Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年08月

本「世界人類がセックスレスでありますように」目黒条5


世界人類がセックスレスでありますように
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書評/国内純文学



本が好き!PJ”からの献本。
戯曲などの翻訳文筆を手掛けてきた、目黒条の、初小説作品。
オビに評される、
斬新な形式を駆使して現代社会を切り裂く異色の長篇小説”、
そして、
驚くべき新人女性作家が誕生した!
とまで。


彼は、烈しく恋愛したい衝動に駆られた。愛の無い生活など、生きる価値を有しない、絶対的に有り得ない。だから、恋愛しよう、誰しもが恋愛する権利を有しているハズだ、と。
彼は、かつて婚姻生活を営んでいた時期があった。かつてあった、のであって、現在は婚姻による共同生活を営んでいない、ひとりでの生活。彼は、依存心が強く、孤独に恐怖を抱き、世間体を必要以上に気にした。本能的に相手の反応を窺い、自らの確固たる意志を有することを放棄してきた。一方では、自らが確固たる意思を有しないことを悟られることを怖れ、傍若無人な態度で虚勢を張って、無意味に相手を威嚇する。だから、彼はどんなに互いの婚姻関係に破綻をきたしていても、決してそれを認めようとしなかったし、それでも関係を継続したいと強く望んだ。人間関係の構築を不得手とした彼には、会社と自宅以外に居場所は無かった。社会生活に対する順応性が低く、生活能力に劣る彼の、ある意味では、当然の成り行き。
それでも、恋愛がしたいと、烈しい衝動に駆られる彼は、ひとりの寂しさに苦痛を感じている。孤独に耐えられない。現実を逃避したい。人間関係の構築を不得手とする彼は、当然のことながら良好な友好関係を築く努力を、永年に亘り怠っている。異性の友人はおろか、同性の友人ひとりいない現実。
さて、誰が好き好んで、そんな彼との恋愛に勤しもうか?! 若かりし一時期には、何かのキッカケから、まさに運好く、恋愛関係を経て、婚姻関係まで構築することができたが、それとて相当な努力の賜物であり、費やした労力と時間は果てしなく大きかった。費やした労力と時間の結果として得られる関係。ホイホイと、気軽に手軽に築くことができる関係では無い。
であるならば、彼は何を求めているのであろう?! 人間関係の構築を不得手とし、しかも破綻させた経験を有し、自覚しているにも拘らず。また、関係を構築するには、相当の労力と時間を有することを理解してもいるハズ。
仮に、人間という動物の、オスとメスであり、生理的な本能の行為としてのセックスを求め、その相手を求めているのであるとするならば、それは適切に処理をされなければならない。生理的な本能に背いても、何の意義をも有しない。溜まったものは放出されて然るべき。対価を支払って処理すべし。太古より産業として成立している、人間の基本原理。


残念ながら、人間の心は不安定で、常に変化し続ける。ず〜っと変わらないことなど有り得ないし、変わらないことの方が不自然でもある。時間の経過とともに、年齢を重ね、状況は刻々と変化し続ける。変化に順応する必要がある。形成された人間関係だって、その関係は刻々と変わり続ける。当然に恋愛関係だって、当初の盛り上がりは、やがて関係の安定とともに落ち着きを見せる。当初の関係は、互いの状況が何も分からず、絶対的に不安定だから、互いの関係を安定させるための必死の努力を重ねる。その必死の努力が盛り上がりであり、ドキドキ感であり、理解の深まりとともに得られる安定によって、盛り上がりやドキドキ感は消え失せる。人間とは勝手な生き物で、ドキドキ感に苛まれている時には安定を求め、結果的に得られた安定に満足することなくドキドキ感を求める、圧倒的な矛盾。婚姻関係においても、何ら変わりは無い。歳月の経過とともに、関係が冷めることは避けられない。

戦後の急激な経済発展によって、コミュニティ(共同体)が失われてしまった現代の日本。核家族化であり、少子化の進行。総サラリーマン化による不在の父親。母親ひとりに委ねられる育児。学校教育の限界。
地域社会などの多くの人間関係の中から自然に身に付ける重要性。
セックスレスだって、婚姻関係だって、恋愛だって、とどのつまりは”人間関係”。


だから物語では、人間関係に苦悩する女性が、”セックスレス”という時流に乗った、分かり易い”手段”を用いて、いびつな人間関係を形成し、組織し、暴走する。
その現象としての”セックスレス”であり、形成される”組織”であり、”殺人事件”であり、登場人物の関連性が、都会の中流幼稚園に通う四〜五歳の子供を持つ母親(女性)だった。


著者のブログ”目黒 条(翻訳、文筆)の目









本「地図で読む世界情勢 第2部 これから世界はどうなるか」ジャン-クリストフ ヴィクトル/ヴィルジニー レッソン/フランク テタール、鳥取絹子 訳5


地図で読む世界情勢 第2部 これから世界はどうなるか
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書評/教育・学習


”本が好き!PJ”からの献本。
分かり易い地図で読む”世界情勢”の第二弾。第一弾”なぜ現在の世界はこうなったか”で、広く浅く得た世界の歴史、文化、宗教、民族などなどの知識を基に、「で、どうなっちゃうの?!」を説く。でも、答えは無い。世界全体が、その答えを求めて、それぞれが良かれと思う行動を画策中だから、その結果など誰にも分かり得ない。

第二部のスタートは、戦争紛争
60年以上もの間、戦争と無縁で、”平和”と謳われる日本国。それでも、世界に目を移せば、何処かで必ず絶えることが争い、紛争、戦争。ある意味では、戦争が日常的なもの、とも言える現実。平和が持続している現在の日本国の異常さ?! 第二次世界大戦の手痛い敗戦、その後の連合軍(アメリカ)の統治による政治経済の復興、勤勉さと時流に乗った急成長。経済活動のみに注力したが故に、貿易による摩擦や軋轢こそ生じさせたが、武力抗争(戦争)にまでは至ることが無かった。
それでも、その後に再度、戦争をすることが無かったが故に、60年以上の歳月を経た今もって、何処かに”敗戦国”としての、肩身の狭い思いを拭い去ることができない。経済の急発展に後押しされて、他国との戦争をする機会を得ることも無かったのであろうし、戦争という行為自体を肯定するつもりも無いのではあるが。

多くの人命が失われる戦争は、そこまでする相当な必要に迫られなければ、決して起こり得ない。誰だって、戦争はしたくない、無為に死にたくないから。一部の、戦争によって莫大な利益を被る特別な人びとを除いては。最近では、メディアが加担することも少なくないが、それでも、文化や、宗教、領土、民族の確立、経済格差が引き起こす紛争。必要に迫られた行動であろうから、それを否定することはできない。否定することに意味を有しないし、否定したところで、本質的な問題が解決されなければ、形を変えた問題が必ず噴出する。
だから、テロ行為が決して許されるべきではないものの、その存在だって必然に導かれて生じているとも。

とどのつまりが、地球というひとつの惑星に共同生活を営む人類が、異なる文化を有して、個別の主張を繰り広げている以上、紛争が無くなることは有り得ない。誰だって、自己主張したい。自分が正しいと信じたいし、自分が正しいことを証明したいし、正しいと信じた行動によってのみ得られる幸せを絶対的に信じたい、獲得したい。
欲望の塊である人間の哀しい性。

誰かが勝てば、一方は負ける。得る者がいれば、必ず失われる者の存在がある。富める者がいれば、貧困に苦しむ大勢の人々が絶対的に存在する。不均衡こそが、絶対的な現実。
全体を均せば、大きな括りで見れば、均衡は保たれる。限られた富める者と、多くの貧しい民。数%の富める者が貪る益と、多くの貧困に苦しむ者大勢が纏めて授かる益。
絶対的な現実を前に、否定しても何も始まらない。現実を直視して、不均衡を受け容れなければならない。
まずは、その現実を知り、理解する。文化や宗教や民族が異なり、それぞれの主義や思考が、絶対的に異なり、相容れない別個のものであることを。人間ひとりひとりの個性や人格が、同一ではないことと同じように。

高度に発達した情報化が、国家という括りを超越して、「非対称戦争」であるゲリラテロリズムの活発化を生む。

地球という、ひとつの大きな共同体に、限られた空間、領土、資源を共有して生活を営む人間という同種の生き物。文化が異なるのは当然。絶対的な融和は図れなくても、無為な諍いに、何の意義をも有しない。失われるモノと、得られるモノのバランス。
ある意味では、だからこそ紛争が必要とされて、紛争によって得られる(?!)、失われることによって保たれるバランスがあるのかもしれない。失われることが無ければ、増加の一都を辿り、それによって乱されるバランスだって否定できない。一定量の喪失、消滅の必然!?

それでもやっぱり、私も強く願う、
ウミガメの生き残りを選択して、発展の可能性よりも、経済の生き残りを選択したい。地球上で住民がもっとゆっくり、もっと自然と調和した生活をしたい。”
問われる、幸せの本質。









本「旅 2007年10月号 -ヴェネツィア特集」5


旅 2007年 10月号 [雑誌]
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書評/旅行・娯楽



ヴェネツィアは、イタリア北東部、長靴の付け根、お尻(?!)の部分。アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾の湿地帯、「ラグーン(潟)」の上に築かれた、水の都。街の真ん中を逆S字形に流れる大運河(カナル・グランデ)を中心に、細い運河が縦横に走りる。何と、ヴェネツィア本島内は車や自転車での移動を禁止されているため、迷路のような細い道路を徒歩で移動するか、運河を船舶で移動することになる。
中世(大航海時代の前)には、ヴェネツィア共和国首都として1000年以上もの栄華の歴史を持つ都市も、18世紀には一年の半分をカーニバルで過ごす歓楽の都と化して今に至る。
ヴェネツィアとその潟」として、世界遺産に登録される。
  〜Wikipediaより抜粋

それでも、今月号の特集は、あくまでもモードスペシャル。ジャケット、ファッション
世の中が、まだまだ”猛暑”であったとしても、先取りしなくちゃ♪
旅を満喫する重要なパートナー。お洒落上手はアウターで遊んじゃってくださいな。
まぁ、おぢさんとしては、素敵に着飾った鋭い目線のお嬢さま(モデルさん)方に睨まれる(見詰められる)と、思わず小声で「スンマセン」と呟いてしまう。何も悪いことなどしていなくたって、存在自体の嫌悪を、厳しい視線が突き刺さる気がしてしまう、哀しい性。ますます引き籠りたくなる!?


日本国内は、”おわら風の盆”の富山八尾
350年の歴史を重ねる山間の坂の街、毎年9月1日〜3日の三日間の祭りの時は、全国から大勢が集まる。祭りの重要な要素のひとつ、街の景観。だから、旧町では特に、都市計画上の建築制限が無いにも拘らず、引き継がれる伝統的な家屋の雰囲気。利便性を追求しちゃったら、有り得ない。日常に目にする首都圏近郊の無秩序な乱開発には、文化も歴史も何も無い(ちょっと調子に乗って言い過ぎです。文化と歴史は、守られるべきは、キチンと守られています、ほんの一部の例外を除いて)。
コミュニティーの機能性。


よこはま動物園ズーラシア
20世紀に入ってから確認された、世界三大珍獣のひとつ、オカピですぞ。


映画の情報もチェック。
流石は新潮社。 ”新潮クレスト・ブックスをめぐって”と、小池昌代×鴻巣友季子×堀江敏幸の豪華な顔触れによる座談会を設ける。
果たして、”短篇小説を読むよろこび”と。

あぁ〜、もうイヤだ、イヤだ♪









本「井戸の底に落ちた星」小池昌代5


井戸の底に落ちた星
著者: 小池昌代
単行本: 255ページ
出版社: みすず書房 (2006/11)



小池昌代が1998年頃より書き記し、既に発表済みのエッセイ書評、そして書き下ろしの短編小説、盛り沢山。

四十五篇の書評は、全て新聞や雑誌に掲載されたもの。
「あとがき」に
もっとも苦しみ多い
と打ち明ける書評。
それは、
著者が言葉では書かなかったところ。それを書評であぶりだすことができれば、というのが、私の困難な願い
だから。

書評、特に新聞や雑誌に掲載されるものの、目的は、ズバリ書籍の販売促進。出版社が、経費を掛けて行う経済活動。出版業が、商業的意義のみに捉われることなく、文化的な意義を重視したところで、それでもやっぱり、利潤を得て、会社として存続しなければならない現実。
書評を書く側も、報酬という対価を得る訳だから、依頼主(出版社)が「どうぞどうぞ、自由に何でも書いちゃってください」などと言う言葉をそのまま受け取る訳にもいかない。次から依頼が来なくなっちゃう。
無視できない、大衆が目にするメディア(新聞や雑誌)の影響力。

それでもやっぱり困難なのは、著者が魂を削って紡いだ、想いを籠めた著作を、著者本人以外の第三者が、短い言葉で纏めて書き記すという行為が、果たして許されるのか? 著者の意図する深層の真意。
著者が必要だと感じて費やしたページ数を、その労力を、第三者が簡単に美味しいところだけ搔い摘む行為。著者の想い、メッセージは、本当に正しく理解されて、真意が伝わっているの?

