Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年10月

本「黄金比の謎 −美の法則を求めて(DOJIN選書005)」渡邉泰治5


黄金比の謎 −美の法則を求めて(DOJIN選書005)
著者: 渡邉泰治
単行本(ソフトカバー): 242ページ
出版社: 化学同人 (2007/3/20)




僕の脳ミソ(?!)は、算数レベルで、数学レベルには程遠い。
小学生の頃にみっちり仕込んだ公文式。単純な計算問題なら、日常生活レベルまでなら。
それでもやっぱり、複雑な数式を目にすると、拒絶反応を示す。

例えば、
”1=0.9999・・・”
の証明であり、その論理が列挙されていたところで、「そりゃ確かにそうなんだろうけどさ、そこまで言うならそういうことにしておくよ。」と、絶対的に受け容れられない。単なる頭の固い偏屈な頑固者。

数学の”美しさ”を多角的に熱心に、それでも易しく解く。
数式の理解は不可能であっても、あえて触れずとも、興味と共感と理解を覚える。専門家にありがちな、そんなことも分からないのか?!、というような高圧的な態度もなく、高度な専門知識をひけらかすこともなく、数学的な厳密さを追求し過ぎるすることなく、中途半端さや、ちょうどよさ、などと数学素人の読者に逃げ道を用意する優しさ、愛(?!)に溢れる。それも、教育現場を長く務め(高校教諭歴20年超)、県立高校の校長の座にある所以。教育のモットーは「学ぶことは楽しい」を伝えること、とある。
確かに安定性があり、理路整然と、一寸の狂いも歪みもない安心感、心地好さを全面的に認めつつ、それが芸術作品にも、植物などの自然界にも、結果として法則性が表れていること、それが、過去の歴史的偉人たちの発見、研究の成果であり、、、
”美しさ”、が数学的に解明される驚き。
何と、音楽の音階の構成にも、黄金比が関連しているとは!、一方でその均等ではない不安定さや、ちょっとしたずれが奏でる調和(ハーモニー)の美。
なるほど、僕が好むショパンなどのクラッシックピアノのメロディーの心地好さに含まれる、確かに必ずしも確定的な安定と言うか、完全で完璧な一致ではなく、時折ずれてこぼれ出る音の微妙かつ複雑な存在の妙。

黄金比の魅力、謎。








本「濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)」永井荷風5


濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)
著者: 永井荷風
文庫: 196ページ
出版社: 岩波書店(1947/12);(改版,1991/07)




意識を覚醒させたままに、物語の虚構の世界と、リアルな現実の世界を漂う。
虚構の世界と、リアルな現実は、絶対的な隔絶の相違があって、互いに相容れることは一見して有り得ないような気がするけれど、存外、混濁の状態を時に必要とされちゃう。虚構の世界を描くのは人間の作家であり、妄想の世界は、何かしらの物語を構築する基礎となる現実に基づく。何より、自らが身に付けた人生の経験や知識は、自らの生きる道を、進むべき方向を、明確に照らし導く。虚構と現実の境界線が、明確にされなければならない理由はない。

何時からか、本の愉しみを覚え、知識を得る感動と悦びを知り、ますます興味を抱いたものを貪欲に取り込む。先入観を排除して、少しでも記憶のスイッチに触れて心が動いたら、「とりあえず、いってみよう!」で、ジャンルを問わずに読書に勤しむ。
いつ何時も、小脇に単行本を数冊抱えている。
会社で同僚(営業スタッフ)との会話も、絵画であり、本であり、、、
この本も、何気ない会話から「読む?」と、奨められたにも拘らず、実は一旦は断った経緯があって、ところが、その日に読んでいた「日本売春史―遊行女婦からソープランドまで(新潮選書) 小谷野敦 著」の中に、参考文献としての記述があって、思わず運命というのか宿命みたいなものを感じてしまって、早速翌日に非礼を詫びて拝借したもの。
その時、私の手元(デスクの上)にあった、「ひらがな日本美術史7 橋本治 著」の表紙は、東京オリンピックのポスターで、開催された1964年は、彼が生まれた年らしい。私が生まれた年には、三島由紀夫が自決している。まったく何の関連性も有しない。

そんな偶然を、ある部分では必然と感じながら、
永井 荷風(1879.12.3-1959.4.30)の最高傑作とも言われる小説を堪能した。
一見して何の変哲もないような物語も、確かに「日本売春史」の娼婦や風俗の資料となり得る記述が散見する。

銀座に新しい風俗喫茶と言うべき”カフェー”が広まり、それでも、旧き良き芸者と言うのか娼婦”お雪”の処に足繁く通う。面が割れないように、気兼ねなく愉しめるように、変装して着崩してまでして、通い詰めるのは、惚れた弱みなんだけど、正当な(?!)理由がある。小説を書くための取材であり、近隣から漏れるラディオの騒音からの避難、銀座や丸ノ内のような新しい西洋文化に対する嫌悪感、ということにしておきましょう。もう絶対に行かない、と決意を固めても、たった4〜5日で堪え切れずに相好を崩す。なんたって、”ミューズ”、女神と崇めちゃう。想いが募り、どうしようもなく込み上げる切なさ。

単なる”エロ小説”(?!、そう評される節があったらしい)ではない、当時の風俗や文化を色濃く伝え、それでいて、複雑に揺れ動く心が描かれる。


その生涯に抱かれる興味、
20代に、二度の結婚をいずれも結婚翌年に破綻させている。花街に足繁く通うも、子を儲けたくないと思い、必ず避妊具を使用していたという。多額の遺産を残したまま、1959年(昭和34年)、孤独死により79歳で没する。









本「肝、焼ける」朝倉かすみ5


肝、焼ける
著者: 朝倉かすみ
単行本: 261ページ
出版社: 講談社 (2005/11)




いきなり、送別会とか言われると、調子狂っちゃって、
まぁ、仮にも会社ではマネージャーとか言われて、それなりに私個人の都合や利益を排除してでも、団体の利益を優先する旨を信条としている訳で、直下ではないものの、営業スタッフが急に退職することになった、と聞けば、そりゃ黙っちゃいられない。会議やら何やらで、最後の方だけ何とか顔を出して、それでも本人を捉まえて、トクトクとヒヤリングして、前向きな志に最大級のエールを贈る。22歳、前途多望。今さらエリートにはなれないけれど、何事も経験、よればんが。
僕は三十七歳、人生の負け組。


朝倉かすみは、1960年、北海道生まれ。
2003年、「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞を受賞。2004年、「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞、その後の「小説現代」に寄稿した作品を纏め、2005年11月に本作品にて単行本デビュー。
2006年9月に「ほかに誰がいる」、2007年7月に「そんなはずない」を刊行。
デビュー作には、小説家としての原形が籠められる。

小説が虚構の物語で、妄想の絵空事であったとしても、物語として紡がれるには、それなりの元になる実体験が必要となろう。読む人の心を掴んで離さない物語は、確固たる構想が求められる。
現在を生きている自分自身がいて、その周りにももちろん多くの人々が、それぞれの個性を発揮しながら生きている。
それでも、とどのつまりは、自分自身。自分自身を描き、それが少し前の自分自身であり、鮮明に記憶に残る、あの時(過去)の自分自身であり、また時に、自分自身に大きな影響を及ぼした人物。いずれも、今現在の自分自身を形成するに至る重要な要素。自らの内側を深く見詰めた時に、描きたいと思わせる出来事、テーマ。
その瞬間は無我夢中で、何も見えなかったけれども、歳月を経て、客観視することによって、見えてくることは少なくない。


50歳を目前にしてなお、永く会社に居残る独身女性(『一番下の妹』)であり、
結婚して子供を抱えながら、新しい男との運命の出逢いを求める妹を咎める姉であり、妹には、「おねえちゃんは一分の隙もないほど正しいよ。でもしょうがないんだよ」と、女の目をして強くいわれちゃう。だからといって、三度経験した(させられた?!)お見合いには、”結婚と性交、妊娠と性交が別物であるかのように、関係者は一丸となってふるまっている。”を見ちゃている。『コマドリサンのこと』
『一入(ひとしお)』に、物語の展開においてはあまり重要ではない、テレビの高校野球を眺めるて思いを交わす場面(P.253-255)に、痛さというのか、何ともいえない共感を覚えてしまう。








本「日本売春史―遊行女婦からソープランドまで」小谷野敦5


日本売春史―遊行女婦からソープランドまで
著者: 小谷野敦
単行本: 239ページ
出版社: 新潮社 (2007/09)




壮大な目論見を見守りたい。

小谷野 敦(こやのあつし,1962.12.21- )は比較文学者、評論家。東京大学非常勤講師。近代的理念を再評価する「新近代主義」の立場を取り、現代日本の論壇人への苛烈な批判で知られる。 〜Wikipediaより
『猫を償うに猫をもってせよ(小谷野敦のはてなダイアリー)』

エイズという梅毒より恐ろしい性病が現れたいま、売春非合法だが存在する状態にしておくのは、現実的政策とはいえないだろう。ヨーロッパ並に合法化し、性病予防を徹底するべきであろう。(P.194)”
だから、本文の最後に書き記す、
私の目的は、ここに達成された。というのは、中世遊女は聖なるものであったと論じる者たちを私は批判したが、彼らの多くは、現代の娼婦について語ろうとしないからだ。(中略) 現在わが国に存在する職業としての売春を黙殺して、過去を賛美するような行為は不誠実である。古代から現代に至るまでの、一貫した日本売春史を記述することによって、そうした論者たちを追い詰めることが目論見だった。(P.208)”


約150以上もの参考文献を紐解き、ほとんど資料らしきものが存在しない古代まで遡った、比較文学的論評。
ちなみに、比較文学とは、文学作品などを比較して、表現・精神性などを対比させて論じる文学の一分野。〜Wikipediaより
売春や娼婦など、日本の精神史を解いた過去の数多の文献を検証し、時に痛烈な批判を展開する。ばっさばっさと、痛快にメッタ斬り。あまりの独断振りに、暫し言葉を失うも、なるほどなるほど、それが”比較文学比較文化”的な理論展開なのかも!?、と何となく納得、嫌いじゃない。曖昧な人情論や感情論による展開を排除。


人類セックスの特徴は、発情期がなく、常にセックスが可能であることだ。(P.17)”
”多くの側室を持った明治天皇に対し、大正昭和天皇は、一妻であった。
(P.24)”
それが事実であり、現実。否定しても、忌避して隠しても、どうなるものでもない。

人間の本能と、需要と供給、その必然。
人類が、生殖を目的としない、快楽のためのセックスをするであることは確かだ。(中略) セックスの後で男が消え去ってしまい、女が妊娠すれば、それを引き受けるのは女だから、女は不特定多数とのセックスを忌避するだろう。もし、妊娠を回避する確実な方法を彼らが知っていたら、男女ともに快楽を求める結果として、売春は発生しなかったかもしれない。(P.17-18)”

それにしても、ここで紹介した研究書のほとんどが現在入手困難で、人はこれほどまでに歴史の暗部から目を逸らしたがるものか、と思う。(P.145)”
”要するに日本の一般人は、けなげな下級女郎の悲劇や、聖なる遊女論のようなものを好むのだと言うほかない。
(P.107)”


