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〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年06月

「帽子 -吉村昭」読みました。5


帽子
著者: 吉村昭
文庫: 265ページ
出版社: 中央公論新社 (2003/09)




私にとっての吉村昭は、遺作「死顔」であり、その死生観、生き様に感じることがあって、好んでこの短篇小説集を手にした。

1978年に刊行された、全九篇の短篇集。
約30年の歳月の経過に、どうしたっても旧さは否めないが、それでも人間という生き物の普遍の真理。歳月を経ても、決して色褪せることなく、渋い輝きを放つ。ピッカピカの、キラキラではないけれど、深く深く心に沁み込む。私如きの陳腐な言葉で表現することが憚れるほどに・・・

短篇小説に綴られる想いは、短い文章の中に色濃く集約される。あえて多くを語らないが故に、重みを増す言葉たち。一切の無駄が排除され、伝えたい情報のみが、研ぎ澄まされて織り込まれるだけに、読み手の私も、息つく暇も無く物語に入り込み、それでも、突き放されるが如く、物語に終わりが訪れる。突然に訪れた終わりに呆然とする暇も無く、後から押し寄せる幾重もの想い。余韻というには、余りにも重い。その重さが、この物語の本質であろう。


吉村昭の晩年のエッセイなどに綴られた、氏の”哲学”が随所に漂う。
死であり、病気、男と女の愛であり、夫婦、夫婦の愛と、夫婦として契りを交わしたにも拘らず犯される男女の過ち。人間が、過ちを犯す生き物である現実があったとしたって、過ちが赦されることは、決して有り得ない。赦されることが有り得ないだけに、ことさら社会的責任を有している人間であれば、その配慮を怠ることが許されない。それでも、どれだけの配慮をしたところで、遺す傷は小さく無いけれど、傷が小さくないのは、法的効力(婚姻関係)とは全くの関係は無い。とするならば、婚姻関係とは、何であろう?










解説の和田宏(編集者)、
”短篇小説というものは、人生のある一瞬の情景を捉えて人間の普遍的な何事かを表現する企てといっていい。”

「「わからない」という方法 -橋本治」読みました。5


「わからない」という方法
著者: 橋本治
新書: 252ページ
出版社: 集英社 (2001/04)




ふと気が付いた!
橋本治のデビュー作「桃尻娘」を読んでない。

私の今現在の年齢と、置かれている状況、積み重ねてきた経験と、その必然に、「私には読む必要があった」のであり、
読んで好かった♪


多作の橋本治の著作は、幅広いジャンルに数限りない。
氏の天性の才能による部分であることに、絶対的に間違いは無い。彼には才能がある。
それでも、その才能が、世間一般に解されるものとは異なる。
世間一般と異なるから、その違和感から話題性を呼ぶ。それでも、話題性は流行でもあり、流行は歳月と共に廃れて、世間から忘れ去られる。歳月を経ても、世間から抹殺されることなく存在し続ける、存続することが実力であり、才能であろう。時に、運に左右されることもあろうが、世間の荒波を乗り切る実力がなければ、この世の中に存在することが困難な、厳しい現実がある。

橋本治は、”地を這う方法”をストイックに遣り続けることによって、その才能に磨きを掛けて確立させる。ストイックに、カッコ好さは無い、ハッキリ言ってしまえば、カッコ悪い、まさに、地を這う、だから。
その前提に立つのが、”わからない”、という、現状の認識。
”わかる”の対極に位置して、一般的には恥ずべき”わからない”という現状を認識して、受け容れること。既に、”わからない”が、絶対的に受け容れ難い状況だから、簡単に誰でもできる方法ではない。どちらかと言えば、殆どの人ができない方法であろう。
私も、その方法を貫徹する自信は無い。

橋本治の「わからない」という方法は、橋本治の方法でしかなく、唯一無二である。
だから、やっぱり「わからない」なのである。










一方で、橋本治は時に「天を行く方法」を使う。ある意味では、天才的な感性と、地を這う努力との、両極端の方法を使う。使いこなすのも才能。

それは、
”「ドラマとは、人生の局面を切り取ったパターン認識であり、ドラマとはいくつかの定形とヴァリエーションである」ということを、私は明確に認識している。”
であり、
”作家として必要なのは、そのウソがどこまで現実とシンクロするかということだけである。だからこそ、「現実ってどうなってるの?」というリサーチは必要になる。”

「ルオーとグロテスク -汐留ミュージアム」行きました。5

ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault, 1871-1958)は、野獣派に分類される19世紀〜20世紀期のフランスの画家。それでも、ルオー本人はフォーヴィスム(野獣派)の「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。 〜Wikipediaより

日本における、ジョルジュ・ルオーの専門美術館と位置付けられる、東京・新橋(汐留)にある「松下電工 汐留ミュージアム」。
5月26日(土)〜8月19日(日)に開催されている企画展『ルオーとグロテスク』。

物語好きの私には堪らない企画展。
だって、
”戦時下の地下室で生まれた自らを「カタコンベの画家」と呼んだルオー”
が、
”一般に奇怪、異様、不気味といった否定的なニュアンスで語られることの多いグロテスク”
な訳だから、溢れる幸せ、豊かさとは、対極の存在。深く暗い歪みを有する。
それは、ある意味では人間の、人間であれば誰もがその心の内に有する本質的な感情。誰もが必ず有しているにもかかわらず、一般的には表出することを恥じる感情。恥じるからこそ、隠したがり、隠したがるから不自然な行動を伴い、不自然な行動は小さく無い歪みを生み出す。その歪みを、さらに隠すために、さらに不自然な歪みを積み重ねる。時にその様相は、圧倒的に不条理な世の中の様相と相まって、滑稽さすら垣間見せる。それでも当事者本人は、自らのことに必死だから、周囲への配慮の余裕など欠片も無い。
それは、神と崇められる”キリスト”であっても、権力者として民衆を支配する傲慢な”裁判官”であっても、一方では、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる経済的には貧しい労働者たちであっても、その表面的な、階級に表出されるほどの差異が無かったりする。だって、みんな同じ人間だから。
それでも、現実的には、それぞれは絶対的に異なる存在であり、決して相容れることは有り得ない。そこには、圧倒的に確立された階級社会があり、その階級社会を構成する階級が、存在するに至る必然があり、その階級によって保たれるバランスがあり、その階級社会を保つために生み出される歪みの存在まで、その裏側の裏側の裏側まで、深い深い深い宿命の連鎖の呪縛みたいなものまで絡まり合い、どうにもこうにも。

解説によると、
”グロテスクの正体である「滑稽と恐怖」、「善と悪」、「美と醜」、「聖と俗」の感情の造形化”
とあり、
”「色、形、ハーモニー」の実体”
なのであり、その深い部分に垣間見える、
”最初は隣人を、最後には自分自身をそこに発見し、私たちは愕然とします。”


7月9日(月)に、作品の展示替えが行われるらしい。


ルオーとグロテスク 表ルオーとグロテスク 裏

















「フランクザッパ・ア・ラ・モード -野中柊」読みました。5


フランクザッパ・ア・ラ・モード
著者: 野中柊
単行本: 217ページ
出版社: 筑摩書房 (1999/12)




「嫌いじゃない」
と言ってみて、
村上春樹であれば、「悪くない」だろう、
とか、橋本治だったら、「分からない」かも、、、
などと考える。
要するに、
「好かった!」
なのであるが、どうして人間という生き物は、こうも素直になれないものであろう。好いのか、悪いのか、どちらかしかないのに。それでも、その曖昧さが好さでもあり、曖昧が存在するからこそ、この世の中は上手く廻っていく。

最近の興味津津、野中柊。とはいうものの、直近のストイックな物語が好きなのであって、実は、デビュー作「ヨモギ・アイス(文庫本)」に、そのストイックさの片鱗は見受けられたものの、私が強く求めていた、大きく期待していたものとの、ギャップに、小さからず衝撃を受けて、違和感を感じて、だからこそ、「もっと知りたい!」となって、手にした。
動機に、ある部分では不純な、作為的な側面を有するものの、本の愉しみ方に絶対的なルールや禁止事項は無い訳で、広く世間に公開(出版)し、著者がその対価を得ている時点で、ある意味では著者の手を完全に離れ、世間の荒波に晒される宿命を、決して逃れることはできない。故に、著者の裏側の探索の目的で、私は手にした。あ〜、何とも、驕った考えでおこがましい、何様のつもりでしょうか?!、と思いつつも、それが私である以上、そう考えてしまった以上、それを恥ずかしがって、そして隠したとしても、その隠すこと自体が、すでに嘘臭く、それであるならば、それが私という人間の本質であり、変わり得ないものである以上、明らかにしてしまった方が、実はよっぽど私らしい、のでもあろう。


物語は、動物たちが登場して、人間は誰ひとり登場することが無くって、既にそこで、妄想に溢れた非現実的な世界の出来事でしかないのであるが、それは、この物語における表面的な表現方法でしか無く、私としては目的が目的であるだけに、物語の設定などは、どうでもいい(?!)のであるが、とにかく軽快なテンポで展開される奇想天外な、それでいて何処か日常的な物語。
舞台は、アメリカ、フランクザッパ・ストリート。この街で一軒しかないダイナー(食堂)。
素敵な料理は勿論、アイスクリームやスイーツたちが自慢のお店に、多くの仲間たちが集まって、日常的に繰り広げられるドタバタ劇。
登場人物を、あえて人間ではなく、動物たちに設定することによって、誰憚ること無く、自由に物語を展開できる利点があろう。動物たちではありながらも、人間と同じように恋愛をして、子供を出産して、クリスマスを、サンタクロースと祝う。
物語は、これくらいにハチャメチャであって好い。だって、物語だから。あくまでも、著者の妄想の世界の書き記しだから。文学的要素が盛り込まれていて、受け容れる読者が一定数以上存在していれば。受け容れる読者が一定数以上存在していないと、それは出版社からの依頼が無くなり、結果的にその存在が抹殺されてしまう。とっても現実的な甘くない世界。夢や妄想だけでは、飯は喰えない。


この本のタイトルにも織り込まれる、フランク・ザッパ(Frank Zappa, 1940-1993)は、アメリカ合衆国の男性音楽家(ロック、ジャズ・フュージョン、現代音楽)らしい。疎い私は、当然に知り得ない。
愉しい物語は、当然に”野中柊ワールド”な訳だから、フランクザッパのみならず、音楽家たちの名前が、多数登場する。多趣味な、豊かな知識を有する、博学なお方と、私の妄想は果てしなく膨らむ。

そして、人気モデルのパンダのワイワイが、サンタクロースに手紙を宛てる、
”「サンタさん、あなたは素晴らしい人ですね。
皆にとてもやさしいんだもの。
でも、そんなあなたたちにちゃんとやさしくしてくれるひとはいるのかしら?
クリスマスに誰があなたの靴下にプレゼントを入れてくれるの?
僕はいつもそのことが気になってならないのです。
何か欲しいものがあったら、サンタさん、ぜひ僕にリクエストしてください。
僕はまだ子供だから大した経済力はないけれど、できるだけのことはします。
    ワイワイより」”

で、10余念の歳月の文通を経て、サンタクロースから、クリスマスプレゼントの準備と配達を頼まれちゃう。

また、歯をへし折っちゃっても、
”「悪気はなかったのよ・・・ と言いたいところだけれど、どうかしらね? まあ、結局のところ、こっちに悪気があろうがなかろうが、あなたは痛い目をみた。その事実に変わりはないのよね。悪気がなければ何をしても許されるなんて甘ったれた考えを、私は持ち合わせちゃいなから、こうして誤っているわけだけど、だからと言って、謝れば何でも許されると思っているわけでもないの。ま。礼儀として一応謝ってみせてはいるけどね。」”

やっぱり好い!!、のである。









「回り灯篭 -吉村昭」読みました。5


回り灯篭
著者: 吉村昭
単行本: 216ページ
出版社: 筑摩書房 (2006/12)