一方では、メディアの発達に反比例して、ますます敬遠される読書。売れない本。
本を読む必要性を感じない現実社会。忙しく慌ただしく、何となく流されて生きている社会人にとって、相当に意識しなければ、読書する時間は確保できない。通勤の満員電車での読書は、相当な工夫と根性を要する。感情や意識を無くして、思考を停止させ、電車に運ばれるモノと化して、疲弊した体を休めることに意識を傾ける、容易な選択。ランチタイムは会社の同僚とのコミュニケーション、深夜の帰宅後や休日は家族や友人知人とのコミュニケーション。資格や昇進のための勉強だって。溢れる情報。制限しなければ、無限に浴びせられる情報の波。処理能力をとっくに超過している。
これ以上、何の情報を選び取ろうか?!

ハードルを下げて、内容を噛み砕いて要約して、様々なキッカケや興味をばらまき、まずは手に取らせることから。手に取らせるには、記憶に訴える必要があろう。記憶に潜在させ、何かのキッカケに示される本能的な反応。
著者以外の第三者から発せられる言葉や表現によって、示される反応の可能性。

意義を感じていない人間にとって、無理強いほど無意味で、弊害が大きい行為は無い。その必要が無いのだから。
必要として、意義を感じて意識した時に、初めて何かを感じて引き寄せられる。

読む行為は、他者との相互対話的なものだ。









本「砂の肖像」稲葉真弓5


砂の肖像
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書評/国内純文学


「・・・荒々しいもの、優しいもの、幽玄なもの、ロマンチックなもの、原始的なもの。いずれにしても、これらすべて地球の”崩れ”からきたものとだとは驚きです。昨今耳にする干上がっていく川や湖、崩れ、縮んでいく山……。いずれ地球は私たちの好きな砂や石だらけになるのかもしれませんね。恐ろしいような愉快なような。ここまで書きながら発見しました。私たちは知らず”崩れ”の上にいる民なのでしょう。標本には”地球の息吹=サバイブ”とでも名付けましょうか。もちろん、名付け親はあなたと私です。」
   〜”砂の肖像”より
本が好き!PJ”からの献本。
アクアマリン(宝石)をイメージさせる、渋く光り輝く水色の装丁が、物語の味わいに彩りを添える。
ベテラン女流作家 稲葉 真弓が、自らの深い深い内側を掘り下げて掘り下げて、鋭い探求によって紡がれた物語、短編小説五篇。
石であり、砂であり、体内の異物であり、病いであり、人形に宿されたビー玉であり、美しい宝石であり。その存在、在るという事実、現実。
圧倒的に受け容れ難い現実であったとしても、否定して拒絶することは容易なことだけれども、それでも、どんなことをしたって、現実は現実として変わり様が無い。既に現実として、在るという圧倒的な事実。

それは時に、実母の体内における異物(病い)感を伴う変化、『ジョン・シルバーの碑』。
”パチンコ玉みたいなやつ”に居座られた”アクマ”によって、足の切断を迫られる母親。自らの日本の足で地球上に立ち上がる、至極当たり前と思えることが不可能になってしまう。
年老いた最愛の母が、どんなに元気な様相を見せていたって、年齢による衰え、老いは誰しもが絶対的に避けられない。忍び寄る病魔。痛みも苦しみも悩みも恐怖も、本人以外は、絶対的に理解し得ない。どんなに想像してみたところで、想像でしか有り得ない、希薄な現実味。
厳しい現実。泣こうが喚こうが叫ぼうが暴れようが、何をどうしたっても、現実に何の変わり様が無いことだけが、絶対的な事実。全てを受け容れて、身を委ねる以外に方法は無い。諦めて投げ遣りに、ではなく、ある意味、達観。それを宿命として受け容れる。与えられた試練であり、その試練を耐え切れると認められたからこそ、試練を自らの力で乗り越えた後に得られる実力。苦しい、辛い。
だからこそ、明るく、気丈に振る舞う母親。だってだって、仕方が無いじゃない。悲観に明け暮れていても、自らの運命の不幸を呪ったとしても、現実の事態に改善の目途は一切無い。であるならば、厳しい現実を、自らのものとして受け容れちゃった上で最善を尽くすしか有り得ない。
因果”と言ってしまうには、あまりにも厳しい現実。


烈しく込み上げるものを何度も何度も堪えながら、深く深く空っぽに近付く。自らの内側へ内側へと、外側に求めることなく、あくまでも内側に探求を続ける作業。

それでも、自らの意思で、自らの意思にかかわらず、生きる。生きる。生きる。生きる。生きる。生きる。









東京新聞【土曜訪問】『水』から『石や砂』の世界へ −稲葉真弓さん(作家) 2007年7月7日

本「愛蔵版 グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド、村上春樹 訳5


愛蔵版 グレート・ギャツビー
著者: スコット・フィッツジェラルド
訳者: 村上春樹
単行本: 319ページ
出版社: 中央公論新社 (2006/11)



グレートな”ギャツビー”氏の、グレートな邸宅で、夜な夜な開催されるグレートなパーティー。招待客のみならず、見知らぬ多数が集う。食事は食べ放題、お酒も飲み放題。広大な芝生が拡がる庭は、プールまで有する。海を望む広大な邸宅。
そんなギャツビーの野望はひとつ。五年前に失われた”愛”を取り戻すこと。野望の達成のためには、手段を選ばない。そのたったひとつの目的のためだけに費やしてきた労苦。

描かれるのは、1920年代のアメリカ。
圧倒的な階級社会。出身であり、家柄であり、卒業した大学であり。金持ちたちの興味や、付き合う相手に対する判断基準は、現実的な資産の有無以上に、生まれた環境に左右される。自らの実力がどんなに優れ、巨万の富を収めたとしても、超えられない絶対的な障壁。

五年前のギャツビーが、家柄の良い素敵な女性との間に落ちた恋。
階層の違いを痛切に感じるものの、その憧れや羨望も相まって燃え上がる恋心。家柄を考慮しない互いの間柄においては、何もかもが上手くいった。互いに惹かれ合うふたり。
非情な戦争。軍人のギャツビーに自由は無い。功績を上げたが故に、能力を有していたが故に、彼女との間は遠く離れ、引き裂かれる関係。むしろそれが宿命であり、ギャツビーは夢から覚めるべきであった。
そうして、彼女は恋の痛手から、乱れた衝動に駆られるも、収まるべく家柄の良い男との婚姻関係を結び、家庭を育む。夫に優れた能力は有しない。そんなものを必要としないほどに優れた家柄。何もしなくても、その存在は一目置かれ、本人も自負しているが故に尊大な行動が目に余る。

ギャツビーは、戦争を理由に良家の彼女との間柄を引き裂かれるも、実は文無しのただの軍人でしかない彼にとっては、そこで「いい夢を見た」と諦めていれば、事件は起きなかった。運命とは非情なもので、奮い立たされたギャツビーの心は、何とも大きな成功を勝ち得、結婚して、他人の妻となってしまった彼女の家の灯りを遠くに望む、広大な邸宅を手にするまでの富を、成功を得る。富も成功も得ることがなければ、決して事件は起き得なかった。一見、無意味な盛大なパーティー開催の金銭的な負担だって、負担と思わないくらいの富を得た。勝ち得た原動力は、すべて彼女への想い、ただただそれだけ。

広大な屋敷を構え、誰構うことなく盛大なパーティーへの参加を許し、自らの偉大さをアピールしつつ、狙うはただただ彼女のみ。彼女に、現在の自分自身の存在を認知させ、五年間の歳月を巻き戻して、ただただ取り戻したい彼女の気持ち。五年の歳月の重み、意味、それでも乗り越えられない階級の厚い厚い障壁、現実。そんなことは充分以上、ギャツビーだって知っている、本人が一番理解をしている。それでも、それだからこそ、どんな危険を冒してでも、挑戦する意義があろう。自らの命を賭けてでも。
自由奔放な良家の美しい、気まぐれな彼女に翻弄されたとしても、何を失うことも恐れることが無いギャツビーにとっては、命を懸ける絶対的な意義があった。

ギャツビーはグレートだった。


圧倒的不条理に満ちた階級社会。
悲哀に満ちたひと夏の物語。


1940年に40歳の若さで世を去った、著者 スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald,1896.9.24-1940.12.21)。

冒頭、
  −再びゼルダに
彼女−自由奔放な最愛の妻−無しには語れないフィッツジェラルドの人生、物語。

訳者 村上春樹の深い深い熱い想い。










展覧会「ルドンの黒 −Les noirs de Redon− at Bunkamura ザ・ミュージアム」オディロン・ルドン5

ルドンの黒ルドンの黒
 −Les noirs de Redon

あえて”黒”一色。
暗黒の世界。
暗く哀しく悲観的。
グロテスクな目玉、蜘蛛。
”黒”のイメージ。

ルドンの晩年の溢れる色彩美を抑えて、
だからこそ、あえて”黒”の部分の企画展。


オディロン・ルドン(Odilon Redon,1840.4.22-1916.7.6)は、フランスボルドーに広大な荘園を有するブルジョア家庭に生まれた画家。
印象派と同世代とある。なるほど、印象派を代表するクロード・モネ(Claude Monet,1840.11.14-1926.12.5)は、パリに生まれている。

色濃く漂う、暗く哀しく悲観的な印象は、時代背景、生い立ちからも窺える。
フランスが大敗を喫する、普仏戦争(1870.7.19-1871.5.10)。敗北感、喪失感、将来に対する不安。日常的に戦争が行われていた時代、現在の戦争が無い状態が特異なのかもしれない!?
三人兄弟の次男に生まれ、病弱であったために里子に出され、味わう孤独。学業での挫折。
自らの内へと拡がりをみせる、相容れない独自の世界観。

緻密な黒い線、不気味なほどに暗い。
描かれる横顔、うつむき、まぶたを閉じる。
決して正面を見据えることをしない。


1880年(40歳)、12歳年下のカミーユ・ファルトと結婚。
1886年(46歳)、長男に恵まれるも、6ヶ月で亡くす。
1889年(49歳)、待望の次男 アリを授かる。
画家としての地位と生活の安定と、新しい希望のシンボルを得て、豊かな色彩の作品を描き始める。それまでにも、印象派風美しい色彩の風景作品を描いてはいたが、決して人前に出すことが無かった。自らの心の奥深くに閉じ込められた感情。
それでも、豊かに美しい色彩に彩られた女性が、正面を見据えることは無かった。怪しい美しさを秘めた横顔、うつむき、薄く閉じられるまぶた。




本「天国で君に逢えたら」飯島夏樹5


天国で君に逢えたら
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書評/国内純文学



本が好き!PJ”からの献本の再読。
8月25日公開の映画『Life 天国で君に逢えたら』を、当然に意識している。既に予告で涙した。

思い返す、約半年前の3月3日読了、やっぱり涙した。鮮明な記憶、夜のマックでコーヒーを啜りながら浮かべた涙、あの頃。


泣きたいんだよ。
涙を流して、嗚咽をあげて。
泣くことによって満たされる感情を貪る。
幸薄い我が身を嘆き哀しみ、ひとり演じるヒロイン。
満足が得られるならば、それでいい!?


