Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2007年11月

本「笑いの方程式 −あのネタはなぜ受けるのか (DOJIN選書010) 」井山弘幸5


笑いの方程式 −あのネタはなぜ受けるのか (DOJIN選書010)
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書評/サイエンス



”豊かに広がる知の森のナビゲータ、”DOUJIN選書シリーズ第十弾、制覇まであと三冊(今月新刊の二冊を含む、以降奇数月に二冊刊行予定)、止められない止まらないカッパえびせん
キッカケは”本が好き!PJ”、自腹で参画。
知らなくても一向に困ることはない(うん、全く困らない)けれども、知識として備えていることによって直接的には目に見えない、人間というか人類(ヒト)というか動物というか生物というか、もっとミクロにであり遺伝子でありニューロンであり、、、根源的な本質的な法則性というのか、僕を構成する重要な”何か”がテンコ盛り、ごっつぁんです。

ホントに科学の分野は果てしが無い。
お笑い”さえもが学問となり、ましてや大学の授業として研究材料となるなんて、確かに大衆芸能とも呼ばれる”お笑い(演芸)”は、伝統芸能から端を発する芸術の一分野。
メディアに広く露出している現役お笑い芸人(一部は既に解散している)の、素のままの”ネタ”を、そのロジックとテクニックを余すところなく文字情報として”言葉”を公開し、形態分類構造分析をする、まさに科学。

広く世の中に受け容れられて、多種多様に発展し続ける娯楽(エンターテイメント)芸能。
なるほど、Wikipediaには、
”広義では人工的かつ合法的で全年齢の人々の感情に働きかけ、何らかの感動を起こさせるコンテンツ、装置で「楽しむ」をタグラインにしたビジネスのことであり、人間の生活に無くてはならない、人間の初歩的に欲望する、基本的な感情「楽しみたい」という欲求が生む装置産業のこと。〜Wikipediaより”
うん、ネタが儚く消え失せてる現状を黙って見過ごせない著者の心情、心意気に納得!?

テレビや新聞などのマスメディアから遠ざかって久しい僕(ネットのみ)でも、それ以前は家族が見ているテレビを見るともなく眺めていたりした訳で、本書に公開されている少し以前のネタなどは、何となく記憶にあったりするけれど、とどのつまりが”お笑い”に対してその程度の興味しかない。
それでも、それだから、”お笑い”に秘められた、僕が日常的に使っている”言葉”のロジックやテクニックの科学的側面に大いに興味が抱かれる。
ちなみに、方程式や難解な数式は一切登場しない、至極読み易い。


≪目次:≫
 第1章 言葉の戦場
     ダジャレの世界・同音異義・類音変換
 第2章 日常は笑いの宝庫−形式と間仕切りの新しいスタイル
     自讃ネタ・自虐ネタ・あるあるネタ・コンビが演じるあるあるネタ
 第3章 すれ違う人生、取り違える世界
     アンジャッシュの世界・勘違いのシナリオ−憚りのある話・現実と妄想の結合
 第4章 シュールはお好き?
     非現実的なシュール・不安定な言語体系・ありえない事態―ラーメンズのシュールコント・シュールのタイプは?
 第5章 笑いのボケビュラリー−まだある笑いのテクニック
     反復・ずれ下がり・逸脱・針小棒大・唐突なリアル

井山弘幸≫ 1955年静岡県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。新潟大学人文学部教授。専門は科学思想史、科学基礎論。








本「カンバセイション・ピース」保坂和志5


カンバセイション・ピース (新潮文庫)
著者: 保坂和志
文庫: 498ページ
出版社: 新潮社 (2006/03)




風邪をひいて2〜3日寝込んだ末に治って、めでたく終わりを迎える長篇物語。
なるほど、”記憶が織り成す濃密な時間が、過去と現在をつなぎ、生と死がともに息づく”、と評される保坂和志の長篇小説は、それを表すのに必要とされた文章量(文庫本 498ページ、単行本 410ページ)を費やして綴られるのだけれども、ストーリーとしては何事もなく過ぎ行く、世田谷にある旧い大きな家をベースに日常生活が描かれて、それは今現在暮らしている妻と三匹の猫と妻の姪であり、今現在そこを事務所として間借りする友人の会社の三名の男女が日常的に出入りしていて、そしてその家は昭和23年に大勢での共同生活をイメージして叔父が建てた家だから、そのせいもあって、かつてそこで暮らしていた従姉兄たちもどやどやとやってくるんだけれども、奇想天外な事件も出来事も一切起こらない。特に気ままで猫好きなフリーの小説家が描く物語だから、途中には横浜ベイスターズの応援に日々足を向ける野球談議が続き、かと思えば、仕事もしないでひとりブルースを奏でる友人(経営者)と従業員たちの会話にだって緊張感など漂うハズもない。

ホントに何にもない穏やかな展開に、正直呆気に取られて、なかなか読み進めるのが困難で、数冊の併読を続けながらの読了。決して一気に軽快に読み切れる著作ではないけれど、ちょっと待ってね、一気に読み切れる著作がイコールいい著作とは限らなくって、むしろ海外の評価の高い文学作品などの翻訳本(言うほど読んでないけど)は、これほど愉しくなくて読み辛い本はないんじゃないか、と何度も思わされてきたけれど、それでもなるほど読み終えて感じる”何か”があるような気がする(気のせいだけかもしれないけど)もので、明快にズバリ分かり易いことは、裏を返せば軽薄で入り込み易い分だけ記憶に留まることもなかったりして、だから目玉となるような事件や出来事なくして長々と綴られるから物語だからこそ描ける、一軒の旧い歴史が刻まれた大きな家に、今現在集う人びとと、かつて集った人びとの、それぞれが積み重ねて何処かで交錯し合い織り成される時間と記憶の数々。幾層にも、これでもかこれでもかとばかりに積み重ねるからこそ深まる味わい。漂わない緊張感が醸す、穏やかで安らいだ豊かな感情、幸福感。
悪くない。








本「聞かせて! 恋ってお金のかかるもの? −いまどきの恋のコスト感覚」5


聞かせて! 恋ってお金のかかるもの? −いまどきの恋のコスト感覚
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書評/



本が好き!PJ”からの献本、いつも感謝。

僕は”幸せ”だよ、うん、幸せだ、幸せだな〜、悪くない。
僕にとっての”幸せ”の定義って、不幸せじゃないこと。不幸せじゃなければ、幸せでしょ、幸せだよ充分に。生きていれば、楽しくないこと、苦しいこと、辛いことって少なくない。逆に、愉しいこと、嬉しいことって、そんなに多くない。
幸せって、自分自身の心の在り様だから、自分自身が定義すればいい。
特別なことなど何もない日常生活。淡々と過ぎ行く日々。曇った日の穏やかな感覚、スッキリ晴れた日の晴れやかさ、雨の日は静かに過ごせばいい、晩秋には木々が紅葉し散り行く葉っぱを眺めて来るべく冬支度を感じる季節の移ろい、毎日がまるで同じように感じても同じことなど何もない、全てが異なる瞬間瞬間、目で耳で鼻で心で感じて。風邪をひくのだって、何かのサイン?!、弱った体と心、アクセルを緩めて。

不幸せなことなど何もない。
不平や不満や憤りを感じたって、よくよく自らの心に問い掛けをすれば、おのずと答えは見えてくる。逸る心を抑えて、静かに穏やかに冷静な公正さを胸に、あくまでも客観的に。
例えば、風邪をひいてしまって腹痛と吐き気と悪寒に苦しむ僕。不安で心細い、誰かに頼りたい。ところが僕は、ひとりで生きていく生き方を選択した。協調性を保ち、共同生活を営む努力を放棄した。それは自らが、様々な選択肢の中から熟慮の上で、自らの意志で選択した。この期に及んで、都合のいい時にだけに、自分だけの都合による勝手など許されまい、自己責任。
有難いことに、仕事(休まないのが信条)ではSOSに快く応援してもらえて、定時過ぎに早々に帰宅して、あったかいお粥を食し、普段なら仕事をしている時間に布団に入ることができた。たっぷりの睡眠に、苦痛も随分と和らいだ。全くもって”幸せ”じゃないか。支えてくれる仲間がいて、命を落とすことなく、こうして今も生きていられる。結構人間なんて、コロッと死んじゃう儚い生き物だから、その時はその時なんだろうけれど、だからこそ生きている時くらいは、できるだけ苦しい思いや辛い思いをしたくない、惑わされたくない。

心の内に溜めないで、放出する(吐き出す)ことの重要性。
喋って、語って、書き記して、方法の如何を問わず、心の中から放出する時には、何らかの形にする作業が介在する。考えることをせずに放出することはできないから、絶対的に自己との対峙、内省の必然が生じ、放出して外界との接触によって保たれる客観性。
その方法は人それぞれだろうから、本書のようなネット上のQ&Aサイトやお悩み相談に寄せるもよし、知らない相手だからこそ気兼ねなく打ち明けられる面があろうし、友人との気ままなお喋りに耽るもよし、互いに自らが喋ることに夢中で相手の話しなど聞かないスタイルによって発散されるストレスだって見過ごせない、人それぞれ状況や事情によって使い分けだって必要とされよう。
だから、社会性や協調性が低く、良好な人間関係の形成や維持を不得手とする僕にとっては、書き記すことが、その重要な作業、保たれる心のバランス。
うん、僕は幸せだ。








本「ハル 2 哲学する犬からの伝言」クォン・デウォン、蓮池薫 訳5


ハル 2 哲学する犬からの伝言
著者: クォン・デウォン
絵: Barunson
訳者: 蓮池 薫
単行本: 157ページ
出版社: ポプラ社 (2007/11)




ありがとう、”コンちゃん”さま♪
おもむろに「読む〜?」で、拝借した。

しばらく風邪気味だったんだけど、いよいよ昨夕からは腹痛に襲われるようになり、それでも哀しき企業戦士、帰りたくても帰れない。早目に帰って「あったかいうどんでも食べて体を温め胃を休めて」などと目論んだところで、押し寄せる仕事に気が付けば、どこもお店はやってない時間に。普段の行いが悪いと、こういうときに如実に表れちゃう。やっぱり電子レンジくらいは調達しておくべきだった、ガスコンロが使えるようにしておくべきだった。腹痛と吐き気と関節の痛みに、とてもとても集中して考えを書き記すどころじゃない、早々に布団にもぐりこむも、寒い哀しい心細い、単なる甘ったれ小僧。朝になって、状況が多少悪化してたって、休む訳にはいかないのよん、せめてもの救いが通勤地獄に揉まれる通常出勤じゃなかったこと、有難く少しゆっくり目に出掛けて、電車のシートにうずくまる。それでも本だけは手放さない、弱った体には余計に沁みる。
幸せ、愛、だよね。

本を貸してくれた”コンちゃん”さんは、会社の同僚(僕より六歳年長者)で僕の斜め前に座っている、不思議なお方。
マイペースを貫いて、あくせくしない、というよりも、仕事をしない。
営業職のスタッフは完全出来高制(フルコミッション)だから、会社からの制約や拘束が緩いんだけど、にしたって、仕事しなければ成約(契約)にならない訳で、成約して会社に入金しなければ報酬(給料)も生じない。
実は僕も七年くらい前までは、そんな厳しい(?!)営業スタッフの側(別の会社で)だったんだけど、仕事が嫌いで言い訳ばかりして仕事しなかったから当然に収入もそれなりで、それなりにしか手にすることができない収入、それは自分自身の頑張りに対する正当な評価であり、完全なる自己責任の範疇なのに、頑張らない自分自身をすっかり棚に上げて、会社や社会に対する不満を並べたてて、頑張らない自分自身を正当化しようとするんだけど、そんなのは矛盾だらけで、ますます自分自身が嫌になっちゃって、ちゃ〜んと考えればいいのに考えることも放棄して、自暴自棄な態度ばっかりで歪みまくっていた。そんなこんなで、食えなくって営業職を挫折しちゃった、ダメ男、絶対的な負け組、それでもこうして今があるから言えるんだけど。
だからね、今の僕に会社が求める職務としては、営業スタッフの管理なんだけど、営業スタッフが会社との業務委託契約に基づく請負である以上、とどのつまりが自己責任でしかなくって、特に僕自身が元々グダグダなダメ営業マンだったから特に何の指示もしない、しないというよりもできない、だから、会社から与えられたノルマを明確にして、具体的な指示を中継基地の役目を果たすことぐらい、あまり細かいことを言わずに。それで何とかそれなりに機能していると僕は信じている、誰に何と言われようと信念を持って、色々な人たちがそれぞれの事情や状況の中で生きて存在している。
いいじゃん、色々あって。仕事が好きならすりゃいいし、したくなければしなきゃいい、全てが自己責任で、それさえ認識していれば、周囲が何を言ったって本人が気が付かなければ変わり得ない、それって考えようによっては最も冷酷なんだけど。