2006年7月、79年の生涯を全うした”吉村昭”、最後のエッセイ集。

巻末の、同年代の小説家”城山三郎”との対談が、また別の角度から”吉村昭”が浮かび上がる。
生真面目さ、ストイックさ、潔さを、私は好む。
対談では、”流儀”について、それぞれの想いを語る。人間としての、在り方であり、生き方であり、自らの哲学というか、こだわり。長い人生の経験を積み重ねた者だからこそ、その自らの足で、目で、肌で、体で実感として経験したからこそ、語られる言葉。
とどのつまりは、
”余計なことに苦労したくないね。”(城山三郎)
であり、
”一つのことだけやっているほうがいいね”(吉村昭)
であり、それは、
”・・・ なんでもやったほうが、可能性も才能も全部生きるみたいなことを言う。どうもその考えにはついていけないね。人間の能力には限界があるからね。 ・・・”(城山三郎)
であり、だから、
”・・・ 僕は雑事を一切しないんですよ。講演もやらない、ゴルフもしない、運動もしない。冠婚葬祭もなるべく出ないね。”(吉村昭)
となる。
この部分だけを切り取ってしまうと、何だかグウタラな人間の戯言の様にも聞こえなくも無いが、それでも、とどのつまりは、そうなのであろう。長い人生経験を積み重ねてきて、しかも、文筆業者であるが故に、文章を書き記すことによって、一般の人々よりも、数多くの経験を得ることができ、文章に書き記すために、より深く掘り下げた考察を加えることを、常としてきた者の、その生の言葉であるから、間違いは無い。
それでもそれは、最初から見出されていた”考え方”では無く、時に余計なことをして、苦労を重ねて、限界を感じさせないほどに駆け廻った、その自らの経験の結果でしかなく、若い(?!、経験の浅い)私は、それを認識するものの、決して、自堕落な方向に流されることを許してはいけない。散々に余計なことをしまくって、滅茶苦茶に苦労をしまくって、そんなことが無駄なことだって、頭では分かっていたとしたって、若い私は、それを避けることをしたくない。
そしてまた、”流儀”とは、人それぞれであり、個人個人が個別の異なる人格を有するように、他人と完全に一致することは有り得ない。


今回、”吉村昭”を手にするキッカケは、実は、季節の花”紫陽花”にある。
日常の何気ない風景や景色をカメラに収めて、ピクス(写真のブログ)にいるうちに、気が付いたら、季節ごとに美しい姿を愉しませてくれる花たちに、私は心を惹かれていた。花は生き物であり、旬がある。その美しい姿も、時を違えて眺めると、また陽射しや光の加減ひとつとってみても、全く同じ表情を見せることが無い。瞬間毎にその表情を変え、それはそれで私を愉しませてくれる。
そして今は、”紫陽花”が旬である。旬の花たちは美しい。そして、その美しい姿を、より美しい表情で、絶好の瞬間を切り取りたい。目に焼き付けて、記憶に遺したい。
そんな想いでアップした、ピクスでの”紫陽花”談義において、渡辺淳一「キッスキッスキッス」に、旧く鎖国時代の長崎に渡来した”シーボルト”が”紫陽花”に惹かれ、植物図と解読を発表し、その中で特に花の大きい一品種に、愛人の名前「お滝」をとって「オタクサ」と名付けた逸話を想い出し、調べを続けると、吉村昭に『ふぉん・しいほるとの娘 (吉川英治賞文学賞 1979)』なる著作があり、大いに興味を抱いた。大作の様相であり、歴史に疎く、軽い拒否反応をも有する私にとっては、手にする勇気が無かった。それでも、吉村昭に触れたかった。
そして、吉村昭を、この著作を、手にして好かった。

合掌









「蝶のゆくえ -橋本治」読みました。5


蝶のゆくえ
著者: 橋本治
単行本: 251ページ
出版社: 集英社 (2004/11)




集英社主催の文学賞、第18回柴田錬三郎賞の、全六篇の短篇小説集。

橋本治、私が本を読み、書き記す、一連の作業の原動力。手にする度に得られる新たな認識は、奥が深過ぎて、よく分からない! よく分からないからこそ、知りたい衝動に駆られる。衝動に駆られて、気が付くと何時の間にか、手にしている。手にして、得られる満足。
氏の著作は、一見すると、世間一般では、往々にして嫌悪されることを、何も憚ることなく、明け透けに、そしてクドクドと書き記す。いきなり、馴れ馴れしい語り口で、至近距離に近付いてきたかと思わせておいて、突然に突き放される。明快すぎる理論構成が、時に大きなお世話になる。
私が思うに”橋本治”は、優しすぎる。優しすぎて、その親切心から、過剰に読者に対して分かり易く説明をしてしまう。分かり易い説明というのが、それはそれで困難であって、読者のレベルが一定ではない状況における、分かり易さ、なのであるから、何処に基準を設けるか、という問題に突き当たり、多くの作家は、当然に一定レベル以上の優秀な読者を対象として書き記すのであろうが、親切で優しい”橋本治”は、そのレベルを極限まで下げる。だって、少年漫画雑誌の読者に対して、17歳の読者を想定した著作「貧乏は正しい!」などを書き記してしまう作家だから。難しいことを難しく語ることは、それはそれで素晴らしいことではあるのだが、難しいことを、分かり易く解説してくれる”橋本治”の存在意義。
ところが熱く語る内容は、本来難しい内容で、とっても大切な内容だったりする訳だから、短く簡単にまとめて、という訳にはいかない。それなりの内容を解説するには、それなりの理解を得るために必要とされる、それなりの説明が必要であり、様々な角度から、時に具体的な事例を用いての解説は、当然に長くなる。その長い文章すら読み込めない輩には、流石の”橋本治”も、お手上げということになるのであろうが、それは仕方が無いことで、この世に100%は有り得ない。
しかし一方では、その親切と優しさが、果たして、「著作を手にした読者を想って」、であるのかと言われると、単純にそうとも思えず、読者であり、若者であり、将来を担う者たちに対する想いもあろうが、やっぱり、最終的には、自分自身のためでしか無い。そんなことは、絶対的に当たり前のことであり、自らが満たされることが、自分以外の第三者である”他人”を思い遣るための絶対条件である。だからこそ、”橋本治”は、生真面目に、ストイックなまでに、著作を書き記すのであろう。自らがこの世に存在する意義。
ゲイだと噂され、独身を貫く”橋本治”は、頭が良すぎちゃって、この世の不条理を理解しすぎちゃって、自らの存在を持て余し(?!)、豊富な知識と、明晰な頭脳を、活かすために、自らに課せられた意義を、言葉に乗せて伝達すること、著述業(作家)に見出した。生真面目に、ストイックなまでに、邁進する姿に、痛々しさすら感じてしまうのは、きっと気のせいではない。


小説と言う文学作品に、これまでに類を見ない表現方法であったとしても、文学としての、人間の心の揺れ動く様を、ここまで見事に書き表したのであれば、それは当然に文学賞の対象とも成り得る訳で、やっぱりこの小説であり、この小説を書き記した”橋本治”は、素晴らしいのである。


物語は、児童虐待によって、幼い我が子の命が失われるまでの、母親とその背景、人間関係、その母親の生き様まで遡って描かれる人間模様。とっても哀しいけれど、結果的に我が子の尊い命を、自らの手で絶ってしまった母親の、その必然の物語すら、ある意味では深く納得させられてしまう、その展開の妙、『フランダースの犬』。
『金魚』を欲しがる娘の成長に、たったそれだけの変化に、母親が感じる感情は、不思議と歳月を超越しちゃって、夫と夫の両親と、その親の代まで想いは馳せ、階級社会であり、仕事観であり、人生観にまで及び、そして何故か、姑から打ち明けられちゃう爆弾発言
「自分一人が孤独だなんて、思わない方がいいわよ」
なのである。

老いも若きも、それぞれに、それぞれが自らの心の内に抱える想い。









「夜愁(下) -サラ・ウォーターズ」読みました。5


夜愁(下)
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書評/ミステリ・サスペンス



歳月に積み重ねられ、歳月によって解き明かされる物語は、決して痛快で明快な物語では無く、まるで夜の愁いを帯びているかのように重く垂れ込め、それでも、そこに積み重ねられた物語に、その想いに、烈しい苦しみを伴う痛みに、だからこそ得られる満足感。
なるほど、名誉あるイギリスの文学賞「ブッカー賞」最終候補に挙げられるのも頷ける秀作。
物語好きには、絶対的にお薦めです。
以下、気が付くと、ついついネタばれしちゃっていますので、ご容赦ください。


物語の舞台は、第二次世界大戦の爪痕が色濃く残る1947年のロンドンから。とにかく、戦争の後の時代背景も相まって、どんよりと全てが重く、全てが暗い。読んでいても心が沈む。正直、読むのが辛い、愉しくない。それでも、そんなことは、読書好きの人間なら誰でも知っている通り(私はついつい忘れてしまう…)、この状況の、背景の、人間関係の、構成する過去の出来事や記憶の描写が、実は物語における最も重要な要素であり、このちっとも愉しいと思わせない、淡々と綴られる状況などを理解することなく、その後の物語を愉しむことはできない。
ところがこの物語は、どこまで進んでも、暗く愁いを帯びた状況が続く。それは、戦争によるものであり、それぞれの登場人物が自らの内に抱える苦悩に満ちた現実であり、烈しい痛みを伴う過去の出来事であり。だから物語は、それが”ミステリー”とジャンル分けされる要因でもあろうが、その現在の状況に至る、人格をも構成し得る出来事を、歳月を遡ることによって、その謎(事実)が明かされる。
烈しい戦争の最中の1944年であり、1941年であり。戦争によって破壊される街、建物、失われる大切な命。自らの意思とは、全く無関係に繰り広げられる、非現実的な破壊行為、常に自らの身近に横たわる”死”。
それは、消防隊員として救急車を操り、破壊された街を駆け抜け、死傷者の救出に駆け付ける、ケイであり、ミッキーの心に与える心の傷であり、その精神的な負担は、想像に難くない。そして、自らが、その命を賭けて駆け付けたとしても、すでに破壊された惨状を前に、自らのできることの微力さ、無力感。
そして、消防隊員としての使命に駆られる彼女たちだからこそ抱く”騎士道精神”。貴婦人への献身であり、奉仕を旨として、異性を愛することに違和感を感じ、同姓である女性との関係の中に、自らの心の安らぎを求め、体の関係をも満たされる。その騎士道精神を抱くに至る過去の出来事までは明らかにされることは無いが、先天性のものであろうと、後天性のものに因ろうが、理由の如何を問わず、”そういうものなんだ!”なのであろう。そのケイであり、美しい作家、ジュリアであり、その二人の女性の間に揺れ動くヘレン。三人の女性の間に蠢く、美しく、哀しく、切ない愛情は、それでも、どんなに深く結ばれても、決して何処かに解消し切れないもどかしさを秘めていて、それは、世間体であり、認知されない不毛な愛情(同性愛)であり、誰憚ることなく婚姻関係を結ぶことが許されない法的な問題であり、そして、子孫を遺すという女性固有の生殖機能を活かすことができない現実をも、垣間見せる。
親友の自殺によって囚人とされた、ダンカンも、男性でありながら、同姓の男性との関係を噂され、それを否定しない。ダンカンの、優しく美しい姉、ヴィヴに対する愛情は、母性愛をも感じさせる。そして、暗く冷たく閉ざされた刑務所の中で、烈しい空襲に、時に囚人同士や看守らとの関係に怯えて、ただただ過ぎ行く歳月。
ところが、唯一、異性との愛情を育むヴィヴにしたって、実はそのお相手は、妻子のある軍人で、所謂”不倫”であったりする。弟(ダンカン)想いで、家族想いで、優しく美しい女性であるにもかかわらず、何故に好き好んで、草臥れた妻子ある軍人なんぞに!?、と思う無かれ、そこにも彼女をそこに至らせるだけの運命の悪戯があり、家族想いの、人の痛みを感じることができる、優しい女性であるが故(?!)の、宿命もあったりする。
そんな心優しいヴィヴが、異性との愛情を育むが故に、愛情の当然の結果としての自然な行為に勤しむが故に、許されざる生命体を宿してしまい、烈しい苦悩の末に、もぐりの歯科医の堕胎手術を受ける。手術の行為自体も、社会的にも法的にも許される行為ではなく、しかも、もぐりの専門外の医師による危険な手術は、一歩間違えれば、ヴィヴ自らの命を落とすことにもなりかねない。責任の主、軍人のレジーの付き添いを得て、戦時下の夜の街を、身を潜めるように歩く二人。術後の養生のためにレジーが用意した部屋で、容態の変化に慌てふためく二人。その全てが許されざる行為であるが故に、その体調の異変の描写が、克明で有り過ぎるが故に、幸せの本質に対する疑念が渦巻く。


残念ながら、この物語においては、登場人物の誰もが、決して幸せに満ち溢れることが無く、それは、過去からの歳月によって明かされる出来事によっても、より一層明確にされてしまうのではあるが、それでも、今(1947年)を生きている現実があり、生きていかなければならない現実がある。
結果的に戦争があったのであり、結果的に同姓に愛情を抱いたのであり、結果的に妻子ある人を愛してしまったのでしかなくって、それでも、表面的には何も変わることなく、同じ時代に存在して、同じ時代を生きている。

