Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

2008年03月

本「ライディング・ロケット RIDING ROCKETS −ぶっとび宇宙飛行士、スペースシャトルのすべてを語る (上)」マイク・ミュレイン、金子浩 訳5


ライディング・ロケット RIDING ROCKETS −ぶっとび宇宙飛行士、スペースシャトルのすべてを語る (上)
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書評/サイエンス



恥ずかしながら、実はかつて“化学同人”から“本が好き!PJ”経由の献本を受けるチャンス(公開募集)があったのに、全360ページ超の上・下巻、合計すると700ページを超える大著に、思わず尻込みをしてしまって献本を申し込むことさえもできなかった、へなちょこ。
献本受けたメンバーの書評を拝見するに、募る後悔、あぁぁ。もぅ〜、ばかばかばか。「あんたって豚ね (P.133)」、トホホホホ。
ディスカバリーは、夜明け直前に、、非の打ちどころのない着陸で砂漠に接地した。ハリウッドも、これ以上のエンディングは考えつかなかっただろう。
「ヒューストン、車輪停止」とハンクが報告した。
「了解、ディスカバリー。お帰りなさい」
歓声をあげたほとんどつぎの瞬間、わたしたちはみな考えていた。こんどはいつ、また飛べるんだろう? (P.337)
幼少の頃からの夢を叶え、三度の宇宙ミッションを完遂した宇宙飛行士“マイク・ミュレイン Mike Mullane”は、1945年9月10日、テキサス州にカトリック家庭の第二子(男5女1の6人兄弟)として生まれた。1957年10月4日のスプートニクで宇宙に憧れ、1967年に陸軍士官学校を卒業して空軍に入隊し、ベトナムで134回の戦闘任務に従事した後に、1978年2月1日にジョンソン宇宙センター2号館の講堂の壇上から正式に世界に紹介されて、スペースシャトル時代初の宇宙飛行士候補者35名のうちのひとりに名を連ねる。
宇宙飛行士選抜過程を受けた208名の中から選ばれた精鋭たち。
1967年組宇宙飛行士
パイロット宇宙飛行士
  ダニエル・ブランデンスタイン、海軍少佐、34歳
  マイケル・コーツ、海軍少佐、32歳
  リチャード・コヴィー、空軍少佐、31歳
  ジョン・“J・O”・クライトン、海軍少佐、34歳
  ロバート・“フート”・ギブソン、海軍大尉、31歳
  フレデリック・グレゴリー、海軍少佐、37歳
  デイヴィッド・グリッグス、民間人、38歳
  フレデリック、ホーク、海軍中佐、36歳
  ジョン・マクブライド、海軍少佐、34歳
  スティーブン・ナーゲル、空軍大尉、31歳
  フランシス・“ディック”・スコビー、空軍少佐、38歳
  ブルースター・ショー、空軍大尉、32歳
  ローレン・シュライヴァー、空軍大尉、33歳
  デイヴィッド・ウォーカー、海軍少佐、33歳
  ドナルド・ウィリアムズ、海軍少佐、35歳
軍人ミッションスペシャリスト宇宙飛行士
  ギオン・“ガイ”・ブルフォード、空軍少佐、35歳
  ジェームス・ブチュリ、海兵隊大尉、32歳
  ジョン・ファビアン、空軍少佐、38歳
  デイル・ガードナー、海軍大尉、29歳
  R・マイケル・ミュレイン、空軍大尉、32歳
  エリソン・オニヅカ、空軍大尉、31歳
  ロバート・スチュアート、陸軍少佐、35歳
民間人ミッションスペシャリスト宇宙飛行士
  アンナ・フィッシャー、28歳
  テリー・ハート、28歳
  スティーブン・ホーリー、31歳
  ジェフリー・ホフマン、31歳
  シャノン・ルシッド、35歳
  ロナルド・マクネイア、27歳
  ジョージ・“ピンキー”・ネルソン、27歳
  ジュディス・レズニック、28歳
  サリー・ライド、26歳
  マーガレット・“レイ”・セドン、30歳
  キャスリン・サリヴァン、26歳
  ノーマン・サガード、34歳
  ジェームズ・“オックス”・ヴァン・ホフテン、33歳
   (P.48-P.51) 

なるほど、死と隣り合わせの危険を常に覚悟して、それでも挑む宇宙の魅力。
実際に、著者と共に第1回目のミッションに搭乗し、個人的にも親交を深め、女性として世界で2人目に宇宙に飛び立った“ジュディス・レズニック”は、自身の2度目となる1986年1月28日の宇宙ミッションでチャレンジャーに搭乗して死亡している。彼女は、“女性”ということで、世間の注目を浴び、常に緊張を強いられた。
著者は、その成長過程において“フェミニズム”をも何ら意識することなく、勉学にのみ励んできた、自称“AD(発育不全、世間知らず,Arrested Development)”だからこそ、姑息に小手先で上手に立ち回ることなく、女性をセックスの対象としてしか見ることができなかった一方、宗教(カトリック)的な側面からは忌避すべき存在(!?)にも、ウイットに富んだジョークを忘れることなく正面からぶつかっていったからこそ知り得た、その華美な外見からは窺い知ることができない、彼女の内に強く秘めたものに触れている。
どうしても男と女の関係、特に宇宙飛行士という特殊で閉鎖的で羨望や嫉妬などの強い関心に晒される職にあっては、ベッドを共にしたか否かの周囲の下世話な関心から逃れることができない。
それは、人間の男と女が、とどのつまりは動物のオスとメスであり、生殖(種の保存)目的以外に、快楽を得る手段としてのセックスに励む。
既に事の善悪を問う意義さえ失わせるほどの現実として!?

著者自らにして奇跡的(?!)とも語る“宇宙飛行士”への道程は、妻であり、生涯の伴侶“ドナ”との運命的な出逢いがあってこそ成し得た。それでも、まったくの世間知らずのチェリーボーイだった著者をして、結婚に到らしめた運命の悪戯。
わたしたちは、あわせて三日間と100通の手紙で知っているだけの相手と婚約した。わたしはセックスのために結婚しようとしていた。ドナは両親からのがれるために結婚しようとしていた。いやはや、長続きしそうな結婚だ。 (P.245)


≪目次: ≫
【上巻】
 第1章 腸と脳
 第2章 冒険
 第3章 急性灰白髄炎
 第4章 スプートニク
 第5章 選抜
 第6章 スペースシャトル
 第7章 発育不全
 第8章 歓迎
 第9章 酒池肉林
 第10章 歴史の殿堂
 第11章 新人ども
 第12章 スピード
 第13章 訓練
 第14章 スピーチの冒険
 第15章 コロンビア
 第16章 序列
 第17章 プライムクルー
 第18章 ドナ
 第19章 中止
 第20章 MECO
 第21章 軌道
 第22章 帰郷


薄紫色の花
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本「『資本論』と私」宇野弘蔵、櫻井毅 解説5


『資本論』と私
著者: 宇野弘蔵、櫻井毅 解説
単行本: 374ページ
出版社: 御茶の水書房 (2008/01)




なるほどなるほど、感心し切り。
ちょ〜っと、これは何だか豪いこっちゃ!?、さぁ、どうすんべぇか♪

佐藤優「わたしのマルクス (文藝春秋,2007.12)」あたりからだと、ぼくは記憶しているのだけれども、まだ見ぬ“マルクス (Karl Heinrich Marx,1818.5.5-1883.3.14)”に対する、抑え切れないほどの憧れ(?!)が急速に膨らむのを感じていた。
だからと言って、いきなりマルクスが著した「共産党宣言 (1848)」や「資本論 (第1部,1867)」に飛び付くほどには、ぼくはもう若くない。そんな元気は既に失われて久しいし、そもそも読み解く自信がない。特に旧い著作は、不慣れ故に難解と感じてしまう記述や表現に溢れ、なかなかに触手が伸びない。

そんなぼくは、何で知り得たのであろうか?!、日本における“マルクス経済学”の第一人者であり、“宇野学派(宇野経済学)”を打ち立てた、故人の“宇野弘蔵 (1897.11.12-1977.2.22)”の著書が新た(2008.1)に刊行された、と聞いちゃったら、そりゃぁ〜読まないわけにはいかないでしょう!、とばかりに、あたま空っぽのまま無謀にも挑む♪

そう、マルクス経済学界で世界に名立たる“宇野弘蔵”の没後30年を記念した著作集は、これまでの宇野弘蔵の著作に掲載されなかった未公開の論文、対談、座談会の記録などが収録され、さらには宇野弘蔵に師事した“櫻井毅 (1931.7.13- )”が詳細に解説をする。


確か、佐藤優も語っていた、ソ連や中国の社会主義が崩壊して、かといって資本主義だって万全な状態には程遠く、様々な歪みを抱えながらに何とか存続していて、そんな今だからこそ、マルクス経済学をあらためて読み解くべきである、と。
なるほど、大学で法律と哲学を学んだマルクスは、その当時栄華を誇っていたイギリスが17世紀、18世紀、19世紀と、200〜300年の歳月を経て熟成させてきた“資本主義”においては後進国とされるドイツに在って、単純にそれ(イギリスの資本主義)を真似して、そのままに導入してみたところで、ドイツの現状やら歴史的背景やらの、イギリスとの相違から鑑みて、どうあったとしても上手く機能し得ないと想像できるとするならば、想像でき得るからこそ、法律学と政治学と経済学のすべてを横断した社会科学として、歴史的な考慮を加えて分析して、さらには思想までもを籠めて説く論理、それでもそんなに簡単に一筋縄ではいかない。


宇野弘蔵の理論の特徴としてあげられる、イデオロギーと社会科学、歴史と倫理、三段階論。原理論、段階論、現状分析の3分野にわたる方法論の提起。


≪目次: ≫
 1 『資本論』と社会主義
    (1948年12月号 経済社 雑誌「経済」掲載)
 2 インテリゲンチャ
    (1951年 岩波書店 雑誌「文庫」第2号掲載)
 3 社会科学はどうしてできたか
    (1950年 論文「社会科学講座」供匱匆餡奮悗僚系譜〉掲載)
 4 座談会 社会科学はどうあるべきか
    (1952年 弘文堂 小冊子「社会科学のために」)
 5 恐慌論
    (1977年8月号 雑誌「思想」に遺稿として掲載、
     1955年10月8日,法政大学大学院 公開講義の原稿))
 6 経済学の方法について
    (1963年1月23日,農業総合研究所にて、報告と質疑応答)
 7 経済政策の起源及性質に就て
   ―スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
    (1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載)
 8 マルクス経済学と私
   ―宇野弘蔵氏に聞く
    (1953年3月7日号から4回 経済雑誌「エコノミスト」掲載)
 9 『資本論』と私
    (1976年春季号 時潮社「社会科学のために」掲載
     1976年3月9日,自宅にて口述 エッセイ)
 宇野弘蔵「『資本論』と私」解説  櫻井毅


束縛されて・・・
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本「朗読者 Der Vorleser (新潮文庫)」ベルンハルト・シュリンク、松永美穂 訳5


朗読者 Der Vorleser (新潮文庫)
著者: ベルンハルト・シュリンク、松永美穂 訳
文庫: 258ページ
出版社: 新潮社 (2003/05)




なるほど、ドイツで1995年に刊行された後の5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超えるミリオンセラーになった、世界的大ベストセラー。日本では、新潮クレスト・ブックスシリーズの1冊として2000年4月に、文庫版が2003年5月に。
ドイツを舞台として描く物語においては欠くことができない、ナチズム強制収容所ユダヤ人、そして日本と同じく第二世界大戦での敗戦。
多くの歴史的な哲学者や思想家たちを生み出した地“ドイツ”。
著者“ベルンハルト・シュリンク (Bernhard Schlink)”は終戦の前年の1944年、ドイツ西部ビーレフェルト近郊に生まれる。現在、ベルリン・フンボルト大学法学部教授、憲法裁判所判事でもあった。
終戦(1945年)の前年の生まれ。

