Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年07月

「仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 -長田幸康」読みました。5


仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」
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書評/宗教・哲学



本が好き!PJ”からの献本。

著者 長田幸康(おさだゆきやす)が、”はじめに”に書き記す。
”ごく普通のチベット人の考え方・生き方を、あまり深刻に考えずに愉しんでいただければ幸いだ。”
だから、仏教的!、なのであり、入門!、なのであろう。難しい宗教のうんちくは何も無い、とにかく、読み易く、分かり易い。

実は近頃、”宗教”に抱かれる興味。
とどのつまり、人間個人としての、”考え方”であり、”生き方”が確立していることの重要性。
強烈に意識させられたのが、「獄中記 -佐藤優」。佐藤優は、同志社大学大学院神学研究科修了のキリスト教徒。ある意味では不条理な国策捜査による、512日間もの東京拘置所での勾留中に、自らが書き記した記録。当初の混乱期を経て、冷静さを取り戻した佐藤優が、自らを振り返り、その宿命を受け容れる。心の拠り所の大きな部分のひとつには、宗教学の知識であり、キリスト教の教え。佐藤優に、その”考え方”であり、”生き方”が確立されていなければ、これほどの大作は、生み出されることがなかった。
歴史を紐解けば、比較的近年まで、治安維持を目的とした、言論や思想の自由の制限があり、宗教が迫害を受けてきた歴史的事実がある。それでも、その必要に求められて、歳月を経て、時に形を変えて、現在まで伝え継がれた経典は、それ自体を否定したところで、何も始まらない。永い歳月に裏打ちされた実績。仮に、全てを受け容れることができなかったとしても、それは人間個人個人の考え方や生き方の相違でしか無い訳で、自分以外の第三者である他人とは、完全な一致など有り得ないのであり、相違して当然でもあろう。

本書の舞台となる、チベットは、複雑な国際問題を抱える地域。
現在、大部分(チベット民族の伝統的分布範囲とほぼ一致)を中国(中華人民共和国)実効支配されている。
チベット民族は、チベット仏教信仰を価値観の中心に据え、高原の自然環境に適応した独自の文化を有する民族。
1955年-1959年には、「中華人民共和国政府による占領、併合」に抗議するチベット動乱が勃発して十数万人のチベット難民が発生、チベット亡命政府(ガンデンポタン)のもと、異議申し立てが行われる。
それでも、チベット仏教の最高指導者 ダライ・ラマ14世は、2007年4月7日、インドのマスコミの取材に対し「チベットは、中国からひどい統治を受けているものの、中国の一部である」と表明している。 〜Wikipediaより

地理にも歴史にも疎い私の理解を超越している。
だから、理解できたことは、「何だか大変そうだ!」、であり、「だからこそ、上手く生きる術が身に付いている」、である。

国土的にも、標高4000メートルの高地であるが故の、苛酷な自然環境の下、食べ物だって、決して贅沢はできないであろう。
民族的な迫害や抗争。
それでも、信仰を心の支えに、したたかに生きる。
ある意味では、生きるための必然。

カルマ(業)であり、輪廻転生因果応報。
言葉として、何度か聞いたことはあっても、その概念に統一性がなかった。捉え方によって、全く形を異にする。
統一の形を有しないことが、特長なのかもしれない。永い歳月を経て、時代に合わせて変わり続ける形。
永遠に変わらないモノなど、この世には存在し得ない”、それが真実なのであろう。

著者は説く。チベット仏教における、僧侶とは、
仏教を学ぶことを通して、一生をかけて人の心のはたらきだけを追求する人々であり、心に関するプロである。一切の生産活動に携わらず、信者からのお布施だけで暮らす特殊な存在。

それでも、時に最高指導者 ダライ・ラマであっても、現実に背を向けることがあった。解釈次第では、全く新たな方向を目指して進むこと、とも成り得る!?
だから、”たまには逃げたっていいんじゃないだろうか、なのでもある。

そして、最後は”スマイル”。
とどのつまりは、「何事も笑って赦せ!」、ということなのであろう。








「参加型猫 -野中柊」読みました。5


参加型猫
著者: 野中柊
単行本: 216ページ
出版社: マガジンハウス(2003/10/15)


・・・ 猫の摩訶不思議な行動様式と、そこに何かしら日常のファンタジーのようなものを見ようとする愛猫家の心理に触れると、良くも悪くも特に何の事件もない当たり前の毎日の生活が、それこそ宇宙の神秘、宇宙の必然、宇宙の了解に通じている ― ような気にさせられなくもない。そして、地面から足が三センチほど浮き上がって、世界や自分自身についてしゅっちゅう感じてしまう無力感やあくせくとした欲望から自由になって、何でもできる、何をしてもいい、だからこそ、何もしなくてもいいのだ、と大らかでのんびりとした気持ちにもなってくる。
野中柊”ワールド♪
物語は、緩やかに、優しさに溢れて、歩みを進める。
大好きなモノたちに囲まれて、愛猫「チビコ」と共に生活を営む若い夫婦「沙可奈(サカナ)」と「勘吉(カンキチ)」の、”引越し”に纏わるキュートな物語。

物語の中、夫婦の日常会話に飛び出す、
「後天性の精神分裂症(現在は統合失調症と呼ばれる)の原因」としてあげられる人生のイベント”引越し”。その他にも、転職、結婚、離婚、だそうである。環境の変化が精神に与えるストレスの影響。病むところまで行かずとも、環境の変化が与える影響は小さくない。

物語は、引越し屋さんがやってくる場面から幕を開ける。荷物の搬出入、そして新しい部屋での片付け。引越し休暇も終わろうとしているのに、まだまだちっとも片付かない新しい部屋の中。それでも、明日からは、新しい日常生活が始まる。
新しい生活が始まる期待と不安。それは、人間だけじゃなくって、生活を共にする愛猫だって同じこと。引越し屋さんが、知らない男の人たちがドヤドヤやってきて、ワサワサと落ち着かない、何事が起こっているやら!?

だから、「参加型猫」!?、物語に””という、人間の言葉こそ喋らないけれど、身近で親しみ深く愛らしく、そして時に化けて出る?!、生き物を介在させる妙。リアルな現実とのバランス。

”引越し”というイベントを通して浮き立つ”記憶”。
ふたりの出会いであり、結婚に至る様々な出来事、共に過ごす生活。共有する記憶、それぞれの記憶、それぞれが別個の人格を有する個人だから、それぞれの想いは異なるけれど、だからこそ紡がれる物語の妙。

それが時に、ふたりで食事をしたイタリアンレストランのパスタのメニュー、娼婦の味だったり、絶望の味だったりしちゃうから、可笑しい。
記憶が、歳月を経ることによって、多角的な奥行きや深みや味わいを増す。

だから、今現在の時点の瞬間的には、とってもとっても語るに耐えない、哀しく、苦しく、辛く切ないリアルな現実だって、それが然るべき歳月を経たとき、然るべきタイミングで、必要に応じて”記憶”として導き出されるのであろうか。
時の経過と共に記憶は薄れゆくものだ。決して忘れまいと心に誓ったところですら、その人の意思とはかかわりなく、脳の機能は情け容赦なく、記憶を消去してしまう ― 少なくとも、意識のレベルでは。それでいて、昔の写真を目にしたり、過去の遺物を発見したときなどに、思いがけず、鮮明に何かが蘇ってしまったりすることは日常において頻繁にあるわけだけれど、その記憶のヴィジョンは実は蘇ったわけではなく、現在の自分によって都合よく捏造されたものではないだろうか。そういう意味で、ふと昔の何かを思い起こしてしまうたびに、勘吉は思わずにいられない。記憶は決して過去のものではなく現在進行形なのだ、と。








「きみのためのバラ -池澤夏樹」読みました。5


きみのためのバラ
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書評/国内純文学


「忘れた方がいいと思うことを心はこっそり隠すんじゃないかな。今、君は、これはもう思い出しても大丈夫って判断したんじゃないかな」
 〜”20マイル四方で唯一のコーヒー豆”より

「泣いてもしかたがないのよ」と茜さんは言いました。「ラカはもういないんだし、私は生きているんだから。今日と明日と明後日を生きるしかないのよ。そうよね?」
・・・
わたしから言ってもしかたのないことでした。茜さんの中から出てくる言葉でなくてはならない。一晩待って、すごく辛い夜を過ごして、わたしは彼女の口からその言葉を聞きました。
まだまだ苦しい毎日です。でも、そこを乗り越えないと先へは行けない。彼女が言うとおり、わたしたちは今日と明日と明後日を生きるしかないのです。ラカがいてくれたら、あんなことにならなかったらという甘い執拗な誘惑的な仮定を退けながら、生きていかなければならない。そのために力がいる。
 〜”レギャンの花嫁”より

キッカケは、新潮社旅2007年08月号」の”旅に持って行く本”。
表紙の青いバラが醸し出す、素敵な雰囲気。
キザなタイトルに負けてない物語、短篇小説 全八篇。
池澤夏樹、初読み。

未知のものに対する恐怖心。
自らが知り得ないことによって、心の内に抱く不安感。先が見えない、心の拠り所を得られない。落ち着かない。目標とする方向に向け、正しい道を進んでいるのか?、間違ってはいないだろうか?
自らの無知が引き起こす行動が、周囲に及ぼす影響。迷惑を掛け、負担を負わせていないか?、誰かを傷付けていないか?!


池澤夏樹は、1945年に疎開先の帯広で、マチネ・ポエティクで同人だった両親の間に生まれた、詩人翻訳家小説家。1950年、両親の離婚を機に、母と東京に移る。埼玉大学理工学部物理学科中退。南太平洋を中心に各地へ旅をしたり翻訳などをしたりし、1975年、ギリシアに単身移住、3年間住む。1993年に沖縄に移住、2005年にフランスに移住。第98回芥川賞受賞。多くの文に””が扱われる。 〜Wikipediaより


物語は、日本に限らず、世界各国の街がその舞台。
旅人であるが故に、旅人であることを自認しているが故に、旧くからその地域に根付き、それぞれの歴史や文化の中に築かれる日常生活。いつもの固定概念や常識に捉われた視点を、その角度を変えることによって、リアルに浮き立つ現実の物語。
人間普遍の物語は、やっぱり、「物語の作り方−ガルシア=マルケスのシナリオ教室」にて、G・ガルシア=マルケスが語る、
「ドラマティックな状況の方は、実際にはそんなにないんで、人生と愛と死の三つだけだよ。」
なのであろう。
優しさに溢れる語り口で綴られる物語は、深く深く心に沁み込む。
あの人は、自分たちは愛し合っていない、なぜか始めてしまったけれど、愛で無い以上長くは続かない。続けるべきでない。いずれは傷つけ合う。お互い一人に戻った方がいい。そう言った。
 〜”連夜”より
Una rosa para ti (ウナ・ローサ・パラ・ティ) -きみのためのバラ








映画「サン・ジャックへの道 -コリーヌ・セロー監督・脚本」観ました。5

DVD「サン・ジャックへの道」”本が好き!PJ”から献本を受けた、新潮社「旅 2007年 04月号」に紹介されていた、フランス映画『サン・ジャックへの道』。
いきなり目に飛び込んだのが、青空が広がる緑の景色。
そして、トボトボと、ひたすら歩く不揃いな集団。フランスからスペインの聖地サンティアゴへ向かう、悠々とした自然の美しいが続く1500kmもの巡礼路を、ただただ歩く、心温まる”ロードムービー”。
何だか気になった。
ところが現実は、献本を受けたのが五月(その号の「旅」の発売は2/20頃)であり、既に上映終了・・・ 更に調べると、以前から興味を抱いていた小さな映画館での上映(七日間限定)の予定があった。
手帳にメモを書き記すも、日常に忙殺され「縁が無かった!?」と、半ば諦め。記憶の存在。だから(?!)”縁”に導かれ、時間がポッカリ空いた。ある意味の”必然”。

世田谷区内の住宅街にある、小さな映画館”下高井戸シネマ”。都内には二路線を残すのみとなった路面電車東急世田谷線の発着駅でもある下高井戸駅の程近く。レトロな路面電車のある街、旧い趣きのある商店街を残す街。


映画は、大地に果てしなく続く1500kmもの巡礼路を九人の男女の集団が、ただただ共に”歩く”という、人間の原始的な行動に盛り込まれる物語。
行動(徒歩)が原始的であるが故に、登場人物それぞれが描き出すひとつひとつの物語も、人間としての本質に迫る。世知辛い、リアルな現実の世の中を生きる九人の男女には、それぞれにリアルな現実的な問題を抱えて、それでも生きている。生きているから、更に生きたいと思うからこそ、巡礼の旅に参加する。
特にメインとなる三人の兄弟が抱える問題には、現代社会が抱える問題が凝縮される。迫真の演技でオーバーに描かれるが故に、笑って傍観することができるが、自らの内または身近に潜む、他人事では済まされない。
社長業に忙しい長男ピエールは、片時も携帯電話と大量の常備薬を手放すことができず、薬に依存している。その妻は、アルコールに依存して、生きる気力を失っている。
高校教師の長女クララは、失業中の夫と沢山の子供たちのために、仕事に追われる。
アルコール依存症の次男クロードは、仕事も家族も失って、彷徨うように生きている。
当然に三人の生活に共通点も、接点も無い。
そんな三兄弟の元に、突然舞い込んできた弁護士からの手紙。
亡き母の遺産を相続するための要件は、”三人で協力して巡礼路を歩き抜くこと”。
同行するガイドにだって、その他の参加者にだって、それぞれに抱えている悩みや問題がある。幸せで、何も悩みや問題を抱えていなければ、過酷な巡礼の旅には参加しない。だから、そんな他人同士の集団に、団結なんて有り得ない。特に個性的な三兄弟にあっては、口汚く罵り合い、取っ組み合いの喧嘩まで始める始末。
便利な現代社会だからこそ、”歩く”という原始的な行為の”意義”。
自らの意思で原始的な”原点”に立ち戻る行為。