人それぞれ、幸せの本質。


≪目次:≫
 第1章 ハルの幸福論(幸せ 愛 ほか)
 第2章 ハルの心(耳がふたつある理由 あなたこそ幸せです ほか)
 第3章 ハルの大切なもの(ライフスタイル 人生はここに ほか)
 第4章 ハルのパートナー(あなたの本分は何ですか? パートナー ほか)
 第5章 ハルの1日(あと1日しか生きられなかったら 鳥に尋ねてください ほか)








本「「大人の恋」をたしなむマナー」石原壮一郎 編5


「大人の恋」をたしなむマナー
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書評/



本が好き!PJ”からの献本。
何も考えない状態で読書に没頭したいのだけれど、考えちゃうことは山ほどあって、その筆頭は「何で僕はこの本を読んでいるのだろう??」。本を読むには、まず手に入れなければならなくて、僕の何らかの働きかけがあった結果の出来事。明確な動機などなくても、その瞬間の状況さえ、充分なキッカケとなり得る。
とにかく、余計な思考を停止しなければ、読書さえもできやしない。
むしろ、くだらない思索を強制停止させるために、読書という選択。
・・・というところで、深夜の思考は停止した、、、

横浜・桜木町で夜八時からの送別会は、元々出席するつもりはなかったんだけど、会議やら何やらできっと間に合わないだろうと思っていたし、退職者との直接的な繋がりがなかったし、何より遠方まで出掛けるのが面倒という怠惰な心情もあって、なのに予定されていたミーティングが早々に終了し、そこでの僕のヒートアップぶり(傍若無人なお子ちゃまぶり)に、「呑もうよ、暴れちゃいなよ、行くんでしょ♪」というお声が掛かって、う〜ん、無責任にも仕事を放り出したままに京浜東北線35分、450円。
気が付けば、勝手に司会進行、アドレナリン放出しまくり声を張り上げる。どうしても黙ってられない、喋って喋って喋り捲る、真剣勝負。まあまあ、この辺のところで、、、だと?!、冗談じゃない!!
考えろ考えろ、想像しろ想像しろ、そしてまた考えろ!、考えて考えて想像して考えまくれ!、安易に結論を出しちゃいけない!、だよ!!
もちろん意見は聞く、じっくり最後まで遮ることなく聞く、口から放出された”言葉”の真意を探るために、顔を表情を窺いながらじっくりと。だって、言葉って軽薄で頼りない、コロコロコロコロ、全てをそのままに信じる、って訳には、ちょっと。そのときの状況とか背景とかに、とっても大きく左右されちゃうし、色んな意識が働くから。だからこそ、じっくり真意を探らないと、放出された断片的な言葉からの判断は難しい。一方では重要なソースが”言葉”には必ず含まれていて、名探偵の如く紐解かれるストーリーは、”事件の鍵は現場にあり”じゃないけど、提起される問題は、現場であり当事者が、実はしっかり答えを持っていたりして、ただただ混乱していたり、見失っているだけだったりして、それに気が付くキッカケが周囲の第三者から与えられたりして。周囲の第三者は言いたいことを言いまくる、状況や背景を窺い知ることもなく無責任に。ところが案外、無責任さが有り難いときもあったりして、あんまり真剣に重く負担に感じられても、それはそれで互いに辛くなって、放言からハッと我に返ることだって。あんまり正論ばかりだと、息苦しくて逃げ場を失っちゃう。

喋ることや打ち明けることって、とっても大切な意味がある行為、保たれるバランス。
喋り捲った僕は、アルコールの勢いもあってか、深夜、空っぽだった、放出すべき言葉を失っていた。








本「運命におまかせ −いつも幸せを感じるあなたに」森田健5


運命におまかせ −いつも幸せを感じるあなたに
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書評/ライフスタイル



本が好き!PJ”からの献本。
当然に僕は、”運命におまかせ”して読みました。
だから読書は止められない♪♪

だってね、見るからに”怪しい”じゃない!?、表紙に”一面の花畑に光り輝く後光♪”ですから、宗教的なというか、自己啓発チックな、「私はこれで幸せになりました!、成功しました!、だからあなたも私の言うことを聞けば、私の言うことだけを信じれば、絶対に必ず幸せになれます!!!」みたいな、ホントはいちばん重要な部分を一切語らずして、本を売らんばかり、人集めんばかり、とどのつまりが私利私欲のエゴ丸出し、、、世知辛い世の中ですから、そのようなマガイモノが多いのでございます。
残念ながら、そんなマガイモノでも、混乱して判断能力を失っちゃっている人びと(ちょっと語弊があるかな?!)には、逆にその堂々とした姿に引き寄せられて、ある意味での幸せ(それもまた真実)を獲得できる。自らが考えることや自らへの問いを放棄できて、依存ができて、お金を払っちゃうことによって解放された気分に浸れて、不幸(本人はそう感じているが、それが真実かは不明)な現状から目を背けることができる。あくまでも一時的な逃避でしかなかったとしても、現実逃避によって事態がますます悪くなろうとも。

だからね、献本には後ろ向きだった、当初は。たった(?!)五冊の献本だったし、興味があるメンバーが読んだ方がいい、後ろ向きな否定的なことを書き記したくないから。で、しばらく書籍在庫として残っていて、やっぱりどこかず〜っと気になっていて、一度献本を申し込もうとしたことがあったんだけど、その時も途中で止めた。それでも在庫としてあった。”縁”があった、僕が読む運命だった、と。
この本を読んでいるあなたは、運命の流れとして、これを読むことが決まっていたのです。これはすばらしい出会いなのです(笑)。 (P.103)
それが全てでしょう。

幸せな人は、読んだらいけません。(!?)
きっと、違和感を感じる人の方が多いと思います。いわゆる世間一般に”常識的”といわれる人びとには、受け容れられないでしょう。
そういう人びとは、読まない方がいいと思います。僕があえて言うまでもなく、きっと手に取ることがないでしょうが(笑)、それもまた”運命”ですね。


そして、僕はこの本の内容を書き記しません。
僕の陳腐な軽薄な言葉で汚してしまっては申し訳がたたない。著者にも、読む”運命”にある人にも。最後まで余計な先入観なく読んだ方がいいと思うから、そのままに受け取るべきだから、著者が全224ページのパワーを注ぎ込んだ、まさにそのまんまに。

ゴメンね、僕は単純だから、この手の本(失礼!?)でも泣けちゃう。
グッときちゃうくらい、ヤバいんだ。ズバリ、
・・・こういう(読書や自己啓発セミナー)のにはまっていく人は、言葉は悪いですが、一種の中毒なのではないか・・・ (P.205)
自認してます。。。

だけどね、僕は決して「自分自身は不幸だ」って感じたことはないんだ、冗談抜きに本気で。
仮に僕が、色々あって不本意(最大の原因が僕にあるのに、だから)ながら離婚することになって、その前から、大好きな可愛い娘と嫌いじゃない(この辺も原因かな?!)妻と別居していて、独りで暮らす木造アパートがボロボロ(これも僕の稼ぎが悪いから)で侘しくても、決して不幸だと思ったことはない。仕方がないんだよ。そうなるべくして、今の状態がある。あくまでも、仮に、の話だけどね。
この今の状態(良くも悪くも)を、当事者である僕自身が”不幸だ”って否定(することになるよね!?!)しちゃったら、僕は自分が自分自身の存在を否定することになっちゃって、この世に存在していることができなくなっちゃう(笑)。だから、今の状態は、単なる”結果”というだけで、そうなるべくしてなっちゃった、というだけのこと。
だから、そりゃ生身の人間だから、元気がなく落ち込んだり、涙が溢れて止まらないことだって一度や二度じゃないけれど、だからといって不幸じゃない、不幸だって感じたことはない、強がりじゃなくって。


キレイゴトだけじゃ生きていけないし、ひとりじゃ生きていけない。
無意識のうちにネットワークに繋がって、その中で生きている。
だから、どんなに抗ってみたところで、運命に抗えば抗うほどにネットワークがこじれて断絶するだけで、状況が善い方向へと進むことなどない。

でもね、”運命”なんだよ、悲観する必要は一切ない。
以前にどこかで誰かに聞いた、
”宿命は宿され不変だけど、運命は自らが運ぶもの、、、”
というフレーズ(自己啓発セミナーかな?!、笑)を思い起こす。









本「キップをなくして」池澤夏樹5


キップをなくして
著者: 池澤夏樹
単行本: 293ページ
出版社: 角川書店 (2005/7/30)




最近は、スイカ(Suica)だのパスモ(PASMO)だの、電車に乗るのにキップを買わない。
あの小さなキップの、たかだか小さな紙片だから、すぐに行方が分からなくなる。電車に乗るという行為自体が、どちらかといえば非日常的で、何かの目的があって移動の必要に迫られなければ電車などに乗ることはないのであって、電車に乗ることが主目的ではない以上、さらに手続きとして付随するキップなど、その存在を忘れ去ったとしても、それは仕方がないことなのかもしれない。購入したキップを改札を通し、その次の瞬間には目的地までの電車に乗ることに移る意識。目的の電車に乗ったら、次は主目的へ馳せる想い。そうこうするうちに目的地(駅)に辿り着き、改札を前にして、ポケットを探り、財布を広げ、「無い・・・、あの時に改札を抜けて、、、その後どうしたっけ??!」不確かな記憶、キップに対する意識は何処。
毎日慣れ親しんだ通勤時にさえ、改札を前に慌てることがあるくらいだから、幼い子供がひとり、小さな手に固く握りしめられたハズの、”キップ”の悪戯?!
そもそも、電車に乗って行われる”移動”という行為に伴う興奮。興奮によって覚醒される意識。一所懸命の言葉に宿る、人間がひとつの場所を、他へと移動することなく、命を懸けて護り抜く、みたいな本能に反する行動。

繰り広げられる子供たちだけの不思議な共同生活、東京駅。子供とはいえ、立派に人格を有するひとりの人間だから、それぞれに個性や考えがあり、それぞれの事情を抱えている。大人の干渉を受けることなく子供たちだけで営まれる共同生活は、毎日顔を合わせて長い時間を共にするだけに、欠かすことができない思い遣り。相手を思い遣り、理解を示すことによって、共に感じる痛みが、大人への階段の一歩一歩、また一歩。
明かされる仲間のひとりの、痛ましい電車事故、そして”死”。既に死んでしまっている少女との共同生活、という、一種異様な状況が、子供たちの連帯感であり思い遣りを育み、仲間全員で見送る天国への旅立ち。死と生の垣根を飛び越えて、語られる死生観。死を見詰め、受け容れるからこそ、生きる意義を見出せたりする。