描かれる裁判シーン、法廷で裁かれるべく、何らかの犯罪行為を行った人間がいて、法律により裁きを下す裁判官も人間であり、犯罪行為によって被害を被った側の人間、傍聴する人間の存在も在る。
物語のドラマティックな展開に、簡単に感動することを否定したい。
多くの人が手にするべく、随所に盛り込まれ、アッと驚かされ、思わず涙を誘う物語の展開は、決して最後まで読む者を飽きさせない。じわじわと明かされる何重もの巧みな仕掛けは、まるでミステリー小説。事実、著者は3冊のミステリー小説を執筆していて、そのうちの1作はテレビドラマ化されているという。

なぜだろう? どうして、かつてはすばらしかったできごとが、そこに醜い真実が隠されていたというだけで、回想の中もずたずたにされてしまうのだろう? パートナーにずっと愛人がいたのだとわかったとたん、幸せな結婚生活の思い出が苦いものになってしまうのはなぜだろう? そんな状況のもとで幸せでいるというのは、あり得ないことだからか? でもたしかに幸せだったのだ! 苦しい結末を迎えてしまうと、思い出もその幸福を忠実には伝えないのか? 幸せというのは、それが永久に続く場合にのみ本物だというのか? 辛い結果に終わった人間関係はすべて辛い体験に分類されてしまうのか? たとえその辛さを当初意識せず、何も気づいていなかったとしても? でも、意識せず、認識もできない痛みというのはいったい何なんだろう? (P.45-P.46)

「わたしはずっと、どのみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなってしまったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。その場に居合わす必要はないけれど、もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」
ぼくが何か言うかと彼女は待っていたが、ぼくには何も思いつかなかった。ぼくは最初、ぼくは何も追い払えないんだと言おうとした。しかし、それは正しくない。誰かを隙間に追いやることで、追い払っていることもあるのだ。
 (P.223-P.224)


静寂
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本「古事記 (少年少女古典文学館 1)」橋本治5


古事記 (少年少女古典文学館 1)
著者: 橋本治
単行本: 293ページ
出版社: 講談社 (1993/06)




日本最古の書物とされる“古事記”とやらを読んでみようとして、というより、読んでおかなければならないんじゃないかなぁ、と強い必要性を感じて、ぼくが選んだのがコレ、古典に精しい“橋本治”が、現代語に訳して読み解く。
そう、実は古典文学にまったく縁がなかった(古典デビューの)ぼくにとっては“橋本治”が著したもの以外の選択肢はなくて、ということで、何と15年前に刊行された著作を手にしたのだけれども、そもそもが今から1,296年前の西暦712(和銅5)年に成立した書物である。
まぁ、15年前と今とでは、厳密に言うと日本語だって変化してしまっているだろうし、もしかしたら“古事記”自体の解釈だって変わっている可能性を否定できないけれど、それでもとにかく不慣れな古典の文章に挫折することなく、何としても読み切ることを最優先するからこそ、読解能力に不安を隠せないぼくにとっては、導入部分を“橋本治”が読み解いてくれることが精神的な負担を小さくする。

本書においては、“古事記”が上の巻・中の巻・下の巻とあるうちの、上の巻の部分のみ。それでも293ページの大作。
人間が誰ひとりとして登場することなく、神さまだけが存在して、日本の国土を創造し支配する。そして、神さまたちが時に戦い、時に恋をする物語は、まさに“神話”!?

イラスト付きの丁寧な解説があって、巻末には神さまの系統図、さらには“古事記”の原文の一部までが掲載されていて、なるほど理解を助ける。
ひらがなも、カタカナも、日本にまだ固有の文字がなかった時代に、漢字だけを駆使して綴られた物語。


水玉♪
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本「停電の夜に (新潮文庫)」ジュンパ・ラヒリ、小川高義 訳5


停電の夜に (新潮文庫)
 Interpreter of Maladies
著者: ジュンパ・ラヒリ、小川高義 訳
文庫: 327ページ
出版社: 新潮社 (2003/02)




ジュンパ・ラヒリ (Jhumpa Lahiri)のデビュー作、全9篇の短篇集。1999年に、『Interpretor of Maladies (病気の通訳)』のタイトルで刊行。本作で、オー・ヘンリー賞・ヘミングウェイ賞・ニューヨーカー新人賞・ピューリッツァー賞 フィクション部門を受賞。
日本では、2000年8月に“新潮クレスト・ブックス”シリーズで刊行。日本語のタイトルとしては、確かに「病気の通訳」より「停電の夜に」の方が、想像力と興味を駆り立てられ、本作に相応しいとも!?、ところで、理解力に不安があるぼくは迷わず文庫版を選択して、あとがき(解説)の充実を期待するも、文庫化にあたっての訳者あとがきへの追記は、たったの2行、確かにそれ以上の解説を必要としない。

そして、デビュー第2作で2003年刊行の『The Namesake (その名にちなんで)』は、2006年11月にイギリスとアメリカで映画化された。こちらも、日本では2004年7月にふたたび“新潮クレスト・ブックス”シリーズで刊行。
ぼくは、日本での映画公開をきっかけに、と言っても実は映画を見そびれてしまって、ちょうどそんなタイミングで文庫本が刊行されていることを知って、それが“新潮クレスト・ブックス”シリーズだったことで、さらに興味が倍加して、だから先行して読んだのが「その名にちなんで The Namesake (新潮文庫,2007.10)」で、それを足がかりに、憧れ(?!)のロシア文学「外套・鼻 (ゴーゴリ,岩波文庫,2006.2)」を経て、やっぱりデビュー作を読んでおきたい!、でしょう♪


ところが、どうにも頭に這入らない。何とか文字を追うことはできても、余計なことばかりが頭を占めて、物語に這入り込めない。仕方がないよね、第一篇で日本語版の表題作にもなっている、「停電の夜に A Temporary Matter」にいきなりのノックアウト。あまりにも痛烈なパンチに朦朧としたままに、それはそれとしてとりあえず読了。
というわけで、果たしてこれを読了としていいものなのかどうなのか、ぼくにもわからない。

知ってしまったことに泣けた。  (「停電の夜に」P.39)


≪目次: ≫
 停電の夜に  A Temporary Matter
 ピルザダさんが食事に来たころ
         When Mr.Pirzada Came to Dine
 病気の通訳  Interpreter of Maladies
 本物の門番  A Real Durwan
 セクシー  Sexy
 セン夫人の家  Mrs.Sen's
 神の恵みの家  This Blessed House
 ビビ・ハルダーの治療  The Treatment of Bibi Haldar
 三度目で最後の大陸  The Third And Final Continent


しっとりピンク♪
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本「国家と人生 −寛容と多元主義が世界を変える」竹村健一、佐藤優5


国家と人生 −寛容と多元主義が世界を変える
著者: 竹村健一、佐藤優
単行本: 287ページ
出版社: 太陽企画出版 (2007/11)




1930年生まれの“竹村健一”の箱根の別荘に、1960年生まれの“佐藤優”を招いての、三日間に亘る対談の書籍化。
歴然と在る30年の人生の経験の差をどこかには感じさせながらも、竹村健一にして『特異な「知の巨人」』と言わしめた佐藤優が、ホントに気持ち好さそうに語る語る語る、ここまで語らせる竹村健一の懐の深さに感服するとともに、ここまで語れる佐藤優に、やっぱり敬服。
これぞ対談の醍醐味。佐藤優にしても『決して予定調和的なものではない』と言わせるほどに、あっけなくも素直に語ってしまった、むしろ、語らされてしまった、のではあるまいか。
そう、佐藤優を数えること第八作目のぼくにとって、正直、これまでに読了した著作のすべてを理解できているとは言い難い。むしろ、どちらかといえば、かなり無理をして背伸びをして、何とか読み切った、と言うのが本音。それでも、ロシアであり、キリスト教であり、マルクスであり、国家であり、、、、佐藤優が語るひとつひとつに抱かれる興味、それなのに分からないから、分からないからこそ知りたい理解したい欲求は、ますます高まるばかり。だからこれまで、とりあえず文字を追うことによって刻み込んで詰め込んできた知識を、第三者の竹村健一の問いによって導き出される新たな側面からの語りが、多角的な情報が、ぼくの知識を体系的な構築へと導く。また、第三者に相対して語る言葉は、それを書籍として編集するにあたり、まさに突発的に飛び出した、まるでハプニングのような興味深い事柄や、歴史的な事実に対する注釈が補足されて、さらに無知なぼくの理解を助ける。例えば、単独執筆の著作では、筆が乗ってきて勢い込んで書き記したハプニング的な事柄や記述は、その後には冷静にハプニングとして削除されてしまって、どうしても無難な表現や記述となってしまうのであろうし、また、ぼく(きっとぼくだけではないとも思うが)はその安定性やら安心感の方を好む。著者により、編集者により、出版社により、何度も何度も冷静に客観的に校正された書籍としての完成度は、絶対的に必要とされよう。その一方で、対談によって構成される書籍にだって、その存在の意義があろう。じっくり推敲を重ねられた著作では、切り落とされてしまうようなネタ、出来事が、著者の中でプスプスとくすぶっていたものが、その場のノリで第三者の援護を受けてムクムクと浮かび上がって、興味深い語りとして表出することだってあろう。じっくり考えるからこそ浮かび上がる事柄と、簡単に口外しちゃったことによって浮かび上がる事柄は、日常的にじっくりと考えることを習慣付けている著述家たちの深く本質に迫り、意外な側面をも垣間見ることができる貴重な体験。
これ(対談本)だけをして、著者を語ることなど決してできないけれども、これ(対談本)もまたぼくのような愛読者にとっては必要不可欠な著作とも言えよう。
[佐藤] 寛容な人というのは、じつは気難しいし、怒りっぽいのです。なぜかというと、自分にはっきりした考えがないと、他人に寛容になれないからです。ですから、相手の考え方が間違っていると、烈火のごとく怒ったりする。じつは寛容という精神は、三十年戦争など、ヨーロッパで徹底的な殺し合いが繰り広げられた結果、出てくるわけですから。
[竹村] そうですね、日本でも南北朝の戦乱のなかで寛容の精神が誕生したということですからね。寛容の精神というのが戦争という混乱から生まれるとね。
[佐藤] 自分の考えを押しつけるのはよくない、結局、悲劇を生む。お互いに妥協して共存共栄を図るのがお互いのためという思想が生まれて、ようやく折り合いをつけた結果、生まれたのが寛容です。
余談になりますが、私は最近の社会情勢を見て、異分子を排除する精神が高まってきつつあるように感じます。これは危険です。いじめも非寛容な発想の産物です。また、自分たちの知恵だけで理想的な社会ができるという発想も危ないと思うのです。
[竹村] いくら人間の知恵だけで組み立てようとしても、宇宙の摂理、自然の摂理というものがありますからね。
 (P.112-P.113)

≪目次: ≫
 第1章 沖縄から日本が見えてくる
 第2章 遠い日のルーツをたどる
 第3章 知識と情報の蓄積が知恵になる
 第4章 知力を高める読書術、記憶術
 第5章 脱共産主義ロシアとのつき合い方
 第6章 官僚の真実と国家の行方
 第7章 日本の歴史と伝統を守る


眩しい〜! 蒲公英の黄色♪
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本「ペット・サウンズ PET SOUNDS (新潮クレスト・ブックス)」ジム・フジーリ、村上春樹 訳5


ペット・サウンズ PET SOUNDS (新潮クレスト・ブックス)
ジム・フジーリ、村上春樹 訳
単行本: 187ページ
出版社: 新潮社 (2008/2/29)




そう、“ペット・サウンズ(Pet Sounds)”は、1966年5月16日、アメリカのポップグループ“ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)”がリリースしたアルバム、「ロックの歴史を変える名盤」と謳われる、ブライアン・ウィルソン(Brian Douglas Wilson,1942.6.20- )の傑作。
その時13歳だった著者“ジム・フジーリ(Jim Fusilli)”が描く物語。

・・・我々が立ち会うのは、ナレーターであるブライアンが女の子に向かって初めて心を打ち明ける場面だ。でも思ったように心の内を言葉にすることができない。抽象的ではあるが、高度にパーソナルな宣言、それが彼にできることのすべてだ。愛が自分の人生に何をもたらしてくれることを望んでいるのか、自分でも今ひとつ確信が持てないみたいだ。そしてどうしようもなく混乱をきたしている。深く、すべてを包み込むような愛を、その心は何よりも希求している。彼女が相手だからそうなのか、あるいは相手とはかかわりなく、彼が本来そういうものを強く求め続けているのか。そしてそのようなタイプの愛は現実に実在するのだろうか。あるいはそれは幻想が生み出し、意志が作り上げたものに過ぎないのか。 (P.73-P.74)