勢い込んで、読んで書き記して、、、のハズが、進まない。
本質的な感情。


汐留から、何気なく歩を進めた、国立がんセンター
小説の、物語の舞台として登場する、聳え立つ高層建築物を、暫しぼんやりと見上げる。休日の夕方、道路も築地市場も往来が少ない。


著者 飯島夏樹、元世界的プロウィンドサーファー・実業家。1966年8月生まれ。
2002年6月、肝細胞ガンと診断。
2005年2月、38年の生涯を全う。
合掌









本「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」橋本治5


乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない
著者: 橋本治
新書: 238ページ
出版社: 集英社 (2005/11)



橋本治、集英社新書シリーズ第三弾、2001年4月「「わからない」という方法」、2004年4月「上司は思いつきでものを言う」に続き、とりあえずの位置付けとしては完結篇。

「今の日本の社会のあり方はおかしい」から始まる。
橋本治の豊富な知識と考察のストックの引き出しから、
「うん〜、これとこれとこれをピックアップして、繋げて、、、はい、できあがり」。
「何を書こうか?!」、から二週間、新書一冊分のキャパシティでは、序章しか書けない、と言い放つ。
だからといって、これ以上に書くつもりは無い。と言いつつ、書いちゃうかもしれない。約束することに意味は無い。状況は刻々と変わり続ける。変わらないものなど有り得ない。
必要に求められれば、必要を感じたならば、やっぱりそれには応えたい。シンプルに、潔く。


やっぱり大切なのは、”考え方”。
考え方を確立させるために、まずは世の中を知ることから。世の中の現在の状況、世界の情勢、現在に至る過去の歴史、変遷。現状を本質的に理解することなく、自らの方向性やスタンスを確立させることなどできないであろう。
現在の状況は、仮にどんなに矛盾を含んでいようと、その必要に求められて、様々な経過を経て形成されている。現時点での一部分だけを取り上げて、部分的に否定したって、反発したって、そんな表面的な言動に、何の意味があろう。分かっている人間にしてみれば、「ふぅ〜ん、そうなんだぁ〜」、でおしまい。まともに相手にする方が、まともじゃない。
一方では、本質的な理解ができない、その程度の能力(レベル)しか有しないからこそ、物事の全体やその背景、経緯に理解を示すことなく、一部分だけを取り上げることができるのであろう。
経済活動を含めた、この世の中の物事は、然るべき方向に進行し、変化し続ける。どんな状況にも一定の限界があって、限界の枠を突き破った時には、それもやはり、然るべき状況に落ち着く。
成長し続ければ、やがてバブルははじけるのであって、永遠の成長など有り得ない。

「勝ち組」だって、成長神話が夢破れた現在の経済状況を、それでもその中に活路を見い出したい実力者(投資家)が祭り上げた幻影。真の実力者は、表舞台には滅多に登場しない。注目を浴びることに意義を感じないから。目的は、あくまでも利潤をあげることだから。
その勢いを買われた「勝ち組」は、本人の意思や実力とは無関係に、いつの間にかスポットライトを浴びる。誰だってスポットライトを浴びれば気持ちがいい。スポットライトを浴びる時点で、既に頑張って目立っている訳だから、ますます勢い付いて、成果を上げる。勝ち組は潤い、目を付けて祭り上げた実力者(投資家)も、その恩恵を受ける。
スポットライトを浴びて、勢い付く「勝ち組」には、獲得したポジションを維持するために、這い上がってくる荒くれ者たちの挑戦を、撥ね退け続けなければならない。足を引っ張り、後ろから切り掛かる者たちを退けて、それでも前に進み、上を目指し続けなければならない、果てしなく続く闘い。

それもひとつの生き方、考え方、価値観。
人間のひとりひとりに個性があって、性格や特技が異なるように、考え方だって、ひとりひとりが絶対的に異なる。同じだったら、その方が不自然。違っていて当たり前。

だから、勝ち組・負け組に、興味を抱けない。そう呼びたい人がいて、そう呼ばれて浮かれる人がいる。そうして、世の中のバランスが保たれて、それなりに上手く回っている。


いろいろな個性を有した人間の集合体がこの世の中を形成する。人間同士、互いの関係の中にしか、人間は生きる道を見い出すことができない。
人間関係。









本「塩の街」有川浩5


塩の街
著者: 有川浩
単行本: 421ページ
出版社: メディアワークス (2007/06)



大”恋愛”物語。
有川浩、デビュー作「塩の街 wish on my precious」のハードカバー版。
”世界の終わりを救ったのは、愛だった。”

人間という生き物が、弱く儚くて、現在の高度に発達した情報化や文明も、あっという間に失われてしまう。政治も、経済活動もマヒしてしまった状態は、人間の本能が丸出しにされ、法律も機能しない、無秩序な世界。それでも、本能的なコミュニティ(共同体)機能が働いて、なんとか配給によって生き延びる術を得る。多くの人々の生命が失われたことによって、多くのモノが失われたことによって、残った者たちは、限られたモノを、多くを得ることも独占したい欲求に駆られることもなく、共同生活を営む。現代の高度に発達した文明化社会が訪れる以前のように。得られるモノは少なく、限られている。周りの者に、命を落とした者も多い。失われてしまったものは、計り知れない。
幸せの本質。

失うことは辛い、苦しい、哀しい。
それでも、一度失われてしまったものは、決して元に戻ることは有り得ない。
失われるには、失われるだけの何らかの理由が存在していて、一方では、失われたことによって乱れたバランスを補うだけの、何らかの得られるものの存在があろう。タイミングを同じくすることが無く、直接的な関連性を有しない場合の方が多いであろうから、瞬間的な解釈をすれば、「失われた」となる事柄も、中長期的に解した場合、そこには失われるだけの必然があって、失われたことによって得られた何かがあって、保たれる均衡(バランス)。

人間がどんなに頑張ってみたところで、決してひとりで生きていくことができない存在である以上、他者との人間関係を築くことの意義は大きい。
人間としてこの世に生まれ出で、親兄弟、身内の保護を受けて成長する。あくまでも、ひとりの人間として生きることができるまで、保護の目的において。保護を受ける関係や経験を有してこそ、保護する側に立つこともできよう。
恋愛も、とどのつまりが人間関係の一種であり、本能が色濃く介在する濃密な関係。それだけに、困難も苦痛も大きい。そして、それでもやっぱり儚い、自分が一番かわいい。









本「黒雲の下で卵をあたためる」小池昌代5


黒雲の下で卵をあたためる
著者: 小池昌代
単行本: 195ページ
出版社: 岩波書店 (2005/11/26)



不安はすべて、未来を先取りした途上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。
  〜「道について」
オビに評される、
現在もっとも注目されている詩人の第2エッセイ集
は、詩人 小池昌代が、
自分の無意識の探究”と位置付ける、詩を書くこと、
その日常生活、生い立ち、人生の過程の様々な培われた経験や考え方、人々との関係、記憶に残る著作などなど、易しい言葉で綴られるエッセイたち。
すっかり心がオープンになる。

あまりにも心がオープンになりすぎて困った。
雑念を追い払いたくって、余計なことを考えたくなくって、現実逃避をしたくって、だからこそ読書に勤しんでいるのに、あまりにも心がオープンになったが故に、リアルな現実の問題に支配される。
込み上げる怒り、憎しみ、握り締める拳、皺が寄る眉間。烈しい感情、行き場を失う、本を片手に茫然自失。
怒りが生み出すもの。コントロールすべき感情。

そう、直視すべき現実。避けていては、解決が図られることなど有り得ない。
苦しみや痛みを受けることなくして、問題が解消することなど、世の中そんなに甘くない。
本を読むとき、わたしたちはいっさいの動作を止め、身体を固定し、無活動状態になって本に没頭する。それは、言ってみれば、日常の中に流れている、時間をせきとめるような抵抗の行為である。そのとき、まわりには、いつもとかわらない日常世界があり、時計の針は規則的に動いているが、本のなかには言葉がつむぐ、言葉によってつくられた時間の世界がある。この二重世界を生きることが読書という行為だとするなら、ふたつの世界の時間の落差が大きければ大きいほど、それは最初、とっつきにくさや読みにくさとなって読者に現われてくるだろうとも思われるのである。
  〜「詩の不可侵性」
のハズなのに。

「ちーくーみーまー」の世界。
そうそう、果てしなく続く、支離滅裂で無意味な言葉遊び。何が楽しいのか、無邪気にはしゃぐ姿に誘われて、愉快な心持ちに。
その先に意識を掘り下げて、探求するか否か。
才能。

生じる「関係」に築かれる。









本「悪い時 他9篇」ガブリエル・ガルシア=マルケス5


悪い時 他9篇
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書評/海外純文学


「なぁ〜んだか、よっくわっかんねぇ物語だなぁ〜」と、とりあえず言ってみる。
そんなよく分からない、ちょっと昔話の物語を、好んで手にして、しかも483ページもの大作を読了。

あとがきにて、野村竜仁(神戸市外語大学)が書き記す。
ジャーナリスト時代の、それでも失業と放浪と貧困の最中にあった、ガブリエル・ガルシア=マルケス、その著作は、ヨーロッパでは出版の機会を得ることがなかった。1958年から1962年の作品 全十篇。
名作「百年の孤独」に至る道程。
そうか、社会主義を支持し、キューバカストロ議長とも親交があった。なるほど、コミュニティ(共同体)階級社会、、、

正直、物語として、愉快でも軽快でも口当たりが好い訳でもない。涙を誘うことも、深い感動もない。
あるのは、独裁者や権力者の支配。戦争の傷跡。病や死の恐怖。


きっと、ガブリエル・ガルシア=マルケスを絶賛する方々の声と、ノーベル文学賞作家であること、最初に手にした「わが悲しき娼婦たちの思い出」が読み易かったこと、その余波。
つい、著作を手にできた喜びから、”本が好き!PJ”に書籍登録をしてしまったこと。登録してしまった以上、後には引けない。
だから(?!)、短い作品が続く前半の九篇でウォームアップを完了し、いざ中篇「悪い時」。

時代背景も、歴史的事柄も、階級社会も、マコンドや、権力者たちも、想像すらつかない事物。理解し得ないことは、仕方がない。40年以上も前に描かれた物語たち。
いっそ、ラテンアメリカ文学魔術的リアリズムを、ただただ堪能しよう。

だってね、
歯が痛い町長、悪評を書き記すビラを貼られて戸惑う町の人々、次々と起こる悪い事件、だから「悪い時」。で、犯人は誰なの?
「大佐に手紙は来ない」だって、退役軍人が恩給を受け取るための手続き書類をひたすらひたすら待ち続ける。手紙が届いて、手続きすれば、受け取れるハズの金銭。それでも、具体的には届く当ての無い手紙をただただ待ち続けるうちに、自らが食べる物にも事欠く有り様。息子も死んでしまった。トウモロコシを貪り食う軍鶏。
「最近のある日」で、歯痛の村長が歯科医の治療を受ける。
「この村に泥棒はいない」は、玉突き場の玉を盗んでしまった男が、何だかんだで結局、玉を返しに行くんだけれども、、、
「ママ・グランデの葬儀」に描かれる女性権力者。
それぞれの物語が、「悪い時」のどこかを構成している物語であり、「悪い時」から独立した物語。


考えれば考えるほどに、何が愉しいのか?、何を描きたいのか?、混乱を生じさせながら湧き起こる大きな疑問。

「何とも馬鹿らしい!?」と、失笑を覚えながら、壮大な虚構の世界、その昔話の物語を愉しむ。それでいい。それでいいんだよね。









本「世界がキューバ医療を手本にするわけ」吉田太郎5


世界がキューバ医療を手本にするわけ
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書評/ルポルタージュ


「・・・かつて、ホセ・マルティ(José Julián Martí Pérez,1853-1895、キューバの文学者、革命家、独立思想家、建国の英雄)は、『教育されることが唯一自由になれる方法だ』と語りました。言葉を換えれば、文化があれば人民は自分の思想を持ちます。私たちは、人民が批判精神を失わずに、自分で物事を決められる能力を持つことを望んでいるのです。それは、知性を抑制し、世界中の人間を馬鹿にしようとする米国の消費文化主義との戦いなのです。消費主義に対抗できるのは、文化だけだと思いますし、グローバル化しなければならないのは、爆弾や憎しみではなく、平和、連帯、健康、そして誰しものための教育と文化なのです。」
小説家から、1997年に文化賞大臣になったアベル・プリエト氏は語る。
本が好き!PJ”からの献本。医療大国としての側面から、変化し続けるキューバの姿を克明に描いた最新リポート。
キューバにこだわる、農政業務に従事する地方公務員(長野県農業大学校勤務)の著者”吉田太郎”が、
キューバの医療制度の概要を知るコンパクトな入門書
を自負する著作。
世界情勢に疎い私にも、読み易く、分かり易い。
いきなり、
全世界174カ国の福祉医療の現実・・・
一人あたりの所得と乳幼児死亡率が、みごとに相関している。
・・・
「金がなければ、子どもたちの命は救えない・・・」
・・・
だが、ただ一国、・・・逸脱している国がある。
「人の命は 金銭よりも 価値があり 優しさと 思いやり さえあれば 命は救える。」
キューバの医療哲学は、まことに過激だ・・・