本「ティンブクトゥ」ポール・オースター、柴田元幸 訳5


ティンブクトゥ
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書評/海外純文学




犬の物語らしい、のだが、、、、、

新宿から郊外へと向かう私鉄の最終電車を乗り継いで自室へと辿り着く頃には、既に深夜一時の数分前を時計の針が指していて、翌日の出勤までの睡眠時間のカウントダウン。アルコールを一滴も口にしてない空腹のままでは、素直にそのまま眠ればそれなりの睡眠時間を確保できるのに、手が伸びるのは愛用のノートPCの電源スイッチ、ON。コンビニで買い求め、駅からの徒歩では胃の中に収めきれなかったおにぎりの残りを貪りつつ、喉を潤す缶ビールを片手に椅子に座って時計に視線が泳ぐ、一時を数分経過。
何時からか、睡眠時間は削るものだ!と、やっと理解ができて、僕の人生に愉しみが生じた。睡眠不足で朦朧とする意識のままに過ごす日中と、自らの時間の使い方、本当に大切なことが何なのか?、何のために生きているのか?、考えない日は無い、毎日毎日一瞬たりとも、これでいいのか?、最善を尽くしているか?、想像しているか?
考え出せばきりがない、刻々と刻まれる時間は自らのもの。追われるも、自由に羽ばたくも、気持ちひとつ、考え方ひとつ、考えて考えて考えて考えて、想像して想像して想像して、失敗して失敗して、自らの痛みを伴う経験の、ひとつひとつの積み重ね、近道は無い。
「小説が読みたい!」と思ったというよりは、「バランスを保ちたい」と考え計算した、最近エッセイであり化学本が多い気がしたから。海外文学は気合いを入れて挑むもの、いずれは原著を読みたい、などと考えながら、ある時に考えたのが、日本語の漢字って覚えなきゃ読めない難しいものだけれど、だからルビを振れば読めるもので、英語には漢字のようなものがないから、とりあえず読めちゃう?!、ってことは、単語の意味さえ理解できちゃえば、そんなに難しいことないってことかなぁ、、、という、シンプルな発想は、どうして学生時代に抱くことができなかったのか?、と嘆いた次の瞬間には、今がその時期なんだよね、きっと、と妄想は果てしがない。
犬の物語だって、朦朧とする意識の中で追っている文字情報から、果たして犬が語っているのか、それとも人間が語っているのか、どっちだかよく分からないままに、それでも読み進めていく作業に、既に作業といってしまっている読書に、果たして意味があるのか、はたまたそんな気のない文字を追う作業ならば、むしろそれは著者らに対する失礼に当たるのか?、と考えれば、著作を手にする行為自体が著者らに対する敬意の表れでもあり、行動のひとつひとつから解釈される見解の多様性。
犬の口から語られる言葉は、それを言葉といってしまっていいのかという疑問は残るが、言葉をコミュニケーションツールと解釈したところで、コミュニケーションを言葉以外に互いに感じ合い通じ合う間柄、「犬が言葉を持たない」と証明できる事実は無い?!
ラブストーリー、ティンブクトゥ (Timbuktu 1999)

ポール・オースター(Paul Auster,1947.2.3-)は、アメリカの小説家、詩人。ユダヤ系アメリカ人。

柴田 元幸(1954.7.11- )は、アメリカ文学研究者、翻訳家、小説家。東京大学教授。








本「生きる歓び」保坂和志5


生きる歓び
著者: 保坂和志
単行本: 158ページ
出版社: 新潮社 (2000/07)



うむ〜、これを”小説”と言ってもいいんだよね、「これぞ小説!」などという明快な形式など、この世に存在しないのであり、書き記した人が「小説です。」と言えば既にそれは小説であり、世の中に受け容れられて売れるかどうかは別問題としても、僕が手にしたのは単行本で、さらに文庫本が出ているところから解釈するに売れている、ということになる、何となくエッセイのような気がしないでも無いけれども、「やっぱりこれは小説だ!」と最後まで読んで明確にそう思った、初冬の冷たい北風が吹き荒ぶ快晴の午後、いつもと異なる光の加減に気が付いたらいつの間にか綺麗に切り揃えられて丸坊主の街路樹の、つい先日まであった葉っぱを想い出しながらしばし見上げる。

保坂和志の、エッセイを三冊読んでから手にした小説は、「なるほど、そういうことなのね」と、分かったような分からないような。ストーリーやらテーマなんて、そんな野暮なことを言うなかれ。とはいえ、しっかり言いたいことを織り込んで綴られた小説は、そんなに簡単に分かられてなるものか!

田中小実昌”を偲ぶ追悼文。死について考えて語ることは、語る人間は生きているから、死を自らが経験したハズなどなく、目前に訪れた第三者の死を傍観している、生きている言葉。


そうそう、橋本治の「恋愛論」が、実は僕の橋本治との衝撃的な出逢いの本で記憶に刻まれているんだけど、何とそれが、保坂和志が在籍していて企画した西武百貨店のカルチャーセンター開設15周年の「恋愛論」というコンセプトの講演があって、そのまま本になっていたんだって、不思議な縁。
それだけでもう満足♪








本「ヒトは食べられて進化した −Man the Hunted」ドナ・ハート、ロバート・W・サスマン、伊藤伸子 訳5


ヒトは食べられて進化した −Man the Hunted
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書評/サイエンス



ちょっと最近ハマってます、化学同人(出版社名です、DOJIN選書です)、”科学”、甘く見たら痛い目に遭いますぞ!
こいつは手強い!、人類の謎に迫る大論文。
Man the Hunted「狩られるヒト」!

キッカケはやっぱり、”本が好き!PJ”、いつも感謝、自腹で参画。

そう、Man the Hunted「狩られるヒト」の理論が展開される。
それは、それ以前に発表されていた、Man the Hunter「狩るヒト」の論理があって、それに対する反論というか、その論理に対抗し得る証明をする訳ですね。
いきなり霊長類の定義から始まって、霊長類としての数千万年から数百万年前の古人類学的人類(ヒト)の進化の過程を紐解く訳さぁ、、、壮大な物語。
ロマンといえば格好好いのかもしれないけれども、「何だかスゴイね」と陳腐な、まるで他人事のような言葉しか思い浮かばない。

だからね、化石とかから分析され解明された研究結果が、理路整然と論拠されると、単純な僕は何も分からないから、とりあえず、「なるほど」と納得するしかない訳で、とどのつまりが、「狩られるヒト」であった、という証明をし尽くて、「狩るヒト」の論拠を覆したところで、絶対的に「狩られるヒト」だったという結論には至らない。それまでの「狩るヒト」の論理を、僕は目にしていないから何とも言えないのだけれども、「狩るヒト」の論理も、絶対的な100%の「狩るヒト」で、100%「狩られるヒト」ではなかった、とは言っていないと思う。「狩るヒト」という見方ができる、くらいの軽いノリ(な〜んて言ったら怒られちゃうかしら?!)だったんじゃないのかな?!
往々にして、自説を大々的に発表する場合には、ある意味ではエンターテイメント的な演出が必要で、振り向かせて注目を浴びるためには、それまでの王道的存在を引き合いに出して、そこから発展させる手法って、やっぱり効果的なんだろうね。

リアルな現実的には、今現在でも”ヒト”は狩られて食べられちゃっている訳で、日本でも、動物園(ライオン・トラ)での死傷事故があったり、野生動物(クマ)が餌を求めて山里を下りてきて、、、何てニュースもあったし、世界に目を向ければ結構日常的に、ライオンとか、ワニとか、サメとか、ワシとかに、そう言われてみれば、確かに食べられてちゃっているかも。
想像すると恐ろしいけれど、それが大自然の”掟”なんだろうね。
そうやって保たれるバランスであり、だからこそ進化するのであって、時に絶滅の憂き目に遭ったとしても、その分新しい種が誕生していたりするのかなぁ。

そうだよね、人間の歯では、動物の生肉を食べられないし、胃腸で消化しきれないもんね。狩りをするのは、無理があるかもね。


僕は変なところで感心しちゃったんだけど、著者はトコトン研究者で、近年100年ばかりの急激なヒトの経済的発展について、サラリと触れてはいるんだけど、だって、数百万年の歳月を経て進化を遂げる生物の研究をしている人だよ、絶対的に異常だ、と警鐘を鳴らしたとしても、誰も咎めないと思う、だけど、そんなことにはちょっとも触れない、潔さ。
そんなことは、大した問題じゃないのかな〜?!



≪目次:≫
 第1章 ありふれた献立の一つ
 第2章 「狩るヒト」の正体を暴く
 第3章 誰が誰を食べているのか
 第4章 ライオンにトラにクマ、なんてことだ!
 第5章 狩りをするハイエナに腹をすかせたイヌ
 第6章 ヘビにのみ込まれたときの心得
 第7章 空からの恐怖
 第8章 私たちは食べられるのをぼうっと待っているだけではなかった
 第9章 気高い未開人か、血に飢えた野獣か
 第10章 狩られるヒト








本「書きあぐねている人のための小説入門」保坂和志5


書きあぐねている人のための小説入門
著者: 保坂和志
単行本(ソフトカバー): 218ページ
出版社: 草思社 (2003/10/31)



うむ〜、そうかぁ〜、そうくるかぁ〜〜

僕が読む本を手にとるきっかけは、深く考えずに何気なく、、、を基本とする。まるで”ドラッグ”の如く”本”に依存しちゃっているから、一番恐れているのは読む本が手元に無くなっちゃうこと。という訳で、調達に常に気を配らなくちゃいけないから、何か引っ掛かりを感じたら、悩んだら、とりあえず手にしちゃう。

実はね、いやぁ〜、少し前にね、うん、思い切って書いちゃおう!
そう、今はその想いから次の展開に進んでいるから、その時にはそう考えた。既に過ぎ去った今現在の時点で振り返ると、その時はそう考えたんだけど、今はまた違う、みたいな軌跡を辿ることができる。真っ只中にあっては、あまりにリアル過ぎて、書くに堪えなかったりする。

前置きばかりがダラダラと長くなってしまうのだけど、
『僕は小説家になれる!』、って少し前に確信したんだ。あくまでも、個人的にだけど、その時にはね。

今の調子(ほぼ1日1冊)で、本を読み続けて、読んだ本から考えたこと、想ったことを書き記す。それは、今年の1月頃からだから、実行して約1年になるんだけど、自らに課したルールがあって、
『本を読み終えたら書いてよし!』
言いたいことがあったら、やるべきことをやってから言え!、と自らに。
実は、映画とか絵画などの芸術作品の鑑賞(本物を出向いて)も含めているので、文化芸術活動ということにしているのだけれども、基本的にそんなスタンスで日常生活に取り組んでいると、必然的に読書量が増える。読書量が増えると情報や知識が増し、興味が広範になり、多少は言葉に幅が生まれてきたような感覚を覚える。まぁ、元々のレベルが低いから、多少はマシになった、という程度でしかないのだけれども。しかも、小説作品にある、必勝パターンとか定番の展開みたいなものも、時折見えちゃったりしちゃう訳ですよ。

で、そんな時期を経て、ふと想い到った。この調子で読書を続けて、書き記し続けたら、「ひょっとして、小説家になれちゃうよなぁ〜」と。
すぐに、とは言わないけれど、この生活を例えばこれから先、五年も続けたら、いや、続けることができたとしたら、その頃には、それなりの文章を世の中に公表しているだろうなぁ、、、などと勝手な妄想を膨らませつつ、でも、世の中そんなに甘くないから、ひっそり誰にも相手にされることなく、恨み辛みを書き汚しているのかも、、、などと寒〜い想像も忘れない。
ところで、”僕は小説家になりたいのか?”、という疑問が浮かぶ。
僕自身の今現在の生活は、サラリーマンとして生活の糧を得ている訳で、その通勤時間と休憩時間、移動時間を読書タイム、帰宅後の2〜3時間を創作(?!)タイムに費やしている。その限られた時間の中で、可能な限り自らの時間を捻出する。元々が人付き合いが得意じゃないから、会社帰りに呑みに行くこともなく、ただひたすらに自分の時間に没頭する。ある意味では自分自身でも、”引きこもり”を自認している。