あぁ、ペット・サウンズも、ビーチ・ボーイズも、ブライアン・ウィルソンも、ロックも、ぼくにはまったく無縁の世界、まずは知らないし、そして残念ながら興味を持ち得ない。ただ“村上春樹”が読みたかった。

波乱万丈と簡単には語ってしまいたくない、ブライアン・ウィルソンの生き様。心を病み、引き籠もり、ドラッグや酒に溺れ、体重が160キロ近くにまで。
何とか(?!、どうにかこうにか、やっとのことで)、1988年からソロ活動を再開(復活を果たす!?、20年超?!)するも、、、


≪目次: ≫
 プロローグ 「僕にはちゃんとわかっているんだ。
            自分が間違った場所にいるってことが」
  “I know perfectly well I'm not where I should be...”
 第1章 「ときにはとても悲しくなる」
  “Sometimes I feel very sad...”
 第2章 「僕らが二人で口にできる言葉がいくつかある」
  “There are words we both could say...”
 第3章 「キスがどれも終わることがなければいいのに」
  “I wish that every kiss was never-ending...”
 第4章 「ひとりでそれができることを、
            僕は証明しなくちゃならなかった」
  “I had to prove that I could make it alone now...”
 第5章 「しばらくどこかに消えたいね」
  “Let's go away for awhile..”
 第6章 「自分にぴったりの場所を僕は探している」
  “I keep looking for a place to fit in...”
 第7章 「でもときどき僕はしくじってしまうんだ」
  “But sometimes I fail myself...”
 第8章 「答えがあることはわかっているんだ」
  “I know there's an answer...”
 第9章 「この世界が僕に示せるものなど何ひとつない」
  “The world could show nothing to me...”
 第10章 「美しいものが死んでいくのを見るのはとてもつらい」
  “It's so sad to watch a sweet thing die...”
 エピローグ 「もし僕らが真剣に考え、望み、祈るなら、
            それは実現するかもしれないよ」
  “Maybe if we think and wish and hope and pray
   it might come true...”
 訳者あとがき 神さまだけが知っていること


ツブツブの実!?
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本「フューチャリスト宣言 (ちくま新書)」梅田望夫、茂木健一郎5


フューチャリスト宣言 (ちくま新書)
著者: 梅田望夫、茂木健一郎
新書: 224ページ
出版社: 筑摩書房 (2007/5/8)




梅田望夫と、茂木健一郎が、語る語る語る“対談”の書籍化。
対談本(?!)って、ぼくは好んで手にするのだけれど、当然に「書籍化に堪え得る」と(一方では「売れる」とも!?)、出版社が判断をした上で選択したプロフェッショナル同士に自由に(テーマは提出される?!)、語ってもらって、その偶有性に期待する。
仮に偶然性に満ちたハプニングなど何も起こらなくたって、既にその分野のプロフェッショナルが放つ“生の語り”なのだから、それだけで意義を有しよう。また、互いの会話が、その想いが一致することなど、そのことの方が偶然なのであり、相違することがむしろ自然なことであり、だからこそコミュニケーションを図る必要があるのであろうとも。

本書においても、何度も「そういうことなのかぁ、そうだったんだぁ、、」と感嘆する場面に遭遇し、そのことに歓びを得て愉しみ耽ってしまう様子に、ぼくは「何だか羨ましい」(笑)とすら感じてしまう。
そもそも『フューチャリスト』を宣言して、未来を夢見る彼らではあっても、果たして、それぞれが描く未来像などというものは、決して明確に克明なものではないのではないのか。「未来が明るく良いものであって欲しい!」という“願い”などという“他力”に期待するようなものではなく、自らの意思やら意欲を籠めて“願う”。なるほど「知の総力戦 (茂木,P126)」をしても「未来を創り出したい!」という意識。「未来がどうなるか?!」なんてことは、とどのつまりは誰にも分からない。想像してみたところで、その通りになる保障など何もない。何らの保証などなく、偶然の導きによってのみ突発的な進化(変化)を遂げる未来を、その可能性は確かに失敗の連続であろうことなど容易く想像できるのであって、成功の可能性などゼロに限りなく近いものと見たところで、それを間違いであるとは決して言えないであろう。多くの人びと(当然にぼくも含まれる)は、安定を志向し危険を伴う冒険を躊躇する。その安定志向を否定されてしまったところで、それぞれの人びとに与えられた役割が、もっと言ってしまえばレベル(能力)にだって明確に差異はある。
そう考えて、だからこそ、
「自分はいま何をすべきなのか (梅田,P207)」


≪目次: ≫
 はじめに(茂木健一郎
 第1章 黒船がやってきた!
 第2章 クオリアグーグル
 第3章 フューチャリスト同盟だ!
 第4章 ネットの側に賭ける
 梅田望夫特別授業「もうひとつの地球」
     -2006.11.11 慶応義塾普通部
 茂木健一郎特別授業「脳と仕事力」
     -2006.11.29 横浜国立大学教育学部
 おわりに −フューチャリストとは何か(梅田望夫


白
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本「モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)」小林秀雄5


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)
著者: 小林秀雄
文庫: 213ページ
出版社: 新潮社; 改版版 (1961/05)




そう、橋本治はその著作「人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書,2002.12)」において、『“美しい”を感じる人間の孤独と敗北の妙な関連』を説く。さらには『“美しいが分かる人”は“敗者”』とまで放つ。
そこでぼくは不思議と“小林秀雄”を思わずにいられなくて、結果として初めての小林秀雄を経験するに到っている。
それは、「小林秀雄の恵み (橋本治,新潮社,2007.12)」による長大なる論説に呑まれてしまって、大きく前を立ち塞がれて踏み出すことができないで居るぼくの思考が「ぼくを立ち塞ぐ壁」の存在を存在として認識するに到り、とどのつまりが壁は障壁として存在する壁でしかなく、壁はぼくを断ち塞ぐ目的でそこに在る一方で、そこに在る壁が、ぼくに「自らの力で乗り越えろ!、挑め!、考えろ!」と厳しくも優しく手向ける眼差し。
敗北も孤独もそのままにすべて受け容れて、自らの力をして立つ!

そう、“小林秀雄 (1902.4.11-1983.3.1)”の語りには、なるほど独特なものがある。
それは自らが自らの内側に向かって語り掛けるかの様相を呈する。語る“僕”であり、“僕等”であり、“私”は、評論すべき対象者とまるで同化し、その心の内に這入り込んだかのように語るのである。
私は、室内を徘徊しながら、強い感動を覚えた。どうもよく解らない。何が美しいのだろうか。何も眼を惹くものもない。永続する記念物を創ろうとした古代人の心が、何やらしきりに語りかけているのか。彼等の心は、こんな途轍(とてつ)もない花崗岩を、切っては組み上げる事によってしか語れなかった、まさにそういう心だったに相違ない。いや、現に私は、それを面(ま)のあたりに見ている、触る事も出来る。歴史の重みなどという忌ま忌ましいものはない。そんなものは、知識が作り出す虚像かもしれない。私は、現在、この頑丈な建物が、重力に抗して立っているのを感じているだけではないか。 (「蘇我馬子の墓」P.144)

息吐く暇をも与えないほどの勢いに、何が何だか解らないままにその流れ行く様に身を委ねる以外に術はない。
ところで、“美しい”を余す処なく語り尽くす“小林秀雄”の、果たしてその“孤独”と”敗北”とは何処に?!、明確に「ここに在る」とぼくには示すことができないものの、“解説”において”江藤淳”が書き記す「小林氏の孤独」であり、「かなしさ、悲しい、哀しみ」、そして「自己の“宿命”への凝視」、、、

そんな事を或る日考えた。又、或る日、或る考えが突然浮かび、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処へ行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」
 (「無常という事」P.75)


≪目次: ≫
 モオツァルト (「創元」昭和21年12月号)
 当麻 (たえま,「文学界」昭和17年4月号)
 徒然草 (「文学界」昭和17年8月号)
 無常という事 (「文学界」昭和17年7月号)
 西行 (「文学界」昭和17年11月〜12月号)
 実朝 (「文学界」昭和18年2月〜6月号)
 平家物語 (「文学界」昭和17年7月号)
 蘇我馬子の墓 (「芸術新潮」昭和25年2月号)
 鉄斎 (「時事新報」昭和23年4月30日、5月1日、5月2日号)
 光悦と宗達 (「国華百粋」昭和20年10月号)
 雪舟 (「芸術新潮」昭和25年3月号)
 偶像崇拝 (「新潮」昭和25年11月号)
 骨董 (発表紙誌不明)
 真贋 (「中央公論」昭和26年1月号)

 解説 江藤淳(昭和36年3月、文芸評論家)


♪青、青、青、、、
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本「魔使いの秘密 THE SPOOK'S SERCRET」ジョゼフ・ディレイニー、金原瑞人・田中亜希子 訳5


魔使いの秘密 THE SPOOK'S SERCRET
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書評/SF&ファンタジー



東京創元社より“本が好き!PJ”経由の献本、御礼!
〈魔使いシリーズ〉第3弾、なるほど明かされる“魔使い”の秘密!?、
それは、ヒ・ミ・ツ♪
「魔法使いの弟子 (2007.3)」「魔法使いの呪い (2007.9)」、、、

13歳のトムは、愛する家族と離れて、師匠の“魔使い”の下に厳しい修行を重ねる“魔使いの弟子”。力の衰えを隠せない師匠を、時に手助けし、共に生活する中に、その知識と経験を習得する。トムは13歳とはいえ、既に親元を離れ、厳しい社会を自らの力で生き抜かなければならない。子どもだから、弟子だから、なんて甘えは通用しない。魔使いの世界に生きる覚悟を決めた以上、立ち向かわなければならない敵(悪)を自らの力で封じ込めなければ、自らが命を落とすことにもなりかねない。まさに、生きるか死ぬかの真剣勝負。
敵(悪)だって必死。誰だって、その使命を全うしたい。だから、あの手この手を使っての決死の攻防が繰り広げられる。

そんな厳しい社会にあって重ねられる出会いと別れは、一時の感情に左右されない強い意志を要求される。新たな出会いは、心を温かくする。一方、別れは辛い、心が引き裂かれるような想い。いつ何時、再び会えるとも知れない。修業中の弟子の身分にあって、決して自由など有り得ない。ましてや、魔使いという、いつ何時、突然遣ってくるとも知れない「悪」に立ち向かい、人びとを護ることを使命とするが故、常に臨戦態勢を整えておかなくちゃいけない。そりゃ、親の死に目に逢えなくたって、何の不思議もない。あぁ。
何の因果か、とっても切なくて、堪え切れずにウルウルしちゃう。

そう、色濃く描かれる“死”、どこまでもズバッと直球、ヤングアダルト叢書だからこそ!?、手加減なしの真剣勝負が心地好い♪
著者“ジョゼフ・ディレイニー (Joseph Delaney)”は、1945年イングランド北部のランカシャー生まれ。なるほど、旧くから伝わる民話をベースに仕立て上げられたファンタジーは、「えいやっ」と簡単に魔術を自在に操る“魔法使い”なんかじゃない、自分に感覚だけを頼りに「悪(?!)」を封じ込める“魔使い(SPOOK)”を描く。
そもそも、“魔使い”を指す“spook”が「幽霊」や「変人」という意味であり、人びとから忌み嫌われる魔女や幽霊や精霊やらに立ち向かう職人で、それなのに人びとからは必要とされながらも感謝されるより恐怖の対象とされ、それ故に常に“孤独”が付き纏う。
それでも、「誰かが遣らなくちゃいけない。それがぼくだった。だから、遣らないわけにはいかない!」と敢然と立ち上がる。

