思想を確立させることが、ひとつには必要なのかもしれない。
この不確実な現実の世の中を生きるために、、、






実は、写真の中央の大きな木の下に『六本木ヒルズ』を望むことができます♪ −港区立芝公園より




「祝福 -野中柊」読みました。5


祝福
著者: 野中柊
単行本: 206ページ
出版社: 角川書店 (2006/9/26)




私はずいぶんと大人げなかったと。思う自分だけが傷ついていると思いこみ、その痛みに耐えるのに精いっぱいで、貴義さんの気持ちをほとんど考えることもせず、残酷に振舞ってしまった。私はいつだって、そうなのだ。「危ないよ」と止められようと、勝手に愛し、勝手に求め、勝手に離れていく。男のひとが傷ついて血を流そうが、そこに美しい花や果実を見てしまう。
・・・
「きみに去られるとき、どうしていいか、わからないくらい、つらかったからなあ。精いっぱい、かっこつけて、とにかく自分を救いたい一心で、口走った科白だったのかもしれないね」

 〜「しゃぼん」より抜粋〜

姉も私も、幾度かの出会い恋と別れを経験して、知ってしまった。わかってしまった。赤い糸なんてものはない。そんな丈夫な糸は、この世には存在しない。
代わりに、あるとしたら、銀の糸。・・・
たぶん、銀の糸は、運命に導かれつつも、自分の責任で選んだ相手と意思的に結ぶもの。しかしながら、意思だけではどうにもならないこともあって、儚く、もろく、切れやすいものなのかもしれない。その一方で、思いがけず強いものであるのかもしれない。たいせつにしてね。姉の言葉が胸にしみる。
銀の糸も、やはり目には見えないけれど ―
光を受けて、きらりと輝く瞬間がある。
その美しさは、せつないほどだ。

 〜「銀の糸」より抜粋〜

めちゃくちゃにして、と懇願する。
どうせ、ひとはいつか死ぬのだから ― だれもが、この世から消えてしまうときが来るのだから、たった今だけでも、生きることをおそれるのはやめましょう。目の前にいる愛しいひとに言いたいことがあるとすれば、それがすべてだと思う。

 〜「遊園地」より抜粋〜

なんといっても、生きていくのは、たいへんな大事業だ。つらいことや悲しいこと、苦しいことを避けて通ることはできない。それが骨身に染みてわかっているからこそ、私たちは、ささやかなキュートなものに慰められ、励まされる。女の子だったら、程度の差こそあれ、だれもが日常の中で感じていることではないかしら?
 〜「祝福」より抜粋〜


六つの短篇集。
深い悲哀に満ちた物語。
どちらかといえば、相当に痛い?!
痛すぎて、痛くて痛くて泣ける。
丁寧に詳細に描かれる人物やその背景、過去の出来事。情景や景色、その背景や雰囲気までもが匂いまで感じるほどに、言葉で、文字だけで表現される。
短篇だからこそ、必要最小限の、一切の無駄を排除し、削ぎ落とされて、紡ぎ出された物語。ひと言が、ひと文字が、重い。その重さが、心に沁み込む。離れ難い感情に覆われる。
深夜のひとりの部屋では読むべからず!?


著者の野中柊は、1964年生まれとあるから、現在43歳前後。
ネットで調べても、あまり詳細な情報が得られない。 ちょっと、秘密のベールに包まれた(?!)、お写真からは可愛らしい感じの細身の女性と。
とっても気になります。


そして、物語に、必ず年齢が詳細に書き記されるのは、そこに意味があるのであろうか。
20歳代であり、30歳代の、女性であり、男の視点からも描かれる。
結婚生活が平穏に営まれる日常の物語もあるが、断然興味を惹かれるのは、20歳前後の過去の若い(?!)恋愛経験の想い出から導き出される、現在の生活。子供がいてシングルマザーになっていたり、不毛な関係中であったり。それでも、様々な思いを胸に、淡々と今を生きる現実。

上手く表現できないけれど、もっと知りたい。


新潮社の女性誌「旅 2007年06月号」の記事”旅に持っていく本。”に「このベッドのうえ」が紹介されていて、何か気になって、何となく手にした、不思議な縁。
本との出合いも、ある意味では、その必然に導かれていて愉しい。









「祝!中古良品 ―アカセガワ版養生訓 -赤瀬川源平」読みました。5


祝!中古良品 ―アカセガワ版養生訓
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書評/ライフスタイル



いまは、ある意味ですべての人が江戸時代の特権階級的状態になっているともいえる。食べ物には恵まれているし、暖房はあるし、そのへんでバランスがとれていない部分が多々ある。
ようするに、すべての人が昔の人の夢見た成金状態になっている。みんなが成金状態におちいっている。そのことに、現代の本人たちはみんな気づけないでいるだけだ。

養生とはいわば、「次の時間を生きるための準備」なのである。「現在を生きる」よりも、「次に生きる準備」に気をくばっている。あくる日でもいいし、来月でもいいし、来年でもいい。だから、「養生」って聞くと、建設的で、未来のちゃんとある言葉という感じがする。だからそれは「治療」とはちょっと違う。



脱力系「人生哲学」書!?
芥川賞作家(別名の尾辻克彦)で、前衛美術家の赤瀬川原平が描く、自伝養生訓であり、江戸時代の儒学者”貝原益軒”によって書かれた健康な生活の暮し方についての解説『養生訓』の考察であり、南伸坊との対談であり、緩やか(?!)な論理が展開される。

ある意味では、この緩やかな”脱力系”の理論展開は、著者の自らが分析して書き記している通り、完全主義者で潔癖症な部分の裏側の部分かと。
完全を追い求め、真面目であるが故に、若かりし頃には、権力に対する抵抗を試み、持ち前の美術的センスを活かした行動でその名を馳せ、それを乗り越えて、ある意味では超越(?!)しちゃって、、、
文学的も1980年に「尾辻克彦」名義で発表された『父が消えた』で第84回芥川賞を受賞しちゃう才能をも有し、、、
その後にも、独創的な芸術活動や、趣味のライカのカメラなどに造詣が深く「ライカ同盟」を結成したり、「老人力」などの著作でも活躍されて、、、
それでも、20歳の頃に胃を切っていたりして、決して体が丈夫では無くて、、、
その自らが積み重ねてきた約70年の歳月に刻み込まれた経験の数々から構築された人生哲学。
ある意味では、”老い”(中古?!)を自他共に認めているが故に、重みや深みを有する言葉の数々。


人間という生き物は、全て「中古」であり、「新品」では有り得ない。
「中古」でしか有り得ないのであれば、その中でも程度の優れた「中古良品」でありたい。(この辺は、中古カメラの概念で・・・) 「中古良品」であるためには、絶対的に手入れは必要であり、その手入れとは「養生」であり、「養生」無くして「中古良品」たり得ない。当然に、人間は精密機械的な機能を有する”生き物”であり、消耗して不具合も生じるであろうし、故障(病気や怪我)もする。

