Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年09月

本「なんにもないところから芸術がはじまる」椹木野衣5


なんにもないところから芸術がはじまる
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書評/芸術・美術



にやにや。
言葉にできない面白さ。
新たなジャンルが切り拓かれた歓び。

実は、参画させていただいている”本が好き!PJ”の献本を受けるか迷った末に、自腹(といっても、図書館ですが・・・)を選択した。書評を書ける自信がなかった。
結果的に、献本を受けなかったことに、ある部分では、ホッと胸をなでおろしている。言葉に表せない。

最近になって、好んで絵画など芸術作品に触れるようになった。
企画展に展示されている絵画作品の良し悪し、上手い下手は分からない。それでも、その展示会が企画されるだけの意義と価値があろう。そう期待して、一方では多くを望まず、先入観なく自然体で挑む。なるほど、長い年月を経てもなお多くの人々を魅了し支持を得る”何か”がある。何があるのかは分からない。展示され、公開されている限りの情報から、想像力を働かせる。生い立ち、家庭環境、時代背景。秀作が描かれた必然の妙。

あ〜、根底から覆される。
著者 椹木野衣(さわらぎ のい)は、1962年秩父市生まれの美術評論家多摩美術大学美術学部准教授

飴屋法水(あめや のりみず)が24日間籠った”暗室”。
会田誠の”ヘタうま”。
オーストリアウィーンの街のど真ん中、突き刺さる六基のコンクリートの塊”フラクトゥルム”。アドルフ・ヒトラー
三松正夫郵便局長、日本画家火山研究家、”昭和新山”、昭和新山の持ち主三松正夫さんの物語
榎忠(えのき ちゅう)、”ハンガリー国にハンガリ(半刈)で行く”。
大竹伸朗(おおたけ しんろう)、”既にそこにあるもの”。
「文化の震度」。深さ、断裂、蠢き、揺さぶり。
赤瀬川源平
ゴミ。

そう、なんにもないところからはじまる。









本「知覧からの手紙」水口文乃5


知覧からの手紙
著者: 水口 文乃
単行本: 203ページ
出版社: 新潮社 (2007/07)



六十年以上前、戦争に散った、特攻隊の婚約者との清い愛の記憶、美しい物語。
八十歳を超えて、チャーミングな笑顔を絶やさない女性の、力強い想い、鮮やかな記憶。長く生かされていることを、語り部としての使命と感じる”智恵子さん”が話し継いた出来事や想いを綴る、著者”水口文乃”は、戦後三十年近く経た1972年に生まれた、フリー記者。
日常に接点を見出せない二人の出会いは、
「女物のマフラーを巻いたまま、敵艦に突っ込んでいった特攻隊員がいる。しかも、その隊員の婚約者だった女性は、未だ健在でいるらしい」
という情報から。
不思議な”縁”に導かれ、一年以上の歳月に及ぶ取材の末に、当時の状況を知り得ない第三者によって、限られた視点から、深く淡々と織り込まれた物語。

最愛の婚約者が、死を覚悟して飛び立った、知覧(鹿児島県)。
今年八月に読了した「いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちが遺した最後の言葉」知覧特攻平和会館 編に触れ、自然に、晴天の八月十五日早朝の靖国神社を訪れていた。
適当な言葉が浮かばないけど、
『忘れちゃいけない、そんな時代が、出来事が、この平和な日本にもあった、ってこと』
現在の平和を当然のものとしている日本人。
世界に目を向ければ、決して絶えることがない戦争紛争テロリズム
日本の、平和な状態が長く続いていることの特異性。









本「神田川デイズ」豊島ミホ5


神田川デイズ
著者: 豊島ミホ
単行本: 275ページ
出版社: 角川書店 (2007/05)




神田川”と言えば??
かぐや姫”!?、♪あなたは、もう、忘れたかしら〜♪、
って旧いかしら。
1973年9月、シングル「神田川」を発売、1975年4月に解散。とあるから、リアルタイムで目に耳にした記憶はないハズ。青春チックで、貧乏臭さが好きになれなかったけど、不思議と歌詞を全て暗記している。

ちなみに、河川としては、東京都三鷹市の”井の頭恩賜公園”内にある井の頭池を源として、隅田川に注ぐ一級河川。(Wikipediaより)

実は、十数年前に、西早稲田の住所の地に居住していた時期があり、神田川を眺めた微かな記憶がある。
当時、既にサラリーマン(契約社員)をしていて、地方出張を常とする営業マン。平日は地方を泊まり歩き、金曜日の夜か土曜日に東京に戻って、週末だけ自宅に寝泊りして、月曜日の会議を終えたら、一週間分の荷物を抱えて、そのまま大手町(東京駅)から新幹線に乗ってGo!、みたいな生活。実家が埼玉県の東京寄りにあって、弟たち(男三人兄弟の長男だった)は学生で、ひとり暮らしをする明確な理由はなかったけれど、それなりの給料を貰って、ちょっともったいないかな?!、とか思いながらも、とにかく独立したかった、20歳前後の私。サラリーマンを淡々と勤め上げる父親のようにはなりたくない!、「絶対に俺はビックになってやる!!」、と何の根拠も、具体的な夢もビジョンもないままに、ただただ息巻いていた。
大隈講堂の角を曲がった、当時たしかファミリーマートの二階のワンルーム。マイ神田川デイズ♪


豊島ミホは、早稲田大学第二文学部卒業。1982年に、秋田県に生まれ育つ。大学在学中の2002年、「青空チェリー」で新潮社主催の公募新人文学賞「R-18文学賞(読者賞)」を受賞してデビュー。今年(2007年)、既に三作品(本作、ぽろぽろドール、東京・地震・たんぽぽ)を刊行。

そう、秋田県の高校生時代、保健室に籠っていた豊島ミホ。豊島ミホ自身と、その周囲の友人知人たちとその関係をベースに、心の内の深い部分を丁寧に描く物語。
他人事に思えない、近しさを隠せない。
父親の転勤で、地方都市を転々として育ったとはいえ、高校卒業時には、首都圏に居住していたから、特に、田舎(地方)を飛び出して、憧れの”東京へ”という意識は無かった、と思っていた私。ふと、いただいたコメントに、甦った記憶。
”親兄弟を忌避して、逃げた”

そろそろいい加減いい歳をして、それなりの人生経験を積み重ねさせているのに、それでもまだまだ”自分”というものを見出すことができない。
最近は、不摂生から人生75年かな?、などと気弱になっているものの、元来100年生きると勝手に考えていた私にとって、37歳という現在の私は、やっと1/3を経過したに過ぎない。だから、何も分からなくっても、ある意味では「当然だ!」と、開き直る。今現在で理解し得てしまったら、残りの2/3の人生はあまりにも長すぎる?!

だからいいんだ(?!)、青春小説♪









本「旅 2007年11月号 -ロンドン特集」5


旅 2007年 11月号 [雑誌]
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書評/旅行・娯楽



本が好き!PJ”からの献本。
今月の大特集は”イギリスロンドン”。
歴史ある都市・国家は、”老大国”とも称される。

”♪Life is very short ・・・♪”
衣類雑貨を扱う店舗から、ジャストタイミングで耳に飛び込んできた、ビートルズ(The Beatles)の軽快なワンフレーズ。
人生は短すぎる・・・
果てしなく長く感じるときがあって、何となくあっという間に過ぎ去る感覚もあって、長いとも短いとも、その時々の状況次第。
そんなことをぼんやり考えながら、それでも、その部分だけが、頭から離れない。聴き慣れた曲、何気ない言葉。ビートルズは、イギリス・リヴァプール出身のグループアーティスト
リリー・フランキーが連載を寄せている。曲の舞台、戦争孤児院「ストロベリー・フィールド(Strawberry Field)」から。
ビートルズも、いまや歴史的存在。

ニューヨーク、パリ、東京と並びトップ水準の世界都市”ロンドン”は、経済政治文化いずれについても大きな影響力を有する。
物価の高さは東京を上回り、世界有数。1£(ポンド)=約230円、換算すると、確かに全ての値段が高い。
アンティークが、重宝されるひとつの要因?!、とも。それでも、歴史に刻まれたモノへの想い、愛着。最初にしっかりと重厚に作られていなければ、市場が形成されることがない。大量生産のプラスティック製品は、廃棄処分を前提に生産される。
椅子やシルバー、布地やレースまでもが、流通するアンティークマーケット。
イギリスに、明確に存在する階級社会上流階級(王室世襲貴族地主金融業)には、それなりの生活レベルを求められ、それなりの高価で重厚なモノを所有している必要があろう。愛しいモノたちは、やがて、アンティークマーケットを潤す。

流石は、文芸書の大手出版社新潮社
第130回芥川賞作家、金原ひとみも、書き下ろし小説を寄せる。
「スコーレNo.4」の宮下奈都の連載小説。”うなぎ”の生態の神秘。確か、愛知県出身のベテラン女性作家稲葉真弓の水、川を巡る物語「還流」にも描かれていた、海で産卵する”うなぎ”。

小さな旅は、”愛知県足助(あすけ)”。信州三河湾の””を運ぶ宿場町として栄えた山間の街、奥三河の中枢拠点。2005年4月1日、近隣町村と共に豊田市に編入された。








本「ホテル・ザンビア」稲葉真弓5

本「ホテル・ザンビア」稲葉真弓

ホテル・ザンビア
著者: 稲葉真弓
単行本: 236ページ
出版社: 作品社(1981年2月)






最新作「砂の肖像」以降、九作品目の”稲葉真弓”。
実は、Amazonにも、LivedoorBooksにも、bk1にも、情報がない。
いつも利用している区立図書館のWeb予約で入手したものの、迫る返却期限。なかなか触手が伸びない。

どうも極度の貧乏症から逃れられない。
気が乗らなければ、見切りをつける方法がある。
それでも、「きっと何かあるハズだ」などと深追いしてしまう。まぁ、特にそれで失敗して、深い傷を負うことも無いのだけれども。
1ページを約1分、200ページの本なら、約3時間ちょっと(200分)、ぼけ〜っとしてたら、あっという間に経過してしまう時間。
何も得ることのない”本”に出会ったことは、これまでに一度もない。何かしらの得るものがある。