今回、トムが立ち向かう最大の敵、かつて師匠の弟子だった“モーガン”は、死者の霊を操る力を有する、と嘯き、トムの不安を煽る。
「死者はどこへ行く?」と。教会(宗教)によって説かれる、天国や地獄であり、命(身体)を亡くした(?!)魂の存在とは、とどのつまり、誰もが生きている以上は絶対に知り得ない“死”後の世界。
それでも、信仰(宗教)によって死後のあの世の天国や地獄が説かれれば、誰だって天国に召されたいと強く願う!?
「おまえの父親は善良だ。モーガンが死んで、やつの力が消えた今、お前の父親が恐れるべきものは何もない。まったくな。死んだあとどうなるか、はっきりわかっている者はだれもいない」魔使いがため息をついた。「もしわかっていたら、こんなにもいろいろな宗教が存在することはないだろう。どれも違うことを言っていて、自分たちが正しいと考えている。おれが思うに、問題は、どの宗教を信じるかということじゃない。ひとりで歩き、生涯わが道を行くのだって、かまわない。おまえの父親がおまえに教えたように、自分の人生を正しく生き、他人の信じることを尊重しているかぎり、道を大きく踏みはずすことはない。おまえの父親なら、きっと光の道を見つけるだろう。 (P.373)

トムだって、敵(悪)の誘惑に敢然と立ち向かい、自らの命を賭けて、自らの正義を信念を貫き通す。
ろうそくを蹴りたおせば、ぼくの命は助かるだろう。魂も助かる。だけど、ぼくはいつだっていちばんにこの地方のことを考えないといけない。母さんには会えなくなるかもしれないけれど、ゴルゴスを解きはなったりしたら、そのあと母さんの目をもう一度見ることができるだろうか。母さんはぼくを恥ずかしく思うだろう。そんなの耐えられない。どんな犠牲を払おうと、ぼくは正しいことをしないといけない。忘れられたほうがましだ。そんなことをしてまで生きるくらいなら、消えたほうがましだ! (中略) ぼくは目をつぶって、最期のときを待った。体がかじかんでくる。奇妙なことに、もう怖くはなかった。あるのはあきらめの気持ちだけだ。これから起こることを、ぼくは受けいれる。 (P.358)

簡単に“正義”なんて言葉では語れない、“正しい”こと。
ほんとうに“正しい”ことは、誰にとっても正しいことであるべきで、その人ひとりだけが正しいだけのことは、ほんとうに正しいこととは言えない。誰にとっても正しいことこそが、ほんとうに正しいことであり、ひとりの自分勝手や好き勝手など、決して許されることはない。
“死”であり“孤独”に対する恐怖は、簡単に拭い去れるものではないけれど、ほんとうに正しいことを強い信念を持って貫き通す時、その恐怖さえも超越するのであろう。


薄紫色の花
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本「日米開戦の真実 −大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優5


日米開戦の真実 −大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
著者: 佐藤優
単行本: 304ページ
出版社: 小学館 (2006/4/22)




戦前の思想家“大川周明 (1886.12.6-1957.12.24)”が、1941(昭和16)年12月14日から同25日までの12日間に行った、ラジオ放送の速記に、きわめて僅少の補訂を加えて翌1942年に書籍化、ベストセラーともなった『米英東亜侵略史』の全文の掲載、佐藤優が読み解く論考。
1941年12月8日午前11時40分に発表された、天皇による開戦の宣言(宣戦の詔勅)によって“大東亜戦争”が開戦し、その第7日目に行われたラジオ放送は、大東亜戦争を始めなきゃならなかった世界史的意義、日本が戦争を仕掛けなきゃならなかった世界史的使命であり、そう“開戦の理由(真実)”を日本政府を代弁して、軍人でもない一民間人が説く。しかも、大川周明は、1932(昭和7)年5月15日に起きた反乱事件“五・一五事件”に関与したとして、禁固5年の有罪判決を受けて服役している、にもかかわらず必要とされた叡智。
なるほど、これによって日本政府の開戦の説明責任は十二分に果たすに値する、現代にも通用する水準の論説は、客観的かつ実証的に分析され、まさに「当時最高水準の知性」に相応しい。


何となくぼくのなかにも、その昔(60年以上も前)、日本は戦争でアメリカに負けちゃって、「あ〜、何で日本は戦争なんかしちゃったんだろうか?」と後ろめたいような、スッキリしない気持ちがあって、だからか「やっぱり、アメリカには敵わないのかなぁ?!」などと、今もって卑屈になっている部分もあったりして、『わがまま勝手なアメリカの言いなりになってる、お人好しの日本』みたいな印象に苛立ちを感じながらも、どこかで「仕方がないんだろうなぁ」などとも感じていた。

開戦時の状況に、イギリスの植民地となり、ボロボロにされてしまったインド、阿片に翻弄された中国。日本が、かつては大きな影響を受けてきた中国とインドの危機は、東洋(アジア)の危機。このままでは、帝国主義の米英に、いいように遣られてしまう。そりゃ、力のある日本が黙って指をくわえて見てる、ってわけにはいかないでしょう!

戦争が「相対する両国の思想が、どんな平和的手段で以てするも一致しえない場合、遂に武力に訴えて相手国の意思を転換せしめようとする手段」であることは、現在のアメリカ対アフガニスタン戦争、対イラク戦争を見ても明白である。「戦争は政治の延長」(クラウゼヴィッツ)であり、政治もその本質は思想の戦いなのである。 (第四部、P.227)

そして現在、1991年12月のソ連崩壊による冷戦終結を経て、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件の後の「ポスト冷戦後」の世界は、唯一超大国のアメリカ帝国、EU連合帝国、アル・カーイダに代表する潜在的イスラーム帝国、帝国に発展し得る中国、帝国復活を目論むロシア、なるほど帝国主義時代に近い構造とも言えるかも。
その中にあって、いい形、位置での生き残りを図りたい、我が日本。

大川にとって、学問とは書斎の中や大学の研究室での知的遊戯ではない。学問とは日本国家と日本人が生き残っていくために必要な知的武器なのである。国家と民族が必要とする研究を行うことが大川は知識人としての責務と考え、他の人々には見えないイスラームの力を日本人に理解させるために不可欠の作業としてコーランの全訳を学生時代から何度も考えていたが挫折した。夢の中でのムハンマドとの「出会い」を生かして大川はコーランの全訳にとりかかり、これを完成させる(『古蘭』岩崎書店、1950年)。 (第二部、P.95)


≪目次: ≫
 第一部 米国東亜侵略史(大川周明
   米英東亜侵略史 序
   第一日 ペリー来朝
   第二日 シュワード政策
   第三日 鉄道王ハリマン
   第四日 アメリカ人の気性と流儀
   第五日 日本が屈服した日
   第六日 敵、東より来たれば東条
 第二部 「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優
   第一章 アメリカ、ソ連双方が危険視した思想家
   第二章 アメリカによる日本人洗脳工作
   第三章 アメリカ対日戦略への冷静な分析
 第三部 英国東亜侵略史(大川周明
   第一日 「偉大にして好戦なる国民」
   第二日 東印度会社
   第三日 印度征服の立役者R・クライヴ
   第四日 イギリス人歴史家の記録
   第五日 阿片戦争
   第六日 我らはなぜ大東亜戦争を戦うのか
 第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優
   第四章 歴史は繰り返す
   第五章 大東亜共栄圏と東アジア共同体
   第六章 性善説という病
   第七章 現代に生きる大川周明


靖国神社 拝殿
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本「残光」小島信夫5


残光
著者: 小島信夫
単行本: 248ページ
出版社: 新潮社 (2006/5/30)




うむぅ〜、何とも語り得ない。
小島信夫は小説家・評論家。1915年岐阜県生まれ。2006年10月26日に肺炎のため死去。享年91。
死去される前年、90歳を迎えた小島信夫が、正月から7月半ばころまでの「現在」の立場で書き綴られる“小説”は、「新潮」2006年2月号に掲載され書籍化。
そう、奥さんの愛子さんの記憶の障害がいよいよひどくなって家にはいなくなり、その代りに娘さんが助けに来て移住してきて、ぼくが“小島信夫”を知るキッカケでもある“保坂和志”との、7月12日午後7時から、青山ブックセンターで行われたトークイベントであり、保坂和志との親交は、41歳という年齢差を超越した“小説”への想い、はたまた、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている“山崎勉”。
ぼくは出版社からまとまった長さの作品を約束させられた。ぼくは今を乗りきるために約束の小説を始めるよりほかに道はなかった。もはや妻には直接、手を差し伸べることはないのだから。 (P.242)

ぼくはますます最近、活字に対する中毒が進行している。分かろうが分かるまいが、読み易かろうが難解であろうが、面白かろうが面白くなかろうが、とにかく読み止まることがない。読み進むスピードの違いこそあれ、決して本を閉じることなく読み続ける。ぼくの理解度など、知識も経験も含めてまだまだ未熟だから、ぼく自身の感覚になんて一向に自信が持てない。今現在のレベルに納得していないし、満足には程遠い。
分からなくても分からないなりに、面白さを理解できなくても理解できないなりの愉しみ方というのか、考え方というのか、何よりもぼくは、分かりたい理解したい愉しみたい!


もし外へぼくが連れ出せるとしても、彼女は、五分もしたら、ベッドのある方を指すかもしれない。
「ぼくたちの住んでいた国立の家は、耐震工事中だよ」
と、いうことしかない。
十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」
と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに笑みを浮かべて、
「お久しぶり」
といった。眼はあけていなかった。 (P.240)


コデマリ♪
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本「「生きる」という権利 −麻原彰晃主任弁護人の手記」安田好弘5


「生きる」という権利 −麻原彰晃主任弁護人の手記
著者: 安田好弘
単行本: 343ページ
出版社: 講談社 (2005/8/6)




弁護士安田好弘(1947年、兵庫県生まれ)”の手記。
切々と綴られる手記は、やっぱり活字による克明な記述が相応しい。
自らも謂われなき強制執行妨害の罪に問われ1998年12月6日に逮捕され、およそ10ヵ月間勾留されるも、2003年12月24日に東京地方裁判所は、検察の立件をアンフェアと批判し、奇跡とも言える!?『無罪』の判決を言い渡す。
しかし、なおも続く闘争。


安田好弘は、全共闘運動が高揚していた時代に、
学生運動をしているなかで、マハトマ・ガンジーフィデル・カストロが弁護士だったことや、万一弾圧を受けても弁護士であれば少しは闘えるだろうという思いもあって、運動仲間と一緒に工場に入ったり、日雇い労働者になって飯場に泊まり込んだりして食いつなぎながら、何度か司法試験を受け
 (P.106)
1977年に司法試験に合格。
そして、1980年に弁護士になるにあたって、
当時はもう、政治的なことに二度と首を突っ込まないでおこうと思っていた。学生運動をやっていて、いいことなど何もなかった。主義主張を声高に叫び、それを他人に押しつけて酔いしれる。痛恨の思いの残る時代だった。反体制や反権力といったところで、所詮それは浅はかな自己不全感の表出であり、現体制にとってかわろうという権力志向でしかなかった。私は、耽溺的で無政府主義的でありたかった。曖昧で、不確かで、不自由で、不可解でいようと思った。精神的ではなく、物体的であろうと思った。結局、何もできないまま、私は学生運動から逃げてきた。そんな逃亡者が世間に口を出してはならない。そう自分に言い聞かせていた。 (中略) 
・・・政治や運動にかかわることは、まともに事実を見る目さえも潰してしまう。自分だけならまだしも、他人まで動員し、洗脳し煽動する。政治や運動にはかかわらない、組織にも属さない、どんな権威や権力にも与しない。そう、固く誓った。 (P.107-P.108)
ある意味では、この時点で安田好弘のその後の弁護士生活は、既に宿命づけられていたとも。
結果的に、山谷暴動に始まり、新宿西口バス放火事件、山梨幼児誘拐殺人事件、名古屋女子大生誘拐殺人事件、宮代町母子殺害事件、北海道庁爆破事件、北海道連続婦女暴行殺人事件、さらには、滝田修(竹本信弘)、鎌田俊彦、泉水博丸岡修坂口弘新左翼の闘士たち、そして、オウム真理教教祖・麻原彰晃、、、有名な事件の弁護を数多く担当している。
そう、死刑求刑事件の弁護をするうちには、、、
Sさんは私に、
「自分の処刑を最後にして死刑を廃止してほしい」
と言っていた。処刑される時には、首に縄をかけられて突き落されるまで、徹底して抵抗するから、遺体を引き取って、解剖して、世間にさらしてほしい。死刑もまたどれほどむごいものであるかを訴えてほしいと言っていた。私はSさんの死刑確定をきっかけに、広く社会に死刑廃止を訴え、死刑廃止を実現していくしかない、と腹を決めた。裁判だけでは限界がある。それまで、社会的な運動にはかかわりを持たないと誓っていた戒めを捨てた。それ以来私は、死刑廃止運動を続けている。 (P.215)