そんな様々な前提の下に、時に便利過ぎて、清潔過ぎて、過剰なほどに発達し過ぎた文明化社会によって、失われてしまったバランスもあろう。
人間という生き物は、やっぱり共同生活を営む必要があろうかとも。共同生活は、煩わしい事柄も多く、不条理で理不尽な側面を否定はできないけれど、それでも、人類がこの世に生み出されてから、じっくりじっくり変化を遂げつつも守られてきたバランス(共同生活によるものが少なくないと個人的には考えている)が、高度資本主義経済社会(?!)による急激な発展という名の変化を受けて、個人主義が強固に潔癖に確立されて、破壊されて乱されてしまった部分もあろうかと。

何だかんだと偉そうなことを述べつつ、それでもやっぱり「新品」への憧れを捨て切れない自分自身がいる。家だって車だって何だって、一度「新品」を手にしたら、その魅力に取り憑かれて、「中古」に見向きもしない自分自身を否定できない、圧倒的に矛盾に満ち溢れた現実。


世の中は変われど、時流によって多少の解釈に差異は生じようとも、人類永遠の普遍の原理原則、真理は存在しようかと。
脱力した中にも垣間見える厳しい眼差し、その本質。








「失楽園(下) -渡辺淳一」読みました。5

失楽園〈下〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 282ページ
出版社: 講談社 (1997/02)




「人を愛することは、怖いことだわ」

「男があくせく働くのは、とどのつまり、いい女を捕まえて、自分のものにするためで、これは自然界のすべてに共通する。
オスは懸命に餌を獲り、相手を倒して、最後に得ようとするのは、メスの体と愛情だ。 それが欲しいばかりに死闘をくり返す」



著者 渡辺淳一は、医学博士であり、直木賞作家であり、伝記、医療、性的描写の濃い男女関係を得意とする。
氏との出会いは、大正時代に活躍した有島武郎の文学作品「小さき者へ・生れ出ずる悩み」からであり、川の流れの如く自然に導かれてきた。 衰えぬ、死と愛と人生への興味。 まさに、かのガブリエル・ガルシア=マルケスも語っていた、「ドラマティックな状況の方は、実際にはそんなにないんで、人生と愛と死の三つだけだよ。」なのであろう。


物語は、53歳の上流階級の、一流企業の出版社に勤める、それでもエリートコースからは外されてしまって閑職に追い遣られた男と、やっぱり上流階級の、38歳の書家の女性が、所謂”不倫”の末に、それでも心も軀(からだ)も互いを深く求め合い愛し合い、真実の愛を貫く生への選択としての心中を図る。

はっきり言って、羨ましい物語である。
二人は、出会ったタイミングの問題で、不倫という関係に陥ってしまった訳であるが、それでもそれさえも宿命と言わざるを得ないが、人生の生きる意義、生きる悦びを、はっきりと感じることができた訳であり、それは素直に喜ばしいことであり、まさに羨ましい出来事であろう。果たして、どれほどの人間が、男と女の関係において、これほど強く深く心も軀も満たされ合うことがあろうか。ある意味では、そこまでの真実の愛、生きる意義、悦びを得てしまうと、それは与えられた生の意義を全うしたことでもあり、そこに残されるのは、生の終わり、すなわち”死”のみなのかもしれないとすら。
また、別の側面から考えると、互いのその時点での状況、年齢や経験さえもが、その宿命の必然的な要素であり、互いが婚姻関係が営まれていない状態で出会い、仮に肉体的な関係が結ばれても、ここまでドラマティックな展開には成り得なかったであろうし、それは互いのパートナーとの関係からも明らかなことであろう。互いに、恋愛感情を抱いて、永遠の契りを誓い合い、家族としての生活を営んできたにも拘らず、経済的に満たされた生活を営んできたにも拘らず、大きな不満を感じることも、強い不審を抱くことも無く、綿々と営まれてきた夫婦関係。それさえもが、このドラマティックな状況や出来事を構成する、重要なファクターになってしまう現実。その圧倒意的に凡庸な日常があったからこそ成し得た物語。

人間であれば誰もが持ち得る嫉妬の感情。
それは、物語を盛り上げる、重要な要素でもあろうか。
物語の設定上、男は、年収は額面で二千万円近く、親から受け継いだ家が世田谷にあり、一人いる娘はすでに嫁いで、さらに妻は陶器のメーカでアルバイトをしているから、かなりの小遣いを自由に費うことができる。という、何とも羨ましい身分である。
だからこそ、ここまでの深い関係が積み上げられた現実もあろう。
物語とはいえ、この世の中に、絶対的に存在する”階級社会”であり、不公平な現実。それでも、世の中は、それでバランスが保たれている部分が多分にあり、それは現実として受容れる以外にはないのでもあるが。

「勝ち組」として、闘い続ける人生より、与えられた限られた中に、自らを見出す「真理先生」的人生を選択したい私にとっては、それでもやっぱり物語のヒーロー・ヒロインとして酔いたい気分、それでもそれは辛く切なくもあるのではあるが、、、と、一方では、ヒーロー・ヒロインのパートナーの立場や心情に圧倒的な関心を抱かずにはいられない現実。
私が激しく涙したのは、いずれを想ってのことであろうか?!







大正十二年、ときの文壇の寵児、有島武郎は、婦人公論の美貌の女性記者、波多野秋子と、この地(軽井沢)にあった別荘で心中した。
ときに有島武郎は四十五歳。 妻はすでに亡かったが、まだ幼い三人の子供を残し、秋子は三十歳、子供はいなかったが、人妻であった。
二人は縊死で、ともに並んで首を吊ったが、六月半ばから七月半ばまで、梅雨どきの一ヵ月間、誰にも気づかれなかったので、発見されたとき、二人の遺体は完全に腐乱していた。
発見者は、「全身に蛆が生じ、天上から、二本の蛆の滝が流れているようだった」と、告げている。
有島武郎と波多野秋子との心中事件は、当時の文壇のみならず、世間を騒がした華麗なスキャンダルであったが、その実態はかなり凄惨なものであったようである。

 〜本文より抜粋〜



「失楽園(上) -渡辺淳一」読みました。5


失楽園 (上)
著者: 渡辺淳一
単行本: 306ページ
出版社: 講談社 (1997/02)




どうしても、手にせずにはいられなかった!
いまだ上巻のみの読了ではあるが、深い満足感に浸る。

男と女の愛だ恋だなんて、ちっぽけな概念を超越した、人間の、もっと言うなれば、人間という生き物の、普遍の原理原則、深層真理、その深い深い悲哀に満ちた性を、丁寧に克明に描いた文学作品!

