Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2008年02月

本「欲望する脳 (集英社新書)」茂木健一郎5


欲望する脳 (集英社新書)
著者: 茂木健一郎
新書: 224ページ
出版社: 集英社 (2007/11/16)




あぁ〜、茂木健一郎を読み飛ばすことができない♪
既に脳科学者であり著作家として、地位を確立している茂木健一郎が、ぼくの心に語り掛けるのは「愛知(philosophy)」、とどのつまり、科学であり学問であり、すべては「愛知」に集約される。


そう、床屋のラジオ(有線?!)から流れるムード歌謡に、思わず反応した。詳細な歌詞は失念してしまったが、切なげに唄いあげる男性の「ただあなたに謝りたい、許して欲しい」のようなフレーズ。何とも言えなく漂う悲哀に、思わずホロリとさせられて、、、ふと我に返る。
「謝ることによって、赦されるのであろうか?」

謝って赦しを得る得ないは当事者同士の問題であり、謝罪の意志表示に対して下す判断について、第三者が余計な口を挿むことは咎められよう。人間は過ちを犯す動物である。あまりにも生真面目で雁字搦めの理論を展開することは、円滑な社会生活を阻むことにもなりかねないから、遊びの部分も必要とされよう。むしろ、あまり拘って考え過ぎない方が、良好な人間関係を保ち、社会生活を営むに適する。
ところで、既に自らが引き起こした(起きてしまった)問題について、「謝罪の意を表し」ているのだから、「当然に赦す(赦される)べきだ!」との考えがある一方で、表した謝意に介在する心理を考察したい。
謝意には、当然に反省が含まれて詫びる気持ちが在る一方で、そこには「謝っているのだから赦せ!」との主張が含まれる。相手に不利益を与えておきながら、その不利益を実質的に償うことなく、また仮に償ったとしても、一度損なわれてしまったものは決して元には戻ることがないのであるから、「赦して欲しい!」と懇願する言動であり思考のエゴイズム、あくまでも自己都合でしかない。
そう考えるに、謝意を表する行為は、自らの行動の「取り消し、無効の主張」となり、自らの行動の責任を放棄する、無責任ともなろう。当然に、犯してしまった過ちによって与えてしまった不利益に対して、相応の償いをして然るべきであり、賠償責任の放棄など言語道断。

そう考えて、だからこそ、ぼくは赦したい。そう、赦さなければならない!、仮に、決してぼくが赦されることなどなかったとしても、、、

自分のことにしか関心がないナルシシズムは醜いだけである。客観的な批評基準に準拠せずに、延々と自分語りを続ける人たちにはうんざりさせられる。その一方で、他人に心を開き、あまりにもスムーズにコミュニケーションを続けるだけの人間にも、どこか信用できないものを感じる。真摯であれば、時に他者を避けるのが自然ではないか。自分の内に籠り、鬱々とする時間もまた必要なのではないのか。人間の知性の本質が社会性にあるのが事実だとしても、時には「我」の中に閉じ籠って曰く言い難い私秘的な思いを醸成することなくして、深い世界洞察にも、気持ちの良い創造的飛躍にも到達することはできないだろう。私たちは、人間の精神のあり方について、そのような直感を持っている。
一般に、人間の成り立ちに関する考察は、AかBかという形で立てられた時にはそのどちらでもなく中庸が正しい。(中略)
ナルシシズムも関連性への丸投げも生き方としては拙い。自己を他者に対して、そして世界に向かって開かなければならないのはもちろんだが、狭くてやり切れない自己の内に立て籠もるやっかいな歓びを知らない人に対し、世界はその秘密を解き明かしてはくれない。時には、世間との交渉を第一義とせず、狭い世界の感触だけに没入することが、思いも掛けない広大な表象空間への鍵を開けてくれることもある。 (P.132-P.133)

≪目次: ≫
 01 心の欲する所に従うこととは?
 02 欲望に潜む脆弱性
 03 意識ある存在にとっての倫理
 04 主語に囚われずに考える
 05 個別と普遍
 06 現代の野獣たち
 07 現代の多重文脈者たち
 08 子供であることの福音
 09 「精しさ」に至る道筋
 10 私の欲望は孤立しているのか?
 11 デジタル資本主義時代の心の在処
 12 人間らしさの定義
 13 夢の中でつながっている
 14 欲望の終わりなき旅
 15 容易には自分を開かず
 16 近代からこぼれ落ちた感情
 17 不可能を志向すること
 18 アクション映画とサンゴの卵
 19 欲望と社会
 20 一回性を巡る倫理問題
 21 魂の錬金術
 22 生を知らずして死を予感する
 23 学習依存症
 24 一つの生命哲学をこそ








本「責任と癒し −修復的正義の実践ガイド THE LITTLE BOOK OF RESTORATIVE JUSTICS」ハワード・ゼア、森田ゆり 訳5


責任と癒し −修復的正義の実践ガイド  THE LITTLE BOOK OF RESTORATIVE JUSTICS
Amazonで購入
書評/心理・カウンセリング



ぼくは何事にも否定的で、成功するイメージの前に、失敗する(上手くいかない)イメージばかりが鮮明に浮かびあがる。
そう、築地書館から“本が好き!PJ”経由の献本があって、落選して献本を逃すも、どうしても気になって自腹で参画!
そうだよね、修復的正義プログラムが実践されるといいと思う。司法の手続きは、どうしても事務的に執り行われることが求められて、なかなかに個人の尊重を図り切れない。
・・・私たちは加害者が人生で経験した被害を探究しなければならない。
調査によれば、加害者の多くがかなりの程度の被害にあっていたり、トラウマを抱えていたりすることがわかっている。こうした被害、または被害を受けたという認識は、犯罪の原因の重要な一つである。実際ハーバード大の教授であり元刑務所精神科医のジェームス・ギリガンは、すべての暴力は公平を求めて、あるいは不公平を正そうとする努力であると論じている。別の言葉でいうならば、犯罪の多くは、被害者であることをくつがえそうとする反応である。
被害者であるのと自己認識は加害行動に対する責任を免ずるものではない。しかし、ギリガンが正しいとすれば、この被害者意識を明らかにすることなく加害行動を終止させることはできない。実際、懲罰はこの被害者意識を一層強める結果を招くことが多い。加害者の中には、自分自身の被害意識を認めてもらえろだけで納得する人もいる。彼らが自らの被害者意識を克服するように働きかけることも必要になる。加害者が自分の行動を変える前に損害が修復されなければならない。
これには反対意見もあり、特に多くの被害者にとっては受け入れがたい事柄である。加害者の弁明のように聞こえる。そもそも被害を受けても加害者になる人とならない人がいるのはなぜなのか。それでもわたしは、加害の原因を減らす試みには、加害者が自らの被害体験を探求することがなくてはならないと確信している。 (P.41-P.42)
それでも、そもそも修復的正義が、不正義に対する非暴力的な平和手段による解決への取り組みであり、そう簡単に一筋縄にはいかない。誰でもが取り組める万能なものでもなく、それなりの高度で広範な見識とレベル(能力)を要求される。
どう考えても、司法に任せてしまった方が簡単に進行する。
簡単で便利で分かり易いことが、ある意味では広く必要とされることを理解した上で、それでも、人間という、言葉を有して、相互にコミュニケーションを図り、複雑な社会生活を営む存在が、個人が、そんなに簡単に扱われてなるものか。


≪目次: ≫
 1章 概観
 2章 修復的原則
 3章 修復的実践
 4章 「あれかこれか」なのだろうか?
 補遺 修復的司法の基礎的原則








本「反哲学入門」木田元5


反哲学入門
著者: 木田元
単行本: 237ページ
出版社: 新潮社 (2007/12)




ついに足を踏み入れてしまった!?、と、軽い身震いを感じる。
いや、それでも書けないよ〜、やっぱり無理無理、だってぼくは何にも分かってない、分からない。理解しようとすること自体に、既に無理がある。そりゃぁ、聞いたことがあって、密かに興味を抱き始めた偉人(哲学者)たちの名前がズラズラズラズラと、それが古代ギリシアから歴史が紐解かれ、体系的に懇切丁寧に説かれちゃったら、なるほどなるほど、す〜っと沁み込む。が、仮に沁み込んできたとしたって、いやぁ〜、分からない分からない、嬉しくなっちゃうくらいに分からない。ホントに、何でこんなに分からないんだろう♪
そもそもぼくは、“哲学”が何なのかを知らない、理解していない。かといって、いまだによく分からないまま。
それでも、ぼくは離れることができない。

そう、ぼくにとっての哲学デビューは20日前、池田晶子「14歳からの哲学 (トランスビュー,2003.3)」で、11歳の迷える我が娘のためのリサーチ、という大義名分の下に、、、何だか深く暗い部分にずるずるずるっと引き摺り込まれていくような、それでいて不快な感じがまったくしない、妙な心地好さ♪
という訳で、書店でこの『反哲学入門』のひときわ目立つオレンジ色の装丁、新潮社、1928年生まれ(79歳)の著者。何故に“反”なのかを考える間もなく、“入門”が目に留まる。そして、年若い著者の勢いに溢れる著作もいいけれど、「なにぶん初めてなもんですから」、ここは老練な豊かさで、急き立てられることなくじっくりと。それから、ぼくの中での“新潮社”の位置付けって、どこか特別で、それはぼくが参画させていただいている“本が好き!PJ”経由で献本いただいた著作が、いずれも秀でていてハズレがない。何より軽薄な印象がしない。そんなこともあって、新たなジャンルや著者の作品が、新潮社の責任編集(?!)による著作から導入できるというのは、実に心強い。そしてやっぱり、期待は裏切られない♪
さらには、何と著者“木田元”に師事していた“池田晶子”という繋がりが、本を手にした後にWikipediaから判明し、ぼくは大きな追い風を背中に感じながら、分からないなりにも気持ち好く読み進む♪、そう、豊かで優しい語りに包まれて。

しかし、参った。いきなり否定されちゃう“哲学”とは、麻薬だ、と、、、
「哲学」についてのわたしの考え方は、かなり変わっているかもしれません。わたしはどうも「哲学」というものを肯定的なものとして受けとることができないのです。社会生活ではなんの役にも立たない、これは認めなければいけないと思います。しかし、それにもかかわらず、百人に一人か、二百人に一人か、あるいは千人に一人か割合ははっきりしませんが、哲学というものに心惹かれて、そこから離れることのできない人間がいるのです。わたしもそうでした。答えの出そうもないようなことにしか興味がもてないのです。(中略)
・・・哲学から抜け出せないことは、とても不幸なことなのですがね。わたし自身、後悔はしていませんが、哲学にとり憑かれなければ、もう少し楽な生き方ができたと思います。哲学は不治の病のようなものですよ。わたしのばあい、哲学を自分の仕事としたために、哲学がもつ毒をよく理解することができました。
だから、人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています。(中略)
わたしの書く入門書は、同じような不幸を抱える人を読者に想定して書いています。同病相憐れむですね。だから、「子どものための哲学」なんて、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。
哲学なんかと関係のない、健康な人生がいいですね。
 (P.17-P.18)
 、、、、、、先生、実はつい数日前に、11歳の我が娘の小さな手に、「14歳の君へ(池田晶子,毎日新聞社,2006.12)」を渡していて、、、今さら引き上げるのも、読むなと言うのもおかしいし、、、、えぇ〜い、こうなりゃ野となれ山となれ、ぼくが正しい理解を深めるしかない!?


≪目次: ≫
 第1章 哲学は欧米人だけの思考法である
 第2章 古代ギリシアで起こったこと
 第3章 哲学とキリスト教の深い関係
 第4章 近代哲学の展開
 第5章 「反哲学」の誕生
 第6章 ハイデガーの二十世紀








・・・談話というのはどうしても雑になり、四角い部屋を丸く掃くようなことになるところです。話が面倒になるのを避けようとして、適当なところで切り上げてしまいます。この本にもそういったところのあるのに気づきましたが、あとから補足するのは結構むずかしいものです。書いたものと話したもの、それぞれに一長一短があると思いました。
そこで、本書をお読みくださって、どうも話の辻褄がうまく合っていないと思われたり、この先話がどうなるのか気になったりされる方のために、私がこれまで書いた本をいくつか挙げておこうとおもいます。そのあたりの疑念を晴らしていただくのに役立ちそうですから。
哲学史については、

反哲学史 (講談社学術文庫)
文庫: 270ページ
出版社: 講談社 (2000/04)


わたしの哲学入門
単行本: 427ページ
出版社: 新書館 (1998/03)


ニーチェ現代哲学については、

マッハとニーチェ −世紀転換期思想史
単行本: 361ページ
出版社: 新書館 (2002/01)


現代の哲学 (講談社学術文庫)
文庫: 248ページ
出版社: 講談社 (1991/04)


最終章のハイデガーについては、

ハイデガーの思想 (岩波新書)
新書: 240ページ
出版社: 岩波書店 (1993/02)


ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫)
文庫
出版社: 岩波書店 (2000/01)


哲学と反哲学 (岩波現代文庫)
文庫: 283ページ
出版社: 岩波書店 (2004/8/19)

 (P.235-P.236)

本「生きて死ぬ私 (ちくま文庫)」茂木健一郎5


生きて死ぬ私 (ちくま文庫)
著者: 茂木健一郎
文庫: 236ページ
出版社: 筑摩書房 (2006/05)




う〜ん、まさに『生きて死ぬ私』♪
何のことやら読む前には、分かったような分からないような!?、正直特にまったく気にすることもないタイトルだったのに、途中からビシビシと言い得て妙♪、そう、「当たり前!」と言ってしまえば、そりゃぁ〜当ったり前のことで、この世に生を受けた私という存在は、今を生きていて、やがては必ず死ぬ。死なない人はいないし、生きていなければ、生まれ出でなければ死ぬことだってもできやしない。当たり前すぎて、普段は真面目に考えることをしない、けど、紛れもない真実。

およそ10年前(1998年6月、徳間書店より刊行)、当時33歳の茂木健一郎の熱い熱い思想!?、エッセイの文庫版。実は、出版社が本来要求したのは、臨死体験脳科学の書き物だったらしい。

“死”とか“生”とか、誰しもが考えることをテーマに、自らの体験から導き出される考察は、ウネウネウネウネと果てしもなく繰り広げられる。哲学であり、母と仏壇であり、大学院の研究のために殺した一羽のウサギであり、箱庭の猿、、、、、
そのような姿勢は、その頃の私の姿そのものだった。自分が勝手に「普通の人々」と決めつけた集団の中に、完全に溶け込むこともできず、また離れることもできず、そんなどっちつかずの悩みの中に私はいた。 (P.145)