本書を手にするキッカケは、佐藤優「国家と神とマルクス −「自由主義的保守主義者」かく語りき (太陽企画出版,2007.4)」、既に手元にないために拙い記憶を辿り詳しく書き記すことができないのだが、確か、国家権力の暴力性が説かれて、『「やさしさ」は「国家権力」に対抗できるか』との論考に、本書が掲載されていたかと。
その後の、橋本治「人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書,2002.12)」でも、国家について、その在り方の考察に触れた。
それまで、国家であったり国家権力についてなど、思いが及ぶことはなかった。


事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味では、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。 (P.3-P.4)


≪目次: ≫
 第一章 オウム裁判
 第二章 山谷からの出発
 第三章 一九八〇年の三事件
 第四章 冤罪証明
 第五章 闘争の残影
 解説  なおも続く闘争 米田綱路


跳び散る、白♪
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本「意識とはなにか −〈私〉を生成する脳 (ちくま新書)」茂木健一郎5


意識とはなにか −〈私〉を生成する脳 (ちくま新書)
著者: 茂木健一郎
新書: 222ページ
出版社: 筑摩書房 (2003/10)




そう、〈あるもの〉が〈あるもの〉としての不思議の考察であったり、〈私〉を問うてみたり、存在やら、そこにデカルトまでもが歴然と登場すれば、そりゃ“哲学”でしょ?!、ところが、の図解があったり、認知のメカニズムが説かれたり、、、、脳科学者を自ら語る一方で、タイトルに“”を織り込んだ、心地好いエッセイ(?!)を量産して、ますますメディアでの活躍のフィールドを拡げつつある“茂木健一郎”の論考。
まったく何が言いたいんだか!?、ついつい手にして読み耽ってしまうんだけど、いまだにようわからん♪
分からないから、分かりたくて読むのか、分かるから愉しくて読むのか、どちらでもあり、どちらでもなく、いずれにしても知りたいと欲して求めていることに相違はない。それでもついつい、何のジャンルの本なのかなぁ?!、などと考えていたら、、、あら、“あとがき”に、、、
私は、今まで、何冊か、心と脳の関係にかかわる本を書いてきた。
その中で、自分でも後々まで心に残るものが書けた時というのは、書いている途中で、一体自分が何を書いているのかわからなくなった時であったように思う。
つまり、脳科学認知科学哲学、といった従来の枠組を離れて、未知の空間を模索しているような気分になった時、自分自身でも新しい何かを見出したような気になるし、結果として、多くの人と新しい視点から議論ができるようなポイントを提出できるように思う。 (P.221)
そうだよね、特にジャンルを問うことに大した意味はない。読者と作者の共感が得られて、互いに何らかが満たされれば、それでいい。それ以外に、以上も以下もなく何を求めようか。
単なるエッセイストに在らざる研究者“茂木健一郎”が巻末に掲げる「より詳しく知りたい人のためのブック・ガイド」には、物理学量子力学現象学心の哲学、、、、、正直、食指が動かないのだけれども、なるほどなるほど、広範な学問分野に跨る知識体系。


≪目次: ≫
 機/瓦版召離潺好謄蝓 −クオリア同一性
   第1章 〈私〉の心をめぐる問題
   第2章 〈あるもの〉が〈あるもの〉であること
   第3章 「同じこと」と「違うこと」
 供 匯筺咾箸いΕ瀬ぅ淵潺坤 −コミュニケーションと生成
   第4章 やさしい問題とむずかしい問題
   第5章 「ふり」をする能力
   第6章 コミュニケーションから生まれるもの
 掘^媼韻鮴犬濬个糠 −〈私〉とクオリアの起源
   第7章 〈私〉の生成とクオリアの生成
   第8章 意識はどのように生まれるか
   第9章 生成としての個を生きる
 より詳しく知りたい人のためのブック・ガイド


燦々と
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本「外套・鼻 (岩波文庫)」ゴーゴリ、平井肇 訳5


外套・鼻 (岩波文庫)
著者: ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ
訳者: 平井肇
文庫: 143ページ
出版社: 岩波書店; 改版版 (2006/02)




いよいよ憧れのロシア文学への第一歩♪
実は、キッカケとなったのは“新潮クレスト・ブックス”にラインナップされる著作で、映画化もされた「その名にちなんで The Namesake (ジュンパ・ラヒリ,新潮文庫,2007.10)」から。
こうなるしかなかったと読者には言っておこう。この男に別の名前をつけることは考えられなかったとも言いたい。
  ―ニコライ・ゴーゴリ「外套」
そう、往年のロシア文学に対する愛に溢れる?!、だって、物語が始まる前に、たった66文字の表記のために1ページを費やす。すべてはそこから始まった。だって、“ゴーゴリ”と名付けられた男が生まれて育った30数年間を巡って綿々と描かれる物語は、それ(名前)ばかりではないものの、それ(名前)を抜きには語り得ない。そりゃ興味津々ですよ、旦那♪

というわけで、「外套 (Shineji,1842)」の物語が始まって2ページ目、いきなり遣って来ます!
或(あるい)は、読者はこの名前をいささか奇妙な故意(わざ)とらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前は決して殊さら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。 (P.8)
「いや〜ん♡」と思わず悲鳴をあげそうになる♪
正直もうそこでお腹いっぱい、胸いっぱい。「ごちそうさまでした♪」をギリギリのところで飲み込んで、この読み慣れない旧い表現を、最後まで読むのに大した労力を要しない。
しかし、何とも語り得ない。
ぼくにとっての初ロシア文学
当然に、ゴーゴリ (Nikolai Vasilievitch Gogolj,1809.3.31-1852.3.4)だって知り得ない。

で、“解説”に「外套 (Shineji)」を評して、
この小説は文学史的に見ても後年のロシア文学に非常に大きな影響を及ぼしている。《われわれは皆ゴーゴリの『外套』の中から生まれたのだ!》とドストエフスキイ (1821.11.11-1881.2.9)も言っている。事実ドストエフスキイの多くの小説、殊に人道主義的色彩の濃厚な彼の小説は、確かにゴーゴリの影響を如実に示している。 (P.136)
などと絶賛されてしまうと、まさか、「鼻 (Nos,1836)」が、どこかフランツ・カフカ (Franz Kafka,1883.7.3-1924.6.3)「変身 (Die Verwandlung,1915)」を想わずにいられない!?、などとは言えないじゃん。 んんん!?、カフカの「変身」の80年も前に、既にゴーゴリの「鼻」があったのかぁ。

なるほど、翻訳者の平井肇 (1896‐1946)は、第二次世界大戦の後、引き揚げ命令の下る1カ月前の1946年(昭和21年)7月7日に、満州ハルビンで肝臓病の悪化により死去される、その死の直前まで枕頭にゴーゴリの原書を離さなかった、ゴーゴリ全集を始めとする、巻末に揚げられている“平井肇の訳書”は31作品を数える、、、
1938年(昭和13年)1月20日 第1刷発行。


肌色♪
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本「人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)」橋本治5


人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)
著者: 橋本治
新書: 261ページ
出版社: 筑摩書房 (2002/12)




実は、橋本治の他の著作(フフフフ♪)を入手する目的で“橋本治”に意識が在って、そんな時にふと目にしちゃって、「じゃぁ、ついでに♪」と手にしたのであって、、、
正直なところ、“「美しい」がわかる”のタイトルからは、「どこに“小林秀雄”が出てくるかな?!」などと、茂木健一郎のエッセイ的気分(?!、いい意味で軽く)で、ちょっとページをめくるうちに独特のリズムに吸い寄せられて、「軽く飛ばして読んじゃおう♪」と浅はかにも調子付き、軽快に“ゴキブリ”やら“一本グソ”の表記に苦笑いを浮かべながらも、「なかなか小林秀雄が顔を出さないなぁ!?」などと余裕のよっちゃん!? (最終的に小林秀雄は登場しない、、、)
ちょっと雲行きが怪しくなってくるのは、「枕草子」「徒然草」が登場して、近代以前の管理社会、歴然と身分の差がある階層社会における個人の在り方あたりから。
そう、そのあたりでグググググッと立ち上がる、
第一章の終わりに書きました。つまり、「“美しい”とは、他者のありようを理解することだ」です。 (P.052)
「枕草子」の清少納言であり、「徒然草」の兼好法師の、それぞれの個人としての社会における在り方、その背景にある社会の在り方。
『枕草子』を書いた清少納言が「時代の中に生きた美の冒険者」であるのに対して、『徒然草』を書いた兼好法師が、「時代の中に生きなかった美の傍観者」であるという違いです。
だから、兼好法師は出家してしまう。 (P.128)

第一章において、“美しい”と“合理的”を、一旦イコールで結んでおきながら、“ゴキブリ”や“一本グソ”を引き合いにして、その“美しい”を多角的に客観的に考えさせて、、、
さらには、日本を代表する古典文学を紐解いて、前近代における社会の在り方“制度社会”における「家」、そして「国家」の在り方を説いて、そこに存在し得ない“個人の自由”、そう、生活共同体たる「家」に縛られ“罰”によって一切の“個人の自由”が存在し得ない制度社会には、“孤独”もまた存在し得ない。
ところが、前近代の制度社会において、原則的に存在し得ないはずの“孤独”を、その制度社会における特殊な在り方から、歴然と気付いてしまって感じてしまった“清少納言”と“兼好法師”が、脈々と書き綴った随筆は、、、
「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。
もちろん私の話は単純じゃないので、「豊かな人間関係が人の美的感受性を育てる」なんていうところには行きません。それを言うなら逆で、「豊かな人間関係の欠落が人の美的感受性を育てる」ですが、これでさえまだ不十分です。私の言うべき結論は、「豊かな人間関係の欠落に気づくことが、人の美的感受性を育てる」です。
たとえば、会社という組織の人間関係にはまって満足している人は、「豊かな感受性」を備えているでしょうか?
 (P.174)
「美しい」を実感する能力を養うために、「豊かな人間関係」は不可欠です。それがあって、人は安心して外部に目を向けることが出来ます。「美しい」は、リラックスした「安心できる思考放棄」から生まれるのですから、それを可能にしてくれる人間関係がなかったら、「美しい」という実感も宿りません。 (中略)
そしてもう一つ、「自分の所属するもの以上にいいものがある」という実感―つまり「憧れ」がなければ、「美しい」は育ちません。「美しい」は「憧れ」であっても、「憧れ」とは、「でも自分にはそれがない」という形で、自分の「欠落」をあぶり出すものでもあるのです。
その「欠落」を意識することが、「外への方向性」を作ります。「自分にはそれが欠けている―だから、いやだから“外”への目をつぶろう」という「外への方向性」です。「自分にそれが欠けている―でもそれはいいものだ。だから、それのある方向へ行こう」もまた「外への方向」で、「美しい」を育てるのはこちらです。 (P.175-P.176)
兼好法師が孤独なら清少納言も孤独で、それを言うなら、歴史に名を遺す人のほとんどが孤独です。孤独でもなかったら、「歴史に名を遺す」などということをする必要がありません。
歴史上の有名人の内実をつつき出すと、「なるほど、こういう風にも孤独か」ということが分かって、興味は尽きません。あまりにも当たり前に「孤独」なので、「孤独ということはどうってことのないことなのだな」と思うくらいです。 (P.188)
だからこそまた“美しく”も在り得る。

どういうわけか、「美しいが分かる人」は、敗者なのです。勝者、あるいは強者になりたかったら、「美しいが分からない」を選択しなければならない―どういうわけか、世の中はそうなっている。 (P.211-P.212)
どういうわけか私の中で、「美しい」への実感は、「敗北」とからみ合っています。「なんでそうなるんだ?」と思って更に考えると、そこにはもう一つの要素が登場します。「孤独」です。「孤独と敗北と“美しい”は、なんだか妙な関連を持っていて、それが、普通の人間にあまり“美しい”を言わせない原因になっているのではないか」と思いました。 (P.209)
そう、橋本治が20年前から「書きたい」と思い続けてきたテーマ、
“人はなぜ「美しい」がわかるのか”