刊行されたのが 1997年といえば、今から遡ること10年前。10年ひと昔とはよく言ったもので、多少の時代の経過を感じるものの、というか、当時は今よりも不倫がタブー視されていて(今でも決して容認されている訳ではないが・・・)、それが故に話題騒然となり、ドラマ化され、映画化され、一世を風靡した記憶があるからでもあろうが。それでも、全く色褪せていない、男と女の人間の真理は、何時の時代にも普遍であることの証明とすら。

何よりも、本作が、大正時代に白樺派で活躍した文人『有島武郎』の歴史的心中事件をモチーフにした物語ともいわれ、その事件が最近私が深い興味を抱いている事柄だから。
事件当時45歳の、上流階級出身で、学習院卒業後に留学の経験も有り、西欧文学や西洋哲学の影響を受け、芸術にも造詣が深い、思想青年で、崇高な理想主義者で、生真面目なひとりの男が、、、確かに数年前に愛する妻を、疫病で失った哀しみ、心の隙間もあったであろう。既婚とはいえ美しい容姿を持った女性編集者(波多野秋子)に惹かれたことも、宿命であったのかもしれない。その既婚女性の夫(波多野春房)に情事を知られ、彼から姦通罪での提訴、金銭の要求などの脅迫を受けていたとの噂もあり、精神的苦痛、深い絶望感もあったであろう。道徳的に許されない圧倒的な現実と認識、惹かれてしまった抑え切れない衝動的な本能(愛情、心も躯も)と、激しく苦悩し悶絶する心の内は、想像に難くない。
社会的立場の高い常識人と言われる人間であっても、衝動的に、取り憑かれたかの如き行動に走る現実、事実。


この作品を、表面的な性描写の激しさのみを捉えて判断することは、余りにも浅はかでなないか。
ドラマ化、映画化により、映像によって表現され、マスコミに騒ぎ立てられたが故に、本質的な文学的部分が薄まり、興味本位に取り上げられたことを勿体無く思う反面、それでも、私の記憶に残っていたが故に、手にすることができた現実に、素直に喜びを感じたい。


物語の結末は、きっと切ない現実が待ち受けているのであろう。
それが分かっていながらも、その切なさの、人間の、男と女の、本質的な深層の感情の精神の揺れ動く様を、その美しい描写を、心行くまで堪能したい。








「予告された殺人の記録 -ガブリエル・ガルシア=マルケス」読みました。5


予告された殺人の記録  Crónica de una muerte anunciada 1981
著者: ガブリエル・ガルシア=マルケス
文庫: 158ページ
出版社: 新潮社 (1997/11)




やっぱり理解し得ない。
そして今回は、あとがきや解説や書評を読めば読むほどに深まる混乱。 正直、手にして読了してしまったことを後悔していた、少し前まで。
やっと、その混乱から脱出することができて、ホッとしている。
それでも、理解し得ないことに変わりはないが、、、

物語は、ガブリエル・ガルシア=マルケスの身内に、現実に起こった殺人事件を基に描かれる。 30年前に起きた事件が、時空を超えて再現される。
予告されていたにもかかわらず、未然に防ぐことができなかった殺人事件。 その背景や状況、それぞれの心理を、身近な立場だからこそ知り得た事柄を盛り込んで、詳細に鮮明に紡がれる物語。

著作「物語の作り方−ガルシア=マルケスのシナリオ教室」で語られている通り、自然な流れの中で人物像やその背景や状況が設定され、描写され、そして全体の物語が組み立てられている。 なるほど、こういうことなのね!、とその部分は妙に納得。 まさに、映像が浮かび上がらんばかり!

そして、解説などには、いつもの如く絶賛の雨嵐。
物語がリアル(現実)がベースとなっているんだけど、やっぱり氏のある意味ではブッ飛んじゃっている魔術的な表現に、文字を追うことに精一杯の私としては、やっぱり深い理解は得られない。 リアルな現実の事実の出来事なんだから、理解しなくちゃ!、って躍起になっている私がいた。

これまで手にしてきた作品は全て(?!)、旧い言い伝えや迷信や神話などからの妄想の想像の物語がベースであり、理解し得ないことを前提に、雰囲気を、そのリズムや流れを愉しむことだけを目的としてきた。 というか、そうアドバイスされて、そうしてきた、理解しようと思わないこと!、と。

ということで、理解をしようと思ってはいけないということを、すっかり失念しておりました(笑)。


あとね、贅沢な話なんだけど、ガブリエル・ガルシア=マルケスさまの小説は、やっぱりハードカバーの重厚な単行本で手にしたい!
文庫本だと、有難味半減(?!)みたいな?!
全く贅沢な話しで、理解もできないクセに、どうにも生意気ですが、、、
新潮社『ガルシア・マルケス全小説』シリーズでの再読に期す!








「50代から人生を愉しむ生きかた -斎藤茂太」読みました。5


50代から人生を愉しむ生きかた
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書評/ライフスタイル



”三十代、四十代は現実の中で格闘する時代なのだ。 ここを乗り切ることである。 ここを乗り切れば、五十代から先は、また自分の夢にもどっていける時代である。 生活が安定し、社会のしがらみも次第に少なくなっていく。”

”トラブルメーカーになる人は、プライドが高く、完璧主義の人が多い。 それはいいのだが、完璧主義というのが得てして自己流の完璧主義であることが多い。 つまり、自分では完璧と思っているのだが、実際は単なる理屈や杓子定規にすぎなかったりする。
・・・
自分の失敗は、たとえ誰かのせいであったにしても、自分自身が受け止めなければならない。 失敗する自分というのは、やはり自分のどこかに問題があるのだ。 それを乗り越えていく姿勢を持たないと、永遠に失敗し続けることになってしまう。”

  〜本文より抜粋〜


37歳の私が、本書「50代から人生を愉しむ生きかた」を手にした理由は、大きく3つある。

1つは、著者の斎藤茂太(1916.3.21-2006.11.20)に、「真理先生 -武者小路実篤」を想ったこと。
精神科医として活躍し、数多くの著作の執筆に勤しみ、昨年暮れに90年の生涯を全う(?!)された、その人となりに抱いた興味。 実は私、氏の自宅と病院(斎藤病院)の近所に住居があり、一族の何世帯もが共同生活を営む様を目に耳にして、妙な親近感を感じている面もあろうが。

2つ目が、「人生を愉しむ」がテーマであること。
「楽しむ」と「愉しむ」、同じ言葉(意味)でありながら、受ける印象が異なる妙。 とっても小さなことで、どっちでもいいことで、大した違いは無いんだけど、個人的には、それすらを愉しむことに、敢えて拘る。
とどのつまり、文学に国語に正解は無くって、あくまでも表現であり、その意味やニュアンスや伝えたいことを伝えたい人に伝える目的を果たすことができれば、それが本来の姿とすら。
だから敢えて「愉しむ」。

そして、30代後半にして肉体的な衰えを”老い”を時に感じている私にとっては、年齢(50代も30代も)が、ひとつの目安でしかなくって、50代だからというよりは、人生の肉体的な下り坂(?!)と、精神的な哲学的な熟成と、そのバランスに興味を抱いていたから。
私が、ある部分では人生(老後?!!)の手本とする存在「真理先生」は、若くしては成り得ない。 痛みや苦しみを伴う経験を積み重ねて積み重ねて、そしてそれを乗り越えて、行き着くところまで行き着いちゃって、多少ヨレヨレ(?!)なんだけど不思議に輝いている、みたいな。


思惑通り、人生を本質的に愉しむための重要なポイント(考え方、人生哲学)が紡ぎ込まれて、取り立てて目新しい事柄は無くっても、気持ちを新たに奮い立たせてくれる。 時に必要。
やっぱり人生を愉しみたい!から。


そして、斎藤茂太先生の、ご冥福をお祈りします。





先日、六本木の東京ミッドタウンに行ってきました!
実は私、昨年夏前までは『超無趣味』を自認しておりました。
昨年2006年8月より、本ブログを始めまして、ブログを書き記すために写真(当初は建築物と青い空)をデジカメで撮り始め、ポツポツと本を読み始め、、、
ふと気が付いたら、デジカメを奮発して購入して携行して、時間を惜しんで読書に勤しみ、人生を愉しんでいます。