”まえがき”の冒頭に書き記す、
「われわれにとって容易なことでなく、またそうすることが大へん必要なのは、ある本に刺戟を受けたときに、原著者に猛烈に嫉妬することではないかと私には思われる。嫉妬するということは、なぜそのような本が自分または自分たちによって書かれないのかと真剣に問い質すことである」。
十六年前に書かれた、文化人類学者・山口昌男の『本の神話学』(中公文庫、元本は一九七一)の冒頭に、「翻訳餓鬼道」、つまり外国(もっぱら西洋)の著者の翻訳して、それで済ませてしまう態度への批判が書かれている。



≪目次≫
第1章 売春に起源はあるのか
第2章 古代の遊女は巫女が起源か
第3章 遊女論争―網野善彦による「密輸入」
第4章 「聖なる性」論の起源
第5章 中世の遊女と網野史学
第6章 近世の遊女史
第7章 岡場所、地方遊廓飯盛女
第8章 日本近代の売春―廃娼運動と自由恋愛
第9章 現代日本にも存在する売春―カフェ赤線ソープランド








本「ほかに誰がいる」朝倉かすみ4


ほかに誰がいる
著者: 朝倉かすみ
単行本: 229ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/09)




僕は甘い。
それが物語の中でのことであれ、誰も傷付かずに、ハッピーエンドとはいかないまでも、穏やかな結末を望む。争いは好まない。衝動的な破壊行為によって幕が閉じられて欲しくない。
世の中は甘くない、現実は厳しい。キレイ事だけでは済まされない。
明らかな現実逃避。

言葉は表裏一体。
”ほかに誰がいる”というのは、私しかいないでしょ、という、自信の表れでもあり、一方で垣間見える不安。自信があるならわざわざ言わない。言わずにはいられないのであり、わざわざ口にして言葉にしてしまった時点で、確信へと変えたい心持ちで、揺れ動く心の内。
何とでも解釈できる不確定な言葉が、本のページの右下の隅に、しっかりとその存在を主張する。

16歳の少女の淡く切ない一途な想い。
出逢ってしまった運命の人は、同級生の少女。同性に抱く想いは、愛とか恋とはちょっと異なる、もっともっと複雑怪奇なのにシンプル。濃密で軽薄な人間関係の基本のキ?!、友人関係。異性との恋愛関係を円滑に形成するためにも、絶対的に必要な経験。何でもない、さも当たり前の友人関係が築けなければ、より深く複雑な異性との恋愛関係、その後の長い期間に亘る婚姻関係は成立しない。
自我が芽生えて、庇護を受けてきた家族からの自立の過程に、深く悩み、自らの力で乗り越えるべき人間関係。

人間は欲張りだから、ささやかな願いは、それが叶ってしまうことによって、要求は徐々にエスカレートし、だんだん当り前のことになってしまって、気が付くと望み通りにならないことに腹を立てていたりする。身勝手な生き物。

物語って、フィクションであって、作り話だから、著者の妄想の世界を描けばいい。それがどんなに非現実的であったとしても、著者のオリジナルの世界だから、仮に世間に受け容れられずに烈しい拒絶にあってしまったとしても、それはそれで話題になっちゃえば、ある意味では喜ばしいこと(成功)なのかもしれないけれども、出版社というフィルターを通して、文学性の欠片もないものは出版されない訳だから、個人の”常識”ってどこか可笑しい。








本「私の好きな悪い癖」吉村昭5


私の好きな悪い癖
著者: 吉村昭
単行本: 243ページ
出版社: 講談社 (2000/10)



書くに足る対象とは、私の場合、人間に限られている。エッセイは人間を書くことで、それ以外にない、とかたく思いこんでいる。  〜「あとがき」より

心のヒリヒリが、穏やかさを求める。安心して心を静かに委ねられる、吉村昭のエッセイ集。
究められた史実作品は、いまだ手にしていない、お愉しみ。
吉村昭のエッセイには、同じ事柄や出来事が何度も繰り返される。その何度も繰り返される様が、何故か心地好い。あっ、また出てきた。ということは、ここは、ポイントってことかしら、、、などと、講義を受けているが如く、記憶と戯れる。
漂う優しさは、幼少の頃から青年期にかけて患った大病の影響だけとは言い切れない。
作品に漂う、育ちの良さ、豊かさ。下町の東京・日暮里に商売を営む、九男一女の八男坊として生まれ、戦争を経験したという時代背景もあって、常に身近に在った”死”。幼くして、母、父、兄弟を相次いで亡くし、自らも大病により覚悟した”死”。自らが好むと好まざるに拘らず、その経験が、意識の深層に刻み込まれる。


ところで、私は単行本を好む。
重く嵩張るハードカバーの本の、重厚感に心地好さを感じる。携行するかばんには、常に単行本が二冊以上入っている。重くないはずはないけれども、これだけは譲れない。読む本が途切れて、重厚感と雰囲気を携えた著作に触れる幸福が絶えてしまうことに対する絶大なる恐怖。
よくよくチェックしてみると、この著作も、文庫本が出版されていた。にも拘らず、私が手にしたのは単行本なのである。

会社の同僚(最近入社した営業スタッフ、30代男性、インテリ風?!)との会話の中に、読書の話しが出た。私が読書中毒であり、昼休みもひとり読書に耽り、現実と虚構の世界を覚醒しながら漂っていることは、勤務先においても周知の事実である。ふいに「最近お勧めの本は?」などと問われ、思わず口を吐いたのが「ガブリエル・ガルシア=マルケス、新潮社から新装出版されている、ノーベル文学賞を受賞した、ラテンのリアリズム♪」と答えるも、当然に知る由もなく、さらに「電車で読める文庫本・・・」と来た。ついつい馬鹿正直に、「文庫本って、新刊本のお下がり的で、そういえば最近は手にしていないなぁ、、、」などと言ってしまう私の社会性に対する大きな問題。歴然と終焉を迎えた会話。

人間と、人間同士のコミュニケーション、人間関係に抱かれる興味。圧倒的に人間関係の形成が下手糞で、よくもまぁ、ここまで生きてこれたもんだと、我ながら変に感心してしまう。
だから、私の好きな悪い癖!?、
お後が宜しいようで・・・









鎖国政策をとっていた日本では、構造が外洋航行には不向きで内海航行のみに限られていた。和船研究権威である石井謙治氏によると、そのため日本の内海航行は、航路港湾設備、航行規則など世界屈指の充実したものであったという。
最も安全な航路は、大阪から瀬戸内海をへて赤間関(下関海峡)を抜け、日本海を北上して北海道江差(えさし)に至る海であった。大商業都市であった大阪から大消費地の江戸に回船がしきりに往き交っていたが、太平洋は危険な海で、漂流事故が多発している。
船は沿岸ぞいに航行するのを習いとしていたが、強い風に沖へ吹き流されると、そこには巨大な潮流―黒潮が控えている。
その潮流に乗った回船は岸にもどることができず、潮の流れのままにカムチャツカや、北米へと漂い流れ、大半は海の藻屑となるが、それらの地に漂着する船もある。
・・・  〜「外洋に未知の世界が」より”

本「旅 2007年12月号 パリのビストロ特集」5


旅 2007年 12月号 [雑誌]
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書評/旅行・娯楽



あぁ、うさぎおいしーフランス人

本が好き!”からの献本。
特集『秋本番 パリは、ビストロの季節です!』
堪らず、洋食屋さんに走る!
見ているだけでも、あぁ、ヨダレモノ。
彩り鮮やかな料理は勿論、使い込まれた旧い建物も、調度品も、もてなすシェフもスタッフも、もれなされて料理を愉しむお客さんまでもが、何とも言えない”味”がある。
なるほど、”おいしそうな湯気を立てている、昔ながらの”おもてなし”が、十六世紀のあめ色の空間”、にあったりする訳ね。
手書きされた黒板メニューも、存在を立派に主張して、美味しそうな雰囲気の演出に一役買っている。メニューを読み解くキーワード、読み説き方やマナーの基礎知識が解説されている。知っていれば、より寛いで、愉しめること間違いなし。本場フランスで、メニューの内容は聞けても、マナーは聞けない。
歴然とした階級社会フランスには、飲食店にも格付けがある。レストラン、ビストロ、ブラッスリー、カフェ。大衆食堂に位置付けされる”ビストロ”だって、一般大衆を対象とするが故の、片肘張らない気楽でフレンドリーな雰囲気を漂わせつつ、本格的な伝統料理を堪能できる、そんなお店が流行っている。
真っ白なお皿に、ちょこんと行儀良く配され、彩りを添えたソースを纏った料理たち。見ているだけでも、ドキドキ、ワクワク、思わず笑みがこぼれる。
紹介されてるホテルの部屋の、屋根裏部屋みたいな、傾斜天井に張り出した梁(ハリ)の木の渋い焦げ茶色。窓から射し込む明るい光。落ち着いたインテリアが醸し出す重厚感。決して広々と煌びやかな感じではないのに、広さや機能性で比べたら、日本のホテルの方が優れていることは誰もが疑う余地もないであろうけれども、思わずため息が漏れるような雰囲気。憧れや、歴史だけでなない、心を掴む何かがある。憧れが大きいことを充分に承知して。
ちなみに、ウサギの肉は、Lapain(ラパン)。


リリー・フランキー英国へ行く。”
短期集中連載の第2回は、ビートルズが生まれたリヴァプールからロンドンへ。
どんより曇った空。重厚なレンガ造りの街。
ビートルズに纏わる有名なスポットを巡ったところで、リアルな現実として、彼らはそこに居ないけれども、彼らが歌った曲の数々に馳せる想い。そこから生み出され、ヒットを飛ばした曲たち。
四人グループのビートルズが一世を風靡して、それは、リバプールに発し、ロンドンを経由して、全世界へと羽ばたいた。
街に馳せた想いは、それでもやっぱり、ジョン・レノンであり、ポール・マッカートニーであり、ジョンを変えたオノ・ヨーコ、それぞれ個人への想いへと辿り着く。
それもまた、旅の醍醐味。








本「似せてだます擬態の不思議な世界(DOJIN選書002)」藤原晴彦5


似せてだます擬態の不思議な世界(DOJIN選書002)
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livedoor BOOKS
書評/サイエンス



本が好き!PJ”からの献本。
分かり易い”科学”本。

東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻教授藤原晴彦”は、昆虫を主な研究対象として、擬態変態染色体などの究明に取り組む分子生物学研究者

本書のテーマである、”擬態(ぎたい)”、Wikipediaによると、
擬態とは、生物ヒトが、その色彩や形、行動によって周囲の環境(地面や植物、他者等)と容易に見分けがつかないような効果を上げること。カモフラージュとも言う。』

化学専門書、自然科学関連書などを出版する”化学同人”(出版社らしからぬ社名!?)の”DOJIN選書”シリーズ第二弾、002。
さまざまな分野からテーマを厳選し、科学的なアプローチで深く掘り下げ、専門的な知識がなくても知的興奮を味わいながらおもしろく読める、そんな書籍を刊行してゆきます。 豊かに広がる知の森のナビゲータ。
既に011まであり、奇数月に二冊刊行予定。


第一線の研究者が、ここまで砕けて大丈夫か?!、と余計な心配をしてしまうほどに、専門分野の研究成果から導かれた、擬態現象、情報戦略効果、そして人間という生物の本能的な行動に迫る。
結婚詐欺やら、オレオレ詐欺やら、モノマネ芸人やら、社会生活に密接したニュースを例にとり、時に研究仲間や家族(同じ研究者の妻と最近生まれたばかりの長男)まで登場させて、易しく解説する。
だから、普段はあまり興味を抱くこともなく、縁遠い昆虫の擬態の難解な数式やら専門用語も気にならない。(故に理解できていません、悪しからず。)