≪目次: ≫
 第一章 人生のすべては、脳の中にある
 第二章 存在と時間
 第三章 オルタード・ステイツ
 第四章 もの言わぬものへの思い
 第五章 救済と癒し
 第六章 素晴らしすぎるからといって








本「インテリジェンス人間論」佐藤優5


インテリジェンス人間論
著者: 佐藤優
単行本: 269ページ
出版社: 新潮社 (2007/12)




ぼくが“ロシア”に抱かれる興味。
対外的に(?!)ひと言で纏めるならば(誰もそんなことを求めはしないであろうが、時に一見軽薄を装って相手の様子を窺う、準備を整える姑息!?)、「今さら、脳天気に明るい南国って柄じゃないでしょ」、そう、「暗く冷たく古臭い♪」、かつて、キリスト教ロシア正教会国教に掲げ、広大な領土に支配を拡げたロシア帝国(1721-1917)であり、その後に現在の覇権国家アメリカ(西側資本主義陣営)との、二極化体制(東西冷戦)の一極(東側共産主義陣営)を担ったソビエト社会主義共和国連邦(1922-91)、で、ソ連崩壊(『自壊する帝国(佐藤優,新潮社,2006.5)』)を受けて、ロシア連邦として立て直しを図りつつ、それでも超大国然として世界情勢の大きな鍵を握っている。
『地図で読む世界情勢(草思社,2007.7)』
計画経済の破綻などから生じた矛盾やらで自壊しちゃった共産主義だけど、かといって他方の資本主義が健全に機能しているとも思えない。現在覇権国家たり得るアメリカだって、いつ破綻してもおかしくないボロボロの状態。
『ボロボロになった覇権国家アメリカ(北野幸伯,風雲舎,2005/01)』
『中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日(北野幸伯,草思社,2007.9)』
ぼくは残念ながら、共産主義の思想の根っこの重要な部分の理解が得られていないのだけれども、思想(イデオロギー)のひとつとして、興味を抱いている。それは、宗教についても同じであり、これだけ科学技術が発達してしまって、結果的に存在が証明されなくなってしまった神さまや仏さまを、今さら崇める気にはなれないのだけれども、歴史的にもひとつの文化であることに相違はない。

私は、今回の事件に巻き込まれた結果、非政治的になったのではなく、そもそも非政治的な人間であったのに、どこかで運命の歯車が狂って、政治の渦に巻き込まれてしまったのだということに気づいた。それを軌道修正することによって、現実の政治から距離を置き、過去に退却し、埃にまみれた書物の中から日本国家と日本人が生き残る知恵を見出し、読書界に提示することが、私の役割分担なのだと思っている。 (P.31)
と書き記す佐藤優の言葉を、そのまま額面通りに捉える訳にはいかないけれども、私を含めて“平和ボケ”(平和を否定しないし、ボケだって時に必要で、皆がピリピリ研ぎ澄まされちゃったら生き辛い!?)してしまった多くの日本人には、軽薄なマスメディアに煽られた短絡的でピントが外れた噂ネタじゃない、信頼に足る多角的、客観的で正確な情報が必要だ!
死を内包する戦争を意識するところから思想は生まれるのだ。裏返して言うならば、戦争を意識しないような思想は、偽物とはいえないにしても「思想の抜け殻」にすぎないのだと私は考えている。
敗戦から62年を経て平均的日本人にとって戦争という形態で迫ってくる死は遠くなってしまった。宗教戦争や民族対立で命を奪ったり奪われたりするということも日本人の皮膚感覚で理解しづらい。日本人は死を意識することが不得手になってしまったのだ。死を意識しなくなるということは、死の対概念である生を意識しないことでもある。この辺に日本の現代思想がヤワになってしまった根本原因があると私は思っている。 (P.258)

≪目次: ≫
 第一話 鈴木宗男の哀しみ
 第二話 橋本龍太郎と日露外交
 第三話 私が見た「人間・橋本龍太郎
 第四話 小渕恵三の“招き猫”
 第五話 新キングメイカー「森喜朗」秘話
 第六話 死神プーチンの仮面を剥げ
 第七話 プーチン後継争いに見る凄まじき「男の嫉妬」
 第八話 日露対抗「権力と男の物語」
 第九話 「異能の論客」蓑田胸喜の生涯
 第十話 怪僧ラスプーチンとロシアン・セックス
 第十一話 スパイゾルゲ「愛のかたち」
 第十二話 金正日レシピー
 第十三話 有末精三のサンドイッチ
 第十四話 「アジアの闇」トルクメニスタンの行方
 第十五話 インテリジェンスで読み解く「ボロニウム210」暗殺事件
 第十六話 不良少年「イエス・キリスト
 第十七話 ニ十一世紀最大の発見「ユダ福音書
 第十八話 ラスプーチン、南朝の里を訪ねる
 第十九話 ティリッヒ神学とアドルノ









本「音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書)」茂木健一郎、江村哲二5


音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書)
著者: 茂木健一郎、江村哲二
新書: 191ページ
出版社: 筑摩書房 (2007/05)




茂木健一郎の、ぼくを「意外♪」と思わせた、熱〜い語りがあった「脳と日本人(文藝春秋,2007.12)」は、松岡正剛との対談の書籍化。日本の国家を憂い、怒りすら滲ませて語る熱い想いは、、しかしその後、す〜っと、いつものおっとり柔和な茂木健一郎(ぼくにはそう刷り込まれている)に戻っていて、あっという間の出来事だったけど、ぼくにとっては充分にインパクトがあって、もうしばらく読み解かないと!
そして、「11歳の我が娘に読ませたい!」という親のエゴから、橋本治「勉強ができなくても恥ずかしくない(筑摩書房,2005.3)」に端を発した“ちくまプリマー新書”シリーズは中高生向け。今のところ、四作品を順調に読了してくれていて、もっかのところは、池田晶子「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」を、14歳を前に読ませていいものなのかどうなのか思案中。14歳と11歳とでは、実際の年齢差の3年以上の大きな違いがあるであろう。などと考えながらも、自分勝手なぼくとしては、ぶっちゃけ、毎日毎日の書き記しを絶やさないためにも読了したい(本末転倒?!)のであったりして、読み易い著作は“渡りに舟”。毎日片道一時間以上もの通勤時間を費やして、給与所得を得ている身としては、時に「何でこんなに義務感のように本を読んでるんだろうか??」と思わないこともないんだけれども、だって一銭の金銭をも得られない(”本が好き!PJ”から献本という書籍の現物支給は受けているが、アフリエイト収入はいまだゼロ)、単なる自己満足の世界でしかないから。
そう、ぼくにとっては必要な作業、“お金では買うことのできない、本当に大切な何か”が在ると信じて。
ちなみに、我が娘は3歳からピアノを習っているものの、ぼくに音楽の素養は一切ない。ピアノもギターも、まったく無縁。まぁ、愛用のiPod shuffleは、購入以来およそ3か月間、ず〜っとショパンのピアノだけを奏でているけれども♪

と、ウダウダと能書きばかり書き並べ(思惑を巡らせ)、読み始める前に、ひょいと共著者の“江村哲二”をウェブ(Wikipedia)で検索。本には、1960年生まれ(茂木健一郎は1960年生まれ)の作曲家、作曲学の大学教授。作曲を独学で学び、国内外での受賞歴多数、、、とある。えっ・・・・・・・、しばし絶句の意味は後述するとして、「なるほど正解!」、音楽にまったく無知なぼくに、音楽の『基本のき』から説く。流石は教授?!、読者を置き去りにしない温かい配慮に感謝。一方では、互いのプロフェッショナルな側面を存分に尊重して、気持ち好く引き出す術は、「このふたりの対話を書籍化したい!」と出版社を思わせるに余りある。
[江村] 先ほども「何ができるかじゃなくて、何がしたいか」という話になりましたが、結局自発的なものがあるかどうかということだと思います。
僕も小さいときから作曲はしていましたが、いよいよ本格的に取り組もうというときに、ある先生に「この先どうしたらいいのか」と聞いたのです。そして「とにかくひたすら10年間、がむしゃらにやってみなさい。それでもし結果が出なかったら、それ以上はもう時間の無駄だからやめなさい」と言われました。
馬鹿正直な私はその言葉を信じて、音になるあてのない楽譜をひたすらに書いていたのです。社会からは何の評価もされない。全くの個室世界が続きました。苦しい時期が続いて「これでやめよう」と思って書いて送った曲が、思いがけず国際コンクールで優勝したのです。それは、その先生にその言葉を言われてちょうど10年後のことでした。
その先生に「10年たったら結果が出ましたよ」と報告したら、「そりゃあそうでしょう。普通は10年も続かないよ」と言うのです。10年続いたというだけで、大なり小なり何らの結果は出る。ほとんどの人は途中で断念するか、あるいはアイデアが枯渇する、というわけです。だから芸大や桐朋などの一流の音大に入ったということは問題ではなく、ひたすら自分で何かやりたい、書きたいという意欲が何よりも大事だということです。 (P.50-P.51)

[江村] ・・・ミュージカルの本場であるアメリカは、やっぱり拝金主義みたいなところがありますね。
[茂木] 儲かればいいんだね。
[江村] そう。売れてなんぼというところがある。だけどお金を儲けること自体は、別に悪くなないけどね。
[茂木] その極悪的な発言、大事ですね(笑)。
[江村] それを目的としてはいかんけれども、結果としてはいいと思います。
[茂木] じゃあ江村さんは作曲家として、これを書けば俺はリッチになれるということがわかっていたら、書きますか?
[江村] そういうことはしませんね。本当に書きたいものを書きます。
[茂木] 儲かるか儲からないかという判断は、あらかじめ読もうと思えば読めるものですか?
[江村] いや、読めないです。特に僕は金銭感覚がないからだめだよ。
[茂木] でも自分が創り出したものでリッチになるという意味では、アンドリュー・ロイド・ウェバーは大成功したわけですね。爵位までとったけど、イギリスの定評ある新聞の投書欄には「ハイドン ヘンデル ロイド・ウェバー へっ!」って書かれたりする。作曲家としては、どちらが幸せなのでしょうか。
[江村] 自分がやりたい曲をやるというのが一番だと思います。それが実現できて、結果としてお金が入ってくるんだったら、それは厭わない。だけどお金が目的になることは絶対にない。とは言え、お金が動かなければ仕事として成り立たないわけで、売れない作品を書いても、それはプロではない、という問題にもなります。 (P.123-P.125)

[茂木] 作曲家がどうやって生活しているかという話は一般の人々にとって面白いかもしれない。
[江村] 現実的な話になると、ちょっと夢を奪ってしまうかもしれないな(笑)。
[茂木] そういう現実を知るのも大事だと思います。・・・・(敢えて、中略)

[茂木] そうか。台所事情はなかなか厳しいのですね。でも経済的な困難に抗っても、残していくだけの絶対的な価値があるというのはわかります。 (P.125-P.127)

何故か、おもむろに飛び出す、小林秀雄やら、ニーチェ。そう、かつての無知なぼくだったら、強い拒否反応を示す場面。「無関係なものを引き合いに出すな!」という言葉が、そのまま「せっかく現実逃避してまでして視界の外に追い遣って蓋をした“無知”をわざわざ知らしめやがって、この野郎!?」に。やっと普通に、「え〜っ、そういう展開ってありなんだぁ♪ なるほど、そこからそう来る訳ね♪ そういう導き方は興味深い♪」で、まだまだ分からないことは山積みだけど、それでも、かつて無理矢理(?!)に詰め込んだ記憶の断片に触れて、ムクムクと浮かび上がる快感♪、もっともっと勉学に励もう!


脳天気もほどほどにして、
『2007年6月11日、膵臓がんのため47歳の若さで逝去』
2007年5月26日(土)、大阪いずみホールでの演奏会「トランスミュージック2007 対話する作曲家 江村哲二〜脳科学者 茂木健一郎を迎えて」を無事(?!)に終え、、、
そう、つい先日にも、池田晶子の、『2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去』を受けて茫然自失としたばかりなのに。
ただただぼくの認知が甘くて、当たり前の『人が死ぬ』ということを受け容れることを拒んでいるだけなのか。そう、ぼくとの面識など当然にない訳だから、思い出や記憶などというものは一切有しない。まったく接触のなかった他人が、その著作を通して知り得た時には、既に生きていなかった。47歳とか、46歳とか、それが若いかどうかとか、そんなことは問題には成り得ない。
簡単に「人は死ぬ」との結論に到るつもりもないけれども、ある意味ではぼくも38歳になって体に衰えを痛感し始めて、いよいよ冷静に考え対峙すべき時期の訪れとも♪、それは一方で、考えるに堪える年齢を、時期を迎えた歓び♪♪


≪目次: ≫
 第1楽章 音楽を「聴く」
 第2楽章 音楽を「知る」
 第3楽章 音楽に「出会う」
 第4楽章 音楽を「考える」








本「地球白書 2007-08 ワールドウォッチ研究所」クリストファー・フレイヴィン編著5

地球白書 2007-08
STATE OF THE WORLD − A WORLDWATCH INSTITUTE REPORT ON PROGRESS TOWARD A SUSTAINABLE SOCIETY
編著: クリストファー・フレイヴィン
単行本: 422ページ
出版社: ワールドウォッチジャパン (2007/11/5)



『地球白書』とは何とも壮大なタイトルで、何の気なく手にしてしまったのだけれども、積読こと12日間。全422ページ、とはいえ358ページ以降は原注と索引の構成だから、正味は357ページ。今のぼくの読書スピードでは、休日ならいざ知らず、一日では読み終えられない。併読しながら読み解く♪
なるほど、“都市”をテーマに地球の諸問題に迫る、九つの章に分けられた、九件の研究報告。公衆衛生農業公共交通エネルギー防災・地域経済・貧困都市化スラムなどなど、情報盛り沢山で白書と呼ぶに相応しい!?