記憶の物語。
生まれ育った田舎町は、”何も起こらない町、何もない町”。野心に溢れ、何事にも興味を示した若かりし頃。訳も分からないまま、何かと自由を求め、退屈や束縛を嫌った。親の干渉や、地域社会の目からの解放。
様々な開放を求めても、人間はたったひとりで生きていけるほどに強くない。誰かに依存し、時にアルコールやドラッグに依存する。均衡を保つ必要性。
新たな人間関係。恋愛感情。精神と肉体。生きている生身の人間が有する、様々な本能的な欲求。その時々の状況によっても変化する。
それでも、どんなに忌避して逃れたところで、とどのつまりは、本来在るべき場所に、廻り戻る。









本「よくわかる慰安婦問題」西岡力5


よくわかる慰安婦問題
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書評/社会・政治



娼婦”が、人間社会における、最初に発生したの職業である。という記述を、とある書籍(記憶が定かではないが、橋本治か?!)にて触れて、深く納得した記憶が鮮明に浮かんだ。
人間本能に、欠くことのできない性(セックス)オスメスという性別、性差、そして、性交(Sex)の保存。溜まるものは放出しなければならない生理的欲求
今は亡き、歴史小説を得意とし、史実にこだわった偉大な小説家 吉村昭(1927.5.1-2006.7.31)は、晩年のエッセイ集で「日本は優秀だった。江戸時代に鎖国をしたのは、異国に頼ることなく、自国で全てが賄えてしまい、交易の必要がなかったから。」と説いていた。

そして、最近の訪問者数カウントが30カウント台と低迷していることをいいことに、ぶちまけるいい機会であろう、などとほくそ笑む私。
ちなみに、私の生活に、テレビや新聞、雑誌などのメディアは存在しない。インターネットのトップページニュースをナナメ読みするのみ。読書に没頭し、社会と断絶した生活。それでも、サラリーマンとしての日常生活に不都合は無い。安倍晋三が、内閣総理大臣を辞する正式な理由も知らない、興味が無い。
そんな状態の私の発言に、一般性の欠片も無く、無責任な、あくまでも現時点での個人的な意見である点を考慮されたい。

という訳で、”慰安婦問題”についても、知り得なかった。
参画している”本が好き!PJ”の書評に、不思議と深く抱かれた興味。深く抱いてしまった興味に、何の責任も無い。本能の赴くままに行動(読書)するのみ。

なるほど、
国際基督教大学(ICU)を卒業後、筑波大学大学院地域研究科を修了し、韓国・遠世大学国際学科に留学。1992年〜84年、外務省専門調査員として在韓日本大使館に勤務。1990年〜2002年、月刊「現代コリア」編集長。そして、現在は東京基督教大学教授を務める、著者”西岡 力”(1956年生まれ)、日本の現代朝鮮研究者。が説く、日本の歴史的事件”慰安婦問題”。確かに、分かり易い、よく分かった。

歴史的事件”慰安婦問題”を軸に、日本の国際社会における外交に苦言を呈する。
敵対心を露わに、特定の個人を団体を、痛烈に批判する。


社会生活から脱落している私にしてみれば、
プロ(専門家)として、歴史的事実の裏付けによる論証に、納得させられる部分は多いが、それでも、著者自身が語る通り、社会的な理解や支持が得られない現実。
ひとつには、軽薄なメディア戦略があって、メディアが追い求めるものに、事実として絶対的に正しいことよりも、多くの支持を得られること、そこに経済活動(利潤)が見出せること。が重視される資本主義経済社会の原理原則があろう。過去の歪曲された歴史的証言の数々も、元を辿ると、メディアが焚き付けたニュースや論述に端を発していたりする。”討論会”と称されるショービジネスに参画するのは、基本的知識を有しないままに、登場するエンターテイナー(職業討論士)、正当で的確な難解な理論を求めない軽薄な視聴者。
一方では、”喧嘩両成敗”的な見方が時に必要とされ、相反する論理を展開する片方の意見だけを盲目的に採用する訳にはいかない。そして、歴史的事実が、歴史的事実として取り上げられるまでに至る、歴史的な背景をも、無視することはできない。そこには、然るべき必然を垣間見ることができる。火のないところには煙は立たず、仮に全く事実無根の誤認であったとしても、煙の存在を感知してしまった、感知させてしまった現実を否定することはできない。そこに含まれる、何らかの意義や必然。

あえて、軽薄に言い切る。
1993年(平成5年)8月4日に、宮沢改造内閣河野洋平内閣官房長官が発表した”慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)”の全文に、日本の優秀さと、美学を感じた。と。
戦時下の日本軍に、”セックススレイブ(性奴隷)としての強制連行”の事実は、どんなに調査をしても、調査をすればするほどに、確認できなかった。のである。絶対的に存在し得なかった、捏造されたと推測されて然るべき歴史的な事実。
それでも、その圧倒的な事実を、とりあえず一旦横において、その「慰安婦とされ、肉体的、精神的な苦痛を味わった」と切実に訴える女性の存在。反日感情であろうが、メディアが焚き付けた事件であろうが、捏造であろうが、何であろが、固有の人格を有したひとりの人間という尊重されるべき人格が、尊厳が、深く傷付けられたと、涙ながらに訴え、責任を問う姿。その真偽を問うことに、何の意義を有しよう。ひとりの人間が、目的の如何を問わず、真剣に訴え掛ける姿に、その切実な背景をも鑑みて、真偽を問うことをせずに、深い慈しみの心を示す。真意を別にして、自らの恥を曝け出し、身を呈している、か弱き存在に対して、声を荒げて真偽を問うことが、正論を貫くことが、真に実力を有した、優秀な国家民族に求められる姿であろうか?!

真実を語ることが、時に多くの人を傷付けることにもなる事実。
自らの主張によって、多くの大きな傷を負わせることが明確であるとき、賢者が取るべき行動。

国家間の問題が、歴史的・政治的な背景から複雑であり、計り知れない影響を含む現実。
はっきりと明確な姿勢が求められる反面、それをしない優しさと勇気を有する国家があってもいい。
我が愛すべき、誇り高き”日本”。









本「ベルト・モリゾ―ある女性画家の生きた近代」坂上桂子5


ベルト・モリゾ―ある女性画家の生きた近代
(小学館ヴィジュアル選書)
著者: 坂上 桂子
単行本: 263ページ
出版社: 小学館 (2005/12)



女性である、早稲田大学文学学術院准教授”坂上桂子”が美術史の研究課題として紐解く、『ベルト・モリゾ(Berthe Morisot,1841.1.14-1895.3.2)』は、フランスブールジュに生まれた、19世紀の印象派の中心的な画家、女性。クロード・モネ(Claude Monet,1840.11.14-1926.12.5)ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir,1841.2.25-1919.12.3)らと同じ時代を生きた。
建築家を志すも県知事を務める父と、音楽家を夢見た母との間に、二人の姉と一人の弟、六人家族のブルジョワジー家庭に生まれ育つ。幼少の頃から、音楽(ピアノ)と美術(絵画)を学ぶ、経済的にも、芸術的にも恵まれた環境。
それでも、時代は、女性の社会進出が認められていなかった。男性と同じ教育を受けることが許されなかった。同じ絵画教室に学んだ姉エドマ、母親の理解と協力。女性がひとりで外出することすら、禁じられていた。
社会通念上、女性には、家庭において妻となり母となる、優しく従順な女性像が求められた。だから、アーティスト(芸術家)として、主婦業を疎かにし、夫に傅くことなく、自らを表現することに没頭することなど、社会的に受け容れられ難い。メイド乳母を雇っていながらも。二人の姉も、そうして芸術の夢を諦め、家庭に入った。迷い、悩みながら。34歳にして訪れた、家族ぐるみの付き合いをしていた、印象派の中心的存在の画家 エドゥアール・マネ(Édouard Manet,1832.1.23-1883.4.30)の実弟”ウジェーヌ・マネ”との婚姻。社会的にも精神的にも満たされた安心感。人生の伴侶、画家活動の理解者を得て、創作意欲にも拍車がかかる。印象派の活動にも、ますます意欲的に取り組む。

なるほど、女性に求められるイメージ。愛に満ち溢れた優しく豊かな笑顔を湛える、作品中のモデル。
”観られて”いることを意識して浮かべる笑みは、男性にとっては当然のものであっても、当の女性にとっては、社会や男性に対する媚びであり、不自然で作為的な行動とも見て取れる。
モデルがモデルであることを充分に意識して、女性が美しくあるべきとして、繕われる虚構。
女性であるベルト・モリゾは、専業の職業画家であり、生真面目に真剣だった。「家庭に入った女性が、ヤワな気持ちで片手間に描いている作品」と見られたくなかった。それだけの才能を有しているという、強烈な自負があった。絵画に対する探求を怠らなかった。モネやルノワールらの、後に著名となる作品の手法を、先取りするほどに。

著作の表紙を飾る”自画像(1885年,油彩,カンヴァス,61×50cm,パリ・マルモッタン美術館)”に溢れる、画家としての躍動感。ただただモデルとして”観られる”、美しいだけの女性を描くことなく、まさにカンヴァスに向かって創作活動に専念している、とある瞬間に、ふと顔を上げた。次の瞬間には、既にカンヴァスに向かって筆を走らせている。その勢いをも描く筆遣い、敢えて残される余白。湛える強い眼差し、自信と決意。

描かれない、自らの家族の愛、母子の愛。同じ作品中に描かれたとしても、確固たる存在として、それぞれが独立を果たす個々の存在。ぼんやりと、時に視線を逸らし、正面から全景を描かれることがない。愛に戯れる姿や、見つめ合い、湛える満面の笑顔もない。身内以外のモデルの多くは無名の女性。甘えや妥協を排除した、高い気品は、晩年の大作における、習作を繰り返す制作過程にも垣間見える。

ジャポニズムへの深い造詣。日本人画家の絵画作品を所有し、自らの作品中にも多く描かれる、背景の日本画、扇子、団扇。浮世絵展にも足を運び、その特徴の探求にも余念がない。

働く女性として、五十四年の生涯を全うし、愛娘ジュリーを残して先立つ”ベルト・モリゾ”が、最期に宛てた手紙、職業画家としての想い、深い深い母の愛情。













特別展『美しき女性印象派画家 ベルト・モリゾ展 Berthe Morisot A Retrospective』 損保ジャパン東郷青児美術館
2007年9月15日〜11月25日



展覧会「ベルト・モリゾ展」損保ジャパン東郷青児美術館 表展覧会「ベルト・モリゾ展」損保ジャパン東郷青児美術館 裏

本「千年の祈り」イーユン・リー、篠森ゆりこ 訳5


千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
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書評/海外純文学