深い深い人間の心の闇、まるで夜のような愁い、、、








「モネ 大回顧展 -国立新美術館」行きました。5





見ておきたかった!、であり、見て好かった!
六本木 国立新美術館にて、7月2日(月)まで開催の企画展『大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産 -Claude Monet:L'art de Monet et sa postérité』、何とか閉幕に間に合いました。

クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)は、印象派を代表するフランス画家


何を隠そう、絵画に興味を抱いたのは、というか、ちゃんと身銭を切って『絵』を見たのは、昨年秋の「アンリ・ルソー -世田谷美術館」からであり、「サルバドール・ダリ -上野の森美術館」、「異邦人(エトランジェ)たちのパリ -国立新美術館」、受胎告知の「レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の実像 -東京国立博物館」でしかなく、、、
正直、”よく分からない”のではあるが、
”本物”とでも言いましょうか、多くの人々の幅広い絶大な支持を受けた、著名な”天才”の、その醸し出す雰囲気であり、溢れるエネルギーを、自らの目で、肌で、体で直接感じたくって、大好きな”物語”を愉しむが如く、足を運ぶ。
可能な限り事前の予習は欠かさないものの、元々、全く興味を有しなかった領域であり、どんなに著名な画家であったとしても、名前を聞いたことがある・・・、というレベルでしかなく、世界や芸術の歴史にも当然に疎いため、”印象派”とか言われても、よく分からない。
ある意味では、”よく分からない”からこそ、先入観を有することなく、一点一点をじっくり眺めることができる。平日に行ける特典を活かして、それでもその高い人気や話題性が故に、混雑は避けられないのではあるが、時間を気にせず、ひたすら列に並んで、間近に作品にがぶり付いてじっくり眺める、隅から隅まで、とにかくじっくりじっくり眺める。何故に、この芸術家は、この作品が、この構図で、この色彩で、このタッチで描かれたのか?、この作品によって描きたかったモノは?、何歳のときに、どんな状況で、何を考えて描いたのか?
作品から、その解説から、時に年表などの資料から垣間見える、芸術家の人間像と、そのある意味では”物語”は、時にその時代背景さえもが、私を妄想の世界へ誘う。


今回の企画展は、印象派の巨匠”モネ”が遺した作品、何と約100点もが一同に集結しちゃっているのであるから、それはまるで”祭り”であり、多くの人々が集まるのも納得できる。

とっても”豊か”な印象を受けた。
明るく美しい色彩によって描かれる、幸福な女性像であり、家族の姿、美しい庭園であり、山や川や海や森の風景。溢れる優しさに、漂う幸福感。
人物像や人間関係の解説が少なかったために、物語的な妄想力を働かせることができなかったのではあるが、、、 だからこそ(?!)、豊かさを烈しく感じた。暗さや歪みを感じることが無かった。それは、もしかしたら彼の”スタンス”であり、”演じた姿”なのかもしれないが、何をどんな手法で描かせても、モネは巧いのである。
とにかく巧くって、同じ素材を、風景を、描く分ける”連作”の手法の見事さは、感動を覚える。特に、”光と色彩の変化を追求した”と解説される通り、霧に煙るロンドンの橋を描いた作品において魅せる光の加減には、言葉を失う。だって、濃い霧の中にぼんやりと浮かぶ橋の姿と、太陽の弱い光、その弱い光が川面を、さらに弱く照らす光の加減、それでも弱い光には弱い光なりの色彩があり、そんなぼんやりとした、表現し辛い素材に焦点を当てる、しかしそこには、歪みを抱えた奇異な表現が一切無く、何処までも素直で正直な表現によって描かれる。
だからこそ、その素直に正直に美しい豊かさが、多くの人々の支持を受けるのであろう。


そしてまた、絵画に、その作家自身の人間性、人間関係、時代背景などの、”物語”を求めてしまう私には、その巧さと、美しさ、豊かさを、素直には受け入れることができなかったりもして、全くもって”よく分からない”、、、


モネ 大回顧展-表モネ 大回顧展-裏















「天才をプロデュース? -森昌行」読みました。5


天才をプロデュース?
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書評/ルポルタージュ



「仕事論」。
だから、ビジネス書。
著者”森昌行”は、天才「北野武」であり、「ビートたけし」をプロデュースする、「オフィス北野」の代表取締役、プロデューサーである。「北野武」「ビートたけし」というある意味では”商品”を掲げ、その経済活動を、マネジメントのみならず、社会的にも金銭的にも、一切の責任を引き受ける人。

現代社会における世間一般の多くの人間が生きていくうえで、どうしたっても金銭を得る必要があり、そのために仕事をする。その必要に迫られてではあるかもしれないが、取り組む”仕事”、その”仕事”の”哲学”は、たとえそれが、サラリーマンであっても、極端に言えば、”主婦”という対外的な金銭を得ることの無い”家庭内労働者(?!、不適切かなぁ?!)”であったとしても、”仕事”に対する”哲学”、意義であり、考え方、取り組む姿勢、原理原則、、、は、絶対的に必要であり、普遍のものでもあろう。

私も、多分に漏れず、サラリーマンとして、会社組織に所属して、会社に社会に”労働”を提供して、所属する会社からは”給与”という”対価(報酬)”を得て、生活を営んでいる、ごくごくありふれた、一般的な人間である。男性であり、家族を形成したいという願望を有しているから、より豊かな生活を送りたいと願うからこそ、そのための努力を惜しまない。
だから、20代の頃には、いわゆる”ビジネス書”を読んだ。「よ〜し、俺も頑張るぞ!」、と。

現在の私は、物語を好んで手にする。
それは、リアルな現実を、自分自身以外の第三者から、直接的に示唆されることを好まないから。一方の”物語”には、リアルな現実との繋がりを、表面的には感じさせなくすることによって、逆に絶対的な存在が感じられ、それが、間接的に、より豊かな表現により、人間の深層心理の”真理”を探求する、自らの探求の指針となるから。リアルな現実から、一歩身を引いて、客観視して、絶対的にリアルな現実社会を見詰める、その作業に、私はその意義を感じている。
だからといって、ビジネス書の類いを否定するつもりは毛頭も無く、そこには、世間一般に言われる”成功者”の、成功哲学が、絶対的に存在しており、その普遍性は無いものの、自らの経験のひとつの情報としてインプットできるから。

ぶっちゃけて書き記してしまえば、新潮社から出版されなければ、手にしていなかった。
出版業界に詳しくない、読書暦の浅い私にとって、”新潮社”という出版社の存在は、素晴らしい物語作家が描く、素晴らしい物語作品を、出版する会社、というイメージがある。あくまでも個人的な見解であり、個人的な解釈であるから、私は私が絶対的に正しいとも思っていないし、どちらかと言えば、私は一般的ではなく、正しく無い判断を下すことの方が多い、と自認しちゃっていたりもする訳なんだけれども、”イメージ”ってそんなもので、人間は、それでも結構、そんな”イメージ”で簡単に物事を判断しちゃう。勝手に、簡単に判断しちゃう事実がある。これは圧倒的な事実。

だから、”プロデュース”が必要。いわゆる”演出”ってヤツ。
ときおり、”演出”を、度を越して遣り過ぎちゃって、嘘や事実を異なることを意図的に操作しちゃって、”ヤラセ”なんてメディアに叩かれちゃっているけれど、”演出”は絶対的に必要で、第三者の視点から、客観的に物事を見て、より自然に馴染むように配慮をすること、って、”マナー”だったりもする。ホントに小さな心遣いを、自然にすることって、日本人の”美”意識の中にも、絶対的に存在していて、社会生活を快適に送るうえでの、潤滑油みたいな存在。

私も、自らの生活のうえで、幾つもの”顔”を”演出”する。
ブログ上の顔、会社での顔、社会での顔、娘の父親としての顔、親の子としての顔、、、どんな時だって、自らを客観視して、相手が受ける印象を想像しながら、その後の展開を考慮しながら、自らの言動の配慮を怠らない。つもりだけれども、現実は、そんなに上手にできていない。これは正直に話しちゃいます。だって、私がそんなに完璧な人間だったら、自らのブログにのみ、ちまちまと書き記している必要が無いのだから、世の中は放っておかないでしょう!?、ちょっと、飛躍し過ぎかな?!、できないから、できるようになりたいから、頑張る訳だし。
だから、”演出”が必要で、無理な演出は、どうせバレてしまって、後から大変なことになっちゃうから、一時的な自らの利得を優先してしまうと、そのツケは、何倍にも、何十倍にも大きくなって、結局戻ってきちゃうから、不自然は好くない。好くない、ってだけで、時には、不自然をも”演出”する必要があったりもするんだけれどね。

この著作は、北野武と、オフィス北野と、世界的な映画業界、そして、ビートたけしのバイク事故の裏側が、森昌行というメディアのプロデューサーの視点から描かれていて、世間的には、著者は”成功者(勝ち組)”の部類に属する人間だろうから、その成功哲学書、ビジネス書として、愉しめる。
彼の、頑固で、職人気質な、生真面目さが滲み出ている。
だから、彼はここまでの成功を手にすることができたのであろう、と、”客観視”できる。
そして、仕事を、人生を、より有意義なものとするための、重要なソースが盛り込まれている。

それでも、これは”森昌行”の人生。私の人生ではない。
彼には、この著作を発表する必要があった。収めた成功を、多くの人々に語ることの意義?!、それもあろう、「北野武」を、「ビートたけし」を商品として、オフィス北野のために、認知させる必要?!、件のバイク事故の真実を暴露したかった?!、北野武の映画監督としての実力を知らしめたかった?!、公開された最新映画『監督・ばんざい!』のプロモーション?!、、、 私には”よく分からない”。

だから、この著作を、私は読む。








「きみの歌が聞きたい -野中柊」読みました。5


きみの歌が聞きたい
著者: 野中柊
単行本: 279ページ
出版社: 角川書店 (2006/4/22)




ん〜、何が私をここまで惹き付けるのか?!
野中柊、好きなんです♪
とっても切なくって、哀しくって、ついつい眉間に皺が寄ってしまう。
痛い、痛すぎるんだよ! だから好いのかな?!
共感できる部分もあるんだけれども、それでも、個人的には絶対に受け容れ難い部分も結構あって、絶対的に受け容れたく無い部分もあるから、「どうして?、どうしてそういうことになっちゃう訳?!」、ってな具合に、裏側や、その心の内を知りたくって、探りたくって、ついつい読み込んでしまう。「なるほどなるほど、だからそうなっちゃう訳ね!」って、その登場人物たちの状況の、背景の、その人格が構成されるに至る経験や事件や出来事、幼少の頃の記憶、生い立ち、家族環境や、両親の不仲や離婚、死別だったり、、、その行動や言動や思考に至る、現在までの過去の歳月に刻まれた数々の経験。しかも、今だって、現在進行形で生きている訳だから、その現在の様々は刻々と変化し続ける状況だって、そこには加味されてきちゃう。その直前に厭な事があれば、機嫌や、虫の居所が悪くなっちゃうことだって、ごくごく普通に有り得る。そんなところまでは、本人だっても、ある意味では不可抗力的要因に抗うことができないのに、だから完全な理解やコントロールをすることは、自分自身のことであっても絶対的に不可能だ。だから、自分自身をも理解し得ないのに、自分以外の第三者への理解だなんて、”よく分かんない”の世界、橋本治ワールド。

それが近しい夫婦関係や身内や家族、恋人であったって、自分以外の第三者には変わりなくって、ついつい全部理解している気になってしまうのだけれども、とどのつまりは、よく分かんない。
だから私も、野中柊の物語が、よく分かんない!
よく分かんないから、それでも知りたいから、理解したいから読むのであって、そこには、知りたい、理解したい欲求が絶対的に存在していて、投げ遣りな、いい加減な感情よりも、むしろかなり真摯な態度であったりもする。


描かれる物語は、日常の、とっても日常の、人間が、それぞれ個人が固有の人格として、淡々と一生懸命に精一杯に生きていく、生きていく三人の男女の姿。幼馴染みと、アクセサリーの製作会社を営む、美和と絵梨。そこに、根無し草の不思議な少年、ミチル。三人共に、それぞれに、それぞれの胸の内に、そっと抱えているものがあって、だからこそ、互いが互いを必要として、共に生きる必然に導かれて、保たれるバランス、関係。
居る場所や、帰る場所を、それぞれが求め、感じている。
その存在が、五つの物語に分かれていて、それぞれ三人の視点で語られる。それぞれの語り口によって、自らのこと、相手とのこと、今現在と、過去に遡って、揺れ動く心の様子や、その胸の内が、そこに何の恥じらいも無く、ズバリはっきりと明かされる本音、正直な気持ち、自己分析。