物語の開幕シーン、ポストに投函された郵便物が、集荷され、機械や人の手により選別され、三兄弟の自宅のポストに配達されるまでの、郵便物が辿る道のり。


”歩き抜いた先に見えるもの―”


私が映画に求める要素、笑って、泣いて、愉しめる、高い満足度。

DVD「サン・ジャックへの道」、9月26日発売予定。






「ジャンピング・ベイビー -野中柊」読みました。5


ジャンピング・ベイビー
著者: 野中柊
単行本: 173ページ
出版社: 新潮社 (2003/08)



ジュディについての不平不満を述べ立てはするけれど、おそらく、ウィリーはそんな彼女だからこそ、身近に引き寄せてしまったのだろう。痛々しい風情の女の子だったからこそ、彼女を好きになり、生活を共にするようになったのだろう。

やっぱり好い、野中柊ワールド♪
自然に深くゆっくりじっくり沁み込む、満たされる至福感。

正直なところ、「有り得ない!」って怒りとかの感情を否定はしない。「赦せない!」って気持ちも、どこか完全には拭い去れない。
それでも、「何がホントの幸せなのか?」って、一旦ガチガチに凝り固まった、世間の常識みたいなものとか、固定概念とやらを、ちょっとだけ隅に押し遣って、じっくり物語を読み込む。ヒートアップしがちな心を、静かにクールダウンさせて、ゆっくりじっくりと・・・
ますます訳が分からなくなっちゃう!?
まぁ、訳が分からなくなっちゃって、ちんぷんかんぷん理解できなくって、「そりゃおかしいよぉ!」とか想っちゃったんだけど、心の何処かに違和感を感じて、気になって仕方が無いから、”野中柊”を読み耽った私が、こんなことを言っちゃうのも、なんなんだけれども。

物語は、とある初夏の日曜日の昼下がり、別れた夫・ウィリーと、愛猫・ユキオの埋葬のため待ち合わせをした鎌倉駅に向かう”鹿の子”の、その日の夕方までのたったの数時間が描かれる。描かれるのは、たったの数時間であっても、ふたりと、ふたりの間に積み重ねられた想い出は、それだけで173ページの物語となる。
今現在は、それぞれに別々のパートナーと結婚し、営まれる日常の生活がある。それぞれが、その必要があって出会い、恋に落ち、結婚の契りを交わし、共同生活を送る。それまで全く接点を有しなかった、全く赤の他人である人間同士が、何かの不思議な必然に導かれる不思議。それでもやっぱり、所詮は赤の他人。互いに全てを100%理解し合えることは有り得ない。儚い関係。
実は、鹿の子もウィリーも、今現在のパートナーとの関係に、既に亀裂が生じている。だからって訳じゃないけれど、様々な”もしも”が思い浮かぶ。それでもやっぱり、人生における”もしも”は無くって、考えたところでどうしようもなくって、リアルな現実が全て。
ひょんなことから、ある意味では必然に導かれて訪れることになった、横浜のウィリーの自宅。既に、ウィリーをひとり残して、母子(赤ん坊)はカナダに無期限帰国することが決定していて、そんな話しを聞いてしまった鹿の子が、黙ってられなくなっちゃって、放っておけなくなっちゃって、不思議な共感を覚えちゃって、対面を果たす、妻ジュディと、ベイビー ウィリー。ジュディは、生まれ育った複雑な家庭環境から、心に大きな傷を負っていて、何か物憂げ、翳を帯びている。
そんな何かを抱えている大人たちとは対照的に、無邪気な”ベイビー”。
― どうして、こんなことになったんだろう?









「愛でしか作ってません -後藤田ゆ花」読みました。5


愛でしか作ってません
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書評/国内純文学


「”何百人かに一人の女の子に、ホモ好きの遺伝子が組み込まれて生まれて来てしまう・・・” そのひと達のために、あたしは本を作ってるんです。それから、自分自身の同じ遺伝子のために」
本が好き!PJ”からの献本!
幅広い文学の世界に触れるチャンスに、素直に感謝したい。
特に、小説(フィクション)の世界に抱かれる興味。リアルな現実とは隔離した虚構の世界の物語は、現実社会にあっては、生々しすぎて描けない現実を、より生々しくリアルに描くことができる。より生々しくリアルに描かれる虚構の世界の物語は、その存在自体が、既に一般世間において万人受けするものでは有り得なくって、それでも、それだからこそ、その物語の存在に救われて、それを心の拠り所として、生きる勇気を得る人たちがいる。そのことに、その物語の存在の意義があるのであって、当然に多くの当事者たり得ない、理解し得ない人々の発生が大前提ともなろう。
そして私は、自らが知り得ない、理解し得ない世界を、様々な物語を通じて触れ、様々な擬似経験を蓄積できることに、深い悦びを感じる。様々な生々しいリアルな世界に触れることによって得られる、不思議な安心感。自らを「何かがおかしい、ヘンなんじゃないか!?」と漠然と心の内に抱いていた不安が氷解する。

物語の大部分は、BL(ボーイズラブ)の”遺伝子”。遺伝子だから、確率の問題でしかなく、誰しもが持ち得る。誰しもが持ち得るということは、他人事ではない。自らがキャリアである可能性を有し、身内の可能性を否定できない。
仮に、遺伝子を否定したとしても、それは既に存在として認知されているものであり、否定された側としては、「やっぱり理解してもらえなかった・・・」でしかなく、自らの内の深い闇に、鍵を掛けて封じ込められる感情。絶対的に存在して有している感情であるにも拘らず、自然に表出することができないことにより生じる歪み。既に自分自身が確立していれば(精神的な大人!?)、自分自身は自分自身でしか有り得なく、自分以外の第三者の多くの理解が得られることが無くても、自分らしく生きる選択もできるであろう。しかし、”精神的な大人”として確立するまでの道のりは長く険しい。年齢が若ければ、それだけでも、精神的な不安を乗り越えることが困難であろう。

文学を扱う、出版業界の意義。
広く一般世間に、文字という媒体を経由して伝達する情報。
時流に乗って、刻々と変わり行く世界、変わり得ない世界。

勤務する出版社の倒産という事件を通して、浮かび上がる本質。
強靭なBL遺伝子を有するが故に、日々の過酷な労働も、事件による無給状態をも耐え、それでも、愛するBLの出版に関わり続ける編集者たち。一方、BL遺伝子を有しないことを、事件によって自覚し、自らの新たな道を歩み始める人たち。そして、事件を真正面から捉え、真剣に挑んだ結果、新たな展開(小説家)が開けちゃった著者”後藤田ゆ花”。
ある意味では、事件が発生しなければ、それぞれの本質に迫ることもなく、何事も引き起こされることなく、何も変わらないままに過ぎ去ってしまったのかもしれない。
「作家はそのまま書いちゃだめなんだよ。取材したことをそのまま原稿にするのは、作家のやることじゃない。君のやることじゃない。― そうだろ?」
正直、”作家デビューと”いう羨ましい物語は、それでも、その必然に導かれた、過程の出来事。








「プリズム -野中柊」読みました。5


プリズム
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書評/国内純文学



「ねえ。波子ちゃん、だれかを裏切ったり、裏切られたってことは、人生で最高の贅沢じゃないかなあ?」と言った。
妙にのんびりとした、穏やかな口調だった。
「だって、そもそも愛がなければ、裏切りだってないわけだものね。愛に恵まれただけでもすごいことなのに、それでも満たされなくて、裏切りをやらかすんでしょう?なんだか、ギャンブルみたい。気前がいいなあって思う。すべてを失う可能性だってあるはずなのに、自分の運を妄信して、生命力と感情を惜しみなくじゃんじゃん使ってるって感じだよね」
揺るぎないものなんて、なにもない。このバーの片隅に置いてあるガラスのクリスマスツリーのように、たいせつにしたいものほど、きっと壊れやすい。

誰にも薦めたくないほどに好き♪
野中柊、堪え切れなくて、夜更けに嗚咽をあげながら読み耽る、幸福感。痛い、切ない、哀しい、だから、好い。

物語は、幼少の頃の”記憶”から始まる。
実母の死。
幼少の頃に、妄想の中にも明確に描かれた実母の死、”葬儀”のシーン、三歳くらいの私。それでもそれは、父を捨て、私を捨て、家族をも全て捨て去り、目覚めてしまった真実の愛を貫くために、家を飛び出した実母を、その存在を否定したい忌避する感情と、それでもやっぱり寂しくて不安で恋しくて、何かを求める、その様々な存在に対する意識の混濁?!
そして、現実に訪れた、リアルな57歳の実母の死。
大切な人の”死”、存在の消滅が、その不存在が意識させる存在。
33歳、結婚7年目の女性『波子』の視点で描かれる。夫、家族、友人、恋愛、結婚。
勤務医の夫「幸正さん」とふたりの生活。自らも、薬剤師の資格を活かして、週に三回だけ街の薬局でのパートをする、経済的に豊かで何不自由なく、時に友人とのパーティーを愉しむ位に、満ち足りた生活。平穏無事で、他人も羨む仲睦まじい夫婦。誰がどう見ても、幸福に満たされた夫婦、としか見えない。
彼女の生まれ育った家庭環境はちょっとだけ複雑で、他の男の人との愛を貫いてしまった実母には、波子と八歳違いの弟「圭吾」がいて、ある意味では実母を奪い取った男「宮野さん」と、実母亡き後、男ふたりで暮らす。実母が生前の頃から親交がある。
父は、波子との長いふたり暮しを経て、若い女性(父の13歳下、波子の13歳上)の「香奈枝ちゃん」と結婚して、波子と13歳違いの妹「梨香」をもうける。家族という感覚が希薄な環境。
「結婚」という法律的な手続きを経た夫婦によって形成される「家族」。
不思議なバランスを保ちながら、それでも、互いが互いに何かを感じ合ってているからこそ、保たれる関係。血の繋がり、法的な制度、元々が他人同士の関係だから、何かのキッカケで共同生活を営むに至った、でしかない。
仲睦まじい夫婦は、夫の親友「高槻さん」夫婦との親交が深い。子供がいない、開業医の「高槻さん」は遊び人風な気さくな男性で、お洒落なレストランやバーで、四人の時間を愉しむ。奥さんの「紀代美さん」との女性同士、直接の連絡も取り合う仲に。こちらも、仲睦まじい夫婦。
それなのに、そんな高槻さんが離婚しちゃって、それぞれの関係に狂いが生じる。


だから、”プリズム”。
光が屈折して、はじめて虹になる。分散した光のベクトル。光の波長としての色。
光がまっすぐに降り注いでいるときには目にすることができない、美しい、あまりに儚い色の帯。光が屈折して分散したときに、七つの色が見える。

それぞれが、必ず心の内に有している、まるで”口の中で転がす大きな飴玉”のような”何か”。素直にまっすぐにありたいけれど、人間という生き物が、感情を有している以上、常に素直にまっすぐに、はいられない。絶対的な歪みを、自らの内に有している。歪みを有していない人間など、この世に存在し得ない。その歪みが、大木か小さいかの違いこそあれ。

自らの歪みの存在を認識することができて、それを全面的に自らのものとして受け容れることができて、初めて、相手の歪みを感じることができる。それでも、歪みの真相は、当事者以外には全てを理解し得ない。当事者以外の第三者が全てを理解することは、絶対的に不可能であろう。たとえそれが、血を分けた親子や兄弟姉妹であっても、結婚という契りを交わした夫婦であっても。
それでも、相手の歪みを、その痛みに理解を示し、共感を示すこと。

人間という生き物は、どうしてこうもすぐに過ちを犯すのであろうか?
それでも、私自身を考えても、絶対に過ちを犯さない、という自信は無い。
行為や行動が、必然に導かれて引き起こされる以上、”過ち”ということ自体が存在しないのかもしれない。世間一般、若しくは個人的な概念から考えるに、「過ちであろう」、と想定される事柄も、実は当事者にとっては必然でしかないのかもしれない。
結婚ってなんなのかしらね?