とりあえず今のところ、「小説を書きたい!」と思うこと(テーマ・ネタ)がない。小説を書きたい!、と思わない訳だから、小説家には成り得ない、今のところ。
そんな時に出会う、小説入門、”保坂和志”流。
そうくるかぁ〜〜



≪目次:≫
1章 小説を書くということ―感じ、そして考えること
2章 小説の外側から―ジャズ、アフリカ文学、哲学…
3章 何を書くか?―テーマからの解放
4章 人間を書くということ―リアリティとは何か?
5章 風景を書く―文体の誕生
6章 ストーリーとは何か?―小説に流れる時間
7章 テクニックについて―小説を書き始めるためのいくつかの覚書









”私たちの言葉や美意識、価値観をつくっているのは、文学と哲学と自然科学だ。・・・”(P.36)

本「噂の拡がり方 −ネットワーク科学で世界を読み解く (DOJIN選書009)」林幸雄5


噂の拡がり方 −ネットワーク科学で世界を読み解く (DOJIN選書009)
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書評/サイエンス



素晴らしき科学
最近、物語から随分と遠ざかってしまっている。何よりも僕自身は、物語に魅せられて読書に親しみを感じた、僅か1年少し前の話し。変わらず物語を欲し続けている。なのに・・・
だって、面白いんだもん、化学同人DOJIN選書シリーズ。

はっきり言ってしまうと、僕はネットワークやらというものに、全く興味を抱けない。
まず、徒党を組めない。共同作業を苦手とする。ひとりが大好き。
噂話しは、その裏側を探ってしまう。何故にそのような噂が聞かれるのか?、何を意図しているのか?、と。噂になるからには、それなりの何らかの要因がある訳で、火のない所に煙は立たない。探ってみると、案外、思ってもみなかったようなところに、その発端が隠されていたりして、普段気付かないことが垣間見えちゃったりする。そういう意味での興味はあるけれど、流れている噂そのものには、やっぱりどうしても興味を持てない。
しかも、積極的な他人との関わりを避けている(ほぼ引きこもり状態!?)から、ネットワークに参加するとしたら、末端。その先がない、終点。本書において紹介されている、2・6・2の法則の、積極的に人に勧める部類(上位の2)に入ることが絶対に有り得なくって、人には勧めない(下位の2)の部類。

で、相も変わらず展開されちゃう数式方程式。ますます意識は遠ざかる。

ネットワークの構成や形成を科学的に紐解くと、人間であり社会の本質が見えてくる。
何事にも必ず見出せる法則。法則が法則といわれる所以はそこにあって、汎用性があること。全く関連性を見出せないような事柄や部類においても、不思議と一定の法則に導かれていたりする。
だから、様々な社会の事例や法則に親しんで、科学的な視点を持つことは、リアルな現実社会を多面的に見る役に立つ。



≪目次:≫
 第1章 世間は意外と狭い!
 第2章 噂はどのように広がるのか?
 第3章 時空を越える伝達メディア
 第4章 インターネットの威力
 第5章 蔓延するウイルス
 第6章 世界的交通網の拡大がもたらすもの
 第7章 ネットワーク科学からのメッセージ








本「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹5


走ることについて語るときに僕の語ること
著者: 村上春樹
単行本: 248ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/10/12)



日常的に文章を書き記すことを職業としている作家”村上春樹”が、四半世紀もの間の経験と実績を経て、ついに表現を得た”走ること”。
エッセイというよりも、メモワール(個人史、回顧録)のようなものだと考えている、と語る、ささやかならざる重みを有する著作。タイトルに、敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトルを用い、その想いを籠める。

自らを、作家であり、ランナーであることを公言する村上春樹は、専業作家となった1982年秋から”走ること”を始め、1983年に自らギリシャに赴いてオリジナルのマラソン・コース(マラトンアテネ)を一人で走破して以来、毎年のフルマラソン(42.195km)に飽き足らず、ウルトラマラソン(100km)、トライアスロンにまで挑み続けている。
1949年生まれ、現在58歳。
小説家として世界的な地位を確立し、多くの著作を精力的に発表している訳だから、簡単にエッセイなどをちょいちょいと書き記せそうな気もするが、その構想から何と10年以上もの歳月を要している。

何よりも、いきなりフルマラソンを走れてしまう高い運動能力に驚きを隠せないが、それはさておき、”走ること”への想いの深さ。
当初は健康維持が目的だった。専業作家になることによって、自らの体躯を動かして行う作業的な動作は著しく減少する。机に向かって黙々と、頭と心を駆使する労働。
ある意味では、自らの体躯が欲していたのかもしれない、”走りたい”と。村上春樹本人も何度も書き記しているが、第三者から強要される作業(学校での勉強!?)には全く身が入らず、長続きせずに何も得られない(そのことが無意味であることを習得した!?)。自らが欲して起こした行為や行動(それでも全てではない)は、習得の度合いが著しく速い。確かに、自らが興味を抱いた事柄は、頭への入り方がスムーズで、しっかりと記憶に残る。そして、新たに得られた知識が、さらに新たな興味を引き出して、加速度的な発展を見せる。
環境的には、作家という、ある意味では時間的な拘束が少なく(毎日会社に通勤をするサラリーマンに比較して)、自らの意志で自由に時間を使うことができる利点はあるのかもしれないが、それとて、自らの意志の成せる業であり、どんな環境に身を置いても、誘惑はとっても多い。そして、人間の意志は弱く儚い。
だって、”走ること”って、やっぱり辛く苦しい。人間に原始的に備わっている、基本的な動作ではあるが、現代社会においては、自らの足を使うまでもなく便利な自動車や自転車がある日常生活。目的地への移動ということを考えた場合には、絶対的に”走ること”は選択されない。
一見して、何の意味をも有しないと思われる”走ること”。果たして、本当に意味を有しないのであろうか? ある意味では、何の意味をも有しないということは、真実でもあろう。例えば、学校教育現場において、一律に強要される長距離走。それぞれ個人の都合も事情も何も関係なく強要される作業に、過去の記憶がよみがえり、憤りを感じる一方で、それが社会一般の在り方、特に学校教育現場の在り方であり、その状況を経ることによって、結果的には”走らされる”(強要される)ことによって自らが考えることに、意義がある側面をも否定できない。

”走ること”には、動作や作業としての効率や利便性を超越した概念が存在する。
高度に経済が発展し、機械技術が向上し、著しく高まった利便性によって、現代社会はさらなる効率を追い求め、忙しく追い立てられ、淡々と与えられた作業として遣り過すことによって、考えることをしなくなっている傾向を否定できない。
それ相応の時間を費やして行われる動作”走ること”。費やされる時間が多ければ多いほどに、流れる時間がゆっくりであればゆっくりであるほどに、本来のあるべき人間の本能が呼び起こされよう。
本当に大切なこと、本当の幸せが何であり、何によって得られるのか、慌ただしい現代社会の時間の流れから一歩身を引いて、客観的にじっくりと考えてみることも、時に必要とされよう。
”走ること”が、単純でシンプルな、人間の本能に基づく動作であり、そこに含まれる意義(私は断片的に限定的にしか理解できていない、というかほとんど分かっていない!?)が広汎であり、哲学的に文学的に、充分に”語る”に値する、と村上春樹が考えたかどうか、私は知らない。








本「途方に暮れて、人生論」保坂和志5


途方に暮れて、人生論
著者: 保坂和志
単行本: 256ページ
出版社: 草思社 (2006/4/21)




ハハハハハ、、、最後の方を読みながら(その頃には、さて今日は何について書き記そうか?!、などと集中力が散漫になっているのだが)、あらためてタイトルを確認して、もう笑うしかなかった。
『途方に暮れて、』は、まさに、私が読書に勤しむキッカケだった。
これまで、何も真剣に考えることなく、安易に中途半端な結論に逃げ込むことを常として、何となくのらりくらりと過ごして、それでも何とかなってきた日々。でも実は、何とかなっていたのではなくて、何とかなっていると思い込んで、何ともならなくなってきていた現実から、ただただ目を背けていただけだった。直視することも、考えることも、とてもとても怖くてできなかった。で、気が付いた時には、色々な事柄が一気に押し寄せて、混濁の最中に立ち尽くす僕は、すっかり途方に暮れてしまった。これまで、真剣に考えることをしてこなかった”ツケ”は、小さくなかった。
だからといって、今現在の僕が、既にその状態を乗り越えて、何かが変わったのか?!、何かが分かったのか?!、と問われれば、答えは「何も分かっていない、何も変わっていない」。むしろ、「何〜んにも分かっていない」自分自身を分かってしまった。トホホ、、、だ。

でも、僕は何とかしたい、何とかしなくちゃ、と考えた。考えた僕は、既に37歳になっていて、多くの人々が10代で考えるべきことを、およそ20年も人よりも遅くに考えることになる現実を、実はとっても恥ずかしく思う。でも、何とかしたい。このタイミングが、37歳が、僕にとっての来るべき時期だった。その時期は、人それぞれ違うのだから、37歳にして訪れる人間がいてもいいじゃないか!?!、残念ながら、37歳にして気が付いた、というのが、僕の偽らざる現実。それ以外の何物でもない。
まさに、来るべき時期だったのだと思う。烈しく抗ったものの、結局僕は独りになった。独りになってしまったら、考えるしかなかった。良いことも悪いことも、当然にどちらかといえば、マイナスな後ろ向きなことを多く考えた。悔やんだ、恨んだ、憤り、無力さ、孤独、寂しい、無気力、、、何がどうなろうとも、考えなければならなかった。
環境に感謝しなければならない。
僕には本があった。本を読む時間があった。新刊本を献本を受けて書評を書き記すプロジェクト”本が好き!PJ”との不思議な縁があった。最寄りの図書館の蔵書が非常に充実していた。東京には、魅力的な芸術企画展が常時開催されている。興味の赴くままに、次々と貪った。
本当は、最も感謝しなければならないのは、私の身近な周囲の人びと。何だか、感傷的になってきて、何処へと進むのやら訳が分からなくなってきたが、そう、リアルな現実の生活においても、虚構の本の世界においても、僕に考える機会を与えてくれて、僕が考えて考えて考えることに留まることを示唆してくれる。

保坂和志の人生論に共感できる部分は多い。それでも、保坂和志の人生論は、保坂和志のものでしかない。僕の人生論は、僕自身が考えることに留まり続けて、僕自身が見出すもの。
僕は僕でしかない。








本「わたしの声を聞いて」スザンナ・タマーロ、泉典子 訳5


わたしの声を聞いて
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書評/海外純文学



本が好き!PJ”からの献本。

1994年に発表された世界的ベストセラー作品『心のおもむくままに』の待望の続編。
1994年当時、37歳のスザンナ・タマーロは、「心のおもむくままに」を、老女(祖母)が、家を出た孫娘に宛てた手紙のつもりで綴った”日記”を物語に仕立てた。老女の記憶を巡る物語は、長い歳月を経て、脈々と受け継がれる血であり、宿命の連鎖の呪縛が色濃く横たわる。モデルは、著者を育ててくれた祖母。彼女の両親は彼女が幼い頃に離婚。
老女の、豊かに積み重ねられた人生の数々の経験が、人生経験が浅く若い孫娘に宛てた手紙に託され、物語の読者への豊かなメッセージとなった。幾多の苦難を経験して、それでもいまだに迷いを断ち切れない老女が、またしても失ってしまった孫娘を想い、神父に救いを求め、かすかに見出した”道”。老女の心の中に留まり続ける、静かな深い深い想い。

世界的な大ヒットを受けて、当然に続編の要望は大きかったものの、彼女は頑なに拒み続けた。その後にも、小説やらエッセイやらの著作を発表し続けた彼女が、「心のおもむくままに」発表から12年の歳月を経て、49歳にして、一気に書きあげた続編。
続編となる本作では、老女の思いを託された、まだ若い孫娘が語る、”わたしの声を聞いて”と。