ぼくは、まだまだ自ら語る適切な(?!)言葉を持ち合わせないんだけど、発展途上国の公衆衛生問題、貧困(?!)に触れるあたりが、ん〜、どうしても腑に落ちない。
「国家の豊かさ」は都市の経済状況に大きく左右される。つまり、都市が豊かになれば、国家も豊かになる。都市化が進んだ国は、そうでない国と比べて、所得は高く、経済は安定しており、諸制度も確立され、グローバル経済の変動にも容易に揺るがない。世界各国では、生産性と競争力をかつてないレベルまで強化することを目指して、富の創出、社会開発の促進、投資の誘発、人的および技術的資源の活用などが推し進められており、そこでは、都市がますます重要な役割を果たしている。また、都市は農村の発展の動力源でもある。たとえば、農村と、食料や水などの諸資源をそこに依存する都市とを結ぶインフラストラクチャーの改善は、農村の生産性を高め、かつ農村住民が教育、医療、市場、金融、情報などのサービスを利用しやすくなる。 (P.286)

信じがたい話だが、発展途上国の都市で栽培されている食料の大半は、灌漑に汚染された水が使われている。なぜだろうか。理由は単純である。都市に住む貧しい人々にとって、下水道からの排水や未処理のし尿は、低コストで養分の豊富な灌漑用水源だからだ。全世界では、350万〜450万ヘクタールの土地が排水で灌漑されている。しかし、排水にはさまざまな病原菌が含まれており、農地に散布後も数週間は生き続けるため、公衆衛生の脅威となる。
排水による灌漑の大半は「黙認」されている。市当局も知ってはいるが、代替策を提供するだけの資金もインフラも不足しているからである。 (P.99)

ウノマは、ナイジェリアのアサバに住む九歳の少女である。彼女の住居はニジェール川に近い低所得地域の建物の小さな一室で、この部屋に未婚のおば、および他の5人の少女といっしょに暮らしている。ほかにも4世帯がこの家を共有している。ウノマは学校に行っていない。ウノマは毎日、朝の6時から15時間働く。まず家の掃除をすませてから、昼間いっぱい自分で作っておいた食べ物の行商をする。最大5キログラムのフーフー〔プランテーンと呼ばれる料理用バナナを茹でて、臼と杵で搗いたもの〕を一日中、頭に載せて売り歩くのだ。こうして9時間の行商を終えると、今度は家事と調理のための水を汲みに出かける。井戸から300リットルの水を運び、夜の9時にようやく眠りにつく。彼女はいつもひどく疲れており、しばしば病気になる。それでも、ウノマはいつかは学校に行きたいと願っている。 (P.248)
先進国の豊かな(?!)暮らしと比較して、発展途上国の発展途上たる所以だ、と言わんばかり。確かに貧困に苦しみ、乳幼児死亡率やら平均寿命やらの数値は劣るのであろう。それを否定する気はない、単純に否定などすまい。明確な数値としては並べられている。だからと言って、先進国の便利で衛生的な暮らしが、すなわち「豊かな暮らし」=「幸福」と結び付くのであろうか?!


そう、キューバの成功例がサラリと触れられている。
アメリカと対照的なのがキューバの災害対策だ。ハリケーンの上陸が予測されると、その日の3日前に国の予報士は警報を発令し、国営の避難所のチェックに取りかかる。非常に危険な地域には局地的な警報が発令され、住民は予想される暴風雨圏内入りの時刻の12時間前には避難所に移動する。人々は学校で防災について学び、毎年、ハリケーンシーズンには避難訓練を行っている。 (P233-P.234)
そう、「少年フィデル FIDEL my early years(トランスワールドジャパン,2007.10)」であり、「世界がキューバ医療を手本にするわけ(築地書館,2007.8)」であり、他のラテンアメリカの国々が、いまだに内紛を抱えて不安定な社会情勢のままでいる中、独裁者と比喩されながらも“フィデル・カストロ”の手腕。およそ半世紀(50年)もの長期政権は、国民の支持があればこそ。

そして、クルマ問題にも。
クルマに派生する諸問題
【環境】 光化学スモッグ,有害排気ガス温室効果ガス,舗装面積の過度の拡大による豪雨時の大量の流出水,騒音、道路によるコミュニティの分断
【経済】 交通事故大気汚染がもたらすコスト,交通渋滞がもたらすコスト,スプロール現象に伴うインフラストラクチャーのコスト,優良農地の壊廃,農村の過度の舗装,肥満をはじめとする健康への悪影響
【社会】 石油への過度の依存,道路沿線住民の生活とコミュニティの破壊,市民生活の安全性への脅威,車のない人々、身体に障害のある人々のモビリティの喪失,運転中の攻撃的な態度 (P.133)
ぼくは、2年前からクルマを運転していない。自らステアリングを握っていない。それまでは、どちらかといえば、クルマに依存した生活を好んでいたし、クルマに興味があった。クルマを保有し、どこに出掛けるにも利用し、一時期は電車をまったく利用しない時だって。
今はもう乗れないなぁ。まったく必要を感じない。どちらかといえば、嫌悪している。ここ最近の、ガソリン価格の高騰、駐車禁止の厳罰化などもあって、ますます縁遠く感じている。


≪目次: ≫
第一章 持続可能な都市をつくる −21世紀の人類の試練
 An Urbanizing World
    Kai N.Lee
第二章 衛生革命 −きれいな水と女性が安心できるトイレを
 Providing Clean Water and Sanitation
    DavidSatterthwaite and Gordon McGranahan
第三章 都市農業 −食料と環境と生きがいのために
 Farming the Cities
    Brain Halweil and Danielle Nieremberg
第四章 公共交通都市 −クルマ依存から「歩きやすい街」へ
 Greening Urban Transportation
    Peter Newman and Jeff Kenworthy
第五章 エネルギー自給都市 −再生可能への転換と効率改善
 Energizing Cities
    Janet L.Sawin and Kristen Hughes
第六章 防災都市 −人命と財産を守る都市づくり
 Reducing Natyral Disaster Risk in Cities
    Zoe Chafe
第七章 公衆衛生都市 −安全で健康に暮らせる緑の空間に
 Chating a New Course for Urban Public Health
    Carolyn Stephens and Peter Stair
第八章 地域経済主義 −グローバル化から経済を取り戻す
 Strengthening Local Economies
    Mark Roseland with Lena Soots
第九章 貧困や環境的差別との闘い −都市空間を公平にする
 Fighting Poverty and Environmental Injustice in Cities
    Janice E.Perlman with Molly O'Meara Sheehan








本「脳と日本人」松岡正剛、茂木健一郎5


脳と日本人
著者: 松岡正剛、茂木健一郎
単行本: 225ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/12)




茂木健一郎の著作を探していて、「何だか知らない人(ただただぼくが無知なだけ)との共著だから」という理由で、実は一度パスしていた。
そんな時に、池田晶子14歳からの哲学(トランスビュー,2003.3)」であり、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」と、10代の多感な、その後の人生を方向付ける大切な時期にこそ、真剣に伝えたい真実のメッセージ♪、穢れを知らない若者だから、知識も経験も少なくて、人間的にも未成熟だからこそ、決して多くを語らず、大切なことだけ、理解し易く噛み砕いて。そう、ぼくは既に38歳だけれども、10代の時を振り返ると、自らの不勉強から、このような素晴らしい本との出会いを経ていない。20代の時にも勿論。38歳にして出会って、「あっ、ぼくはこの辺(10代)のレベルから始めた方がいいかも!?」と思った。そう思ったぼくは、「11歳の我が娘のための」などと言いながら、10代の若者に向けた著作を真剣に読み解く。自らのために。自ら乗り越えることをせずに来てしまった時間を取り戻すべく。
で、目に留まったのが、松岡正剛17歳のための世界と日本の見方(春秋社,2006/12)」、全363ページもある著作で、未知との遭遇。むふふふ「初めての経験は、やっぱり怖いんでちゅぅ〜♪」と臆病風を吹かしていたら、「ん?!、そう言えば確か」と記憶が蠢き出しちゃう不思議。「ぼくが既に知っている“茂木健一郎”との対話を愉しんだ後に判断しよう」と。

2006年11月12日と13日の2日間にわたって“二期倶楽部(栃木県那須町)”にて行われた対談の書籍化。
そう、対談の書籍化といえば、池谷裕二、糸井重里「海馬(新潮文庫,2005.6)」の、凸凹ぶりに目覚めてしまった興味、異分野のプロフェッショナル同士の巧みな絡みによって、思いがけず飛び出す知識の果てしない増幅!、ワクワクドキドキ、なるほどなるほど♪
で、そんな対談の舞台、秋の那須、「嫁に食わすな!」は秋茄子!?、挿し込まれる写真がまたまた味わい深い。煉瓦組みの暖炉、秋の穏やかな陽射しを受けた那須の森、紅葉。いい〜♪
[松岡] ありがとう(笑)。スタンド・アローンにはじまって、ニューロンの話をして、国民国家をめぐって、気がつくと伊勢神宮の話から「真水」になっていたというのは、ぼくにとって久々のことでしたよ。
[茂木] ぼくも、松岡さんと一緒にずいぶん遠くまで漂流して、それから自分の一番大切な場所に新たな気持ちで還って来たように思います。 (P223)
ホントに愉しそうな語らい。1944年生まれの松岡正剛と、1962年生まれの茂木健一郎には、18もの年齢差。専門分野だって異なるのだから、ピッタリ噛み合うどころか、何処までも果てしがなく展開される話題。僅かな関連性から見出されて飛び出す話題が、さらに互いの興味を刺激する。うっ、羨ましい、カッコいい♪、あんなに対話を展開させることができたら、そりゃぁ〜愉しかろう。紅葉する穏やかな秋の陽射しの下で、重厚な煉瓦造りの暖炉の前で、、、
[茂木] 毒って、体内に取り込むと、吹き出物とかになって外に出てきますよね。もともといらないものが出てくるわけですね。人間にとっては、二酸化炭素などもそうですね。だから、創造という現象も、毒出しというか、排泄という観点からみると面白い。脳の神経系による「毒出し」の行為が、すなわち創造でもあると。
[松岡] その通りでしょう。
[茂木] たとえば、こうやって話すと楽になりますよね。楽になるというのは、自分にとってやっかいなものを排出しているからかもしれない。普通、コミュニケーションというのは気楽なものだと思われているけれども、実は、毒出しかもしれない。
[松岡] お互いに毒を出させあっていたりして(笑)。
 (P.135)

≪目次: ≫
 第一章 世界知を引き受ける
 第二章 異質性礼賛
 第三章 科学はなぜあきらめないか
 第四章 普遍性をめぐって
 第五章 日本という方法
 第六章 毒と闇
 第七章 国家とは何ものか
 第八章 ダーウィニズムと伊勢神宮
 第九章 新しい関係の発見へ








本「人生のほんとう」池田晶子5


人生のほんとう
著者: 池田晶子
単行本: 192ページ
出版社: トランスビュー (2006/6/2)




うぅぅぅ〜、ますます深まる混迷♪
哲学者“池田晶子”が、2004年4月〜6月と2005年10月〜12月に、西武池袋コミュニティ・カレッジで、『人生を考える』というタイトルの下に行なった連続講義全6回分の書籍化。

そう、実は講義形式の書籍に恵まれていて、池澤夏樹「世界文学を読みほどく −スタンダールからピンチョンまで (新潮選書,2005.1)」であり、池谷裕二「進化しすぎた脳 (講談社ブルーバックス新書,2007.1)」であり、、、まるでぼくだけのために特別個人講義が行われていて、語り掛けるのはぼくに向かってなんだけど、進行状況やら理解度やらを推し図る目的に、大勢の観客、他者の笑顔(信愛)であり、困惑(理解不能の拒絶)であり、恍惚(きっとぼくはこれ、うっとり)であり、お疲れで夢見ちゃってる人だっていない訳じゃない!?、などなどなどが存在している不思議な臨場感。

と書き記して、「こう書き記しておけば、とりあえず恰好だけは保てるかな!?」などと計算している自分自身に触れずにいられない、ちょっとピリピリ、危険モード。不安定な精神状態は、体調からくるものなのか?、風邪なのか?、花粉症なのか??、鼻水、頭が重い、無気力、、、はたまた、“うつ”状況の悪化かしら?

例えばぼくは、平気で簡単に「分からない」と書き記す。
ある意味では能天気に開き直って放り投げちゃったような無責任とも取れなくもない書き記しは、その裏側に「何だか少し分かっちゃったかも?!」という興奮やら高揚感を感じているから、だからこそ敢えて正反対の意味の言葉を使ってみたり、「そうは言っても、完全な理解には及ばないからなぁ」というジレンマであったり、「分かりたいんだよぉ」という熱望であり、、、たった「分からない」という言葉を書き記すのに、「あぁでもない、こうでもない、やっぱりそうでもない、、、」と果てしない思索があっての、たったひと言。

それは、本を読むことによって顕著に研ぎ澄まされる。そう、本の中から浮き立つ。表出している言葉なんか、言葉通りに素直に受け取れない。背景を想像して、いわゆる行間を読む作業に入り込んだら、その想像だけで堪えられなくなっちゃう。
だから、現実の日常生活でも、口から吐き出される言葉を、どうしてもそのままに受け取ることができなくて、口調やら表情やら、目の動き、体の動きなどから感じる何かを頼りに、本質に迫ってしまう。でもね、できれば知りたくない、気が付きたくない。
知ってしまったら、気が付いてしまったら、やっぱりそれは、対応しない訳にはいかない。ところで、ぼくに対応して問題を解消する能力が具備されているのか?、と鑑みると、自ずと行動に制約が生じる。相対する人物が内包する問題に気が付いてしまったのに、あまりにも問題の本質が根深すぎて、対処する能力を持ち合わせない自分自身。
仮に、善意から対処を買って出たとしても、決して本質的な解消には到らない。そんなに簡単に解消されるような、単純な問題ばかりではないし、むしろ表面的な取り繕いで、その場を濁して回避するだけの無責任な対処は憚れよう。だから、余計に簡単に手を差し伸べることができない。よっぽど、そんな面倒臭いことに気付くことなく、表面的な取り繕いのみに腐心して、善意の行動を振り撒いた方が、社会的に良好な関係が築けるのでもあろう。

既にぼくは、テレビも新聞も雑誌も一切手にしたり目にすることがない生活が丸一年を経過した。社会性に著しく欠けている。ひとりの世界に籠って、読書と書き記し、読書、書き記し、読書、、、それまで積極的に取り組んでいた、映画、絵画や彫刻などの鑑賞、写真撮影なども、2007年11月14日を最後に遠ざかっている。そんな程度の興味だったのか?!、孤独感を紛らわすためだけの行為だったのか?!、何事にもまったく気力が起きない。