もしも、幸正さんと私のあいだに決して切れない絆があるならば、また出会えるかもしれない、ふたたび一対一で向き合う勇気を持って。その可能性に賭けてみたいとも思う。わからない―
まだ、わからないけれど。


「年下恋愛 -梅田みか」読みました。5


年下恋愛
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「よく分からない・・・」、と言ってみる。
現在の私が知り得ない、異質な世界。
だから、「よく分からない」、なのであり、単純に「私には興味が抱けない」、であり、「そういう世界があるんだ」、でしかなく、「そういう世界が、世の中には受け容れられているのだろう」、と率直に感じた。
ただただ、「色々な世界がある」、と今更ながら感じた。

本が好き!PJ”からの献本。
先日読了、同じマガジンハウス出版の「バージョンアップ はちきれそうなあたしの12か月 -小泉 すみれ」と同じ括りで、自らの知り得ない異質なものに対する興味から手にしている。
悪しからず。

二作を比較すると、本作により深い違和感を覚える。
軽い拒否反応を示す。物語に入り込めない。
正直、軽い苛立ちを覚えたままに、物語は呆気なく終わりを迎えてしまった。
ところが、私が読了までに費やした数時間を、決して無為なものとしたくないという本能が、必死に私に理由付けを考えさせる。根っからの貧乏性でドケチな私は、一分一秒であっても無為に過ごしたくはないのである。既に過ぎ去ってしまった時間は、決して取り戻すことができないのであるから、それを結果として無為なものとしないために、何かひとつでも自らの身にしたい。たったひとつでも、自らの身になることによって、その費やされた時間は、無為ではなく、有意と成り得る。ところが一方では、何かの必然に導かれて手にした事実がある以上、現時点という、歳月における瞬間地点においては無為と思えた事柄が、その後の別の瞬間には、ふと記憶の奥深くから湧き上がり、不思議な活躍をなす。だから実は、自らの行動に、一切の無意味な事柄など有り得ない、とも言える。仮にそれが、現時点における自らの本意ではなく、自分以外の第三者による作為の下に執り行なわれた事実が明確であったとしても、それでもそこには必然に導かれた”何か”の存在を否定できない。
そう考えるに、常に自らの器を少し超過する負荷を掛け続け、真摯に与えられた現状を受け容れ、目先の利益や感情に惑わされることを避けたい。避けたい、と感じているということは、現状では私にはそれができていない、であり、だからこそ、感じたままの正直な感情としての「理解し得ない、違和感、不快感」も、それはそれとして表明し、また自らの内に受け容れる、のである。


人気脚本家”梅田みか”が描く、大人の女性の恋愛小説は、まるでTVの”トレンディードラマ(死語と化しているらしい・・・)”、そのもの。
著者の”梅田みか”は、劇作家梅田晴夫を父に、経営コンサルタント梅田望夫を兄に持つ、エリート?!の家系。それだけでも話題となり、何かと注目を浴びる。羨ましくもあり、一方では、それはそれで大変だろう、との想いもあり、それでもそれは、それぞれに与えられた環境であり、「そういうものなんだ」、でしかない。

物語は、カッコ好く颯爽と仕事をこなす女性(36歳、バツイチ)が主人公。編集者を経て、外資系IT関連企業のウェブデザイナーにして中間管理職として、バリバリ働くキャリアウーマン。親友たちも皆、仕事に励み、生活感を感じさせない、お洒落なライフスタイルを営む。
なるほど、”トレンディドラマ”の特徴として、
バブル期の女性の願望を具現化、であり、
ヒロインは「等身大の女性像」として積極的な性格に描かれ、がさつだったり、わがままだったり、おてんばだったりするが、あっけらかんとした明るい性格で、視聴者に親近感をもたせた描きかたをされる、であり、
物語は飽くまでお洒落且つ軽いタッチで描かれ、表面上は決してドロドロしないことが多い、であり、
視聴者には最も視聴率の取れる主婦、OL層、社会人層をターゲットとした娯楽作品。概ね20〜35歳程度の女性を中心とした視聴者(F1層)をターゲットとし、低年齢者や高齢層はあまり対象としていない
』(Wikipediaより)
まさに、言い得て妙。

それでも、私も、そのような素敵で華やかな生活に対する憧れが全く無い訳ではない。烈しく憧れていた時期があったことを否定しない。
恥ずかしいことに、20代前半には、「東京タワーの夜景が美しい部屋での生活」を何度となく口外してきた。
誰にでも、平等にチャンスが与えられていて、そのチャンスを獲得する権利があると、おぼろげな頭で錯覚を繰り返していた時期、いわゆる”若い男”。得るための努力を自らが積み重ねることなく、得られた栄光の翳に垣間見える、想像を絶する不断の努力に目を向けることなく、ただただぼんやりしていて、天からチャンスが降ってくるかのような、それは錯覚でしかない。仮に幸運に恵まれて、チャンスが与えられたとしても、自らの器を拡げる日々の努力の積み重ねが無ければ、決して自らの身に付くことがなく、本来のあるべき姿(自らの器の大きさ、レベル)に落ち着く。だからこそ、瞬間の運不運に惑わされる必要性を感じず、自らの将来を見据えた不断の努力に勝るものは無い。中流階級未満の、”持たざる者”の現実。
とはいえ、一方の中流階級以上の豊かな資産を”持っている者”であるエリートには、彼らなりの不断の努力が要求される。持っている者には、持てる者だけが有する苦悩。持っているが故に生じる悩みや苦しみがあり、持っていないことの気楽さ。
だから、どちらがいいとか悪いではなく、「そういうものなんだ」、でしかない。

そして、”中間管理職”として活躍する主人公。残念ながら、物語において、私には全くイメージが湧かないのではあるが、きっと、TVドラマであれば、江角マキコ(旧い?!)あたりが、若い男性部下を「キミは!」などと恫喝している図式?!、かしら・・・
軽薄な、とか、陳腐な、と私が言ってみたところで、それを興味深く愉しむ視聴者(読者)が存在していて、そこに潜在的な需要がある訳で、私個人がそれを否定することに意義をを感じない。だからこれも、「そういうものなんだ」、でしかない。
思うに、”組織”とは可笑しなもので、こちらも当然に必然に導かれて構成される。組織についても、瞬間のみを捉えれば、不公平や不条理を感じることがあったとしても、中長期の歳月の中において、その構成の意義が見えてくる不思議。そう考えるに、組織を構成する人員において、不必要な存在などは有り得ない。必要に導かれて構成されるのが組織であり、その必然に導かれて、時々に形を変える。
その組織構成の要である”管理職”。極論ではあるが、管理職が優秀である必要は無い。むしろ、優秀じゃない、仕事をしない、無能な管理職が、組織に与える効用が小さくない。それでも、管理職という存在は、管理職が組織する構成員(一般スタッフ)たちとは、全く異質な存在なのであり、スタッフたちに要求される職務と、管理職に要求される職務は、一致することが無い。組織と、組織を構成する個人個人を活かし、マネジメント・プロデュースするのが管理職に与えられる大きな職務であろう。と考えるのも、それでもそれは私個人の考えでしかなく、求められる形はひとつではない。
だから、年下の部下との恋愛!?、でも、いいのであろう。ただただ、頑なな私には理解し得ない、というだけでしかない。などと考えつつ、それでも私自身が、若い女性スタッフとただならぬ関係に至らぬだけの強い意志を貫き通せる自信は無い。考えるに、その必然があるのであれば、それはそれで、「そういうことなんだ」であるのであろうか?
とどのつまり、既に引き起こされてしまった”行為・行動”が、どこまでも結果として表れたものでしかなく、その行為・行動に至る何らかの要因があり、その必然に導かれて生じるものであり、当事者以外の第三者には知り得ない、その要因や必然の理解をすることなく下される、当事者以外の第三者の判断には、単純に同調することができない。

テレビドラマに対する興味を失い、文学作品に抱かれる興味。









「獄中記 -佐藤優」読みました。5


獄中記
著者: 佐藤優
単行本: 508ページ
出版社: 岩波書店 (2006/12)



国策捜査とは、いわゆる冤罪事件とは異なる。冤罪事件とは、捜査当局が犯罪を摘発する過程で無理や過ちが生じ、無実の人を犯人としてしまったにもかかわらず、捜査当局の組織保全や面子のためにそれを認めず、犯罪として処理することを強行することだ。
これに対して、国策捜査とは、私の理解では、国家がいわば「自己保存の本能」に基づいて、検察を道具にして政治事件を作り出していくのである。初めから特定の人物を断罪することが想定された上で捜査が始まるのである。・・・

本件は国策捜査である。
普通の捜査は、犯罪を摘発するために行う。
これに対して国策捜査とは、政治的思惑から、まず特定の人物がターゲットに設定される。そしてターゲットに設定された人物に何としても、検察はそれこそ念力でも眼力でも犯罪を見出そうとするか、見出せない場合には犯罪を作ることになると私は理解している。


なるほど、国策捜査とは、そういうことだったのか。知らなかった。

以前(2007年2月)に”本が好き!PJ”から献本を受けた「北方領土 特命交渉 -鈴木宗男・佐藤優」の記憶から、何かを感じて手にした。

外務省の元主任分析官”佐藤優”が、2002年5月に背任容疑で逮捕され、東京拘置所にて512日間の勾留。2007年1月、東京高等裁判所は地裁判決(懲役2年6ヶ月 執行猶予4年)を支持し控訴を棄却。
鈴木宗男代議士との深い関係。
キリスト教徒

本書は、東京拘置所での521日間の拘留中に書き記した日記、同僚や友人、弁護士らに綴った書簡を収録する、500ページ超の生々しい記録の大作。
これでも、五分の一に圧縮したという。

国策捜査の意義については”佐藤優”が語る通り、その必要があって引き起こされ、結果的には歳月を経た後に自然な流れに落ち着くことから、善悪を問うことに意義を感じない。
何らかの国家的、政治的、社会的必要であり、必然に導かれて引き起こされた”国策捜査”。

ある意味では、必然に導かれた、今回の”国策捜査”は、既に然るべき方向へと歩みを進めている。
歴史に”もしも”は無い。
”佐藤優”は、外務省という閉ざされた空間から飛躍して、日本のみならず世界のための幅広い活躍の場を得た!?
これだけ優秀な情報分析能力を有する”佐藤優”が、琉球大学ではなく、同志社大学神学部に進学し、同大学院神学研究科修了後、外務省に入省し、海外を巡り、主にロシア外交の情報分析のプロフェッショナルとして名を馳せる。様々な人脈を構築し、様々な経験を積み重ね、同時に大学で教鞭を振るう。そして、鈴木宗男との出会い。
そして何より、ある意味では特殊な”獄中”(東京拘置所)での時間。勾留期間が短ければ、ここまでの考察は得られなかった。それは、本書における記述からも垣間見える。時間を経るごとに深まりをみせる記述。展開される論理構成、理論展開に、正直、後半は理解し得なかった。

どうやら、国策捜査は、旧くから日常的に行われていた。
旧くは、キリストであり、近くは戦後まで、治安維持を目的とした、言論や思想の自由の制限。
著名な記述書の多くが獄中で執筆された歴史的事実。









「バージョンアップ はちきれそうなあたしの12か月 -小泉 すみれ」読みました。5


バージョンアップ はちきれそうなあたしの12か月
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livedoor BOOKS
書評/国内純文学



本が好き!PJ”からの献本。
実は、密かな興味を抱きながら、それでも、おぢさんの私の守備範囲では無い、若いトレンディー(?!)な女性向けの著作であろう、との想いで動向を見守っていた。案の定、本好きを自認するPJメンバーには、不向きなのであろうか、献本数が伸びない。
という訳で、不純な動機で献本を受ける。あしからず。

と書き記しつつ、それでは「純然たる動機とは?」、と考えるに、現実的には既に手にした時点において、確固たる動機が生じている。「やっぱり読んでみたい!」、なのであり、読んで好かった♪、である。この著作をキッカケとして、若い女性が”読書”に目を向けたら、それでいい!?
だって、この世に存在している全てのモノは、その必要があって、必然に導かれて存在している訳で、それを万人が受け入れ、万人に理解される必要は無い。必要とする人の求めに応じることができれば、それでよかろう。


ところで、女性にとって人生の大きなイベントに”結婚”があろう。
結婚は、決してゴールではないものの、ひとつの節目となる大きな目標と成り得る。
漠然と想い描かれる”幸せな結婚生活”。

でも、”幸せな結婚生活”の前には、素敵な恋愛が必要で、素敵な恋愛をするためには、素敵な相手に見合うだけの自分自身が必要とされ、自分自身の”バージョンアップ”が必要となる。
その”バージョンアップ”には、女性ならではの、「いつまでも美しくありたい!」、という願望があり、美しくありたい!、は、”ダイエット”に直結する。

物語では、様々な”ダイエット作戦”が展開される。
その是非を問うつもりは無いが、男の私にとっては理解し得ない、若い女性が抱く”美”意識。痩せて、細身であることを、強く望む。望んで、満たされるのであれば、それをするのは本人の自由でもあろう。ところが、望んでるのに行動や結果が伴わずに、逆に蓄積されるストレスによる不調、若しくは、無理な行為や行動による体調不良や精神の失調。
然るに、”ダイエット”は、表面に表れる行動パターンのひとつであり、その行動に駆り立てられる女性の心理に抱かれる興味。

だから、物語の早い段階で、
肥満も体内が汚れているという意味で問題・・・
であり、無理なダイエットを戒め、人間としての内面であり、本質的な意味での”バージョンアップ”を目指す。体の”冷え”など、身体の根本的な問題をも掘り下げる。
そして、誰しもが生きていればそれだけで、それぞれに何らかの悩みを抱えていて、それでもそれは根本的な解決が図られなければ、大小の変化や波はあっても、決して解消されることが無く、時や形を変えて必ず廻り来る。だからこそ、その「お悩みループ」を断ち切るのは、自分自身の意思でしかなく、時に痛みや苦しみを伴う行動を起こし、強い信念の下に継続しなければならない。まずは、辛いけれども、現状の自分自身を全て受け入れ、その上で明確な目標を定め、具体的な目的の下の計画的な行動。
その地道な作業の積み重ね以外に、人生に近道は有り得ない。
ラクをして得られる果実は、それなりでしかない。

そしてまた、転職した主人公が、職場の先輩に感じる嫉妬、羨望、絶望感。
子役時代の縁深い、憧れだった先輩との運命的な再開を果たし、憧れの先輩が経営する”ハウスウエディング”の会社に、めでたく引き抜きされる。旧知の仲ではあっても、現実社会で頼りになるのは、自分の会社を支える信頼を置ける仲間(スタッフ)であり、その代表取締役が負うべき責任は重い。だからこそ、優秀なスタッフに寄せる特別な想い。その想いがあるから、ますます頑張って、いい仕事ができる。そして、その優秀なスタッフのためにも、社長は、会社の発展であり、繁栄を使命とする。だから、引き抜きだって、企業戦略上、絶対的に必要とされる。
優秀なスタッフは、社運を賭けて引き抜いてきた優秀な人材(主人公)を育成する使命を担う。引き抜かれた優秀な人材(主人公)の、それまでに培われたプライド(過去)と、現時点において、リアルに会社に必要とされているプライドの衝突。互いに真剣であるからこそ、烈しく散る火花。結果は明白で、過去のプライドを捨て去ることができなければ、その人間は過去の人間でしか有り得なく、組織(会社)に必要とされない。現在に生き残ることができない。結果が明白なだけに、全面的に受け容れる以外には有り得ないからこそ、嫉妬するのであり、その敗北感や挫折感が、人間性の成長の糧となる。