う〜っ、ぼくにはまだまだ理解できない、、、
近代の始めは「近代を達成する路線競争の時代」で、だからこそそこには、「個を達成するための孤立を択るか、個への執着を捨てた社会建設を択るか」という選択肢もありました―おそらく、今でもまだこういう考え方をする人はいます。こういう考え方をして、「個としての自覚」である「孤独」は、その方向をなくしたのです。
「個の中に社会建設の方向性はある―あらねばならない」と考えなければなりません。そう考えなければ、「孤独」と同じように、「自立」もまた無意味になります。そして、この考え方を採用しなければ、人の作るどの社会も、「人として生きていく実感を欠く社会」になってしまいます。 (P.258)

やっぱり、橋本治は「ぼくにはまだまだ分からない♪」♪♪


≪目次: ≫
 第一章 「美しい」が分かる人、分からない人
 第二章 なにが「美しい」か
 第三章 背景としての物語
 第四章 それを実感させる力

にょきっ♪
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本「あかいろの童話集 (アンドルー・ラング世界童話集 第2巻) TALES OF THE RED FAIRY BOOK 1890」アンドルー・ラング 編、 西村醇子 監修5


あかいろの童話集 (アンドルー・ラング世界童話集 第2巻) TALES OF THE RED FAIRY BOOK 1890
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書評/SF&ファンタジー



東京創元社より“本が好き!PJ”を経由して献本、御礼!
アンドルー・ラング世界童話集 全12巻の第2巻は赤、あかいろ
今月(2008年3月)25日には、第3巻“みどりいろ”が刊行予定。

実は、献本を受けてから1か月以上もの間、積読にしたままなかなか手を出すことができなかった。ありがたいことに第1巻“あおいろ”と同時、2月6日に受け取っていたのだから、読了までに37日間を要した計算になる。実際には、仕事が休みの日(平日)のランチタイムのファミリーレストランで2時間半を費やして、全20篇の童話を愉しむ♪

そう、「童話と侮るなかれ!?」、のっけから、ズバッと直球!
むかしむかしあるところに王さまとお妃さまがいた。ふたりがもうけた子はつぎつぎと死に、ついにはおさないむすめひとりになってしまった。お妃さまは、その娘を世話させるすぐれた乳母をさがしていたが、どこで見つけたものやら、とほうにくれていた。 (P.7「サンザシ姫」)
まずは前半部分、いとも容易く「つぎつぎと死」んでしまう子どもたち。だからこそ、たくさんもうける(産む)のであろうが、確かに、アンドルー・ラングによってこれらの童話が集められた(描かれたのは、さらにそれ以前)1890年当時は、今現在のように医療技術だって発達していなかったであろうから、乳幼児死亡率が現在よりも俄然高く、平均寿命だってきっと50歳に届かない。感染症などが流行すれば、あっという間に多くの命が奪われる。そう、「Man the Hunted ヒトは食べられて進化した (化学同人,2007.6)」じゃないけど、ワシとかオオカミとかの捕食対象とも。
歴然と身近な“死”。そう考えるに、ある意味では“死”は極めて“あたりまえ”のことで、誤解を承知で言っちゃえば、何でもかんでも科学(医療)技術によって生かしちゃう(死なせない)方が不自然、とも。
そして後半部分の、「娘を世話させるすぐれた乳母をさが」す。こちらもまた、あたりまえのことかもしれないけれども、“王さまとお妃さまは自分の子どもを育てる(教育する)意思を持たない”。まぁ、現在のように学校教育制度が確立されていなかった!?、からなのかもしれないけれど、乳母を雇用できる特権階級だから??!、などと考えを巡らせて、、、ヤバイ!?、どうにも語り得ない(能力不足)。書き記しては消し書き記しては消し、纏まりを得ない。次に行こう。


さらには「金ずきんちゃんのほんとうの話」である。
かわいそうな赤ずきんちゃんの話は、みなさんごぞんじだろう。赤ずきんちゃんがオオカミにだまされ、お菓子やバターをとられたうえに、おばあちゃんや自分まで食べられてしまう。ところが、その話はじっさいとはかなりちがうことが、今ではわかっている。まず、女の子の名前はむかしも今も、金ずきんちゃんだし、最後につかまって食べられてしまうのは、その子でもやさしいおばあちゃんでもない。悪いオオカミなのだ。
とにかく、聞いてほしい。
出だしは『赤ずきんちゃん』と似ている。 (P.257)
この「金ずきんちゃん」に限らず、この“あかいろ”に全20篇、前回の第1巻“あおいろ”が全18篇、これだけ多く集められれば、どうしても似たような展開の物語が多くなる。子どもだったらいざ知らず、おとなを自負するぼくとしては、正直ちょっとツラくもなる。
本来、この著作の愉しみ方(読み方)としては、物語の1篇1篇を、じっくりじっくり丁寧に読み解くべきなのであろう。
だって、ぼくにとっては、赤ずきんちゃんだろうが、金ずきんちゃんだろうが、頭巾の色などどっちであろうとどうでもいいことだし、主人公の女の子とおばあちゃんがオオカミに食べられてしまおうが、オオカミをやっつけて殺してしまおうが、どちらも残酷な物語であることに相違はなく、さらには、「ふ〜ん、そうなんだぁ」と、書き綴られた物語をぼくはただただそのままに受け容れるだけであり、その設定の差異に大した興味を抱けない、などと嘯く。
一方では、“ほんとう”が何であるのかなんて、それこそまさに“分からない”のであって、すべては“ほんとう”であり、またすべてが“ウソ(偽物)”でもあり、例えば、赤ずきんちゃんと金ずきんちゃんほどの大きな差異を有しない、同一の物語を子どもに読み聞かせる場面を想像するに、声色を変えて表情豊かに語られる物語と、ぶっきらぼうにただただ読みましたとばかりに語られてしまう物語(あっ、もしかしてぼくのこと?!)、どちらも完全に同一の“ほんとう”の物語に相違はないはずだけれども、それを語られ読み聞かせられた子どもが受ける感じ方は、果たして同一であろうか。また、往々にしてアドリブを効かせて語られる物語は、時に読み聞かせる対象者(子ども)たちのより深い理解が得られるように、ストーリーや設定までも変えることだって必要とされる。そうしてストーリーや設定が変えられた物語は、厳密な意味においては決して“ほんとう”の物語と言えないのかもしれないけれども、それでもやっぱり“ほんとう”の物語に相違ないであろう。


*収録作品
「サンザシ姫」
「ソリア・モリア城」
「不死身のコシチェイの死」
「黒い盗っ人と谷間の騎士」
「泥棒の親方」
「ロゼット姫」
「ブタと結婚した王女」
「ノルカ」
「小さなやさしいネズミ」
「六人のばか」
「木の衣のカーリ」
「アヒルのドレイクステイル」
「ハーメルンのふえふき男」
「金ずきんちゃんのほんとうの話」
「金の枝」
「マダラオウ」
「イラクサをつむぐむすめ」
「ファーマー・ウェザービアード」
「木のはえた花嫁」
「七頭の子馬」


夢の世界〜
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本「国家と神とマルクス −「自由主義的保守主義者」かく語りき」佐藤優5


国家と神とマルクス −「自由主義的保守主義者」かく語りき
著者: 佐藤優
単行本: 254ページ
出版社: 太陽企画出版 (2007/04)




そうか、国家、神(キリスト教)、マルクス(主義)。
佐藤優が一度様々なメディアに発した論考、インタビューなどを再編成して書籍化。一見して雑然としていながら、なるほど♪、通して読み終えれば、「ストント腑に落ちる」などと簡単に言える代物じゃなくて、正直言葉を繰り出すことすら躊躇われるほどの深い溜息、ただただぼくは途方に暮れる!?、「分からない」と口外することさえも憚られる。そう、「何も言わずに、とにかく善い本をたくさん読め!」と。「然るべき書籍を読んでから語るべし、読まずに語るべからず」とまで言及しているかどうかは別としても、ぼくは勝手に肝に銘じた。

本書においても度々語られる“寛容”。
佐藤優が洗礼を受けたキリスト教だって、「その寛容に惹かれて入信しているのであって、敬虔な信者には成り得ない」と語る。
直近に読了した「不倫の惑星 −世界各国、情事のマナー (パメラ・ドラッカーマン 著,早川書房,2008.1)」において、特筆されるフランス人の“寛容さ”が頭から離れないから?!
ところで、“寛容”を語るぼくは、明確に“寛容さ”を有していない。ぼく自身にあっては、寛容さを自らが有していない、という歴然とした現実が、その自負が“寛容”という言葉に反応を示させる。
そう、正しいものは正しいのであって、正しくないものは何がどうあっても正しくないことに、絶対的に変わりはない。どんな事情があろうとなかろうと、そんなことはぼくには知ったことではない。何故に、ぼくがその事情を鑑みる必要があるのであろうか?
[佐藤] スターリンの強さは権力を死ぬまで保持していたことです。官僚の論理からすると、権力を長く握っているほうが正しいから、官僚的視点から物事を見る惰性がついてしまった私には、スターリンが正しいように見えてくる。結果として成功しているから、成功している人はみな正しいんですよ。その意味でも金日成も正しいし、日本では小泉純一郎さんも権力の座に5年もいるのは正しいんですよ(笑)。もっとも私は正しさにあまり価値を認めません。正しいことと正しくないことが混在しているのが人間の世界と考えるからです。
 (P.237)

≪目次: ≫
  それでも私は戦う
   国民にお詫びし、最後まで戦う
   獄中で何を読み、何を思ったか
   時代の観察者として踏みとどまる覚悟
  国家の意思とは何か
   新自由主義に歯止めをかけたホリエモン逮捕
   「やさしさ」は「国家権力」に対抗できるか
  私は何を読んできたか
   「深く考える」訓練をしてくれた堀江六郎先生
   “現実世界”を照らし出す小説の機微
     −『人間の条件』五味川順平
   グローバリゼーションにぶんがくは対抗できるか
     −『近代文学の終わり』柄谷行人
   ガンに斃れた(たおれた)希代の読書家が遺した書評と闘病記
     −『打ちのめされるようなすごい本』米原万里
   二人のカール結んだ純粋資本主義の視座
     −『経済原論』宇野弘蔵
   独房で染みた名翻訳 理性がもたらす癒し
     −『歴史哲学講座』上・下、G・ヘーゲル/長谷川宏 訳
   獄中生活五百十二日の救済
     −『太平記』
   一神教と多神教を同格と考える塩野史観の意味
     −『キリストの勝利 ローマ人の物語将検抉野七生
  日本の歴史を取り戻せ
  国家という名の妖怪
   インタビュアー 白井聡氏(一橋大学大学院社会研究科博士課程)
  絶対的なるもの −あるいは長いあとがき








本「すべては音楽から生まれる −脳とシューベルト (PHP新書)」茂木健一郎5


すべては音楽から生まれる −脳とシューベルト (PHP新書)
新書: 189ページ
出版社: PHP研究所 (2007/12/14)




なるほど、シューベルト♪、そう、“音楽”と“言葉”を巡って愉しい考察を語る茂木健一郎を、編集者が纏めて書籍化。

根が疑り深いぼくは、ついつい「広報活動?」などとあらぬ想像ばかりしてしまうのだけれども、仮にそうであったとしても興味深い、アーティスティック・ディレクター“ルネ・マルタン”との対談は、ゴールデンウィークの東京都心の恒例行事となりつつある音楽イベント、“ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭 2008”に話題が及ぶ。
第4回目となる今年は『シューベルトとウィーン』。
東京国際フォーラム、2008年5月2日(金)〜5月6日(火・祝)
そのアンバサダーのひとりを努める茂木健一郎
音楽の本質は、言葉で表すにはあまりに深い。それでも、音楽について口を閉ざすのは惜しい。言葉を尽くすということも一つの演奏であり、音楽であるからだ。 (中略) 
そもそも私は、言葉というものを意味においてとらえていない。言葉は意味ではなく、リズムや音といった、感覚的なものに負う部分も多い。意味だけを求めると、本質からは遠くなってしまう。 (中略) 
さらに告白してしまうと、ここ数年、私は文章を書く時、意味の伝達に主眼を置いていない。
あることを表すために、とりあえず、なんらかの文を書く。それを読んで受ける印象にじっと耳をすます。この部分でこの単語はちょっと違うな、この流れには違和感があるな、といった具合に判断して、手を入れる。言葉をタイミングとリズムとしてとらえ、音楽としてよりふさわしい表現はないかと模索しているのだ。 (中略) 
人間が獲得したものの中で、一番の福音でもあり呪いでもあるのは、「意味」だと思う。意味に拘泥してしまうと、生命の活動から遠ざかってしまう傾向がある。たとえば、「神はいるか、いないか」というテーマで議論する時、神という言葉の意味を固定化したり、あるいは神という言葉の定義にのみ固執したりしてしまうと、討論は活きてこない。討論の目的が、「証明」に帰結してしまい、そこには「感覚」の入り込む余地がなくなってしまうからである。
そうした、仮想や空想を許容しない世界では、脳内の働きは限られてしまう。ニューロンの活動も、「喜び」につながるような生命運動とは全く異なるものになるのである。
  (P.121-P.124)
 