ということは、もっと本を読め、もっと書き記せ、もっともっと真っ当な理解を得て、真っ当な考察を論考を得られるように、さらに励め!、と解釈することにした。


≪目次: ≫
  常識 −生死について
  社会 −その虚構を見抜く
  年齢 −その味わい方
  宗教 −人生の意味
  魂 −自己性の謎
  存在 −人生とは何か








本「秘伝 大学受験の国語力 (新潮選書)」石原千秋5


秘伝 大学受験の国語力 (新潮選書)
Amazonで購入
書評/教育・学習





かつて、ぼくが参画している“本が好き!PJ”経由で新潮社より献本があって、タイトルの“大学”であり“受験”への拒否反応(ぼくは大学受験に失敗し、大学教育を受ける機会を逸している)を感じつつ、それでもどうしても拭い去れない興味♪、コンプレックスとマイナス思考が強いぼくは、素直に“憧れ”と表現できない。まずは否定して拒絶して、そしてやっと認識に到る。しかし、認識に到っても、すぐには興味と感じることができない認知障害!? 何ともややこしい作業と時間をも余計に費やして、ようやっと行動へと。ふぅ〜っ、、、という訳で、やっとのことで手にして、ボチボチボチボチッと拒否反応と闘い(のらりくらりと付き合い)ながら、それでもやっぱり取り上げられた過去問に挑めない。どうしようもない頑固で偏屈、救い難い、、、それがぼく♪
だから、結構な苦痛を伴う。本来、その制度やら意義やら云々の前に、乗り越えるべき受験勉強に挑まなかった。あれやらこれやら色々な理由を並べて、それは結局自分自身への言い訳でしかなく、とどのつまりは「回避しちゃった、現実逃避!」。ただそれだけ、問答無用。

しかし、今のぼくは文字を追うことには慣れている。拒否反応なんて当たり前。そんなのものは、いつだって(毎日毎日毎日)感じている。煩わしい人間関係に比べれば(比べるものでもないのだが)、余裕のよっちゃん♪、そう、ここ最近、“うつ”状態がよくなくて、目の奥がチリチリすること数知れず、かぁ〜っと熱くなって(外はまだまだ寒い)、何だかどうでもよくなっちゃったり、何事もヤル気が失せてしまったり、朝は起きられないし、まったく調子が優れない。仕方がないんだよ、上手く付き合っていくしかない。出来得る限り独りで引き籠って、無用な対人関係を避ける(もう誰も傷付けたくない!?)しかないのかな!?、などと考えながら、鬱鬱と読む本じゃぁないんだろうけどねぇ〜♪

ぼくは、今さら大学受験をする気もないし、受験のための特殊なテクニックやらを習得する必要もない(知っておくことは有益であろうが)から、“受験”であり“大学教育”が抱える問題、大学教育現場の現状とその歴史的背景などの知識として愉しんだ。
そうだよね、二項対立整理能力やら文脈要約能力やら、文学作品を読み解く手法の解説もあったりして、なるほどなるほど、、、 それでも僕の理解には遥かに及ばないのだけれども、頭に脳にインプット♪、ホントにぼくに必要なのであれば、いずれか必要とされるその瞬間に、きっと浮かび上がってくる!、と信じて、それ以上の深追いはしない。その辺りのいい加減さが、ぼくの悪癖で諸悪の根源なのかもしれないけれど、仮にそうであるのであれば、それはそれで仕方がない♪


≪目次: ≫
 第1章 大学受験国語は時代を映す
 第2章 近代の大学受験国語―教養主義の時代
 第3章 大学入試センターが求める国語力
 第4章 私立大学受験国語は二項対立整理能力
 第5章 国立大学受験国語は文脈要約能力








教養主義は階級社会とセットになっていたのだ。教養主義は階級社会に支えられ、上流階級は教養主義を自らの階級を他の階級と差別化する目印としていた。だから、教養主義は上流階級によって再生産され続けたのである。したがって、片方が消滅すればもう片方も消滅する運命にあった。こうして、教養主義と階級社会が消滅することで、近代日本は階級という桎梏(しっこく)を離れて多くの人が大学に進学する大衆教育社会を実現することができたのだ。
近代日本は教養主義の終焉という代償を払って階級社会と手を切ったのである。だとすれば、教養主義を復活させるためには階級社会をも復活させて、大学進学率を最大でも二十パーセント程度まで落とさなければならないことになる。それは、幸せな社会だろうか。
 (第2章 近代の大学受験国語、P.107-P.108)

構築主義の前提には、「言語論的転回」という言語にかかわる発想の転換があった。「コペルニクス的転回」をもじって言語論的転回と言っているので、「転回」はこの文字を用いる。これは一言で言えば「世界は言語である」とする思想である。もとはヴィトゲンシュタインの思想だが、この言語論的転回があってはじめて構築主義が成り立ったと言える。コペルニクスは、宇宙が動いていると考える「天動説」に対して、動いているのは地球の方だと「地動説」を唱えて、それまでの宇宙観をひっくり返した。「言語論的転回」はそれに匹敵する哲学上の「大発見」というわけだ。
僕たちはふつう世界が存在していて、それを言葉によって人に伝えていると思っている。しかし、これは言語道具説といういまや古くなった考え方だ。言語論的転回では、僕たちは言語を通してしか世界を理解することができない、いや、言語としてしか世界はぼく達にやってこないと考える。ベクトルが逆なのだ。世界から人間の方にベクトルが向いているのが言語道具説で、人間の方から言語を通して世界にベクトルが向いているのが言語論的転回の考え方である。
ただし、この説明は厳密ではない。もう少し厳密に言えば、言語論的転回においては、言語のベクトルの先に実体としての世界は想定されていないからだ。僕たちはモノそのものにふれることさえできない。「世界は言語である」と考えるのだから、言葉がすべてなのだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言語で汚染されている。言語の外に世界はない。僕たちはまるで言語の世界に閉じ込められている。だから、言語論的転回のような考え方を、別の言い方で「テクストに外部はない」とか、やや否定的に「言語の牢獄」と呼ぶ人もいる。
 (第4章 私立大学受験国語は二項対立整理能力、P.151-P.152)

本「リクルートのDNA −起業家精神とは何か (角川oneテーマ21)」江副浩正5


リクルートのDNA −起業家精神とは何か (角川oneテーマ21)
著者: 江副浩正
新書: 215ページ
出版社: 角川書店 (2007/03)




何故に“江副浩正(1936.6.12- )”は著したのであろうか?!
1988年6月18日に朝日新聞のスクープにより発覚した“リクルート事件”、創業者で前会長の“江副浩正”は、1989年2月13日に贈賄罪容疑で逮捕され、東京地裁での322回もの公判を経て、2003年3月に東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決が確定した。
(Wikipediaより)


そう、実は平成2年(1990年)6月1日、その時ぼくは20歳で、大学受験に失敗して一浪した後に進んだ情報処理系の専門学校は、既に夏休み前には興味が失せて通学することもなくアルバイトに精を出して遊び惚けていて、「このままではヤバイ!」と思ったのか、はたまた学費(入学金やら授業料やら何やらで相当額の出費があったはず、ゴメンナサイ)を拠出した親に小言を言われたのかどうなのか記憶が定かではないのだが、世間では既にバブルがはじけていたとはいえども、まだまだ何となくバブルの余韻が覚めやらず浮ついた雰囲気が漂っていて、学歴もないのに不勉強で、素直さだって持ち合わせない、お子ちゃまのぼくが、契約社員とはいったって、何故に採用されちゃったのであろうか?、配属先は当時創刊したばかりの国内旅行情報誌じゃらん』事業部、大手町の日本鋼管(現JFEエンジニアリング)ビル(既に昨年、解体された)のオフィスには、“くらたまなぶ”氏がいらっしゃって、同じフロアの海外旅行情報誌事業部には、マラソンの“有森裕子”氏の姿も。ぼくは、日本全国の宿泊施設を始めとする観光関連施設への広告の企画営業部隊の一員として、平日は東京にいることなくず〜っと地方の観光地を泊まり歩いていたので、月曜日の午前中に営業会議を終えたら金曜日の夜か土曜日に戻るまでオフィスに居ることのない生活を送っていたんだけど、新規事業部に集った精鋭(エリート社員)たちの顔ぶれたるや♪、課長のYさんは、まんまサザン桑田佳祐で、直販部隊あがりだったはず。営業スタッフで一番若手のSぴ〜は、東京大学卒業、実家(中国地方だったかなぁ)が老舗和菓子屋のお坊ちゃま。そう、会社の中枢たる経営企画室からやってきた、頭脳明晰、北海道大学卒業の色白なF山さんは、何故か自動車の免許を持ってなくて、他のメンバーは皆レンタカーでの移動だったのに、ひとりタクシーで老舗温泉旅館の営業に。口癖は、「おまえ、あれだよあれ♪、時間はお金で買うものだよ!、その分いい仕事しちゃって、売上をあげちゃえばいいんだよ!」と、いとも簡単に、にこやかに語る素敵で不敵な笑顔♪♪
結局、ぼくは平成4年4月に退職しているので、たったの22か月間、しかも殆ど会社に居なかった。その後に転職を繰り返すことになり、元同僚との付き合いも絶えてしまっているのだから、“リクルート”を語るに値しないことは、誰よりもぼくがいちばん分かっている。


事件から20年、判決確定から4年を経て、70歳を過ぎた江副浩正
戦後の復興と好景気の後押しがあったとはいえ、寝る間も惜しんで人一倍がむしゃらに働いて考えて働いて働いて、新しい産業を生み出した“若き起業家”。とはいえ自らも書き記す通り、絶大なカリスマ性があった訳でもなく、だから多くの周囲の仲間を巻き込んで大きな協力を得ながら共に成長を喜び合い、何よりも成功以上に数多くの失敗を繰り返して繰り返してきた。
こんなにも数多くの失敗と失敗と失敗と失敗の上にあった成功。


≪目次: ≫
 第1章 企業風土について
 第2章 私が学んだ名起業家の一言
 第3章 成功する起業家の条件
 第4章 リクルート創業期
 第5章 生き生きと働く風土
 第6章 情報誌の領域を広げる戦略
 第7章 領域の過大な拡大
 第8章 早過ぎた新規事業の立ち上げ








企業が収益を上げるには、
ー舛旅發ぅ機璽咼垢鯆鷆,垢
▲皀痢Ε機璽咼垢鬟好圈璽妊に提供する
コストを下げて顧客への価格を下げる
という三つの方法がある。
リクルートでは、このうち,鉢△暴鼎を置いた。仕事はできるかぎり外部の一流のアートディレクター、デザイナー、一流のライター、一流のカメラマンに依頼し、経費節減には関心が低かった。
私の現役時代、経費節減をしたのは四十年不況とオイルショックのときの二回だけ。銀座に本社を建てたあと、出入りの古紙回収業者に言われた。
「リクルートさんは白紙の原稿用紙も捨てておられます。古い伝票の裏紙を使われる会社もあるのに、もったいないと思います」
私はモノ不足の時代に育っている。話を聞いて後ろめたい気持ちになったが、情報の価値は時間の経過とともに下がる。原稿用紙を節約するよりスピードを大切にしたのである。
 (第1章 企業風土について、P.20-P.21)

本「小林秀雄の恵み」橋本治5


小林秀雄の恵み
著者: 橋本治
単行本: 414ページ
出版社: 新潮社 (2007/12)




「もう終りにしたい」と言われても、ぼくは何にも分かっていないから、やっとこれから“知りたい!”と思っているのに(怒)♪
何にせよ、ぼくは“小林秀雄(1902.4.11-1983.3.1)”を知らない。
ぼくにとっては、「知らない」ということは、とっても喜ばしいことで、「知らない」と言えるということは、その存在を知り得たからこそ生じるものであって、今まで知り得なかった存在を、新たに知ってしまった、気が付いてしまった、ことによって、さらに「知りたい!」と欲するからこそ、だからこそ「知らない」と発することが出来得る。「知らない」と自らがその現実を受け容れちゃうことによって初めて、知るための、自らが理解するための努力に励むことができよう。既に知っている、のであれば、あらためて知り得るための困難を伴う辛い作業に勤しむことなど、どうしてできよう。だから、ぼくはいとも簡単に「知らない」、「分からない」と口にして、せっせと独り書籍を読み耽る。

そう、今から遡ること約1年半前の36歳の夏から読書を始めた(それまでは年に一冊の自己啓蒙ビジネス書を強要されて読むか読まないか、子どもの頃から読書の習慣というものを持ち合わせなかった)ぼくにとって、“小林秀雄”という存在(人物)は、目にする機会も耳にする機会もなかった、アウトオブ眼中。ぶっちゃけ、“保坂和志”やら“橋本治”の著作にお名前を見掛けて、思わず手にしちゃったのが、“小林信彦”だったりして、さらには、“小島信夫(1915.2.28-2006.10.26)”との混同(歓び♪)まで。それくらいに、無知で滅茶苦茶。だから、そう簡単なものじゃない、果てしなく遠い道程をそれなりに覚悟していて、ハハハハハハハ、もう開き直っちゃうしかない!
そんなこんなを考えながら、やっと正しく“小林秀雄”を認識し始めた頃から、急速にぼくの中にビュンビュンと飛び込んでくる。“茂木健一郎”であり、“池田晶子”であり、、、まるで小林秀雄”">“小林秀雄”を知らずして、この先の理解は有り得ない!?、と言わんばかりの勢いで、ぼくに襲い掛かる。何かと虚勢を張っちゃってるぼくは、実はどうにも小心者の虚弱体質(?!)だから、正直その苦痛に耐え切れなくなりつつあって、それでもそんな著名な作家たちも崇める“日本の近代批評を確立した、戦前の日本の知性を代表する人物”で、しかも独特で難解な文体を誇られちゃう、と来られちゃったら、「ひぇ〜、勘弁してくらさい〜」状態に、、、

という訳で、敬愛する“橋本治”教祖さまの“お恵み”、グッドジョブ♪
“愛のある論考”に励むこと4日間(併読4冊!?)。丁寧に丁寧に文字を追いました。目から頭に脳に、切々と叩き込みました。


「もう終りにしたい」と、“橋本治”が全414ページの長きに亘る論説を閉じて、そしてそこから、ぼくの“小林秀雄”はとりあえず開かれた♪


≪目次: ≫
 第1章 『本居宣長』の難解
 第2章 『本居宣長』再々読
 第3章 「語る小林秀雄」と「語られる本居宣長
 第4章 近世という時代 −あるいは「ないもの」に関する考察
 第5章 じいちゃんと私
 第6章 危機の時
 第7章 自己回復のプロセス
 第8章 日本人の神
 第9章 「近世」という現実
 第10章 神と仏のいる国
 終章 海の見える墓









もののあはれ

本「海馬 −脳は疲れない (新潮文庫)」池谷裕二、糸井重里5


海馬 −脳は疲れない (新潮文庫)
著者: 池谷裕二、糸井重里
文庫: 344ページ
出版社: 新潮社 (2005/06)




ぼくの人生も、愉しくって愉しくって疲れない♪
脳科学♪、“海馬可塑性”をめぐり、池谷裕二糸井重里が展開する対談の書籍化。
糸井重里(1948年生まれ)がどんなに多才でも、相手は1970年生まれ(22歳の年齢差)で東大大学院から研究室に籠って、約1000匹ものネズミたちを相手に日々研究に勤しむ“脳科学者”が相手では、話題がピッタリと噛み合うことなど有り得ない。それでも、そこは互いに大人で“頭のいい”ふたりだからこそ、絶妙な間合いでテンポよく展開される心地好さ。ある意味では、歴然とした“溝”(差異)があって、充分に認識し合っていて、それでも互いが自らの分野でのエキスパートを自負していて、しかも、まったく自らの専門分野との関連性を有しない位置に存在する相手だからこそ、あくまでも友好モード♪、同じフィールドで日夜しのぎを削る相手であれば、こうはいかない。腹の探り合い、立ち位置(上下関係)のせめぎ合い、真剣な戦闘モードにも!?