大好きな人の死があり、離別があり、それでも新しい出会いがあり、新たな生命の誕生もあり、そこに描かれる迷いや悩み、苦しみ。


実は、野中柊は、「祝福」から、最近の著作から手にし、デビュー作(1991年)の「ヨモギ・アイス(アンダーソン家のヨメ)」に違和感と衝撃を感じた。もっとも私は、最近の著作を好んでいるのではあるが、、、その刻まれた約15年の歳月に、私は深い興味を抱いている。 何が、現在の私が深い興味を抱く”野中柊”を形成しているのであろうか?!、違和感を感じながらも惹き付けられる、よく分からない”何か”を探りたい。









「夜愁(上) -サラ・ウォーターズ」読みました。5


夜愁(上)
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livedoor BOOKS
書評/ミステリ・サスペンス



もう、私は激しい怒りと憤りを感じています、私自身に。

その理由は、原因は、、、 ”キッカケ”がこの著作であることには間違いありません。だってだって、難解な海外文学作品で、外人の名前の登場人物(覚えられない・・・)、抑揚が抑えられて淡々と進行する物語。しかも、物語においては、時代が歳月が逆行しちゃう、だからこそなお、それぞれの登場人物たちの複雑な人間関係をしっかり理解しなくちゃいけない、だから、記憶力の衰えと、理解力に劣る私にとって、圧倒的に苦手な部類に属する著作。気分が乗ってくれば、一気に読み進めることができるのですが、物語が愉しければ、集中力が途切れることなく、最後まで一気に読了しちゃうのですが、どうしても集中できない・・・ 私自身のリアルな現実の、仕事が、私生活が、色々考えなくっちゃいけないことが押し寄せて来ていて、そんなことは常にそうであって、今だけが特別ということでも無いんだけれど、それでも、眼精疲労による頭痛にまで襲われて、、、 それでも、三浦しをん「きみはポラリス」は、割り込んで一気に読んじゃったのに。

それでも何とか、やっとの思いで、上巻を読了しました。
物語は、まだまだ全くの中途で、だから物語について書き記すことは出来無いのですが、、、 何かを書き記したい奇病(マニア)な私にとって、”書き記すためには、読み終えること”を自らに課しており、”義務”と”権利”みたいな関係。
特に、この著作は、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本を受けた本であり、それでも、これまでであれば、それでも読み易い著作と併読しながらの読書で乗り切ってきたのですが、ついつい欲張って、ストーリーを理解しようなどと目論んだのが、、、
プロジェクト自体は、ライブドアの事務局と、出版社の好意というのか、広告宣伝費の上に成立しているものであり、メンバーは、現金としての報酬を受け取ることは無くとも、”新刊本”の現物という果実を、ブログに書評をアップする、ことの対価として受け取る。そこには当然に、義務であり、権利が存在していて、そこに保たれるバランスがあるのであり、責任だって存在する。と、何だかついつい生真面目に、堅苦しく考えてしまう。そんな風に考えなくってもいいのに、、、とかって、言われることも多いし、自分自身でも時にそう思うんだけど、どうやら、そんなところも含めて”私”だったりする。ストレスを感じない生活なんて、有り得ない。
それでも、様々な判断が定まらない、不甲斐無い私自身に対する憤り。


一方、”分からない”ながらも、徐々に愉しみを感じてきた物語は、それでもまだまだ前途多難な様相を見せながら、、、









「きみはポラリス -三浦しをん」読みました。5


きみはポラリス
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書評/国内純文学



直木賞作家、三浦しをんが描く短篇小説集は、『ただならぬ恋愛小説!』とオビに表されている。

実は、三浦しをん、初読み!
1976年(昭和51年)9月23日生まれとあるから、現在30歳。
デビューが2000年4月とあるから、23歳の時。その就職活動の経験をもとにした小説を発表して以来、数多くの著作が生み出されている人気作家。人気が無ければ、多くの読者の支持が無ければ、需要が無ければ、これだけ多くの著作は出版されない。しかも、2006年7月には、名誉ある文学賞”第135回 直木賞”を受賞されたとなると、それだけ多くの幅広い人々の心を惹き付ける”何か”があるのであろう!?、と、大いに気になるも、今までは私には縁が無かった、ただただ無かった。
それだけに、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”の献本リストにピックアップされたときに、迷わず献本を申込み、きっと高倍率であったであろう抽選を勝ち抜いた時には、思わず小さなガッツポーズと、「神様が私にチャンスを与えてくれた・・・」などと、深い感慨に耽ったものである。それでも、当然に落選されてしまった方もいらっしゃる訳で、私如き人間が当選させていただいたことに、ある意味では申し訳無く想ってみたり、当選に浮かれる私自身の浅はかさを恥じてみたり、落選された方の無念さを想い、居た堪れない気分に陥ったりもするのではあるが、それでも、”全ては神様の思し召し”、などと開き直る。そう、私には縁があって、機会を与えられた、その必要があった、その必然に基づいて当然に与えられた権利で有り、それはまた与えられた義務でもあるのだ、と。この世の中は、バランスが保たれていて、得るものがあれば、一方では当然に失われるものがある訳で、得てばかりいることは有り得ない、一時的に得ることが多かったとしても、それはその瞬間を切り取った時に、その時は得ることが多かった、というだけであり、長期的に見た平均を採ってみると、どう考えたって得られたものの合計と、失われたものの合計は、ほぼ一致していたりする。それでも、人間は、ひとりひとりは、その自分自身の瞬間瞬間を一生懸命に生きているから、その瞬間にばかり目を向けてしまって、大きなものの見方ができなくなってしまって、日常の瑣末なことに、不平不満を漏らしてみたりもする。そんなことは、分かっているのに、なかなかそうは考えられなかったりする。何て身勝手な生き物なのであろうか。
私自身は無宗教であり、神様も、仏様も、守護天使さえも、その時の気分によって取捨選択している、全くもって失礼極まりない人間ではあるが、それでも、人生における必然であったり、宿命や運命みたいなものを信じていて、その自然な流れやお導きに、どっぷり身を委ねている私自身が在って、、、それ故に、『夜にあふれるもの』の真理子を笑えない。神憑りとでも言おうか、信じるものは救われるというか、その一途な想いと行動と。

著者”三浦しをん”像を探るために、Web上で検索すると、様々な評価があり、それは即ち、それだけの注目を浴びていることであり、人気があればこそ、嫉妬や羨望も生まれよう。
その中でも、幼少の頃からの”妄想癖”というか、”妄想”を得意とし、愉しんでいたとの記述に、大いなる興味を抱いた。
以下、バレバレのネタばれになるので、ご注意を!

例えば、『裏切らないこと』に登場する隣家の老夫婦は、実は姉弟だった。夫に裏切られ続けた母が、絶対にあなた(姉)を裏切ることが無い人、として産み落とした弟、互いにそれぞれの婚姻生活を送るものの、戦争という異常事態によって、互いが身内を失い、その結果として、導かれるように寄り添い合う姉弟。決して他人に話せる、褒められた行為ではないものの、それを誰が咎めることができようか?! 仮に近親相姦であるとしたとしても、仮に、母親なり姉なりが、夫であり父親である男の裏切りを受けていなければ、、、仮に、戦争という異常事態が発生することが無く、互いの婚姻生活が滞りなく継続していたならば、、、などなど、その仮にの偶然の連続技の、ほんの僅かな可能性の、その限りなく低い可能性の妙は、そこまで行くと、神憑りとかを超越しちゃって、”必然”になっちゃって、その善悪やら、そのこと自体を咎めることに、全く意味がなくなってしまう。それでも、その真偽は明らかにされそうになるものの明らかにされることはなく、明らかにされないから好いのでもある。真偽が明らかにされる必要が無いし、それは当事者以外の第三者の興味でしかなく、当事者にとってみれば、甚だ傍迷惑な第三者の、たかだか興味などに付き合う必要が無いのであるから。そしてまた実は、その驚愕の出来事は、この物語においては、あくまでも物語を盛り立てる、物語を構成するひとつの要素でしかないから。だって、この物語は、赤子の息子の男性器を口に含む、育児中の妻の行為を、偶然に見てしまった若い夫の、本来ならばその場で声を掛けて、笑い話で済まされちゃうところが、あまりの衝撃であり、日常の些細なすれ違いから生じた様々な偶然の積み重ねが、そこで感じてしまった肉親の血を分けた自分の最愛の息子に対する嫉妬であり、育児に専念するあまりに、夫に構ってくれない寂しさや孤独感、だからこそ感じてしまう息子に対する羨望であり、妻に対する不満が凝縮されていたりする。それでも、そんな血を分けた、契りを交わした一番身近な肉親に対する、そんな感情に、何処かで嫌悪感を感じている自分自身がいたりして、そんな自分自身を恥ずかしいと想ったりして、だからこそ、笑い話にできなくって、自らの心の内に抱え込んじゃうから、ますます、心の靄(もや)は晴れることなく、ますますの拡がりを見せる。当事者の妻に問い質せばいいのに、そんな自らの心の内に抱えた様々があるから、会社の同僚の育児を終えたパートの女性に聞いてみたりする。それでも、その彼女には娘しか居なくって、その感情が正しく明らかになることが無くって、ますます募る靄々に、婚姻生活に対する先行きの不安感まで生じてきちゃう。だから、妻の家族の、妻をひとりで育て上げた母の登場があったり、件の私の幼少の頃に隣家に住んでいた老夫婦の物語が登場しちゃう訳。それでも、この物語は、若い夫の視点で語られる物語だから、嫉妬や羨望に苦しみ揺れ動く心は、仮に夫婦という婚姻関係の契りが交わされていようが、子供という血縁関係があろうが、人間がそれぞれに独立した固有の心を有していて、その心が揺れ揺れに揺れて、何処か頼りなく、とっても不安定で儚くって、時折、嫉妬や羨望など、一般的には恥ずかしいから隠したい、と想うような感情を抱いてしまう、そんな存在でしかない、それでも、そんな存在だからこそ、互いに支え合って、共同生活を営む、みたいな。
『私たちがしたこと』では、高校生の時の彼氏が、いつもは家まで送ってくれるのに、その時だけ熱にうなされて、家まで送り届けることができなかった、その偶然にひとりで帰宅した夜の河原の土手で、中年のサラリーマン風の男にレイプされてしまいそうになって、何故か、何かを感じちゃったのか、熱をおして彼氏が駆け付けてくれて、それも物語だからといってしまえばそれまでなんだけれど、近くにあった鉄パイプで、怒りのあまり、勢い余って殴り殺してしまって、殺してしまった男を土手に穴を掘って埋めて、殺人のみならず死体遺棄まで犯罪行為を重ねちゃう。それはふたりの中で、ふたりだけの秘密であって、ふたりだけで秘密を共有しちゃっているから、特別な関係が出来上がっちゃうんだけれども、そのとっても特別な特異な極限状態の、興奮状態で、手を下した(人を殺めた)彼氏は当事者だから勿論のこと、彼氏をそんな状態に追い込んでしまった、という負い目とか感じちゃう私(彼女)の心の揺れ。彼氏としては、大丈夫だよ!、としか言えない。彼女の前では、絶対に不安を顔に出すことはできない。自分のためというよりも、自分以上に大切な彼女を、絶対に護らなければならない彼女を、彼女に辛い想いや、苦しみや不安を感じさせたくないから、、、だから離れることができなくって、それはそれは、お互いに辛いんだけれど、同じ学校に通っていたら、それは離れることの方が不自然で、卑怯で、逃げることになっちゃうから、彼氏は彼女を護り切らなければならなくって、、、彼女としたって、彼氏にしたって、不思議なバランスの下に保たれる不思議な関係。それでも、卒業を期に、音信不通になっちゃって、それでも時間が歳月が、その忌まわしい記憶を薄れさせ、それでも絶対に消え去ることが無い記憶だったりする。
『ペーパークラフト』では、浮気をしている夫の素行調査を依頼された高校時代の後輩が、頻繁に我が家を訪れ、我が子に渡すペーパークラフト。それでも妻は、”何か”を感じてしまって、自宅で肉体関係を結んでしまう、許せない、有り得ないけれど、それも現実!?
『森を歩く』では、経済能力が完全に欠落した、植物大好き探検男との恋愛。部屋に転がり込まれたって、同居したって、気が付いたら、何処かに行って何日も家を空ける。ある時、後を付けて行くんだけど、どう考えても現実離れしているけれども、それも現実!?
『春太の毎日』では、犬が主人公であり、犬の目線で、犬の口から語られちゃうから、人間との会話はどうしたっても成立し得ない。一方通行の、会話は会話にならないけれども、お互いがお互いを思い遣る気持ちは、やっぱり伝わる不思議。
時折、親の近しい肉親の不在が描かれる。時に、離婚であり、病死であり、不慮に死によって、片方または両方の親の愛情が欠落し、時に漂う憎しみすら感じたり、不遇とも言えたり、孤独であったりする、その人物像。人の死や、その不存在って、そこに在るべき存在が、不足している訳だから、不足しちゃって、欠落してしまった空間(穴)には、何かしらの埋め合わせみたいなものが必要で、その不存在を埋め合わせるものは、どうなんだろう、存在じゃないのかななどと安直に考えつつも、やっぱり存在では、その不存在の穴を埋め合わせることができなくって、じゃあ、何で埋め合わせをするんだ、ってことになるんだけれども、それは、時間や歳月であったり、経験や思考や思想、存在以外のものをいっぱいいっぱい埋め込んでいくしかないのかなぁ。

そしてそして、私がこの恋愛短篇小説集で、最も感激しちゃって、グイグイと引きずり込まれちゃったのは、最初の『永遠に完成しない二通の手紙』であり、最後の『永遠につづく手紙の最後の一文』。同じ登場人物が、最初は社会人で、最後は学生で、そのふたつの物語の間に流れる歳月があって、歳月を遡ってしまう訳なんだけれど、それぞれの短い文章の物語の中に凝縮されちゃう、その歳月の重み。
実は、何よりもコミカルで、とっても読み易いのが、正直一番有り難い!