自然界では、食うか、食われるか、の厳しい生存競争が繰り広げられる。自らが生き残るためには、生きている生物を、食べなければならない。食べなければ、自らが死に絶える。だから、強い者が生き残り、弱い者は食べられる、弱肉強食、自然界の原理原則。
だからといって、強い優秀な生物だけでは、生態系のバランスが保たれない。弱くて食べられちゃう生物が、細々とでもちゃんと残り続けてくれないと、共倒れしてしまう。
この世の中に存在している生物に、不必要な存在は何もなくって、全てが存在する必要があって、この世に存在している。
それは、人間界だって同じことで、必要のない人間は誰もいない。何かの必要や必然があって、この世の中に存在していて、組織や集団に属している。

だます人がいて、だまされちゃう人がいて、人を欺いて騙す(悪意)ことは決していいことじゃないけれども、騙す人には、騙す人なりの必要に迫られた状況があって、仮に騙し取った金銭で一時的な利得を手にしたとしても、それはあぶく銭で、決して身に付くことがなくって、結果的に手元に残ることはない。何よりも、人を欺く行為をした人は、いずれ別の人から欺かれることにもなろうし、欺かれるかもしれない、という心配を片時も払拭できないのでは、心の安らぎや、真の幸福が得られるとは考えられない。
騙されちゃう人も、時にそれによって自らの命を落としちゃう人もいるから、あんまり無責任なことは言えないけれども、極論で言っちゃえば、騙されるだけの必然があった、ってことも言えるのでは。お金を騙し取られちゃう人は、騙し取られるだけのお金を持っていた、訳だし、それが、すぐに動かせる(騙し取られてしまう)状況にあった、ということは、そのレベルの重要度でしかなかった、とも言える。
結婚詐欺なんかは、不謹慎だけど、夢を見ちゃって、愉しんじゃった、訳だから、その対価を負担する(金銭を騙し取られる)のは、ある意味では当然かも。授業料!?


擬態という、「似せてだます」戦略が、人間界にも頻繁に見られる、生物の本能的行動である以上、だまし、だまされることは、至極日常的なことでもあろう。
悪意の騙す行為ばかり取り上げたが、善意をもってだます行為も当然にある。人を楽しく、愉快にさせる「似せてだます」は、緊張を解き、良好な人間関係を築く行為である。

だから、人を愉快にさせる「だます(善意)」を活用することはあっても、間違っても、「騙す(悪意)」ことはしたくない。
何よりも、「だまされる(善意)」ことはあっても、「騙される(悪意)」には遭いたくない。騙されてしまうか、騙されないか、の違いは、その情報の判断に委ねられる。正しい情報なのか、偽の情報なのか、情報の本質を見極める能力は、知識や経験など、常日頃の学習によるところが大きい。








本「ひらがな日本美術史7」橋本治5


ひらがな日本美術史7
著者: 橋本治
大型本: 236ページ
出版社: 新潮社 (2007/2/22)



時に無性に橋本治が読みたくなる。
文章を書くことを職業としている橋本治は「よく分からない」からこそ書く、と嘯く。
世間一般的には、よく分かっていることを、探求の成果として、まとめて書き記す。当然そこには、よく分かっている専門家の著者自身がいて、それなりの自信とプライドを有しているから、より高度な専門的な知識を公開する、というスタンスになろう。○○界の第一人者は、一般素人を相手にしない。権威は、下から持ち上げられて威厳を保ち、下手に下に降りていく必要はない。一般素人の予測不能な突拍子もない展開に巻き込まれて下手を踏むリスクは避けるべきであろう。

だからこそ、橋本治はありがたい。
豊富な知識と高度な分析力を有して、あえて一般素人の視線から理論を展開する。一般素人でも、それなりの興味を有した人しか、橋本治の本を手にしないであろうし、橋本治の本はページ数も多いから、それなりの覚悟を有した人しか手にしない。決して世間一般に受け容れられ易いとはいえない独特な文体。真意の読み込みと、表面的な解釈に捉われない深い理解を求められる。それ位の”いやらしさ”は、知識人のご愛嬌。私は、分かっていない、であり、分かりたいと欲している、であり、橋本治は、分かっている、であり、分かり易く解説する、だから。いきなり専門書を紐解いても、私には理解できない。

ここのところ、印象派の絵画が気に掛かっている。
芸術に垣間見える、世界史、文化史。
19世紀後半のフランスに発した芸術の一大運動。1874年、パリで行われたグループ展を契機に広まった。モネルノワールマネモリゾ、、、少なからぬ影響を与えたジャポニズム

興味はあっても、印象派の理解や、その背景が、点と点のおぼろげな知識としてしか存在していない現状で、もう少し理解を深めた後でなければ、ジャポニズムには迂闊に手を出せない、と潜在的に思っていた。だから、興味はあった。
橋本治が解く!、には、当然に反応する。分からない、私のレベルまでハードルを引き下げた展開が期待できる。分かる、に近付ける。知識の点を増やして、線を構築して、いずれ、知識の面を形成し、立体的な知識構成を確立させたい。

シリーズ第七作(残念ながら最終巻)、明治から大正昭和の日本の近代美術。
印象派と重なる時代。油絵の具によって、引き立つ色合い、彩り。簡単に西洋画をマスターしてしまった、レベルの高い日本人画家たち。歴史的、社会的背景。鎖国が解禁されて、深まる異国との文化交流。常に新しく新鮮なモノが求められる芸術世界。いいモノはいい。けど、二番煎じは、受け容れられない。オリジナリティーが求められる。
高度な技術発展が故に、絵画作品以外での芸術表現の場が拡大発展する。時代の流れ、商業主義の必然。そうか、ポスターや漫画、マンガも、美術(芸術)作品。


芸術新潮」に、14年もの連載を続け、古代からの日本の美術史を辿ったシリーズ。
掲載される作品を眺めるだけでも愉しい。

目次:
近代的なもの―井上安治筆「築地海軍省」
鮭が語るもの―高橋由一筆「鮭」
日本人の好きなもの―黒田清輝筆「湖畔」
近代日本の指導者達が求めたもの―狩野芳崖筆「大鷲」「悲母観音」
「君の行く道は」的なもの―高村光雲作「老猿」と高村光太郎作「手」「柘榴」
「君の行く道は」的なものpart2―岸田劉生筆「切通之写生」と青木繁筆「わだつみのいろこの宮」
「君の行く道は」的なもの完結篇―川端龍子筆「源義経(ジンギスカン)」
美術とは関係ないかもしれないもの―「旧東京市本郷区駒込千駄木町五十七番地住宅」
「アール・デコ」なもの―キネマ文字
ただ「私は見た」と言っているもの―今村紫紅筆「熱国の巻」
堂々たるもの―竹久夢二の作品と梶原緋佐子筆「唄へる女」
堂々たるもの2―竹久夢二筆「立田姫」
海の向こうから来たもの―梅原龍三郎筆「雲中天壇」と佐伯祐三筆「扉」
讃歌するもの―棟方志功筆「鍵板画柵」「釈迦十大弟子」
「マンガ」に属したもの―谷内六郎の作品と六浦光雄の作品
卒業式のようなもの―亀倉雄策作「東京オリンピック」ポスター









西洋絵画に印象派が登場するということは、そこから「絵が壊れる」が始まることでもある。印象派は、既に決まっていた「絵の描き方」を壊した。そこから二十世紀絵画は生れて、どんどん壊れていく ― そういう見方だって、もちろんある。・・・

岡倉天心

・・・「なにを考える必要があるの?」というところへ行ってしまったルノワール個人の〈幸福〉が浮かび上がる。
若きモジリアニが、晩年のルノワールを訪れる。畏敬すべき大先輩の前で緊張するモジリアニに対し、老いたルノワールは、「女はね、お尻」と言って絶句させたという有名なエピソードがある。真紅に燃える空間の中に、ひたすらケツの大きいバラ色の脂肪の塊のような若い娘の裸ばかりを描き続けていた晩年のルノワールにとって、「女はね、お尻」は、人に与える究極の認識であり、それですませられる状況にいることは、紛れもない〈幸福〉でもあろう。
印象派の誕生という、美術史を揺るがすような大事件を引っ張っていった画家の一人であるルノワールには、そういう個人的な幸福があってもいいだろう。ルノワールは「その先」の必要がないくらい、開放されっ放しだったのである。・・・

本「そんなはずない」朝倉かすみ5


そんなはずない
著者: 朝倉かすみ
単行本: 303ページ
出版社: 角川書店 (2007/07)




朝倉かすみは、1960年、北海道小樽市うまれ。北海道武蔵女子短期大学卒業後、様々な職を経験。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞、2004年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞受賞。
145センチ41キロ。たぶん、日本一小さい小説家。札幌在住。
 〜ブログ「アサクラ日記


「そんなはずない」のであるが、リアルな現実は、そんなもの、だったりしちゃう。
節目である三十歳の誕生日を挟み、婚約者に逃げられ、勤務先の信用金庫が破綻しちゃった”鳩子”の物語、”大型新人による極上の恋愛小説”と評される、長篇小説。
過去に交際した男たち八人と、新たな恋愛関係を展開させたい年下の男を巡る恋愛小説であり、その交際を始めた年下の男が、鳩子の三歳下の妹が好きな人だったりして、近しいだけに姉妹の間にドロドロと絡み付く、嫉妬、羨望、愛憎、複雑な関係が描かれ、そんなことのために、そこまでしちゃうのか、ってくらいの、女性の強かさ。そう、女性は強い。
三十歳という、何となく区切りとなる節目に、ちょうど大きな動きがあって、過去を振り返ってみたりする。そう、「そんなはずない」ほどに、大したことをしていない。結構頑張って、それなりに一生懸命生きてきた、つもりでいたけれど、、、あぁ、

仲の良い四人家族は、平穏無事に見えて、何を何を、それぞれ、それなりに色々ある。父親の存在感が薄すぎるのが気になるが、それとてリアルな現実なのかもしれない。確実に存在があって、否定はできないけれども、具体的な印象がない、父親。男の私にしてみれば、「そんなはずない」と思う一方、そうだよね、と妙に納得。
幼少の頃に、2〜3日帰ってこなかった日、深夜の暗いダイニングテーブルに帰らぬ父をひとり待つ母のうなだれた後姿。問いただしても、当然にはぐらかされる。誰にも言えない秘密があって、絶対に言っちゃいけない出来事は、誰にだってある。聞かされたって、困っちゃう。言う方は、それで解放されて、聞いちゃった方は、聞いちゃったことによって、その負担が押し付けられちゃう。

失業した鳩子は、図書館司書の臨時職員の職を得る。
そう、私が日々活用させていただいている”図書館”。
本来の現代資本主義経済の社会通念上は、本は購入すべきであり、その経済効果は絶対的に必要とされるものであるが、一方では、社会的弱者にも均しく文化に触れて学習する権利があり、経済的利益とは別の側面から、出版という文化活動が安定的に備蓄される機能及び施設が求められよう。
ところが当然に、図書館に経済効果は発生しない。民間施設(企業)であれば、仮に資産家の道楽であったとしても、最低でも固定費(人件費、光熱費など)くらいは、利用料金等の徴収による売上が見込めなければ、施設を開放することも困難になってしまう。
公共サービスだからといって、財源には限度があり、文化活動は継承されなければならないが、理想論ばかりを展開する訳にもいかない。
恩恵に預かっておきながら言うのも何ではあるが、何とも悩ましい。








本「マルシェ・アンジュール」野中柊5


マルシェ・アンジュール
著者: 野中柊
単行本: 254ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/10)