と、投げ掛ける。

実は、手にしたキッカケは、映画館の上映予告での、マイケル・ムーア監督「シッコ」の派手な映像がフラッシュバックされた、であり、「地図で読む世界情勢 第1部 なぜ現在の世界はこうなったか」に刺激された、世界情勢への興味。

そして、恥ずかしながら、現在の自分自身の健康体に甘んじて、リアルな現実としての”医療問題”を直視することがなかった。確かに、世界各国の福祉医療の崩壊が進んで久しいようだ。当然に日本も例外ではないのであろう。だから、ジャーナリスト マイケル・ムーア監督も、映画を作ったのであろうが。


本書において語られる、社会主義共和国”キューバ”の素晴らしさ。
われわれの原則は人類の幸せのために働くことにある。ここは、キューバのためだけではない。全人類のためのに、世界のために働くことに覚える充実感。
、ことあるごとにキューバの人々の口から聞かれる。
なるほど、私もキューバでの暮らしを選ぼう!
崩壊しつつある資本主義国家の、ますます拡大する格差や歪み、強い者や富める者がますます強く富み、弱き者や貧しい者はますます弱く貧しくなる、大きな矛盾。矛盾に満ちた社会への疑問。
医療費も、教育費も無料の、格差の無い、平等な、精神的に豊かな社会。コミュニティ(共同体)が機能し、共有し合い、共存する社会。


実は、8月14日に読了し書き記し始めたものの、どうしても書けない。
考えがまとまらない。
仕方が無いので、頭の片隅に残しつつ、暫しそのままにした。
素晴らしいレポート(本書)は完成度が高い報告書なのだから、その内容について、私には充分に理解し得ない故に、そういうものだ、ということで理解する。
社会主義”について、今後、興味を持ってその真髄を探る。一方では、社会主義国家の崩壊、ソ連東欧中国などの、現実を認識する。
現時点において、優れた体制が構築されたキューバ。
革命家たちの高い理想を実現させ、高い医療技術、教育機関を有している現状。亡きチェ・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara Lynch)であり、初代国家評議会議長として、30年以上政権を握り続けるフィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)の手腕。
アメリカとの関係、ソ連の崩壊、度々の経済危機、刻々と変わり続ける情勢の中でも、着実に築き上げてきた現在の地位。
現状から判断するキューバの状況は、独裁者の判断が結果的に好かった。現時点においては、優れている。将来は、誰にも分からない。
高齢のカストロの後継者は?


優れたものは、素直に認め、受け容れ、理解し、分析する。
表面のみに捉われることなく、本質的な解釈を図り、充分な考察を加える。
本質的な理解への道程は容易ではない。
自らの現在の状況の冷静な把握との対比。
それでも、自らに与えられた状況に有する絶対的な意義。過去の積み重ねに基づく、現在の状況。目指す姿、夢、新たな挑戦、現実逃避。

深く考えさせられて、全く纏まりを見せない。
それでも、立ち止まることなく歩む、自らの足で、意思の下に。

長生きのためには、いつまでも人生に興味やモチベーションを持ち続けること、禁煙し、飲酒をやめ、スポーツを行い、野菜が多いバランスが取れた食事を摂り、楽しい文化活動に参加することが必要









本「地上を渡る声」小池昌代5

地上を渡る声 -小池昌代
地上を渡る声
著者: 小池昌代
単行本: 125ページ
出版社: 書肆山田 (2006/04)



日常の何気ない、ありふれた普通の生活の中、ふとした瞬間。
小池昌代、三十四篇の詩集。
短い言葉や文章に、凝縮されて注ぎ込まれた熱い想い。
空白が怖い。

いきなりやられた。
強風に洗濯物がはためいている。靴下や下着、厚手のトレーナー。・・・
で、始まる。超リアルに現実的な日常生活。
完全に妄想の世界。自らが描く世界は、どこまでも果てしなく飛躍する。え〜、そういう展開にくるか!?、なるほど、、、う〜ん、その辺はちょっと理解できないなぁ、、、
当然に全てを理解はできない。読者と著者の互いの想いは、全く別個のものだから、完全な一致は有り得ない。だからこそ拡がる無限の愉しみ。

音を耳で聴き、色を目で見て、匂いを鼻で嗅ぐ、器官が感じる世界。

人間という存在として、生きている。
生きているから、”死”を考える。
ひとつの区切りとして、行き着く先?! 終わり?! ゴール?!

答えはひとつじゃない。
色々な考えがあっていい。
いろいろな生き方があったらいい。









本「上司は思いつきでものを言う」橋本治5


上司は思いつきでものを言う (集英社新書)
著者: 橋本治
新書: 221ページ
出版社: 集英社 (2004/04)



簡単です。あきれちゃえばいいのです。「ええーっ?!」と言えばいいのです。途中でイントネーションをぐちゃぐちゃにして、語尾をすっとんきょうに上げて下さい。
  〜第三章「下から上へ」がない組織 より
橋本治が説く、人間関係の極意。会社という社会組織における人間と人間との関係。

本音を言えば、新書で語って欲しくなかった。
大きくかさばる単行本にこそ、重みを感じたりする。その重さと装丁は、見掛けだけの違いなんだけれども、それでもやっぱり、そこには大きな違いがある。あくまでも個人的な思い込みでしかないんだけれど、コンパクトに纏められた姿に、ありがたみも同調する。だから何なんだでしかないんだけれど、、、
そこには、出版業界の現状と、橋本治の苦渋の思惑まで、勝手に想像を進める。
単行本は”ありがたみ”があるんだけれど、本を読まなくなってしまった現状において、そのありがたみであり、重みが、さらに本を読むという行為から人々を遠ざける。モノに溢れる現代人は、大きくて重い本など持ち歩きたくない。ありがたみは、ありがた迷惑との紙一重、教えを請うなど、大きなお世話?! 世知辛い世の中、時間に追われる現代人、本など読んでる時間はない! (時間はあくまでも創り出すものなんだけど・・・)
だから、本を書くことを職業とする橋本治は考える。このままでは本が売れない。本が売れないと困る。自らの豊かな生活が実現できない。豊かな実りある人生を生きたい。本を売りたい。
それよりも何よりも、悩んで困っている人々の助けになりたい。橋本治の本を読んで、何かを感じて、何か人生の転機のキッカケを掴んでもらえたら、という熱い想いを実現させたい。そのためには、まずは何より、本を手にしてもらうことから。社会生活を送る多くの人々が、何に思い悩み、何を求めているのか? そして、どんな本にしたら売れるのか?? だって、売れなければ意味がない。売れなければ、それはただの自己満足、自慰行為でしかない。
サラリーマンは、会社帰りの赤ちょうちん(?!)で愚痴る。「会社が、、、上司が、、、」とどのつまり、人間関係に問題を抱えている。人間関係に悩みを抱えるサラリーマンは、あまり本を読まない。向上心を抑え、組織からはみ出さないのが、ある部分では会社という組織に生き残る重要なテクニックのひとつだったりする。だから、赤ちょうちんで愚痴ったりするのであろう。愚痴ることによって問題をうやむやに消化させ、本質の直視を避け、現実逃避し、現状に慣れて、中途半端に満足してしまう。だから、社長にも、上司にもなれない、資格も能力も有しない。ただそれだけ。
それでも、会社という組織に居残るために、やっぱり問題として意識の片隅に消えない人間関係に、最低限の努力は惜しまない。会社に居残れなかったら、生活が成り立たなくなっちゃうから、保身のために。理由が何であれ、問題を抱えている現状に相違はなくって、それでも、ありがたい立派な本から、教えを請うなどということは、まっぴらゴメン。プライドだって許さない。どんなプライドなのか、考えると悪寒がするけど、そういうものなんだ、でしかない。
装丁を落として、価格を抑えて、微妙に”ありがたみ”も軽減させた、お手軽な”ビジネス書”の”新書”が、サラリーマンの人間関係の入門書としての地位を築く。手にされ、売れて、認知されなければ、存在の意義が無い。

それもこれも、橋本治の”思いやり”。
そこまでしてでも、本を書く意義を感じている。
本書においても、官僚制度やら、儒教やら、民主主義やら、日本の歴史、民族性まで持ち出して、懇切丁寧に説くことは、とどのつまり、『思いやり』に尽きる。
表面を取り繕うだけじゃない、本質的な思いやりの行き着く態度が、『あきれちゃう』なのである。
互いがプライドを有し、個性を有した個別の人間同士が、相手を思いやり、プライドを傷付けることなく、上手く関係を築くには、相手を敬う気持ちを有するが故に、時に自らのプライドをかなぐり捨てて、本気で心の底から『あきれちゃう』しかない。









本「いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちが遺した最後の言葉」知覧特攻平和会館 編5


いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちが遺した最後の言葉
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書評/歴史・記録(NF)



8月15日朝、靖国神社に足を運んだ。
真夏のジリジリと照り付ける太陽を遮る雲ひとつない晴天。
蝉の声。

「靖国神社」について、Wikipediaには、
近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に就き戦没した軍人・軍属らを、顕彰・崇敬などの目的で祭神として祀る神社である。
とある。関係の有無を問わず、賛否両論、様々な想いがあろう。

論争に加担する気は無い。よく分からないから、無責任なことは口外できない。
戦争があった。戦争によって多くの命が失われた。
それでも、そういう時代があった。ある意味では戦争をする必然があった。その戦争を経て、今現在の戦争をしていない日本がある。
人の命を奪う戦争の無い、平和な社会を維持したい。

だからあくまでも、「足を運んだ」であり、頭を下げることも、手を合わせることもしない。
ますますよく分からない。
とりあえず、現在の平和を祈ればいいのか?
戦争で命を落とし、祀られている故人を偲べばいいのか?
きっとそうなのであろう。
深く頭を垂れ、手を合わせる人々の姿。


美しい風景写真に彩られて綴られる六十篇の手記。

戦争末期、特攻隊員として、飛び立つ若者六十名、最期の言葉。
自らの死を覚悟した上で書き記す言葉、その想い。

隊員プロフィールとして、六十名分の顔写真と氏名、出身地、戦死日、隊名、階級、年齢が記される。白黒の写真に納まる顔、その表情。小さく、不鮮明な写真。手記と照らしながら、その想いに浸る。
手記に表れる人柄、個性。
限られた時間の中、使命の重大さ、高まる気持ち、記す言葉に走る緊張。
短い言葉の中に籠められた想い。

美しい風景写真が、その想いに彩りを添える。
美しい自然、大切な生命、責務。


永久に語り継ぐべき感動の記録








本「タタド」小池昌代5


タタド
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書評/国内純文学


何かが決壊したとスズコは思う。始まった以上、それは止められない。終わりが始まっているのかもしれなかった。
  〜「タタド」より
小池昌代死生観と官能、本能に沁みる短篇小説三篇。
2007年、表題作「タタド」は、第33回川端康成文学賞を受賞。

”若さ”に溢れる勢い、みなぎる生命感。怖れを知ることも、疲れを感じることなく、不可能を可能にしてしまうほどの、絶大なエネルギー。
人は老いる。若さや勢いは失われる。疲れを感じ、恐れを知り、積み重ねられる社会経験や人間関係に、自らを知る。
歳月の流れにあわせ、姿かたちは変化し続ける。変わらないものなど無い。それでも、姿かたちの変遷は、自らの力や意思によるものではなく、自らの意思とは一見して無関係。時に無情に、残酷なまでに。

人間ひとりひとり、それぞれの心の内に抱える事情。
弱く儚い存在。ひとりでは生きていけない。誰かに支えられて、支え合って生きている、人間関係。
仮に夫婦という形式を選択して共同生活を営むふたりの男女であっても、所詮は赤の他人同士。たとえ、親子や兄弟姉妹など、血の繋がりを有していたとしても、それでも個人の人格は別個。血の繋がりを有することなく、婚姻という法的に結ばれているだけの関係。ある一時期に出会い、何かを感じた瞬間があったから、その時期に夫婦という方法を選択した。その時期のその瞬間には、その必然があった、でしかない。当然にその瞬間には、関係が永遠に継続することを信じて疑わない。
積み重ねられる歳月の無情。過去の出来事や記憶は色褪せ、飽きる。状況も、人間関係も、心も変わる。変わらないものなど有り得ない。

記憶、存在、人間関係、死。


物語「タタド」は、それぞれが、それなりの人間としての歳月を積み重ねた、五十歳代の男女四人が、不思議な人間関係の繋がりから集う海辺のセカンドハウスが舞台。
世知辛い都会生活から遠く離れ、目の前には、ただただ広がる青い海。海。海。海があるからこそ、海が織り成す物語。母なる海!?
長年連れ添った夫婦と、その友人は、癌に侵された男、絶頂期を過ぎた女優。それぞれがそれぞれの事情を胸の内に抱え、抱えている事情はそれぞれにしか理解し得ない。特に誰かに理解して欲しい訳では無い。誰かに打ち明けたとしても、解消できる問題でも無い。ず〜っと、心の内に抱えたままに生きていくしかない。そういうものなんだ、であろう。誰もが皆、心の内に何かを抱えて生きている。抱えているものが大きいか小さいかの違いこそあれ。

夫婦という、婚姻という法的なパートナーであっても、その人間関係の儚さ。
人間の男と女が、動物のオスとメスであり、本能的な生殖機能を有しており、本能的に求め合う。
流れ行く時間の中にあって、ふとしたキッカケに感じる何か。心や感覚器官に響き、感じる何か。本能が感じてしまったならば、それは本能のままに行動することが自然であろう。何かの必要があって、何かの必然に導かれて、感じた何か。
感じてしまった何かは、ある意味では、その人間が生きる証、意義。生きる意義を果たすことなく、この世を送ることに意味はあろうか?