扱う題材と言うか、シュチュエーションとしては、奇抜で、どちらかといえば、一般的には嫌悪されて、隠したいという真理が働く状況であり、その状況が舞台と設定される。だからこそ、そのシュチュエーションによって描かれる物語自体を嫌悪する向きもあろう。それでもね、そのシュチュエーションや状況は、よくよく物語を読み込んでいって、その背景や、そこにいたる現実を考えると、それからその後の展開を考えたりすると、決して特異な状況ではなかったりする。人間であれば、みんながそれぞれ心の内に秘めている、結構現実的な問題だったりして、それってそれでも、隠したがる人が多くって、当然に隠されて表にはなかなか出てこない現実があったりして、だからこそ当事者は深く深く悩み、苦しみ、時に痛みを感じてしまったりもする。そんな、結構多くの人たちが、私は変なんじゃないか、とか、私だけおかしいんじゃないか、とか苦悶しちゃっている状況や現実って、実は結構私やあなただけではなくって、多くの人々が同じことで悩み苦しんでいたりするんじゃないかなぁ、何だか最近、そんなことばかり考えちゃっている私の方が、変だったり、おかしかったりするのかも。

だから、ここまで広大で壮大な妄想を繰り広げて、それをお話しとして紡ぎ、物語として仕上げちゃう、そして、その物語がひとりよがりじゃなくって、多くの人に受け容れられて共感を得て支持されて、それがこの世に輩出される、この才能を絶対的に感謝しちゃう、私はね、個人的にそう思う、絶対的にそう思う。

タイトルになっている、ポラリスとは、こぐま座で最も明るい恒星あり、所謂北極星のことらしい。人々が、旧くから、固定点としての、ひとつの基準とされたポイントでもある。
だから、オビにある”われらの時代の聖典(バイブル)”とも表されるのであろう。








「紙の空から -柴田元幸 訳」読みました。5


紙の空から
翻訳: 柴田 元幸
単行本: 334ページ
出版社: 晶文社 (2006/12)



”「わかってます、もちろんわかってます、夢によって不死身になれるわけじゃありません ― でも人生を、経験を倍にすることはできるんじゃないでしょうか ― 三倍、四倍、無限大にできるのでは?」
・・・
何と彼らしいことか、私の運命に及ぼした彼の最後の影響が、間違った道路に私を据えることだったとは。あるいは、道路は合っていたが方向が間違っていたとは。と、私は思いあたった。考えてみれば、行き先に関して私は彼に何も言わなかったのだ。たまたま最初にやって来たバスに、愚かにも何も考えずに乗ったのだ。”

 〜「夢博物館」より抜粋〜

”「だがもう許すべき時だ」と彼は言った。「君はそんなに心配しなくていい。君にもわかっている通り、過去のある種の物事は、結局は自分自身にはね返ってくる。とはいえ、すごく若かったころにやったことの責任を負わされるわけにはいかないさ。」”
 〜「日の暮れた村」より抜粋〜

”― わからない、とカフカは言った。わからないよ。”
 〜「ブレンシアの飛行機」より抜粋〜

”「自分の素性を忘れるなよ、小僧」と彼らは何度も僕に思い出させた。
僕がどういう人間なのか、彼らはすっかり見抜いていた。僕はろくに考えもせず、ニセモノになりたいと思ったわけだが、彼らのおかげでその願望は挫折したのである。”

 〜「恐ろしい楽園」より抜粋〜

”世界は自分のような人間のいる場所ではないと。
・・・
「ここならとにかく、誰とも争わずに済む」
・・・
「強い者が正義の名のもとに、弱い者を邪(よこしま)に抑えつける国に生きるよりはいいね」”

 〜「ヨナ」より抜粋〜

”・・・ これは安息日をきちんと守ったご褒美にもらった神の食物(マンマ)なのだと空想したことをメアリは思い出した。”
  〜「パラツキーマン」より抜粋〜

”・・・ 僕が生まれたことには、こんな放課後の茶番に呼び出されるよりもっと壮大な目的があるはずだ!
・・・
だが、そうはならない。架空の存在ビルをめぐる物語は、最後もまた、ロクな終わり方をしない。みんなあくびをしたり、配られたコピーをなくしてしまったり、わかんねえとぉという声を上げたりするばかり。
だから、ま、話題を変えて、ほかのことを話しましょう。”

 〜「僕の友達ビル」より抜粋〜

”― 富を、近代的な家を、大きな車を。・・・” 〜「アメリカン・ドリーム」より抜粋〜


何らかの意味での”旅”の物語たちは、海外で活躍されている作家ら14名により紡ぎ出され、翻訳家 柴田元幸が選んだ14篇の短篇小説。
季刊の旅行雑誌「PAPER SKY」なる媒体に連載されていたものが、一冊の本に纏められた、まさに選ばれし物語たち。

確か、この本を知ったのも、新潮社の月刊誌「旅 2007年03月号」であり、その中の企画「旅に持っていく本!」に紹介されていて、もしかしたら、違う月の号だったかもしれないのではあるが、その企画から手にした本っていうのが、私の中では結構ヒット作品ばかりだったりもして、流石に侮れないなと、ニタニタしてしまう。
アリス・マンロー「林檎の木の下で」茨木のり子「歳月」であり、野中柊「このベッドのうえ」であり、特に野中柊は、読了四作品、積読二作品…なのである。

そうそう、「道順」を書いているジュディ・バトニッツは、短篇小説集「空中スキップ」と、長編小説「イースターエッグに降る雪」を読了しているのではあるが、、、相変わらずの難解さに、正直、よくわからない、、、だったりしちゃう。


物語に描かれる世界は、当然に著者が全て異なるために様々ではあるのだけれども、それでも、社会の矛盾であったり、移民問題や、労働者階級、貧困や貧富の格差、高度資本主義経済社会が発展する過程において、失われたもの、生じた歪みであり、一方では日常的な、宗教や政治であり、家族であり、子供だったり、友人知人、ご近所さんだったりする。
時折顔をのぞかせる、アメリカンジョークというのか、ピリリとスパイスの効いたキツイ表現に、思わず失笑してしまう。それも文化なのであろう。


そして、「翻訳者あとがき」に書き記してある通り、
”物語を読むという営み自体、どんな物語であれ、一種旅に出るようなものだと言うことができるだろう。”
であり、
”刺激的な「未知との遭遇」を体験”
できる。


それはまた、この本の装丁にも篭められていて、ひとつひとつの物語ごとに、ひとり一人のイラストレーターが挿絵を織り込んでいる。物語を読み進める途中に、ふと目の前に現れる素敵なイラストは、妄想の世界に彩を加え、愉しい気分を加速させる。いずれのイラストも、とっても素敵ではあるのだが、特に私は、表表紙にも描かれている「はしもとようこ」が好き。シンプルな線のみで、単色の淡い色付けのみで描かれるイラストは、とことんシンプルなだけに、深みや味わいが浮かび上がる。


素敵な夢の世界・・・


【掲載作品リスト】
「プレシアの飛行機 - THE AEROPLANES AT BRESCIA」
   ガイ・ダヴェンポート - Guy Davenport
「道順 - DIRECTIONS」
   ジュディ・バトニッツ - Judy Budnitz
「すすり泣く子供 - THE WEEPING CHILD」
   ジェーン・ガーダム - Jane Gardam
「空飛ぶ絨毯 - FLYING CARPETS」
   スティーヴン・ミルハウザー - Steven Millhauser
「がっかりする人は多い - MANY ARE DISAPPOINTED」
   V.S.プリチェット - V.S.Pritchett
「恐ろしい楽園 - FEARFUL PARADISE」
   チャールズ・シミック - Chales Simic
「ヨナ - JONAH」
   ロジャー・パルバース - Roger Pulvers
「パラツキーマン - THE PALATSKI MAN」
   スチュアート・ダイベック - Stuart Dybek
「ツリーハウス+僕の友だちビル - TREE HOUSE and MY FRIEND BILL」
   バリー・ユアグロー - Barry Yourgrau
「夜走る人々 - THEY DRIVE BY NIGHT」
   マグナス・ミルズ - Magnus Mills
「アメリカン・ドリームズ - AMERICAN DREAM」
   ピーター・ケアリー - Peter Carey
「グランド・ホテル夜の旅+グランドホテル・ペニーアーケード - THE GRAND HOTEL NIGHT VOYAGE and THE GRAND HOTEL PENNY ARCADE」
   ロバート・クーヴァー - Robert Coover
「夢博物館 - A COMMODITY OF DREAMS」
   ハワード・ネメロフ - Howard Nemerrov Reader
「日の暮れた村 - A VILLAGE AFTER DARK」
   カズオ・イシグロ - Kazuo Ishiguro









「愛の流刑地(下) -渡辺淳一」読みました。5


愛の流刑地〈下〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 334ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/05)




ご存知、男女の愛とエロスの物語。
55歳の元ベストセラー作家で、妻とは別居しているけれど離婚はしていない男(菊治)と、36歳の幼い三人の子供がいるエリートサラリーマンを夫に持つ人妻(冬香)が、惹かれ合い、互いに真実の”愛”に目覚め、本能から求め合い、エロスを追求し、追求しちゃったが故に選択されちゃったのが”死”であり、心の底から愛する者(女性)を、自らの手で殺めてしまう。自らの手で殺めてしまっちゃったら、それは明確な犯罪行為であり、愛やエロスなどという何処か現実離れした感覚から、一気に引き戻される超現実社会。超現実社会を支配する”法律(刑法)”は、超現実主義であって、実証できる証拠を論点に解釈されちゃうし、解釈するしかないから、愛だのエロスだの人間の本能的な美学や理論が存在する余地など、微塵も無い。仕方が無いよね、社会のルールとして機能させるには、原則的には事務的に処理していかないと不都合が生じるし、止むを得ない。そんなことは、大御所 渡辺淳一だって、誰よりもよく分かっているから、裁判制度の、制度としての矛盾をチクリとだけは刺しておきながら、、、 だからだから”愛の流刑地”なんだよ。

物語がシンプルで、複雑じゃなくって分かり易くって、だからこそ、人間の深層に潜む心理本質本能の部分を如何に描くか、その技術であり手法がポイントであったりして、だからこそ、ふたりが出逢ってから、愛とエロスを紡ぐ詳細な描写(殺めるまで・・・)に、上巻(382ページ)の全てと、下巻の94ページ、何と476ページもの記述を要する。その476ページもの文字数であり、空間であり、時間であり、著者の労力でもある膨大な記述は、この物語の展開における絶対的に必要な要素(ソース)であり、ひとつひとつの出来事のソースが積み重ねられて、積み上げられて、紡ぎ出されているからこそ、このシンプルな物語が美味しく、味わい深い、美しい物語が創り出される。ただの助平小説として、その性的描写に捉われていたら、絶対的に勿体無い。誰がどんなに否定したって、人間という生き物が、動物としての本能を有していて、だからオスでありメスであり、の保存行為である生殖の意義からも、また快楽を得るための手段としても、性行為に勤しむ。本能だから、恥ずかしくったって、隠したって、どうにもこうにもならない。あんまり開け広げにするのもどうかとは思うけど。