本が好き!PJ」からの献本。
”各賞独占、瞠目のデビュー短篇集!”、全十篇。

物語は、虚構の妄想の世界の出来事だけれども、ベースとなるリアルな現実が無ければ成立しない。自らの記憶を、熱い想いを籠めて、記録として後世に遺す意義を感じたからこそ紡がれる。

著者 イーユン・リー(Li,Yiyun)は、文化大革命の最中の1972年、中国北京に生まれた女性。核開発の研究者の父と、教師の母、かつて国民党軍の兵士だった祖父。高校生だった1989年、自宅近くの天安門広場を舞台にした天安門事件。そして、抑圧を受けながら手にした多くの海外文学作品。北京大学を卒業後に渡米。アイオア大学大学院にて免疫学修士号取得の後に、作家活動に目覚める。現在、大学助教授として、夫と息子二人とアメリカに暮らす。

共同体(コミュニティー)と独裁者、権力による抑圧。
その後には、崩壊の道を辿る共産主義
「教育こそ抑圧から逃げ出せる道だと悟り」、開放を求め、自らの手で掴み取った自由の象徴”アメリカ”での生活。
新たな言語”英語”が自由な表現をもたらした”自己検閲”からの解放。幼少の頃からの、深く体に刻み込まれた恐怖心。弾圧、虐殺。一度体験した強烈な記憶は、決して消え失せることなく、いつまでも深く片隅に居残る。

急激な変貌を遂げる中国。変わることは、その必要があって、必然に求められて、より良いと思われる方向への変化であろう。変わることによって得られる大きなモノ。自由、平和、豊かさ。
一方、大きく得られるものがあれば、大きく失われるものもあろう。その善悪を別として、かつて大きく存在していた事実。記憶を、記録として遺す意義。現在を構成する要素。現在を知るに欠かせない過程にあった、歴史的事実。

新たな言語、新たな文化、生活を得て、見識を広めた”イーユン・リー”にとって、記憶を呼び戻し、過去を振り返ることは、痛みを伴う、辛い作業。

自由を得て、平和と豊かさを享受し、尊重される個性。個性の重視によって、当然に薄まる家族関係、血の繋がり。行動集団の縮小化。希薄になる人間関係。

誰もが、自らの内に抱える傷。その大小に差異こそあれ、必ず何かを抱えている。人間は、過ちを犯す生き物である。経済力も、生まれ育ちも、何もかも無関係に、それぞれがそれぞれに。
生きることは、楽しいことばかりでは無い。

物語『息子 Son 』。
ゲイの”ハン”は、母国の中国に母を残し、アメリカでソフトウエアの開発者として独身生活を送る。アメリカ市民として帰化した三十三歳。自由の国に自由を求めて飛び立ち、送る日常生活は、自らの責任で、自らの目耳鼻肌で感じ取り、全て自らの責任の下に判断する、政治的・文化的・宗教的・民族的な抑圧は無い。
ハンが結婚しないのは、彼が愛せるのが同性の男性だけだから。気がついた時には、ゲイだった。広く世間一般には、好意的に認知されない。当然に両親に打ち明けていない。決して晴れることが無い心の内。自らを”救いようがない存在、手のほどこしようがない”と。
久し振りの帰国、変わらない母、息子への溢れる愛情。信仰が、共産主義から、キリスト教へと、表面的な変化があっても、信仰に全てを依存する生き方に、何ら変わりが無い。夫を亡くした痛手は、他の依存する存在(信仰)への依存度合いの高まりによって解消される。長く抑圧され続けた生活。自由の無い生活は、自ら判断する意志をも喪失している。
物乞いの子供。死。
変わらぬ愛を湛える母を前に、自らの痛みに苦悩を抱えて烈しく揺れ動く息子。
幸せの本質。


第1回フランク・オコナー国際短篇賞受賞
PEN/ヘミングウェイ賞受賞
ガーディアン新人賞・プッシュカート賞受賞
New York Times Book Reviewエディターズ・チョイス賞受賞
The Best American Short Stories2006収録
グランタ「もっとも有望な若手アメリカ作家」2007選出









本「言の葉摘み」宮沢和史5


言の葉摘み
著者: 宮沢和史
単行本: 235ページ
出版社: 新潮社 (2006/8/24)



宮沢和史(みやざわ かずふみ,1966.1.18-)は、ロックバンド”THE BOOM”のボーカリスト、シンガーソングライター。世界中を旅し、世界中で歌う。
アーティストとしての実績。音楽で世界中の多くの人を魅了する。
沖縄出身じゃない”宮沢和史”の大ヒット曲”島唄”。沖縄県糸満市にある慰霊碑”ひめゆりの塔”、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴する場所で受けたインスピレーションから書き上げた歌。1992年の発表から、長きに亘り、世界中の多くの人々に愛され続ける、日本のスタンダードソング。世界中の人々の涙を感動を誘う名曲。

日本は経済的に豊かな国に部類される。世界には、日々の生活にも困窮する多くの人々が存在する。豊かな日本は、島国だから、隣国との直接的な交渉も、陸続きで行われることが無い特殊な国家。原則的には、単一民族で構成される特異性。
江戸時代に鎖国していたように、豊かさ故に、異国との交易を図ることなくして、充分に経済は成立する。大変な思いをして、わざわざ外国に行って、何かを求める必要が無い。そんなことをしなくても、充分な豊かさを満喫できる。むしろ、日本国内に留まる方が、経済的な豊かさを享受できる。
経済的な側面から考えると、音楽で世界に挑戦するメリットは少ない。文化、言語が異なれば、受け入れられる可能性は限りなく低い。異国の、異民族の文化を受け入れて、真似てみたところで、マイノリティー(社会的少数者)としての壁。それは人間の自然な本能的な反応だから仕方が無いのだけれども、だからこそ文化は護られるのだけれども、豊かな日本で受け入れられて収めた成功が、異国でも受け入れられる保証は無い。負け戦は、しない方がいい。当然の心理。
宮沢和史は、インスピレーションに素直に従った。それだけの度量があった。飽くなき探求心。自然に、導かれるがままに。
それでも、弛まぬ努力と、自らを信じる強い意志、音楽への熱い想い、生真面目さ、いずれが欠けていても成し得なかった偉業。異国での音楽的成功、多くの人々の支持。

一方、その言葉に、軽さを感じない訳でもない。マスメディアに踊らされた軽薄さが垣間見えない訳でもない。日本の”歌手”(芸能人)に対する軽薄なイメージ。
様々な人々に贈るメッセージ。広く一般大衆に受け入れられるメッセージを贈る、ある意味では”責務”。若者に対するメッセージに、難解さは障壁ともなろう。若者の熱情を得て、どちらかといえば若者の未来に対するメッセージを意識する必要があり、若者が多くの支持を得られるマーケットでもあろう。

キューバブラジルシンガポールロシア、そしてアメリカ
それぞれの国の、リアルな現実を、目で、足で、鼻で、耳で、肌で感じた、その上で語られる”言葉”。
自らの興味の探究、行動、表現。









本「その向こう側」野中柊5


その向こう側
著者: 野中柊
単行本: 279ページ
出版社: 光文社 (2007/08)



光文社の月刊誌「本が好き!」、2006年7月号〜2007年6月号に連載された物語。

僕の中の”女の子”が疼く、理想と現実、何が正しくて、何が間違っているのか、彼らの心を駆り立て、その行動に至る、”その向こう側”にあるものに迫る。

恋愛と愛と結婚と、22歳の大学生三年生の女の子”鈴子”の視点で、大人の心、恋、愛、関係の超リアルな現実に、揺れ動く心が描かれる。
鈴子には、ちゃんとしたボーイフレンド(彼氏)もいるから、恋愛だってそれなりに経験している。父親がいない家庭に育ったから、母親とふたり暮らしとはいえ、独立心もあり、自立している。
それでも鈴子がこの世に生まれ出て、たかだか22年の人生経験。
鈴子を女手ひとつ、ひとりで育て上げた母親。経済的的な援助をしてくれて、精神面でも支えてくれた男性の存在があったとしても、強さ、したたかさを備える。母親の聡明さに含まれる”見て見ぬふりができること、考えても仕方がない事柄を考えずにいられる”、それが相手に対する信頼?!、長年の人生経験に裏打ちされた、生きる術。大人。
18年の交際の末に、母親と結婚を決意した男性”敏史さん”。インテリアプランナーの事務所を自ら営む、社長さん。車は、アルファロメオスパイダーとアウディ、チョイ悪オヤジ、格好良過ぎ。奥さんとの離婚が成立して、晴れて鈴子の母親にプロポーズ、めでたく結婚の運びに。父親がいない鈴子の、最初の男性の記憶は”敏史さん”、父親とは絶対的に異なる存在だけど、やっぱり何か気になる存在。恋とは違うんだろうけれど、絶対に恋じゃない、とは言い切れない、複雑な感情。だから、母親との結婚は、めでたく嬉しくもあり、何故か失恋の痛みに似た想いも。
そんな母親と、敏史さんとの関係を疎ましく思い、ひょんなことから、始めることになった横浜・山手での古い洋館でのひとり暮らし。といっても、敏史さんの知り合いの、女性オーナーの邸宅の間借り。鈴子も、もう子供じゃない、いずれ母親の元を離れる時が訪れる、遠くない時期に。結婚を控える母親と、敏史さんの同居生活のスタートへの配慮、大人の気遣い。古い洋館の女性オーナー、美しく、そしてこちらも、母親に似て、ひとりで強く、したたかに生きる。実は、同居人がもうひとり。放浪の旅を好む画家の女性。女性オーナーとの、濃密な、不思議な関係。決して軽々しく口外されない、”その向こう側”にあった過去の出来事。

そんな大人たちが繰り広げる、恋愛、恋、結婚に纏わる物語。
これから結婚し、新たな関係を始める母親と敏史さん。女性オーナーと敏史さんが、仕事の依頼を機に、一気に深める親交。
母親は、18年以上の長い歳月を経て、やっと手に入れることができる敏史さんとの結婚生活。もっと言えば、初めての結婚生活。一般的には、結婚によって得られる安定、などと言われるけれど、それまでの期間があまりにも長すぎて、結婚という制度によって得られるものと、その制度によって縛られるが故に、バランスを乱し、磁石の同極の如く、離別に向かう見えない力。束縛を嫌い、自由を求める、何とも身勝手な生き物、人間。