そしてそれは、時に、幼少の時には反りが合わなかった”姉”であったりもして、しかも、親の離婚を経た別居によって、互いが仕事を有して自覚が高まるにつれて、深まる溝。互いに、血の繋がりがあるが故に、深い思い遣りの感情を有しているにも拘らず、表出するのは羨望や嫉妬、解けることが無い”わだかまり”であったりもする。

人間であれば、誰しもが持ち得る感情であり、本能的に有する感情。決して恥ずかしがって、隠すことは無い。隠すことによって生じる心の内の歪みの方が、根深い問題を引き起こす。誰しもが持ち得る感情であるのだから、だからといって、傍若無人な態度が許されることは決して無いけれど、自然である方が好ましかろう。


日常生活を営む上で、仕事が占めるウエートは大きく、仕事によって得られる対価(給料)によって、生活は営まれる。だから仕事は大切。だからといって、仕事だけに勤しめばいい、という訳ではなく、仕事以外の世界を有することが、人間性の向上(バージョンアップ)に意味を有する。
気心の知れた同姓異性を問わず友人が居て、同僚や先輩後輩が居て、親兄弟姉妹が居て、それぞれが個性を有し、共存する。
人間のひとりの力は、弱く儚い。

それでも、最終的には、自らとの対話を避けて、”バージョンアップ”して「自分を変える」ことは成し得ない。
だからこそ、
走ること。それはひとりで自分と向き合ういい時間だった。
ひとりぼっちで地面を蹴って進んでいく、それだけのことがひどくすがすがしい。
とにかく足を止めないことが重要で、少しずつでも進んでいけば、必ずその日のぶんは走り抜ける。その日を走り抜くと、また明日も走りたくってたまらなくなる。


そして、後述される”参考文献”の豊富さに驚愕を覚える。
この著作を書き綴るために費やした労力。身を削り、魂を籠めた作品。その想い。

だからこそ、本当に手にして欲しい”若い女性”の興味を惹く”ダイエット”を前面に出して、時流に乗った設定で、時に軽く展開される物語の、その必要性。


マガジンハウスから出版されている「アンアン anan」のHP(anan web)で話題の連載小説の書籍化。恋と仕事とダイエット。女の子の永遠の大命題に挑んだ注目作品と評される。

特設HPに描かれるイラストが、読後の登場人物たちに馴染みを覚え、さらに豊かなイメージを膨らませる。








「見えない橋 -吉村昭」読みました。5


見えない橋
著者: 吉村昭
単行本: 232ページ
出版社: 文藝春秋 (2002/07)




”人間は、過ちを犯す生き物であり、そして誰しもが必ず死ぬ・・・”

吉村昭、短篇小説全七篇。じんわりと、静かに深く、心に沁み込む。
それでも、描かれる世界は、あくまでも”吉村昭”の世界でしかない。
吉村昭が、その人生において、描きたいと心に強く感じた物語たち。
最後の50年前に描かれた作品「夜の道」の妙。若かりし20歳代、自らが大病を患い、最愛の母を癌による闘病の末に亡くした時の私小説。その記憶や想いは、50年の歳月を経てもなお不変。それだけの大きな出来事。


実は、本に依存して生きている私は、携える本が絶えることを避けるためにも、併読を常とする。この著作が、500ページ超の獄中における記録の著作の読中に、割り込む形となった不可思議。多少の混同は、深まる相互理解を優先する。必然に導かれる心地好さを堪能する。

共同生活における秩序の維持、社会的必要悪などから、法に触れ、罪を犯し、国家(刑務所・拘置所など)の世話になる人たち。果たして、彼らは特別に”悪い人間”なのであろうか?
結果的に、彼らが起こしてしまった行為が、決して許されるものではないことに、異論は無いし、何ら変わりは無い、変わりようが無い、結果的に”悪かった”から、それなりの制裁を受けた。自らが引き起こした行動は、自らが最後まで責任を負うべきである。それが、どんなに些細なことであろうとも。時間を巻き戻して、行動を取り消すこと、遣り直すことはできない。
人間が過ちを犯してしまうという事実が、絶対的に存在する以上、既に犯してしまった罪は、その自らの責任において償えばいい。その過ちを犯すに至った心の内は、本人以外には理解し得ない。理由無くして、行為が引き起こされることは有り得ない。何らかの理由が存在して、行為が引き起こされる。だからこそ、犯してしまった罪を自ら認め、自らの責任において全てを受け入れ、自らとの対峙。自分自身以外の第三者には知り得ない、自らの内に秘められた理由の追求。特に、橋本治曰く”若い男”をはじめとして、この世の中には「相手の気持ちを考えない」存在に溢れる。考える必要を感じることなく、何となく生きてきてしまって、考えることをしなかった、のであって、考えたことが無い、でしかない。
残念ながら、その必要に迫られて、悩み苦しみ、時に烈しい痛みを伴い、初めて自らとの対峙を果たす。ある意味では、その機会が訪れることが無い人生を”幸せ”、とも。
何をもってして、”幸せ”とするのか?

知らないことによる”幸せ”もあろう。知ることは、ある意味では”辛い”。辛く厳しい現実を受け入れることは、時に痛みを伴う。

戦争により、最愛の夫を失った女性に、歴史小説の取材で知り得た、夫の残酷な死際を伝える「夜光虫」。充分な調査によって書き綴った歴史小説における、重要な部分であるから、その詳細な記述を避けることはできない。知り得てしまったが故に、その歴史的事実を後世に遺す必要を強く感じたからこそ、書き記した物語。物語として、広く世間一般に発表するからには、親族には、知り得た事実を事前に知らせ、その真実と真意を伝える配慮が必要とされる。現実を突き付けられる親族も辛いが、伝える著者も辛い。それでも、その歴史的な崇高な意義に駆り立てられ、その職務(?!)を全うする。取材によって知り得る悦び、伝え遺す現実の重み。
それだけに、その記憶が決して消え失せることは無く、その真意の理解が得られたときの安堵感。それは、ひとつの優れた短篇小説を生み出す物語と成り得る。


この世に生を受け、生まれ出でたその瞬間から、”死”に向けた人生の歩みが始まる。
それでも、決して”死”を美化することに、意義を感じることは無い。”死”が人生におけるゴールであるとも思えない。

現実的に、現在に私に”死”は訪れない。
仮に、自らの命を絶つ行為に、衝動に駆り立てられたとしても、きっと、命を落とすことが許されず、ただただ生き恥を晒す結果を、明確に想像できる。あまりにも自らの人生が中途半端すぎて、このままでは、死なせてもらえる気がしない。自分自身の命でありながら、第三者がその自由さえも許さないなど、大いなる矛盾に満ちた概念ではあるが、そう感じるのだから仕方が無い。

だから、生きる。
自らが過ちに満ちた存在であるが故に、全てを受け容れて”生きる”、
この世に存在し得た、その意義を全うしたい。
生きたい・・・









「街の不動産屋さん、”待ち”の経営から抜け出す -金丸信一」読みました。5


街の不動産屋さん、“待ち”の経営から抜け出す
著者: 金丸信一
単行本: 246ページ
出版社: さくらパブリッシング (2006/01)




業務命令により読んだ。
所詮しがないサラリーマン、業務命令には速やかに従う。

本書は、中小の不動産屋さんの営業支援システム「@dream2000」を開発した、埼玉県所沢市にあるシステム開発メーカー リングアンドリンク株式会社の、専務(現在は社長?!)にして技術者の著者 金丸信一が、開発に至る想い、その必要性を説く。だから、システムの販売促進ツールとしての意味を有する。それでも、不動産業界を外側から客観視した視点が、顧客満足を目指す企業として、当然に必要とされよう。
実は、不動産業界に従事して12年を経過する私も、明確な目的と意思を有して不動産業界に飛び込んだ訳ではなく、当時”若い男”だった私は「何となく、必然に導かれちゃって、気が付いたら・・・」であって、やっぱり「不動産屋さんはコワイ!?、でも、儲かる?!」と思っていた。で、一時的には、「いい思いをしたこともある」ことを否定しない。それでもやっぱり、世の中は上手くできている。自らの器の大きさを越える果実は、器からこぼれ落ち、決して身に付くことは無い。仮に一時的に沢山の果実を得たとしても、その前後を均して考えると、結果的に身の丈に合っている。
ところで、「不動産業界が儲かる」理由には、業界としての閉鎖性があげられる。規制緩和政策による自由化の波を受けても、改変されることがない「不動産業界独自のルール」。業者間登録物件の流通機構(通称”レインズ”)は、一般消費者に不動産情報を公開しない。取引に伴う報酬”仲介手数料”には、法規定(成約価格の3.15%+6.3万円の上限規定)があり、自由化されていない。インターネットの急速な普及によってもなお、閉鎖性が保たれて、規制が成されている恩恵は、決して小さくない。だから、大きな声では言えない。
そんな特殊(歪みを有し、時代遅れ!?)な業界だからこそ、商機(ビジネスチャンス)が多分に潜在している訳で、目の付け所が素晴らしい。

確か、システム自体は約100万円位で、数人規模の不動産屋さんが真面目にコツコツと運用していくことにより、効果が得られ易い、簡易な操作で汎用性も高い。
売りっ放しでは無く、むしろ、その後のサービスや支援に優れる。


そして、ここからは自慢話(?!)になってしまうが、その概念(顧客化)と理念(顧客満足の向上)を同じくし、自社開発により、不動産物件情報と顧客情報のデータベースの構築、顧客への会員サービスを成し遂げちゃった不動産仲介業者、そんな会社に在籍している。
だから、従業者教育の一環として、システムの理解、その概念や理念の習得が求められる。そして、ある意味では、特殊な業界にいるからこそ、一般的な世の中の仕組みの理解。

”四秒”と”二週間”、顧客化。









「つばめの来る日 -橋本治」読みました。5


つばめの来る日
著者: 橋本治
単行本: 273ページ
出版社: 角川書店 (1999/07)



「人間は、誰でも独りだ」と、信一は、落ち込むことなく実感した。人が点在する干潟の上に光を落としている太陽が一つしかないのと同じように、アヒルのようにあちこちを掘り回している雄太を見る信一も、独りだった。
 〜「潮干狩」

やっぱり好い!、橋本治の短篇小説、全九篇。
オビに「本当の私を誰かに打ちあけたいあなたに −優しくて切ない男たちの物語」とある。

考えてみたら、”男”の物語は少ない。
喜久雄の服に対する感覚は、女性に対するそれと似ている。喜久雄はもちろんそんなことに気がつかないのだが、「相手の気持ちを考えない」という点で、喜久雄の接し方は、服に対しても女に対しても同じなのである。若い女を目の前にしたら、胸の谷間かその辺りを見て、「やれるか、やれないか」しか考えない。服も女もおんなじなのである。
 〜「歯ブラシ」

とどのつまりが、多くの男たちは、普通に「相手の気持ちを考えない」。
だから、男はその存在自体が物語として描き難い。
心が烈しく揺れ動くから、その揺れ動く様が物語として成り立つ訳で、どんなに特別な事態に陥ったとしても、心が揺れ動くことが無ければ、物語になり得ない。

だから、「あじフライ」で、
高校生のときから”同性愛”に目覚めてしまった大学生の息子。彼は、
「始末の悪い、へんな気持の悪い生き物かもしれないんだ」
と、自らを恥ずかしく思う。
それが思春期に特有の自意識過剰現象だということを、保が誰からも教えてもらえなかったのは、保がそうしたことを決して口にしようとしなかったからだ。
でも、そんなことは口にできないよ〜。
やっぱり、口にできないのは、相手の気持ちを考えない、からに他ならない。
それでも、保は、その相手を愛する想いを否定しない。相手の存在であり人間性の素晴らしさに、その事実に間違いは無いから。だからこそ、相手の気持ちを、真剣に真剣に考える。考えれば考えるほど、気持ちは高まるものの、思考は自らの内側に揺るぎ無いものとして構築される。で、
「嫌われてもいいけれど、でも好きになってもらいたくない」
になってしまい、
「僕がゲイとかなんとかということとは関係ないことで高峯くんに嫌われるならいいけど、でも、僕がゲイだという理由で高峯くんに嫌われるのは絶対いやだ」
と、16歳にして潔癖は誓ってしまう。それでもやっぱり、誰にも苦悩を打ち明けられない。苦しい、苦しい、苦しすぎる。ひとりぼっちを自覚して、決して誰にも素顔を見せることなく、さりげなく生きていく。
もう、いいとか悪いとか、そんなレベルじゃなくって、
「人とは違う」という思い込みの負い目が、「人とは同じでいたくない」というプライドを保の中に育てていた。
ホントに、男って生き物は、特に”若い男”は、そんなくだらないプライドにでも縋ってでもいないと、生きていけないほどに”弱い”。でもね、”弱い”から、その”弱さ”を自覚するからこそ、強くなりたいと思い、強くなるための努力によって、強くなっていくのだから、その経験が絶対的に必要で、その経験を乗り超えることが、本物の”男”になるための絶対条件とも。
大学生の保は、若い男であり、まだ、本物の男ではない。だから、つらく苦しい。冷たく凍えるような想い。寂しい。
「自分を好きになってほしい」
という、一番肝心な言葉が自分の中で凍りつく。寒い。
だから、
「自分は男が好きだと言いたい」と、保は思った。それだけが、自分のすべてを凍りつかせているのだと思った。「それを口に出来ない」と思うことが、すべての寂しさの元凶なのだと思った。
だから、「言いたい!」と思ってたまらなくなって、家に帰る保。
父親は居ない。居なくて良かった。父親も男。男は「相手の気持ちを考えない」から。
母親は、黙って聞く。母親は女であり、男じゃないから、黙って聞いて「相手の気持ちを考える」ことができる。目の前で、自分の息子が理由も言わずにポロポロ涙を流す、不思議な光景。
「一体、何があったんだろう?」と、母親は思う。「一体どんなにつらいことがあってこの子はこんなにも激しく泣いているのだろう」と思って、母親の良子は、呆然とした。
「もしかしたら、ホモであることは、そんなにもつらいことなのだろうか・・・」
保は声を上げて泣いていて、その泣き声の激しさが、母親の直感に対して「そうだ」と言っているとしか思えなかった。
だから、
「あんた、そんなにつらかったの?」
でしかなく、
息子はうなずいて、母親の目から涙が溢れ出て来るのを見た。
それは怒っているのでもなく悲しんでいるのでもなく、息子の感じてしまった悲しさを知って、それで一緒に慰めてくれている涙だった。