そう、池谷裕二「進化しすぎた脳(講談社ブルーバックス新書,2007.1)」に魅せられて♪、研究者らしからぬ(?!)、フランクな物言いは、なるほどメディア向きなのかもしれない。
まぁ、ぼくにとっては、興味を抱き始めた“脳科学”を分かり易く説いてくれるのなら、大歓迎♪、難しいことをさらに難しく語られたところで、へなちょこなぼくには耐えられない、理解が及ぶ前に挫折を味わうのがオチ。
 研究の中で脳を直接見ていると、「20代が終わるところまでの状態で、脳の編成はだいぶ落ち着いてくる」ということが、ほんとうによくわかります。
 それまでは、つくったり壊したりのくりかえしで、脳は再編成されながら柔軟に動いていくんですけど、30歳を超えるとワインが熟成していくような落ち着きがでてくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る。
 ですから、推測力は大人のほうが断然優れています。若い時にはつながりを発見できる範囲が狭いのですが、年を取っていくにつれてつながりを発見する範囲がすごく広がって、その範囲は30歳を超えたところで飛躍的に増える。
 (「つながりを発見する能力」P.55)
むふむふむふむふ♪
「とにかく失敗をたくさんして、インフラを整備して(P.58)」、「いちばん大事なのは、どんなことがあっても(頭の中が)真っ白にならないことです(P.36)」と。
「よりよく生きる」ことと「より頭をよくする」ことのつながりを見つけていこう。(P.15)

そして、「言葉」、“ロゴス”ですよ♪
たいせつなのは、「結果ではなくプロセス(過程)」。


≪目次: ≫
 第一章 脳の導火線
 第二章 海馬は増える
 第三章 脳に効く薬
 第四章 やりすぎが天才をつくる
 追加対談 海馬の旅









本「人間自身 −考えることに終わりなく Philosophical Essays」池田晶子5


人間自身 −考えることに終わりなく Philosophical Essays
著者: 池田晶子
単行本: 157ページ
出版社: 新潮社 (2007/04)




ロゴス”の愉しみ♪
ギリシャ語にて、「言葉」、「論理」、「真理」を意味する。 そう、「正しい言葉」。誰にとっても、紛れもなく「正しい」、普遍のロゴス。

哲学者“池田晶子”、4作目にしてやっと少々の冷静さを保つ。
正直、「14歳からの哲学(トランスビュー,2003.3)」と、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」に漂う気高さに、まるで隙のない聖人仙人かと思わせる語りに、すっかり魅せられた。
一転して、おとな向けのエッセイに見せる人間味。怒りを、感情を露わにする。出だしから、
 たぶん手遅れである。子供にはとりあえず、これだけは教えておこう。人を殺したくなったら、自分が死ね。それが順序というものだと。 (「自殺のすすめ」P.11)
と、息巻く。この部分だけ切り取ると、ちょっと危険な感じがしないでもないが、「自らを省みよ!」、「考えろ!」、「悩め!」と。
世俗のことに煩わされながら、自ら「本質」のみを追求し続ける生き方、考え方は、決して社会的に楽な生き方ではない。「まぁまぁ、そう固いことを言わずに」であったり、「法律には規定されていないから」が、この世の中を円滑に動かしていることをも否定をしない。「それでいいのか!?」と糾弾したとしても、あっさりと「それでいいんじゃないの」と何も考えることをしない、大多数のおとなたち、世間。ある意味では、無理に考えさせるのは酷だったりもする。どうしたっても考えてしまう人間がいて、その一方では、考えることをしなくても何とかなってしまう人間がいて、、、
そんな現実は、判断能力が未成熟で、真っ白で染まり易い“14歳”には語れない。大切な時期だからこそ、期待を籠めて、厳しく、真っ直ぐストレートに! 演じて、魅せることだって、時に必要!、ロゴス♪

 生死の本質など、幼い子でも、勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。
 癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。すべての人間の死因は、生まれてたことである。どこか違いますかね。 (「生死は平等である」P.26)







本「トラや」南木佳士5


トラや
著者: 南木佳士
単行本: 196ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/11)




猫の“トラ”をめぐる小説。
子猫のトラとの出逢いから、15歳で生命を全うするまで。
最初に見掛けた時には5匹いた子猫が、ほんの1、2ヶ月後には2匹になってしまって、飼うつもりなどなかったのに、気が付けば欠かせない家族の一員に。トラとの出逢いと時を同じくして、―だから、鮮明に記憶しているのであり、家族にとって必要とされたのでもあり―うつ病に苦しんだ。
トラと共に歩んだ15年の歳月。自らの病、親や近しい人たちの介護、そして、死、、、、 当時、小学生だった二人の息子は大学生になって家を出た。互いに老いた夫婦二人の生活。トラの不在。


そう、これぞ“南木佳士”。
例えば、「相変わらずのいつもの展開でツマラナイ」と感じる人もいれば、「この感じがタマラナイ♪」と感じる人がいる。ぼくは、「この感じが好き!」 もっと言えば、「この感じを必要としている人も、少なからずいるだろうなぁ」と想像する。
1951年10月13日群馬県生まれ。現役の医師であり、小説家(芥川賞受賞)。56歳。
どうやら、少し前まで、100年くらい前(現生人類の十数万年の歴史から比較すると、ほんの少し前)までは、人間の寿命は50年だった。
最近手にした、池田晶子(哲学者)「暮らしの哲学(毎日新聞社,2007.6)」にも、池谷裕二(脳科学者)「進化しすぎた脳 (講談社ブルーバックス,2007.1)」でも、さらっと書き記していて、何気なく読み飛ばすところなんだろうけれども、医療技術の発展に伴い、飛躍的に伸びた(伸ばされた)寿命。一方では、種の保存の原理原則に従えば、本来生き延びるべきではない(?!)種さえもが、生き残ってしまっている!?
単純なぼくは、それまで何の考えもなしに、「100歳まで生きる!」と能天気に唱えてみたり、「最近は不健康な生活を送っているから、70歳くらいまでかなぁ」などと考えていたりしたものだが、果たして科学(医療)技術の力を借りて、そこまでして無理に長く生きる意義とは?








本「少年フィデル FIDEL my early years」フィデル・カストロ 著、柳原孝敦 監訳5


少年フィデル FIDEL my early years
フィデル・カストロ 著
柳原孝敦 監訳
単行本: 285ページ
出版社: トランスワールドジャパン (2007/10)




ぼくの“フィデル・カストロ(Fidel Castro,Dr.Fidel Alejandro Castro Ruz,1926.8.13- )”に対する知識は、「世界がキューバ医療を手本にするわけ (吉田太郎 著、築地書館,2007.8)」から始まったばかりで、まったくの不勉強で無知が故に、それまでは、「共産主義(悪)国家キューバの革命家(恐)で独裁者(悪)、アメリカ(善)に反抗して、いじめ(経済制裁)られている!?」くらいのものだった。それが何と実は、フィデル・カストロ国家評議会議長の手腕(政策)によって、今や、先進国並みの平均寿命、世界的にも高度先端を誇る医療技術、しかも、地域コミュニティを活用して全国を網羅した福祉医療制度が無料!、という“医療大国”らしい。教育費だって無料だから、医療は勿論、その他の分野だって優秀な頭脳の育成を図る。なるほど、共産主義(ホントのところ、理解し得ないんだけれど)。とは言え、そんなに簡単な話しじゃなくって、長く経済制裁に苦しみ、決して豊かとはいえない生活レベル、一方では技術革新による経済成長によって生じる格差社会。そう、既にソ連や東欧、中国の共産党政権は崩壊した。
いまだ内戦が絶えない中南米諸国の社会情勢だって看過できない。
ということで、『独裁者=悪!』などと安易な思い込みを排除して、フィデル・カストロに抱かれる興味♪、しかも、1959年に革命を成功させて首相に就任して以来、およそ半世紀(50年)もの長きに亘り政権を握る。一般的には、革命(力)によって奪った座は、往々にして新たな力に奪われようから。

なるほどなるほど、第1章から第5章まで、すべてフィデル・カストロ自らが語ったとされる文献(インタビュー、演説、手記)を新訳、新編集、東京外語大学準教授“柳原孝敦”監訳。
本書に綴られるのは、キューバ革命以前の若き日の自分自身、生い立ち、家庭環境、宗教、教育、、、 そう、自ら切々と丁寧に語られる“革命家 フィデル・カストロ”誕生の秘話、回顧録!
何より、同年代で同じラテンアメリカ、コロンビア出身で、キューバ革命時に記者として知り合い、その後にも親交を続けたノーベル文学賞作家“ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel José García Márquez, 1928.3.6- )”が寄せる想い出。フィデル・カストロの精力的な演説は、時に七時間も休むことなく語り続けられた。語り始めると、平均して約三時間、聞き手を魅了する絶大な力と、一方ではしわがれた、か細い声。取り留めもなく続くかに思われる語りは、真実を伝えたいという熱情、勤勉で粘り強い理想的思考の賜物とも。
何度も何度も自らの死を覚悟し、盟友の死をも経て、不遇の獄中にあっても不屈の精神で革命を組織し、むしろ獄中での入念な革命への準備期間があったからこそ勝ち得た成功とも。32歳にして革命を成功させて首相の座に就いた若者が、長く(1953.7〜1955.5.15)対峙した独房での孤独は、その後の幾多の政治的危機を乗り切り、長く民意を得る糧とさえ。
……私たちがすぐにやるべきことは―これは完全に納得してほしいのですが―私たちの仲間の地位を確立するために革命細胞を組織することではありません。そんなことをしたら重大なまちがいになるでしょう。いますべきことは、私たちを支持するように世論を動かし、私たちの思想を広め、広範な民衆の後ろ盾を勝ち取ることです。私たちの革命計画はもっとも完璧で、活動指針は何よりも明瞭で、私たちの過去はだれよりも自己犠牲的です。私たちには民衆の信頼を得る権利があります。千回でもくりかえしますが、それなしには革命はありえないのです。
  (「獄中からの手紙 1953-1955」 1954年6月19日―メルバ・エルナンデスとアイデ・サンタマリア宛て、P.266)

≪目次: ≫
 序文 素顔のフィデル ガブリエル・ガルシア=マルケス
     Fidel Castro : El Oficio de la Palabla Hablada
 第1章 フィデルという名の少年
     Ninez y Juventud
 第2章 ユニバーシティ・デイズ
     Dias de Universidad
 第3章 コロンビア1948―革命の予行演習
     Colombia 1948 : Un Ensayo de Revolucion
 第4章 モンカダ襲撃に向けて
     Preparandose para Moncada
 第5章 監獄からの手紙1953‐1955
     Las Cartas Prision 1953-1955








本「暮らしの哲学」池田晶子5


暮らしの哲学
著者: 池田晶子
単行本: 288ページ
出版社: 毎日新聞社 (2007/6/29)



 先般、父親が亡くなったのですが、・・・〈中略〉
・・・いや逆に、今でも腹が立つこと、いっぱいあります。思い出しては腹が立つ。この感情は彼が死んでも変わっていない。その意味では彼のその所行を私は未だ許していないと言える。しかし、許せなくとも、許せないまま、それでもいいんですよ。なんというか、とにかく彼はそこに居た、そのことだけでもう全部いいじゃないか、そんな感じなんですね。
 たまたま彼は父であり、たまたま私は娘だった。なぜか二人は親子としてしばしの時間を共にした。このことがこのことだけで、ありがたいこと、奇跡的なことだと感じられるので、この出会いの奇跡に思いが及ぶと、得難いなあ、在り難いなあ、ありがとう。と、素直にこうなるようです。
 (「あなたの親は親ではない」P.215-P.216)

やっぱりぼくは書き記すことができない。
池田晶子「14歳からの哲学」と、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」と、若者向けの著作を終え、う〜ん、“基礎講座”(?!)から、“実践(日常)編”へと?!
やっぱり堪らない。時折込み上げてくる。ビシビシバシバシ痛い痛い痛い痛い。軽く流すことができない。かといって、纏めて要約して自らの言葉にできるほどに、ぼくは理解を得ていない。そう、「言葉の力」
2007年2月23日、没(46歳)。遺された数多くの著作。
 ところで私は哲学科の学生だった頃、例によって一人で考え込んでいた時に、問いがあるということは、答えがあるということだ、答えがあると知っていれば問いは存在しないじゃないかという驚くべきことを発見した。そして、ああなんだそうか、そういうことだったのかと、深く納得して大笑いした。弁証法(ダイアローグ)を発見した瞬間とも言えますが、今ならこれを、すべてのロゴスイデアへ到るとか、ロゴスイデアを内包するとか、もっとうまくいうことができます。
 で、この内なる弁証法を発見して以来、私は、話せる他者と話すことが一段と面白くなりました。・・・
 (「どうしても知りたい」P.144-P.145)








本「「脳」整理法 (ちくま新書)」茂木健一郎5


「脳」整理法 (ちくま新書)
著者: 茂木健一郎
新書: 224ページ
出版社: 筑摩書房 (2005/9/5)




気が付いたら直近が、脳(茂木健一郎)、脳(池谷裕二)、脳(茂木健一郎)と脳三連発!、どうでもいいことだけど、細かいことばかりが気になってしまうぼくとしては、偏りが!?、などと考えてしかし、エッセイ(茂木健一郎)、脳(池谷裕二)、エッセイ(茂木健一郎)、だからいいかなぁ、と勝手な解釈、ぼくの整理法♪
いやぁ、池谷裕二の脳科学に触れた後では、何だろう?!、そう、比べるものじゃないんだろうけど、、、この本から『脳』という言葉をすべて抹消したとしても、話しは通じちゃう?!、などと軽口を叩いて、それでも読み易い“茂木健一郎”をどうしても手にしてしまうのだから、素直に感謝して愉しみたい♪

そうそう、確か最近の著作(どれかは思い出せない)で、この本「整理法」のことに触れて、「実は整理が苦手で、仕事机の上がいつもぐちゃぐちゃで、捨てようと整理を始めても、捨てるべきか迷って、そのうちに遊び始めて一向に整理できない」ようなこと書き記していた。確かに、「整理」と言っても、目が届く表面的な部分だけを整えるだけでは、単なる自己満足。

だから、脳科学の難解な講釈よりも、偶有性(contingency)とやらをめぐる考察へと。


≪目次: ≫
 第1章 脳は体験を整理し、知を創造する
 第2章 生きて死ぬ人間の知恵
 第3章 不確実な時代こそ脳が生きる
 第4章 偶有性が脳を鍛える
 第5章 偶然の幸運をつかむ脳の使い方
 第6章 「自分」を離れて世界を見つめる
 第7章 「他人」との関係から脳が育むもの
 第8章 主語を入れ替えて考える
 第9章 脳に勇気を植えつける
 第10章 「脳」整理法ふたたび








本「進化しすぎた脳 (ブルーバックス)」池谷裕二5


進化しすぎた脳 (ブルーバックス)
Amazonで購入
書評/サイエンス



かつて“本が好き!PJ”、自腹で参画!