何が正しくて、何が間違っていて、許されない行動であるのか、その行動に至る、その人間の状況の、”その向こう側”の理解なくして、判断し得ない。

ベタだけど、鈴子と彼氏のおみくじは、
失うことをおそれてはいけない。ほんとうにたいせつなものは、決して失われることはなく、失われたものは運命に従っただけ
であり、
マイナス5はプラス5に、マイナス10はプラス10に反転できる。マイナスが大きいほど反転したときプラスも大きくなる










本「ナンバー9ドリーム」デイヴィッド・ミッチェル、高吉一郎 訳5


ナンバー9ドリーム
著者: デイヴィッド・ミッチェル
訳者: 高吉 一郎
単行本: 558ページ
出版社: 新潮社 (2007/2/24)



「・・・夢っていうのは嘘つきだからな。真に受けたらだめなんだよ。」
そんなことを言われたって、ついつい真に受けちゃって、生真面目に真剣に突っ込んじゃう。んで、何が何だか訳が分からなくって、軽い混乱に陥る、軽い拒否反応。
イギリス人作家が描く、日本を舞台にした日本人の物語。

著者 デイヴィッド・ミッチェルは、世界的に権威のある文学賞”ブッカー賞”の候補作を連発する、イギリス文学界で最も注目される作家。1969年生まれ。日本での八年間の英語教師としての滞在経験。
なるほど、ジョン・レノン村上春樹へのオマージュ(敬意)に溢れる。

夢と現実が渾沌とした九つの物語。
19歳の少年”詠爾(エイジ)”を廻る、果てしない暴走を続ける妄想、夢想、旧い記憶。
そう、何処を目指すとも無く、島(屋久島)を離れ、”まだ見ぬ父を捜すため”、東京を彷徨い、やがて島に戻る、壮大な冒険物語なのである。冒険物語を形作るのは、様々な場面で出逢う人々との奇想天外、複雑怪奇な出来事。ある意味、現実社会の現状を色濃く描く。メッセージ。
ここまでも妄想に溢れた物語に乗せなければ、描くことができない程に、意味不明でイカレタ状態が蔓延る現実社会。それは、何時の時代も、人間の社会には普遍の原理原則。

親子の血であり、愛と憎しみ。

九つ目の物語は、そう、「あなたのために!」









特別展「美しき女性印象派画家 ベルト・モリゾ展 at 損保ジャパン東郷青児美術館」ベルト・モリゾ5

展覧会「ベルト・モリゾ展」損保ジャパン東郷青児美術館 表特別展『美しき女性印象派画家 ベルト・モリゾ展 Berthe Morisot A Retrospective』
 損保ジャパン東郷青児美術館
2007年9月15日〜11月25日

ベルト・モリゾ(Berthe Morisot,1841.1.14-1895.3.2)は、 エドゥアール・マネ(Édouard Manet,1832.1.23-1883.4.30)の絵画のモデルとしても知られる、 19世紀の印象派女性画家。
裕福な家庭に生まれ育つも、女性が正規の美術教育を受ける機会を充分に与えられていなかった時代。それでも、その類い稀なる才能が、印象主義という時代の後押しをも得て、多くの秀作を生み出した、奇跡の女性。実は、印象派にとって、クロード・モネ(Claude Monet,1840.11.14.-1926.12.5)に次いで重要な存在とも。
豊かな”愛”、母の愛、優しさ、穏やかさ。特に、愛娘ジェリーを描いた多くの作品に満ち溢れる母性愛。愛。愛。ベルト・モリゾの生涯。

展覧会「ベルト・モリゾ展」損保ジャパン東郷青児美術館 裏実は、足を運ぼうと決意した出来事に、Wikipedia”ベルト・モリゾ”の少ない情報がキーとなる。
自らの浅はかさを露呈することとなるが、それでも、だからこそ本能的な興味が、結果として素晴しい作品と、素敵な女性の人生に出逢えたのであるから、敢えて書き記す。
”マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めた。マネとの恋仲を噂されることもあったが、実際には1874年に彼の弟ウジェーヌ・マネと結婚し、1879年に娘ジュリーを出産。”
この短い文章を、そのまま素直に読むことができなかった。不埒な考えが頭を過ぎり、助平根性を丸出しの卑しい妄想に駆られた。妄想が暴走し、何の根拠も無く勝手に決め付けた。
「悲劇のヒロイン”ベルト・モリゾ”、深く愛し合ってしまったエドゥアール・マネとの許されざる関係は、世間に認められる愛では無かった。だから、不本意ながらも愛しい彼に近い実弟(マネ弟)との婚姻生活を選んだ。ドロドロ。マネ兄を想い愛しているが故に・・・ だから、その烈しい想いをキャンバスにぶつける!」みたいな。あ〜、恥ずかしい。昼のワイドショーの芸能ニュースよりも低俗極まりないゴシップ、インチキ三文記事、超サイテー。
絵画「ベルト・モリゾ」マネ by Wikipedia左の作品(マネ画「ベルト・モリゾ」)にあるように、確かに、マネ兄には、モデルを務めながら絵画を学んだんだけれども、ベルト・モリゾの才能は天才的だった。圧倒的な独自の感性を有していた。だから、自然に離れていった。もしも万が一(有り得ないけれど)、マネ兄と結婚していたら、ベルト・モリゾの絵画作品はこの世に生まれることがなかったであろう。世間一般が女性に求めたのは、絶対的な良妻賢母であり、妻が印象派の中心メンバーの夫(マネ兄)を超えちゃう訳にはいかないから。ベルト・モリゾの才能に対する嫉妬や羨望から、有らぬ噂話も囁かれる、納得納得。
だから現実は、あまりにも絵画の才能が優れていただけに、画家への夢を断ち切れず(彼女の実姉は結婚を機に絵筆を断っている)、結婚に踏み切れない。充分過ぎるほどの財産を有しているし、見合い話は後を絶たないけれども、絵画を捨てて家庭に籠もるつもりは全く無い。そんな時に現われた、マネ弟。公務員で家柄も良いし、絵画への理解もある、何だか不思議な出来過ぎた感がある”縁”だけれど、マネ弟との出逢いが、ベルト・モリゾの才能を大きく花開かせた。
結婚生活は、他人同士の共同生活だから、万事が万事、最初から上手くいったとは思えないけれど、その時ベルト・モリゾ、33歳。充分に社会経験を積んだ大人。子供じゃないから、大切なことの見極めも付く。大好きな絵画を続けられる幸福感。生活の心配も無い。
待望の愛娘ジュリーが生まれたのは、ベルト・モリゾが37歳の時。新しい生命の誕生。可愛くて可愛くて仕方が無い、溺愛状態。新たな創作意欲。作品からも、豊かに満ち溢れる愛情。愛娘ジュリーの成長。少女から大人の女性への変化、表情。
晩年、最愛の夫に先立たれるも、愛娘ジュリーと、女ふたりの生活。親から受け継いだ遺産や年金、夫が残した財産。生活の不自由は無くても、それでも心の痛手は小さくない。マネ弟との運命的な出逢い、そして豊かな結婚生活が、マネ弟の絶対的な存在が、天才画家ベルト・モリゾの根幹に大きく横たわっていた。大きな心の穴、喪失感。
それでも衰えを知らない創作意欲、まさに天才的。

だから『夢見るジェリー』(1894年)。ほの暗く、憂いを帯びた表情で佇む、15歳のジェリー。特別に凝った意匠は無い。母の愛情をたっぷり受けて育つも、純真無垢な少女から大人の女性へと変貌の途上、熱心に描く画家であり母ベルト・モリゾへの想い、そして亡き父への想い。
その翌年1895年、愛娘ジュリーが患ったインフルエンザの看病から、あろうことか自らが同じ病に伏し、類い稀なる才能を惜しまれながら、54年の短い生涯の幕を閉ざすことになろうとは。
何とも非情な現実。






地上42階から見下ろす絶景。
新宿御苑の緑、六本木ヒルズ、東京タワー、、ささやかなオマケ付き♪

本「声の娼婦」稲葉真弓5

本「声の娼婦 」稲葉真弓
声の娼婦
著者: 稲葉真弓
単行本: 197ページ
出版社: 講談社 (1995/01)



都市という巨大な闇の中にひそんでいるもの、四篇の短篇小説。
第23回平林たい子文学賞受賞作品。

僕は、自らの貧乏症の性格に烈しく落ち込む。見切りが悪い。深追いしてドツボに陥る。
それでも、それが”僕”という人間なのであろう。
突っ込みすぎて下手を打ち、不器用さに辟易し、それでも、ひたすらにただただ馬鹿正直。割に合わなくたって、いいじゃないか。目先の利益ばかりに捉われて、我を見失う輩と同じであっていい筈が無い。と強がってみせる。

物語『浮き島』に惹かれた。
何気なく幼い男児を誘拐してしまった女性の物語。
何不自由の無い、何の不満も無い生活、と言ったら嘘になるかもしれないけれども、絵に描いたように平穏な生活。だから、本来であれば、重大事件を引き起こす当事者(被疑者)には成り得ないであろう人物。
子供はいないものの、夫とふたりの夫婦生活は、郊外の新興住宅地に買い求めた住宅の、ローン返済のために余儀なくされた共働き。それだって、無理をして我慢を強いられる仕事な訳では無い。結婚しても、辞める必要が無かったから、辞めなかっただけ。だから、近所の同年代のやっぱり子供がいない夫婦と交流を深め、専業主婦を羨ましく思いつつも、そこにも大きな不満を感じない。夫はサラリーマンをつつがなく勤めている。夫婦生活にマンネリが訪れて、タイミング良くツマミ喰いした(喰われた)男たちとも、特別に後を引くことも無い。
それなのに、大胆にも男児を口車に乗せて誘い出し、遊園地の観覧車に一緒に乗る。あまりにも呆気無く自然な展開に、罪の意識が麻痺するも、時にさめざめと我に帰る、押し寄せる波、不思議な感覚。それでもやぱり、時間の経過とともに高まる緊張。脳裏をよぎる、指名手配犯の幸薄そうな印象の若い女。何が私を突き動かすのであろう?!
物語が、自らの内側へ、内側へと突き進み、、、 やった〜、突然に解放されちゃう、放置プレー。深い闇。
誰も知り得ない心の闇。