そう、2007年6月11日に47歳で急逝された作曲家“江村哲二”との共著「音楽を『考える』(ちくまプリマー新書,2007.5)」であり、、、
小林秀雄「モオツァルト」であり、、、


≪目次: ≫
 第1章 音楽は微笑む
 第2章 音楽との出会い
 第3章 音楽と創造力
 第4章 音楽のように生きる
 第5章 特別対談「音楽の力」ルネ・マルタン×茂木健一郎








本「不倫の惑星 −世界各国、情事のマナー LUST IN TRANSLATION」パメラ・ドラッカーマン、佐竹史子 訳5


不倫の惑星 −世界各国、情事のマナー
 LUST IN TRANSLATION - The Rules of Infidelity from Tokyo to Tennesee
著者: パメラ・ドラッカーマン
訳者: 佐竹史子
単行本: 336ページ
出版社: 早川書房 (2008/1/23)




真っ赤な装丁が、大型書店に並ぶ書籍の中にあって目を惹いた。
ちょっと迷った後に、「迷ったら読め!」と。

ウォールストリート・ジャーナルで外国特派員として、サンパウロ、ブエノスアイレス、エルサレム、パリに駐在経験をもつ女性“パメラ・ドラッカーマン”が、“不倫”をテーマに、10カ国の12都市を自らの足で訪れて重ねられた取材は、文化、宗教、経済情勢や社会情勢、道徳観、恋愛観、、、、、真面目に不倫文化(セックス・カルチャー)を国際比較する。
本書を著すキッカケは、不倫嫌悪国アメリカから赴任した南米の情熱の国アルゼンチンで、既婚男性たちに気軽に度々口説かれたことに端を発する。「わたしはアメリカで育ったというだけでピューリタン的な重荷を背負い込み、すばらしい喜びを知らないままでいるのだろうか?」と。
大きくは、コロンビア大学大学院を卒業した著者の根柢の部分に大きな影響を与えているアメリカに始まり、現在夫と執筆中に出産した娘と暮らすフランスであり、ロシア、日本、アフリカ、中国と、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教。

これだけの国々の不倫文化事情を一気に解説しているため、どうしても駆け足の感を否めないけれども、また、単純にお国柄とばかり言い切れない、個人個人の事情や状況だって考慮しなければならないのであろうが、そこはジャーナリストとして各国の宗教・文化・経済・歴史の基礎情報を交えながら、生々しく書き綴られる不倫の情事の解説と比較論考は、やっぱり興味深い。単純に不倫や浮気の善悪を問うことに意味などないし、宗教や国家がどんなにセックスを忌避して禁欲を課したところで、そう簡単に自らの意志でコントロールできるものでもあるまい。だからこそ、一筋縄ではいかない問題で、だからといって忌避して済ませられるものでもなく、“結婚”という制度がある以上は、どうしても“不倫”が起こり得る可能性を否定できない。

最後に「わたしたちはフランスをお手本にすべきかもしれない」と語られるように、フランス人の不倫に対する寛容さに、経済的にも文化的にも成熟した上に育まれたであろう人間関係の妙に抱かれる興味。
そういえば、「フランス父親事情 (浅野素女 著,築地書館,2007.3)」にあった、『フランスでは、夫婦の寝室は夫婦だけの、たとえ我が子であっても立ち入ることが許されないプライベートな空間であり、日本人の夫婦が、間に子どもを挟んで川の字に寝る姿が、フランス人には理解できない』というような記述に「確かに考えてみると不思議な光景かも」と思い至った記憶が。


≪目次: ≫
 不倫の惑星へ
 第1章 アメリカにようこそ
 第2章 嘘、真っ赤な嘘、そして不倫
 第3章 性文化
 第4章 結婚産業複合体
 第5章 「五時から七時まで」
 第6章 義務としての情事
 第7章 お一人様用布団の謎
 第8章 少なくともひとりは愛人がいる
 第9章 寝室の神様
 第10章 性革命
 ホーム・スイート・ホーム








本「2001年哲学の旅 (コンプリート・ガイドブック)」池田晶子5


2001年哲学の旅 (コンプリート・ガイドブック)
編著者: 池田晶子、永沢まこと 絵
単行本: 289ページ
出版社: 新潮社 (2001/03)




池田晶子による、哲学の「聖地巡礼紀行」ガイド。
池田晶子らが巡るのはギリシャ、ドイツ、オーストリア、スイス、トルコの5か国、紀行の情報は全部で65ページ(22.5%)。
イラストと写真の彩りが視覚的にも愉しい♪

ドイツでは、100歳の哲学者 ガダマー教授との約1時間の特別対談企画、紀行のハイライト。そう、過去に存在して現存はしていない偉大な哲学者たちの足跡を辿る空想もいいけれど、やっぱり実在のドイツ哲学界の重鎮との生の対談、リアルなロゴス♪、通訳を介した対話に、なかなか的を得ないもどかしさを隠せないけれども、言語(ドイツ語と日本語)は違えど同じ人間、互いに“哲学”を愛し究める者同士、正直分かったんだか分かんないんだか、ぼくにはよく分からないけれども、どうやら最後には笑い合える愉しい対談に。
その他に、哲学者同士の対談であり、科学者との対談、死刑囚との往復書簡、謎解きや、お悩み相談、読者からの声などなど、雑多に内容盛り沢山。さらには、編集部による過去の著名な哲学者たちの簡易年表や、哲学三千年歴史年表、哲学者人名録、果ては名言集まであるから、浅く広く哲学に関する雑学を得て知識を体系的に関連付けるための資料として。

敵対心を露わに立ち向かう科学者との対談(?!)、苦笑いを浮かべて逃げ惑う生真面目な科学研究者は、専門外の質問に答える術を持たない。池田晶子が、あくまでも自らの専門分野である“哲学”での闘いにこだわって鋭い質問で挑み掛けても、挑み掛ければ挑み掛けるほどに、相手はのらりくらりと遣り過ごすしかない。そのノリの悪ささえ、後の哲学者同士の共通の言語での軽快に果てしなく、さも愉しそうに跳びまくる対談を引き立てる。


≪目次: ≫
 序・哲学卒業 ―あなたはなぜ哲学にこだわるのだろうか
 聖地巡礼紀行 ―あの大哲学は、こんな場所で考え出された!
   スイス、オーストリア、ドイツ
   ギリシャ、トルコ
 最先端の現場での考察 ―今最も進んだ科学と哲学との出会い
   「無」は、存在するか? VS 戸塚洋二(神岡宇宙粒子研究施設)
   ウイルスは生物か? VS 畑中正一(京都大学ウイルス研究者)
   「死」は、どこにある? VS 池田恢(国立ガンセンター東病院)
 古今東西大哲学者の系譜 ―さあ、哲学の神髄に触れてみよう
 哲学者との対話 ―本物の知と知がぶつかり合う興奮
   百歳の秘訣 VS H.G.ガダマー(ハイデルベルク大学名誉教授)
   語り得ぬことを語れ VS 藤沢令夫(京都大学名誉教授)
   なぜ善いことをするのか VS 永井均(千葉大学教授)
 池田晶子思う、故に池田晶子なり! ―人は如何にして、哲学者となるか
 帰ってきたソクラテス「対話編」
 なぜ人を殺すのは悪いのか?
 哲学99の謎
 結・哲学入門 ―ついに哲学の扉をノックしたあなたへ








本「世界の下半身経済が儲かる理由 −セックス産業から見える世界経済のカラクリ」門倉貴史5


世界の下半身経済が儲かる理由 −セックス産業から見える世界経済のカラクリ
SEXNOMICS:PROFITS IN THE GLOBALSEX ECONOMY
著者: 門倉貴史
単行本: 222ページ
出版社: 株)アスペクト (2007/03)




本が好き!PJ”で存じ上げたアルファブロガー“Dan Kogai”氏の書評「エロ抜きでカッコいい」に、迷わず反応♪
なるほど、真面目な経済学。さらには生物学世界の歴史の知識も満たされ、時に世界文学や宗教からも紐解かれる。
著者“門倉貴史”は、BRICs経済研究所経済研究所代表、経済エコノミスト
列挙される豊富な事例や金額や数字に、何となく圧倒されながら、世俗の経済活動にあまり興味が抱けないぼくでも、なるほどなるほど。

「売春」は世界最古の職業と言われる。地球上に人類が誕生して以来、売春や買春は世界各地で脈々と行われてきた。これだけ歴史の古い商売は他に例がないのではないか。すでに古代ローマの時代には、きちんとした売春宿がつくられていた。 (P.6)
に始まる。そう、その事実の認識が最も重要であろう。確かにぼくも、何の本だったか忘れたけれど、最初にその事実を目にした時には、思わず無意識のうちに目を逸らした記憶がある。ぼくが本を読み始めたのは36歳の夏からで、それまでは自己啓発的なビジネス書を誰かに強要されて年に1冊読むか読まないかで、まったく学習をする意思を有しないままに、キレイごとばかりを並べて、表面だけを整えても、中身は空っぽだったから、セックスの話題は何となく不浄なものとして忌避していた。真正面から直視することなく、話題にすることがなければ、ぼくが不勉強ゆえに中身が空っぽなのも、滅多にバレることもなかった。それはそれで幸せだったのかもしれない!?けど。

そう、歴史に名を残す著名な芸術家たちの絵画なんかを鑑賞しても、旧い作品にあってもやっぱりどこかには娼婦の姿が在って、濃厚に人間模様を醸していたりする。決して目を逸らすことができないほどの不思議な存在感を思い起こす。
そんなこともあってか、文学者小谷野敦「日本売春史 −遊行女婦からソープランドまで (新潮選書,2007.9)」が、ぼくの中での契機となって、それから“売春”を違法としながらも存在を認めている現行の日本の法制度の矛盾と、その歪みから生じる諸問題に興味を抱く。

本書において、経済エコノミストの視点から解き明かされる、売春を始めとするセックス産業。安易に二分法による善悪の判断に導くことなく、多方面から客観的に提示され掘り下げられる世界経済の仕組み、実状。その実情だって、各国の経済事情があって、さらには民族性や文化の違いだって考慮しなければならない。簡単に一筋縄ではいかない問題だからこそ、正しく問題の本質に触れて、理解を深める必要があろう。


≪目次: ≫
 1 開発途上国にとってセックス産業は重要な外貨獲得手段
 2 日本のセックス産業
 3 日本で売春婦として働く外国人女性
 4 世界各国のセックス産業
 5 アジアのセックス産業
 6 セックス産業をどうするべきか?