この期に及んでも、
「誰か”いい子だ”と言ってよ」
 〜「角ざとう」
男の哀しい性・・・

「ひな菊とペパーミント -野中柊」読みました。5


ひな菊とペパーミント
著者: 野中柊
単行本: 228ページ
出版社: 講談社 (2005/6/21)


じたばたせずに、なりゆきに任せてみよう。
なにがどうなっても、私はだいじょうぶ。
パパもママも幸せになれる、ぜったい。
これからは、自分で自分に、力強く呪文をかけていくのだ。どんなときも光が射すほうに向かって、ゆったり無理なく進んでいけば、なにもかもが落ち着くべきところに落ち着いて、こうなるはずだったんだね、よかったね、と納得できる日が来るに決まっている。そんな風に信じられた。

いい歳したおっさんがベタ甘ラブロマ好きで何が悪い?!(有川浩「クジラの彼」あとがきのパクリ)、電車の中で薄ら笑み浮かべて、目頭を熱くして・・・
あ〜、止められない、野中柊ワールド。切ない、哀しい、痛い、、、、 だから?!、好き♪

物語の主人公は13歳、中学二年生の少女。
微妙なお年頃の”少女”とはいえ、既に立派な人格や自我を有した”大人”。経験が不足していて、発展の途上にあるから、当然に不安定で不確定な要素を多分に含んでいるけれど、それでも、やっぱり既に無邪気で可愛いだけの”子供”ではない。
10年以上の歳月を、この世で生きている訳だから、少ないながらも人生経験を身に付けて、自立への道を自らの足で歩む。
そして、その10年以上の歳月は、彼女たちの世界で一番大きな存在であろう”家族”の形をも、大きく変える。状況は刻々と変化を続ける。変わらない方が不自然でもあろう。
大人であっても、所詮は人間。人間は過ちを犯す生き物であり、絶対など有り得ない。状況に応じて変化できる順応性や、適度な曖昧さが、この世の中の平穏の秘訣。その平穏の、何事も無い、何の変哲も無い生活がもたらす、本質的な幸せ。「何〜にも無くてツマンナイ」とか「フツー」だからこそ得られる幸福感。


挿入される鼻歌は松田聖子「渚のバルコニー」、1982年4月発表。
物語では、父親の十代の頃のCDコレクションに紛れていた。









「名づけえぬものに触れて -柳美里」読みました。5


名づけえぬものに触れて
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書評/エンタメ・タレント



・・・ もちろん偶然ですが、意味のない偶然などない、とわたしは思っています。
 〜2005年04月15日 夢のあとで 〜

で、わたしはなんでもかんでも書く作家だと思われているでしょう?
わたしは秘密を明かしたことはありません。
わたしにとって、秘密も、秘密にすることも、とても大切なことだからです。
だって、秘密にするほどのことなんだから。
ヒ、ミ、ツ。
 〜2004年10月25日 ひそひそこそこそしないヒミツ 〜

芥川賞作家 柳美里のエッセイ集。
公式サイト「La Valse de Miri -柳美里オフィシャルサイト」内のブログ「名づけえぬものに触れて」(2004年1月7日〜2005年7月7日)に、柳美里自らが書き綴った130篇の著作化。

本が好き!PJ”からの献本。


読み慣れない横書き、上下開き。ページを捲る手が覚束ない。
柔軟性を失い、凝り固まった頭には、正直キツイ。

その表記の意図に、”ブログ”という新たな表現形態の、その表示状態に酷似させることによる臨場感があろう。

不思議な感覚なんですが、死者であるはずのらばるすさんも、現実にはお目にかかっていないネット上の人物だからこそ、まだこの世に存在しているような気がするんです。性別、年齢、国籍 ― ネットは境界のないメディアですが、生死の境さえも、いい意味においても、曖昧にするのではないでしょうか。
 〜インタビュー 日経クリック2005年3月号「日本人とデジタル Vol.7」〜

何の脈略も、緊張感さえも無く、唐突に展開される書き込み。
生活感。生きて、日常生活を送る情景が目に浮かぶ。
好いことだって、悪いことだって、日常の中には、フツーに溢れている。どちらかといえば、好いことは少なく、悪いことは結構多い。それでも、淡々と過ぎ行く毎日。

ブログという表現形態で、気軽に書き込みできるが故に、推敲を重ねた小説作品には見られない、本音が垣間見える。
小説作品に見られる、緊張感に研ぎ澄まされた言葉たちとは、趣を異にする。

息子との生活。自らの腹を痛めて、この世に産み落とした”命”。
亡き東由多加との思い出。
大ベストセラー作”命 四部作”に感動を覚え、全四作とその他何作かを貪るように読み耽った記憶が鮮やかに甦る。ある部分では強い違和感を覚えながら、それでも、目を背けることができず、それでも受け容れることもできなかった、過日の私。

そして、今のカレと幼稚園に通う息子との、三人での共同生活。
カレは学生?!で、創作活動と育児に追われる”柳美里”との、不思議な関係。
子供が居れば、幼稚園での生活リズムや付き合いがあり、地域社会との近所付き合いだってある。面倒臭いけれども、それが現実であり、どんなに避けたとしても、完全にシャットアウトはできない。

書き綴られる言葉。
時折、グッと来る。
堪え切れない。
言葉の力。


ブログが開設された日は、2002年11月に自ら命を絶った”らばるす”さん(柳美里の読者のひとり)の29回目の誕生日。
その日の意義。
そしてその日は、「天才をプロデュース?」著者のオフィス北野 代表取締役 森昌行の誕生日でもあり、何を隠そう私の誕生日でもある偶然。

そして、柳美里の誕生日、6月22日。            
 to Y・・・

空がきれいだね、・・・ ひとりでも思わず口にしています。
 〜2004年11月18日 空 〜









「四畳半神話大系 -森見登美彦」読みました。5


四畳半神話大系
著者: 森見 登美彦
単行本: 290ページ
出版社: 太田出版 (2004/12)




やっぱり”森見登美彦”は、スゴイ!

実は、久し振りの”森見登美彦”は、すっかり忘れていた公立図書館のWeb予約の準備完了メールから。独特の世界を、多彩で巧みな言葉たちを操って展開させる手法に、強い興味を抱き、単行本化されている著作「太陽の塔」、「きつねのはなし」、「新釈 走れメロス 他四篇」と、手にする度に深まる興味。それでも、人間は”忘れる”生き物であり、まぁ、それは一方では、だからこそ愉しく生きることができるのであろうが。
正直、300ページ弱の厚みのある著作で、ページに上下二段の、豊富な文字数に、軽い恐怖心を抱いた。たまたま、ここのところ、何冊か続いたリアルなビジネス書に惑い、個人的な情事から集中力を欠き、同時に図書館から準備完了の著作も500ページ近い著作であったこと、などなどが、重なったことに起因するのではあろうが。

そしてまた、物語の展開が、お得意の京都、大学生、不毛な青春、うら若き黒髪の乙女、、、
哀しいほどに、頭に入らない。それでも、「私は森見登美彦が好きなんだ! 畜生(!?)登美彦の世界を知りたいんだよ〜!?」、などと、自らとの闘いを挑み続け、ひたすら文字を追う。一方で、「だったら止めれば〜♪」、と囁く軟弱な自らとの闘いは、何とも面倒臭い自己満足の世界であり、きっと「だったら止めれば〜♪」が、圧倒的に正しい(?!)ことも承知しつつ。

であるから、ここからは”ネタばれ”になるのかな?!
物語が、タイトルにあるとおり”大系”として、四つに分かれていている。
京都大学三回生の春、”私”が振り返る二年間が、二つ目の物語で全く同じ始まり方をし、ほぼ同じ様な展開を見せ、似たシーンがフラッシュバックし、同じ結末を迎えた瞬間に感じた、軽い嫌悪感。正直に言っちゃうと、嫌悪感であり、違和感であり、を感じちゃった。それでも、同じような展開であろう三つ目の物語を、ほぼ予想通りに読み終えた瞬間に感じた期待感。
「さぁ、森見登美彦は、私にこれだけの根気を持たせて、これだけの文字数を読ませ、相当の時間を費やさせたということは、どれだけの”お愉しみ”を与えてくれるのであろう?!」、と。
何ともいやらしく、驕った考えであるが、心の底から、そう思った。この世の中は、ギブアンドテイクでしょ?!、選んだ私の自己責任は否定しないけれども、それでもやっぱり、提供したものの十分の一ぐらいは、せめて百分の一ぐらいは取り戻したい、それくらいの権利はあるでしょう!?、あ〜、面倒臭い奴♪


ワクワクしながら、物語を愉しんだ♪

流石に大満足とまではいかなかったけど、だって掛けた労力と同等以上の満足感を得ることができなかったから!?、「えっ、欲張り?!、さっき、十分の一でも、百分の一でも、って言ったじゃない?、人間の感情なんて、そんなものでしょう♪ コロコロコロコロ変わって、気紛れで。だから上手くいくことだって多いんじゃない♪?!」
で、映画の様な、映像が浮かび上がり、そして、ミステリーのように謎が謎を呼び、「あっ、なるほどね!、そういうことだったのね!!」、と紐解かれ、明らかにされる物語。

親友の”小津”との深い友情。若者(若い男)の、ある意味では、男女の愛より深い”愛”!?、絆、”青春”!
”四畳半”の美学。正方形の部屋の安定した空間。ひとりの居住空間としての正当性、決して広くはないけれど、必要最小限でありながら、身の丈に合った、支配可能な空間。四畳半の空間にに宿る哲学!?
占い師の予言。”コロッセオ”
黒い靄のような、蛾の大群。
「海底二万海里」
多分、表紙に描かれている?!可愛らしい「もちぐま」


小津は言い放つ、
「慰めるわけじゃないけど、あなたはどんな道を選んでも僕に会っていたと思う。直感的に分かります。それでいずれにしても、僕は全力を尽くしてあなたを駄目にしちゃうからね。運命に抗ってもしょうがないですよ」












 公式サイト(ブログ) 『この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ』 (http://d.hatena.ne.jp/Tomio/)

漫画「ヒメママ1 -玖保キリコ」読みました。5


ヒメママ1
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書評/




何かと頑なな私は、久し振りに漫画に触れた。
本が好き!プロジェクト”からの献本。頭の体操!?
先入観が、勝手な固定概念が、自らの行動の自由を許さない。自らを拘束するのみであれば、それは自分の世界だけの事柄で、周囲への影響を及ぼすことがないのであろうが、その訳の分からない不自由さを、自分以外の第三者である他人にまで要求すると、それはただの傍迷惑でしか有り得ない。

玖保キリコ、そうか、動物占い
鮮明に覚えている、私は”狼(オオカミ)”だった。あまりにも的を得ていて、お気に入りだったりする♪


常に中心に存在しないと気が済まない、そんな”お姫様”気取りの姑”ヒメママ”、結婚してしまった(?!)夫の母親だから、上手く付き合っていくしかなくって、「あ〜、他人だったら笑っていられたのに・・・」な、嫁(ヨメ)の視点から描かれる物語。

老若男女を問わず、必ず居ます。時に、気が付くと、自らもそんな存在だったりするかも、裸の王様!?
だから、”ヒメママ”は、ある意味では、幸せな在り方。
知らぬが仏!?
気が付いてしまったら、そんな態度はできない訳で、気が付いてしまうと、とっても恥ずかしくって、自己嫌悪にも陥っちゃったりしちゃって、結構辛い。それが、気が付くことがなかった、のであるから、幸せであろうと。できることであれば、そのまま、気づくことがなく、天寿を全うすることを、ある意味では祈るばかりである。
性格もあるのかもしれないけれども、気が付いてしまったら、楽じゃないもんね。

それでも、あくまでも、嫁の視点からの一方的な物語であり、姑は、その行動のみが描かれる。姑の世間的に奇異と映る行動に至る思考や背景には言及しない。だからこそ、”漫画”として、ほのぼのと愉しく、微笑ましいのであろうが・・・

また、嫁の立場に抱かれる興味。
嫁は女性であろう。一般的な人間関係において、男は本能的に優越を確立させるために闘いを挑み、女性は関係を築くことに長ける。だからこそ、あくまでも一般的には、女性には妻(嫁)という立場に収まることができて、男は安心して家庭を委ねて、外での仕事に勤しむことできる、あくまでも一般的には。
それでも、人間同士、しかも他人同士の相性なんて、どう考えたって、100%は有り得ない。特に、嫁と姑では、年齢も違えば、生まれや育ちだって、絶対的に相違する訳で、理解し合えることの方が驚異であろう。どちらかが、時に互いに譲り合い、距離を保ってこそ守られる平穏。それまでは赤の他人であったのに、有事がなければ、ずっと続く、続けなければならない関係。