写真展「おわら風の盆 宙ヲ舞う風の旋律 at キャノンギャラリーS」榎並悦子5

写真展「おわら風の盆」表キャノンギャラリーSにて開催(8/23〜9/25,日・祝日休館)、
榎並悦子写真展『おわら風の盆 宙(そら)ヲ舞う風の旋律』。
毎年9/1〜3にかけて、越中八尾町(富山県)で行われる「おわら風の盆」は、300年もの歳月を経て、なお多くの人々を魅了する日本の伝統的な祭り
写真展「おわら風の盆」裏目深に編み笠を被って踊る女性の表情は窺えない。
闇夜に舞う艶やかな着物姿。
あんどんが照らす優しい灯り。
叙情であり、漂う哀調。

祭りの起源は、江戸時代まで遡ると伝えられる。
風災害除けと五穀豊穣の祈り、人々の願い、想い。

写真展の会場に凝らされる趣向。
細い路地を想わせる通路は、両脇に配された”あんどん”の灯りに優しく照らされる。薄暗い中、両側に夜祭の趣溢れる写真を眺めながら、遠くに聞こえる、三味線胡弓太鼓の音色に合わせた唄や祭囃子、哀愁を帯びた旋律、そして、秋の虫の音。
プロジェクターから映し出される大きな映像(静止画)に、思わず洩れる溜息。暫し足を止め、浮かんでは消える物語、深い想いに耽る。

踊る女性の艶やかさは勿論、勇壮な男の踊り、男の顔から溢れる笑み、深く刻まれた皺、厳しい眼差し。
一方、子供の幼い顔に浮かぶ笑み。祭りの、晴れの雰囲気に、漲る高揚感。自然な豊かな表情に、馳せる想い、幼い頃の記憶。

目深に被った編み笠が、踊る女性の艶やかさを増す。
窺えない表情。家族の安全、慈しみ深い愛情、祈りや願い。
外側を気にすることが無い視線が向かうは、自らの内側。高まる集中力は、踊り、そして自らに向かう。様々な想いを胸に艶やかに舞う。

祭りを愉しむ男たち。自然に溢れる笑顔。真剣な表情。想い。
地方の山間の旧い街に暮らす人々。旧い街での生活には、決して都会ほどの便利さは無い。どちらかといえば、不自由なことの方が多いであろう、機能を失わない地域社会のコミュニティ(共同体)。守るべき伝統的文化。


美しい日本の祭りに馳せる想いを胸に、後にする展示会場。
そこに広がる摩天楼”品川”、超リアルな現実、近代技術の粋。
こちらも”風の道”を有する妙。





本「スコーレNo.4」宮下奈都5


スコーレNo.4
著者: 宮下奈都
単行本: 267ページ
出版社: 光文社 (2007/1/20)



ご存知、注目の新人(?!)作家 宮下奈都(みやした なつ,1967年生まれ)の初単行本、書き下ろし長篇恋愛小説。

恋愛が、付き合い始めのワクワクドキドキする時期が、やっぱりクライマックスなんだなぁ、、、とあらためて実感、などと嘯く。
クライマックスに向けた物語を紡ぐ、過去の記憶の物語たち。クライマックスを自然に盛り立てるために必要とされるソースを素材を、じっくりじっくり熟成させて、なるほど、心地好く緩やかに氷解する。ひとつひとつの記憶の点が線が、意識的に適度に複雑に絡み合って深みを増す物語。直接的な言葉や説明は、絶対的に必要としない。まるで、おばあちゃんの存在のように。何も言わなくても、伝わる空気、存在感。それだけの経験を有しているが故に成し得る技。
物語には、当然に終りがある。終りが無ければ、物語として成立し得ない。人生における”終り”が、ひとつには”死”というものがあって、それ以外には継続し続ける。「うわぁ〜、終わったぁ〜」などと、善きに付け、悪しきに付け、叫んでみたところで、それは次のステップへ経過するひとつのポイントでしかない。人生が、いくつもの重要なポイントを経て、その経験を積み重ねて形作られていくものであり、それでも、そのひとつひとつの経験というポイントさえもが、あらかじめ宿命付けられた人生の必然であり、それはまた、この世に生まれ出た時から定められていて、もっと言ってしまえば、生まれ出る前の親の代、その前の代の血まで宿命の連鎖の呪縛に操られていたりしちゃう。どんなに嫌悪して、否定して、遠くに離れてみたところで、決して逃れることができない宿命。巡り廻って辿り着く。
だから、物語の幕開けは、解けない記憶の回想シーン。蔵。湿った土の匂い。薄暗い穴倉。
物語を、「どの時点から書き始めるかが最も重要」と、亡き小説家”吉村昭”は語っていた。クライマックスに導く組み立て(説明)を始めるポイントの設定を誤って、200枚以上の手書きの原稿用紙を燃やして、あらためて最初から書き直した、とまで。

だから、田舎の旧家の古道具屋(骨董品屋)を祖父の代から受け継いで営む父と母の下に生まれて、祖母と六人で暮らす大家族の、三人姉妹の長女の恋愛小説なんだけど、その少女の恋愛が成就して婚姻によって新たに家族が築かれる前までの、少女の物語であり、だからこそ、そこに色濃く漂う家族の親姉妹の、血族の宿命をも織り込まれる。成就することによって、物語としては終わりを迎える恋愛だって、それまでの幾人かの深く心の底に残る男の子たちとの記憶や経験がベースになっていて、それは、父と母の関係であったり、もっと遡って祖母と亡き祖父との関係であったりする。
そしてそして、学校教育を終えて就いた貿易会社で配属された靴屋。いきなり興味も何も無い世界に放り出されたって、困ってしまうところなんだけど、「そうそう、そういうものなんだよねぇ〜、人生って♪」などとほくそ笑む。

不自由な関係には、やっぱり無理がある。それでも、一度築かれた関係は、全て何らかの必然や意味を有する?!









本「エンドレス・ワルツ」稲葉真弓5

本「エンドレス・ワルツ」稲葉真弓
エンドレス・ワルツ
著者: 稲葉真弓
単行本: 149ページ
出版社: 河出書房新社 (1992/03)



1970年代、日本が大きく変わった。と、橋本治は語っていた。三島由紀夫が壮絶な自決を果たし、思想が失われた。日本人が考えることをしなくなった。と解された時代。
実は、特に意識することなく、興味を抱いている”稲葉真弓”の過去の著作として手にした。

物語は、1970年代後半、ジャズ界の異端児 阿部薫と、作家であり女優であった 鈴木いづみの、壮絶な愛と、その人生を描く。いずれも、自らの手(ドラッグ)によって、閉ざした太く短い生涯。生命の絶対量によって、宿命付けられていた?
彼らの死後、およそ五年の歳月を経て、稲葉真弓が、書籍や資料を紐解き、取材の末に、鈴木いづみの心と体を得て、溢れる熱い想いを、魂を籠めて紡いだ物語。それでもやっぱり、歴史的事件、人物としての”鈴木いづみ”にヒントを得た、稲葉真弓のオリジナル物語。

互いに、似た何かを感じ、惹かれ合い、烈しく求め合った。不器用に、一生懸命に駆け抜けた人生。孤独を愛すると同時に孤独を怖れる。絶対的に相反する行動を、どちらにも全力で取り組めば、その矛盾に悲鳴をあげ、引き裂かれる心と体。
鋭い感性を有し、時代の表舞台で活躍する。表舞台に上がり、脚光を浴びる、ストレス。羨望、嫉妬。登り詰めたら、後は落ちるしかない。
均衡、高揚、覚醒。
依存。パートナーに対する束縛。求める肉体、ドラッグ、アルコール。
覚醒される感覚。
混濁を深める意識。

愛と憎しみ。
そして、解放。








映画「長江哀歌」ジャ・ジャンクー監督・脚本 5

映画「長江哀歌」映画『長江哀歌(ちょうこうエレジー)

中国の若き名匠 ジャ・ジャンクー監督・脚本。第63回ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(作品賞) 受賞作品。

呆気にとられるほどに、静かに淡々と流れる物語。
ふたりの男女の、ふたつの物語。それぞれの男女が、それぞれの離別して久しいパートナーを探すために、やがてダム湖の底に沈む街を訪れる。少ない情報を頼りに、それぞれのパートナーを求めて彷徨う。彼らは、何を想い、何を求める? 既に相当の歳月を経て、失われてしまった関係。誰も修復を望まない、修復不能。だから、ただただ現状を受け容れるためだけに、やがて失われる街に集い、そして、静かに元の場所に戻っていく。
街は、破壊の真っ最中。ダム湖の底に沈んだ後に、船の運航の邪魔にならないように、建造物は、労働者の人力により取り壊される。経済的には決して豊かとはいえない労働者たち。陽に焼けた顔、逞しい肉体。黙々と繰り広げられる破壊作業。振り下ろされるハンマー。酌み交わされる酒、紫煙を漂わせる煙草、時折こぼれる笑顔。

舞台は、中国最長の川”長江(揚子江)(全長6,300km)”の、2009年に完成予定の三峡ダムと共に、街の大半がダム湖の底に沈む都市”奉節”。世界最大の水力発電ダム事業は、国を挙げての大プロジェクト。必要に迫られての国家事業。
自然環境に大幅に手を加える大事業は、様々な問題を含む。
治水、電力供給源。一方、住民110万人の強制移転、名勝旧跡の水没、水質汚染や生態系への影響。
それでも、その必要性から、長い歳月を経て計画され、現実のものとして2009年には完成してしまう。

時間の経過と共に、じっくり込み上げる想い。
抑揚を抑えて、深い哀しみを湛えたままに、多くを語らない男と女。
静かに淡々と受け容れる現実。
多くの言葉や説明を必要としない。






本「花響(はなゆら)」稲葉真弓5


花響(はなゆら)
著者: 稲葉真弓
単行本: 221ページ
出版社: 平凡社 (2002/02)



インターネット書店のビーケーワン(bk1)にネット配信された連作短篇小説に加筆・訂正し、書き下ろしを加えた二十三篇。という訳で、著者 稲葉真弓 本人による「著者コメント」が掲載されている。

物語に彩りを添える銅版画、二十三点。版画家 利渉重雄の、淡色で描かれる幻想的な世界が、物語の虚構の妄想をさらに駆り立てる。

描かれる”死”。時に自ら選択された”死”。衝動的なのか、計画的なのかは、当事者以外の第三者には知り得ないが、”死”を選択した事実。生きることを止めた。
死によって、存在が不存在となり、固定される記憶。