神聖(?!)な雰囲気が漂う、24時間営業の高級スーパーマーケット”マルシェ・アンジュール”を巡る、六組六様の”幸せ”についての物語、連作短篇六篇。
それぞれの日常生活の中の、好きな、心地好い場所。
だから、自然と足が向く。

幸せ、幸福、楽しく生きる。
言葉にするのは簡単だけど、生きることは、楽しいことばかりではない。むしろ、楽しくないことのほうが多い、といっても言い過ぎではない。辛く苦しいことは、少なくない。

幸せそうに見える人、楽しそうに見える人。
だからといって、必ずしも幸せで、楽しいとは限らない。むしろ、幸せじゃなくって、楽しくない人こそ、幸せで楽しそうに振舞う。
比較できるものではないが、大して辛さや苦しみを感じていない人の方が、よっぽど楽しそうにも、幸せそうにも見えなかったりする。


野中柊が紡ぐ物語の登場人物も、
結婚して小学生の子供がいて、夫との夫婦生活に大きな問題は無いけれど、結婚する前に恋愛していた頃の熱い想いが、時折よみがえり、不満とまでは言わないけれど、不安を感じてしまうときがあるようなないような、微妙な主婦。小さなベッドに寄り添って寝ていた頃が懐かしい。距離を保って並べたシングルベッドを、深夜にこっそり抜け出して、ちょっとめかしこんで向かう先。併設されたカフェでの出逢い、ときめき。
高校生の男の子が、ひょんなことから出逢って、交際することになった美しい女子高生は、フランスからの帰国子女で、立派な家に住んでいて、見るからにお金持ち。でもね、買えない訳じゃないのに、お金はあるのに、あ〜ぁ、どうしてそういうことをしちゃうのかなぁ〜。お母さんがいないからって、お父さんが連れてきた若い女の人との暮らしているからって、だからって何も・・・

何を抱えて考えて感じているのか、その状況は、本人以外には窺い知れない。


人間は変化する、そして、飽きる。
どんなに熱烈に愛し合ったとしても、その関係が永遠に継続することは有り得ない。
恋愛のヒリヒリする非日常的な体験が、熱い気持ちを更に盛り立てる。刺激を求める本能。
だから、永遠に続くと思われる熱い気持ちも、歳月を経て、当然のように熱は冷め、やがて日常と化す。日常にヒリヒリする感覚は無いから、更に新しい刺激を元める本能を責めることはできない。
永遠に変わらないものなど無い。

そして、楽しいことや幸せなことも、そんなに多くは訪れない。
自らが強く求めて、その代償を払って、そしてやっと手に入れることができる”幸福”。苦労して手に入れても、案外大したモノを手にできなかったりもする。労せずして、大したモノを手にできるときもある。
その大小やタイミングには、絶対的な違いがあって、決して平等に公平ではない。


だからこそ、ささやかな幸せ、楽しみを、大事にしたい・・・









初恋、予感、記憶、距離、星座、聖夜、、、

本「魔使いの呪い」ジョゼフ・ディレイニー、金原瑞人・田中亜希子 訳5


魔使いの呪い (sogen bookland)
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書評/SF&ファンタジー



本が好き!PJ”からの献本。
冒険ファンタジー物語、「魔使いの弟子」に続く第二弾。
読了に時間を要したのは、決してファンタジーが苦手だからではない!?、と口に出して言ってみる。

魔使いに弟子入りして半年の13歳の少年”トム”は、厳しい修行に勤しむ毎日。本当は、優しい母さんや父さん、ちょっと意地悪な兄や兄嫁とその子供と、一緒に暮らしたいんだけれど、父さんの農場を継ぐのは、七人いる兄弟の中でもたったひとりだけ。七番目の息子のトムは、家の外に仕事を見付けて出ていかなくてはならない。母さんの勧めで、魔使いの弟子として、魔使いと寝食を共にする生活。超能力的な魔法を一切使うことなく、日々の鍛錬と、知識や経験から導き出される直感だけを頼りに、ポケットに忍ばせた塩と鉄の粉、シャツの下の腰に巻いた長い銀の鎖で、人々を困らせる悪い魔女や悪霊を退治(拘束)する。大した武器も飛び道具も持たず、身を呈して困っている人々を救う”正義のヒーロー”のはずなのに、風貌や人目を避ける生活のために、決して人々に歓迎されない。
それでも、誰かがやらなくちゃいけない。誰でもいい訳じゃなくって、選ばれた者が、一生を捧げる職業。トムは、七番目の息子の七番目の息子だから、圧倒的に不公平(?!)な宿命の呪縛を受け容れる。


ところで、少年を中心とする人間関係。
師匠との師弟関係があって、父さん母さんとの親子関係があって、小さな魔女の子との友人関係があって、歳月を超えて、同じように繰り返される歴史。
弟子入りして半年が経過し、手柄を上げて自信を付けて、そろそろ師匠の言うことに反感を覚えだす。自我の芽生え。毎日毎日、同じ修行の繰り返し、正確度を高めろって言われたって、飽きちゃうし、まぁまぁ程々でいいじゃない、何て思う気持ち、誰にだってある、人間だから。そんな細かいこと、厳しく、口うるさく言われなくったって、分かっているよ、ってついつい思っちゃう。
師匠や親など、教える立場って難しい。完璧な人間っていなくって、生きている以上、より高い位置を目指して日々学習している。自らを磨きあげながら、一方では、積み重ねてきた知識や経験を享受する。自分自身とは異なる存在に対して、享受する行為は、その性格を見極めた上で、想像力を働かせて行う、未知の手探りの作業。
不思議なもので、師弟関係や親子関係が築かれる間柄に発生する出来事の関連性。それぞれに別個の個性を有する存在なのに、何故か同じような展開の事件が繰り返されてしまう。どんなに抗ってみたところで、哀しいほどに同じ展開に導かれてしまう現実。
宿命の連鎖の呪縛。

私自身、まだまだ中途半端ながらも、それなりの知識や経験を積み重ねてきて、時に親として子を、時に仕事の先輩として後輩を見ていて、つい何かと口を出したくなる。性格的に細かいことが気になって、気になったら黙ってられない。
最近は、最悪の事態を想定して、許容される範囲内であれば、意識して口出しを止めている。ということは、以前は堪え切れずに、何でもかんでも必ず口出しをしていた、ということでもあるが、多少の損失は、後からでも充分に取り返せよう。
本人の意思による行動の途中で口出しをしても、本人は良かれと信じ込んでの行動なのだから、口出しされて気分がいい筈はない。また、第三者に何を言われようが、自分の行動は自分以外に責任の取りようがない訳で、第三者に口出しされて、簡単に変更してしまうようでは、不甲斐ない。第三者の口出しを受け入れることによって、失敗した場合の責任の所在が不明確となり、自己責任を果たすことができなくなってしまう。
とりあえず、自分自身で考えた通りにやってみて、成功したら、「おめでとう!よかったね!!」
失敗したら、また自分で考えて、成功するまで何度も繰り返せばいい。自分自身で考えて経験と知識を習得しなければ、身に付かない。
安易な口出しは、口を出す人間の自己満足であり、エゴでしかない。

とどのつまり、どんなに抗ってみても、歴史は繰り返される。
絶対的に繰り返されてしまうのだ、何をどうしたとしても。


だからね、我が子が読んだら面白いかな?!、との不埒な目論見は、最近やっと読書の愉しみを覚えた私の血を引く人間には、絶対的に受け容れられない。分かっちゃいるけど、、、









本「モナ・リザと数学 −ダ・ヴィンチの芸術と科学」ビューレント・アータレイ、高木隆司・佐柳信男 訳5


モナ・リザと数学 −ダ・ヴィンチの芸術と科学
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書評/サイエンス



本が好き!PJ”からの献本。
芸術』と『科学』を、数学的に紐解く。ダ・ヴィンチ・モデルを用いることによって、フィボナッチ数黄金比などの難解な数式や方程式が分からないままであっても、黄金比(1:1.618)、シンメトリー(対称性)透視法(遠近法)の具体的な図解の多用によって深まる理解、果てない興味。
万物の天才”レオナルド・ダ・ヴィンチ”の遂げた偉業のみに捉われることなく、拡がる展開。さまざまな時代の偉大な著名人が、くんずほぐれつ(?!)入り乱れ、烈しい混乱のままに覆われる高い満足。
ピラミッドの謎、ルネッサンスの後、印象派ガリレオニュートンアインシュタインも。

丁度、読中に偶然(?!)『フェルメール≪牛乳を注ぐ女≫とオランダ風俗画展 −国立新美術館』に足を運び、本書に書き記される、フェルメールの綿密に計算された空間構成に触れた。
今年の春、話題の絵画作品「受胎告知」以上に魅せられた『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の実像 −東京国立博物館』第二会場、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci,1452.4.15-1519.5.2)の人物像、芸術から科学にわたる広範な試み、精神活動。記憶の片隅に、しっかりと在ったものが、沸々とよみがえる。
不遇な生い立ち。私生児であったために、正式な教育を受けることができなかった。
宗教国家より権力を有し、思想が抑圧され、日常的に戦争が行われていた時代。宗教に妄信できず、平和主義者でありながら、殺傷力の高い武器や兵器の開発に携わった。
女性との情事が一切確認されておらず、ゲイであった可能性が否定できない。
移ろいやすい集中力と、ひっきりなしに新しい活動へ没頭する傾向から、締め切りが守られず、パトロン(後援者)との関係にも苦悩が絶えなかった。

情報伝達技術が確立されていなかったが故に、偉大な発明や発見が、記録として遺されずに消失してしまった可能性。歴史的功績。


展開される理論は、正直、難解。領域は、芸術、科学に止まらない。
それでも、全ては自然界にあって、興味を抱いて探求した末に、歴史的天才によって導き出された法則。普遍の原理原則。
凡人は、天才的な法則を導き出す必要を求められていない訳で、天才ほどの深刻な苦悩を有しないままに、自らが有した興味を探求することが、
”より効果的な知的活動を実践するための助けになる”、
間違いない。
それで充分だ♪
人生は、有意義に過ごせば長い。
 −レオナルド・だ・ヴィンチ








本「うさぎおいしーフランス人」村上春樹5


うさぎおいしーフランス人
著者: 村上春樹
イラスト: 安西水丸
単行本: 264ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/03)




「脳減る賞」方向に物ごとが勝手に流れていってしまって、作ってみたかった「村上かるた」みたいなもの。
世界の”村上春樹”の精神領域にある、
まじめに現実社会と対峙しようとすればするほど、「まったく世の中のためにはならないけど、ときどき向こうから勝手に吹き出してくる、あまり知的とは言いがたい種類のへんてこな何か」
が、あっという間にたまってしまった作品集。
ソウル・ブラザー(?!)”安西水丸”が、イラストを添える。

表題作”うさぎおいしーフランス人”は、
フランス人と、子豚の釣り師と、あしかと、村の貸家と、噛み合わない会話が繰り広げられる。『小鮒釣りし、かの川』であり、『うさぎ追いし』であることに、意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。

五十音の”かるた”があって、それだけじゃ”ネタ”が収まりきらなくって、本採用されなかった”ネタ”まで、合わせて百八篇。
これだけ揃えば、本になる。
これがまた売れちゃうんだよね、そこそこに。”村上春樹”を欲している人は多い。当然に私もそのひとり。