それでも、お姫様や王様がいて、振り回される人たちがいて、保たれるバランスがあろう。









「グラデュエーション デイ―未来を変える24のメッセージ -アンドリュー・アルバネーゼ、佐々田 雅子訳」読みました。5


グラデュエーション デイ―未来を変える24のメッセージ
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書評/歴史・記録(NF)



参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本。
記念すべき(?!)60作品目の書評。
正直、まだまだ”書評”というレベルには到達していないけれど、それでも、コツコツと書き続け、積み上げてきた、ひとつの通過点。
昨年2006年12月にメンバー登録させていただき、約7ヶ月の歳月。この歳月の密度の濃さは、恥ずかしながら、過去に類を見ない、振り返るのも憚られる。
不思議な縁に導かれ、素敵なチャンスを与えていただき、温かく見守っていただいた、担当 清水さんをはじめとする事務局の皆様方に、厚くお礼を申し上げたい。


で、”グラデュエーション デイ−未来を変える24のメッセージ”、
有り難いお話し大集合!
アメリカの著名な大学の卒業式で語られた、著名人たちの24のスピーチ。
旧くは、1838年まで遡る。
大きな意味を有するスピーチであることが理解できた。だから、未来をも変えちゃう可能性を大いに有しているのでもあろう。
歴代の大統領であり、政治家や富豪などの著名人たちが、ある意味では、アメリカ合衆国の未来を担う優秀な若者たちに贈る言葉でもある訳だから、その意味合いは当然に重い、注目を浴びる。その選定にも、様々な策略が垣間見える。時代背景が、色濃く滲み出る。

それでも実は、読み進めるのが辛かった。読了までに、相当な時間を要した。中途に、何冊もの寄り道をしながら、、、
あまりにも有り難過ぎて、頭に入ってこない、雑念が邪魔をする。
そうなのだ、気が付いたら、サラリーマンを長く続けることによって、
”偉い方の、有り難いお話を聞く心構え”
なるものが、
”ギアをニュートラルに入れて、無心に”
に、なっていた。なっていたのだから仕方が無いのでは有るが、考えるに、リアルな現実の話しは、あまりに現実過ぎて、詰まるところがなく、有り難く拝聴するしかない。
もっとも、当初から大人しく拝聴することができなかったからこそ、今現在、無心に全てをほぼ無条件に受け入れることを強調しているのであって、元来、自分以外の第三者である他人の言うことなど、相手がどんなに目上であろうと、偉かろうと何であろうとも、決して受け入れることなど微塵も考えることが無かった。無かったのであるから仕方が無い。悲しいけれど、それが現実。
だから、今でも残念ながら、何処かで演じている私の存在を否定できない。無心にならなければ、受け入れることができない。拒否反応を示す私を封じ込める別の私を演じなければ居られない。
何とも面倒な考え方をするものであり、全く素直さの欠片も見えず、自ら閉口してしまうのではあるが、それが私でもあり、どうにもこうにも仕方が無い。

しかも、哀しいことに、私には”大学”に対するコンプレックスがある。
恥ずかしながら、自らの不勉強、不真面目と、努力不足と、判断能力の欠如などなど、全てが自分自身の責任において、誰のせいでもなく、大学教育を受ける機会を逸した。ただただ、自らの甘えから、勉強したくなかったから勉強しなかった、結果でしかないのではあるが、その代償は小さくない。それでも、何とか現在、生活が営めているのであるから、それをコンプレックスだ、と言ってしまうこと自体も恥ずかしい話しではあるが、それが現実であるから、これもまた仕方が無い。

更に更に、アメリカに対する不信感まではいかないけれども、好きになれない感情。嫌いになったって、否定をしたって、現実的には、ある意味では現在の世界の中心を担っている訳で、だからこそ感じてしまう、驕り、エゴ。まぁ、それくらいの態度を示すことができなければ、世界を制することもできない訳だから、そう考えるに、羨望とも言えなくない。


それでもやっぱり、偉い人たちのお話しは素晴らしい。
私個人のちっぽけな感情をも突き破るほどに興味をそそられる。

時を経て、再読をしたい!
手元に置き、記憶に留めたい!


アメリカ有数の大富豪であり、1996年には大統領選に立候補をも果たした、ロス・ペロー(ross perot)、1994年 ボストン大学にて。
”いちばん。大事なことをいいます。心に愛を抱くのは、ただ、しまっておくためだけではありません。愛はほかへ与えられなければ、愛ではありません。愛を与える人生を送ってください。そうすれば、愛を返してもらえるでしょう。”
最後にこの言葉を残すものの、それまでのスピーチでは、もっぱらビジネスパーソンとしての心構えを説く、
与える人間になってください、もらう人間ではなく。
であり、
皆さんは世界で一番にならなければならないのです。・・・それぞれの第一人者になってください。私は皆さんに、自分の能力を完全に発揮するまでは、夜も眠れないという人間になっていただきたい。・・・
なのである。
優秀なビジネスパーソンである以前に、私たちが、ひとりの人間として、人間らしく生きることが、より重要であることを説く。

それは、”はじめに”にある、
”Boys, be ambitious!”とは、
「人間としてあるべき姿を目指すことにおいてアンビシャスであれ」
であり、その精神に他ならない。


グラデュエーション デイ 公式ブログ プロム「PROM(http://www.graduation-day.net/)も、是非ご覧あれ!










「桃尻娘 -橋本治」読みました。5

桃尻娘
桃尻娘
著者: 橋本治
文庫: 365ページ
出版社: 講談社 (1981/09)




やっとのことで、何とか読み切った。正直、ホッとしている。
橋本治は、決して読み易くない。はっきり言って、読み辛い。
それでも、橋本治が、好きなんだから仕方が無い。
どうしても、デビュー作に触れたかった。だから読んだ。途中で投げ出しそうになったけど、取り敢えず、読み切った。
そしたらやっぱり、それなりに好かった。

”よく分からない”節、炸裂!
1977年、講談社発行の小説誌「小説現代」に発表された小説というから、何と今から遡ること、ちょうど30年前。
確かに、時代を感じさせる表記はあるものの、それでも決して色褪せない、流石。

それは、若者(高校生)が、その存在自体が”よく分からない”のであり、だからこそ若者自身が、自らのことを理解し得ないものであり、その行動についても、理解という概念を超越したものであるから、当然に周囲が理解し得るものでは無く、ある意味ではそれが人間の普遍の真理だから。
だから、既に若者ではないと考えている私には、決して理解し得ない世界であり、「そういうものなんだ」、であり、「そう言えば私もそうだったかも」でしかなくって、細かい記述のひとつひとつを、完全に理解する必要を感じない。

で、桃尻娘のタイトルと、その物語。
今であれば、”性同一性障害”と認知されてはいるものの、同性愛の記述が度々登場する。
嫌悪しようが、忌避しようが、リアルな現実の世の中には、間違いなく存在していてる圧倒的な現実。
ある意味では、文学の必要性は、人間という存在が、それぞれに別個の個性を有し、同じものがふたつと無い独自の存在でありながら、一方では、それぞれに大した違いが無い、大したことが無い、どうしようもない存在であることを、虚構の世界の物語形式を採って、広く世の中に知らしめる、ことにある。広がる世界は、虚構の中に描かれるからこそ、閉ざされた心を開き、深く深く沁み込む。
特に、世間一般では嫌悪されている事柄や性癖が、その広く世間一般に嫌悪されているにも拘らず自らの内に有ったりしちゃうが故に、隠し、深く思い悩む。私は特別にヘンなんじゃないか!?、と。
だからこそ、ずばりフィクションでリアルに語られちゃうよりも、リアルな現実と、虚構の物語の世界に描かれることの、その必要性。

人間ひとりが、リアルな現実の世界において経験できる事柄は、現実的には限りがある。
だからこそ、虚構の物語の世界が必要なのであり、その物語の世界は、どこまでも妄想と虚構の世界でしか無い訳で、であるならば、ハチャメチャに超越しまくっている世界があっても、これまた愉しいのではないか!?










”あとがき?”より、
何故に私がしつこく猥雑にこだわるかと言えば、それが”現実”だからです。大体”青春”ていえば現実無視して平気でいられるっていう思想が僕は気に入らないんだよネ。だから僕はポルノまがいの題名をつける訳でサ、でも目指す所は飽くまでもアンチ・ポルノなんでけど、以上。

「レインツリーの国−World of delight -有川浩」読みました。5


レインツリーの国−World of delight
著者: 有川浩
単行本: 208ページ
出版社: 新潮社 (2006/9/28)




何だろう、言葉を失う?!、好くって好くって、どっぷり浸り過ぎちゃって、のめり込んでしまって、昼間の移動の電車内(片道40分、往復80分)プラスアルファ(喫茶店)で、一気に読了。痛い、深い、巧い、好かった。
言葉の魅力、満喫。
有川浩の才能に嫉妬しちゃう。先日読了の「クジラの彼」に、そのシチュエーションの妙に感嘆し、興味津津、早速手配。

物語に特異性は無い。
聴覚に障害を持った女性との恋愛。
愛は障害をも超越して、、、
が、過去に読んで記憶に強く残る「忘れられない」一冊の本に対するブログであり、そこから展開されるメール。互いの価値観に惹かれて、ネットの繋がりから、リアルな現実の出逢いへと。後天性の聴覚の障害を有するが故に、閉ざされた心。障害を隠したい、健常者に対する羨望や嫉妬など様々な複雑な想いから、リアルな現実社会の生き辛さ。実は、そのコミュニケーションに対する精神的な障害が、身体的な障害よりも、ずっとずっと大きかったりする。
そんな彼女を受け止める努力を重ねる男も、実は幼くして父親を失っている。しかも、延命目的の手術によって、余命が延ばされたものの、何故か彼の記憶だけが喪失されちゃう、痛い痛い辛い想い。母親と兄のことは忘れていないのに、何で俺だけ?!、その存在が完全に否定されちゃう現実は、父親が肉親であり、信頼感を寄せていただけに、尚更結構辛い。


いつからか、
ひとはいくつになっても自分を変えることができる
  −「こころの霧が晴れる言葉 -中山庸子」”
ことを放棄し、変われない自分と、変わろうとしない自分を正当化することに執心している。
変わらなければならない理由も明確で、置かれている状況も逼迫しているにも拘らず、いつまでたっても頑なな心。
自らの意思で「変わろう!」と行動を起こさなければ、決して変わり得ない。


有川浩の、勉強熱心さに、ひとつの小説を生み出すために魂を籠めた作業に、素直に感服。










1.直接会うのが駄目やったら、せめて電話だけでもどうかな。
2.「・・・重量オーバーだったんですね」
3.傷つけた埋め合わせに 自身持たせてやろうなんて 本当に親切で優しくてありがとう。
4.「ごめんな、君が泣いてくれて気持ちええわ」
5.歓喜の国

「ガール ミーツ ボーイ -野中柊」読みました。5


ガール ミーツ ボーイ
著者: 野中柊
単行本: 221ページ
出版社: 新潮社 (2004/9/29)




野中柊に興味を抱いて、七作品目。
ますますもって、よく分からない。
だから好い。
何を理解したいのであろう、何を理解する必要性があろう?
野中柊は野中柊でしかなく、私は私でしかなく、一見して何の関連性を有することなく、この世の中に別個に存在し、何の交わりもなく、それぞれの日常生活を営む。何を今更、当たり前田のクラッカー!?

リアルな現実のフィクション作品を手にしていて、ふと思い付いて、手にした。
やっぱり虚構の世界が好い。
いくら日曜日の夜の電車が混雑していないからって、それでもたったひとりの空間ではない。疎らながらも人影を感じる。
す〜っと、入り込めちゃう、心地好さ。
気が付いたら、視界がグッと狭まり、ひとりの世界に浸る。込み上げる想い。堪え切れない。このままでは、、、 一刻も早く、ひとりの空間に退避したい。
口にしたアルコールのせいだけではない。
描かれる世界に、その背後に、その水面下に横たわる現実に、哀しみに、痛みを伴う苦しみに、、、


表題の中篇小説と、書き下ろしの短篇小説「ボーイ ミーツ ガール」。
いずれの物語も、小学校一年生の男の子たち(太朗くんと鈴木くん)と、友達と、その家族と、その友人たち。
どちらかといえば、太朗くんに代表されるように、家族の形が、世間一般に良しとされる状態を満たしていない登場人物たち。
太朗くんのお母さんは、お父さんが蒸発しちゃったシングルマザーであり、現在30代前半。25歳のときに、勢いで合コンから運命の出逢い→同棲→妊娠→結婚→出産→蒸発→仕事しながらの育児。やっと、小学校に入学して、保育園から解放されて、ホッとひと息?!、嬉しくもあり、寂しくもあり。家賃13万円、都心の旧いマンションにふたりで暮らす。
ふたりだけの生活は、何かと不便だけれども、経済的にも精神的にも辛いときは少なくないけど、それだからって、決して不幸ではない。周りが心配するほどに、悪くない。
同じマンションに住むフリーライターの女性や、同郷のスチュワーデスの元同級生が、休みの日に子守りを請け負ってくれたり、大変だけれども、ホントにホントに大変だけれども、それでも何とかやっていくしかないし、それはそれで現実。
彼女(太朗くんのお母さん)の子供の頃には、父と母の双方の愛を、当たり前のように受けて、何不自由の無い生活を送ってきただけに、時に不憫に思うときもない訳ではない。将来に対する不安だって、絶対的に消えることがない。田舎の実家の両親に、夏休み中の太朗くんを預けちゃおうと画策するんだけれども、母の想いと、子の想い、親の想い、、、 太朗くんは、母と離れたくない、そばに居ないと、失われてしまうような不安に苛まれて。
太朗くんの不思議な友達の、中学生の女の子は、父とのふたり暮し。母親は、交通事故で亡くしているんだけれど、何故か四人で海に行く。不思議な組合せの四人が乗るレンタカー。