心に沁みる、官能的な物語









本「感光生活」小池昌代5


感光生活
著者: 小池昌代
単行本: 209ページ
出版社: 筑摩書房 (2004/06)



わたしだったら。
わたしだったら。
目の見えないこと、耳が聞こえないこと、口がきけないこと、そのいずれに耐えられるだろう。そうして、感覚のひとつを放擲(ほうてき)された自分を想像するうちに、不意に、罪という言葉が、わたしにやってきたのだ。目が見え、耳が聞こえ、口がきける自分が、なにか、とほうもない、罪を重ねているような気がしたのであった。・・・
  〜「船上レストラン」より
「こいけさん」の私小説。
詩人 小池昌代が、雑誌「ちくま」に連載した作品、短篇小説15篇。
”特有の、リズム感。研ぎ澄まされた言葉。豊かな感情表現が、短い文章に籠められる。
”詩”特有の、朗読であり、歌う行為。口から口に、永く語り継がれた物語。朗読には、感情を込めて読み上げることによる娯楽や芸能としての側面があり、一方では、識字の問題が浮かび上がる。識字率の高まりによって、活字による文学の伝承が図られるのは、近年のことであろう。
そして、ショートショートの神様「星新一 一〇〇一話をつくった人 -最相葉月」の本質の世界。

物語に描かれる、光を感じ、何かを感じる日常生活。
人間と人間の関係に芽生える感情。人間は感情を有する生き物。時に衝動的ともいえる感情に衝き動かされる。本能的、生理的、体の外側、内側から無意識に。無意識に湧き上がる感情や、不意に衝き付けられる現実は、どんなに抗ってみたところで、全てが必然に導かれて、意味を有した事柄。だから、全てを受け容れるとまではいかずとも、身を委ねてしまうことも、時に必要とされよう。

感じる力も、感じ方も、本能的な能力。
それぞれに備わる能力には、絶対的な個人差がある。その差異は、優劣ではなく、同じではないという現実。それさえもが個性であり、感受性が強いが故に受ける苦しみもあろう。感じないことによる平穏があり、知り得ることが無ければ、思い悩むことも無い。
それでも、その思い悩み、辛く苦しい想いや、時に痛みを伴う苦悩さえ、その必然に導かれる。全てを受け容れた上で、乗り越える必要が求められているから、耐え切れると目されるから、与えられる試練。求められる自らとの対峙。

変わり行くもの、変わらないもの、存在、記憶

心の深い場所に、臓物に、感覚器官に、沁みる物語、言葉、想い









本「白楼夢―海峡植民地にて」多島斗志之5


白楼夢―海峡植民地にて
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書評/ミステリ・サスペンス



本が好き!PJ”からの献本、七十作品目の書き記し。

多島斗志之が、”海峡植民地”と呼ばれていた、1920年代の英国領シンガポールを舞台に描くミステリ小説。
あとがきの”解説”にて、ミステリ研究家日下三蔵が評する。
当時の国際情勢を背景にした謀略小説であり、外地に進出した日本人たちを描く歴史小説であり、殺人事件の意外な真相を探る本格ミステリであり、迫力満点の逃亡サスペンスであり、男と女の色の行方を描く恋愛小説でもある。”

物語に描かれた後の、1941年には太平洋戦争が始まる。
日本と、主にアメリカイギリスオランダなど連合国との戦争は、ハワイオアフ島真珠湾攻撃”の 1時間49分前、1941年12月8日 日本時間午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)に、日本陸軍はアジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のために、当時イギリスの植民地であったマレー半島の、タイ王国国境に近いコタ・バル上陸作戦を仕掛けた、マレー作戦に始まる。
 (〜Wikipediaより)
第一次世界大戦 1914年〜1918年。

当時のシンガポールを、支配していた”イギリス”。
大航海時代を経て、世界屈指の海洋国家として、世界に植民地を拡大し、世界最大の奴隷貿易国などの、築き上げられた栄華に翳りが見え始めた頃?!
そして、イギリスは歴史的に階級社会であるとされる。
王室と世襲貴族を頂点に、爵位に基づく称号栄典上の階級が大規模に存続する。労働者階級であり、上流階級中流階級
本国から遠く離れていても、遠く離れているからこそ色濃く漂う。

外地に進出する日本人や華僑たち。自らの生まれ育った国を、何らかの理由から出でて、新たな可能性を求める行動を起こす。現在のように飛行機で何処でも気軽に、という時代ではない筈で、「二度と祖国の土を踏むことは無い」という強い想いを胸に抱き。異国の地で生きることに必死な人々。生きるために、娼婦だって拒まない。
そうして形成される、同文同種のコミュニティ(共同体)
日本人は日本人同士で、華僑は華僑同士で。経済活動に優れ、財を成した華僑たちは、更なる富を求め、利権を漁る。経済活動には、競争原理が働くから、生き残るために繰り広げられる熾烈な争い。時に武力抗争へと発展する。力の強い者だけが生き残る。支配する者と、支配される者。個人を超越して、国家間の策略さえもが垣間見える。
異国に地にあっても、築き上げられたコミュニティに働く、種の保存の本能。歳月を経ることによって、誰もが老い、輝きや威力を失い、翳りを見せる力。だからこそ、継ぎたい”血”。濃い血を遺す本能。強い者が放つ光、匂いが、強い者を惹き付ける。
それでも、血は抗えない。対抗する勢力同士であっても、何かのキッカケで引き起こされてしまう過ちは、それさえも時に必然であり、濃い血を有する者の”宿命”とさえ。
想像を絶するほどに苛酷な”血”。
歳月を経て、母であり、娘に襲い掛かる、不条理な事件。

”死”という不存在によって、覆い隠され、封印されてしまう真実。
それでも、どんなことがあったって、それが真実であるならば、いずれ明らかにされてしまう現実。

とどのつまりが、殺人事件の「犯人が誰であるか?」ということよりも、「何故に殺人事件が引き起こされたのか?」であり、そこに垣間見える人間模様が、物語の妙であり、犯人が明かされる痛快さに勝る、深い充実感に満たされる。









 祝!ブログ開設、一周年♪

本「星新一 一〇〇一話をつくった人」最相葉月5


星新一 一〇〇一話をつくった人
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書評/ルポルタージュ



この抜け殻を見よ。私から目を逸らすな ― と。
  〜「第十二章 東京に原爆を!」より
SF(サイエンス・フィクション)作家の第一人者、ショートショート(掌編小説)の神様、”星 新一”(本名:星 親一、1926年9月6日-1997年12月30日)を、ノンフィクションライター”最相葉月”が書き記す。

SF小説の普及に心血を注ぎ、「ショートショート 一〇〇一篇をつくった」、歴史が生み出した偉大な日本を代表する小説家。その存在が、あまりにも威厳に満ち、背負うべき宿命が重大であり過ぎたが故に、昭和58年に前述の偉業を達成し、57歳にして第一線を退いた後、そして1997年の没後に積み重ねられ流れ往く歳月に、人々の記憶から徐々に姿が消え去ろうとしている現実に、”星親一”という男の生き様に、どうしても黙っていられなかった。後世に語り継ぐべき責務がある。と、最相葉月はその意義に駆り立てられて、過去の作品や遺品、関係者らの取材を重ねて書き上げた超大作。
”関係者百三十四人への取材と膨大な遺品から謎に満ちた実像に迫る決定版評伝”は、第29回講談社ノンフィクション賞を受賞。

背負うべき責務の大きさに、それでも黙って全てを受け容れて、ひとり耐え忍び続けた男”星親一”の71年の人生。どんなに辛いことだって、黙っていては誰にも伝わらなくって、誰も理解することができなくって、本人が辛いだけなんだけれども、辛いことを口にすることによって、その辛さの一片でも負担(辛さや苦しみ)が軽減されれば、本人だっても、どんなに気が楽になったでろう。辛さや痛みを分け合って、支え合って、協力して共に生きていく。そうして辛さや苦しみの淵から救われる、ごくごく当然の自然な在り方。それでも、その背負うべき責務の重大さが想像を絶するものであり、それが与えられた宿命であり、そのことを万一口にしてしまった相手への負担が甚大である場合、どうするべきであろうか。

星薬科大学の創立者で、星製薬(現 五反田TOC)の創業者”星 一”を父に、母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精森鴎外の妹・小金井喜美子、そして自らは、東京大学農学部農芸学科を卒業、高級官吏採用試験である高等文官試験(現在の国家公務員I種試験)に合格するも、東大の大学院に進学し農芸化学を研究、ところが1951年(昭和26年)、24歳にして、父が急逝したため、父の会社を継ぐ。(〜Wikipediaより) と、まさにエリートと呼ぶに相応しい、厳しい選抜と高度な専門教育を受け、ある特定の方面に於ける役に立つよう、充分に訓練されている人間。

父親から帝王学を享受された記録が残っていなくても、宿された血であり、後ろ姿や立ち居振る舞いから、そして周囲の目が、星親一を”宿命”付ける。星親一の存在は、世の中のために、大きな何かを成し遂げるために宿された。本人の意識の有無にかかわらず、そんな宿命を背負った男の人生。
過去の出来事に”もしも”は有り得ないけれども、それでも、父星一の結婚がもっと順調に早く決まっていたならば、母靖との互いの諸事情が緊迫することなく見合い結婚をしていなかったならば、親一が長男として生まれ出でていなかったならば、星製薬が役人から不条理な扱いを受け業績が悪化することが無かったならば、戦争が無かったならば、高級官僚となっていたならば、父星一が急逝して会社を継ぐことが無かったならば、会社の業績悪化によって経営者としての地位を追われることが無かったならば、それでも遺されていた星薬科大学評議員という肩書き(収入)が無かったならば、文明が発達しきった現代に生まれ出でていたならば、SF小説が確立されていた時代に生まれ出でていたならば、、、ひとつでも、要件が欠けていたならば、全く異なる道での人生が歩まれていたであろう。
それでも、背負わされた宿命が故に、如何なる業界にあっても、第一人者としての働きが期待される。大成するか、重圧に耐え切れずに失脚するか、二者択一の烈しい人生、それも宿命。

運に恵まれ、時代の後押しがあったことも事実であろうが、それでも、唯一自らを絶対的に信じて、自らの道を突き進む。その頑ななまでの姿勢によって、結果的に切り拓かれた”道”。SFであり、ショートショートの作家としての地位、業界としての確立。道なき道を切り拓いて突き進む作業は、ひたすら自らとの闘い。誰も前を行く者の無い、まっさらな道。進むべき方向さえ、誰にも分からない。何処に向かって進んでいるのか、待ち受けているものが何であるのか、全く先が見えない状況において、信じられるのは自分自身のみ。決めた自分自身のみを信じて突き進む作業。万人に可能な作業ではない。エリートといわれる一握りの人間が、偶然であり、必然に導かれて、運命的に行われる作業。
小説家として身を立てる前の”親一”、小説家としての”新一”。偉業を成し遂げた後に、第一線を退き、家族らと余生を過ごす”親一”、極度にすり減らされた心身は病魔(癌)に蝕まれ、、、