「みんな大変 -渡辺淳一」読みました。5


みんな大変
著者: 渡辺淳一
単行本: 260ページ
出版社: 講談社 (2006/03)




バオバブの樹霊さまは最後に、静かにつぶやかれる。
「この世に生きているかぎり、みんなそれなりに生きている意味があるんだよ。
誰が偉くて、誰が偉くない、などということではなく、みんなそれなりの役目があり、どこかでそれぞれの世話になり、そのおかげでみんな生きて、やがて土に返っていくんだよ。 そしてそこからまた、新しい命が生まれるんだから、死んだからといって無になることはないんだよ」”

 〜本文「樹霊さまのお言葉」より抜粋〜


渡辺淳一といえば、『失楽園』であり、『愛の流刑地』であり、男と女の”愛”、時に性的描写の濃く激しい作品の印象がある(正直に言うと、それしかなかった・・・)が、札幌医科大学医学部卒業の医学博士であり、直木賞作家でもある。
先日、ひょんなこと(大正時代の作家 有島武郎の遺書,恋文?!)から、氏の2002年刊行のエッセイ集「キッスキッスキッス」(大正〜昭和に活躍した著名な文化人たちの19編のラブレターの研究?!)を手にし、その考察と哲学に触れ、もう少し深く知りたい衝動に駆り立てられた。
とどのつまり、人間という生き物は、男も女も本能の生き物であり、自然の摂理に導かれて、時に衝動的な行動を抑え切れない。 それが知識人といわれる種類の人間であっても。
特に”愛”の力は、時にその衝動は、絶大でもあり・・・


著者は、医学博士であり、医学的な人間認識をも持ち合わせており、豊富な知識の中から、、、
アフリカのサバンナに棲息する野生動物たちの「自然の掟」に考察を加え、解説するエッセイ集。
広いアフリカのなかでも最も大きな樹木”バオバブ”に宿った(?!)樹霊さまと動物たちの対話から成り立つ物語。
ひとことで言ってしまえば、タイトルの通り、”みんな大変”ってことなんだけど、それさえも、どこまでも”自然の掟”に導かれて、絶妙なバランスを保っている。

ライオンも、チーターも、ヒョウも、ハイエナも、ヌーも、ゾウも、キリンも、トムソンガゼルも、ハゲワシも、糞ころがしも、蛆虫も、バクテリアも・・・ みんなみんな、生きていくのは大変なんだ。

1.サバンナの夜明け
2.雌のチーター「ステラ」の悩み
3.雄のヒョウ「リック」の幸せ
4.雌のライオン「レイラ」の嘆き
5.雌のハイエナ「キャサリーン」のプライド
6.雄のヌー「ノア」の帰還
7.雄のライオン「サムソン」の敗北
8.雌のゾウ「ジャンボ」の安全宣言
9.雌のキリン「サリー」の警戒
10.雄のライオン「ノエル」の最期
11.雄のトムソンガゼル「ハンク」の憂鬱
12.百獣の王「サムソン」の終焉
13.樹霊さまのお言葉


そして人間も男も女も、厳しいサバンナに生きる野生動物たちと同じ地球上の生き物である。
決して抗うことができない”自然の掟”のままに・・・








「林檎の木の下で -アリス・マンロー」読みました。5


林檎の木の下で
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書評/海外純文学



”わたしたちは魅せられるのだ。 これはたいてい老年期に起こる。 わたしたち個人の未来は閉じてしまい、しかも自分の子供たちのそのまた子供たちの未来など想像できない ―― ときには信じることができない。 こんなふうに過去を探らないではいられないのだ。 怪しげな証拠を選り分け、ばらばらの名前や疑わしい日付や逸話をひとつにつなげ、糸にしがみつき、死んだ人たちと結びついている、だから、生きることと結びついているのだ、と主張しないではいられないのだ。”
 〜本文「メッセンジャー」より抜粋〜


最初に正直に申し上げます。
理解し得ません。
ただただ難解な長編(429ページ)作品です。
何度も挫折しかけて、少しずつ読み進めながら、その間に実は10冊以上も読了しちゃってます。 現実逃避です。
読了は、殆ど自己満足の世界で、「やっとのことで、何とか読み終わりました!」というのが本音です。

それでも、先に翻訳されている短篇集『イラクサ』、機会があれば読みたい! そう思わせる不思議な魅力があります。
きっと、ノーベル文学賞候補!、という世評を目にしている部分が大きいと思いますが、、、 とどのつまり、文学の良し悪しを含めた、理解する能力が圧倒的に不足していて、自らでは判断できないから世評に委ねてしまう。 恥ずかしながら、そんな状況があります。
それでも、理解し得たい!、という強い願望に後押しされて、それには経験を積むしかなくって、近道は無いから、一歩一歩確実に上り詰めていくしかない訳で、できるだけ早い段階で理解し得たいから、結構頑張っちゃってます。 まぁ、今までが頑張らな過ぎだったから、仕方が無いことなんですけど。
そんな中でも、やっぱりノーベル文学賞っていうのは、少ない経験則から、ひとつ強い興味を抱いていまして、、、 かのガブリエル・ガルシア=マルケスであり、川端康成であり、、、
理解し得ないながらも、ひとりのファンとして、その作品に取り組ませていただいている側面があります。 特にガブリエル・ガルシア=マルケスにいたっては、「物語の作り方−ガルシア=マルケスのシナリオ教室」の著作の中で、その独創的な発想の一部を公開いただいて、そこからさらに興味が深まっています。

そして、海外純文学というジャンル(ニコール・クラウス「ヒストリー・オブ・ラブ」ジュディ・バドニッツ「空中スキップ」イースターエッグに降る雪」・・・)についても、それが日本国で日本語に翻訳されてまで出版される、その意義というか必然というか、当然に出版社なり翻訳家は、そこに需要と商機、(それだけではなく、良いものを世に知らしめたいという責務感もあるとは思います)が有ると目している訳でしょうから、そこを否定しても始まらないし、でき得ることであれば、積極的に取り入れていきたい、と考えます。 仮に難解な作品であっても、長編作品であっても。

そんな訳で、読中に何度も「あとがき」や「解説」、他の方の「書評」などを目にしながらの読書となるのであるが(そうしないと、止まってしまって進まない。)、それでも、最後まで読了後に目にする「あとがき」や「解説」や「書評」で、やっと理解ができています。
全てを自らの力で成し得た者だけが手に入れることができる快感、達成感(?!)、満足感。 もう、ただそれだけ、それが全て!、とも。


物語は、―この作品は著者の自伝的作品と位置付けられていますが、当然に物語的側面を有しており、敢えて物語と記します―、作家アリス・マンロー自身の一族の、三世紀の時を貫く物語であり、それが短篇形式で綴られます。
75歳を迎え、自らが老齢期に差し掛かったと感じ、その過去を探って主張したい欲求に導かれ、その必然に基づいて語られた物語。
やっぱり語るうえでは、物語の形式を採るのが最も自然であり、理に適っている。ただただ淡々と語るよりは、色を付けて(一寸大袈裟に!)、そこにメッセージを織り込むことは、その語りたいという必然からくる必要な事柄であろうとも。
時を経て、その瞬間には語ることができなかった想いであり、様々な積み重ねられた経験則から語られる物語であり、ずっと心に残っている幼少期の記憶であり、その時の想い、その意義、必然、、、

物語は、こうして語り継がれていくべきものであり、また、私たちも語り継いでいかなければならないし、語り継いでいきたいものです。








「きつねのはなし -森見登美彦」読みました。5


きつねのはなし
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書評/



嫉妬した!
私は森見登美彦の才能に激しく嫉妬する!!