おとなの女性と子供たちの物語は、ある意味では、対象となる読者層は広くない。私だって、今じゃなければ、まず手にすることがなかったであろうし、仮に手にしたとしても、きっと読み切ることができなかったであろうし、ここまで深く染み込むことがなかったであろうから。

著作に描かれる物語は、往々にして私小説の部分を多分に含む。
野中柊は、太朗くんのお母さん、フリーライター?
そんなことは、どうでもいいことなんだけれども、自分以外の第三者の、虚構の世界と、リアルな現実の世界に、明確な線引きをする必要も、そんな権利も無いのであろうから。









「急な青空 -南木佳士」読みました。5


急な青空
著者: 南木佳士
単行本: 228ページ
出版社: 文藝春秋 (2003/03)




直木賞作家”南木佳士”著作に漂う雰囲気は、当然ながら大差が無い。それでも、手にする度に、噛めば噛むほどに、新たな側面が垣間見え、決して飽きることが無い。

それでも実は、小説家吉村昭の生い立ちと混同している。幼少の頃から病弱であって、肉親を幼くして失い、自らが大病を患い、常に身近な”死”。
そして、吉村昭「死顔」の書き出しが、人間の記憶に関する記述であったことを、ふと思い出す。
人間の本能。

軽井沢の病院住宅での日常生活から紡ぎ出される物語。厳しい冬、零下二十度の世界。大気の水分が凍結して浮遊する”ダイヤモンドダスト”。
自然が織り成す”美”。
日曜大工の”水車”。
なるほど、直木賞受賞作品「ダイヤモンドダスト」。
一度読んだ著作の世界を、あらためて別の角度から見ることができると、理解が深まる。

エッセイには、短い”書評”が顔を出す。
つくづく実感する、
「私は全く本を読まずに、これまでの時間を過ごしてきてしまった。」
既に過ぎ去った時間を悔いても仕方が無い。時間を取り戻すことはできない。
であるならば、今、”本が好き!プロジェクト”に参画させていただいて、新刊本を手にさせていただくことができること、図書館の幅広い豊富な蔵書を手にできる、現状の現実の目の前の幸せを噛み締めたい。そして、今がその時期なのであり、今、自らの意思で深く強く求めててにしているからこそ、深い理解が得られ、深く沁み込む幸せ。
感謝。









「こころの霧が晴れる言葉 -中山庸子」読みました。5


こころの霧が晴れる言葉
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書評/心理・カウンセリング



参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本。

不思議なもので、何気なく手にする本が、いずれも深く心に沁み込む。
本に深く依存しているが故に、一方では、手にする本に多くを期待することなく、何かたったひとつでも愉しめればそれでいい、と考えているからかもしれないが、オープンマインドで気軽に挑む。ただただ、何かを読んでいないと否定的な考えばかりに捉われ、不安に苛まれる自らの弱い心持ち。様々な要因が複雑に絡み合い、結果的には、本によって保たれる”こころ”のバランス。

著者の中山庸子は、1953年生まれ、イラストレーター、エッセイスト。
中山庸子の本屋さん」なる公式HP(http://www.matsumotonakayama.co.jp/)を開設されている。
漂う女性らしい優しさ豊かさ。
多くの著作を生み出し、多くの読者の支持を得る。


108のごくごく短い言葉に籠められた想い。
一切の無駄(遊び?!)を排除し、極限まで研ぎ澄まされた、シンプルな言葉だからこそ、その潔さも相まって、ぐさりと深く刺さる。正直、堪え切れない。
いきなり来ちゃう、
1.たいていのことは「想像」より悪くない
そうなんだよ。知ってはいるんだけれども・・・
思わず、グッと来ちゃう。
47.こころのヒリヒリは「自分をもっと大事にしなさい」という緊急サインです
ん〜、分かってんだ・・・
でもね、
105.ひとはいくつになっても自分を変えることができる
これが最近、自信が持てなくなってきていて・・・
人間の本質というか、生まれ持ち、人生の経験を経て積み重ねられ、築き上げられた”自分”。そんなに確固たるものでは無いんだけれど、それでも、年齢を重ねる度に柔軟性を欠き、羞恥心の欠落から如実に表れる本質。ふと気が付くと、変わることを、その可能性を放棄していた。困難の伴う作業であることに間違いは無い。それでも、その意識は、絶対的に必要だ。
だから、やっぱり最後は、
108.本当のこころを晴れ晴れさせたいなら、あなたのこころを傷つけたすべてを許し、あなたを支えてくれたすべてに感謝しよう











”こころのすり傷は、自分以外の人の痛みを思いやれる人間になるために、ある程度は必要なものだと思います。”


「こぶしの上のダルマ -南木佳士」読みました。5


こぶしの上のダルマ
著者: 南木佳士
単行本: 220ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/04)




南木佳士の作品が嫌いだ。
しかし、それは即ち、自らの否定に他ならない。

読書を心の拠り所として、日々を遣り過ごす。手にする本が絶えることが、正直怖い。ほぼ依存症状態。
参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本の他に、二箇所の公立図書館を愛用する。その時の気分で、あまり深く考えることなく手に取る。気になる本は、予約で気長に待つ。
そして、深く考えることなく手にした本であっても、手にしたからには、何らかの必然に基づいていると考えるから、読み続けていけば、いずれは終わりが来ると考えるから、とにかく最後まで読む。この世に生み出された本には、全てその必要に基づいている。
そんな頑なな考えが、自らを更に追い込むことを理解していながら、それでも性格だから仕方が無い。

人里離れた山奥の廃屋同然の古家に住み、人知れず轆轤(ろくろ)を回し自給自足の生活を営む・・・


南木佳士との出会いは、やはり図書館の新刊本コーナーにて「からだのままに」。まるで魔が差したかのように、引き寄せられた。
そしてまた、何故か手にしてしまった。
それでも、1988年に芥川賞を受賞して、特別に目立つ活躍をされている印象を受けることが無い(?!、私が知らないだけ??)ものの、今現在も著作を出し続けている。大手出版社”文藝春秋”だって、供給が見込まれない著作は、過去の栄光だけでは出版することがないであろう。


派手さは無い。漂う空気は、重く暗い。
父親との確執。死。自らの病い。山。
決して明るい、楽天的な物語ではない。深く深く沈み込んで、苦しみや痛みさえも感じさせる物語。
静かに正直に素直に語られるが故に、深く沁み込む。決して心地好さは無い、出来得ることであれば、逃げ出したい。それでも、逃げ出して、放棄したところで、自らの内に秘められた”何か”が、それを圧し止める。










「クジラの彼 -有川浩」読みました。5


クジラの彼
著者: 有川浩
単行本: 245ページ
出版社: 角川書店 (2007/02)




仕事は段取り八分。
闘いに挑む心構えであり、具体的な戦術(シュミレーション)など、実は準備段階で既に物事の成り行きは容易に想像できちゃったりする。当然に、現実的な結果は、どんなことをしたっても覆すことができない訳で、ある意味では、真剣勝負であり、斬られたら死す!?
最近、不思議と大好きな物語から離れてしまっていて、リアルな現実”ビジネス書”の類いが続いてしまったからか、ビジネスモードに入っていたりしてしまうんだけれども。

正直、泣いちゃう程に好かった♪
実は、著者の名前”有川浩(ありかわ ひろ)”から、連想されるイメージが皆無で、女性であることもなかなか理解できずに、何をどんなジャンルの本を書かれる方かも知らず、何故かオタクな印象だけがあって、それでも、名前を目にする機会が何度かあって、興味があった。だから手にした。
シチュエーション(筋を展開させるために設定された状況)の勝利かな?!、などと分析する。


収められた全六篇の短篇小説が描かれる舞台は、自衛隊
知っているようで、身近なようで、ちょっと考えてみたら何も知らなかった。
何も知らなかったので、”Wikipedia”で調べてみると、
1954年7月1日に設立された日本の防衛組織。法令上では国軍(軍隊)と位置付けられていないが、実質その能力を備えている。「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ことを任務とする。
そうか、存在的にも、歴史的経緯など小さくない矛盾を含んでいて、何かと微妙な立場であったりする、日本国における由々しき問題、でもあったりしちゃう”自衛隊”。 その”自衛隊”という存在自体が特異なのに、さらに、その任務の、勤務形態の特異さ。
海上自衛隊の潜水艦乗りは、一度”潜った”ら(間違っても”沈む”のではなく!?)最後、国家機密ということもあり、次回がいつ海上に出れるのか、いつ何処に辿り着けるのか、家族にさえも伝えられない。何も伝えられることなく、3ヶ月も逢えないなんて、嫌だ嫌だ、絶対に嫌だ、我慢できない、くない?! 鉄板の潜水艦が、更には深い深い海の下では、携帯電話の電波が、仮に愛の力を得たとしたって、辿り着くことは有り得ない。
陸上の駐屯地の勤務だって、男ばっかりのむさ苦しい集団に、極少数の女性という異性の存在。その特異な状態での共同生活は、駐屯地がある人里離れた僻地で営まれる。国防を志し、日々の厳しい訓練に勤しみ、閉ざされた空間で規則正しく営まれる共同生活は、例えは悪いが、刑務所と見間違わんばかりであり、当然に、”脱走”ならぬ、”脱柵”が企てられることも、その気持ちも、理解できない訳ではない。俗世間から閉ざされた共同生活にあったって、人間の本能として、男が女性を求め、女性が男を求める衝動は、決して抑えることができない。だって本能だから仕方が無い。共同生活の中での恋愛も、歪んだ高い倍率(男女比率)と、私欲や羨望まで複雑に絡み合って、その障害は小さく無いけれど、それでも、俗世間との恋愛に至っちゃっては、その機会の壊滅的な確率論と、住む世界の現実的な違い、任務の特殊性を考えちゃうと、ほぼ絶望しちゃう。しかも、男も女も関係なく、厳しい訓練に鍛え上げられた肉体は、その精神は、時に世俗に塗れた民間人の失笑を買っちゃったりもする。異動だって定期的に必ずあるから、結婚していなければ”超遠距離恋愛”で、結婚して子供がいたり、共働きだったら”単身赴任”が当たり前。嫌だ嫌だ、絶対に嫌だ、耐えられない、でしょ?!
それがまた、航空の、”ファイターパイロット”になんてなっちゃったら、空に憧れて、超難関を潜り抜けて、無茶苦茶厳しい訓練に耐えて、やっとやっと叶った長年の”夢”だったりしちゃう訳で、それが例えば、女性であって、恋愛の末に結婚して、出産を経ても、夫の両親や親戚からの冷たい仕打ちを受けたって、単身赴任で、夫や子供と離れて暮らしたっても、それぐらいの障害は、、、 辛いよね。

そんなそんな超特異さを、恋愛小説の舞台にしちゃう訳だから、”シチュエーションの勝利”、とか考えちゃう。

あとがきにて、
”いい年した大人が活字でベタ甘ラブロマ好きで何が悪い!”
と、いきなり捲くし立てられても、素直に『好いよ!』と呟く。


やっぱり、シチュエーションの勝利、などではない。
とっても熱い熱い、正直な素直な女性の気持ちが、男の気持ちが、心の揺れ動きが、とっても自然に、それでいて、深い部分までじっくりと丁寧に描かれている、その才能に深く感嘆した。
だって、移動の電車の中でだって、込み上げる想いを堪えるのに、溢れそうになる涙を抑えるのに、こんなに困難を伴う小説は、久し振りに出逢えた気がするから。









		

「借りたカネはやっぱり返すな! -金野力・神山典士・八木宏之」読みました。5


借りたカネはやっぱり返すな!
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書評/ビジネス



私は正しくない。往々にして判断を誤る。
その要因として、知識と経験の不足があり、それが故に学習する。

本書において解き明かされる、法律精神とその解釈経済社会の構成。
法治国家の日本に存在して、経済活動を行い、社会生活を営む上で、絶対的に必要とされる。
超リアルな厳しい現実社会を生き抜くために有効な手法、役に立つ。


本来「借りたカネ(金銭)は、返さなければならない」。
自らに権利の無い、第三者の所有物を借用したままに、”返さない”、ことは、本来第三者が有する当然の権利を、奪取する行為であり、本来であれば所有すべき相手方は損失を被る訳であり、返さない者には利得が生じる。それは、不法行為に該当する。

それでも、タイトルにある通り、
「借りたカネはやっぱり返すな」
と、声をあげてしまう。
それは、著者らがそれを業(ビジネス)としているからであり、そこに法律の不備や、経済社会の歪みがあるから。
”返さない”ことが、いいことか悪いことかではなく、許されるべきでは無いのだけれども、それでも、人間が過ちを犯してしまう生き物であり、人間に絶対が有り得なくって、不測の事態が起こり得る、それが現実であろう。

例えば、カネ(金)を貸すことを業(ビジネス)とした場合に、そこには、貸す側の絶対的に優位な立場があり、貸す側の条件(返済・利息など)を、借りる側が受け入れなければ関係は成立しない。貸す側は、今有るから、利得を見越して貸す。借りる側は、今無いから借りる、のであり、どうしても今必要とするから、必要に迫られて借りる。借りることによって、近い将来の大きな利得を目的として、時には今の苦境を乗り切るために。そして、お礼(利息)を付けて、約束通りに返そう、と思って。ところが、この世の中の物事は、思った通りに行かないことが往々にしてある。逆に、上手く行くことの方が少ないのかもしれない、厳しい現実。当初の計画自体の見通しの甘さが原因かもしれない、世の中の状況の変化が要因かもしれない、不慮の事態に見舞われることもあろう。
それでも、どんな理由があろうとも、貸す側にはそんなことは一切関係がない。返してもらわなければ、商売が成り立たない。商売である以上、貸し倒れのリスクは充分に承知しているけれども、それはそれは必死になって回収したい。

そんな現実的な、泥臭い人間模様。
それぞれが、生きるか死ぬかの瀬戸際で必死。
必死だから、何とかしたくて、あの手この手を考える。

ある意味では、著者らも必死に考えた。新しいビジネスモデルの構築を。
法律が万全のものではなく、そこには必ず隙間が存在していて、日々変わり行く現実社会にも必ず隙間が存在する。隙間には需要が存在する。
法治国家においては、法律が絶対的な存在であり、法律に触れることがなければ、所謂”グレー”であっても、それは”クロ(悪)”ではないから、新たな法律が制定されるまでは、処罰されることが無い。そしてそこには、絶対的なビジネスチャンスが存在する。
ビジネスとして確立させるために、本来であれば”返さなければならない”ものを、”やっぱり返すな!”と言い切るためには、それなりの理論構成が必要となる。”返してもらえなくなっちゃう”当事者にとって、絶対的に有り得ない事実を、認めざるを得ない状況にまで追い込むだけの理論。その理論が、新たなビジネスチャンスを生み出す訳で、利益を得るためには、経済社会の過去の成り立ちの経緯から、法律の精神や解釈まで、より深い理解が欠かせない。ここまでの考察を重ねたからこそ、商売が成立し、オマケとして著作の出版による報酬をも得ることができる。本気はスゴイ!