若者の叫びは、老人の静かに語る言葉の重みに勝てない。ほとばしる若々しい勢いはあるものの、比較すると、どうしても軽薄に陳腐に感じられてしまう。
だから、37歳だった(まだ若い!?)から老女の語り口を借り、49歳にして(経験を積み重ねたからこそ)若い孫娘を語り口に成し得た。

若い孫娘が、祖母の最期を看取り、亡き母と離れて暮らす父を巡り、故郷の地にルーツを求め、それぞれの”死”を見詰め、死を想う。
遺品のメモや手紙から、次々と明らかにされる事実は、自らの深層の内省の旅に誘う。

若い孫娘には、未来がある。拓くべき道がある。だからこそ、若者は社会に対する想い(メッセージ)を熱く語ることができる。
一方、老女の口から語られるのは、未来の社会に対する想いよりも、むしろ、過去の出来事や記憶、将来を担う若者に託す想いとなろう。


本作が「心のおもむくままに」の続編だから、先に「心のおもむくままに」を読んでから手にするべし!、などとも、実は考えたのだが、連作としての関連性を有するものの、それぞれが独立していながら、互いに深く関わり合う物語であるが故に、どちらを先に読んだとしても、結果的に両方を読むことによって、得られる満足度に相違はない、と思うに至った。
手にするタイミングや、自らの状態や状況によって、新たな角度からの気付きを予感させる、時を経て再読をしたい、と思わせる秀作。








本「降水確率50%は五分五分か −天気予報を正しく理解するために (DOJIN選書008)」村山貢司5


降水確率50%は五分五分か (DOJIN選書008)
 天気予報を正しく理解するために
著者: 村山 貢司
単行本: 216ページ
出版社: 化学同人 (2007/7/20)




NHKテレビの天気予報の解説でお馴染みの気象予報士村山貢司”が、”天気予報を正しく理解するために(副題)”説く。
Wikipediaには、
”天気予報とは、過去の天気や各地の現況の天気・気圧・風向・風速・気温・湿度など大気の状態に関する情報を収集し、これをもとに、特定の地域あるいは広範囲な領域に対し、当日から数ヶ月後に及ぶ天気・風・気温などの大気の状態と、それに関連する水域や地面の状態を予測し伝えるための、科学技術のことである。”
とある。なるほど、科学。

気象に対する興味は、地理や地形、その歴史にまで広範に及ぶ。
村山貢司は、1949年生まれ。東京教育大学卒業後、財団法人日本気象協会を経て、現在は財団法人気象業務支援センター振興部専任主任技師。東京都花粉症対策検討委員会委員、林野庁花粉受態委員会委員、環境省ヒートアイランド影響評価委員会委員などを務める。


前半で、天気予報など、気象の基礎知識を押さえたところで、本題は、”異常気象問題”。
18世紀後半の産業革命以降の、急激な経済の発展、大量消費時代の幕開け。この100年あまりの気温上昇幅は、全世界平均気温0.7度。東京に限っては、何と3度もの気温上昇。全世界レベルでの異常気象現象。

それでも、「地球温暖化との直接の関連性は?」と問われれば、
「個々の異常気象と地球温暖化の関連は分からない」と答えざるを得ない。これが正しい。
だけどやっぱり、「一連の異常気象、とくに異常気象が多くなっていることと、異常気象の規模が大きくなっていることは、地球温暖化が影響している。」ということに相違はない。(P.200)

地球全体で大きく見たときには、地域や時期がバラけることによって、均衡が保たれていた異常気象が、その被害が徐々に拡大の一途を辿り、リカバー不能状態に陥落する日、世界的な食糧不足や水不足、人類の存亡が脅かされる。

地球の温暖化に伴う気候変動とその影響は決して100年後の話ではなく、すでに始まっているのです。これ以上、二酸化炭素を出さない、すでに出してしまった二酸化炭素を吸収することは日本人全体、世界の人びと全員の義務ともいえるでしょう。」(P.205)



≪目次:≫
 第1章 天気予報の上手な利用法
 第2章 なぜ天気は変化するのか
 第3章 激しい気象現象
 第4章 天気予報に欠かせない、気象データ
 第5章 気象の変化と自然
 第6章 暮らしに役立つ天気の知識
 第7章 地球温暖化と異常気象








本「心のおもむくままに<新装版>」スザンナ・タマーロ、泉典子 訳5


心のおもむくままに<新装版>
Amazonで購入
書評/海外純文学



本が好き!PJ”からの献本。
海外純文学作品で、”あらゆる世代が心を揺さぶられ涙した名作。世界で600万部、日本で30万部の大ベストセラー新装版。”の表記に飛び付いた。
で、”人生でいちばん大切なのは、「心の声」に耳をかたむけること―。”だもんね。
「感動的な映画みたい」と思ったら案の定、映画化されて、日本でも公開されていたらしい。


家を出た孫娘に宛てた手紙のつもりで綴られた老女の日記。
老女は、孫娘との二人暮らしだったから、孫娘が家を出てしまって、悲嘆に暮れている。理解し合えなかったことによって、遠く離れてしまった孫娘には、手紙を書くことすら許されない。身近すぎるから、可愛い孫娘に募る想い。
しかし、孫娘への募る想いは単なる寂寥だけではない。むしろ、それまで決して明かすことがなかった秘密を、直接に語ることなく離別してしまったことを悔やみ、一方では、このまま秘密を打ち明けることなく、宿命の連鎖の呪縛から解き放たれることを心から願い、もはや、老女の手の届かない遠い処へ離れていってしまった現実があって、どうしていいのか分からないような心の迷い。
それは、何が孫娘の人生にとって正しいことで、最善の選択であるのか、果たして私(老女)が身近に居ることによって、彼女を救うことができるのか、はたまた彼女の人生なのだから、彼女自身が切り拓いていかなければならず、身近に私などが居ようが居まいが、そんなこととは無関係に、彼女が自らの意志で選択していく人生。もしかしたら、宿命の連鎖の呪縛は、彼女には引き継がれることなく絶たれ、老女の杞憂に終わるかもしれない。やっぱり、どんなに抗ったところで、逃れられずに、同じような過ちが繰り返されてしまうのかもしれない。それは、誰にも分からない。

それでも、決して安易に秘密を打ち明けることは許されない。同じ過ちは、繰り返してはならない。既に過ちは何度も繰り返されている。だから、絶ち切らなければならない、努力を怠らず、細心の注意を払わなければならない。
心の迷いを晴らすために、慎重に慎重に対処するために、自らの心の深くにそっと語り掛け、これまで心の奥深くに固く固く仕舞い込んでいた記憶の数々、決して明かすことがなかった秘密を、その過去の出来事のひとつひとつを、冷静に冷静に紐解いていかなければならない。じっくりじっくり時間を掛けて、丁寧に紐解いていく作業は、自らの人生を、生き様を振り返り、辛く哀しい記憶をもよみがえらせる、烈しい痛みを伴う作業。

長く生きてきた人生には、それは誰にも言えないような、思い出したくもないような記憶や、思い出すだけでも恥ずかしく、情けなくなるような記憶だって、その数はひとつやふたつではない。孫娘は、孫娘の母親から生まれてきたのであって、その孫娘の母親は、老女の娘。母親から子供が生まれるには、父親が必要。オスとメスの生殖本能によって、生み出される生命体、子供。

哀しいほどの宿命を背負い、長く生きる人生(老人)には、苦難が絶えない。
何のために、何が楽しくて長く生きるのだろう?、長く生きなくちゃいけないのだろう?、と考えたとしても不思議ではない。
早くに死を迎えた方が、ある意味では、楽な人生であろう。生きていれば、苦しいことだけじゃなくって、愉しいことも間違いなくあるけれど、それでもやっぱり、苦しみや哀しみは、できることなら味わいたくない。
そして何より、自分自身だけでなく、身近な愛しい人たちが苦しみや哀しみに打ちひしがれる姿を絶対的に見たくない。

でもね、だからね、神父は語る。
人を成長させるのは、苦脳だけだ・・・」、誰もが心の中だけの静かな葛藤を有する。「・・・生きるというのは、そのことに気づいたり、知ったりするだけのことですよ。・・・」「なにもしないで待てばいいんですよ。・・・不安をなくせば道はおのずとひらけてくる」(P.189-190)

そして、老女の日記は幕を下ろす。
「・・・そして声が聞こえたら、立ちあがって、おまえの心のおもむくままに行くがいい。」
1992年11月16日から12月22日


今現在を生かされている私。いつまで生かされるのか、それは神のみぞ知る。年齢を重ねて、苦悩を重ねて重ねて重ねて、その末にやがて切り拓かれるであろう”道”。
どんなに抗ったところで、それぞれに宿された運命(宿命)を変えることはできない。であるならば、どうしようもないことに、いたずらに不安を抱くことなく、不安を取り除くために、あえて何もしないで”心の声を聞く”という選択。


静かに閉ざされる物語、日記。
静けさは、自らの深い部分への語りかけの始まり。
穏やかな心の安らぎの中。








展覧会「日本彫刻の近代」東京国立近代美術館5

展覧会「日本彫刻の近代」表
日本彫刻の近代
Modern Age in Japanese Sculpture
From its Beginnings through the 1960s


 東京国立近代美術館
 The National Museum of Modern Art,Tokyo
(略称:MOMAT)

展覧会「日本彫刻の近代」東京国立近代美術館 裏東京・上野にある東京藝術大学大学美術館にて開催中の展覧会「岡倉天心 −芸術教育の歩み」から、日本の近代の美術にも抱かれた興味。実は、絵画作品は勿論のこと、彫刻作品の立体的な躍動感に、大いなる関心。
当然に、橋本治の著作「ひらがな日本美術史7(近代篇) −新潮社」の影響も大きい。本に掲載されている写真は、実物のインパクトには敵わない。
実物の、本物の迫力には圧倒される。

彫刻技術の近代、幕末・明治期から1960年代までの、約100点の作品が一堂に会する。

パンフレットの『坑夫 −荻原守衛,1907年』の荘厳さ。
炭坑労働者の肉体的な逞しさ、美。でもモデルの彼は、名もなき一介の労働者だから、どんなに格好良く彫刻作品が作り上げられたとしても、彼の名が冠されることなく「坑夫」。
堀の深い顔の奥に潜む目に瞳の造作はない。彼に目力は必要とされない。何かを見据える、というよりは、傾けられた体や顔から漂う無力感。厳しい労働に、黙々とただただ肉体を駆使する労働者。

うずくまる女性。
表情を窺うことはできない。何をか語る背中、肩。

はたまた、決して美しいとは言い難い人間の姿。老い、深く刻まれた皺、垂れた肉。
それでも、目を背けることができない、惹きつけられる”何か”がある。

立体的な彫刻作品だから、私が動いて角度を変えて、真正面から、下から、横から、後ろからも、見る、見る、見る。

個人的にはやっぱり、明治・大正・昭和初期の、無骨な人間味溢れる彫刻作品に、大きく心を揺さ振られた。



ところで、美術館ってスゴイ。
私は超ビギナーのド素人なので、企画展覧会を狙って行くのだけれども、「常設展も見れますよ」の、常設展が素晴らしい。「え〜、この作家の、この作品が、こんなところ(失礼!?)に、、、え〜、いいのいいの」と、有難く拝むことができちゃう驚き、感動。
なるほど、”美術作品を収集・保存・展示して、文化に関する教育・普及・研究を行なう施設”な訳だから。

今回は何と、東京国立近代美術館所蔵作品展「近代日本の美術」は勿論のこと、東京国立近代美術館工芸館まで観覧できる。一粒で三度美味しい。

特に、工芸館の建物は、明治時代に日本人技術者により建築された洋風煉瓦造を、保存活用したもので、重要文化財に指定されている。




映画「ヴィーナス VENUS」ロジャー・ミッシェル監督5

映画「ヴィーナス」表イギリス映画
ヴィーナス VENUS
監督:ロジャー・ミッシェル
出演:ピーター・オトゥール/レスリー・フィリップス/ジョディ・ウィッテカー/リチャード・グリフィス
配給:ヘキサゴン・ピクチャーズ/シナジー、2006年
HP:http://www.venus-cinema.com/