デビュー作『太陽の塔』に触れて、氏の魅力に取り憑かれ手にした。

四編の物語から構成される作品の全編に流れる不思議な感覚。
スッキリしないと言えば、まさにその通りでもあり、それでもそこに深い魅力を感じる。
旧い歴史が宿る京都の街を舞台に、歴史を彩る骨董品屋、その店主とお得意さん、その品々に紡がれた物語。琵琶湖隧道事業の歴史。京都の歴史。迷信、神話。語り継がれる歴史物語。
歴史的物語を描くには、京都の街は舞台としての輝きを取り戻す。失われた都としての威厳?!

狐(きつね)であり、獣(ケモノ)であり、魔物(魔)である存在は、人間であれば、誰もが必ずそのうちに有している存在とも言える?! どんな人間であっても、狐にでも抓まされたように魔が差す瞬間があろう。衝動的に、本意ではない行動に取り憑かれる、、、 そんな弱く儚い部分を有している。
そんな、人間の本質的な深層の部分を、巧みに表現していると感じる。

そして、その巧みな表現は、時に虚言癖(?!)を有する先輩の口から荘厳(?!)に語られる。断片的な事実や史実や、拾った旅行記のノートから得られた架空の経験から、自らの夢想や妄想の中に紡ぎ出される物語は、現実と妄想夢想の垣根も、時代や歴史やその存在さえも超越して、聴くものの心を捉えて離さない。何よりも、語る本人の活き活きとした語り口に、物語は色めきたつ。
妄想や夢想は、先輩だけに限らず、祖父や血縁者にも存在し、語り草となり語り継がれる。

元来、物語は、人々の口から口へと語り継がれてきたものであろう。文字を持たない庶民が、親から子へと、代々語り継がれるもの、物語。時にそれを文字にまとめて書き記したものが物語であり、小説であり、文学でもあろうかとも。


デビュー作にて、巧みな表現で私小説を書き上げた森見登美彦は、プロフィールから拝見するに、京都大学(大学院)在学中に作家としてデビューを果たしている。
当然に、勤め人としての社会経験を有しない訳で、ジャンルとして社会派小説は書き得ないであろう。学校教育と、在学中のアルバイト(?!)、その他の人生経験、研究や実験や書物などからの知識によって構成されている、若い(?!、私と比較して)人間が、深い自己分析の結果の私小説こそ描けても、その後は如何なるものか?!、などと、卑屈な想いを抱きながら手にした私を、その恥ずかしいほどに瑣末な、ちっぽけな、薄っぺらな、おこがましい自らを激しく恥じた。正直に、彼の才能を嫉妬した。


次は、どんな物語を愉しませてくれるのであろうか?!










「真理先生 -武者小路実篤」読みました5

真理先生 -武者小路実篤

真理先生
著者: 武者小路実篤
文庫: 311ページ
出版社: 新潮社; 改版版 (1952/06)




『真理』とは、
歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかになる事のありようをいう。本当のこと、また本当であること。由来するラテン語のvereは、ありのままのものの意。ギリシア語:αλήθεια(aletheia)、ラテン語:veritas、英語:truth、ドイツ語:Wahrheit、サンスクリット:satya
 〜Wikipediaより〜
とある。

武者小路実篤、64歳の1949年(昭和20年)頃より連載された長編小説である。

対話形式で綴られる物語に織り込まれた、著者の人生経験より積み上げられた(であろう?!)”真理”の数々が、”山谷五兵衛”の口から語られる。
真理先生との出会い、その人となりに始まり、平易な表現で詳細に丁寧に描かれる物語。
真理先生は、60歳を少し過ぎた初老の男性。特定の仕事も住居も金銭も有せず、一切の物欲や金銭欲などの欲求から開放され、弟子達の好意により生活が営まれている。寝る所も、食べるものも、身の回りの世話も、お金の遣り繰りも、一切に関わることなく、為されるがままの、ある意味では仙人みたいな生活。訪ねてくる人との対話、弟子たちへの説法(?!)などが生活の殆ど全て。何とも羨ましい限りの生活である。
物語は、真理先生と、石かき先生(馬鹿一、純朴な画家)、泰山先生(書家)、白雲先生(有名画家、泰山先生の兄)、愛子(真理先生の弟子の美人娘)、杉子(白雲先生の弟子でモデル)、真理先生の下に集まる弟子たちを交えた、日常生活の中の何気ない、ありふれた出来事、その遣り取りの対話を中心に描かれる。

全ての欲求から開放された、決して『勝ち組』には成り得ないけれど、人間的に”いい人”の真理先生の周りには、当然に”いい人”たちしか集まり得ない。
石かき先生は、最初は石と雑草しか描けない無名の画家。一生懸命な努力の人で、才能は有るんだけど、頑固で卑屈な性格や、周りの環境に恵まれずに、不遇の時代が長く、”馬鹿一”と皆から蔑まれている。山谷先生や真理先生との出会いにより、その道が開かれ、美しい人物画(何と裸婦!!、羨ましい?!)を描けるまでになっちゃう。
白雲先生も、そこそこ著名な画家だったんだけど、石かき先生の真剣さに、その努力の様に、自らも奮い立たされちゃう。
杉子さんに至っては、複雑な家庭の事情(具体的には表記されていないけど・・・)などがあって、幸せに縁遠い人生を送っていたんだけど、石かき先生の一生懸命さに触れて(ひょんなことから石かき先生のモデルさんをやることになっちゃって・・・)、色々あって、それでも、仲違いしていた愛子さんとも親友となって、しかも人生の伴侶(真理先生の若いお弟子さんのひとり稲田クン)までゲットしちゃって、幸せを掴んじゃう。
何だか、絵に描いたようなハッピーエンドな物語なんだけど、とどのつまり物語の展開自体は重要なことでは無くって、そこに描かれて盛り込まれた”真理”が、あくまでも重要でしょう!
それでも実は真理先生、35歳までは奥さんがいて、愛想をつかされて逃げられていたりもしちゃう。
まさに、我が人生のバイブル的存在、時を経ても普遍の原理原則は、まさに”真理”と言えよう。


武者小路実篤自身も、その後の1955年(昭和30年)、70歳にして、その後の90年の生涯の余生20年間を過ごす、通称”仙川の家”(東京都調布市にあり、現在”武者小路実篤記念館”として一般公開中)に新居を構え、妻:安子と二人の隠居生活(?!)に入る。
自らが”真理先生”となり、”石かき先生”となり、”山谷先生”となる、真理たる生活?!