それだからこそ、やっぱり一番大切なのは、
”「そりゃあ、気迫のある人です。熱く計画案を語られると、グッときますよね」
そうなのです。銀行というと冷たいイメージですが、実はそこで働いているのは同じ人間であり、同じサラリーマンです。貸す側と借りる側という違いはありますが、ビジネスというジャングルで弱肉強食の論理を前に必死に踏ん張っている仲間だと思えば、彼らにも言葉は通じます。
彼らを動かす最大の武器は、気迫です。気迫をもって、言葉を吐けばそこには「言霊(ことだま)」が宿ります。・・・”

だったりする。


具体的に、相談の必要がある方は、
『借りたカネはやっぱり返すな』公式ページ(http://karikane2.ichigosedai.jp/)から。









「旅 2007年08月号 -クロアチア特集」読みました。5


旅 2007年 08月号 [雑誌]
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書評/旅行・娯楽



毎号、密かに愉しみにしている、新潮社の月刊誌『旅』。
今月号のメインの特集は、「クロアチア」、そして「沖縄県 本部名護」。
参画させていただいている、”本が好き!プロジェクト”からの献本。それでも、先月号の予告を見て、献本を受けられなくても、自分で買っちゃおう!、と思っていた。結果的に、献本が受けられた、正直に、嬉しい♪ だから、いつもよりも、しっかり読み込んだ。

旅に纏わる企画や物語、読み切り小説(角田光代宮下奈都)、書籍や映画の紹介も充実の内容。大きな紙面全体に広がるカラーの素敵な写真に、軽やかに躍る心、膨らむ妄想。
普段、雑誌さえも読まない私の貴重な情報源。

ちなみに、早速、本誌に紹介されていた映画「不完全なふたり -諏訪敦彦監督」、観てきちゃいました、好かったです♪ 切れのある短篇物語好きには、オススメ!


メインの特集の「クロアチア共和国(Republika Hrvatska)」は、1991年に旧ユーゴスラビアから独立した、東ヨーロッパ(東欧)の国家。
実は、編集部からの手紙に、アドリア海の向こうに、イタリアを望む、とあっても、大きな興味を抱いたものの、地理も歴史も不勉強な私には、地図も明確なイメージも浮かばない。知らない、興味が無かった、のだから仕方が無い。その分、興味が湧いたら勉強すればいいじゃないか!?、と開き直る。
記事のメインは、最南部のドブロヴニク世界遺産に登録されている。確かに写真から溢れる、強い陽射しを受けた、蒼い海、青い空、赤瓦の街並み、気分はバカンス♪
一方北部のイストリア半島の山の上に点在する小さな村の、色濃い歴史が刻まれた旧い街並みに、溢れる優しさ。
同じ国でありながら、陽射しが、光の加減が、漂う雰囲気が全く異なる。その趣きは、やはり南北に長い国土を有する日本のそれを想わせる。
それでも、周りを海に囲まれた日本とは異なり、国家を成立させ、民族の自治を確立するための不断の努力、時に争い、それ故に複雑な道を辿る歴史、彩られた文化、興味深い。


そして、「沖縄県 本部名護」。
別の企画で、「沖縄美ら海水族館」の読み物もある。
私の中の大切な物語。沖縄まで出掛けると、それは”旅”であり、その旅が紡ぎ出す物語。刻まれた経験。
今の私を、私の一部を形成する要素のひとつ。小さくない転機となっていることは、間違いない。
書きたいことが、言葉にならない、もどかしさ。


旅が好き、おしゃれも大好き。
 〜 Elegance on the Go









映画「不完全なふたり -諏訪敦彦監督」観ました。5

毎月1日は、映画デー。
実は、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”から献本いただいた雑誌”旅 2007年8月号”の記事にて紹介されていた、映画『不完全なふたり -Un Couple Parfait 』が気になって、久し振りに映画館へと足を運んだ。ある部分では、映画デーだったから。
観て好かった♪

まるで鋭い切れ味の短篇小説のような映画。
ストイックなまでに、一切の無駄を削ぎ落とし、派手さや豪華さや煌びやかさは無い。ほの暗い雰囲気の中に、淡々と進行する映像、物語。音楽さえも、必要最低限のシンプルな調べが、時折効果的に挿入されるのみ。
正直、途中に退屈さを感じたことを否定はしないが、無駄を排除したが故に生じる、深さと奥行き。観るものに考えさせる、その展開と間合いの妙。
”女と男の心の揺れ動きを見事に描き出してる。”
と、まさに、評される通り。

流石は日本人監督。そして、第58回ロカルノ国際映画祭にて、審査員特別賞・国際芸術映画評論連盟賞受賞に納得。
舞台は、フランス・パリ。出演者も、スタッフの多くもフランス人。
監督の諏訪敦彦は、ヨーロッパでの圧倒的な評価を得ているらしい。


物語は、結婚15年になる夫婦の、離婚を決意して、それを夫が友人夫婦との酒の席で、妻の前でポロリと口にした、そのことで急展開を見せる互いの心の揺れ。友人の結婚式に参加するためにやってきたパリの、ホテルに向かうタクシーから、物語の舞台は開く。流れ行く街の風景、噛み合わない会話、沈黙、漂う倦怠感。ホテルの部屋に到着しても、互いに冴えない雰囲気。ダブルベッドの部屋には、エキストラベッドが運び入れられ、一向に噛み合う気配が無い。
そりゃ、友人夫婦とのディナーに、思わず口走る男の気持ちも分からなくはないけれども、「言っちゃ〜いけないこと」ってあるよね。往々にして、そういうことほど、結構口から飛び出てしまって、取り返しがつかない事態に陥っちゃうんだけれど、、、

それ自体は、嘘や偽りの無い正直な言葉なんだけれど、言葉にしないことで保たれている微妙なバランスが、言葉にされてしまったことによって崩れ始める関係。それでも、それさえもが、ある意味では必然であり、現実的には崩壊している関係なのだから、時間の問題だけでしかなく、それが、「このタイミングだった」、というだけなのであり、一概に非難することはできない。
そしてまた、それで崩壊する関係であれば、「そこまでの関係だった」、というだけなのであろう。無理をして、互いに違和感やストレスを感じながら継続される関係が、決して正しいとも思えない。それでも、今まで現実的に形成されていた関係が、崩壊してしまう訳だから、絶対的な痛みは伴う訳で、その痛みは、時に孤独であり、自らの環境の変化に対する恐怖であり、出来得ることであれば避けたい、と思う感情は否定できない。
どうして、人間の感情とは、こうも揺れ動くのであろう・・・



久し振り(今年1月以来)の映画、実は結構しんどかった。
本(文学)にすっかり慣れ親しんで、読書のペースが身に染み込んでいる私は、本質的に自分本位な性格も相まって、気が付いたら、他人のペースに合わせることに苦痛を感じるようになっていた。映画の途中に退屈さを感じたり、何か落ち着かない感覚に陥ったのは、きっとそのせいであり、作品のせいではない。
それでも、理解力に劣る私にとっては、監督であり、出演者の微妙な感性を理解する作業に、不足があるのかも知れない。
だから、やっぱり文学がいい。などと考えつつ、様々な表現方法の理解であり、習得が、それもまた、ひとつの経験でもあり、私に必要とされる要素のひとつでもあろう。



”別れを決めるとき、
人は初めて愛することを知る。”


「私たち、何をしたの?」「何をしなかったの?」


不完全なふたり 表不完全なふたり 裏

「クチコミのチカラ -ベクトルグループ」読みました。5


クチコミのチカラ
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書評/IT・Web



物語好きを自称して、最近では”ビジネス書”を手にすることが多くない。
リアルな現実社会からの逃避願望である感は否めない。
それでも、そうは言いながらも、リアルな現実社会において、何とか普通の顔をしながら社会生活を営んでいる。そう、生きている訳です。そして、時には、ブロガー(言葉の定義がいまいち分からなくって、私レベルでも自称して良いのかしら?!)としても、存在しちゃったりする私。

『クチコミのチカラ』、タイトルからは、本多孝好「正義のミカタ 〜I’maloser〜」を連想した。それでも、ただの語呂合わせで、関連性は無い。
本書は、紛れも無い”ビジネス書”であり、マーケティングを説く。
そして、私は、この著作を参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本を受けて手にしている。

最近の私はの頭の中には、”客観視”という言葉であり、概念が渦巻いている。
これは、オフィス北野 代表取締役の森昌行「天才をプロデュース?」の影響を受けている。こちらも、”ビジネス書”であり、そう考えるに、私は決してビジネス書を敬遠していない。

私は”客観視”する。
私は何を目的に本書を手にしたのか?、何の必然に導かれて、本書を手にすることとなったのか?、と。
ビジネスの、マーケティングを説く著作である訳で、私は、自らの社会性の低さを自負することによって、正直、ビジネスであり、マーケティングに対する興味を喪失している。新聞やテレビはおろか、雑誌を見ることも無く、外出時は歩きながら本を読み、電車に乗っても、すぐに本を読み、社会の動きやニュースは、インターネットのみ、それも決して積極的には取り入れようとしない。インターネットも、自らのブログから発信するのみで、それ以外の接触を、極力排除している。
それでも、どんなに排除したところで、結局はリアルな現実社会に存在している(生きている)時点で、マーケティングには参画している。

第4章の対談において、大柴ひさみ氏(JaM Japan Marketing LLC代表)が説く、
”ブロガーに「なぜブログをするのか」と尋ねると、多くの人がお金のためでなく自己表現のためなのだと答えます。また8割近くの人たちが、楽しいことやつまらないことなど心にたまったあらゆる出来事を人と共有したいと言います。・・・”
私がブログを継続している目的を、まさに言い得ている。
実際的には、マーケティングに参画させられていて(無意識のうちに)、特に私は”本が好き!プロジェクト”という著作を核とするビジネスモデルに参画している(こちらは意図的に)。

客観視する私は、この著作の読み方に、大きく二つの分類をする。
ひとつには、マーケティングを支配し、コントロールし、それをビジネスとして活用する読み方である。ビジネスマンとしての存在であり、アルファブロガーやインフルエンサーも、こちらに分類されよう。
そしてもう一方は、その支配され、コントロールされるマーケティングに漂う消費者としての在り方と、そのマーケットの仕組みを理解する読み方であろか。圧倒的多数の消費者によって成立し得るマーケットは、当たり前だけど、消費者が存在しなければ成立し得ない。そして、社会生活を営んでいれば、意識しなくても、消費者としてカウントされる。生きていれば、即ち”消費者”、私も勿論”消費者”として存在しちゃう。「嫌だ!」と叫んでも、これは変わり得ない。

ビジネスの社会の、クチコミであれ、メディアであれ、発展の過程には、当然に法則がある。
”新しい事象(正)が生まれると、次にこれを否定する事象(反)が生まれ、最後にこの不安定な状態が革新の原動力となって双方の統合(合)が進み、まったく新しい事象へと進化を遂げる。弁証論法的史観では、事象が存在する第1段階を原始段階:テーゼ(正)、否定の力が働く第2段階を対立段階:アンチ・テーゼ(反)、統合の第3段階は止揚段階:ジン・テーゼ(合)と規定する。そしてそのジン・テーゼが新たにテーゼとなり、新しい発展過程が始まる。”
ふむふむ。
私は知らなかった。だから、なるほどと思った。

そして、”あとがきにかえて”にて、記される、
”新しいマーケティング・パラダイムの核心は対話である。”
”対話の基本は、できるだけ顔を見せる、身分をいつわらず正体を明かす、率直に話す、友情をもって接する、相手を尊重する、相手の話をよく聞く、応答は即時にする、自然に話す、正直が最善の策である。”

真理であろう。
最終章にて記される、
”「今時の学生は、すぐに小説など書いて、受け手から送り手に成り上がろうとする。それでは垂直のコミュニケーションの構図は変わらない。これから必要なのは水平コミュニケーションです」
25年前、1982年夏・・・”

も、興味深い。








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主として“本”が織りなす虚構の世界を彷徨う♪

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▲ロスバイク TREK 7.3FX(神金自転車商会 since 2008.8)
写真 Canon IXY900IS(since 2006.12.4) & EOS40D + EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM(since 2008.7.23) + EF100mm F2.8 Macro USM(used, since 2008.9.10) + EF-S55-250mm F4-5.6 IS(used, since 2008.9.30) + EF50mm F1.8 供used, since 2009.4.4)

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