思い起こせば、私に読書の愉しみを教えてくれたのが”村上春樹”であり、しかもそれは、昨年夏以降の出来事。
小説であり、エッセイであり、翻訳作品まで、村上春樹を片っ端から読破しようと企てた。それまで、読書の習慣がなく、時折ビジネス書を読んで表面的な啓蒙に満足感を得るだけで、小説を読むことができなかった。作り話を愉しむ心の余裕もなく、ただただいきがっていた。
その後に、気が付いたら、いつの間にやら、すっかり”読書依存症”に陥り、片時も本が手放せなくなった。興味の赴くままに、とりあえず先入観なく読んじゃう。なかなか全ての理解には至らないけど、そんなの当たり前。理解できると思う方がおこがましい。それでも、経済活動の一環としてこの世に出版されている”本”には、出版社というプロ集団が、それなりの商機を感じて市場に流通させている訳で、私がその本を読む行為に費やす2〜4時間が、無駄になることはない。どんな本にも、ひとつくらいは、気付きがある。

海外で高い評価(ブッカー賞など)を受けている現代文学作品など、「えっ?!!、何が面白いの?!、分からない!?」と言葉を失う表現を多く目にする。
そう、虚構の世界の崇高(?!)な言葉遊び♪








展覧会「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」国立新美術館5

展覧会「フェルメール」国立新美術館 表展覧会「国立新美術館開館記念 アムステルダム国立美術館所蔵 
フェルメール≪牛乳を注ぐ女≫とオランダ風俗画展
MILKMAID BY VERMEER AND DUTCH GENRE PAINTING
- Masterworks from the Rijksmuseum Amsterdam」


17世紀のオランダ(ネーデルラント)は、当時の世界の覇権国家スペインからの独立(1648年)を果たし、黄金時代を築く。同じキリスト教同士の宗教改革プロテスタントの分離、オランダ独立戦争(1568年〜1648年)。
オランダ海上帝国を築き、植民地を拡げ、海外交易によって急速に発展した経済。莫大な富を手にした市民階級が中心となって、文化・芸術が栄えた。パトロン(後援者)あっての芸術家。経済的な後ろ盾がなければ、芸術の発展はみられない。
経済的に豊かな社会が形成されて、栄えた”オランダ風俗画”。

しかし、イングランドとの三度の英蘭戦争(1652年〜)により疲弊した国力は、フランスとのオランダ戦争(1672年〜1678年)により国家的危機を招く、「災厄の年」1672年。国力の低下により、芸術界にも、フランス古典主義の影が迫るも、継承される”オランダ風俗画”。
写真が発明され(1827年)、19世紀後半のフランス印象派(1874年〜)が発する、遥か昔。
展覧会の目玉は、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer,1632.10.31-1675.12.15)の『牛乳を注ぐ女 The Kitchen Maid(The Milkmaid)』(1658-60頃,アムステルダム国立美術館)
色鮮やかな”青”、黄色、そして、”白”、光の彩り。

展覧会「フェルメール」国立新美術館 裏フェルメールの作品は一点。
アムステルダム国立美術館の所蔵作品を中心に、17世紀から19世紀末までのオランダ風俗画の多様な展開。経済的発展が、富を得た市民の生活を変え、豪華な工芸品や楽器にも、目を見張る成果があった。

それでも、どんなに経済的な発展があって、富裕層が増えて、国家が繁栄しても、みんながみんな金持ちになって大きな家に住んで豊かな暮らしができる訳ではない。
庶民は、豊かさの恩恵を受けるも、変わらぬ慎ましい生活を営む。
女性には、良妻賢母が求められ、家事労働に勤しむ。主婦であり、女中、乳母として。
一方の男は、酒場で酔い潰れ、給仕の女性を口説き、賭けごとに夢中になり、娼婦と遊ぶ。
薄暗く、雑然と、床に食べ物や食器が転がる、部屋の中。日常生活。

一点、『楽師たち The players』(ヤーコプ・オホテルフェルト,1670-1675頃,油彩)。
金持ちの家の薄暗い玄関で、楽器を手に演奏するみすぼらしい親子(楽師)と、母と娘と、女中。
楽師の父親の冴えない笑顔、満面の営業スマイルを浮かべる子供。生活のため、お金持ちの施しを受けなければ。外からの明かりの影になる楽師たち、闇。
無邪気に笑顔を浮かべる、奇麗に着飾った幼い娘は、ひざまずいた女中を中心に介し、楽師の演奏を愉しむ。娘の笑顔は、母親の歓び。外からの明かりを浴びて、輝く笑顔、光。
階級社会。富める者(母娘)と、貧しい者(楽師)、光と闇。圧倒的に不公平だけど、社会の仕組みだから仕方がない。
ところで、女中はどっち?!
階層的には、貧しい者に属するけれど、立場的には富める者の立ち位置に居る。富める者に対しては服従を誓い、貧しい者に対して見下した態度をとる。それも生きる術。
風俗画。





夕闇迫る、国立新美術館♪』 おでかけガイド -じゃらんnet
http://odekake.jalan.net/reporter/Gori/album/0000009531

本「山手線内回り」柳美里5


山手線内回り
著者: 柳美里
単行本: 499ページ
出版社: 河出書房新社 (2007/8/25)




え〜っ、何で死んじゃうの?!
「危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください。」

JR山手線に飛び込み自殺をして幕を閉じる物語、三篇。
自らの生命を、自らの意思と行動によって絶つに至るまでが描かれる。リズミカルなテンポで展開される物語に、”死”の翳(かげ)は見当たらない。(ただ鈍いだけなのか?!) 何気ない日常生活、気になることがない訳でもないが、さりとて、生きていれば何もないことなど有り得ない、重大な注意を払うまでもないレベル?! むしろ、その何気なさが、死に至らせる重要な要素。決して遠くない、身近な”死”。自ら手を下すか、宿命の訪れに因るものかの違いこそあれ。”死”を意識しないで生きられる人間はいない。

新潮』(新潮社)と『文藝』(河出書房新社)に発表された小説。
山手線のイメージカラーは、ウグイス色(緑色)。装丁も緑色。
柳美里、直前の小説「」(扶桑社,2007.7)も、実は、”黒”の時代から”白”(東由多加の死、たけはるの誕生)を経て、現在の”緑”状態を描く。
”緑”色の”柳美里”。
結構難しいよね。世間の印象は、柳美里=”黒”。悪、烈しく鮮明に描かれるセックスと暴力、人間の本能、衝動。愛と、その裏側に潜む憎しみ、ドロドロ、酒池肉林!?
ファンの心理。共感を覚え、崇め、縋り、支持してきた読者が求めるのは、”黒”。

人間は、日々変わる。年齢を重ね、経験や知識を重ね、学習して、周囲の状況の変化に順応する。常に同じであることは有り得ない。変化し続けること、それが生きている証し。

劇作家として二十年弱、小説家として芥川賞を受賞して十年。
生きたくなかった。自ら傷付けて、生命を絶ちたかった。
愛し、愛されることよりも、傷付き、傷付けることを求めた。
けれども、決して絶たれることが無かった自らの生命。
自らを好きになることができずに、滅茶苦茶をやって、いつ何時絶たれたとしても不思議ではない生き方をしてきたのに、それなのに、大切な生命が自らの目の前から失われていく。
”わたしの身代りに死んでしまった・・・”

与えられたのは、新たな生命体。
豊かに育つ。わたしを必要とする生命体。
それでも、”そのとき”が訪れれば、何があろうとも、何も無かろうとも、絶たれてしまうのかな?!


ぼくは、宿命を信じる。
死ぬべき時が来れば、死ぬだけ。どんなに抗ってみたところで、宿命に対抗はできない。対抗する必要がない。時期が訪れた、ということだから、無理して生きるべきではない。
生きている今は、生きる宿命にあって、生きる意義があって、生かされている。どんなに辛く苦しくったって、生かされているってことは、生きる意義があるってことで、その意義が何か分からなかったとしても、とりあえず与えられた生命を、人生を生きるしかない。考えたって仕方がない。分からなくったって仕方がない。生きているって事実だけ。与えられて生きるだけ。
ただただ生きるだけ。
ただ生きるだけ。
生きるだけ。








本「虹の彼方に ─池澤夏樹の同時代コラム」池澤夏樹5


虹の彼方に ─池澤夏樹の同時代コラム
over the reinbow
著者: 池澤夏樹
単行本: 278ページ
出版社: 講談社 (2007/9/7)




小説家 池澤 夏樹が、2000年春から2006年末まで、月刊現代(講談社)の巻頭に寄せたコラムを中心に、新聞や雑誌に寄稿した文章が綴られる。
まえがきに、自ら書き記す。
ぼくは自分が政治的な人間だとは思っていない。本業は小説を書くことであり、現実の世界とは一線を画したところで、フィクションという形式を通じて人の心を解くことだ。
それでも、黙っていられない、とばかりに、政治的・社会的に、踏み込んだ理論が展開される。
池澤夏樹は、政治家でも、ジャーナリストでもないから、直接的な訴え掛けをしない。発言の社会的影響力は、小さくはないが、決して大きくもない。
あくまでも自らの経験をベースに、日本国内の各地のみならず、海外を渡り歩いて見に付けた感覚、豊富な知識から語られる言葉。

特に”沖縄”に居を構えて、地域に根付いた生活を長く営んだことによって培われた、文化と歴史に対する考察。
沖縄が、日本列島から、海を隔て、相当な距離があり、独自の文化が形成されていた。
第二次世界大戦末期には、日本国内最大規模の沖縄戦の戦地として、直接的に甚大な被害を受けた。その結果、日本は敗戦国として、沖縄におけるアメリカの支配を受けた時代があった。やがて、沖縄が正式に日本に返還された後にも、アメリカ軍隊の基地は、縮小することなく、極東の軍事拠点として機能を果たし続けている。住宅街の近接地での、軍用機の頻繁な離発着。
それでも、アメリカ軍隊の、経済的効果は小さくない。依存する産業が形成される。
一方、軍隊という組織の特殊性。武装し、戦闘を目的とする集団。銃口を向ける側の人間。手に携える銃に垣間見える、不安、猜疑心、恐怖、、、抑え付けられた力は、やがてエネルギーを蓄え、形を変えて噴出し、巨大になって立ち向かってくる。
世界の覇権国家アメリカテロリズムとの争いに、同じものを見ることができる。


それでも、池澤夏樹は、やっぱり小説家。本業であるフィクションの文章を書くために、世界各地を自らの目で見て、肌で感じて、歴史を文化を、何より人間を、自らを探究する。歴史は繰り返されて、人間には普遍の原理原則があるのであろう。知識と経験を積み重ねることによって、勝手に見えてきちゃうもの。
だから、『虹の彼方に 〜 over the rainbow』♪









本「犬はきらい? わたしを変えたダメ犬サーシャの物語」エミリー・ヨッフェ、佐藤桂 訳5


犬はきらい? わたしを変えたダメ犬サーシャの物語
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書評/ライフスタイル



本が好き!PJ”からの献本。
ダメの物語、を他人事とは思えず、ましてや私自身が年生まれであることが、読みたい衝動を駆り立てた。
しかし、よくよく考えてみたら、犬は怖い。何を考えているのか全く理解できなくて、吠えたてられたりして、もしかしたら噛まれるんじゃないか、とか、飛び掛かられたらどうしよう、などと不安を抱く対象。こちらの恐怖心を見透かされてか、付け入られ、ますます高まる恐怖心。互いの理解の溝は深まるばかり。
子供の頃は、怖くも何ともなかったのに。