凡人の私は、偉人の労苦を知る由も無く、ただただその恩恵に与る。


偉大な祖父、強い父と向き合い「過去の呪縛から解き放たれ、乗り越え、自由が生まれた」、伝記を書き記す作業。「明治・父・アメリカ」、『人民は弱し 官吏は強し』。

母”靖”の逝去。
かつて新一は、自死した友人への追悼文でこう書いていた。
「私は人生について深く考へる事は余り好きでない。 ・・・ 深く考へることに自分の性格が堪えられるかどうかが恐ろしいのである。」”

親一が、背中で感じ、心の拠り所とした絶大な存在。


 〜要素分解共鳴結合〜








何と、ブログ開設から丸一年。
明日が一歳の誕生日、「自分に、、、 オメデトウ♪」

映画「西遊記 -澤田鎌作監督」5

映画「西遊記」ORIGINAL SOUNDTRACK


映画「西遊記」
香取慎吾、ド迫力の熱演!
中国の広大な砂漠や王陵、宮殿が、歴史物語に彩りを添える。

原作は、16世紀の中国の時代に大成した伝奇小説。同時代に「三国志演義」「水滸伝」などの名作小説がある。(Wikipediaより)
三蔵法師が、孫悟空猪八戒沙悟浄をお供に従え、さまざまな苦難を乗り越えて天竺(インド)を取りに行く物語。
先日観た「サン・ジャックへの道 -コリーヌ・セロー監督・脚本」と同種の巡礼の旅、ロードムービー、かと思いきや、巡礼が聖地を巡るという宗教的行為とされ、キリスト教イスラム教及び、日本の神社寺院を訪ね巡り礼拝すること、との表記はあるものの、仏教に同種の宗教的行為が存在するかどうか確認ができない。それでも、三蔵法師が宗教的な目的の下に、お供を従えて旅をしたことに間違いはないであろう。だからこそ、その道中がどんなに険しく厳しくとも、ただひたすら進む。

映画としては、テレビドラマ「西遊記」(フジテレビ系、2006年1月〜3月)の影響、夏休みという時期もあり、観客に子供の姿が多く、簡潔なストーリーと派手なアクションで飽きさせない仕上がり。

旧い歴史物語であり、情報は人伝であり、闘いは個人の力と力の武力抗争。
孫悟空が悪者(金角大王、銀角大王)を力でねじ伏せる。
アクションムービーにおける、悪者を倒す、という単純な図式。自信に満ちた顔。悪い者だから、有無を言わさず倒され、排除される。善い者が悪者を倒した時、顔に浮かべる満足感は、観客の痛快。
孫悟空の顔に、その後に待ち受ける果てしない闘いの陰。
相手を力でねじ伏せた者は、その後も力でねじ伏せ続けなければならない。それでも、永遠の絶対は有り得ないから、いずれ力でねじ伏せられる時が訪れる。それでもそれでも、闘わなければならない無常。

エンディングのガンダーラに、思い起こされる記憶。
歌詞が自然に口から出る。ゴダイゴ
テレビドラマ「西遊記シリーズ」(日本テレビ系、1978年〜1980年)。そう、堺正章だった。





「ルーガ -小池昌代」読みました。5


ルーガ
著者: 小池昌代
単行本(ソフトカバー): 224ページ
出版社: 講談社 (2005/11/1)



かつて読んだ漢詩の本の中で、「在る」という感じについて、興味深い解説を読んだことがあった。「国破れて山河在り」などで使われている場合の「在」という字は、何かがただ在るという意味ではなくて、「もとの場所にそのままある」という意味だというのである。もとのまま、そこに在るというのは、単純なようだが、巨大なエネルギーを感じる在り方だ。
 〜”旗”
詩人小池昌代”が、「小説を書くと決めてからつくってもらった初めての小説集」とあとがきに書き記す、短篇小説三篇。
が、感動や叙情を短い文章で表現する文学の一形式であり、元々が朗読、あるいは節を付けて歌うものであった。そして、”叙情”に含まれる、「胸が締め付けられるような切なさを超えた深い感動 〜Wikipedia」。
だから、”女の心の奥の奥にある、言葉になりにくい美しいものを綴った小説集”と評される。確かに言葉にしにくい。
漂う切なさ、悲哀、「あぁ〜、生きるって・・・」

物語の全篇に横たわる”死”であり、”離別”、一個の人格として他人とは絶対的に相容れない”孤独”。
時に交通事故によって親を亡くし、時に離婚によって父母とは別々に営まれる生活。何ら大きな変化を見せることなく、同じ場所で淡々と営まれ続け、積み重ねられる歳月。
それは、気が付いたら20年だったりしちゃう。時折思い起こされる記憶。思い起こされる記憶に登場する近しい者たち。何ら変わることが無く、同じ場所で積み重ねられた歳月であっても、現実的には常に状況は変化し続けている訳で、思い起こされる記憶の状況との絶対的な隔離。記憶は、その時点の状況で固定されるものであるが、生きている人間の状況が固定して変わらないことは有り得ない。状況は常に変わり続ける。歳月を経た分だけの年齢が重ねられる。独りで生活しているならば、孤独に対する耐性であり、順応があろう。独りの時間は、他人に依存することなく、自己を確立するために絶対的に必要であろう。一方、第三者との生活を営めば、共同生活における順応。結婚であれば、夫婦として、それまで赤の他人であった人間との共同生活。子供が生まれれば育児であり、生んだ親の子に対する責任、義務。歳月を重ねて、老い、病を患い、いずれ誰しもが必ず迎える”死”。
子供はほんとうにかわいいものよ。でもね、自分が生んだ子だから、だから可愛いというわけでもないような気がする。
子供とも出会うのよ。一応、自分の腹から出てきても、それは場所を借りてただけなんじゃないかしら。自分の子供を大切にするのは、むしろそれが、本当は自分のものなんかじゃないからなんじゃない?
誰のものでもない、あのこはあのこだけのものよ。
荷物が、納まるべきところに届くまで、それを見届けるまで、壊さないようにして運ぶじゃない、それと同じよ。
未来というと、きれいだけど、その子自身にその子が届くまで。子供が、自分というものに気がつくまで。それまではその子を運ぶ「義務」がある。
 〜”旗”
我が子であっても、ひとりの人格を有した人間。だから、親との死別や離婚を乗り越えて、記憶として受け容れる。それでも、自らの経験のうち、どうしても記憶として自らの内に残すことができない瞬間が絶対的にある。
自分の始まりと最後のところは、どうしても自分じゃ認識できないもの。その両端だけは、記憶が欠ける。そこんところは、他のひとが補ってくれて、ようやくそのひとの、生涯が完成するんだわ。
 〜”旗”
だからこそ、”自分の生まれた場所”への想い。
親も子も夫も妻も無く、それぞれが個別の人間という”存在”。それぞれに、別個に積み重ねられる歳月に、それぞれが個別に刻々と変わり続ける。一方では、永い歳月を経ても変わることが無い”記憶”。刻み込まれた記憶は、歳月を経ても、必要とされる瞬間には、克明に浮かび上がり、鮮明に思い起こされる。

「傷はいつしか、宝みたいになるぜ。痛いし、忘れがたいけど、忘れられるもんじゃない。だから逆に大事に携えて生きているんだよ。それがなくなったら、さびしいと思うくらいにさ」
 〜”ニギヤカな岸辺”








「地図で読む世界情勢 第1部 なぜ現在の世界はこうなったか -ジャン-クリストフ・ヴィクトル/ヴィルジニー・レッソン/フランク・テタール、鳥取絹子 訳」読みました。5


地図で読む世界情勢 第1部 なぜ現在の世界はこうなったか
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書評/教育・学習


すべては地図によって
驚くほどくっきり見えてくる。
だから、
世界を見る目が変わる地図

本が好き!PJ”からの献本。
現代の世界が、それぞれの国家が内包する矛盾に満ちた均衡に保たれて、形作られている現実が、地図というビジュアルによって解説される。とっても分かり易い構成。
フランスで異例のベストセラーを記録、の評にも納得。

世界情勢、歴史、文化などに充分な知識を有している方には物足りないのかもしれないが、、、不勉強で世の中の情報に疎い私にとって、正直読むのが辛かった。だって、学習(知識を習得)することは、自らの無知を認識する作業から始まるから。地理も歴史も苦手として、勉強を避けてきた。地理や歴史の知識が無くても、日常生活において困ることはない。興味を持たなければいい。ただそれだけだった。
それでも、読書に勤しみ、絵画や映画などの文化芸術作品に触れ、興味を抱き始めると、実は非常に不都合が多い。今さら人に聞くのも恥ずかしい。やっぱり、深層部分の理解が得られないのは悔しい。インターネットの発達のおかげで、知りたい情報をピンポイントでピックアップすることはできるが、それでもブツ切れの情報でしかない。知れば知るほどに、高まる興味。どんなに悔やんでも、時間は巻き戻すことができない。学生時代に戻って、勉強し直したいと思ったところで、残念ながら、「今の時点で興味を有した」が現実であり、後悔する暇があったら、現実を生きたい。今現在に、現実として興味を抱いた知識をコツコツと身に付けたい!
という葛藤が、「旅 2007年08月号 -クロアチア特集」のクロアチアが、国家ユーゴスラビアの解体によって誕生した共和国であることを知った。であり、「仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 -長田幸康」で、チベット仏教であり、仏教の歴史、そしてチベット民族が、中華人民共和国によって実効支配されている事実を知った。であった。
この二つの歴史的事実は、やっぱり小さなことではなかったようで(恥ずかしながら、私はそれまで知り得なかった)、本書においても、歴史的事件前後の出来事や、周辺国家との関係、民族的・宗教的背景まで、地図を用いた詳細な解説がなされる。納得、点と点が線で繋がった!?
そして、「獄中記 -佐藤優」で、キリスト教徒で元大蔵省元主任分析官がロシアに精通していた理由も氷解。本書における、ロシアの宗教的側面からの解説に、キリスト教カトリック典礼とビサンチン典礼(東方正教会)があって、ロシアは「正教会」である「正しい教義」のキリスト教徒を多く抱える国家とあった。なるほど宗教と民族を知ること無く、世界への理解は有り得ない。

それでもやっぱり、現在の世界において、絶大な影響力、発言力を有する国家は、”アメリカ合衆国”。だから、本書においても、第1章で一番最初に取り上げられる。アメリカを語らずして、現在の世界を語ることはできない。それでも、そこから垣間見える歴史的事実として、世界的歴史の浅い(約250年)若い国家であること。名もなき先住民たちを大航海時代侵略・征服して確立された国家は、自国内における戦争の経験が四度と極端に少ない。だからこそ、1861年から65年の南北戦争以来、136年ぶりのアメリカ国内の戦争と解釈される2001年9月11日の同時多発テロの衝撃。強いアメリカの終わり!?
高度に情報化が発達した現在においては、武力の抗争である”戦争”が非現実的なものとなりつつあろう。それでも、内戦であったり、テロ攻撃は、決して無くなることがない。情報化が発達していない時代であれば、民族、宗教、国家機能を守るために、隣国との武力抗争が、最も有効だった!? 何の情報も無いのだから、自らの国家を維持するためには、攻められる前に攻め込んで、力を誇示する必要があったであろう。
現在の高度な情報化によって、瞬時に世界情勢が一目瞭然となってしまう現実、であるならば、国家(民族・宗教)などという単位に縛られることなく、大きな世界という視点での共存共栄が望まれるのも当然であろう。求められる均衡は、例え矛盾に満ち溢れているとしても、武力抗争以外の方法の選択。

で、世界の歴史は、やっぱり”欧州”であり”ロシア”、第2章。近年における欧州連合(EU)の動き。そして大国ロシアとの関係。異民族と異文化が大陸に共存するが故に繰り広げられてきた歴史的出来事の数々。地図という目で位置関係を確認できるから、その民族であり、宗教であり、国家の勢力図の変遷が興味深い。何度も舞い戻って確認して、読み進める作業。だって、国家の名称と位置関係の理解が、欠落していたのだから仕方が無い、であり、好機を得た、である。