年老いた男の、飽くなき快楽への、性への欲求と、老人の悲哀が色濃く漂うヒューマンムービー。
映画「ヴィーナス」裏ネタばれになっちゃうけど、、、
老人の”死”。
とっても幸せな人生の結末。
老人は、思い出がいっぱいいっぱい詰まった冷たくほの暗い冬の海で、ヴィーナスに看取られて、ヴィーナスの腕の中で静かに死を迎えた。正直、羨ましい。
かつて二枚目俳優だった男は、家庭を顧みることなく、三人の幼い子供と妻を見捨てて、様々な女性たちと遊びまくった。なのに、年老いて、離婚した妻とも時折逢っていて、互いに体の不調を抱えているからか、歳月を経て、若かりし頃の過ちの赦しを得た。
ヴィーナスは、俳優仲間の姪の娘。田舎の実家を追い出され、俳優仲間の家に居候することなったんだけど、下品で不作法だから、俳優仲間の老人とは折り合いが悪く(彼は家政婦を雇うべきなのだ)、上手くいかない。しかし、とにかく若くて、肌に張りがあって輝いている。血が騒ぐというのか、自らが若い頃に駆使したあの手この手で、何とかしたい。何とかするといったって、既に不能だから、具体的な行為に及ぶ訳にはいかないけれど、共に過ごす時間の全てが生き甲斐。でも、彼女にしてみれば年上好きは聞いたことがあっても、老人好きはなかなかいないだろうし、加齢臭とか、やっぱりキツイだろうし、当然に、「近寄らないで!」とか、言われちゃう。
でもね、老人はさ、伊達に年齢を重ねていないんだよね。人生の様々な経験を積み重ねている(人それぞれだけど)。若者が、能天気に自由奔放に好き勝手に生きているようで、その実、いろんな傷を負っていて、悩みを抱えていて、だから、どうしようもなくって、若気の至りというのか、とんでもない行動に走ったりしちゃう。そんな、辛さや苦しみや哀しみを、その気になれば受け止める度量だって、備わっていたりする。
裏切られても、突き飛ばされても、老人にとって、若いヴィーナスは、ヴィーナスなんだよ。ヴィーナスは、とっても思わせぶりで、一筋縄でいかなくって、でもでも、だからこそ、老人が信じて、愛しく想って想って、想い続けて、様々な紆余曲折を経て、彼女は彼の本物のヴィーナスになった。
老人は死んじゃうんだけど、死ぬってことは、それまで生きていたってことで、描かれる老人の生き様は、とっても生に溢れて、とってもとっても素直に素敵だった。見た目は確かに、ヨボヨボの老人かもしれないけれど、間違いなくヴィーナスの心は、彼に射止められた。

もしかしたら、とっても陳腐なのかもしれないけれど、
僕の琴線に触れて、とってもとっても泣けた。

老人になるのも悪くない。




本「漢方読みの漢方知らず −西洋医が見た中国の伝統薬 (DOJIN選書006)」吉田荘人5


漢方読みの漢方知らず −西洋医が見た中国の伝統薬 (DOJIN選書006)
著者: 吉田荘人
単行本: 211ページ
出版社: 化学同人 (2007/6/1)




なるほど、”漢方”。
現在の医学の主流は、”西洋医学”。
漢方医学には、副作用がなく、体にやさしい、好印象がある。それでも、主流ではない。

著者”吉田荘人”は、1932年、京都府生まれ。京都大学医学博士。京都市内の病院勤務などのかたわら、上海医科大学客員教授も務めた。専門は外科学医学史
漢方医学伝統中国医学薬草学(生薬)にも詳しい。

なのに、やっぱり、
”1976年、漢方エキス製剤が健康保険に適用されて以来、私は患者に処方したことがない。・・・”
のである。データとしても、医療薬のうち漢方薬の占める割合は、総医薬費のわずか1%にすぎない。
むしろ、漢方薬による健康被害が多発している。
”なのだから、よく効く薬ほど副作用も強い。漢方薬だけが、副作用がない、などということは、やっぱり有り得ない。
人間には、自然治癒力が備わっているのだから、過度に薬に依存せずに、節制や養生をした上で、自然治癒力を引き出すために適量の薬を服用することが望まれる。



ん〜、問題とすべきは、薬(ドラッグ)への依存。
節制や養生をすることなく、薬の力で病気を治そう、という、自らの身体能力であり、医薬技術への過信。
一方では、マスコミの情報に翻弄されて、誰もが容易く薬を入手できる現状。
信頼に足る情報か否かの判断を見極める能力が、消費者に求められよう。


だからこそ、医薬の歴史を紐解き、長く親しまれてきた薬草と、その効用に対する基礎知識。


≪目次:≫
第1章 当世漢方事情―漢方のなにが問題か?
第2章 薬草のおはなし―薬草学のルーツ
第3章 薬用植物と健康食品
第4章 中国伝統医学の礎
第5章 中国伝統医学の体系化―名医たちの遺産
第6章 伝統よりも効率―西洋医学優位の中国
第7章 薬と上手に付き合うために








本「イラクの小さな橋を渡って −On a small bridge in Iraq」池澤夏樹5


イラクの小さな橋を渡って −On a small bridge in Iraq
著者: 池澤夏樹
写真: 本橋成一
単行本: 87ページ
出版社: 光文社 (2003/1/24)



池澤夏樹が、沖縄に暮らしていた(現在はフランス在住)、2002年。
イラク訪問の大義名分は、遺跡調査。古代メソポタミア文明を受け継ぐ地。

2001年に発表された国連のレポート、
経済制裁によるイラクの死者数 推定150万人”
池澤夏樹の心は大きく揺さ振られ、イラクへと足を向かわせた。
自らの目で見て、肌で感じたい。


1979年 サダム・フセイン大統領就任、1980年〜1988年 イランイラク戦争、1991年 湾岸戦争イラク武装解除問題、、、周辺国からも国際社会からも孤立し、経済制裁によって市民は貧困に喘いだ。
そして、独裁者サダム・フセインは、2006年12月30日 絞首刑による死刑執行により刑死する


イラク国内に埋蔵される、豊富な原油資源。
社会情勢を握る大きな鍵のひとつ”原油資源”。
垣間見える、現在の覇権国家アメリカのエゴ。
覇権国家として栄華を誇り続けるために、経済活動の中心的地位を保ち続けるために、大量のエネルギー資源を必要とする。エネルギー資源の中心は”石油”。


2002年当時の、イラクの普通の人々の日常の生活が、写真と文字で綴られる。
戦争の緊張感は感じられない。
淡々と、普通、普通、普通、、、








本「博士の本棚」小川洋子5


博士の本棚
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書評/国内純文学



本が好き!PJ”の献本を逃した(確か、他に献本受けたい著作があった)ので、自腹で参画。

小川洋子の大ヒットして映画化された代表作(?!)、小説「博士の愛した数式」は、文庫本で読んだのかなぁ!?、記憶が定かではないが、深い満足を得た感覚だけは鮮明に残っている。

幼少の頃から本に親しみ、本を書くことを職業とするに至った”小川洋子”の、本を巡るエッセイ集。


そう、僕にとっての”本”は、ドラッグ。
意識を覚醒させて、リアルな社会とのバランスを保つ。押し寄せる過多な情報の抑制。
一方、僕に著しく不足している、経験と知識。不足しているという現実から、目を逸らすことを止めたとき、というよりも、結果的に逃げ遂せなくなってしまって、受け容れざるを得なくなったときに、自らに課した。
どちらも、リアルな現実の僕。


本から広がる無限の世界。








本「「三十歳までなんか生きるな」と思っていた」保坂和志5


「三十歳までなんか生きるな」と思っていた
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書評/



本が好き!PJ”からの献本。
副題(?!)が、”結論に逃げ込まずに、「考える」行為にとどまりつづけろ!”だもんね。 何の迷いもなく、「これは現在の僕が、まさに今読む”本”だ!」と直感。
あぁ〜、だから本は止められない、だから本に依存しちゃう。

保坂和志は、1956年、山梨県生まれの小説家早稲田大学政治経済学部卒業。1995年 芥川賞、1997年 谷崎潤一郎賞平林たい子文学賞受賞。
 公式HP”パンドラの香箱”(http://www.k-hosaka.com/)

あ〜あぁ、言葉にすることに烈しい葛藤が生じる。
だってね、前半を好調に読み飛ばしていったんだけど、当然だけど徐々に深層に入り込み、第4章(最終章)で、ハイデッガーニーチェプルースト失われた時を求めて」、フーコー「言葉と物」人間の終焉、そして、フロイト、、、で、
私は基本的にフロイトの学説を信じているけれど、違和感をいつも感じている。・・・(P.178)”
と書き記され、理論を展開されても、それらの歴史的な大作家、偉大な哲学者や思想家の名前こそ聞いたことがあるものの、あくまでも、「聞いたことがある」のレベルでしかなく、私は一切手にしたこともない。悲しい現実。悲しいけれども、それが現実であり、どんなに悲しんでも、悔やんでも、嘆いても、どうにもならない。烈しい自己嫌悪に打ちひしがれながら、とにかく文字を追った。当然に、文字を自らの目で視覚として認識して、文章としての情報を得た。得た情報を、私は果たして、「理解した、分かった」と言えるのであろうか?、読んだ、ことは読んだ。読んだことによって、情報は得られた。情報を自らのものとした。しかし、得られた情報は、不完全な断片的なものである。その情報を完全なものとして、自らの血肉(知識・経験)とするためには、不足している情報を必要とする。必要とされる情報を補完するためには、前述の偉大な歴史的思想家、哲学者たちの理解を得なければならない。
立ちはだかる壁の大きさに、暫し途方に暮れる。
前提条件が満たされていないのでは、同じ土俵に立つことすらできない。
ん?!、ということは、己は、同じ土俵に立てると思っている、ってこと?!
保坂和志は、十代の頃から自らの内側に深く問い続け、名門 早稲田大学を卒業し、小説家としても、芥川賞などの文学賞を受賞し、その後十年以上も第一線で活躍されている、しかも、五十年以上の人生経験を積み重ねている。
現実逃避を繰り返し、真面目に勉学に励むことなく、知識も経験も努力して自ら積み重ねることをせずに、何となく過ごしてきてしまった、たった三十七年の人生経験しか有しない僕如きが、ここ一年くらい、ちょっと本を読んだからって、、、、


信じるしかない、自分自身を。
堂々巡りとしか見えない話でも、二度目三度目では必ず自分の中に変化が起こっている。変化のほとんどは劇的なものでなく、堂々巡りの回数を重ねて起こるわずかなものなのではないか。―「劇的なもの」を期待するのもまた自我の働きなのではないか、というのが最近の私の予感だ。(P.212)”









”神の視点”
”この世界には時間がかかることがある。しかしその時間を短縮することはできない。”

本「ヒューマンエラーを防ぐ知恵 −ミスはなくなるか (DOJIN選書004)」中田亨5


ヒューマンエラーを防ぐ知恵 −ミスはなくなるか (DOJIN選書004)
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書評/サイエンス



難解な数式がひとつも登場しない。代わりに登場するのは、豊富な事例と、ちょっと笑ってしまうような写真とイラストの数々。
折れ曲がりストローの向きがどうであろうと、私には興味はないが、”向きの呪い 基本編”として、ヒューマンエラー対策が説かれる。日常に潜む、ささやかなことにも、興味を抱いて、客観的に多角的に想像力を駆使して検証する姿勢が、まさに有効なヒューマンエラー対策!?、向きを間違えて折る方の端がジュースに突っ込まれたお茶目な写真(P.175)が、微笑ましい。色々な飲食店での観察と、その考察の結果は、
”客も店もこのエラーによる被害を気にしていない様子”・・・

著者”中田亨”は、1972年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、産業技術総合研究所デジタルヒューマン研究センター研究員。人間の行動メカニズムを情報学認知科学の観点から解明する研究を進めている。