武者小路実篤記念館に展示された写真や作品や資料から溢れ出る豊な人間味に魅力を覚え、「友情」、「愛と死」に続いて堪能した。








有島武郎、波多野春房宛て”遺書”

波多野様
 この期になつて何事も申しません。誰がいゝのでも悪いのでもない。善につれ悪につれそれは運命が負ふべきものゝやうです。私達は運命に素直であつたばかりです。それにしても私達はあなたの痛苦を切感せずにはゐられません。あなたの受けらるゝ手傷が少しでも早く薄らぎ癒えん事を願上げます。私達の取りかはした手紙の断片は私達が如何にあなたを感じてゐたかを少しく語るかと思ひます。然し私達は遂に自然の大きな手で易々とかうまでさらはれてしまひました。今私達は深い心から凡ての人に同感します。現世的の負担を全く償ふ事なくて此地を去る私達をどうかお許し下さい。
 大正十二年六月八日夜 列車内


 〜『キッスキッスキッス』渡辺淳一著より抜粋


 大正時代の文人、生真面目な理想主義者 有島武郎 が、45歳にして既婚の美人女性編集者(波多野秋子)との縊死心中した際の”遺書”のうちの壱通で、心中相手の秋子の夫(有島武郎は、彼から姦通罪での提訴、金銭の要求などの脅迫を受けていたとの噂も・・・)に宛てたもの。

その遡ること二ヶ月前に「有島武郎 から 波多野秋子 への手紙」から想像される歴史的事実の背景。


どうしても、書き記しておきたかった、歴史的事実。

 合掌


キッスキッスキッス
著者: 渡辺 淳一
単行本: 371ページ
出版社: 小学館 (2002/09)






「キッスキッスキッス -渡辺淳一」読みました。5


キッスキッスキッス
著者: 渡辺 淳一
単行本: 371ページ
出版社: 小学館 (2002/09)




有島武郎「小さき者へ・生れ出ずる悩み」 読後録(ブログ)記述中の衝撃的発見(*1)により、急遽手にした。
歴史的事実を知るために、殆ど衝動的に!
何とも動物的(?!)ではあるが。

本作において著者 渡辺淳一は、私が知りたかった事実(*1)の他にも、明治・大正・昭和の時代の著名な文化人(?!、著者を含む)が発した19編のラブレター(恋文)と、その人間関係などの状況や背景をも含めた考察を加えられた解説が、エッセイ(?!)形式で綴られる。男と女の秘め事の数々と、その事実に基づく物語。
本当の”真実”は、その当事者以外には絶対に知り得ないから、当事者の殆どが不在である現在においては、何処までも根拠とされる事実に基づく想像でしか有り得ない。また一方で、その真実を、この期に及んで(相当以上の年数を経過して・・・)当事者に確認することに、意味を有しないであろうとも。
”手紙”という形に残る事実から、その人物が置かれた社会的立場から、生い立ちや経歴から、その人間関係から、著者の手により克明に描き出され、浮かび上がる物語。それは、その人物の人物史のひとつのパーツであり、人間の普遍の深層心理の分析・解明の作業でもあり、興味深い。

人間という生き物が、社会的地位の高い、世間的に冷静沈着な理論派と目される人物であっても、老若男女を問わずに、かくも衝動的で情熱的ある真実。
それでも、その衝動的と思われる行動や事実の殆ど(全てといっても過言ではない!)が、その状況が成せる技でもあり、ある意味ではその必然に導かれて、まるで川の流れの如く自然に引き起こされている現実をも見て取れる、その”宿命”の不可思議。


著者による考察が加えられた”ラブレター”は、

1.島村抱月 から 松井須磨子 への手紙
2.平塚らいてう から 奥村博 への手紙
3.竹久夢二 から 笠井彦乃 への手紙
4.柳原白蓮 から 宮崎龍介 への手紙
5.有島武郎 から 波多野秋子 への手紙
6.お滝 から シーボルト への手紙
7.高村光太郎 から 長沼智恵子 への手紙
8.与謝野晶子 から 与謝野鉄幹 への手紙
9.芥川龍之介 から 塚本文 への手紙
10.伊藤野枝 から 大杉栄 への手紙
11.佐藤春夫 から 谷崎千代 への手紙
12.谷崎潤一郎 から 根津松子 への手紙
13.吉屋信子 から 門馬千代 への手紙
14.太宰治 から 太田静子 への手紙
15.宮本百合子 から 宮本顕治 への手紙
16.山本五十六 から 河合千代子 への手紙
17.坂口安吾 から 矢田津世子 への手紙
18.私がもらったラヴレター
19.私が書いたラヴレター

いずれも興味深く愉しい(?!)歴史を超越した、真実の愛の物語。
フフフフフ・・・
ちなみに、タイトルは、トップバッター島村抱月の情熱的なラブレターより命名?!


(*1)
有島武郎は、大正時代の小説家。上流階級出身で、学習院卒業後に留学の経験も有り、西欧文学や西洋哲学の影響を受け、芸術にも造詣が深い。志賀直哉、武者小路実篤らと同人誌「白樺」に参加し、その中心人物の一人としても活躍。思想青年で、崇高な理想主義者で、生真面目。当然に、真っ当な(?!)婚姻の後に、三人の子宝に恵まれて、、、 それでも、妻は幼子を残して結核を患い、この世を去る。亡くなった妻を想い、残された幼子を想い、「小さき者へ」が創作される。著作に色濃く残る、理想と現実の苦悩、そして死。でもね、彼(有島武郎)は上流階級の出身だから、経済的な不安を一切感じさせない。子どもの養育の心配は一切無し。正直、羨ましい。それだからこそ、ある意味では、お金にならない(?!)文学に打ち込むことができたってこともあろうけれども。
そんな彼(有島武郎)が45歳にして、自らの”死”について、既婚の美人女性編集者(波多野秋子)との縊死による心中という方法を選択した衝撃の事実。
その歴史的事実の前に、ふたりの間に交わされた”手紙”と、そこから浮かび上がる物語。現存する当事者の手により書き記され、残された”手紙”だからこそ、時を経ても色褪せることなく、私たちに語り継がれる物語。
”手紙”の存在が有ったからこそ知り得た事実も、決して少なくないであろう。

彼の45年の人生を、生真面目な思想家で理想主義者として確立された社会的な地位と、何ひとつ不自由の無い経済力とを有した、ひとりの男を、そこまで衝動的な行動(自決)に駆り立てたモノは?
彼(心中だから彼らが正しいとは思いつつ・・・)を死に追い詰めた原因はひとつではないであろう。
彼自身の内なる問題もあったであろう。
世間的、社会的な立場や、その将来への不安もあったであろう。


自ら命を絶つことは、決して許される行為では無い、と私は考える。
しかし一方では、自らの性格に、衝動的な部分を自認しているが故の不安を捨て切れない側面をも否定できない、残念ながら。
そして、当事者にしか分かり得ない苦しみや悩みがあったのであろうから、一概に否定をすることもできない。また、否定してみたところで、私はあくまでも第三者でしか有り得ないし、また既に過去のものとなった事実に、その状況を理解し得ぬままに(当事者以外には知り得ない!)意見することに、強い違和感を感じるのでもある。