だからこそ、社会的に大人である”ふたり”が、大人であり、特にふたり共に社会的地位が高い知識人といってもいい部類の人間であるにも関わらず、一般的には善しとされない行為に溺れ、その末に犯罪行為(人を殺める)を犯す、「そこまで辿り着いてしまったのは何故?」、と思う訳でもあるし、「なるほど、だからふたりは、そこまで辿り着いてしまったのね!」と自然に導かれ、納得させられる物語であり、揺れ動く素直で正直な心の描写があれば、私は満足しちゃうのである。だって、人間が普通に生きているだけでは、ひとりの個人が経験できることって、絶対的に限界があるし、それでもこの世の中には自分以外の他人が数限りなく大勢存在していて、その他人はそれぞれの個性を有した唯一の存在でもあって、でもでも意外に大した違いなど無かったりして、みんな一緒的な部分を有していたりして、だからこそ人生の様々な経験が絶対的に必要。時に、主人公の菊治であり、冬香の夫であり、父(菊治)の貫いた真実の愛に理解を示し応援する息子であり、性別を超越して冬香にだって、女性検事にだって、エクスタシー(オーガズム)に理解を示すバーのママにだって、どんな人物にだって成り代わってその経験を疑似体験できちゃう。現状の現実の私では、菊治にはちょっと成り得無いんだけど、だから願望や羨望を籠めたりもして、正直なところ、冬香の夫かなぁ・・・、登場する場面としては絶対的に多く無いんだけれど、直接的な登場場面は、刑事裁判における検察側の証人として一度限りなんだけれど、当然にふたりが重ねる逢瀬の陰には、必ず彼の存在があって、その存在が無ければこの物語は成立し得なかったりもしちゃう、実は最重要人物であったりもする。しかも、彼はエリートサラリーマンで、男の存在における、絶対的に多数の存在であったりもして、社会的には普通の存在。普通に普通の全く普通の存在であるにも関わらず、この”男と女の愛とエロス”の物語にあっては、彼は異分子なのである。男として、外でバリバリ仕事をして稼いで、家の事は妻に全てを任せ、妻は自らの支配下にある生殖と家事の目的の存在、社会的地位と経済力によって家族を護る。それはそれで間違ってはいないし、それがひとつの家族としての在り方であることは否めない。
それでもやっぱり、「悪い男にたぶらかされた」と憤る男であり、そんな男の圧倒的な現実。

人間が本能の生き物であり、どんなに恥ずかしがって隠したところで、本能は本能でしかなくって、隠して抑えて抑え切れるほどに理性的ではなかったりしちゃうから、全くもって困った存在なのである。
どんなに困った存在であっても、人間のひとりひとりが、何らかの必要に求められて、必然に導かれて存在している訳で、その必要や必然を果たすために生きていかなくっちゃいけない訳だし、その必要や必然を全うするまではこの世に生かされちゃう訳だから、、、 愛する者に心も躯(からだ)も満たされて、その生きる命さえも奪われて、辛かった現生を全うしちゃって”死”を受け入れちゃった冬香は、圧倒的に幸せとも思えちゃう訳で、それでも、それまでの、認識の有る無しの判断はあろうが、辛い現実的生活を無視することはできないし、またまた一方では、その満たされる悦びを知り得なければ、決して現実社会を辛いとは思わなかったでもあろうから、、、 その一方で、愛する者を溺れさせ、ある意味では溺れさせてしまった責任の果てに手を下してしまった菊治は、得られた快楽以上の社会的責任をも負うことになって、それが社会的秩序が重視される法治社会の現実社会における圧倒的な現実でもあったりする。

今から10年前の1997年に、一世を風靡した『失楽園』の印象があまりにも強烈だっただけに、その記憶が脳裏に焼き付いているだけに、どうしたっても越えられない壁であったり、似通った印象を受けてしまう部分は否めないのではあるが、、、
それでも、とどのつまりが、男がオスであり、女がメスである、人間という動物の、本能的な本質の部分が圧倒的に存在しちゃう、現実の、圧倒的に現実の物語は、普遍の物語なのでもあろう。









「愛の流刑地(上) -渡辺淳一」読みました。5


愛の流刑地〈上〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 382ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/05)




”誰でも現実の生活があることは否めない。表面とは別に、他人にはあまり知られたくない、もうひとつの裏面を秘めている。そして自分も、冬香には知られたくない、沢山の現実を抱えている。その裏面をいいだしたら、冬香の比ではないかもしれない。
菊治はそこで、自分にいいきかす。たとえ夫がいて、幼い子供がいたとしても、冬香は冬香である。”



とりあえず中途ではあるが、上巻の読了に際して書き記す。

ちなみに、今年1月に劇場公開された映画「愛の流刑地」は観なかった。前評判や、平井堅の主題歌、メディア戦略的には心を揺さ振られたのではあるが、劇場公開の後の反応は残酷なまでに正直だから、「そういうことなのね!?」との判断。早速、7月にはDVDが発売されちゃうみたい! やっぱり何ともメディアって残酷、少しでも資金回収しないと、商売だからね!?

だから、手にしたキッカケは、著者の渡辺淳一への興味。先日読了した「失楽園」の文学作品としての感銘、その物語のネタ(?!)となった、大正時代の白樺派の主要なメンバーのひとりであり文人の「有島武郎」の歴史的事件とその存在。
この著作も、やっぱり優れた文学作品、人間のどうしょうもない動物的な本能の物語。


心の揺れ動く様が、その描写が、私の心に響く。
切ない切ない、とにかく切ない、ただただ切ない。
どうしてこんなに切ないの? 切な過ぎる。
あ〜、切ない。

お互いに深く深く愛し合っているのに、愛し合って求め合って、心も躯(からだ)も求め合って、満たし合って、互いに深く深く満たされているハズなのに。
互いの関係が深まれば深まるほどに、溢れる切なさ。


ズバリ『不倫』って、基本的には許されない行為であり、旧くから「姦通罪」などという犯罪が存在していて、現在の日本では廃止されて久しいのではあるが、それでも外国においては、イスラム圏や韓国などでは、現在でも規定されているらしい。(Wikipediaより)
「婚姻して配偶者のある者が、他の者と姦通すること」が犯罪行為の構成要件となる訳だから、まさに『不倫』は、ズバリその適用を受ける訳で、理由の如何に関わらず、その行為自体に違法性が存在する。

それでも、人間という生き物は、それが犯罪である、許されざる非道徳的な行為であることを承知で、充分に承知した上で、その激しい衝動に駆られて、本能のままに行動してしまう。
人間が過ちを犯す生き物であることに間違いは無いのであろうが、それにしても、、、である。ところで、お前は絶対に不倫しない自信があるのか?、と問われると、回答に窮する。現時点においては、明確に否定をすることができるが、将来に渡ってと考えると、、、願望や羨望を含めて否定できない現実がある。心の何処かでは、羨ましいなどとも考えてしまう私を否定できない。

そしてまた、「恋愛(たとえそれが不倫であっても!?)」においては、その必要や必然が絶対的に存在していて、それを、何かを求めているから、その関係に辿り着き、関係が成立し得る。「恋愛」が、ひとりでは成立し得ない行為であり、当事者同士の双方の合意の下に成立する行為だから。
ということは、不倫に至るには、婚姻関係にある配偶者という存在がありながら、それでもなお第三者に関係を求める必要を有している、という、ある意味では歪みを抱えた状況にあるということであろう。仮に、人間性や性格や性癖などに起因する行動があったとしても、それでも「婚姻」もまた双方の意思と努力の下に成立する関係であることに相違は無く、だからこそ、婚姻関係を継続しているのであれば、その当事者同士は努力を怠ることは、とどのつまり怠慢でしかない、どんな言い訳をしようとも。婚姻の関係とは、本来的には、その辺までの相当に高いレベルまで求められる関係でもあろうし、だからこそ、男子が18歳、女子が16歳という年齢制限を設けて、年齢が若いために人生経験が少なく、判断に未熟さを残す子供に婚姻を認めないのでもあろうし、また一方では、その能力を有し、その責任を果たせる人間にだけ許される法律行為なのでもあろう。

とどのつまり、人間は過ちを犯す生き物であり、当然に婚姻においても、その過ちを犯してしまう可能性は少なくない。
だからといって許されるものではないが、表面的に善悪を判断することには違和感を感じないでもない。仮に不倫であっても恋愛が、双方の意思の下に成立する行為であり、双方の意思が無ければ成立しない行為であり、婚姻という法律行為を反故してまでも、その意思を一方だけでなく互いが有した、その圧倒的な現実は如何に。その圧倒的な現実を直視することなく、表面的な解釈に何の意味があろう?!

快楽に溺れるのも、快楽を得たい、快楽を得られなければやっていられない、という何処かに歪みを有する現実からの、現実逃避であったり、内面に有する深層にある本質的な問題が解消されていないが故に表出する歪みであったりする側面もあろう。

その圧倒的に弱く、儚く、不安定で、ちっぽけで、どうしようもない存在の人間が、必ず誰しもが心の内に抱えている問題が絶対的にあって、それでも人間という生き物が本能の生き物でしかなくって、抱えている問題が完全に解消することが絶対的に有り得なくって、そんな側面からも、文学などの芸術が必要とされて存在するのであろう。









「BA-BAH その他 -橋本治」読みました。5


BA-BAH その他
著者: 橋本治
単行本: 213ページ
出版社: 筑摩書房 (2006/12)




”「意味のないことの意味」を探るのは難しい。重要なのは、揺らぎようのない事実を「事実」として認めることだから、まともな女の中に、「どうして男は消えたのか?」を考える者はいない。「それを考えることに意味はあるのかもしれない」と思って思索をスタートさせて、行き着くところは、「徒労はただ徒労である」という事実だけだから、まともな女は考えない。ただ皮肉っぽく笑って、「考えたければ考えてごらん」と言うだけである。だから、「どうして男は消えたのか?」は、謎である。「男というものが存在したのは、進化の途中のプロセスだけで、その進化が完成したから、男というものは消えたのだ」という説が、一番有力である。”
 〜「処女の惑星」より抜粋〜


相変わらずの、”よく分からない”炸裂振りに、やっぱり私は安堵する、心地好い、のである。短篇小説、全十四篇。

抜粋の物語は、未来が舞台であり、人類は女だけしか存在しない。存在する女だけで社会が構成されていて、明確な役割分担が成されている。名前の中にのみ、男の名前と、女の名前というカテゴリーが存在する。しかし、時間や年数の概念が消失していて、男という存在が消滅してから何年が経過したのかすら判明しない。人類が常に進化を続けていて、現在があくまでも経過してゆく進化のひとつの点(ポイント)でしかなく、現在においては判別の手段として用いられている性別も、その進化の過程においては、特別な意味を為さないのでもあろうか?! とどのつまりは、男であり女である存在であり区分に、何の意味があるのであろうか? 私にはよく分からない、のである。
他にも、古典が舞台の物語あり、素敵な素敵な物語の世界が繰り広げられる。


そして、”よく分からない”の言葉に籠められた想い。
分からないものは分からないであり、何処までいっても分からないでしかないのではあるが、それでも分からない、と言い切ってしまうことの意義を見失っては勿体無い。
ところで”分かる”とは何か?
自分自身以外は他人であり、血を分けた親であっても兄弟であっても、婚姻関係を結んだ夫婦であっても子供であっても、決して自分自身では有り得ないので、結局のところは他人ということになる。自分以外は全てが他人であり、自分以外の他人が考えていることは”分からない”。分かる訳が無い、とまで言ってしまっても、決して言い過ぎでは無いであろう。だって、自分自身のことじゃないし、自分自身以外のことなのだから。同じ処に居を構え、共同生活を送っていたとしても、日常的に顔を付き合わせていたとしても、何となく感じるところや、何となく理解できるところがあったとしても、それがすなわち全ての理解を得て”分かった”状態には、どう考えたって成り得ない。だからどうしたって言われても、「そういうものなんだ」ってことでしかなくって、「”分かった”って状態には成り得ないんじゃないのかなぁ〜。だって別に”分からない”ってことは当たり前のことで、悪いことでも、失礼なことでも何でもないし〜。仕方が無いよね〜」ってことだけなんだけどね。分からないことは仕方が無いことなんだよ。よっぽど、分かった”フリ”をしちゃっていたりする方が、相手に対して失礼だったりもする。それでも、時には、分かった”フリ”をしてあげないと、相手を傷つけちゃう時もあったりするから、ホントに面倒臭かったりもするんだけどね。”分からない”と言ってしまっていい状況と、言っちゃいけない状況というのも絶対的にある。それは、やっぱり自分自身は、他人の存在があって、他人の存在があるからこそ生きていけるんだ、っていう絶対的な事実や現実があるから。他人との係わりの中で、微妙に絶妙に保たれるバランスがあって、そのバランスに基づいて社会が成り立っていて、その成り立っている社会は、一人一人の個人の存在が多数集結して形成されているから、その中の一個人の都合なんてものは、考えていたらキリが無いのであって、大きな括りの中でのバランスによって、必然的に保たれていたりもする。だから何なんだってことになるんだけど、「そんなこと俺に分かる訳が無い」ってこと。
”分からない”ことが、当たり前の当然のことであり、ちっとも変なことでも、可笑しなことでも、恥ずかしいことでも、何でも無い、ってこと。
みんなで堂々と言っちゃいましょう!
『分からない!』って!!