アメリカの名物女性ライター、エミリー・ヨッフェ(Emily Yoffe)が、犬好きが高じて、飼育や躾(しつけ)や動物愛護に止まらず、その歴史や文化にまで興味を拡げ、研究者の書物を紐解き、動物病院や博士への取材に勤しみ、日常生活の多くの時間と労力を費やす愛犬たちに纏わるエッセイ集。

ビーグル犬という、ウサギ狩りなどの猟犬として愛玩された犬は、猟を目的としているが故に、都会の家の中での生活には、圧倒的に不向き。優れた嗅覚は、様々なものへの興味を呼び起こし、一心不乱な衝動に駆り立てる。躾どころではないほどに。
”もう、この困ったちゃん!”と嘆いてみても、それでもやっぱり、愛は盲目?!、どうしたっても愛さずにはいられない・・・らしい。

ペットとして人間に飼育される犬は、人間と比べると、の面積が小さい。脳の小ささは、本能の衝動のコントロール機能に、顕著に表れる。一般的に人間は、自己の衝動的な感情を抑制して、冷静な判断を下す能力を有する。
一方の犬は、本能的な衝動に、素直に反応する。その動物的ともいえる衝動的な行動が、飼育者たる人間を困惑させる。飼育には、保護責任だけでなく、管理責任をも有するから、飼い犬の不始末の責任は、飼い主の責任となる。犬には責任能力がない。

遡れば、人間が最も旧く家畜化した動物”犬”。人間が自己の都合や欲求に合わせ、人為的に作り出してきた。








映画「サルバドールの朝」マヌエル・ウエルガ 監督5

映画「サルバドールの朝」salvadornoasa_wall01_10242006年、スペイン映画『サルバドールの朝 〜SALVADOR
http://www.salvadornoasa.com/

1970年代初頭のスペイン独裁者フランコ政権末期、不当な死の判決を受けた、25歳の青年”サルバドール・プッチ・アンティック”。
サルバドールの残された家族は、現在もなお、サルバドールの無実を主張し続け闘っている。真実の物語。

物語の、スペインの歴史的背景として、
軍人フランシスコ・フランコ(Francisco Franco,1892.12.4-1975.11.20)が率いる右派の反乱軍が勝利を収める、1936年から1939年のスペイン内戦に遡る。
左派の反ファシズム陣営である人民戦線政府との争い。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツイタリアが支持した、スペインを二分した大きな歴史的内戦
スペイン内戦に勝利したフランコは総統に就任し、ドイツ・イタリアの支援を受け、軍隊秘密警察による厳しい支配を行い、自由主義運動を厳しく抑圧する。
ほどなく崩壊するドイツ・イタリアのファシズム体制。しかし、スペインでは、実に30年間以上にわたって、フランコの独裁体制が維持され続けた。
その末期。既に、フランコは、高齢のために健康状態が悪化しており、後継者に前国王の孫”フアン・カルロス1世(現スペイン国王)”を指名していた。が、それはあくまでも世論対策であり、政治の実権は、あくまでも腹心の首相 カレロ・ブランコに与えようとした。しかし、ブランコ(名前が似ていてややこしい)は、1973年、民族組織EATのテロにより暗殺されてしまう。
皮肉なことに、その首相暗殺事件が、サルバドールの死刑執行を確実なものとしてしまう。充分な審議も検証もないままに、再審も恩赦も退けられ、残忍な鉄環絞首刑(ガローテ)が執行される。

その後のスペインは、1975年の独裁者フランコの病死後、ファン・カルロス1世により、政治の民主化を推し進め、現在に至る。
かつて、16世紀には栄華を誇り、”太陽の沈まない国”と謳われたスペイン。
後世に遺すべき、歴史的事件。


父親の存在感。
登場するシーンは少ない。何も語らない。実は、革命家の息子を持った父親自身も、かつては政治運動家だった。死刑執行を目前にして、恩赦で生き延びた過去。宿命の連鎖の呪縛。

誰かが立ち上がらなければ、何も変わらない。
独裁政治に自由を奪われ、黙って屈し続けるだけの人生に、何の意味があろう。
しかし、だからといって、銀行強盗や、破壊行為が赦される訳ではない。
力で立ち向かい奪ったものは、いずれ、力に屈服させられる。
それでも、誰かが立ち上がらければ、、、

想いが強いだけに、言葉(セリフ)以外の演技で魅せる。
恋人、姉妹たち、サルバドールの近しい人。自らの政治的想いや願いをも籠めて、懸命に闘う弁護士。サルバドールとの出会いによってに、閉ざしていた心の扉が開かれてしまった看守。
多くを語らず、説明せず。籠められる想い。烈しい憤り、そして、切なく、やるせなく。
多くの人に愛され支えられて迎える最期。

”恐怖は人を壊す”





本「東京・地震・たんぽぽ」豊島ミホ5


東京・地震・たんぽぽ
著者: 豊島ミホ
単行本: 203ページ
出版社: 集英社 (2007/08)



地震(じしん)とは、普段は固着している地下の岩盤が、一定の部分を境目にして、急にずれ動くこと。また、それによって引き起こされる地面の振動。〜Wikipediaより

日常生活に、突然生じる、非日常的な出来事。
非日常の時に垣間見えてしまう、人間の本能的な弱さ、脆さ、醜さ。
確か、「青空チェリー」で、戦争が起きている非日常的な日常生活を描いていた”豊島ミホ”(1982.2.15-)。
十四人が心に抱いた”地震”の物語、十四篇。
ひとつひとつの物語は、短く十数ページにギュッと凝縮されて、大きな余白を残したまま閉ざされる。その余白の大きさが、心地好い。
非日常的な現実の生活の中に、ふとよみがえる記憶。
目の前に横たわる”死”。
それでも一方では、日常生活を普通に生きることも、決して楽ではなくって、時に”戦場”だったりする。
地震によって、便利で快適な日常生活は奪われ、原始的な避難所での共同生活。配給や支援物資を待つ、避難所の学校の体育館。朝の仮設トイレに並ぶ長蛇の列。体育館の冷たい板張りに敷き詰められたブルーシート。必要最小限の荷物、貴重品、家財道具。夜になっても消えない灯り、いびき、寝言、歯軋り。風呂に入ることができず、着替えだって、洗濯だって満足にできない、それよりも先にしなければならない重要なことが山ほどある。汗と埃の臭い。
会社に待機する人、家路に向かう人。交通機関は軒並みマヒしている。大混乱。自らの足で歩くしかない。
連絡手段の携帯電話、固定電話は、満足につながらない。心配される安否。
親兄弟、恋人、妻子。
育児に疲れた妻との生活に擦り減ったサラリーマンの男が、自ら進んで会社待機を希望する「夢を見ていた」。妻と子供に連絡は取れないから、安否の確認はできない。もしかしたら、被災しているかもしれない。二度と逢うことができないかもしれない。それでも、オフィスの高層ビルから見下ろす街は大混乱で、急いで帰宅したとしても、出逢えるとも限らない。それも宿命かと。非日常的な緊張が、若い女性スタッフを動揺させ、何だか妖しげな雰囲気に。それでも想う、
誰が相手だろうと、結婚生活だの不倫だのが劇的にうまくいったりすることなどないのだ。擦り減らないでするすると逃げるように生きていくことなんて、多分できない。
それが現実、仮に非日常であっても、その現実に相違はない。
そんな一方で、最愛の恋人への、まだまだ熱かった想いが突然に断ち切られ、悲嘆に暮れた歳月を経て、事故現場を訪れる機会がやってきた「いのりのはじまり」。そう、
あたしは優基に向かって泣いているんじゃなかった。恋人に死なれたかわいそうなあたしに向かって、えんえんと泣いているのだった。









本「海に帰る日」ジョン・バンヴィル、村松潔 訳5


海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)
著者: ジョン・バンヴィル
訳者: 村松潔
単行本: 255ページ
出版社: 新潮社 (2007/08)



新潮クレスト・ブックスシリーズ。
信頼に足る新潮社が、”海外のもっとも優れた豊かな作品を紹介するシリーズ”と謳う。
保守的論調を、つまらない、と感じるか、安心できる、と感じるか、好みの分かれるところではあろうが、揺るぎない特長を有することは、即ち大手の特権。歴史と実績に裏打ちされた風格。
理解、判断能力に不安を抱える者としては、大きな選定基準。

という訳で、全てを委ねて、安心して読書に勤しんだ、
2005年ブッカー賞受賞作品、ジョン・バンヴィル(1945年、アイルランド生まれ)の”海へ帰る日 − The Sea ”。

年老いた男の、幼少の頃からの記憶の物語。
最愛の妻を亡くし、自らの生命も先が長くないことを感じている。
母なる海。
子供の頃に感じた、今となっては恥ずかしいほどに生々しい記憶の数々。
そうそう、まだまだ幼く、愛も性も何も理解し得ない頃、ドキドキと胸打つ密やかな想い、年長の女性の、普段は衣服に隠された体のパーツ。だからどうということのない、何の意味も有しないような記憶。
それでも、現在の自らを形成する要素のひとつ。直接的な関連性を有していない事柄も、唐突に湧き起ったかのような出来事も、長い歳月を経て、なお鮮明な記憶としてよみがえるには、それなりの理由があろう。

正直なところ、読むの精一杯で、内容がどうの、表現がどうの、好いも悪いも、何もかにも、よく分からない。
それでも、この作品が世界の文学界で高い評価を受けた。








本「華道界のプリンスが直伝する 美的生活のヒント」笹岡 隆甫5


華道界のプリンスが直伝する 美的生活のヒント
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書評/芸術・美術



本が好き!PJ”からの献本。
八十作品以上の献本を受けた今でも、緊張の瞬間。自己嫌悪と開き直りの攻防。ほとんど、開き直りばかりではあるが。

美しく生きたい!、と強く願う。
”美的生活”の”ヒント集”。
「たまには立ち止って、一輪の花を愛でませんか」とオビに記される。
日本の伝統”華道”界のプリンス(未生流笹岡次期家元)”笹岡隆甫”は、1974年、京都生まれ。エリートと呼ぶに相応しい、京都大学工学部卒業、大学院中退。父親は数学者(大学教授)、母親は家元の長女に生まれ、副家元を仕える。三歳にして、祖父の家に養子入りし、次期家元としての英才教育を受ける。


花束は、贈る行為に意義があって、贈った行動に私の満足感が満たされ、その後の”花”の存在に一切の興味を持ち得ない。すぐに萎れて、枯れてしまう、儚い生き物なのに、見た目が華やかで、プレゼントすると喜ばれる。重宝する小道具。

歳を取ったのかな、自らの欲望のみを満たす小道具として使う機会を失って久しく、時折、道端の花に目を奪われる。カメラを向ける被写体としての”花”。
そう、”顔”がある。
沢山咲き誇る花畑の中、目を凝らして見ると、それぞれに表情がある。いい顔をした花に出逢う歓び。角度を変えると、また異なる表情を見せる。光の加減によっても、表情を変える。一番美しく輝く表情を収めたい。
カメラに収める時には、背景や配置、構図にまで気を配る。美しさが最も引き立つように。


美的生活のための数あるヒントの中に、僕の中の男の子が反応した、”競争原理”と”免許のしくみ”。
美しくあるためには、やっぱり厳しいリアルな現実的な側面の理解が欠かせない。現実社会において、美しく生きるのだから。
元来、上流階級にのみ門戸を開かれていた文化”いけばな”が、江戸時代後期に一般庶民に受け入れられるようになった。門戸が開かれ、多くの流派が発生した。
日本の伝統文化であっても、公的な保護など無いから、生き残るための努力。経済活動。世の中に受け入れられないものは、存続しない。正しく強いものが残るのではなく、残ったものが正しくて強い、のである。
組織が活動するには、お金が必要であり、組織の運営費としての”免許の申請料”。
メディア活動も、組織運営と、発展のための広報活動の一環。


美しい生活を送るためには、キレイごとだけでは済まされない、リアルな現実の理解も必要であろう。








本「既にそこにあるもの」大竹伸朗5


既にそこにあるもの
著者: 大竹 伸朗
単行本: 333ページ
出版社: 新潮社 (1999/07)



僕の心のヒリヒリを覚醒させるために、本を読む。
読書は、一種のドラッグ依存症
日常の些細なひとつひとつに神経が逆立つ。破壊行為の衝動に駆られる。
意識を覚醒させて、現実から逃避して、目を瞑り、耳を塞ぎ・・・ そして、保たれる均衡適応障害
社会生活を当たり障りなくこなして、生活の糧を得なければ、生きていけない。現実は厳しい。
何故に、僕は生かされているのか?!