”死”を選択しないまでも、漂う生きる苦しみ。
感覚の鋭さ故?
妖しく本能や器官に響く、官能的な物語。









本「ひとり旅」吉村昭5


ひとり旅
著者: 吉村昭
単行本: 247ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/07)



長年連れ添った妻であり、小説家の津村節子の、
”この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。”
と書き記す「序」章から幕を開ける。
平成十八年の夏の盛りに、七十九年の生涯を閉じた小説家”吉村昭”が、晩年に精力的に書き遺したエッセイ集、対談。
同業のライバルであり、共同生活を長く営んだ人生の伴侶でもある、津村節子の想い。吉村昭の、裏も表も知る。長い歳月に積み重ねられた記憶。

タイトルにもなった「一人旅」。
吉村昭の、生真面目に自らに厳しく、潔い生き様。
「茶色い犬」、「老女の眼」に漂う深い哀しみ。
商売を営む裕福な大家族の末っ子に生まれ、戦争を経験し、青年期に大病を患い覚悟したであろう”死”。
経済的な心配の無い生活、大病からの奇跡の復活があったからこそ、養生して自らとの対峙、そして深く親しんだ文学。幼少の頃に作文が上手じゃなくったって、吉村昭は、その必然に導かれて、時代の後押しをも受けて、小説家として、記憶を記述として後世に残す偉業を成し遂げた。戦争を経て、高度な経済の発展によって世情は大きく変わった。大きなキッカケを成す戦争。戦争に至る歴史、文化、歴史的事件。二・二六事件生麦事件鎖国していた江戸時代、なるほど興味深い。
戦争の後の急激な経済発展を経た現在。現在を紐解く歴史。

鎖国をしていた江戸時代、江戸人が実は大変に優秀であったという事実。高度な道路工事、街づくり、造船技術、高い識字率。日本近海の太平洋を流れる黒潮にさらわれて漂流して、海難事故によって命を落としたり、異国の地に辿り着く事件こそあったものの、高い識字率に裏打ちされて記述を残す漂流記の数々。
人や馬が一日に歩く距離ごとに設けられた宿場。宿場を結ぶ整備された、松並木には、風除けだけでなく、涼をとり休憩する機能も。飛脚によって、整備された情報の機構、組織。
鎖国だって、自国で全てが賄えるから、他国との交流の必要が無かった。

歴史の事実を、自らの目と足で地道に丹念に綴り、書き残した作業。
遺された膨大な歴史的事実の記述は、どんな時代にあっても、語り継ぐべき人間普遍の原理原則。

合掌








本「おしゃべり目玉の貫太郎」鈴木公子5


おしゃべり目玉の貫太郎
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livedoor BOOKS
書評/健康・医学


「希望を持ちすぎず、絶望しすぎず」
そんな言葉を聞いたことがあるが、私も知らず知らずのうちに、そんなふうに生きてきたような気がする。陽のあたる場所を闊歩していたころの貫太郎には、正直不満を感じることもあった。でも、目玉しか動かせなくなった貫太郎は、元気なときよりずっと好ましい人間になった。それは私にとって喜ぶべき誤算であった。
本が好き!PJ”からの献本。

あえて言わせてもらう。
「単なる闘病記では、本には成り得ない。」
売れると思われなければ、出版社は本にしない。多くの読者の支持を受け、本を買って貰って、利潤が得られるイメージが可能性だから出版される。出版社の、高い給料を得ているプロの編集者を突き動かす”何か”が無ければ、絶対に本になることはない。出版社は、利潤を求める会社であって、ボランティアではない。

不慮の事故から、ロックトイン症候群を患った47歳から、何と27年もの間、はっきりする意識と、目玉以外は全く動かない体と共に生きてきた、そして今も生きている”鈴木貫太郎”、現在74歳、元首都高速道路公団 技術職員。東京オリンピックに向け、好景気に沸く戦後日本の高速道路建設に使命を燃やしてきた、昔気質の根っからの技術屋の男。

群馬県の名家(地主)の大家族の長女として生まれ育った、著者”鈴木公子”は、しっかりとした”自分”をもった女性。貫太郎と結婚して45年、うち27年の夫の介護生活。自らの三人の子供(二男一女)は、いずれも世帯を持ち、子の親となった。
思うようにならない貫太郎が、癇癪を起して「デテイケ!」と声(?!)を荒立てれば、そそくさと夫の介護を放棄して、家を飛び出す。
趣味の山登りや、旅行にも出掛ける。
貫太郎が事故に遭う前、元気な頃は、末っ子が20歳を迎えるまでの期限付きの婚姻生活であることを、互いに公言していた夫婦。
人生に”もしも”は無いけれど、ゴルフ場の崖から転落する事故に遭っていなかったならば、あのまま五体満足に健康で暮らしていたならば、、、既に全く別々の人生を歩んでいたであろうふたりが、100%の満足では無いながらも、幸せな暮らしを営んでいる。
共に営んだ45年間、そして27年間の歳月。
幸せの本質、何が”幸せ”であろう?!

著者の実の父親は、認知症の影響もあってか、旧い家に縛られて思うように自分を生きることができずに、不完全燃焼のままに終わろうとしている自分自身に対する苛立ちか、母や周囲に当たり散らし、本人にも周囲にも辛い、地獄のような晩年を送る。最期には、再び本来の穏やかさを取り戻すも、果たして実の父親の人生は”幸せ”であったのか?


経済的には、一家の大黒柱を失い、共済や年金、義父らの資金援助があったとはいえ、三人の子供と、やがて認知症を患う父親らを抱え、決して何不自由の無い、豊かな暮らしとは縁遠い日常生活。働いて日銭を得たくったって、ひとりでは何もできない、手が掛かる、大きな(70kg〜80kg)夫の介護に追われ、仕事どころではない。決して治る見込みの無い病いに、治療をなす術は無い。入院しても、完治の見込みが無い患者に、ずっとベッドを占有させる訳にはいかない病院側の都合もあろうから、どうしたって短期入院で、原則的には自宅療養になる。そうして、いつ何時、生命が途絶えてもおかしくない状況を、何と27年間も生きてきた。

鈴木公子は、貫太郎の妻では有るが、それ以前にひとりの個性を有した人間である。
貫太郎の介護に、生活の全てを優先する公子。
「私がそばにいなくては、パパは何もできない。」
それでも公子は冷静に考える。
確かにその想いが、それまでの長い辛く先の見えない生活を支えてきた。そう想うからこそ、これまで頑張ってこれた。偽りの無い気持ち。
けれども、それは公子の思い込みでしかない。
そう、なるようにしかならない。何をどう頑張ってみたところで、然るべき時期が来れば、然るべき事態が起き、然るべき位置に姿形に納まる。無力感とも言えるのかもしれないが、それまで一生懸命に頑張ってきた、歳月に裏打ちされた実績がある、だからこそ、解放されるてもいいではないか、むしろ、解放されるべきであろう。
公子の負担は、貫太郎の介護だけでは無い。遠く離れた病院への入退院の送迎、見舞い、見舞い客の応対、三人の育ち盛りの子供たちの育児、父親の変わり果てた姿を目の当たりにする幼い子供たちの複雑な心のケア、家事(炊事、洗濯、掃除など)、年老いた義父であり、実の父の世話、、、忙殺され、ひとりの時間も無く、移動の狭間のふとした瞬間に溢れる涙。

”長い人生の間に、夫婦や家族に生まれる、さまざまな確執。”
そう、確執は必ず生まれるもの。互いに別個の個性を有する人間同士が営む共同生活。互いの距離が近いが故に、絶対的に生じる歪み。歪みが生じることを避けることはできない。
むしろ、それなりの理由と原因があって生じた歪み。その歪みが、形となって表れた、それは小さな歪みが積もり積もって悪化し壊れつつある関係を修復・修正して、より良好な関係を築き直す好機であるのかもしれない。









本「私がそこに還るまで」稲葉真弓5


私がそこに還るまで
著者: 稲葉真弓
単行本: 173ページ
出版社: 新潮社 (2004/10/28)



妄想が暴走している、、、何を書いているのやら、自分の世界にどっぷりと入り込んでしまって、訳が分からない、痛い、などと、それを好んで手にしている自らを棚に上げて、好き勝手なことを考える、全くいい加減。
ちょっと待てよ、確かに、乱暴な物語の終わらせ方をしているものの、状況説明は詳細に克明で、むしろ突き放したような終わらせ方は、読者に投げ掛けて、その解釈を委ねちゃっている、意図的なもの?!、ますます訳が分からない。

著者 稲葉真弓は、1950年生まれ。
1973年に婦人公論女流新人賞、1980年に作品賞、1992年に女流文学賞を受賞している。23歳にして、小説家として脚光を浴びた。それから現在までの、三十数年の人生。

私の中では、1964年生まれの野中柊、1959年生まれの小池昌代に続いて、現在最も興味津々の女性小説家。

自らの内に潜む、言葉に表し難い”何か”。憎しみ、苛立ち!?、心の内に抱えたエネルギー。誰の心にも絶対的に在る。
人にはそれぞれ、表現の上手、下手がある。周囲の人間との距離感。人間関係。誰もがキチンと表現できる訳ではない。得手、不得手があって当たり前。
自らの外側に対して行う表現。自らの内側に抱え込み、さらに深く深く掘り下げる作業。全く異質な双方向への行動のバランスは、年齢を重ねて、多くの人生の経験を積み重ねて、自らの力で乗り越えて、時に失敗して痛みや苦しみを感じて、初めて会得できよう。だから、若者や経験が少ない人間が、苦悩し、苦悶することは、ある意味では当然のこと。苦しい、辛い、哀しい、言葉にならない想い。

誰しもが、自らの心の内にひっそりと抱えているモノが在る。抱えているモノの大きさが、大きいか小さいかの相違こそあれ。
抱えているモノの存在を隠して、いや、あえて人に知らせる必要性を感じないから、周囲の人間に不快感を与えたくないから、せめて良好な人間関係を築いて、その瞬間だけでも楽しい時間を過ごしたいから、自分以外の誰ひとりの苦しく辛い顔を見たくないから、だからこそ、より明るく振る舞う。演じるしかない。誰のためでもなく、自分自身のために。痛いと言われようが、不自然だとか、嘘臭いとか、そんな戯言に惑わされること無く。
自らの内側へ内側へと深く深く。