で、現在の世界的経済活動は、石油やガスの天然資源に依存しているから、その資源の多くを握る”中東”が第3章。限られた天然資源という利権を巡る権力抗争。天然資源が資産となり、潤沢な資金が国力を高め、国際政治的な力を有する。そこに、民族や宗教的な要素が加味されて勃発する争い。

と、基本的な歴史的な知識を、地図で確かめながら習得できる効果は大きい。
それでも、現在の世界が抱える諸問題の内、著者らが重要であろうと判断した歴史的出来事の、部分的な側面でしかない。
現在の世界情勢を語るに、地図入りで159ページでは、絶対的に限界がある。全てを網羅して膨大な情報量とすることよりも、基本的な知識への理解を目的としているからこそ、私のような不勉強な人間にも理解ができるのだから。

だからこそ、世界全体を網羅した最後に、アジアの極東の小国”日本国”が、客観的に評されている記述に、この著作の意義を感じた。
日本が、領土を全て海に囲まれている特異性。








「裁縫師 -小池昌代」読みました。5


裁縫師
著者: 小池昌代
単行本: 178ページ
出版社: 角川書店 (2007/06)




小池昌代、初読み。
キッカケは、新潮社「旅 2007年09月号」にて。

官能(かんのう)”という言葉の意味を調べる、
1.生物の諸器官、特に感覚器官の働き。
2.感覚器官を通して得られる肉体的快感。特に、性的感覚を享受する働き。

骨に響く、臓器の深い部分に沁みる感覚。

いきなり表題作「裁縫師」に受けた烈しい衝撃。
本能が赴くままに起こした行動は、「タタド」と「ルーガ」の手配。
小池昌代を知りたい!
短篇小説五篇では物足りない。

何であろうか?!、人間という生き物が、世間一般に言われる”常識”などという、窮屈なのもの ― それでも、現代の日本国に暮らす多くの人々(当然に私を含めて)は、そんな”常識”といわれる概念を、拠り所にして生きている訳なんだけれども、― 静かに、それでもしっかりと叩き壊される。完膚なきまでに。


特設HP「裁縫師」 −Web KADOKAWA









「涙のち笑顔 大病と闘った娘と家族の2000日 -布川敏和・布川かおり」読みました。5


涙のち笑顔 大病と闘った娘と家族の2000日
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書評/健康・医学



人生は、自らが演じるもの!

本が好き!PJ”からの献本。
アイドルグループ シブがき隊のフックンこと布川敏和と、妻であり三人の子供の母でもあり、こちらも元アイドル土屋かおりの共著による”家族の愛の物語”。眩しい黄色い装丁に宿す、幸運への飽くなき願望。

先に分かり易く書き記しちゃいます。
素敵な家族の愛の物語が演出されています。
全篇に溢れる愛が、時に涙を誘います。
とっても好いです! ☆×4つ♪



で、ここからはブツブツと呟く。
この本に抱いた興味は、大きくは二点。
何だかんだ言いながらも、世俗を生きている現実。個人的には既に興味を失って久しい、軽薄なマスメディアによって演出され、どうやら世の中に広く受け容れられている”芸能人(タレント)”という、何やら得体の知れぬ職業が、今もって飽きることなく支持されている必然であり、その現実への興味。
その演出された芸能人が、さらに演出する商業主義から展開される”芸能人の家族の物語”を著作化して描く、実の娘の闘病記が、どう演出されるか? 愛しい娘の大病と闘った家族の記録だから、時に涙を誘うであろうけれども、それでも「涙のち笑顔」なのであり、物語を構成するひとつのファクターでしかないのであろう。どんなにマスメディアが軽薄だとしたって、「元アイドルの芸能人夫婦の子供が、大病を患ったけど、治って幸せに暮らしてます。」では出版しない。この世の中、そこまで甘くはない、はず。

元来、芸能人とは、「芸能によって報酬を得る人」の総称であり、芸能に示されるのは、伝統芸能であった。であったけれども、現在では、アイドルタレントや示す場合が多い。そこには、重厚で難解な伝統芸能を忌避して、単純明快で分かり易いテレビ等の軽薄な芸能(タレント)活動に目を向けがちな私たち一般消費者の傾向があろう。それでも、軽薄短小といわれようとも、需要があれば供給が求められ、そこに商機があれば、加速度的に発展する、が資本主義経済の原理原則でもあろうから、否定したところで、何の意味をも有しない。
それでも、メディアが軽薄とはいえ、何の特長も有しない人間は、瞬間にして淘汰される。仮に突然に訪れてしまった好機も、器が伴わなければ、受け止めて自らのモノとすることができない。自らの意思の及ばない、他力が多く介在するが故に、実力以上に要求される人間力。周囲からの羨望を集めるだけに、繰り広げられる、生き残りのための熾烈な争い。運だって大きく作用する。
それだけに、トップアイドルとして名乗りを上げ、君臨し続けることの特殊性。アイドルとしてスポットライトを浴びることができる時期は長くない。それでも、一度手にした栄光を、誰だって手放したくない。現実的で残酷な歳月は、刻々と世間一般消費者の興味を冷めさせる。
だって、世間一般消費者は、軽薄なモノを求める、移り気な軽薄な人間だから。商業主義に塗れた、マスメディアだって、自らの企業としての存亡に必死だから。
それでも、芸能人だって、それを職業としている以上、「飽きられたから。」と言われて「あ、そうですか。」という訳にはいかない。それを生活の糧とする業としているから。
華々しくきらびやかに、世間一般消費者の羨望を一身に浴びて、何ならライフスタイルであり生き方やその姿、立ち居振る舞いやファッションが、世間一般消費者の先駆者的存在であり、羨望を浴び続けたい。その役柄を私生活にまで演じ続けるたい。
世間一般消費者と同じ生活レベルにあっては、熱烈な興味を抱かれ、支持が得られることなど有り得なく、その存在の意義を有し得ない。

アイドルを経験した著者夫婦は、芸能人として芸能界に存在し続け、世間一般の羨望を浴び続けるために、自らの人生を演じ続ける。
間違いなく、人生とは演じるものであろう。
仮に最初は演じていたとしても、演じ続けているうちに自らのものとなり、それが自然に身に付く。一度身に付いたものは、記憶として体に残る。心地好い記憶は、手放したくない。
アイドルとしての自らを演じ続けているうちに、芸能界という、きらびやかで華々しい世界から離れ難い感情に襲われる。いつ足元をすくわれるとも知れない、安定とは無縁の熾烈な競争世社会。それでもそれは、きらびやかな羨望を集める世界には共通であろう。その世界に存在し続けることの意義。
ある意味では、階級社会が姿を消した現代日本にあって、エリートが、エリートとしての高度な専門教育を受け、充分に訓練されてエリートたり得る、そんな側面をも垣間見る。

演じ続けて、話題を振りまき続けて、注目され続けて、羨望を浴び続けたい。
移り気で軽薄な一般消費者は、短期間のうちに飽きる。飽きることは、人間の本能の働きだから、それを避けることは不可能であり、飽きて忘れ去るから、新しいことに興味を抱き、新たな経済活動が誘発される。
だから、新たな話題を時折提供し続ける必要があろう。瞬間的に忘れ去られたとしても、記憶には残存しているから、刺激を与えることにより、記憶は呼び起こされる。
歳月を経て呼び起こされる記憶。経過した歳月が刻む現実。状況は刻々と変化し続ける訳で、永遠に変わらないものなど有り得ない。刻まれた現実は、見る者が見れば、残酷なまでに克明に浮かび上がる。
だからこそ、誰のためでもなく、どんな時にも、演じ続けることの絶対的な必要性。

愛しい娘の大病というアクシデントを乗り越えて、それでも演じ続けてきた著者ら。
ある意味では、階級社会が崩壊してしまった日本社会において、世間一般の羨望を集める、という意味合いにおいて、エリートたり得る彼ら。
離婚によって別々の人生を営んでいた実父と、実母の相次ぐ死。夫の鬱病。長女の病気。
人間がそれぞれ歩む人生においては、様々な出来事に見舞われる。全く何にも無い人生なんて有り得ない。そのタイミングや衝撃度の違いこそあれ、必ず何かのアクシデントに襲われる。
それでも、それだからこそ、人生を自らが思い描くスタイルで演じることが、絶対的に必要で、演じることは一生涯を懸けて継続する必要があろう。どんなアクシデントが降りかかろうとも、アクシデントは誰にでも必ず起こり得るものであり、やがて必ず終息を迎える。必ず終息を迎えるアクシデントであればこそ、そんなアクシデントに打ち負かされることなく、そんな時にこそ、自らが思い描くスタイルを演じ続ける必要があるのであろう。


決して上手いとは言い難い文章。それでも、文章の演出指導(?!)を十二分に受けた、人為的な商業主義の演出すら感じてしまうことを否定しない。

それらを十二分に理解したうえで、著者らには是非ともこのまま演じ続けて欲しい、と心から願う。
演じることによって、得られる幸せは、絶対的に小さく無い。むしろ、演じることによってしか得られない幸せがあろう。
そして、著者ら”芸能人”たる存在が、広く芸能表現によって、存在の意義を有しているから。

演じることのない人生など無意味であろう。









写真展「生命の輝き -前川貴行」5

生命の輝き -前川貴行 表厳しい自然の中に棲息する野生動物たちが垣間見せる表情。

写真家前川貴行が、
”生命の輝き”と題して展示する野生動物たちの姿、約50点の写真。

パンフレットのメインにある、雪の中に身を寄せ合うホッキョクグマの親子、母の愛。
周囲を埋め尽くし、顔にも降り積もる白い雪。
どんなに厚い毛皮を纏っていても、雪は冷たかろう。
白い毛皮が、白い雪と同化していたって、常に外敵からの危険にさらされていよう。
愛しい我が子たちと暖を取り合う安息の瞬間。
閉ざされた眼。丸まった背中。

一方、絶好の瞬間を押さえたカメラマン。
どんなに高性能の望遠レンズを使おうとも、それなりの至近距離まで近付き、自然との同化を果たす必要があろう。
相手は、野生動物だから、至近距離まで近付くことは、常に身の危険が伴う。相手も厳しい自然の中で生き抜くことに真剣。遣るか遣られるか、弱肉強食、自らが生き抜くためには、時に自らの身を護るために、相手に攻撃を仕掛けて倒さなければならない。
自然が相手の撮影は、必要最小限の荷物だけを携え、何時間もひとところに居続けることによって、まずは自然に受け容れられることから始まろう。どんなに長い時間を費やしたところで、相手は気まま、好機はいつ訪れるとも知れない。絶好の瞬間は、たった一瞬。同じ瞬間が、現れることは無い。研ぎ澄まされる緊張。何百カット、何千カット、いや何万カットと撮った中の、たった一枚の、一度きりの好機を獲得するために費やす労は、計り知れない。

広い大空を悠々とはばたくワシ。
温泉で寛ぐサル。
キツネだって、あくびをする。

厳しい自然にあるからこそ、垣間見せる表情に、輝きを見せる生命。

猛々しい角を有した雄シカ同士が、烈しくぶつかり合う、真剣勝負。その瞳に宿る厳しさ。
血が滴るサカナを口に佇むブラックベアー。自らが、厳しい自然の中を生きるために口にする生命体。「生きるために、絶対的に必要なんだよ。」、そう語るかのようなブラックベアーの瞳に宿る悲哀。


 〜 前川貴行オフィシャルサイト『EARTH FINDER』
       http://www.earthfinder.jp/

生命の輝き -前川貴行 裏

「天使のウインク -橋本治」読みました。5


天使のウインク
著者: 橋本治
単行本: 302ページ
出版社: 中央公論新社 (2000/04)




やっぱり、橋本治は、エリートだ。
世の中の多く(当然に私も含まれる)が、「エリートとは努力をしないもの」と信じている中にあっては、稀有な存在。だって、本人が書き記すとおり、
”「あ、あれがやりたい」と思って、その結果、「あ、これは出来ない」ということを発見して、「出来るようになろう」と考え始めると努力するしかなくなって、「へんなことばかりやってる」になるのである。努力というものは、「出来ないことの落差を埋める作業」だから、「出来ない」と思ったら、その時点で自動的に「努力の必要」は生まれる。そして、その努力が続く限り、「出来ない」という現実認識はしっかりと寄り添ってしまう。
 〜「努力はせつない」”