芸術家アーティストエッセイ集。
先日読了した著作、椹木野衣なんにもないところから芸術がはじまる」から生じた、新たな興味。何度も大きく取り上げられていた、現代美術家”大竹 伸朗”(おおたけ しんろう,1955.10.8-)、東京都目黒区出身の画家。1988年より愛媛県宇和島市に移住し、活動の拠点とする。
2006年、東京都現代美術館で開催された大回顧展「大竹伸朗 全景 1955-2006」に作品の一部を見る。

芸術(art)”をWikipediaによって紐解くと、
”表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。とりわけ表現者側の活動として捉えられる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情、など様々。”

表現者が、表現物に籠める想い。
表現するには、それなりの理由、動機があろう。突き詰めていっても、分からない、感覚的なものなのであろうが、世の中的には、そうは問屋が卸さない。売れない芸術家であれば、自己満足の世界で、一切の説明も解釈も必要とされないが、世間から認知され、注目を浴びたとなると、世論は黙っていない。評論家の論評。おのずと、対外的なプレスにさらされる。
それ以前に、天才であるが故の、深い深い内側への探究を既に経ているのであろう。その衝動を、正確な言葉で表現することが困難であっても、伝わる”何か”がある。
そう、天性の表現者なのである。
凡人を超越した表現力、感覚に、理解が及ばなくっても、それは当然のことで、仕方がないこと。それでも案外、普通に分かり易いシンプルな解釈をしていたりする。
理解し得ないことを前提として、あくまでも雰囲気を愉しんだ時に、ふと垣間見える”何か”。
もう少し、芸術に触れてみよう♪








本「ボロボロになった覇権国家(アメリカ)」北野幸伯5


ボロボロになった覇権国家(アメリカ)
著者: 北野 幸伯
単行本: 269ページ
出版社: 風雲舎 (2005/01)



僕の中の女の子が”虚構の恋愛物語”を好み、
僕の中の男の部分が、リアルな現実の文化、歴史、世界情勢の情報を欲する。

参画させていただいている”本が好き!PJ”にて、著者の新刊本「中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日 一極主義vs多極主義(草思社)」の情報を得るも、残念ながら抽選を逃した。早速読了したメンバーの書評がアップされ、一気に盛り上がる、著作と著者に対する興味を抑え切れない。
という訳で、すぐにゲットできた前作「ボロボロになった覇権国家(アメリカ)」から。

著者”北野幸伯”は、1970年生まれ、国際関係アナリスト
1996年に日本人初のロシア外務省附属モスクワ国際関係大学(MGIMO)を卒業。卒業生の半分は外交官、半分がKGB(ソ連国家保安委員会)に、といわれるエリート養成大学らしい。卒業後、カルムイキヤ自治共和国大統領顧問を経て、日ロビジネスコンサルティング会社を設立。モスクワ在住。

2005年の発売の本だから、約三年前の情報。
決して色褪せていない。
で、笑っちゃうほどに分かり易い。
主権国家外交の目的が国益の追求にあり、国益とは”金儲け”と安全の確保である。
と、すっかり”平和ボケ”して、独立国家としての機能を果たしていない”慈善団体”日本国と、日本人に、世界情勢の歴史を分かり易く辿って、”今世界で起こっていること、今後起ころうとしていること”を説く。

大切なのは”分析力”。
ある事件に対する”見方”であり、”考え方”。
世界で起こるさまざまな事件の裏にある真実の動機。
情報の源と下流では、その内容がまったく異なる現実。組織の構造。
だから、「特定のイデオロギーを盲信しないように気をつけなさい」と教育されるロシアプーチン大統領のブレーンたち。彼らは、イデオロギーは目的のために利用するものであって、信じるものではないことを知っている。「一方的な見方をしてはいけない。真実は立場によって異なるから、多角的な見方をするようにしなさい」と繰り返す。


ロシアは、やっぱり大国なんだ。
日本だって、第二次世界大戦で大敗するまでは、世界の荒くれ者として国益を追求してきた歴史がある。
でもまぁ、「折角だから、このままノラリクラリがいい」などと訳の分からない”超平和ボケ”ぶりのままに、
「では何故に、新たな著作を書き記したのか?!」
どうなる世界情勢!?








展覧会「ムンク展」国立西洋美術館5

展覧会「ムンク展」国立西洋美術館 表エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch,1863.12.12-1944.1.23)は、ノルウェー出身の画家。
時代的には印象派の少し後。
表現主義的な作風。

もっとも有名な作品『叫び Skrik』(1893年,油彩絵)は今回不在ながら、代表作108点の展観は、その生と死、喜びと絶望、不安、孤独、嫉妬、愛、、、烈しい”人間の魂の叫び”に溢れる。

<生命のフリーズ>は、全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画としてかんがえられたものである
  −エドヴァルド・ムンク「生命のフリーズ」より

展覧会「ムンク展」国立西洋美術館 裏1868年、五歳の時に母を病気で亡くし、姉と弟も若くして死ぬ。1889年、二十六歳にしてフランスに留学すると、父も死去してしまう。常に身近に漂う「死」。
何人かの女性と交際するも、生涯独身を通す。友人の妻、人妻との叶わぬ愛。数年ぶりの再会を果たした元恋人とは、トラブルから発砲事件を起こし、左手中指の関節の一部を失う怪我をする、1902年の夏。精神の不安定を訴えはじめ、アルコールに溺れるようになる。
1909年にノルウェーに戻ってからは、徐々に心身の健康を取り戻し、晩年は目を患うも、明るい色彩の作品も見られるようになる。
第二次世界大戦中の1944年、80年の生涯を閉じる。

作品には、うつ病で療養中の妹が描かれる。
交際した女性たちも作品に描かれた。向かって左側に白い朗らかな婦人、一方の右側の婦人は黒。叶わぬ愛「声/夏の夜」。海に映る月明かり。

晩年、故郷オスロの公共施設に描いた壮大な壁画作品。
それまでには、個人宅の装飾画を描くも、時に受け取りを拒否されてしまう。確かに、子供部屋の壁に、緑溢れる自然の公園はいいけれど、抱き合う男女は、よろしくない。抱き合う男女は、自然な行為で、彼にとっては描かずにいられなかった?、まぁ、依頼する方も依頼する方だとも思うが。表現主義特有の、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現した作品の数々に囲まれた生活(特に寝室!?)は、ちょっと想像できない。
だから、オスロ大学講堂の壁画に溢れる、人間の英知と悠久の歴史、明るい未来。海を見下ろす小高い丘の上で、少年に語りかける老人。人生を乗り越えてきた先人が、後世を担う若い世代に口述する、”歴史”。そして、緑豊かな山の合間からのぞく海から、今まさに昇らんとする神々しい”太陽”。力強くキャンバスいっぱいに溢れる光が照らす、未来、永遠の力。
オスロ市庁舎の壁画には、力強い労働者の漲る躍動感。真っ白な雪の中にあっても、筋骨隆々の肉体美、生きる力。

豊かな晩年を見届けられて、ホッとした。






ある意味では、オススメできないのだが、国立西洋美術館の常設展がスゴイ。
流石、日本国の西洋美術の美術館を名乗るだけある。

本「メタボラ」桐野夏生5


メタボラ
著者: 桐野夏生
単行本: 594ページ
出版社: 朝日新聞社 (2007/05)



「だけど、いつまでも変わらないものなんて、あるかな」
僕は反論した。愛情は変質する。家族は消滅する。人は死んでいく。空も海も毎日違い、この世には絶対変わらないものなんてない。何より、僕自身が日々変わっていた。・・・

桐野 夏生(きりの なつお,1951.10.7- )が、2005年11月〜2006年12月、朝日新聞に連載した長篇小説。沖縄を舞台に、現代社会が抱える問題、フリーター二ート引きこもり下流社会家庭崩壊請負労働(偽装請負)バックパッカーゲストハウス集団自殺などを、若者の視点から描く物語。タイトル「メタボラ」は、メタボリズム(METABOLISM,新陳代謝)からの造語。
舞台が沖縄だけに、マイノリティー(社会的少数者)にも触れる。ウチナー(沖縄人)と、ナイチャー(本土)の隔絶。

物語は、記憶を失った”僕”が、深い森の中を彷徨う場面から幕を開ける。氏名や身分、出身など、全ての記憶を喪失している。何が起こったのか?、状況は全く分からないながらも、それでも生きていかなければならない。無一文で、携帯電話も、荷物ひとつない。どうやら、何かから逃げているらしい・・・
なんとかなるもんだ。偶然、真っ暗な山道を下りてくる懐中電灯の光、若い男。初めて出逢った若い男には、記憶喪失だって話したけれど、山を下りて、誰かを頼って日常生活をするには、記憶喪失は上手くない。不審がられて、気味悪がられて、助けてもらえない。傷を負って、血を流していたから、事件に巻き込まれている可能性もあって、迂闊に警察や役所に助けを求めることもできない。
幸いにして、コンビニの女性店員、街の見知らぬ人、物静かな孤独な老人など、色々な人々の好意を受けて、何とか自立した生活を営む。どんなに親切を受けても、決して明かすことができない身分。自分自身が何者で、何をしてきたのか、一切分からないから、下手なことを言えない。まして、記憶喪失だなんて言えない。言ってしまえたら、打ち明けられたら、どんなに楽であろう。だから、どんなに酷い仕打ちにだって、黙って耐えるしかない。
漂う緊張感、垣間見える現実社会の現実、歪み、それぞれがひっそりと心の内に抱えている、それぞれの事情。何も問題を抱えていない人間など、この世には存在し得ない。抱えている問題が大きいか、小さいかの違いこそあれ。そして、その自らが抱えている問題を解決するのは、自分自身でしかない。誰も解決してくれない。自分自身が、自らとの対峙を果たして、本質的な解決を図り、自らが変わらなければならない。変わる必要があるから、問題が生じているのだ。自らが問題を受け容れて、本質的に変わる努力をしなければ、問題の解消は有り得ない。表面的な、小手先だけの対応では、問題の先送りでしかなく、やがて雪だるま式に根深く巨大化し、取り返しがつかないほどに困難な状況に陥る。
だから、”メタボ”らなければ!