それでも、やはりどんな状況に苦境にあろうとも、自らの手により”死”を選択することを肯定することはできない。それが、特に私の身近な者であれば、なおのことである。
人間ひとりひとりは、ちっぽけで弱く儚い。それであるが故に、皆が互いに協力し理解し合って、支え合って、何とかこの世に生きている。当然に私もそのひとりであり、ひとりで生きてはいけないことを強く自負している。相当の年数(まだまだ未熟ではあるが・・・)の人生経験を経て、今まで散々世間に迷惑を掛けて、世間の世話になって、ここまでやっと生きてこれた、との想いが私にはある。であればこそ、どんなことがあろうとも、その分の恩義を果たす義務はあろうかと。それすら、自らのおごりであり、エゴであり、そして自己満足でしかない、とも自認をしつつ。
誰もが衝動的な部分を自らの内に有し、常に大なり小なり何らかの問題を抱えている圧倒的な現実、それも真実。


事実は小説より奇なり!?
人間の普遍の真理の側面の一部を垣間見ることができた貴重な経験。
それでも、ますます深まる混迷。








「これでもけっこう幸せだ。」読みました。5


これでもけっこう幸せだ。
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書評/ルポルタージュ



”障害をもっていることは、たしかに大変なことである。 しかしたんにそれが不幸なのではない。 理解されないことが苦しいのだ。
だれもがみんな、輝く命の持ち主なのだということをわかってほしい。
理解の輪が広がることを心より願って。”



深く考えさせられる。
参加させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本でなかったのであれば、私の視点は一点のみに絞られる。 自らの心の痛い部分についてのみの記述となったであろう。 しかしそれが故(?!)に、自らに広い視点を課す。

著者は、自閉症児を抱える母親であり、ひとりの人間である。 幾多の困難を乗り越え、そして与えられた限られた残された僅かな時間を、その一瞬一瞬を必死に、いまを生きている、現在進行形。
著者も一人の人間であるが故に、自らの存在の意義や、その幸せを、”婚姻”や”子育て”に期待を抱く。 旧い風習が色濃く残るであろう徳島県に生まれ育ち、田舎の農家の長男に嫁いだとなれば、その親戚関係や家系や血筋などの煩わしいとすら思える人間関係にも、強く拘束されることが容易に想像できる。 父(義父)が家長であり、絶対的な権力者であり、その主君に叛くことなく、服従を誓うことによって保たれる家族のバランス。 むしろ失われて久しい、人間本来の有り方でもあるかもしれないので、一方的な否定はできない。 そのひとつとして、義父からの溺愛と相互理解が、子どもの間に確立されていた事実。
一方では、自らの意思を持つこと、考察すること、表現することを放棄する、そういう意味では、大人に成り切れていない、そして絶対的な父性に強いコンプレックスを抱く夫。 そのコンプレックスが故に、弱者(妻である著者や子供)に対して、その心の歪みや葛藤から、自分本位に振舞ってしまう、ある意味では、可愛そうな夫。 しかも、肝心なときに、愛する者に手を差し伸べることも、言葉を掛けることすらできない、現実に背を向けてしまう、不甲斐ない夫。 逃げるなんて卑怯だ!、などと当然に思う訳ではあるが、それでもそれすら、悲哀に満ちた現実、そして宿命?!

また、人間が生きていくうえでは、周囲の理解や協力が絶対的に必要であろう。
それでも、時に周囲の無理解や無神経に、深く傷付けられる現実。
一歳半の検診で医者の口から不用意に漏れた「ああ、いま自閉症の子どもさんを診てるから」・・・ 受話器を手にした医師のその言葉で、愛する我が子が自閉症であることを知ることとなる。 有り得ない(怒)!、それでも、それすらも医療現場の圧倒的な現実なのであろう。

そして、無責任な物言いを承知で記述させていただくと、現実的な社会生活において、自閉症者の特異な行動は、時に私たちの平穏(?!)な生活をも脅かす。
映画化もされた「モーツァルトとクジラ」にみられる、高機能自閉症(アスペルガー症候群)の天才的な能力に、驚かされることもあろうが、実際的な日常生活における電車の中や街中で時折見受ける障害者(この表現でいいのか不安ではあるが・・・)の、行動を私たちは予測し得ない。 自らの身に、何らかの害(?!)が及ばぬことのみを本気で願って、素知らぬ顔をして、距離を置く現実。
その予測不可能な、理解を超えた行動の全てを、自らの保護責任において見守ることの困難は、想像に難くない。 多動であれば尚更であり、常に抱いたり背負ったり、手をつないでいる訳にもいかないであろうし、人間の目は前向きに二つしかないし、体力にも限度がある。

ところで、最近では、身体(脳)機能に障害を有する方々への配慮としてであろうか、「しょうがい」や「障がい」と平仮名表記や、「障碍」と表記されたものを目にする。
意識としての表れではあろうし、その意識が時に大切なのであろうが、お役所的体質が見られ、戸惑いを感じる。 それでも、ひとつひとつの意識や行動からしか変わり得ないことも事実、言葉でしかないけれど、それでも言葉の有する力は小さくない。
また、法制度は、良くも悪くも実体主義で理論的。 離婚後の親権争いでは、当然に養育に伴う金銭的な経済的な要件が優先されてしまう現実。 どうしたって、法律に完璧を求める訳にはいかないけれど、それを運用する人間(役人)の人間性すら不確実な世の中。 現場を知らない高級官僚が、利益優先の企業体や、その企業体の顔色を伺う政治家たちの私利私欲にまみれた法律を定める側面もあろう。 規制緩和の旗印の下に、弱者保護の法律が改悪されている現状には、怒りすら感じる現実。

そしてまた、障害者(著作内での表記にあわせて)と、いわゆる健常者(?!)との境界線についても考えさせられる。
何をもっての”健常”であろうか?!
ある意味では、私も自らの性格的な人間的な問題を内に抱え、精神的に病んでいる部分を有していると自認している。 最も懸念すべきは、自らの本能や欲求や意思に基づく自然な行動を取ることができないことであろう、とも。 それが故に、その不自然ではあるものの、自律(?!)が働くからこそ、無難(?!、そればかりが良いとは到底思えないが・・・)に社会生活が送れている現実もあろうが。
人間の本来有する本能や欲求に、何処までも素直に正直な行動を取る彼ら(自閉症者ら)を、異質なものと捉えること自体に、おごりやエゴを感じる側面も否定できない。

さて、”自閉症”についてであるが、先天性の脳機能障害によるとされており、多くの遺伝的因子が関与すると考えられているが、いまだに原因も予防策も確立されていない。 日本では、1000人に1〜2人の割合で生じており、社団法人日本自閉症協会によると現在日本国内に推定36万人、知的障害や言語障害を伴わない高機能自閉症など含めると120万人いるといわれ、現段階では増加傾向にあることだけがはっきりしている。(Wikipediaより)
増加傾向にあり、予防策が無いという現実を捉えるに、これは確率の問題でも有り、1000分の1〜2という低い確率ではあるが、それでも決してゼロではない。 誰しもが、少なからず可能性を有している、他人事ではない現実。