丁寧にじっくりとしっかりと綴られた物語、ちょっと不思議に暗くミステリアスな七篇の短篇。
”帰る”のではなくて、”還る”。ただただ行って戻ってくるのではなく、本来あるべき場所であり、姿形に、流れて辿り着く。籠められる、自らの強い意志と、自らの意志とは全く無関係に、決して逃れることができない宿命と。
人生は、スッキリと分かることばかりではない。









展覧会「ヴェネツィア絵画のきらめき at Bunkamura ザ・ミュージアム」5

展覧会「ヴェネ絵画のきらめきツィア」壁紙ヴェネツィア絵画のきらめき
 栄光のルネサンスから華麗なる18世紀へ”
− Pittura a Venezia da Tiziano a Longhi


目にしたパンフレットにあった、
はじめてヨーロッパを訪れようという若い人たちには、躊躇なくヴェネツィアに行きなさいと勧める。ここは誰にとっても奇跡の都である。・・・
Bunkamura ザ・ミュージアム プロデューサー 木島俊介 のコメントに惹かれた。

新潮社の月刊誌「旅 2007年10月号」の特集”ヴェネツィア”に、運河の街並みと、その歴史と文化に魅せられていた。

そして、物語をより深く愉しむために興味を覚えた、世界情勢、歴史、文化、宗教、民族、地理。
特に、日本人には稀薄な”宗教”。必要とされなくなった、時代背景、社会構成。それでも、信じる人々の心に深く根付く。橋本治は「宗教なんかこわくない!」と嘯く。
キリスト教が、宗教が、国家を世界を統制していた時代。国家としての権能も、キリスト教会から与えられていた。
そして、中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛え、「セレニッシマ(晴朗きわまる国)」と愛称され、華麗なる文化と教養を築いた。
ひとつの独立した”文化”。

地理的には、イタリア共和国の北東部に位置し、ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地であり、アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできた湿地帯ラグーン(潟)」の上に築かれた都市。
1987年、世界遺産に『ヴェネツィアとその潟』として登録される。


展覧会の見どころは、大きくふたつ。
ひとつが、カナレット(Canaletto)、甥のベルナルド・ベッロット(Bernardo Bellotto)らの描く、写真と見間違いそうな”都市景観画(ヴェドゥータ)”。
詳細に描かれる、美しい街、建築物、運河、人々の生活。
街の中央を逆S字に流れる”カナルグランデ(大運河)”。
街の中心は”サン・マルコ広場”。
共和国の統領(ドージェ)が居住し、国政を司った”ドゥカーレ宮殿”。
栄華を誇った時代。

そして、宗教画、肖像画
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)
ヴィーナス聖母子洗礼者、高級娼婦
信仰の力と宗教的高揚を共同体の発展の礎とした時代。

燃える情熱の”赤”。





展覧会「ヴェネ絵画のきらめきツィア」表展覧会「ヴェネ絵画のきらめきツィア」裏


本「たとえば、人は空を飛びたいと思う ─難病ジストニア、奇跡の克服―」難波教行5


たとえば、人は空を飛びたいと思う ─難病ジストニア、奇跡の克服─
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書評/健康・医学



本が好き!PJ”からの献本。
爽やかな青年の、若者らしい手記。
難病ジストニアを、最先端医療技術によって克服しちゃった奇跡。
著者は、職業作家ではない、現役大学生、浄土真宗 真宗大谷派 のお寺の第一子の長男。

手術入院中、同室の鬱傾向の患者との会話、
「”法華経”を毎日あげているのに、一向に病気が治らない。悩みを解決するのが宗教なんじゃないか?!」と、こぼす年配の男性。宗教に、何かにすがりたい、何とかして欲しい、本音。
若い著者は、自らに問うように語る。
「宗教は悩みを解決しない。人間は悩む。悩む現実から逃げないで、見つめる眼を与えるのが宗教だ。」
だから、宗教観が薄れつつある日本においても、宗教はなくてはならない、と。

著者の死生観。
小学生の頃に発症し、12年にも及ぶ闘病生活。徐々に悪化し続ける症状。書くことも、歩くことも困難に。
家族の愛、友人や教師らの励ましも、本人の不断の努力なくして、厳しく辛い闘病生活も日常生活も乗り越えられない。難病であるが故に、日本国内の専門医はたったの二名。偶然にも、そのうちの一名の医師との運命的とも言える出会い。それまでは、原因不明で、検査の結果は全て「異常なし」。誰がどう見たって、体に異常が表れているのに。もどかしい。悪化する症状に、ただただ増え続ける薬。治療を担当する医師だって、どうしていいのやら、経験も、事例も何も無いから、全くの手探り状態、困惑。
手術を受けて、奇跡的な回復を得られるかもしれない。一方では、危険が伴う手術に生命の保証は無い、症状が改善されない可能性だって否定できない。不安、恐怖心。

親の子を想う気持ち。苦しむ我が子。変われるものなら、変わってあげたい。不健康な体に生んでしまって、申し訳ない。何をどう考えたって、状況は一向に変わることは無いけれど、心の底から深く愛しているだけに、考えずにはいられない。母親の献身的な愛。一方の父親だって、具体的に積極的に献身的な行動を起こすことがなくても、本気で心配している。現実的な生活、経済的な問題。

薄っぺらに、
”信じる者は救われる。夢は、願えば叶う。”
などと言ってはいない。
確かに、自らが信じなければ、決して救われることは無い。願わなければ、夢など叶う筈も無い。
それでも、自らの宿命を全面的に受け容れて、与えられた状況における最善の努力を尽くす。その結果をも、全て受け入れる。どんな状況だって、考え方ひとつ。悲観したって、何も変わることは無い。であるならば、自らとの対峙。与えられた状況を、ある意味では愉しむくらいの気概が欲しい。

若い著者の、人生の挑戦は、これから。









本「還流」稲葉真弓5


還流
著者: 稲葉真弓
単行本: 328ページ
出版社: 講談社 (2005/8/26)



幾つかの地方新聞に『水霊』として連載された長篇物語。
愛知県出身の小説家 稲葉真弓が、木曽三川(木曽川揖斐川長良川)の堤防に囲まれた輪中旧家に暮らす、母娘三世代、三人の女性(76歳、49歳、16歳)を描く。女性が強く、風土の歴史や文化を受け継ぐ家系。三十代半ばにして、夫に先立たれる女性たち。だから、いずれも独立心が強く、華道の教師、小学校の栄養士として、生計を立てる。それでも、旧家の生まれ育ちだから、それなりの資産に裏打ちされた生活を営み、教育を受け、教養や素養を有する。守るべき歴史、文化。
世代を超えて、受け継がれる、宿命の連鎖の呪縛。

母娘三世代が織り成す物語は、現在と過去と未来を紡ぐ。
祖母の中に刻み込まれる、伊勢湾台風の、全てを濁流が呑み込む恐怖、多くの人々の死、悲しみ。それでも、町の廃退からの復興を目の当たりにする。自らも、若くして訪れた、最愛の夫の死を乗り越えて、娘二人を育て上げて、生きてきた。川や海の水との長い闘いの生活。だから、水屋の軒下に吊るされる舟。水に対する恐怖心に生み出された、頑丈な舟。歳月を経て、技術の進化によって、水に対する恐怖が癒された現在にも、決して拭い去ることができない記憶。
母と高校生の娘の中にある、長良川への想い。最愛の夫、父(昭彦)の生命を突然に奪った、自然の驚異。生態の神秘に魅せられ、川での釣りを好んだ”ウナギ”。その父が唯一遺した絵本”川を下る蛇”。父のまた父(祖父)が、大好きな時計修理店をたたんで、富士山の麓の街で送った、ひとりの余生、その早過ぎる死を胸に綴った物語。それでも、亡き者たちの想いは、決して完全に再現することができない。
母の胸の内にある様々な想い。亡き夫との運命の出会い。夫との運命的な出会いが無ければ、夫の父親に心境の変化が無ければ、もしかしたら、人生は全く違うものになっていたかもしれない。幼馴染の地元の医師の息子との、心を許し合う関係。自らが選択した人生に後悔は無い。
高校生の娘の目の前に広がる未来。幼馴染の金魚の養殖業者の息子と、横浜からの転校生との微妙な三角関係。母が生まれ育った土地に環境に生まれ育ち、地元の幼馴染との間の、気心の知れた関係。家庭内の父母とのそれぞれの人間関係に悩みを抱え、自らの殻に閉じ籠もりがちな男の子。

それぞれの人生が、それぞれの思惑とは一見無関係に流れ行く。失われる大切な人。
物語においては、夫との死別が描かれるが、それはまた、性格の不一致や心変わりによる離別であっても、衝撃の種類が相違するだけで、本質的な差異は無い?! それぞれの人生が、目には見えないレールに導かれる。宿命。
だから、還流。
どんなに抗い、足掻いてみても、元に戻る。本来のあるべき姿に戻される。
だからと言って、無気力に、無為に人生を過ごすのではない。









♪Happy Birthday♪♪5

Happy Birthday♪、Happy Birthday♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy♪、Happy Birthday♪♪、、、




本「午後の蜜箱」稲葉真弓5


午後の蜜箱
著者: 稲葉真弓
単行本: 209ページ
出版社: 講談社 (2003/08)



言われたことがある、
「あなたはひとりで生きていくべき・・・」と。

稲葉真弓、短篇小説三篇。
なるほど、”<ひとり>を選んで生きてきた女たち・・・”、の物語。

それなりの人生の経験と歳月を経て、現時点において選択している<ひとり>。それでもやっぱり、たったひとりっきりだけで生きることはできない。不思議な縁と、感じるもの、惹かれ合う”何か”があって、それでも保たれる適度な距離を得ての、同性の女性同士の深い深い付き合い。必要な時にだけ、何も聞かずに、何も言わずに、そっと寄り添い合う、支え合う。流れる空気や水のような、自然な関係。
過去には、ひとりではなく、異性との恋愛なり、同棲、結婚という選択をしたこともあった。当然に好きな人と一緒に居たい、同じ時間を長く共有したい。当然の感情、当然の選択。それでも、違和感を感じて、長く継続しない。無理が生じる。弊害が生じる。

色々な人間がいる。
それぞれが、全く別個の個性を有する人間。そんな人間同士の関係。当然に上手く行かない時もある。良好な関係を築くことを不得手とする人間だっている。ひとそれぞれ。同じである必要が無い。良いも悪いも無く。そういうものだ、でしかない。