2002年12月に、慶応義塾ニューヨーク学院高等部で行われた脳科学講義の記録。たった8名の中高生を対象にした4回の連続講義は、著者“池谷裕二”自らが、「殊のほか思い入れ深い宝物」と語るほどに、確かに素晴らしい!、臨場感というのかワクワクドキドキ感がビシビシ伝わる心地好さ♪
そして、ブルーバックス版刊行にあたり、“現在の私”の講義(東京大学院薬学系研究科・薬品作用学教室メンバー)が追加されて、さらにじっくりじんわり成熟を帯びて味わい深く♪

そう、講義記録といえば、京都大学文学部での池澤夏樹「世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで(新潮選書,2005.1)」、あの高揚感がよみがえる。
考えてみたら、いずれも講義内容としては難解な部類に属する学術。そう、学生時代にはまったく興味を抱けなかったのに、素直に勉学に励んでいたら、、、と考えたところで、後の祭りだ、ピ〜ヒャララ♪

語り掛けられる内容に、まるでその場に居合わせたかのような緊張感を覚えながら読み耽る。想像するに、著者が目の前の学生の顔色(理解度?!)を窺いながら、時に丁寧に具体的な事例を挙げながらのゆっくりとした説明になったり、時に冗談を交えながら緊張や退屈(?!)をほぐし、時折挿入される手書きの愛らしい(?!)イラストが理解を助け、全員が100%の理解に至らないまでも、決して置き去りの独走状態に陥ることがない。これが、大勢を対象とする講義の場合だと、なかなかそうはいかない。講義する側も対象を絞り込めずに一方的に漠然とした語り掛けとなり、講義を受ける側だって緊張感など有することなく漠然と聞き流すことに。
そして、講義だから基本的には講師が一方的に語り掛けてるんだけど、そこには時折質問を投げ掛けられて、その問いに真剣に考え受け答えをする学生の“生”の存在が、緊張感やら臨場感やらを伴って浮き立つ。ぼくも、いつ問い掛けられないかと、軽い緊張に包まれる。

一方では、記録されて書籍化された“講義”内容は、既に5年前の出来事で、著者も“あとがき”に語る通り、今現在とは何もかもが大きく異なり(変わらないものもあろうが)、仮に同じ講義内容を同じ状況を設定して行ったとしても、決して再現できるものではない。仮に再現したとしても、あれほどまでの高揚感と臨場感を生み出せるとは限らないし、まったく異なるものになることが容易に想像される。現に追加された“現在の私”の講義(第5章)には、講義対象者の相違だけではなく、“変化”というのか、“進化”というべきか、非常に興味深いものがある。それは、良いとか悪いとかの問題ではなく、だからこそ、書籍化して記憶に残すのでもあろうが。

そして何より、入念な準備の下に4回で完結させるべく組まれた講義内容は、まるで上質なミステリーの如く物語性を有する。
順を辿って積み重ねられていく情報が、あちらとこちらと、あそこからと向こうから築き上げられ、ニューロンだのシナプスだの何度も聞いたことはあっても、いまだに理解が定まらないのだけれども、最終日(第4回目)の“アルツハイマー病”あたりで軽い氷解を得る♪
その辺まできちゃうと、何を聞いてもスイスイグイグイと頭の中に吸い込まれていく。と言っても、「分かった!」とか、「理解した!」には程遠くって、上手く説明したり書き記したりすることができないもどかしさを抱えながらの、「なるほどね!」なんだけど。

そう、ヒト(ホモ・サピエンス)の“進化しすぎた脳”。
進化しすぎて、有効に活用しきれていない。
進化しすぎて、すべての理解には及ばない。
進化しすぎたから、あいまいさを有する。
素晴らしき“脳科学”♪


≪目次: ≫
 第1章 人間は脳の力を使いこなせていない
 第2章 人間は脳の解釈から逃れられない
 第3章 人間はあいまいな記憶しかもてない
 第4章 人間は進化のプロセスを進化させる
 第5章 僕たちはなぜ脳科学を研究するのか









言葉→心→汎化 (P.196)

本「それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ)」茂木健一郎5


それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ 264)
著者: 茂木健一郎
新書: 237ページ
出版社: 中央公論新社 (2007/12)




うん、茂木健一郎は心地好い♪
脳のたくらみ、茂木健一郎のたくらみ、出版社のたくらみ、世間のたくらみ、ぼくのたくらみ、、、脳の中の壱千億の神経細胞は、何らかの「意欲」によって駆動する。欲求、願望、意思、、、自らの認識の有無にかかわらず、事態のすべての把握もなされぬままに!?

果てしない拡がりをみせる心地好いエッセイは、雑誌「読売ウィークリー」に、2004年4月から連載が始められたうち、2006年8月13日号から2007年6月10日号掲載分までと、六篇の書き下ろし。

ぼくにとっての茂木健一郎は、心の安らぎ、活力剤♪
あまり堅苦しいことを考えずに、サラサラサラサラ〜ッと約一時間強の愉しみ♪、「この一冊の本から、何か自らの血肉になるものを!」というよりは、フムフム、へぇ〜、なるほどねぇ〜♪、「さぁ〜、リラックスして人生を愉しむぞぉ!」♪
会社と自宅の往復を日々繰り返すサラリーマンのぼくにとって、マスメディアにも頻繁に登場して各分野の著名な人びととの交流があって、学会やら多彩な趣味やらで、日本全国のみならず、世界各国を渡り歩く文化人で、それでいて偉ぶるところのない(と感じさせる)お人柄は、人気商売ゆえに熾烈を極める生き残り競争にしのぎをけずるマスメディア界にあって、不動の人気を博している!?、(テレビも新聞も雑誌も見ないから詳しく知らないけれども、出版される書籍数から想像するに)
そこには、出版社のたくらみだってあって、茂木健一郎の本は、きっと「出せば売れる!」のであろう。
そう言うぼくも世間の一部であり、「またか」とは思いながら、ついつい手にしてしまう。
 そもそも、物理学や化学の原理によれば、全てのシステムは一番エネルギーの低い(ラクな)状態に行こうとする。坂道でボールを離せば転がって一番下まで運動する。化学反応とは、つまりエネルギーのより低い状態へと向かう変化のプロセスである。その意味では、私たちの脳が易きに流れようとしてしまうのは、仕方がないことのようにも思える。
 その一方で、世の中には簡単に易きに流れないものもある。難しい言葉を使えば、「非平衡」の状態にあったり、「散逸構造」をつくっているようなシステムである。このようなシステムはそう簡単には「一番エネルギーが低い状態」には至らない。 (P.150「そう簡単にラクなどしてやるものか」)

≪目次: ≫
 第一章 体験はひとつも無駄にならない
 第二章 人は人につくられる
 第三章 「知」は進化の特効薬
 第四章 脳も癒しを求めている
 第五章 「わかりやすさ」が生命力を奪う
 第六章 たくらむ脳のためのヒント








本「14歳の君へ −どう考えどう生きるか」池田晶子5


14歳の君へ −どう考えどう生きるか
著者: 池田晶子
単行本: 191ページ
出版社: 毎日新聞社 (2006/12/23)




ふぇ〜、ぼくはひどく混乱しちゃっていて、堂々巡りの空回りが行動を停止させる。考えれば考えるほどに、ぼくの行動は規制を受け、ますますに混乱の渦に巻き込まれて、どうにもこうにも抜け出せない。
正直、気ばかりが急いてしまって落ち着かない。だから「思い切って考えることを放棄して、しばらく何も考えない。あえて考えすぎない方が、リフレッシュされて効果的かも!?」などと考えてみて、それでもやっぱり、考えることを放棄できない。先の見えない不安、自分で考えるって、だって何処にも答えはない。正しいか間違っているかなんて、今は誰にも分からないし、後に振り返った時に、「あっ、あの時のぼくは、間違ってなかった」となるのかどうなのか。間違っていたら間違っていたで、それもひとつの経験だから、正しいことから学ぶことよりも、間違ってしまったことによって気付きを得て、正しい理解が得られることだって、それはそれでとっても意味がある。そう考えると、考えることを放棄することの意義が見出せない。正しいか正しくないかではなく、とにかく自ら考えて行動に移し、経験を積んで、また考えて考えて、果てしなく繰り返し繰り返し繰り返し、、、


2007年2月23日、46歳の若さで逝去された哲学者池田晶子”が、14歳の中学生に向けて語り掛ける“大切なこと”。
ぼくは保護者の部類に属している(11歳の娘の父親)んだろうけれども、これまでちゃんと考えることを怠ってきたので、とてもとても客観的に読むことができず、ジンジンヒリヒリしながら読み耽る。「ありがたい、ありがたい。あぁ、どうしてぼくはこれまで、こんな大切なことを、ちゃんと知ろうとせずに、のうのうと生きてきてしまったのだろうか。」と軽い自己嫌悪に陥りつつも、そこはすぐに「今からでも遅くない。ここで知ったのも何かの縁。残念ながら、これまでのぼくだったら、こんなにありがたいことを知っても、素直に聞く耳を持てなかったし、受け容れて理解しようともしなかっただろう。この機会だからこそ、知り得たことに感謝しよう、ありがたい、ありがたい」
ホントにホントにありがたくって、涙を浮かべながら読み耽る。

ぼくが初めて手にした“池田晶子”は、「14歳からの哲学 −考えるための教科書(トランスビュー,2003.3)」で、その時も涙が溢れて堪らなかったんだけど、今回はもう少しだけ冷静に読むことができた。
それでも本当の理解には程遠い。ぼくはちゃんとした理解を得たい。ちゃんとした理解はぼくの中でしかできなくって、ぼくが考えて考えて考えて、考え続けた時に、ある時にフッと見えてくる何かがあるのかなぁ?、そんなことすら、ぼくには分からないし、分かっているのは、ぼくはすっかり混乱しちゃっているってことだけ。
混乱したままに生きていると、周りにも迷惑かけちゃっているんだろうなぁ、などと考えて、でも混乱してない時だって、果たして周りに迷惑かけずに生きているのか?!、って考えると、そうたいして変わりはないかも、とか考えて、ひとりで生きてる訳じゃないんだなぁ、とか、ひとりじゃ生きていけないんだなぁ、などとも思い当たる。
果てしもなく、とんでもない方向にばかり、ぼくの思考は巡り続けて、どこにも辿り着くことがない、困った。


ぼくは、この本を我が娘に読んで欲しいと願う。ところで11歳の我が娘は、父親のぼくから無理矢理に(自らの意思に在らず)渡される本を手にして、どう考えるであろうか? 前述の通り、ぼくには激しく否定的な思い込み癖、現実逃避癖があった。何者にも氷解を赦さない頑ななまでの。でもそれはきっとぼくだけの悪癖、心配するに及ばない。


そう、“生きる”ってスゴイことで、そんなに簡単なことじゃない。簡単なことじゃないから、やっぱりちゃんと生きなきゃいけない。
でもね、正直やっぱり“死ぬ”のが怖い。ホントのところ、“死”について、ぼく自身がちゃんと考えたことがないから「分からない」と言うのが正しいのかもしれないけど。
さあ、14歳シリーズを終えて、まだまだ続く“池田晶子”を、ぼくはどこまで読み解いて、自らのものにできるかな?、しばらくは混乱の中のぼくを愉しもう♪


≪目次: ≫
  ほんとうの自分 ほんとうの友達
    友愛、個性、性別、意見
  考えれば知ることができる
    勉学、歴史、社会、道徳
  君は「誰」なのだろう?
    戦争、自然、宇宙、宗教
  どう考え どう生きるか
    言葉、お金、幸福、人生









 自分を認め、他人をねたまず、何かを誰かのせいにもしない。すべてそのまま受け容れる。そういう心が、不幸でない幸福な心だ。人は心で不幸になっている、自分で自分を不幸にしていると気づくなら、君の心はきっと幸福になるはずだ。
 そんなこととてもできません、て言いたくなるよね。だって、不幸は外からやってくるものだもの、私にはどうしようもないものだもの、とね。でも、外からやってくるものを受け止めるのは、やっぱり君の心でしかないよね。不幸も幸福も、すべて君の心次第なんだよ。(P.175)

本「あおいろの童話集 (アンドルー・ラング世界童話集 第 1巻) TALES OF THE BLUE FAIRY BOOK 1889」アンドルー・ラング 編、 西村醇子 監修5


あおいろの童話集 (アンドルー・ラング世界童話集 第 1巻) TALES OF THE BLUE FAIRY BOOK 1889
Amazonで購入
書評/SF&ファンタジー