例えば、橋本治は、何故にこの物語を書き記したのか? 何を意図して、何の目的から、この物語を書き記したのか?
何かの必然が無ければ、著者(橋本治)は、これらの物語を書き記すことは無いのでもあろうから、そう考えると、彼の生い立ちから、幼少の頃の家庭環境、積み重ねてきた人生経験などによって形成された人格や思考などの理解が必要ともなろう。まぁまぁ、そんなことを言い出すとキリが無いのでもあるが、本当の理解(分かった!)とは?!、などと考えると、そんなところまで考えてしまったりもする。









「マハラジャのルビー -フィリップ・プルマン、山田順子 訳」読みました。5


マハラジャのルビー
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書評/SF&ファンタジー



”「阿片の煙の威力は無限です。明るい日光のもとで、するどい眼力をもってしても決してみつからないように、過去の秘密を隠してしまいます。そしてそのあと、忘れさられた埋もれた宝のように、すべてを引き出すのです。あなたが見た光景は記憶の一部なんですよ、ミス・ロックハート。幻覚ではなく」・・・”

”「・・・ おまえはいまのあたしを見て、年寄りで醜いと思っているだろうが、あたしは若いころ、北部インドきっての美女といわれていたんだ。うるわしのモリー・エドワーズ。そう呼ばれていたんだ。 ・・・ あたしも注目の的だった。 ・・・ マハラジャさえもあたしに惚れこんだ。あのくそったれが。あいつはほしがった ・・・ おまえは自分のことをきれいだと思っているだろうが、当時のあたしと並べば、おまえなんか陰もかすんでしまっただろうよ。くらべものになりやしない。 ・・・」
サリーはミセス・ホランドがかつてはそうだったと主張するような、そんな美しさを、いまの彼女からはかけらも見出すことはできなかった。面影すら残っていない。老齢と残酷さしか見えない。しかしサリーは彼女のいうことを信じた。そして哀れに思った。 ・・・”



物語の舞台は、1872年の栄華を誇る大英帝国(イギリス帝国)のロンドン。海運会社の経営者の父を海難事故で亡くした16歳の少女サリーが、その父の死に纏わる謎を紐解く冒険物語。

なるほどなるほど、不勉強で歴史に興味を抱けなかった私にも、その時代の歴史の背景を知りたくなるような、興味深い物語が織り込まれている。
イギリスが帝国として世界を支配し植民地を拡大していったのは、海を制したこと。強力な海軍を有し、戦争により支配する世界を拡大していった。多くの労働者階級の下支えにより、ますます潤う特権階級。
一方では、大きな利益をもたらす阿片(アヘン)などの麻薬の存在。麻薬だから毒性依存性が強く薬物依存症に陥る。健康が害されることは勿論ではあるが、それでもその依存性が残念ながら莫大な利益を生み出す。莫大な利益を生み出す存在は、拡大を続ける”力”にとっては絶大なものであり、その善悪を問う以前の問題であり、特に戦争に勝ち続けることを宿命付けられた”帝国”にとっては、その存在があるからこそ誇れる栄華であったりもする。強奪した世界を支配し、支配した地域で、多くの労働者を支配して、強制的に生産し支配される”阿片”。富の還流。

その”阿片”によって思い起こされる記憶が、幻覚ではなく、事件の謎を紐解く鍵となる。

物語の敵キャラクター(?!)、魔女のようなミセス・ホランドは、”老い”の圧倒的な哀しさを滲ませる、欲に塗れた存在。確かに、老いることによって失われる表面的な美しさ。誰しもが決して避けることができない自然の摂理でもあろうけれど、旧くから富める女性が求め続け、それ自体が物語にも成り得る欲求。
個人的には、失われる表面的な美しさとは全く別の側面から垣間見ることができる、人間的な内面から滲み出る雰囲気や、人間味の深さや、立ち居振る舞いなどに美しさを感じることが多く、逆に表面的にどんなに美しい人間であっても、人間としての深さや魅力に欠けていると・・・
老いは誰もが避けることができないものであり、それでも老いてこそ得られる人間的な深みというものが絶対的に存在しよう。


実は、個人的にはどうしてもファンタジー物語を心から愉しめない私が何処かに居て、ついつい物語の本筋とは異なる側面を深読みしてしまう。それでも、著作の愉しみ方は、人それぞれでもいいのであろう。








「族長の秋 他6篇 -ガブリエル・ガルシア=マルケス」読みました。5


族長の秋(El otoño del patriarca 1975) 他6篇
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書評/海外純文学



ガブリエル・ガルシア=マルケスの、何とも表現し得ない魅力に取り憑かれて、実は既に六作品を手にしているのですが、読了後の満足感に反比例して、書き記すことの困難さに、それは何よりも私自身が理解し得ない現実が、悩ましいのである。

例えば、
”・・・閣下の足跡です、わたしたちは石のように身を固くして、ばかでかくて凸凹のある靴底の残したその跡を眺めた、それには、孤独な生き方が身についたジャガーの鷹揚さと静かな自信、そして足の皮膚病の臭気が感じられたよ、わたしたちはその靴跡にまざまざと権力を見、言ってみれば、はるかに啓示的な力と彼の神秘性とのつながりを感じた、そしてそのときだった、・・・”
と、句読点で区切られて延々と果てしなく継続される文章は、息を付かせる暇もなく、それでいて、気が付くと語り手さえも変わっていたりして、深い深い迷宮の底に圧倒的な勢いのままに引きずり込まれる。そしてまたその表現が、その心理状態やその想いを、壮大な比喩を用いて、大袈裟に描かれるから、その表現自体の美しさや奥の深さに酔っているうちに、やっぱり気が付くと次に展開に進んでいたりする。しかも、章もなければ、段落すらもなく、大統領は死を迎えたはずなのに、やっぱり気が付くと、しっかり存在があって、当然にその時間の流れは行ったり来たりで、、、私は理解することを放棄しなければ、いつまでたっても、この作品から離れることができないとの絶望感に苛まれる。それでもとにかく読み進めるしかなくって、読み進めたくって、随所に散らばる、笑ってしまうような、思わず感嘆を洩らすような表現だけが頼りなのである。

描かれるのは、権力の象徴たる”大統領”の悲哀ぶり?!、彼が語るときだけは、”わし”と表記されるために、それだけは明確であるのだが、やっぱり一人の人間であって、母親の身体から生まれ出てきた、マザコンだったりする。彼は度々、年老いても常々、
”おふくろよ、ベディシオン・アルバラドよ”
と、哀願する。孤独に悩み苛まれ、誰も信じることができずに、ひとり母の名を呼ぶ。権力の象徴たる、孤高の大統領であっても、やっぱり人間、なのであろう。

年老いて、力は衰えても、その権力に固執し、周りの人々のたった一人も信じることができなくって、だからこそ既に亡き母を頼るのでもあろうが、長きに渡る権力の集中によって、周囲は完全な”虚偽”で固められる。それは残念ながら、何処かでは彼自身が求めたものの結果でもあり、その必然に導かれて構築された関係でもあったりする。彼の元には、真実は伝わらない。それはある意味では、彼が真実を知る必要がないこともあろうし、彼がその真実を知り得ないことによって保たれる平穏やバランスがあったりするのであろうし、その真実が本当に本当に彼にとっての必要な情報であれば、それは何処からか伝わってきたり、何かを感じたりするのでもあったりする。
”・・・虚偽は疑惑よりも快適であり、愛よりも有用であり、真実よりも永遠のものであることを知ったのだ。”

一握りの支配者階級と、圧倒的多数の労働者階級という”階級社会”によって生み出された物語。
やっぱり理解し得ない、のである。









「貧乏は正しい! -橋本治」読みました。5


貧乏は正しい!
著者: 橋本治
文庫: 286ページ
出版社: 小学館 (1997/12)




一人の人間はいろんなパーツの寄せ集めで出来ているだから”人間”という概念も、”いろんな人間”というパーツの寄せ集めで出来ている

現状と戦うためには、まず現状に入らなければならない。現状に入って、「現状とはこんなもん」ということをしめさねば、”現状”という魔王の正体のゆゆしさは、理解されないのである


お慕い申し上げる”橋本治”、どうしたって気が付いたら、手にしてしまう。読む度に深まる理解、納得させられる理論展開、スッキリ明快!

だから私は今、”貧乏”なのである。
残念ながら私は、いい歳をして、まだ”若い男”レベルなのである。これは、紛れも無い現実であり、否定しちゃうと始まらないし、全てを受け容れちゃった方が、結果的に今後の私のためであり、現実を直視しないで現実逃避しちゃうことの弊害は小さくない。
だから、”貧乏”な私は、”若い男”のレベルであり、それを受け容れた私には、未来が拓けているのでもある。だって”若い男”は、”貧乏”であることが当然であり、”貧乏”であるから”若い男”なのであり、”若い男”は、ちゃんとした”豊かな””大人”になるために、絶対的な乗り越える存在として、貴重な経験としての”貧乏”なのであり、”貧乏”を経ずして”豊かな””大人”には成り得ない。”貧乏”だから、未熟な”若い男”だから、だからこそ拓ける未来があることが、絶対的な真実でもあろう。

現実的に、今から”金持ち”に成り得る可能性は、大きくは無い、ゼロではないけど。それでも、”金持ち”には成り得なくても、”豊かな”生き方はできる。本質的に”豊かな”生き方をしたい!、という欲望であり、目標が具体的にあるから、今の”貧乏”の過ごし方にも、その意義があろう。

あ〜ぁ、橋本治が抜け切らないままに、また洗脳されてしまって、ナチュラルハイで生きていくのも悪くない!










”これからの世の中で一番重要なことは、”他人のため”という目的が、どれだけ当人の中に確立されるかっていう、それだけなんじゃないかとさえ思う。”

「ダイヤモンドダスト -南木佳士」読みました。5

ダイヤモンドダスト -南木佳士

ダイヤモンドダスト
著者: 南木佳士
単行本: 203ページ
出版社: 文藝春秋 (1989/02)




”「私の家のような百姓と別荘の客達が親外の分をわきまえていた時代が、この町のいちばんいい頃だったのね。差別じゃなくて、区別がはっきりしていたのよね」”
 〜「ダイヤモンドダスト」より〜


記念すべき、第100回 芥川賞受賞作品。
先日、何気なく手にしたエッセイ集「からだのままに」から、南木佳士に興味を抱いた。


小説「ダイヤモンドダスト」の他に、エッセイ(?!)が三篇。
長野県の佐久総合病院の医師として勤務し、日常的に”死”と向かい合う日々。
大きな夢を抱いて医師を志したものの、それでも生真面目な性格故に、現実的な”死”を常に目にする苦悩。”死”の淵に立たされながらも、奇跡的な生命力によって生き返る人がいれば、突然に呆気なく訪れる”死”があり、高度に発達した医療技術によって、延命措置を受けている人。
特に、カンボジア難民医療団として赴任した経験が、より一層、人の”死”の不条理や宿命を浮き立たせる。カンボジアの、度重なる内戦などによる貧困や階級格差。経済的に豊かな(?!)国、日本から経済支援の名の下に派遣される医師団が、酷暑や不衛生などの過酷な環境にあって、支援できる範囲には限りがある。個人的な感情に流される行動は許されない。異国の地、しかも劣悪な環境にあって、救いたくても救うことができない命もある。それさえも、宿命であり、抗うことができない現実。それは、カンボジアだけでなく、高度に医療技術が発展した日本にあっても変わらない。
一方、日本においては、高度に発展した医療技術によって、人工的に生かされている人もいる現実。家族からの要望がある場合があり、時には医師の名声のためであったりもする。意識も無いままに人工的に、自然の流れに反してコントロールされる”死”。医師としての評価は、学会での論文の発表(?!)であり、手術の件数や、その後の延命の長短であったりする部分もあり、それを商売のネタにするメディアは、当然の如く、目に見えて分かり易い材料として、盛んにあおり立て、患者側の心理としても、ついつい目に見える数字や評判を判断材料とする。資本主義自由経済化にあっては、当然の流れでもあろう。
当然に医師も人の子であり、地位も名声もお金も欲しい、人の命を救う、高度な専門性を有した高貴な職業であることに、全く異存は無い。仮にそれが医師の私利私欲であったとしても、人の命が助かり、長くこの世に生を受けることができて、喜ぶ人がいる事実に相違は無い。必要な存在であることに間違いは無い。
それでも考える、喜ぶ人がいるけれども、喜ぶ人がいるってことは、その陰には、絶対的に、喜べない、喜んでいない、不幸な人が存在することを。コップの水は常に満杯で、新たに水が入ってくれば、絶対的に溢れ出る。
それでも世の中は上手くバランスが保たれていて、様々な種類の人が存在していて、医師だって人間だから、医師の中にも色々な人が存在する。

生真面目で真剣で一生懸命すぎちゃって、時に痛々しい。
趣味の釣りだって、アユは131匹、ワカサギは560匹。

とても他人事とは思えなくって、だから私は手にする。








「守護天使 -上村佑」読みました。5


守護天使
著者: 上村佑
単行本: 251ページ
出版社: 宝島社 (2007/03)




”守護天使”って、以前に手にして深い感銘を受けた、東洋人初のウィーン国立歌劇場団員歌手 アンネット・カズエ・ストゥルナートの自伝「ウィーン わが夢の町」から、その存在が私の頭の片隅にどっかりと腰を据えている。
私が私でいる限り、私を護ってくれる圧倒的な存在。最悪と思える状態から救い出してくれるのも、はたまた、その最悪の状態に陥れるのだって、全てが守護天使さまの思し召し。私の全ての行動や思考は、どんなに表面的に隠したっても、守護天使さまには全てお見通しさ! だから、誰のためでもなく、私は私のために、自分自身を信じて、正直に真剣に一生懸命に生きるしかない!、みたいな。

それなのにそれなのに、そんな神聖な”守護天使”をタイトルにした著作が存在して、しかもどうやら、日本ラブストーリー大賞なる文学賞の、第2回大賞作品ということで、軽い怒りを感じながら手にした。
ちなみに、大賞の賞金が500万円で、しかも映画化のオマケ(?!)付き、名誉よりも実益?!、それはそれで素晴らしい!