積み重ねた経験が、ひとりで生きる知恵や力を身に付けた。
ひとりで生きる自信が無いから、誰かに依存して、何かに依存する。アルコール、薬。感覚を、感情を覚醒させて、バランスが保たれるのであれば、それはひとつの方法として、有効であろう。それでもなお保たれないバランス、生じた歪みが縮小されないようであれば、それは、”誤った選択であった”、という解釈もあろう。
ひとりで生きていける力を得て、ひとりで生きていく、何モノにも依存することなく。
自らの感覚を研ぎ澄まして、過ごす豊かな時間。
目に映るもの、耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐ匂い、、、体の器官の本能。
ヒソリと、、、









本「さよならのポスト」稲葉真弓5


さよならのポスト
著者: 稲葉真弓
単行本: 127ページ
出版社: 平凡社 (2005/08)



森の郵便局の黄色い屋根の小さな建物の前に佇む”緑色のポスト”は、「さよなら」の手紙を受け取るだけ。決して返事は書かれない。
「さよなら」の手紙だから、哀しいのは当たり前だけど、特定の相手に対して想いを籠めて手紙を書いて、投函するに至る、それぞれに紡がれる物語。森の動物たちの、四季のライオンの、古代からの守り神の”岩”の、摩天楼(高層マンション)に老婆と暮らす”ネコ”の、明日に希望を抱けない少女の、それぞれの想い。溢れる優しさ、心の安らぎ、あたたかさ、豊かに満たされる、小説家 稲葉真弓が綴る童話集。
童話だから、読み易い。読み易いんだけど、これがまた、読み飛ばせない。しっかりじっくり読み込みたい。読めば読むほどに、滲み出る味わい。
非日常的な、非現実的な、モノが語り出す”言葉”や物語は、「妄想だ!」とか「子供向け」と笑い飛ばすには及ばない。

ひとつひとつの物語をリレーする、緑のポストの番人の、柔和な語り口、溢れる愛、想い。
実は、それぞれの童話は、既に発表済みの作品であり、中には、初出が1980年代のものもある。既に相当の歳月を経て、それでもなお、稲葉真弓が「本にしたい!」(若しくは、出版社が本にして欲しい!)、と、願った物語たち。

緑のポストの番人が、「さよなら」の手紙を書き記し、幕を閉じる。








本「宗教なんかこわくない!」橋本治5

宗教なんかこわくない! -橋本治

宗教なんかこわくない!
著者: 橋本治
単行本(ソフトカバー): 307ページ
出版社: マドラ出版 (1995/07)



ただ単に事実や事柄を知っている、だけでは何も役に立たなくって、”点”でしかない理解を、結び付ける”線”、そして”線”が寄り集まって紡がれる”面”。体系的な知識の形成。

橋本治、第九回新潮学芸賞)受賞作品。307ページもの膨大な文字数を費やして、最後に「カナブンになりたい」とうそぶく。カブトムシだと、つまらないミエが入っているみたいだから。
オウム真理教(2003年2月にアーレフに改称)の事件に始まり、『宗教』を説く。オウム真理教が、あれだけ勢いを得て、あれだけの社会的事件を引き起こしてしまった背景、その必然。当然に偶然などではなく、その必然に導かれて、宗教として支持を得て、多くの信者を獲得して勢力を拡大し、やがて引き起こされる数々の殺人事件、破綻。信者、幹部、尊師 浅原彰晃こと”松本智津夫”の、行動の必然、深層心理。
そこに至る、宗教が必要とされなくなった”現代社会”という現実があって、それは、過去には、何故に宗教が必要とされ、発展してきたのか、という歴史の理解に辿り着く。キリスト教やら仏教やら、豊かな知識から体系的に分かり易く解き明かす。理解し得ない凡人にも、興味を抱いて労(読書に費やす時間)を惜しまなければ、理解できるように易しく解くには、それでもやっぱり307ページが必要なのだ。全篇の理解は得られなくても仕方が無い。知らなかったのだから。知りたい欲求も、簡単に満たされてしまっては、面白味も何も無い。


物語を心の底から愉しむために、世界情勢や文化歴史の理解を必要とする。必要とするのは、理解し得ていない、と自認しているからであり、だからこそ理解したい、と欲するから。文化としての宗教、国家が国家として確立し、機能する以前は、宗教という文化集団が、集団としての権力を有していた。異文化を有する集団との抗争。
歴史、文化。

なるほど、人間の普遍の原理原則。

だから、堂々と言い放つ「宗教なんかこわくない!」









本「感傷コンパス」多島斗志之5


感傷コンパス
著者: 多島 斗志之
単行本: 231ページ
出版社: 角川書店 (2007/08)



小説家 多島斗志之 が描く、懐かしく温かく、哀しい、心に沁みる、遠い記憶の物語。

物語の舞台は、1955年、伊賀の山奥の分校。全校生徒18名の小学校に赴任した、新任女性教師と子供、村人。
新しい生活への期待と不安は勿論、断ち切りたい想いや、煩わしい世間や人間関係(家族)から逃れたい、逃れることができてホッとしていたりする複雑な想い。
唯一の同僚の女性教師は独身ながらも、何処か翳のある、思い詰めた様子を漂わせる。
当初担任した五年生と六年生の男女六名も、共にそれぞれの家庭環境に、それぞれの複雑な事情を秘めている。
狭い山里の村の中は、皆が知り合い、顔見知り。親戚縁者だったりするから、複雑な事情は、全て筒抜け。プライバシーなど、へったくれも無い。生まれた時から現在に至るまでの全てがお見通し。善いことや、褒められたことだけじゃなくって、ふとした出来心から起こした事件や情事だって、言葉にしないまでも、いつまでも村人たちの胸の内にしっかりと在る。

面倒臭い、煩わしい、人間関係。だから、現在においては、とかく敬遠される地域社会のコミュニティ(共同体)
高度に発達した経済社会、不自由の無い豊かな生活。会社勤めをすれば、比較的容易に手に入れることができる経済力。誰かに頼ることなく、自らの力で営むことが可能な生活。面倒臭い、煩わしい人間関係を避けて、生きることができてしまう現実。ある意味では、コミュニティが失われるのも、当然の成り行き。

病に臥した母親と遠く離れ、最愛の母の回復を祈り、元の家族での生活を夢見て、祖母の元に身を寄せる兄弟。母への想い。
村の呉服屋の妖艶な女将は、常に村の男衆の視線を集め、デレデレする男の妻からのやっかみを受ける。その母を持つ娘は、しっかり者で級長をつとめるも、ホントは母親に甘えたい。母の化粧を真似て覗き見た鏡に映る自分の姿に感じる女。
朝から農業に勤しむ父母に換わって、幼い弟妹を背負い、家事をこなし、面倒を見る女児。

子供だけじゃなくって、大人たちだって、心の内に抱えている何かが在る。
お医者さんの家庭持ちの先生との逢瀬を重ね、その末の自殺未遂事件。社会的地位の高い、常識を持ち得た人物なのに、それだけに動転する姿。駆り立てる衝動の非情なチカラ。
過去に犯した過ちによって、心に深い傷を負い、心を閉ざして漫然と生きる男。誰にも心を開くことなく、猪の研究に没頭する。
最愛の妻を亡くした心の痛手を拭い去れず、妻の命と引き換えに生まれ出た娘とのふたり暮らしを続けるも、10年以上の歳月が経過してもなお、自らの殻に閉じ籠り、育児を放棄し、自らの薬草の研究のみに没頭する男。
何も抱えていない者など、この世の中には存在しない現実。抱えているモノが、大きいか小さいかだけの違いでしかない。必ず誰もが心の内に何かを抱えて生きている。

そんな心の内に何かを抱えている彼らも、何食わぬ顔で淡々と送る日常生活。時折垣間見える異変や、奇異な行動だって、事情を知らぬ者には、ただの変な人、困った人、病んでる人でしかない。関係ないから、無視して、近付かないようにしよう。巻き込まれたくない。無関係を装う。

人間は過ちを犯す生き物である。
過ちを犯さぬ人間など存在し得ない。
過ちを犯してしまった人間を、何も言わずに全てを受け容れる包容力、コミュニティ。
人間ひとりの力は、弱く儚い。往々にして過ちを犯す。
過ちは決して許されるべきではないけれども、犯してしまった過ちは、どんな償いをしたとしたって、決して消え去ることは無い。たとえ死をもって償ったとしたって。心の内にいつまでもいつまでも深く刻み込まれて残る想い。一生背負って生きていかなければならない。








映画「Life 天国で君に逢えたら」新城毅彦 監督5

映画「Life 天国で君に会えたら」表映画『Life 天国で君に逢えたら』
  http://www.life-tenkimi.jp/index.html

2002年6月に肝細胞ガンと診断され、2005年2月に38歳にしてこの世を去った、世界的プロウインドサーファー”飯島夏樹”の半生と、彼を支え続けた妻、四人の子供たち家族、仲間、愛の物語。


映画「Life 天国で君に会えたら」裏厳しいプロスポーツ界で日本の頂点に立ち、世界でもその名を馳せた男。常に勝ち続けなければならないプレッシャー、自らとの闘い。夢だけでは飯は食えない。人並み外れた能力と、能力を最大限に引き出す日々の努力。辛く苦しく単調な日々の努力の積み重ね無くして成功は有り得ない。勝って、実績を作って、スポンサー(金主)が付くまでは、商売(職業)として成り立たない。試合に参加する費用、機材の維持費、移動の交通費、宿泊費、食費など、全ての経費を自腹で出して、勝たなければ一円の金にもならない。道楽と言われても仕方が無い。
勝てるようになって、スポンサーが付いても、決して気を抜くことはできない。自らの体調や調子など構うことなく、活躍し続けなければならない。熾烈な競争社会。生きるか死ぬか、みんな必死。荒くれ者たちが、生き残りを掛けて、必死に挑み続ける。成功(勝ち組)のパイは限られている。一度手中に入れた成功は、既に成功を手にしていた誰かから奪い取ったものであり、いずれ誰かに奪われる。
だからこそ、勝ちを、成功を手にした時には、素直に「おめでとう!」と言いたい。私には決して手に入れることができないもの。羨望の気持ちは正直ある、無いとは言わない。それでも、その努力を認め、褒め称えたい。後に訪れる新たな試練への決意を固めて欲しいとの願いを籠めて。

行為や行動、言葉の裏側や隙間に在るモノ、感情。
セリフや演技など作為的な説明以外の部分から漂う、人間の本能の本質的な心の揺れ動き。聞こえてくる声、呟き、叫び。
真理、普遍の原理原則。

死と愛と人生、、、







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