本「黒」柳美里5



著者: 柳美里
単行本(ソフトカバー): 208ページ
出版社: 扶桑社 (2007/7/21)



おれのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)はただひとつ・・・柳美里の一員として創作活動をつづけること・・・二人三脚で・・・いっちにッ、いっちにッ・・・
二〇〇〇年四月二十日に、五十四年の生涯を閉じた”東 由多加”は、今現在も、小説家”柳美里”の創作活動に、日常生活に携わる。十五歳の少女の頃に出逢い、共に過ごした歳月、記憶。

今現在の小説家”柳美里”は、”緑”。
2007年4月には、初の児童書を出版し、ますます創作活動に勤しむ。
”やなぎたけはる”という、自らの腹を痛めてこの世に生み出した生命体を得て。たけはるとの生活は、時に自らの幼少の頃の記憶をよみがえらせる。今現在の自らを形成するに至る過去の記憶。

壮絶な癌との闘いの末に、”東 由多加”がこの世を去って、経過した七年の歳月。新たな記憶が上書きされることはない。
日々積み重ねられる日常生活、埋もれ行く記憶。一方で、鮮明に自らを支配する記憶。決して消え去ることがない記憶。

二〇〇〇年四月二十日の”白”を迎えるに至る、一九九五年二月一七日、”黒”。
運命の分かれ道。
人生に”もしも”はない。今現在の現実の実体が全て。過去を振り返って、どうにかなるものではない。どんなに悔いても、過ぎ去った歳月を取り戻すことはできない。
それでも、それだからこそ、自らの心の内に深く刻み込まれる。
あまりにも鮮明な記憶に、そっと寄り添う愛猫”クロ”。クロの命日、一九九五年二月二十七日。
一九九五年二月一七日、本日は晴天なり、本日は晴天なり。








本「「十九の春」を探して ~うたに刻まれたもう一つの戦後史~」川井龍介5


「十九の春」を探して うたに刻まれたもう一つの戦後史
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書評/ルポルタージュ



本が好き!PJ”からの献本。
戦争沖縄娼婦、のキーワードに反応した。
正直、ジャーナリストと呼んでいいのであろう(?!)、著者”川井龍介(1956- )”が強く惹かれた”十九の春”という”うた”そのものに興味は抱けなかった。読む前も、読んでいる最中も、読み終えた後にも。だから、川井龍介がテーマとした謎が解かれることはなかったのだけれども、むしろ、謎の探求目的で辿った事柄に抱かれた興味が、大きく満たした満足感。心地好い氷解。

歌曲”十九の春”は、バタヤンこと田端義夫(1919.1.1- )が、1975年(昭和50年)に、奇跡のカムバックとも言われる大ヒットを飛ばした歌。それ以前にもプロアマ問わず多くの歌い手に歌われ、歌い継がれてきた名曲。奄美諸島出身の島唄の名歌手”朝崎郁恵”も近年歌っている。朝崎郁恵の口から語られた幼少頃の記憶、
「父親がつくったうたと、すごく似ている」
そして、その”嘉義丸(かぎまる)のうた”が生まれた背景にある、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に、貨客船”嘉義丸”が、奄美大島名瀬沖で、アメリカの潜水艦による攻撃によって沈められた事故(事件)。多くの犠牲者に対する鎮魂歌。辛い母子の生き別れ。歌わずにいられない。歌に籠められた想い。著者は、サウダージを引用する。郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などを意味するポルトガル語。

謎を解く手掛かりを求めて巡るルポルタージュ
むしろ、巡る中で出会った興味深い出来事。貴重な歴史や文化の記憶が紐解かれ、後世に記録として遺すべき使命感。決して目新しい出来事や記憶ではないのであろうが、切り口が変われば、目にする人種が変わり、より多く幅広い人々の記憶に刻まれる。


沖縄を中心とする南洋の島々の歴史、文化。日本列島から海を隔てて独立しているために、形成された独自の文化。
戦後の高度経済成長による都市部への一極集中が確立するまでは、海洋国家に地の利はあった。陸続きの大陸の陸路の優位性は、交通機関(鉄道、自動車、飛行機など)の整備前にあっては、海路に劣った。
海路の整備は停泊する港のみ、通路の整備は一切不要。
一方の陸路には、野山を切り開く長距離の道路整備が必要とされる。移動は人力、徒歩。物資の運搬は人力または、動物、荷車、いずれにしても大量の運搬には不向きであろう。
海路においては、頑丈な造船技術を有すれば、人力を要することなく、少ない人員で、大量の物資の運搬が可能である。
旧く1908年(明治41年)には、大阪から鹿児島を経て、奄美諸島に向かう定期航路が開かれていたという。

折しも、太平洋戦争によって、最前線の基地とされた沖縄周辺。やがて終戦を迎え、日本が敗戦の後には、アメリカの支配下に置かれた沖縄。
戦地として大きな傷を受けた沖縄が、アメリカの支配を受けることによって、アメリカ軍の経済的な恩恵を受ける。賑わう街。
日本との終戦の後も、沖縄を基地として引き続き戦争を続けるアメリカ。戦争に駆り出される多くの軍人。軍人のストレスの対価として支払われる貨幣は、戦時下における異国の地にあっては、遣い道が限られる。軍人の行動の自由は、絶対的な制限を受ける。それでも、溜まったものは放出されなければならない、人間の生理現象。精神的なストレスであり、生理的な欲求。
元来、海洋王国としての歴史、文化を有するものの、小さな島であるが故に、その発展にも豊かさにも、絶対的な限界はあったのであろう。
だから、時流に乗って見せた賑わいは、あくまでも流行でしかなく、歳月の経過とともに、本来のあるべき姿に収束する。

戦後の沖縄県の戦争未亡人は55%にのぼり、本土の15%を大きく上回る、というデータがある。色濃く残る沖縄戦の影響。男手を失い、それでも残された子供を女手一つで育てなければならない。戦後の混乱期。現代のように、会社組織が機能して、勤め人(サラリーマン)が大量に求められる状態ではない。
人間社会における最初に発生した職業”娼婦”を業として選択する女性がいたとしても、全く不思議はない。人間の本能の欲求。男(オス)の生理。需要があるから、求められる供給。
貧困から、必要に迫られる者。貧困が解消された後にも、飽くなき欲望を抱き続ける者。満たされることがない心。もっともっと、限りなく求め続ける、果てしなき欲望。
日本では、1956年(昭和31年)に施行された”売春防止法”。

そんな人間の本能的な欲望を満たすためにも、均衡を保つためにも、不謹慎かもしれないが、時に戦争も必要とされるのかもしれない。
賢くなりすぎて、技術が発達しすぎて、戦争をすることもできなくなってしまった、現代の日本。

日本人は優秀な民族であり、歪みを有しない社会は有り得ないから、杞憂に終わるのであろうが、人間の普遍の原理原則から考えるに、不自然さは否めない。








本「栗林忠道からの手紙 硫黄島指揮官がいま私たちに問いかける、「忘れられていた日本人という生き方」」週刊現代編集部5


栗林忠道からの手紙 硫黄島指揮官がいま私たちに問いかける、「忘れられていた日本人という生き方」 (講談社MOOK 週刊現代ムック)
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書評/歴史・記録(NF)



本が好き!PJ”からの献本。
2006年公開のアメリカ映画「硫黄島からの手紙」に描かれた、太平洋戦争末期に小笠原諸島硫黄島における日本軍アメリカ軍との「硫黄島の戦い」の守備隊総司令官を務めた軍人栗林忠道”。
映画公開の後に”栗林忠道”人気が再燃し、何と生家からは”百年のときを経て蘇る忠道の素顔”を窺い知る、手紙や日記などの資料三百点余りが発見された。

仏壇に供えられているという、忠道が愛飲した英国産ウイスキー”ジョニ赤”。蝋で封印された栓に閉じ込められた琥珀色。朽ちかけた旧いラベル。写真が物語る歴史。

長野県松代の元郷士旧家に次男として、1891年(明治24年)に生まれる。豊かな自然に囲まれた城下町村落で、のびのびと、しかし勤勉に育つ。11歳年上の兄を慕い、日露戦争の騎馬兵としての活躍に大きな影響を受ける。一方で、八人の兄弟姉妹のうち、五人が早世し、深い哀しみ。
寝る間を惜しんで勉学に勤しみ、英語を嗜み、優秀な成績を収めた忠道は、軍人と、海外周りの報道記者の進路に迷うも、兄の勇姿の影響か、軍人の道を進む。軍人としてのエリートでは無い忠道は、陸軍軍人として海外を巡り、ますます国際的な幅広い見識を有し、文学的な手紙をしたためる。エリート軍人にありがちな偏りのなさが、「太平洋戦争における優秀な指揮官」として日米両方から高い評価を受ける一因とも。

貴重な資料を、作家評論家研究家らが紐解く。
豊富な資料と、関係者のインタビュー、様々な角度からの考察。
付録のDVD、映像と共に語られる”栗林忠道”。

幼少の頃の微かな記憶を、涙ながらに語る身内の老人。
偉大な人物が、この世に遺したモノの発見によって、あらためて蘇り語り継がれる記憶。日本の歴史の物語。

合掌。








本「愛その他の悪霊について」G・ガブリエル=マルケス、旦敬介 訳5


愛その他の悪霊について
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書評/海外純文学



憧れだけで読んでます。

ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel José García Márquez)は、1928年(1927年?!)生まれ、コロンビア作家小説家。1982年、ノーベル文学賞受賞。
祖国コロンビアは、40年以上も内戦が続いている。独裁者革命家、目の当たりにし、振り回される民衆、日常生活。
一方、家庭の事情から、父母と離別し、退役軍人の祖父と、旧い迷信や言い伝え、噂話し好きの祖母、叔母たちとの生活を送った幼年期。口述された、戦争体験や近所の噂話、土地に伝わる神話や伝承は、深く記憶に刻み込まれ、やがて、マジックリアリズムな物語を生み出す。

だから、76歳の1994年に発表された本作「愛その他の悪霊について」の源が、ほぼ半世紀前の昏倒するような記憶、1949年10月26日、ボゴタ大学に入学するも、暴動(ボコタ騒動)による大学の閉鎖などを経て中退し、駆け出しの記者として働いていた新聞社の編集長からの指示で、駆け付けた”サンタ・クララ修道院”の地下納骨堂で行われていた遺骨撤去作業現場にある。遺骨は、司教、女子修道院長、副王愛人教母侯爵夫人、そしてそして、二十二メートル十一センチの見事な赤銅色をした生なましいみだれ髪をあふれさせる少女の亡骸。二百年間の埋葬の間も毎月一センチずつの成長を続けたのであろうと平然と語る工事主任。よみがえる祖母から聞かされた伝説の物語。数々の奇跡を行ったとして大いに崇められていた、長い髪を花嫁衣装の尾っぽのようにひきずる十二歳の侯爵令嬢は、狂犬病で死んだという、カリブ地方の村々の伝説。


侯爵の家族は、人々の注目を浴び、何かと噂の的となる。
狂犬に咬まれた十二歳の侯爵令嬢に表れた悪霊憑きの徴候。
娘に深刻な状況(狂犬病、死)が差し迫っているのに、全く他人行儀な父と母。彼らは、娘を愛していないし、愛されていないことを明確に認識している。むしろ、互いに憎しみすら感じている。それぞれに受け継がれた人生。名誉も地位もあるが故に、自由奔放と見せ掛けながら、歪みだらけ、親兄弟身内をも絡めた私利私欲に塗れたドロドロな人生。互いが同じ処に居ることすら受け容れ難い苦痛。苦痛すら宿命。雁字搦め。
婚姻関係に基づく夫婦であっても、血縁関係を有する親子であっても、それぞれに固有の人格を有した人間。それぞれの事情がある。庶民も、奴隷も、侯爵も、同じ人間、とどのつまりは大差ない。









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