ヒューマンエラー(Human error)を、研究者の視点から紐解く。
”人為的過誤や失敗(ミス)のこと。人によって起こされる、予め決められた(期待した)ことから逸脱した行い・行動のことをいう。安全工学人間工学においては、事故原因となる作業員や操縦者の故意過失を指している。”〜Wikipediaより

産業の発展、機械技術の進歩、情報化によって、引き起こされた人為的ミスの被害が甚大なものとなる危険を秘めている現代社会。
事例として取り上げられいる、”1株を単価61万円で売り、を、61万株を単価1円で売り、の誤発注事故”。
事故の被害は、既に個人が負担でき得る損害を通り越して、重大な社会問題へと発展する。その原因は、たかだか(?!)入力ミス。
事故原因は、人為的な”入力ミス”なんだけれど、その入力ミスに至る原因であり、その背景まで踏めた原因の原因、さらに、原因の原因の原因の究明。再発は絶対に許されない。
単純な責任追及行為に意味はない。責任を追及したところで、今回は、そこに原因が生じた、という事実だけ。だからと言って、責任を不問にすることはできないけれども、誰か(スケープゴート)に責任を押し付けて、「ハイ終わり」では、あまりにもお粗末。表面的な体裁だけを整えたところで、本質的な問題の解消が図られなければ、いずれまた形を変えて同様の問題が噴出する。組織の、システムの、各所に潜む問題点。現場は事故の当事者(所)だから、事故原因となり得る問題点も、その解決策さえも、よく知っている。知っているけれども、現場の人間は、あくまでも現場の人間でしかなくって、客観的な見方、大局的な考え方を得意としない。だから、現場の人間なんだけれども。散見される問題点を、重大な事故を引き起こす前に予測し、見逃すことなく拾い集めて、大局的な対策を講じることが、現場を取り仕切り管理する人間に求められよう。資本主義経済における、利益至上主義とのバランスを保ちながら。

人間は、絶対的に過ちを犯す生き物である。
どんなに抗ったところで、完全にミスを防ぐことはできない。ミスが起こり得る、という前提の下に、組織やシステムを形成し、運用することが求められる。
かく言う私も、30歳、いやほんの少し前までは、「ミスをしないようにしま〜す」などと、寝ぼけたことを、何の恥じらいもなく平気な顔をして放言していた、偉そうなことを言えない。そして、それを疑わない現場の人間を責めても、何も始まらない。
耳を澄ませて、目を凝らして、想像力を最大限に働かせて、多少の損失には目をつぶってでも、重大な事故(ヒューマンエラー)を防ぐ知恵を働かせる。



≪目次:≫
第1章 ヒューマンエラーとは何か
第2章 なぜ事故は起こるのか
第3章 ヒューマンエラー解決法
第4章 事故が起こる前に…ヒューマンエラー防止法
第5章 実践ヒューマンエラー防止活動
第6章 あなただったらどう考えますか
第7章 学びとヒューマンエラー








本「池澤夏樹の旅地図 −Along the footsteps of a lay pilgrim」池澤夏樹5


池澤夏樹の旅地図
 −Along the footsteps of a lay pilgrim
著者: 池澤夏樹
単行本(ソフトカバー): 392ページ
出版社: 世界文化社 (2007/3/1)




僕の軽薄で陳腐な言葉で、池澤夏樹を汚してはいけない。

自伝的作品。
1945年(昭和20年)7月7日生まれとあるから、現在62歳。
37歳の僕にとっては、ちょうど父親の年代。そして、25年後!?
生い立ちから、幼少の記憶を辿り、それが現在の池澤夏樹を形作っていて、大人になって感じて考えてきたこと、自らの足で巡ってきた世界とは、旅であり、足繁く通い、居を構えた、南太平洋の島々、ギリシャ、沖縄、そして現在のフランスに至るまで。
バックパッカーとは異なり、旅を目的とすることなく、職業とする文章を書き記すことを目的として、移動を重ねた地。流されることなく、自らの足で、意志で、大地にしっかりと足を着けて、逃げることなく見据える現実。”旅”が目的であれば、旅をしたことに満足を得て、環境に流されて、考えることをしなくなる。その土地に、興味を抱いたから足を運ぶのであり、足を運んで目にするモノには、更に興味を駆り立てられる。外側から当初思い描いていたモノとは、全く異なる展開だってあろう。そこで、ますますもっともっと知りたくなって、居を構えてしまっても、それは当然の成り行きであり、それによって、そこから情報としての文章を発信することによって、生活の糧を得る。発信する情報や文章が、当初は詩であって、小説であり、エッセイであり、知識や経験や年齢や社会的信用を積み重ねて、政治的な発言に及ぶことも、それは自然の流れ。自らが興味を抱く土地が、沖縄、北海道、ハワイイなど、権力から迫害を受けた歴史を有する土地。決して偶然ではない。求めて、自らのバランスを保つために、空白を埋めるために、必要と感じて訪れた土地。
しかし一方では、自らがその土地に足を踏み入れ、外側に情報を発信する、その行為自体に抱かれる”偽善”との葛藤。独自の文化を有する土地に、部外者として侵入する行為は、少なからぬ影響を及ぼす。外部からの注目を浴びることによって、そこに新たな経済活動が生まれ、欲に駆られる衝動を呼び起こし、乱される均衡。しかし、一方では、それくらいで乱されてしまって、形を変えてしまうものは、その程度でしかなかったと、割り切れなくもないが、自らが欲して得た社会的立場、その影響。
思わず洩れる
「ここはとってもいいところですから、みなさんは来ないでください。」
まさに、それが本音であり、しかし、その言葉によって触発されて、移動が行われ踏み乱されてしまう矛盾。現状を伝え、問題を提起する、その必要性と、そのことによって思わぬ影響が、結果的に乱してしまうバランス、文化。


影響を及ぼし、記憶に残る本、映画。自らが書き記した著作 全63点「異郷の書架」。

著作の一番最初に書き記される
「一生懸命は、本来、一所懸命だった」
歴史を紐解き、人間の本質、本能に迫った時に垣間見える、”土地”に対する愛着、所有欲、執着。
何かの必要がなければ、旅(移動)をすることなど、考えもしない。事情があって、仕方がなくする移動が”旅”だった。

自らを、
”一人で力が発揮できる場がたぶん好きなんだろうね。徹底して非組織的人間だから・・・”
と、語る。








本「なぜ人は宝くじを買うのだろう −確率にひそむロマン (DOJIN選書003)」岸野正剛5


なぜ人は宝くじを買うのだろう −確率にひそむロマン (DOJIN選書003)
著者: 岸野 正剛
単行本: 240ページ
出版社: 化学同人 (2007/4/1)




確率」がテーマ。
言葉の定義は、「偶然に起こる事柄の、起こりやすさの程度を測る物差し」。
とっても身近な”宝くじ”に始まり、競馬であり、賭博であり。当たることを夢見て、信じて、願って、そこに籠めるロマン。
本当は、学術的な展開をしすぎちゃうと、ロマンどころの話しじゃなくなっちゃうので、あくまでも、ロマンを前面に押し出して、ギャンブルの”夢”の可能性たる”確率”に焦点を当てる。
現代の日常的な生活における確率から、歴史を紐解いて解き明かされる”確率”、神様さえも対象として語られる”確率”。何度も何度も繰り返し繰り返し、”確率”に潜む罠であり、その魅力に迫る。単純そうに見えて、とっても奥が深い、底知れぬ愉しみ。
で、現代の日常生活から、歴史を遡って、行き着くところは、やっぱり現代の”株式相場”で締め括られる。宝くじには、夢とロマンがあるけれど、それでも職業には成り得ない。一方、株式相場は、動く金額も市場規模も大きくて、社会情勢や景気、産業分野の栄衰、企業の資産状況、売上や利益の見通しなどなど、個人投資家に培われた経験や知識が大きくモノを言う、厳しい勝負の世界。確率を見逃す訳にはいかないけれど、それ以上の才覚が要求される。
カタストロフィー(catastrophe)「突然の大変動」さえも、確率の一種、と説く。なるほど、突然は偶然であり、起こりやすさの程度が潜み、垣間見ることができる。

易しく分かり易い、宝くじの話しから展開する理論は、突如現れる数式に、一瞬息を呑む。徐々に加速度的に専門的な、難解な数式が登場するも、数式以外の論理が、とっても親しみ易く、分かり易い。数式は、「そういうものだ」、と理解して受け容れるか、はたまた、自らには関係ないものとして、「そういうものがある」、としてしまうか、研究者ではない私たちには選択権があろう。できることなら理解したいと願ってはいるが、残念ながら能力のレベルというものが絶対的に存在している以上、完璧に全てを理解することは不可能だ!?、と開き直る。

そうそう、ギャンブルもね、当たると思うから賭けるのであって、当たることを信じている人にとっては、宝くじの掛け金の25%が既に配当金額から差し引かれていようが、数学的確率が低かろうが、一切関係ない。まさに、夢とロマンを買う、なのであろう。
ちなみに私は、当たる気がしないので、買えない。



≪目次:≫
第1章 宝くじは買うべきか?
第2章 競馬に賭けるロマン
第3章 冠婚葬祭は重なるもの?
第4章 確率がからむ誤解と先入観
第5章 優等生社長が成功する確率
第6章 甲子園出場と確率―どの地区大会が有利か?
第7章 サイコロ賭博師メレの成功と没落
第8章 丁か半か―ゼロの発見
第9章 神は存在するのか?―パスカルの賭け
第10章 株の買いどきはいつ?








本「「見る」とはどういうことか―脳と心の関係をさぐる (DOJIN選書007)」藤田一郎5


「見る」とはどういうことか―脳と心の関係をさぐる (DOJIN選書007)
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書評/サイエンス



すっかりハマってます、DOJIN選書
全部読んじゃいます!
とにかく面白い。とは言え、高度に専門的な科学を、超一流の研究者が解く訳だから「易しく、分かり易く」と言ってみたところで「やさしいだけじゃ物足りな〜い」何てことになっちゃうし、著者の研究者としてのプライドだって満たされない。
「ひぇ〜、そんなの分かんないよ〜、すげぇ〜、さっすがぁ〜」ってところを、チラッと見せることによって、互い(著者と読者)の満足が満たされる。そんな不埒な考えを抱きながら、DOJIN選書シリーズ四作目、残り七作。既に何作かは手中にあったりする。
出逢いは、当然”本が好き!PJ”、自腹で参画、また来て四角!?