そんな、元来優秀な能力を有して、高度な専門教育を受け、充分に訓練(努力)された”エリート”が書き記すエッセイの数々は、”人間が人間として、その人生を生きる指針”そのもの。
展開される理論構成は、現実に即して具体的で詳細で、広く深く世俗的歴史的な背景をも考察に加えられ、「なるほど、そういうことだったのね!」となる。それが、延々と302ページに亘って、懇切丁寧に展開されちゃうから、これほど有り難いことはない。書き記された時代背景(1997年〜1999年)が、歳月の経過とともに変化を見せようとも、決して色褪せることがない、普遍の真理。だって、展開される理論の基とされる事柄が、手近な表面的な事物に限られることがなく、旧い歴史的事実から紐解かれちゃっていたりする訳だから。日本に、今はすっかり姿を消してしまった”階級”が絶対的に存在して、しっかり機能していた時代であり、その必要性や意義にまで遡る。現実的には、その弊害(?!)であり、世論などによって、結果的には必然に導かれて、現在の形に辿り着いたのであり、それでも現在の形が完成された最終形ではないのである訳で、何が正しくて、何が間違っているのかは、誰も知る由もないのであろうが、その現在の形に至る必然の、歴史的事実を認識して受け容れるという作業は、絶対的に必要であろう。
だから、その意義を感じてしまった”橋本治”は、与えられた責務を全うするために、ひたすら書き記す。とりあえず書き記し始めると、書き記す上では調べて現実の事実を理解しておく必要が生じて、理解するために知る努力をする。知る努力の末に知ってしまうと、またそれは書き記さずにはいられなくなっちゃう。だって、それが橋本治の、この世の中に存在する上での、大きなひとつの責務だから。知ったことを、橋本治なりの考察を加えて、世の中の出来事、時流に乗せて、
人生に迷える人々に救いの手を差しのべる

人生に迷っている人々は、この世の中にゴロゴロしている訳で、当然に私もその中のひとりであって、”何だかよく分からない”を彷徨い続けている。
多くの人々が、現在の軽薄な時代にあって、社会全体から”大切なことを教えられる”ことなく大人になってしまい、”考えること”を苦手とする傾向が強くなっている。ある意味では、時代の流れであり、良くも悪くもその必然に導かれた過程における現時点の傾向でしかないのではあろう。
一方では、考えることを放棄して、”考えない”ことを選択せざるを得ない世の中になっていることも否定できない。サラリーマンになることが当然とされ、核家族という閉ざされた社会に生まれ育った人間には、社会から”教えられる”機会は著しく限定される。家族の家長たる父親は、勤めに出掛けてしまって不在であり、”学校”という与えられた画一的な機関と、母親に押し付けられる教育。父親は、家族の生活という大義名分の下に勤めに出掛ける会社という組織に迎合されるために、個性を押し殺し、与えられた仕事のみをこなすことに神経をすり減らし、意識的に考えることを放棄する。”考えない”ことが、自らが背を向けた家庭であり、迎合されたい会社とのバランスが保たれるひとつの有効な方法だから。そして、考えないことが、結果的に”楽(ラク)”なことであり、考えなくても何とかなってしまうから。何とかなっているならば、あえて苦しい選択である”考える”ことをする必要がない。
ある意味では”考えない”は、幸せなことでもある。
そして、”考える”ことは、辛く苦しく、時に痛みを伴う。だから、”考える”必要性が生じる大きな衝撃的な出来事でもなければ、”考えない”ことは当然なのでもある。だから私も何も考えなかった。考えないで過ごしてこれたことを、ある意味では、幸せだったと痛切に感じている。
大人達は、子供達に言わなければならない。「他人と関係を持つことは大切だ」「他人と関係を持つことはそんなに簡単じゃない」「他人と関係を持ちたいと思うことは、恥ずかしいことじゃない」と。
 〜「それをするのは子供だけだ」








”既に適合したある秩序から、別の秩序へ移行しようと思った人間は、自分が適合を望む新秩序に合わせて、自分の身体秩序の改革を図る”
 〜「恋患いの効用」

「がらくた -江國香織」読みました。5


がらくた
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書評/国内純文学



「有り得ない、有り得ない、有り得ない、受け容れられない、絶対に嫌だ、いやだ、いやなんだよ〜、大嫌い!」と叫んでみて、深い深い満足に浸る。

江國香織が、リアルに描く男と女の現実は、あまりにも現実的であり、リアルすぎるが故に、軽い拒絶反応を示しつつ、その現実を受け容れることができない自分自身に対する嫌悪感すら抱く。
そもそも、リアルな現実社会において、自分以外の第三者との人間同士の関係に、世間一般が好いと求めるような対応をすることに、安定を欠き、無意識のうちに他人との干渉を極力排除しようとする行動を取っている私。社会性の低さを自認し、他人に干渉されることを嫌う。自らの領域に侵入されることに、強い恐怖心を抱く。恐怖心は、高圧的で攻撃的な態度に表れる。
他人の干渉を嫌い、孤独を愛しながら、それでも一方では、やっぱりどこか、寂しさに苛まれる場面が少なくない、圧倒的な矛盾。その矛盾が生み出す行動としての”束縛”。その矛盾を矛盾として自認していながらも、やっぱりどうしたっても受け容れ難い。受け容れ難い現実を、受け容れたくないが故に、現実逃避の末に張り巡らせる、常識論、社会的制度。紛れも無い現実逃避に他ならない。本質を深く見据えることなく、自らの都合のいい側面からのみ、制度や常識を振りかざす。「結婚していながら、パートナー以外の異性と、、、 ふしだらな、汚らわしい?!」

「悲しんでくれる人がいなかったら、私は誰とでも寝ると思うわ」
かつて、私は夫にそう言ったことがある。悲しむことは不可能だ、とこたえた夫の残酷さを、私は詰った。でも、あのとき夫はこうも言ったのだ。
「もしもそうなら、きみは実際、誰とでも寝るべきなんだよ」
そんな夫と、三十七歳の夏に、大恋愛の末に結婚して八年。相手に与え、与えられた五つのもの、
私の時間と肉体、嘘いつわりの無い言葉、そして好意と敬意
は、保身を嫌い、それでも、夫に所有されることによって得られる開放(?!)のために選択した”結婚”という制度。互いを誰よりも深く愛し、烈しく求め合うけれど、それでも夫には複数の愛人がいて、妻以外の複数の女性との交際を続ける。だからこそ(?!)、パートナーとしての熱い関係を継続できる?!

一方、海外での”旅”という、非日常の出来事に出会った少女。
海外での生活と、両親の離婚によって、頑なに心を閉ざす。象徴的なイヤフォン。音楽を聴く目的よりもむしろ、世間との係わりを拒絶する目的に愛用する。
彼女には、彼女なりの理由であり、必然に導かれた行動は、世間一般からは受け容れられ難い。仕事に忙しい父親であり、31歳のボーイフレンド、旅先で出会った母娘であり、その夫。世間一般的な大人とは異質な、彼らの存在が与える親近感、安堵。
「根岸さんは生きているんだからいいのよ。生きている相手に対して、感情を不変のまま保存することはできないのよ」









映画「魔笛 The Magic Flute -ケネス・ブラナー監督・脚本」観ました。5

映画「魔笛」豊かな音楽に彩られた物語、高い満足。
ミステリーやサスペンスなどの、捻りを加えた、凝った展開は無い。シンプルに描かれる、人間普遍の物語、人生と愛と死。美しい音楽と、豊かな歌声に乗せて描かれるが故に、深く心に沁み込む。

2006年公開のイギリス映画「魔笛 The Magic Flute」。
1791年にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)が作曲し、その生涯の最後に完成させたオペラ魔笛」は、最高傑作と謳われる。
シェイクスピア俳優としても有名な映画監督脚本家プロデューサーケネス・ブラナーが監督・脚本。

オリジナルのオペラの舞台を、第一次世界大戦前夜の軍の対立に舞台を置き換え、CGを多用した現代的な要素を加味したダイナミックな演出により、魔笛全22曲のナンバーをオペラ歌手が歌い継ぐストーリーが展開される。 〜Wikipediaより


美しい新緑が果てしなく広がる大地に咲く色とりどりの花。のどかな、幸せな風景から舞台の幕が開ける。
一転、リアルな戦争のシーン。敵の銃撃を受け、バタバタと倒れる歩兵たち。
超リアルに現実的な”死”を、強烈に印象付けられる。

戦場の最前線に陣取る兵士たち。勇敢に敵に立ち向かう兵士がいる一方で、鳥を愛し、争いを好まない男もいる。緊張を強いられる戦場にあっても、恋に焦がれていたりする現実。
だからこそ、美しい音楽を奏で、歌っていないと、やってられないのかもしれない。

王様の高い理想が、戦争に苦しむ人々に慈悲を与え、やがて敵との争いをも終わらせてしまう。
そのアイテムとして登場するのが、魔法の横笛、”魔笛”。

とにかく美しく豊かな歌声に圧倒され、満たされる清々しい心持ち。
オペラ”とやらに、挑んでみようかしら?!





「ぽろぽろドール -豊島ミホ」読みました。5


ぽろぽろドール
著者: 豊島ミホ
単行本: 230ページ
出版社: 幻冬舎 (2007/06)




久し振りの”豊島ミホ”。
思い返すと、出会いは、新潮社主催の公募新人文学賞R-18文学賞」受賞作品、「花宵道中 -宮木あや子」であり、「ほしいあいたいすきいれて -南綾子」から抱かれた興味であり、いずれも”本が好き!PJ”からの献本。私の読書遍歴は、このプロジェクト抜きには語れない。改めて感謝の意を表する。
それでも、抱かれた興味は、「青空チェリー」、「檸檬のころ」の二作品で一旦は満了し、私の記憶に留まった。だから、書店で新刊本として見掛けた瞬間に反応を示した。シンプルに「読みたい!」と。
無意識に反応した直感に素直に従い、結果として得られた”深い満足♪”。


物語は、”人形(ドール)”をテーマに描かれる六篇の短編小説。
人形が、人間の姿や形を似せて作られた造作物であり、愛玩する対象物であり、自らの過去の世界を遺し、永遠に不変の存在としての意義を有する。時に、愛玩するが故に、自分自身以外の第三者には決して語ることができない秘密をも内に秘める存在。人形という、生命や意思を有することがない、その非現実性が、リアルにその存在を浮かび上がらせる物語を織り成す。
素直に、感嘆させられた。

やっぱり、最後を締める、書き下ろし作品「僕が人形と眠るまで」が、ある意味では、この物語たちの全てを集約しちゃっているんだけれども、表題にもなる「ぽろぽろドール」であり、「手のひらの中のやわらかな星」に、深い感銘を覚えた。
夕食のあと、クロスを外したテーブルにミシンを置いて、お母さんはつぶやいた。
「咲子、高校に入ってからずっと元気ないみたいだったから。」
私はだだっとミシンを動かして。聞こえないふりをした。
 〜「手のひらの中のやわらかな星」
何気ない母と高校生の娘との日常会話。その短い言葉に秘められた想い、母の愛。自らの腹を痛めてこの世に産み落とし、自らの命を掛けて護り抜きたいと切実に願う存在”我が子”。表面上はともかく、本能的な意識下に、新しい高校生生活に対する不安感を抱く親心。余計なことを口にするまでもなく、その愛しい我が子の、普段とは異なる表情や行動、態度に感じるところは少なくないハズ。それでも、本能的に本質的に愛するが故に、その場しのぎの軽口は叩けない。我が子の痛みは、そのままに親の痛みでもあろう。だから、その表情に明るさを取り戻した瞬間を、決して見逃すことがなく、やっと訪れた安堵。涙なしには語れない、深い深い、母の愛。子供の立場にしてみれば、時に重く、ウザい、などとも感じかねない感情であろうが、親は真剣なのだよ。
だから、子供の成長は、嬉しくもあり、微妙に哀しくもある。

そうして、成長を続け、人間としての人格を形成していく”子供”。
その子供が、成長の過程において愛玩する”人形”。

人間は、生命を宿し、生きているが故に、歳月を経て、その形を刻々と変え続ける。その成長と共に、常に変化し続けることによって、存在することを可能とする。変わり続けることなくして、この世の中に存在することはできない。
一方、人形は、その姿形を変えないことに、その存在の意義を有する。生命や意思を有していないが故に、変わることなど有り得ないのではあるが、その変わり得ない存在であるが故に、人間の不確実な”記憶”という過去の出来事を思い浮かばせ、また、人間が変わり続けているという現実を認識させる”媒体”としての存在。
その存在と、その存在を媒体とした記憶が紡ぎだす物語たちの妙。









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