現在、養護学校小学部卒業までの期限付きでの、愛する我が子との二人だけの生活を送る著者。 離婚によって経済的にも体力的にも負担は増えたであろうが、それでも失われるもの以上に、自らが得られるものが小さくない、その生活。
決して『勝ち組』には成り得ないけれど、経済的な面での得られるものは少ないかもしれないけれど、精神的な面での失わないものは決して小さくない。 本当に失いたくない大切なものを失わないためには、本当の自分自身の人生を自らが自らの意思をもって歩むためには、得られないことを怖れることなく、本質を見失わない信念こそが必要なのであろう。
何が”幸せ”なのか、何をもって”幸せ”とするのか?!
誰もがみんな、それぞれに輝く生命の持ち主であり、それぞれの”幸せ”を手にする権利を有している。 それぞれの”幸せ”の形は、それぞれ異なるものであり、また、その”幸せ”は決して誰かから与えられるものではない。 そしてまた、ある意味では、自らの心の有り様でもあろうし、自らの心の有り方次第でもあろう。
金銭的経済的な欲求の満足が、決して”幸せ”をもたらすとは思えない、”幸せ”の本質・・・


とどのつまり、「これでもけっこう・・・」というのが、著者の本音でもあろう。
受容れざるを得ない圧倒的な現実を、突き詰めて突き詰めて考え、その現実のいまを生きるうえでの、まさに漏れ出るが如き”生の声”。
それでも、与えられた宿命を、それすら自らのものとして真正面から受容れて、その意義や必然に導かれた末に得られたであろう、「これでもけっこう」な”幸せ”。


どうか、神様のご加護がありますように・・・
 〜 May the grace of God be with you.








「小さき者へ・生れ出ずる悩み -有島武郎」読みました。5


小さき者へ・生れ出ずる悩み
著者: 有島武郎
文庫: 141ページ
出版社: 岩波書店; 改版版 (2004/8/19)




君は思わず「親父にも兄貴にもすまない」といってしまったのだ。

君よ春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微笑めよかし・・・ 僕はただそう心から祈る。

  〜「生れ出ずる悩み」本文より抜粋〜


「小さき者へ」(大正7年1月)
「生れ出ずる悩み」(大正7年3月-9月)
いずれの二編も、色濃い”死”が漂う。
とにかく重く暗い心持ちを抱き続けて読み進めることとなる。 耐え切れない苦痛である一方で、それを自らの内に否定できない現実、物語の辿りつく行く末に抱かれる興味。
著者 有島武郎(1878-1923)の自らの苦悩が、ありのままに脈々と搾り出され刻み込まれ綴られる。

武者小路実篤記念館の企画展『白樺とロダン』に触れ、氏の存在を知った。
正直なところ、「白樺」への興味は、大正期の個性主義・自由主義といわれる文学作品に対するものよりも、欧州の芸術作品(絵画や彫刻など)への深い造詣に対するものが発端ではあるが・・・
それでも、この必然とは誠に妙なものである。


結核による妻の死を受け、著者が残された三人の幼子に宛てた「小さき者へ」。
自らの我儘や無理解、癇癪、思想の未熟さ頑固さを、包み隠すことなく、全てを曝け出す。

絵画の才能を有しながら、家庭の事情のために極寒の北海道の海で漁に勤しむ青年(木田金次郎)の、その生活や想いの想像(殆ど妄想の域!?)の物語「生れ出ずる悩み」。
漁師の青年は、絵画への想い、漁師の仕事、家庭の事情などの、自らに与えられた状況に苦悩の日々を送り、自らの命を自らの意思で絶つ決意を固める場面がある。 北海道の凍てつく黒い海に、崖からの身投げを企む。
物語においては、我に返り”生きる”選択をする。
私は、著者が”生きる”ことを選択したと信じた。

解説などにおいて知ることとなったのであるが、
著者は、自らの”死”について、縊死心中という方法を選択した。


人間とは、かくも不思議な生き物である。
私は、とある文章に触れるまで、
「彼は自らの存在に苦悩して、苦悶の末に自決をした!」
と物語を勝手に終結させていた。
真実は違った。
ある意味では、その生真面目さ故の自決であることに相違無いのであるが、そこに”愛”が存在していた!、しかもそれが世間的に許されざる”愛”であった!、となると、展開は必然的に異なる側面を浮かび上がらせる。
Wikipediaからのリンクにて知った、
『有島武郎から波多野秋子への手紙 -”キッス キッス キッス”渡辺淳一著』

激しい混乱と脱力感に襲われる。
言葉を失う。


しかし、”愛”こそが、”死”をも選択し得る”悩み”の最たるものなのかもしれない現実・・・








「子どもの隣り -灰谷健次郎」読みました。5


子どもの隣り
著者: 灰谷健次郎
文庫: 191ページ
出版社: 角川書店 (1998/04)




「やっぱり夫婦は赤の他人か」
「ママが死んだとき、パパはかなしかった?」

  〜本文より抜粋〜


言葉が、只の文字の列(?!)が、これほどの痛みを有して心に突き刺さるこの驚き、それでも心地好い、灰谷健次郎の魅力。
何処までも自然に、何も飾ることも隠すこと無く、全てが曝け出される。
人間が深層の部分に有して、恥ずかしい、カッコ悪いから、表に出すことなく隠している本質の部分を、だからこそ敢えて、時に純真無垢な子どもの姿を借りて、残酷なまでにストレートな言葉によってに放たれる真理。 人間がいかにちっぽっけで、どうしようもない存在であるのか、激しく思い知らされる。 正直辛い。 時に込み上げる涙。

「わたしの出会った子どもたち」、「兎の眼」に続いて、久し振りに手にすることとなった訳ではあるが、、、
先週目にした時には、手にすることがなかった。 手にしたくなかった。 手にすることが怖かった。 私が壊れてしまいそうな気がしたから? 受容れる態勢になかった?
それでもやはり気になっていたのであろう。 手にしてしまった。 ある意味、その必然があるのであろう。 心の準備を整える。
そう、準備が必要なのである。
それ位、衝撃は激しく、体力も精神も消耗する。

今、私の頭には、本多孝好の『正義のミカタ 〜I'maloser〜』が渦巻いている。
世の中的に見ると、『loser』、俗に言う、『負け馬』(⇔gainer)に分類されるのかもしれない。 まぁ、俗に言う必要も、分類する必要も無く、比較するものでも無い、絶対的に揺るぎ無い信念であり、普遍の真理でもあろうが・・・

そんなことを考えつつ、
物語では、病に臥し、病院に入院する場面が描かれる。
「病いは、「死」に至る経過点のひとつとしても位置付けされるのであろうか。 そしてまた、目前に迫る「死」の恐怖に、人間の本質も垣間見ることができる?!

私は、入院中の恩師を見舞う。
私が見舞う必要とその意義に、頭を悩ます。
見舞うというひとつの行為に垣間見える物事。
「死顔」の吉村昭は、見舞われる者の負担に触れている。 患者は入院の必要に迫られ、ある意味では弱っている。 その弱っている姿を見られたくないという思いもあるであろう。 弱った、ある意味では恥ずかしい姿を見せたくないとの思いから、無理をして健気に振舞い、体力を消耗することもあろう。 患者に家族がいれば、家族の想いも負担もあろう。
それでも、そこまで理解したうえで見舞う意義と、その必要と。
私の”自己満足”になっていないのか?
悩みは尽きない。
何よりも患者本人、その家族の痛み、辛さは、当事者にしか分かり得ない。
何もできないもどかしさ。
それすらも”おごり”ではあるまいか?

私という存在自体すら、深く考えさせられる。








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