で、何冊かを並べて「はて、どれから読もうかな?」と考えるに、著者紹介の顔写真を見比べる、判断を視覚に委ねてみたりする訳です、科学的に。
「うわぁ、流石に研究者って、堅そうな顔してるよ」とか、「おっ、なかなか男前の優男」と、全然科学的じゃない。軟弱な意志と思考を有する者としては、当然に学者顔の、おぢさまには、軽い拒否反応を示したりする。優男の甘い誘惑(?!)に、男ながらに、その気はなくとも、軽くなびく。
一方では、そんな先入観を吹き飛ばすべく、順番を有するモノは、順番通りに行うべし!、と、自らの頑固さが顔を出す。
どうせ、いずれ読むのだ、そのタイミングが、後になるか先になるかの違いだけ。しからば、順番通りに行こうではないか。有無を言わさぬ強引さは、自他ともに分け隔てなく変わりはない。


脳科学
ニューロン、神経細胞のお話し。
著者”藤田一郎”は、大阪大学大学院生命機能研究科教授。
認知脳科学研究室HP(http://www2.bpe.es.osaka-u.ac.jp/)、何やら難しそう。
そして、お顔は、ひげの優しそうなおぢさま。

いやぁ〜ん、
ニューロン、ニューロン、ニューロン。
ニューロン、にょろりん、にょんにょろりん♪
乳論、何て変換したら、怒られちゃう?!、優しく叱って、マイハニー♪

何と、自身が教授を務める、大阪大学基礎工学部生物工学コースの学部二年生後期の「脳科学入門」の授業内容をベースに執筆しちゃった、と言うから、なかなかに高度な内容。
V4野、IT野、MT野、MST野、何て専門的な名称が出るだけで、こちとら、軽く拒否っちゃう。でもね、だからといって「もう、やめてやる〜」とならずに「へぇ〜、そうなんだぁ。そういう世界もあるのね。私の知らない世界、うふふふふ、、、」と、理解できないながらも愉しめる。僕は専門家じゃないし、研究者でもないし、100%の理解を求めて立ち止っているよりも、記憶の引出しにとりあえずインプットして、何かの関連性を有する事柄に遭遇した時に、ひょこっと反応してくれたら、そりゃ面白いよねぇ〜、のレベル。
そうそう、「だまされる視覚 錯視の楽しみ方 (DOJIN選書001)」の北岡明佳の作詞図形「蛇の回転」が引用されていたりしちゃう。記憶の引出しが、ピンと反応すると、何だか嬉しくなっちゃう、一度呼び起こされた記憶は、より鮮明に、埋もれることなく刻み込まれる。正直、日々積み重ねられる記憶に、とりあえず情報としてインプットされても、そのまま埋もれて消え失せる記憶は少なくない。だからこそ、せっかくインプットした情報が、何かにとっさに反応を示せるように、ナチュラルな状態でいることによって確率を高めたい、一方では、確率の問題であるから、インプットする情報を多くすることによって、反応しうる情報に多く触れることによって、ますます確率を高める努力を怠ってはならない。

そうそう、脳科学の最先端を説いている本書の内容は、そんな訳で、要約できるほどの理解を得ていない。
それがどうした、ぼくドラえもん♪








本「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦5


夜は短し歩けよ乙女
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書評/国内純文学



純愛物語、青春恋愛小説 森見登美彦バージョン。
そう、”本が好き!PJ”でも、2/1受付開始にて献本されていた。その後、2007年4月 本屋大賞第二位、5月 第20回山本周五郎賞受賞、7月 第137回直木賞候補と、何かと話題になった作品。
直近の9月には、新作「有頂天家族」が刊行され、Amazonでは、何と12レビューが、全てオール星5つの高評価。人気の程が窺える。

黒髪の乙女への純愛を画策する男子大学生。
若者男子ならば、恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ弾ける若さと勢いで、真っ正面から猛烈アタック!
とは行けない若者だっている訳です。自分自身の身の程を知れば知るほどに、未熟さ、経験不足、で、愛とは?!
突き詰めていくと、
”私は性欲に流される、私は世の風潮に抗えない、私は一人の淋しさに耐えられない―”(P.294)
に尽きてしまう。
伝えたい想い、伝えることができない想い、気付いて欲しい、募る想いは、あくまでも偶然を装って、憧れの乙女の記憶に入り込みたい。「奇遇ですね」、とサラリと言い退ける心中は穏やかではないけれども、だからといって、他に何が言えようか。
二人を巡る仲間たちとの騒動の中、乙女の心に変化が顕れ、いつしか・・・
何とも、奇妙な展開の馬鹿馬鹿しさ。
日本の古都、京都を舞台に繰り広げられる、奥ゆかしき若者の、男女の清い純愛。想いのストレートさに反して、とっても回りくどい作戦は、当然に予想通りにいかないことの方が多い。思いもよらぬ馬鹿馬鹿しい展開に、気が付けば、運命の糸が手繰り寄せられ、、、

ごちそうさま。








展覧会「岡倉天心 −芸術教育の歩み」東京藝術大学大学美術館5

展覧会「岡倉天心 −芸術教育の歩み」表東京藝術大学創立120周年企画『岡倉天心 −芸術教育の歩み』
 Okakura Tenshin −The Course of Art Education


橋本治の「ひらがな日本美術史7(近代篇)」を読んだら、行かない訳にはいかなくなった。
江戸時代(〜1867)の鎖国政策を開放して、西洋文化がやってきた明治時代(1868〜1912)。フランスパリでは、印象派が登場した時代。と、それ以降の日本の美術史を語る上で、その発展に少なからぬ影響を及ぼした、1887年(明治20年)の「東京美術学校」の開校。後に、現在の「東京藝術大学」に引き継がれ、1952年に閉校する。
アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa,1853.2.18-1908.9.21,アメリカの東洋美術史家哲学者)、狩野芳崖(かのう ほうがい,1828.2月27-1888.11.5)と共に、学校創設に深く関わり、27歳にして第二代校長の座に就いた、天心・岡倉覚三(1863-1913)。
美術の教育指導、環境整備に止まらず、資金調達目的ではあったものの、展覧会を開催したり、制作請負を募り、また一方では、模写による文化財の保護、美術団体の支援、美術行政の整備まで、幅広く精力的な活動が行われた。
その周辺の活動の記録や、関係した作品の数々の展覧会。
岡倉天心自身は、東京大学を卒業した、文部省官僚。晩年の著作こそあれ、絵画などの美術作品を遺していない。現場のプレイヤーではなく、プロデューサーマネージャー
展覧会「岡倉天心 −芸術教育の歩み」裏岡倉天心(1863-1913)は、明治期に活躍した美術家、美術史家、美術評論家、美術教育者。本名は覚三(かくぞう)。横浜生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。
福井士だった父親は貿易商で、幼い頃から英語に慣れ親しむ。
東京開成所(のちの官立東京開成学校、現東京大学)入所し、政治学・理財学を学ぶ。
1880年に東京帝国大学卒業、文部省に勤務。英語が得意だったことから、アーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝い、日本美術の調査を行った。
1882年(明治15年)には、専修学校(現専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。文部省専門学務局内記課との兼任。
そのことが、東京美術学校の創設に活かされ、1886年〜1887年の東京美術学校設立のための欧米視察旅行の後、1887年に東京美術学校幹事。東京美術学校は1889年開校した。1890年に校長に就任の後もさかんに教鞭をとり、横山大観(よこやま たいかん,正字体:大觀,1868.9.18-1958.2.26,本名:横山秀麿 ひでまろ)、下村観山(しもむら かんざん,1873.4.10-1930.5.10)、菱田春草(ひしだ しゅんそう,1874.9.21-1911.9.16)らを育てた。
ところが、1898年に東京美術学校を排斥され辞職。日本美術院を発足。
1901年〜1902年、インド訪遊。
1904年、ボストン美術館 中国・日本美術部に迎えられる。ボストン市を往復することが多くなり、それ以外は茨城県五浦アトリエで過ごす。
晩年には、日本の芸術文化や思想を、英文著作に遺す。
『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』1903年、日本語訳『東洋の理想』
『The Awakening of Japan』1904年、日本語訳『日本の目覚め』
『THE BOOK OF TEA』1906年、日本語訳『茶の本』
 〜Wikipediaより

茨城県天心記念五浦美術館
 http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/






国立西洋美術館にて開催していたイベント”光彩時空 '07”
陽が落ちると晩秋の風は冷たく、早々に退散した・・・

イベント「光彩時空 '07」国立西洋美術館 表イベント「光彩時空 '07」国立西洋美術館 裏

本「新薬、ください!―ドラッグラグと命の狭間で」湯浅次郎5


新薬、ください!―ドラッグラグと命の狭間で
著者: 湯浅次郎
単行本: 238ページ
出版社: 新潮社 (2007/09)




日本テレビ放送網 報道局カメラマン、ドキュメンタリー番組ディレクター”湯浅次郎”による、医療ノンフィクション。
2005年5月8日の深夜、正確には5月9日0時25分から、「NNNドキュメント」、タイトル『1億3千万分の300=0ですか? 〜治療を求める稀少難病患者たち』として、ムコ多糖症を主題に放映されたテレビドキュメンタリー番組の取材と撮影に携わった。通常三十分間の番組の拡大枠(五十五分)は、通常の倍の放映時間、テレビ局の熱意の程が窺える。
50万人に1人の確率。子供たちが苦しむごく稀な病気に、待ちに待った治療薬が米国で開発された。その薬が先進国中、日本にだけ入ってこない。薬事行政の壁が、日本の患者たちの生きる希望の前に立ちはだかる。薬の安全性を証明するため、中井耀君(6)は父親と米国に渡り、新薬の治験に参加した。慣れない外国暮らしと家事に懸命の父。寂しさに堪えて治験に臨む耀君。日本に残る母…。「稀少難病」をめぐる問題と懸命に未来を切り開こうとする家族の姿を追った。〜過去の放送記録より抜粋
番組は、案の定大きな反響を得て、メディアの力が、日本の薬事行政が抱える『ドラッグラグ』問題に風穴を開けた。厚生労働省は「有効で安全な医薬品を迅速に提供するための検討会」を設置して、2006年10月に第一回の会合を開き、欧米で運用されている未承認薬の例外使用制度(CU)の検討を始めることになった。

取材を開始した当時の実情、欧米で認証され流通している治療薬が、日本での認可を得るまでに費やされる膨大な時間。日本人の治験よる日本での相当な期間を経たデータと、煩雑で膨大な申請書、審査が、日本での認可条件とされる。その結果、新薬の開発や発表は、欧米が先行され、日本での販売が相当以上に遅れることが少なくない。発売さえされないケースも多いという。
製薬会社は民間の企業だから、充分な利益が見込めない事業(稀少難病の新薬の認可、販売)に、投資することに二の足を踏む。だから、稀少難病の治療薬は、大手製薬会社が尻込みして、ベンチャー企業の領域とされる。大手の資本が注入されない、隙間。ベンチャー企業は、小回りが利くものの、資金や人手、何よりも経験が圧倒的に不足する。治験の実施、薬事行政機関に提出する膨大な申請書の事務作業だって、大きな負担。大手企業のように、段取り良く進行しないことも少なくないであろう。
日本の薬事行政機関の担当者、役人(公務員)は、全くもって歯切れが悪い。それも、ある意味では仕方がない。公務員の役目は、あくまでも法律に基づいて国民の権利義務を守るための事務を掌る。個人の意見や意志、特に利益に惑わされることなく、公平に執務することが求められる。憲法第15条には、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と規定される。利益をひたすらに追及して、常に変化し続ける民間企業とは、性質を異にする。全体の奉仕者、だから、特定の個人や団体に肩入れすることが許されない。解釈の問題ではあろうが、制定された法律には、それなりの必要に基づいた理由があり、歳月の経過や社会状況の変化に合わせて変化させる必要があるものの、その性質上、どうしても慎重にならざるを得ない。安易にコロコロと変更されても、それはそれで困ってしまう。現実的には、法律はコロコロ変わる部分が少なくない!?、が。

一筋縄ではいかない問題。
何が正しくて、どの方法が最良であるのか、大局的な判断が求められよう。


ドキュメント番組の如く、個人的な感情の抑揚を極力排除して、淡々と進行する。その静謐さに感情が研ぎ澄まされる。
患者本人、家族は勿論、周囲の人々の真実に基づいて綴られる言葉が、その想いが、心を大きく揺さ振り、深い感動を呼ぶ。



≪目次:≫
プロローグ 新薬をください
第1章 ある難病患者の渡米
第2章 「ドラッグラグ」に殺される
第3章 動き始めた患者とその家族
第4章 「1億3千万分の300=0」ですか?
第5章 はたして薬事行政は動くのか
第6章 治療薬承認がゴールではない
エピローグ 未来の患者たちのために


ムコ多糖症(ムコたとうしょう,Mucopolysaccharidosis,MPS)とは、遺伝的な要因による先天代謝異常疾患である。正式名はムコ多糖代謝異常症。ライソゾーム病の一種で、代謝がうまくいかずムコ多糖(グリコサミノグリカン)が蓄積してしまう疾患であり、小児難病であり、特定疾患に指定されている。 〜Wikipediaより


ムコネット≪NPO法人 ムコ多糖症支援ネットワーク・燿くん基金≫
 http://www.muconet.jp/index.html








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