東京創元社より、“本が好き!PJ”経由で献本、御礼!
童話”と目にして、何の迷いもなく(ページ数のチェックはしたけど)、読みたい!、読んでみたい!、絶対に読むぞ!、と。願いが叶って、手にして満足、ハードカバーの重厚感、挿絵のおどろおどろしさ♪、子ども向けの童話だからって、情け容赦はしない!、伝えるべきは、キチンと伝える、そう、本当に大切なこと。
そしてオビには、「語り伝えたい、昔話は人類の大切な遺産
−すべてのファンタジーのみなもとがここにある−
世界中の昔話を集めた古典童話集を完全新訳・新編集で」、
さらには「世界中の昔話を集めた古典童話の決定版」とまで。
まぁ、「我が娘(小五)に読ませたい!」という下心(?!)を、ぼくは隠すことをしたくないので、ここで明言しておいて、検閲(?!)よろしく、まずはじっくりじっくりと堪能♪

なるほど、ヴィクトリア朝の英国で、民俗学者・作家のアンドルー・ラング(Andrew Lang,1844-1912)が1898年に編纂した世界の童話全18篇、第1巻のあおいろ。
この作品の好評を受け、結局、1910年までの12年の間に12冊の童話集が刊行された。あお、あか、みどり、き、もも、はい、むらさき、べに、ちゃ、だいだい、くさ、ふじ、と。そうして、現在まで読み継がれてきた。日本でも、1958年に「ラング世界童話全集」全12巻として翻訳されていて、なんと既に50年の歴史。逆に言えば、既に50年の歳月が経過しちゃった、ということにもなるからこそ、新訳・新編集。後世に語り継ぐべき、大切な物語。

そう、解説してもらわないと分からない、当時の風俗、文化。
にしても、シンプルにバッサバッサと豪快な進行で展開される物語は、子ども向けの童話だからと言って、特に手加減することなく、厳しい現実が描かれる。王や王女、王子やお姫様が登場すれば、そこには家来や奴隷がいなければ成立しなくって、奴隷の取引やらが描かれて、一方では、簡単に殺されちゃったり、あっさりと自らの命を落としちゃったり、何の躊躇もない。
時にハチャメチャで、残酷と言えなくもないんだけれど、110年も前にも、50年前にも「後世に遺したい!」という想いを籠めてよりすぐられて、読み継がれてきた物語たち。そして、科学技術が発展して、110年前からは信じられないほどの産業技術の発展を遂げて、何もかもが便利に、さらには、階級社会から解放され、誰もが手にした自由、平等!、しかし、歳月を経て時代が変わっても、文化や産業技術の発展による変化があっても、人間であることには何ら変わりはない!?


*収録作品
「ヒヤシンス王子とうるわしの姫」
“Prince Hyacinth and the Dear Little Princess”
「アラディンと魔法のランプ」
“Aladdin and Wonderful Lamp”
「マスターメイド」
“The Master-Maid”
「海の水がからいわけ」
“Why the Sea is Salt”
「フェリシアとナデシコの鉢」
“Felicia and the Pot of Pinks”
「白い猫」
“The White Cat”
「スイレンと、金の糸をつむぐむすめたち」
“The Water-Lily. The Gold-Spinners”
「うるわしき金髪姫」
“The Story of Pretty Goldilocks”
「ウィッティントンのお話」
“The History of Whittington”
「ふしぎな羊」
“The Wanderfull Seep”
「四十人の盗賊」
“The Forty Thieves”
「ヒキガエルとダイヤモンド」
“Toads and Diamonds”
「いとしの王子」
“Prince Darling”
「ガラス山の姫ぎみ」
“The Prince on Glass Hill”
「アフメド王子と妖精ペリバヌー」
“The Story of Prince Ahmed and The Fairy Paribanou”
「巨人退治のジャック」
“The History of Jack The Gaint-Killer”
「ノロウェイの黒牛」
“The Black Bull of Norroway”
「赤鬼エティン」
“The Red Etin”








本「マリコ/マリキータ」池澤夏樹5


マリコ/マリキータ (角川文庫)
著者: 池澤夏樹
文庫: 231ページ
出版社: 角川書店 (2006/5/25)




ぼくの中で、“小説”ってトクベツなもの♪

実は、池澤夏樹の「世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで(新潮選書,2005.1)」にすっかりやられちゃっていて、ぼくの頭の片隅はドストエフスキーに占められている。占められているんだけど、心の底から愉しめるぼくになるまで、ちょっとお預け♪、フフフ、それさえもが密やかな愉しみ、フフフフフ♪ そうなのだ、池澤夏樹に読み解かれて、憧れの世界文学の難解な長篇文学に、ぼくの理解が及ぶのであれば、喜んで施しを受けたい。
と言いながら、池澤夏樹の長篇小説だって、読み解きたい!「静かな大地(688ページ,朝日新聞社,2003.9)」であり、「光の指で触れよ(521ページ,中央公論新社,2008.1)」。ただ長ければいいって訳でもないけど、長い長い長〜い長篇小説をじっくりゆっくり愉しむ、ってステキ♪
と言いながらも、1994年刊行の短篇集を手にしているのが、ぼくの現実。ハハハ、短いものにだって、短いなりの好さがある。

うん、気忙しい日本を離れた研究者の男が、異境の未開の南の島で出逢った不思議な魅力を湛える日本人女性“マリコ”。
一所懸命とばかりにひとつの場所に居着く人がいれば、一所に留まることを嫌う人だっている。多くは安住を好むのであろうが、どちらがどう、ということではなくって、それぞれの生き方があって、生き方はそれぞれで、同じじゃない。理由がどうとか、何がキッカケでとか、そんなことはどうでもいいことで、ただただそうなんだ、そうだった。
都会の便利な慌ただしいばかりの生活を嫌い、自然に囲まれた未知の土地、利便性と一線を画した昔ながらの生活だって、その選択は人それぞれ。一所に留まらず、放浪の旅に、冒険に挑むからこそ織り成される出逢い、神秘、情熱の記憶の物語。


≪目次: ≫
 マリコ/マリキータ
 梯子の森と滑空する兄
 アップリンク
 冒険
 帰ってきた男
 〜1994年4月、文藝春秋より刊行された文庫。









「どうして、マリキータ?」
「わたしマリコでしょ。でも、こっちだとマリアの方がずっと通りがいい。アメリカの統治は八十年間だけど、スペインは三百三十年だからね。女の子の名前もマリアが多いの。そして、マリアの愛称がマリキータ。最近はどうもこっちの方が本当の名前みたいになっちゃった」(P.28)

本「下流社会 −新たな階層集団の出現」三浦展5


下流社会 −新たな階層集団の出現 (光文社新書)
著者:
新書: 284ページ
出版社: 光文社 (2005/9/20)




いまさら、と言う気がしないでもないですが、下流社会
「何かがおかしい」と感じる今の日本の社会を、「何とかしたい!」という気持ちは、誰にだってある。その「何かがおかしい」問題点の究明、そして「何とかする」方法や考え方は、それぞれ違っていていい。算数の問題じゃないんだから、たったひとつの正解なんてものは有り得ない。それぞれが考える、それぞれの意見。問題提起することに意義がある!?

キッカケは、マックジョブ「おいしいハンバーガーのこわい話 (草思社 2007.4)」から。結局のところ、ぼくはその後も変わらずにマクドナルドに足を運んで、ポテトもチキンもハンバーガーも食している。
ただし、著者“三浦展”が本書において説く“下流”は、「所得」ではなく「意欲」であった。

そしてぼくは、熱心な“橋本治”信者。「日本の行く道(集英社新書,2007.12)」では、「産業革命前に戻す!」とか、「超高層ビルをすべて壊す!」と、まずはぶちまけておいて、それから歴史を丁寧に遡ってじっくり説き明かす。そんな橋本治だって、「何かがおかしい」問題点を限定することなどしないし、むしろ歴史の必然を説いちゃう訳だから、「という訳で現在に至ってます」に落ち着いちゃう。「これ!」という解決策など、簡単に掲げない。そんな簡単な話しじゃないし、ここまで経済の発展による“便利”の恩恵に与っている現状の風潮のままでは、何をしようが何も変わらない!?、だからこその、産業革命前!であり、超高層ビル壊し!、可能不可能の議論なんか簡単に超越しちゃわなくちゃね〜♪♪

それから、橋本治だけじゃなく、世界情勢やら自然科学やらの数々の書物から紐解くと、どうやらライフサイクルの原理原則から考えるに、成長期の後には、やがて成熟期が訪れて、衰退期を避けられない。どう考えても日本はバブル経済崩壊で成長期を終えちゃっているから、右肩上がりの成長神話は、既に成立し得ない。よくて成熟、悪けりゃ衰退。部分的(業種や商品)にミニバブルが起こったとしても、全体に拡がってバブル再来なんてことは、非現実的。
しかし、悲観する必要なんて何もなくって、かつては全世界に栄華を誇ったイギリスやフランスやスペインやイタリアなどのヨーロッパの国家は、成熟を誇りにその存在感を示す。成長だけが素晴らしい訳じゃない。人間だって、老人力を侮れない。

という訳で、ぼくは「縮小した世界」だって、今後の日本の在り方のひとつだと考える。東京に多くの産業や情報、雇用も経済も一極集中してしまって、地方、特に田舎の過疎化が進んで、大きな工場(大量の雇用を生み出す)でもなければ高齢者と公務員しかいない!?、バランスを欠いた現状に、もはや歯止めは効かない。
まずは、東京都心に集中しちゃってる経済を、徐々に郊外へと移行し、地方へも目を向ける必要はあろう。既に、拡大一辺倒の成長期は終焉しているのだから、「東京に行けば何とかなる」と夢を託す、地方からの出稼ぎを養うほどの余力も魅力も、、、

そして、由々しき“自由”。階級社会からの解放。
しかし近年においては、掲げられる“平等”が、悪しき“自己責任”の下に、平然と行われる“弱い者いじめ”。右肩上がりの成長期には、社会全体が潤っていたから、潤沢な資金の余剰分が社会的弱者にまで辿り着いていて、問題が露見する機会が少なかった。
成長神話から抜け出せない、拡大成長が止まることを嫌い、恐れる、現状の社会的構造のままでは、限られた市場の中の決して拡大することのないパイを奪い合い疲弊し、それでも売上や利益という社会に公表すべき成果を示すために悪戦苦闘を繰り広げる。意図的に情報を操作したり、偽装する行為は、決して許されるべきではないけれども、それでも、その背景を考えると、手を染めてしまった担当者個人だけをどうして責めることができよう。
日本だって明治維新以前は、そして戦後しばらくは、歴然とした階級社会だった。そこで繰り広げられていたのは、
落語の世界のように、大家さんが熊さんに、おまえもそろそろ所帯を持って、身を固めな、ついてはおまえは少し頼りないから、女房はしっかりしている方がいい、だからこいつと一緒になりな、と言われて早速翌日から夫婦生活を始めるなんてことは、現代ではとても不可能である。社会的に一定の共通性を持った男性と女性としてではなく、個人と個人として向き合うために、両者の接点を探すことから始めなければならなくなっているからである。(P.213)
という訳で、“自由”って大変!?

私は20代のサラリーマン時代、人より非常に仕事が速かった。だから残業が少なく給料が少なかった。25歳で月の手取りが25万円ほどだったと思う。能力が低く、仕事が遅い人間は、40万円近くもらっていた。
しかし仕事の速い私は、次々と多くの責任ある仕事をこなした。28歳で雑誌の編集長になった。本来課長か部長のすべき仕事を28歳の平社員が行って、それでも給料は平社員としての給料でしかなく、しかも仕事が遅くて残業代の多い後輩よりも少なかったのだ。
これは「結果悪平等」を通り越して「結果逆差別」みたいな現象である。(P.266-P.267)
と語る著者(だからこそ!?)が、最後に提案する具体策は、、、

「完全機会均等論の解決しがたい内包する問題」に著者は悩みつつ、それでも、随分と簡単に、、








本「青い鳥」重松清5


青い鳥
Amazonで購入
書評/国内純文学



泣きましょ、泣きましょ、大泣きしちゃいましょ。
ぼくのツボにヒットして、じわじわっときちゃう。上手いね、巧いね。
そう、無理をすることない、泣いちゃおう、泣いて泣いて、心から愉しんじゃおう♪

初の“重松清”は、かつて新潮社より“本が好き!PJ”経由の献本を逃し、自腹で参画。

ちょうど併読していた本が、「14歳からの哲学 考えるための教科書 (池田晶子,トランスビュー,2003.3)」で、舞台の設定というか、対象とされる部分(中学生!?)が近くって、どちらも深く沁み込みすぎちゃって、正直なところ、思考能力を失うほどにダメージ受けて、あぁ〜。
簡単に、キレイに纏めて、分かったフリをして書き記してしまうことを、誰よりもぼく自身が拒んでいる。

じっくりじっくり、慌てることなどない、時間を費やして考えて考えて、理解を深めて自らのものにしよう。
My Teacher cannot speak well.
So when he speaks,
he says something important.