物語は、デブでハゲで恐妻の尻に敷かれっ放しの、リストラされて、小遣いが2日で1,500円という、風采の上がらない50代の男が、通勤電車の中で見掛けた女子高生に、人生初めての淡い恋心を抱いてしまって、その可憐な存在の”守護天使”(この場合は、守り神的存在)として、誘拐事件を暴くアクション物語。全く飽きさせることなく、一揆に突き抜ける爽快感が心地好い。
現代社会が抱える問題を数多く織り込んで、リストラとか、中高年の再就職難とか、家族の関係、引きこもりであり、ブログ、2チャンネル、、、250ページ弱の物語に織り込まれた、数々の笑いあり涙ありのドタバタ劇。
とにかく愉しめる。

そして、著者の受賞インタビューから窺えるプロフィールに、注目した。
こうして、この物語は創られたのかと。


このタイトルの”守護天使”は、あくまでも大切な者を自らの手で護り通すリアルな存在であり、それはそれで、”正義のミカタ”的な存在として必要があろう。








「スウィート スウィート バスルーム -碧色ボタン」読みました。5


スウィート スウィート バスルーム
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書評/国内純文学



とっても素敵にファンタジーに、”死”の世界と、その瞬間を描いた物語。
当然に”死”を描くから、”生きる”ということになる。そして、”生きる”には、”愛”が欠かせない要素であったりもする。だから、純愛物語でもある。

携帯小説サイト「フォレストノベル」なる媒体(メディア)から、多くの支持を得て書籍化された、素敵な素敵なファンタジー。
女の子の名前が、空と海の子供で、”空海子(クミコ)”、ねっ、素敵でしょ♪
その空と海が、バスルームから見える景色であってりもして、この物語全体に拡がる雰囲気であったりもする。


物語は、片田舎にひとりで暮らす、主人公の27歳の大工の職人、彼は20年前の不慮の交通事故で、幼くして、最愛の両親と妹を、自らの目の前で亡くすという、大きな大きな心の傷を抱えたまま、20年間という長い歳月を送ってきた。それでも、その心の痛みを共有して双子の兄弟のように付き合ってくれた同級生とその家族、大工の棟梁やおかみさんなど、多くの人たちに支えられて、何とか生きている。とにかくとにかく、どうにかこうにか、生きているのである。あの時に、7歳の”僕”が東京タワーを見に行きたいと言い出さなければ、僕が自動販売機でジュースを買おうと言い出さなければ、僕が買ったジュースを落とさなければ、、、 20年前の、あの時の後悔。どんなに後悔したって、どんなにもしもを問い詰めたって、どんなに自分を責めたって、今の目の前の現実は何ひとつ変わることが無いことは、そんなことは僕にだって、十二分に分かっているさ。それでもそれでも、僕の心にポッカリ空いてしまった、心の大きな大きな穴は傷は、どうやったっても塞がることも、消えることも有り得なくって。歳月の経過と共に、少しずつは薄れることはあったって、穴が小さくなって普通に送れる時間が増えたって、それでも絶対的に、穴はあるし傷も残っているんだ。それでも生きていくんだよね。どうして、何を目的に目標に、何が愉しくて、生きているんだろう?!、時には、そんな恐ろしいことだって考えちゃうよね。それでも生きているし、生きていく。

そして、あの日から20年の歳月を経て現れたのが、美しい女性の幽霊で、20年前に亡くなった家族を彷彿させる。不思議な縁に導かれて、惹かれて愛し合う。
繋がる運命の糸。愛の力。
死の淵を彷徨い、一度は心肺機能の停止を確認した、その命を引き戻したのは、ちょっとくさいけれど、どう考えたっても、”愛”の力。
痛みや苦しみが大きいだけに、とってもとっても大きかっただけに、そしてそれが丁寧に描かれているだけに、どうしたってもグッときちゃう。我慢しないで涙を流そう。


それでも、あまりにもハッピーエンドなファンタジー物語に、何処か冷めてる私もいる。
田舎の大工の職人と、東京に暮らす社長のひとり娘は、どんなに愛が強くても、その根底に流れているものが、階級というと語弊があるのかもしれないけれど、絶対的に異なる存在であって、日常の現実の生活を考えたときには、残念ながら有り得ない。
それでも、そんなことを吹き飛ばしちゃうくらい、これはこれでいいのだ!、でもあろう。
ところで、その彼女を片思いし、付き纏いを繰り返し、死の淵に追いやった、どうしようもない輩がいて、そいつが言い放つ、
「チクショー!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」
笑っちゃうけど、私も理解できる。

著者が”あとがき”に書き記す、
”中学生の頃からの書くことの虜だった私の長年の夢が叶った。”
その想い、それこそがファンタジーでもあり、この素敵な物語の源でもあろう。








「真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-B -本多孝好」読みました。5


真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-B
著者: 本多孝好
単行本: 171ページ
出版社: 新潮社 (2004/10/29)




ハッピーエンド、爽快な物語。
読み易い。気持ち好く乗せられて、一気に読める。

どうしたって、村上春樹が頭にチラツキ、最新作「正義のミカタ 〜I’maloser〜」の展開が、イメージが気になってしまう。

それでも個人的には、あぁ〜愉しかった!、であり、なるほどなるほど、著者とほぼ同じ年齢の私は、執筆された5年前(2004年)の30歳を少し過ぎた頃の私と、現在の私、そして、主人公の”僕”の設定の20歳代後半の私、、、 を、逡巡する。
当然に年齢によって、その状況や環境によって、全く異なる部分を有し、それでも本質的には、深層の部分では何にも変わっていなかったりもする。


物語の展開として、side-B(下巻)と、side-A(上巻)の間の2年という時間の流れ、時間の流れによって新たな展開を見せる物語。
人間という生き物は、どうやら本質的な部分ではそう簡単には変わり得なくって、色々な出来事の中で表面的に取り繕って改善を試みても、どうしたっても深層部分では変わり得ないから、気が付くと元に戻っていて、何度も何度も同じ過ちを繰り返したりして、とどのつまり受け容れるしかない、、、 みたいな。その”受け容れる”って作業がなかなか困難で、特に年齢が若ければ若いほどに、可能性(!?)、があるだけに、絶対的に困難を極める。それでも、その困難の経験が無ければ、理解し得ることも無い訳で、困難との自己との対峙が必要であったりもする。
そして、2年という年月は、何か大きなことを成し遂げるには決して充分な年月では無いけれども、決して短い年月ではなくって、それでも、2年の歳月を経ることによって理解できることが、そこには存在する。
だから、敢えてその2年という年月を実感させるために、上巻・下巻に分けた理由もそこにあるのかなぁ、などと深読みしつつ、それでも、二巻に分けたら、一巻に纏めるよりも、ある意味では倍の売上げの可能性がある、とか、厚みを薄くすることによって手に取られやすく、読み易く、などの販売戦略的な部分の憶測をしてみたりする。
そして、その2年の間には、恋人の”死”があって、突然に天と地がひっくり返ってしまうほどの激しい衝撃と、その圧倒的に受け入れたくない現実と、それでもその痛みを苦しみを哀しみを受け容れて、それでもそれでも生きていかなければならない現実。だから、2年の年月を経ないと、展開させることができない物語。2年の年月を経たから展開することができる物語。

そして、資産家の、遣い切れないほどの大金持ちの事業家の援助を受けて始めた事業。富める者は、その富をもって更なる富を生み出す、富の還流。
その善悪を問うつもりも無いけれど、色々な必然の下に保たれるバランス。理想と現実には、絶対的なギャップが存在していて、そのギャップさえも、保たれるバランスのひとつの要素でしかない。

そうそう、主人公の”僕”は、実は、大学時代の彼女の死から、何と6年間も女の子との体の関係が無い。決して、もてない訳ではなくって、どちらかといえば、交際する女性には事欠かないのに。それでも、体の関係が無いことも、そのひとつの要因ではあろうが、長く交際が続くことが無い。でもでも、交際する女性が切れることも無い。興味深い傾向ではある。

一卵性の同じ遺伝子を持つ双子の姉妹が、お互いの存在が、記憶や経験までもが共有されて混同していて、好きになる男までもが一致しちゃって、当事者同士でさえもが混濁しちゃっているのに、その片一方の存在が失われる。
で、私は誰?!

橋本治は、その著作『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』において、
”三島由紀夫にとって重要なのは、「欲望」ではなく、「意思」である。”と、書き記している。
意思があれば、
”「冷蔵庫とだって結婚できますよ」”
なのである。
滅茶苦茶な理論構成ではあるが、その通りであり、とどのつまり、一卵性双生児の双子の姉妹が、どちらが”かすみ”であっても”ゆかり”であっても、何だったら”水穂”であっても?!、問題とされるのは意思であり、意志の問題でしかないのであり、、、

『愉しかった』、と書き記す。









「真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-A -本多孝好」読みました。5


真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-A
著者: 本多孝好
単行本: 205ページ
出版社: 新潮社 (2004/10/29)




ふと、発売前に手にさせていただいた「正義のミカタ 〜I’maloser〜」が、5月下旬の予定だったなぁ、などと呑気なことを考えながら、この作品を手にした。
side-Bが下巻で、このside-Aは上巻なので、中途で書き記すことに軽い違和感を感じながら、それでも、敢えて二つに分けた理由もあるのだろうなどとも考えながら、結局のところ書き記すことにした。

何処か、村上春樹を思わせる物語。
ちょっとお洒落な生活を送る、26歳の”僕”が主人公で、僕は決して目立つ存在ではないんだけど、周りに流されることなく我が道を行くタイプで、だから付き合う女の子には不自由しなくって、大きな野望を抱くこともなく、淡々と日常を過ごす。何にも無い訳じゃないんだけど、取り立てて何か大きな出来事が起こる訳でもなく、日常の小さな変化を感じつつ、それでも大きなスタンスで物事の判断を下していく。
それでも、仕事ができる女性の上司が、ふと決して見せることが無かった弱みを見せたり、一卵性双生児の双子の姉妹が登場したり、、、
村上春樹だったら、もっともっとぶっ飛んだものが出てきて、もっともっととんでもない展開になっちゃったりするんだろうなぁ、、、 などと、どうでもいいようなことを考えながら、それでもやっぱり、すっかり乗せられて、一気に読み切り、この後の展開のワクワク感を抱いたままに、何だったら他の本を読んじゃおうかなぁ、とか意地悪を考えながら、色々読みたい本があるんだよねぇ、、、 なのである。

どうしてか、橋本治の後には、頭の中の理論展開を、そのまま書き記したい激しい衝動に襲駆られる。特に、難解な『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』などを読んでしまったら、混乱から抜け出すのに、やっぱり時間が必要でもあろう。


2007年6月には、文庫本(新潮文庫)になるらしい!?
人気の小説家なのでしょう。
ちなみに、著者は1971年生まれ、私とほぼ同じ年齢である。









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