≪目次: ≫
 ハンカチ      「小説新潮」2006年4月号
 ひむりーる独唱   「小説新潮」2006年7月号
 おまもり      「小説新潮」2006年11月号
 青い鳥       「小説新潮」2006年12月号
 静かな楽隊     「小説新潮」2007年1月号
 拝啓ねずみ大王さま 「小説新潮」2007年2月号
 進路は北へ     「小説新潮」2007年3月号
 カッコウの卵    「小説新潮」2007年4月号








本「14歳からの哲学 −考えるための教科書」池田晶子5


14歳からの哲学 −考えるための教科書
著者: 池田晶子
単行本: 209ページ
出版社: トランスビュー (2003/3/20)




ひとしきり泣いて泣いたところで何かが変わる訳ではない、何も変わらない。ぼくにとっての“池田晶子”は、この著作が初めてで、今まさに始まったばかりなのに、、、

どうにも纏まりを得ない頭で、「ぼくなんかの陳腐な言葉で汚してしまっては申し訳が立たない」などと言い訳を考えながら、やっぱり言葉が浮かばない。


そう、この本、本屋で平積みされていたのを何気なく見掛けたんだけど、ぼくの目を惹いたのは「14歳」、そして「哲学」。でも、すぐに手にすることはなかった。
うん、「哲学」を知りたい、学びたい欲求の高まりを感じていた。
それでもぼくは、理解力、知識不足を自負しているから、いきなり難解な論説に挑む勇気はなかった。だから、「14歳のレベルから始めてみよう!」と。

一方では、ぼくの小5(11歳)の娘の口から、少し前に、「将来のこととかって考えるんだけど、どうしたらいいのか、ぜんぜん分からないんだ」と。ぼくだって、11歳の頃なんか何も考えていなかったし、その後もずっと考えなかった、38歳の親をやってる今だって、こうして迷いまくっている。
それでもぼくは、「何とか娘の力になりたい!」と考えて、でも、ぼくが娘にできることは、一緒に考えることだけで、「ぼくの都合や考えを、一方的に押し付けるのは、きっと違う」と思った。「自分で考える方法、考え方こそが、大切なんじゃないかなぁ」、そう考えて、橋本治「勉強ができなくても恥ずかしくない(ちくまプリマー新書)」を一緒に読んだ。ぼくはまだまだだけど、読んだ本から学んだことは少なくない。
力になり得る、ひとつの方法としての“読書”。


この本を手にする前に、著者“池田晶子”についてネットで調べて、でも気が付かなかった。1960年生まれ、慶応義塾大学卒の哲学者、多くの読者を集める。ぼくの10歳年長。


実際に読み進めて、分かり易い、沁みる。素晴らしい出逢いに感動して、中途で再度“池田晶子”をネットで検索した。
ぼくは言葉を失った。茫然自失。考えられない。今思い返しても新たな涙が溢れる。
それ以降、読了まで、そして時間を経た今だって、どう理解していいやら、どう受け容れたらいいのやら、、、
『2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去』

数多く遺された著作、、、
ぼくは安易な言葉を繰り出したくない。


≪目次: ≫
  14歳からの哲学[A]
   1.2.3. 考える
   4.5. 言葉
   6. 自分とは誰か
   7. 死をどう考えるか
   8. 体の見方
   9. 心はどこにある
   10. 他人とは何か
  14歳からの哲学[B]
   11. 家族
   12. 社会
   13. 規則
   14. 理想と現実
   15. 友情と愛情
   16. 恋愛と性
   17. 仕事と生活
   18. 品格と名誉
   19. 本物と偽物
   20. メディアと書物
  17歳からの哲学
   21. 宇宙と科学
   22. 歴史と人類
   23.24. 善悪
   25. 自由
   26. 宗教
   27.28. 人生の意味
   29.30. 存在の謎








本「感動する脳」茂木健一郎5


感動する脳
著者: 茂木健一郎
単行本: 224ページ
出版社: PHP研究所 (2007/3/17)




だいたいさぁ、茂木健一郎は、本を書きすぎだよ!?
まぁ、面白くって読み易いから、ぼくなんかは、「とりあえず、手当たり次第に、しばらく読み漁ってみよう!」とか考えて、「いや待てよ、読んだら何かしら書き記さなきゃいけない(マイルール)んだけど、大丈夫かなぁ?!」などと、どうでもいいことを口にしてみて、「そうか、そんなに偉そうなことが言えるほどの書き記しには程遠いから、心配無用♪」で落ち着いちゃう。

しかし、と〜っても愉しそうな語り口は、それだけで充分に惹き付けて止まない。ぼくなんかは、まだ“茂木健一郎”四作品目なんだけど、既に「あれっ、この話し、どこかで聞いたぞ!?」のフレーズやネタが、、、 まぁ、それが“茂木健一郎”が考える重要なポイントで、「読者に擦り込みたい!、ってことなんだろうなぁ〜」などと思いながら、ぼくだって負けずにビュンビュン読み飛ばしちゃっているんだけど、既にこれだけ『』を掲げて展開されている著述が数多く存在しちゃって、広く世間に支持されちゃっている段階で、もうただただ「上手い、巧い、旨い、うまい」のであり、どんなにアラを探して否定してみようとしたところで、やっぱり「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損♪」とばかりに、愉しむことに専念しよう!

脳の中の壱千億の神経細胞(ニューロン)は、それだけ沢山あれば、総動員させなくったって充分に機能しちゃう。逆に、総動員させようとしたって、そりゃぁ無理ってもんでしょう?!、壱千億でっせ♪、そ〜んな途方もない数字にすら覚える『感動』!?、感動、感動、感動、感動♪

意欲的に生きる!、そう、創造性は若者の特権にあらず!
日本でも小説家の小島信夫氏などは、90歳の2006年に『残光』という作品を著わし、多くの若手小説家に影響を与え続けた。(P.49)


≪目次:≫
 第1章 人間の「心」を支配する脳
 第2章 意欲が脳を刺激する
 第3章 「感動」は脳を進化させる
 第4章 人と人の共感回路
 第5章 「ネガティブ脳」のメカニズム
 第6章 「感動脳」を育てる








本「ふしぎな生きものカビ・キノコ −菌学入門 Mr.Bloomfield's Orchard:The Mysterious World of Mushrooms,Molds and Mycologists」ニコラス・マネー、小川真 訳5


ふしぎな生きものカビ・キノコ―菌学入門 Mr.Bloomfield's Orchard:The Mysterious World of Mushrooms,Molds and Mycologists
Amazonで購入
書評/サイエンス



原題名「ブロームフィールドさんの果樹園 Mr.Bloomfield's Orchard」は、流石に“菌学入門”とは言うものの、当然に興味を有しなければ挑む(307ページは充分に怯むに値する)ことなど有り得ないであろうから、アハハハハハハハ、本来ぼくなんかが手を出す代物じゃないんだけど、、、、
とっても個性的で興味深い書籍をじっくり丁寧に出版している築地書館が、“本が好き!PJ”経由の献本をしていて、「んじゃぁ、ぼくも読んじゃお〜っと♪」で自腹で参画!

あったり前だけど、なかなかに手強い、キノコとかカビとか言われたって、ピンとこない(笑)!、「知りたい!」と考えたことさえもない。
昆虫と菌類は4億年もの間、互いにかかわりをもってきましたが、その間、双方の生物グループが守り・守られる進化をとげるための十分な機会と時間があったはずです。もしアマトキシンの本当の標的が、昆虫の幼虫だったとしたら、人間にふりかかる災難なんぞ、進化のうえでは鼻もひっかけられないほどのものなのです。どうひいき目に見ても、キノコは人間なんか問題にもしてないのです。(P.233)
そう、現生人類(ホモ・サピエンス)が地球上に生まれて、たかだか十数万年。どんなに偉そうに、まるで地球の支配者みたいな大きな態度をしていたとしても、その歴史は「菌類」の遥か足許にもに及ばない。
「古いもの」が必ずしも「良いもの」とは言い切れないけれど、それでも、厳しい生き残り合戦を経て、今なお在り続ける“ふしぎな生きものカビ・キノコ”♪♪


≪目次:≫
 第1話 臭いスッポンタケと冷たいキノコ
 第2話 人を悩ます真菌症
 第3話 菌糸成長のメカニズム
 第4話 酵母から冬虫夏草まで
 第5話 二人の偉大な変わり者
 第6話 水中に暮らすカビ
 第7話 菌が交わす愛のささやき
 第8話 毒キノコあれこれ −破滅の天使
 第9話 植物を襲う菌類








本「すべては脳からはじまる」茂木健一郎5


すべては脳からはじまる (中公新書ラクレ)
著者: 茂木健一郎
新書: 237ページ
出版社: 中央公論新社 (2006/12)




マイブーム♪、脳科学者茂木健一郎”は、小林秀雄賞受賞作「脳と仮想(新潮社,文庫,2007.3)」から、第三作目(正確には二作目!?)。
多様性」に纏わるエッセイ。著名人との交流、自らの経験、考え、、、すべては脳からはじまる?!

』などと掲げられると、ぼくなんかは、「あっ、難しそうだから関係ないや・・・」と、ずっと手にする機会がなかったんだけど、最近いろんな本を読むようになってから“科学”(体系化された知識や経験の総称)への抵抗が薄れて、というよりも、フツフツと湧き起る興味に後押しされて、だって、「何もかにも知らないことばっかりで、物語を愉しむことだってできないんだもん」という訳で、『脳』なんだけど、もっと言っちゃえば、「読み易くて分かり易い、脳に関する専門的な学術的な解釈をほとんど必要とされない不可解さ!?」を解したい!

ぼくだって、ただ暇つぶし的に本を読んでる訳じゃなくって、まぁ、精神安定剤(ドラッグ)的な側面を否定はしないけれども、それでも、「そんな遠くない時期には、世界文学を読み解きたい!、ドストエフスキーとか、デカルトとか、読んでみたい!、ただ読むだけじゃなくって愉しみた〜い!!」などと目論んでいて(あっ、言っちゃった!?)、ザックリとした戦略だって・・・?!、そんなことはともかく、とどのつまりが、『脳科学』とは言うものの、科学に研究範囲が限定されちゃうものなどなくって、「いかに生きる(在る)か、考えるか」かと!?

そう考えて、理解能力に未熟さを残すぼくなんかは、その原因が自らの経験やら知識やらの圧倒的な不足にあることが明確だから、ただただ時間と手間を費やして補い続けるしかない。逆に言えば、時間と手間を惜しむことなく(大幅な間違いさえない方法で)費やし続ければ、いずれ世間一般レベルまでは到達し得る!?、ただし、残念ながら近道などはない!、だから、慌てることなく着実に一歩一歩コツコツと。いきなり難解なところに挑んだって、挫折しちゃうのがオチだから、今はしっかりした根っこを張って、頑丈なゆるぎない土台を固める時。ちょっと世間一般の人よりもスタートが遅いかもしれないけれど、ハハハハハハ、そんなことにこだわって立ち止っている暇などないのだ♪


≪目次:≫
 第1章 脳の中の「私」は宇宙よりも広い
 第2章 他者と関わることではじめて得る自由と不自由
 第3章 「日本」というシステムは思考の糧となるのか
 第4章 そこに、多様性の海が開けている








本「ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)」橋本治5


ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)
著者: 橋本治
新書: 127ページ
出版社: 筑摩書房 (2005/01)




読者対象「10代のはじめ」に向けて、おとなの橋本治(1948年生まれ)が年若い読者との「距離」を考えながらも懇切丁寧に説く、
この本は、「敬語ってなんなんだ?」を考えて、「やっぱりないと困る。だから、みなさんでそれぞれ、正しい敬語の使いかたを考えてください」と言う本なのです。(P.8)
ちくまプリマー新書001。

ぼくの小五の娘も読みました。けど、感想は聞いてません。途中で「丁寧で分かり易い」とは言っていました。
ぼくが感想を聞かないのは、ぼく自身が他人から感想を求められるのが嫌だから。著者が魂を注ぎ込んだ数百ページの労力を、簡単にひとことふたことで纏められて、しかも、感想を求めた人の耳触りの好い言葉(時に痛烈な批判だって、著者本人じゃないから、また仮にそうであったとしても、それはそれで耳触りが好かったりもする!?)を選んで、キレイに語られちゃう意見(感想)に、何の意味があろう。またそこには、「感想を求める」という、立場というか、穿った見方かもしれないけれど、上下関係なんかも垣間見えちゃったりして、当然に感想を求める側は、その意見に対しての評価を下す、「どうだったんだ?、おぅっ?!、言ってみろや!」みたいな(笑)。

そんなぼくにとって、「敬語」、特に「丁寧語」って必需品で、どんなに相手が年若かろうが、会話の基本は「丁寧語」。
よそよそしく感じてるんだろうなぁ、とは思っても、ずっとそうしてきた。
なるほど、「距離」だったのね。無意識だったけど、そう、「距離」を保ちたかった。気持のどこかには、「あまり近くに寄って欲しくないなぁ」という意識があって、「馴れ馴れしいのは嫌だなぁ、面倒臭いなぁ」とか考えちゃう。
だから、時に相手を和ませたい(その必要がある)時、例えば、明確に相手が固くなっていることを察知しちゃったり、どうにも不慣れな時とかには、あえて、ぶっちゃけた語り口(タメ口)を使ってみる。
言葉って、相手とのコミュニケーションツールで、特にぼくは人間関係の形成や、良好で永続的な友好関係の維持の不得手を自負しちゃっているから、あくまでも、ぼく自身の目的を果たすための「手段」として活用するまで。特別な友好関係を永続的に築こうとか、そんな大仰なことなど、これっぽっちも考えないから、その瞬間を互い(まずはぼく)が不快感を抱くことなく、最終的に互い(特にぼく)の利益が担保されればそれでいい!、と。
おまけで、互いが気持ち好くって愉しければ、なお好いよね♪


≪目次:≫
 まえがき
 1 「先生がいらっしゃった」と言いますか?
 2 「ねぇ、先生」はいけないのか?
 3 敬語がはやらなくなったわけ
 4 三種類の敬語
 5 正しく使うとへんになる敬語
 6 見上げれば尊いけど、見上げないと尊くない先生
 7 「目上の人」ってどんな人?
 8 「えらい人の世界」はたいへんだ
 9 敬語ができあがった時代
 10 尊敬したくない相手に「尊敬の敬語」を使う理由
 11 えらい人はなぜ「先生」と呼ばれるのか
 12 「えらい人」がえらそうなわけ
 13 だれがだれやらわからない日本語
 14 「えらいか、えらくないか」しか考えなかった日本人は、「自分のこと」しか考えられない
 15 日本語には豊かな表現がある
 16 敬語は時代によって変わる
 17 やっぱり敬語が必要なわけ
 18 大昔の中国人は「丁寧」という楽器をボワーンと鳴らした
 あとがき ― ちゃんと敬語を使ってくださいね








訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

since 2007.11.19

Categories
じゃらんnet 宿・ホテル予約

Amazon
honto
TagCloud
本が好き!
本が好き!
記事検索
管理人・連絡先
管理人 Gori が書き記しています。 不適切な表現及び解釈などありましたら連絡ください。
ppdwy632@yahoo.co.jp
livedoor プロフィール

Gori

主として“本”が織りなす虚構の世界を彷徨う♪

‘表 BLOG (since 2006.8)
▲ロスバイク TREK 7.3FX(神金自転車商会 since 2008.8)
写真 Canon IXY900IS(since 2006.12.4) & EOS40D + EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM(since 2008.7.23) + EF100mm F2.8 Macro USM(used, since 2008.9.10) + EF-S55-250mm F4-5.6 IS(used, since 2008.9.30) + EF50mm F1.8 供used, since 2009.4.4)

Archives
Recent Comments
Recent TrackBacks
父が子に語る近現代史 (本の宇宙(そら) [風と雲の郷 貴賓館])
本「父が子に語る日本史」小島毅
BlogRanking
  • ライブドアブログ