本「脳の中の人生 (中公新書ラクレ)」茂木健一郎5


脳の中の人生 (中公新書ラクレ)
著者: 茂木健一郎
新書: 237ページ
出版社: 中央公論新社 (2005/12)



生きている中で、どうしても上手くいかないときというのはある。自分の才能に自信を失ってしまったり、目標を見失ってしまったり、やる気が出ないということは誰にでもある。
そんなとき、不安や怒り、イライラなどの負の感情が出てくることは、ある程度避けられない。誰でも、あまりネガティヴなことは考えたくないものだが、どうしようもないときもあるのである。
マイナスの気分も、脳の生理としてそれなりの意味があるから、進化の過程で残ってきた。負の感情に陥っている自分をいたずらに否定したり、抑圧しようとすることなく、自然体でいるのがよい。そうすれば、嵐はいつか通りすぎていくはずである。 (P.226)

ハハハハハハ♪、ぼくと茂木健一郎との出逢いは、「脳と仮想 (新潮文庫,2007.3)」、つい先日の2008年1月21日、48日前から。以降好んで手にして、気が付いたらぼくが読んだ茂木健一郎は12作目、4日に1度の計算になる。
あまりの読み易さに、正直時に不安を感じないでもないけれど、「まだまだもっともっと愉しませて〜♪」が本音かな。時に精神状態に安定性を著しく欠くと自負するぼくにとっての、ある意味では精神安定剤。


「偶然、幸運に出会う能力 (セレンディピティ,serendipity)」が説かれる。歴代のノーベル賞を受賞した科学者たちだって、実は期せずして発見しちゃった(?!)成果によって、その栄光を掴んでいたりもする。予定されて発見できるものに、人びとは何の驚きをも感じない。奇跡的ともいえる偶然がもたらした発見にこそ、大きな驚きが秘められている。その偶然の発見に気が付く能力こそが求められるから、日々の弛まぬ努力の積み重ねが必要とされ、それには、まずは自らが行動を起こさなければ何も始まらない。ぼんやりとしたままに、何ら行動を起こすことがなければ、仮に偶然の大発見に出会ったとしても、気が付くことすらできない。

どんなに考えてみたところで、理解不能な事柄に溢れる人生。予定通りに事が運ばれることの方が少ない。予期せぬ出来事に惑わされることなど数知れない。
適度に曖昧な部分を有する人間の脳の働きが、だからこそ“ちょうどいい”のでもあろう。高機能すぎる脳は、時に社会性をも阻む。例えば、視覚が完璧に機能してしまうと、同一人物の髪形や服装の変化などの小さな変化さえも相違と判定し、同一視することができない。適宜に曖昧な判断が可能な程に機能に不完全さを有するからこそ、仮に前夜の呑み過ぎでむくんだ顔をしていても、長髪を突然に丸坊主にしても、その差異を認識した上で同一人物であると判断ができたりもする。
そう考えると、年齢とともに衰えを感じる記憶力など身体能力さえも、「経験や知識が未熟だった若い頃は、記憶力や身体能力に頼る必要があった」とも考えることができよう。


≪目次: ≫
 第1章 脳の可能性を誤解していませんか?
 第2章 「豊かな感情」がつくり出すものを知ってますか?
 第3章 能力ってどういうものなのでしょうか?
 第4章 「世界の中の自分」を楽しんでますか?
 第5章 創造性のインフラを整備しませんか?
 第6章 精神を世界に開いてみませんか?








本「その名にちなんで The Namesake (新潮文庫)」ジュンパ・ラヒリ、小川高義 訳5


その名にちなんで The Namesake (新潮文庫)
著者: ジュンパ・ラヒリ、小川高義 訳
文庫: 468ページ
出版社: 新潮社 (2007/10)




映画「その名にちなんで」を映画館の上映予告で目にして気になっていたけど「まぁ観るまでもないかなぁ」と思っていたのが昨年秋頃のことで、年が明けて今年の2月頃だったか「最近、映画観てないなぁ」と思って(2007年11月14日を最後に映画館に足を運んでいない)、ウェブで検索して「ん〜今観るとしたらこれかなぁ」などと考えているうちに劇場公開が終了してしまったので「縁がなかった」と勝手に判断していた後にチェックした新潮社HP「映画・テレビ・舞台化作品」コーナーにひょっこり見掛けて(もう降ろされました)、何と“新潮クレスト・ブック”シリーズが文庫化された秀作の映画化だった、と知るに及び「これは読まないわけにはいかないでしょう!」と、本格派物語小説を愉しむ♪

著者“ジュンパ・ラヒリ (Jhumpa Lahiri、本名 Nilanjana Sudeshna)”は、1967年ロンドン生まれ。両親はインド・カルカッタ生まれのベンガル人。幼少時に渡米し、アメリカ・ロードアイランド州で成長し、現在ニューヨーク在住。
オー・ヘンリー賞、ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、ピューリッツァー賞 フィクション部門受賞。


ぶっちゃけ、ぼくはおよそ11年と7か月に亘る結婚生活が破綻して別居を始めてから1年と1か月が過ぎてなお、いまだ心の整理がつかない状態のままにいる。
別居に踏み切った時には、既に互いに別居生活以外の方法を考えられない状況まで追い詰められていて、双方の合意の上での判断。
“結婚”って何なんだろう?、って考える。
まぁ、ぼくは社会性に著しい問題を抱えていて、依存心ばかりが強いのに自立していなくって、元来結婚生活を含む共同生活に不向きであることを、やっと最近になって認識することができるようになりつつある。(それでもパートナーを欲していることを否定できない)
そんなぼくが不思議な一期一会の出逢いを経て結婚を決意し(無知が故に簡単に決意できた!?)、それに相手も同意をした上で、互いに契りを交わした。まさに一期一会という言葉が相応しく、それまで何の関係をも有しなかった赤の他人同士の男女が、恋愛という互いの気持ちの高揚を得て、互いに何らかの思うところがあって到った結婚。その過程において、何かひとつでも上手くいかないところがあれば、結婚まで到らないことも多いわけだろうから、奇跡と言ってもおかしくない。いくら恋愛に燃え上がっている男女が、若さ故に未成熟で盲目的であったとしたって、運命の悪戯、などと片付けてしまえるほどに、軽薄で無責任でいいのであろうか。かといって、何の感情をも有しなくなってしまった(それさえもが必然!?)者同士が、かつて交わした契りの責任面ばかりに縛られて、互いに不自由を強いることに、果たして何の意義があるのか?!、と問われれば、ますます回答に窮する。元々が他人同士なのであるから、更には状況や環境が刻々と変化し続けるものであるから、感情や考え方に変化が生じることを、単純に咎めることはできない。


こうなるしかなかったと読者には言っておこう。この男に別の名前をつけることは考えられなかったとも言いたい。
 ―ニコライ・ゴーゴリ外套」 (P.6)

 






本「あたりまえなことばかり」池田晶子5


あたりまえなことばかり
著者: 池田晶子
単行本: 219ページ
出版社: トランスビュー (2003/3/20)




こればっかりは自分で考えなければ、どうにもこうにもならない問題で、これまでみたいに現実逃避してみたところで、本質的なところから取り組まなければ、いよいよどうしようもない状態。落ち込んでみたり塞ぎ込んでみたり、でもそれも結局は自らの受け容れ難い現実から(すべてが自らに起因する問題)、単に目を逸らしているだけ。
あぁ〜、考えるってタイヘン、なんて面倒くさいのだろう。
何だか、簡単に「分からない」と書き記すのも憚られる気がして、ますます言葉を失う。


「可笑しい」ということの核心は、「変である」ということである。変である、月が在ることが変である、「在る」ことが変である。なぜ、変なのだろう。なぜ変だと感じることが、笑うことになるのだろうか。
理性がそこで自爆するのだというのが、私の説である。論理の理詰めで存在を理解しようと思考してゆく。しかし、そのことの絶対不可能に気づいた刹那、笑いが炸裂するのは、あるいは、ひょっとしたら、理性の自己防衛の働きなのかもしれないと思うことがある。すなわち、笑いの裏返しは恐怖、絶対不可知な何ものかに直面することの恐怖である。
絶対的強者、絶対に対抗できないとわかっている相手に対して、弱者が笑うことで対抗しようとする心の動きは、形而下の世界でも見受けられる。庶民が王様に対して、愚者が賢者に対して、群小評論家が哲学者に対して。それと同じ防衛機制が、理性が存在に対抗しようとして働いているのかもしれないとも考えられる。しかし、これまたいったい何ゆえに?
言うまでもなく、発狂への恐怖であろう。ニーチェがそちらへ取り込まれてしまった、ウィトゲンシュタインがその接線に常に立ち尽くしていた、正気と狂気のあの接線、それを超えることへの理性の本能的な恐怖であろう。
しかし、ここで再び「冷静に」考えてみたい。正気といい狂気といったところで、そもそもなぜこっちが正気で、あっちが狂気なのか、それを言うことができないとはっきりと知ることが、正気すなわち理性的であるというそのことなのだから、やっぱり正気も狂気もないのである。あるいは、正気とはすなわち狂気なのである。理性は発狂を恐れることはできない。あるいは、理性は最初から発狂している。
そんなふうに考えると、存在が変だからと言って、べつに笑う理由もないわけである。笑うでもなく、笑わぬでもなく、わかっているのやら、わかっていないのやら、そんなふうなごく普通の、しかし何となくどこか妙な、そういう人が、たとえば一休さんのような「風狂の人」であろうと思われる。
そう、だいいち、「存在が変である」と言ったって、それなら、変でない存在を考えてくれ。
存在は変であるということが普通なのだから、変が普通なのだから、存在はじつは、べつに変でもない。何が何を今さら笑う理由があるのだろうか。
寂滅。  (P.67-P.69)


≪目次: ≫
 走りながら考える
 善悪を教えるよりも
 生命操作の時代
 プラトン、ロゴスの果て
 哲学と笑い
 考えるとはどういうことか
 生きているとはどういうことか
 幸福はどこにあるのか
 どうすれば癒されるのか
 孤独は苦しいものなのか
 本当の自分はどこにいるのか
 死ぬのは不幸なことなのか
 他者の死はなぜ悲しいか
 老いは個人の生を超え








本「私のマルクス」佐藤優5


私のマルクス
著者: 佐藤優
単行本: 333ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/12)




う〜ん、ぼくにはちと難しい。
佐藤優が“マルクス主義”と“キリスト教”と、どうやら(?!ぼくにはまだまだ理解不足!?)相反する信仰思想に揺れ、だからこそ神学、そして哲学経済学を究める道程を、埼玉県立浦和高等学校入学から、夏休みのソ連・東欧への共産圏の刺激的な一人旅、そして一浪の後に同志社大学神学部への入学、19歳にしてキリスト教の洗礼を受け(沖縄出身で、戦後すぐに洗礼を受けた母親の影響!?)、学生運動にもまれながら、大学院での神学の研究にいそしむまでに見る。そこには、大きく横たわる思想家マルクスの存在、そしてマルクスと真剣に取り組んだ知識人たちとの、書籍を通じての対話(読書)。
文學界」2006年8月号〜2007年9月号に掲載分(現在も連載中)の書籍化。

ドイツ経済学者哲学者、革命家で、20世紀において最も影響力があったとされる思想 “カール・ハインリヒ・マルクス (Karl Heinrich Marx,1818.5.5-1883.3.14,)”を、名前しか知らないぼくは、分からなくて分からなくて、随分と丁寧に読んだつもりだけど、外国のカタカナの名前や地名、知らない言葉(これが度々出現する!?)が出てくる度に、「うぅ〜、分からない〜♪」と読むスピードを落としながら、それでもやっぱり嬉しくて嬉しくって、分からないままにとりあえず頭に放り込む。たいせつな言葉は何度か出てくるし、残念ながらすべてを理解して記憶することは、脳の機能的にも不可能だから、とにかく頭に放り込んで刻み付けるしかない。ほんとうにたいせつな事柄は、然るべきときに然るべき形で浮かび上がる。
ぼくは“知らない”から「でもだって、知りたかったんだよねぇ〜♪」と、フィロ・ソフィア(知を愛する、愛知)の歓び♪♪

そうそう、松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方 −セイゴオ先生の人間文化講義 (文藝春秋,2006.12)」に、体系的に関連づけられて編集された知識が役に立った。
ぼくは、“キリスト教”を“マルクス主義”をもっともっと知って、自分の言葉で語りたい!
学生大会が無事終了したので、室町今出川の「はやし」という居酒屋に大山君、滝田君、米岡君、宇野君たちと飲みに行った。滝田君が「佐藤、俺はマルクスをきちんと読んでみたい。『共産党宣言』や『空想から化学へ』を読んでみたが、意味がさっぱりわからない。『資本論』については、難解な序文を見るだけで読む気がなくなる。果たしてマルクスはほんとうに意味がある思想家なのだろうか。きちんと読んでみて自分で判断したい」という。宇野君は「そんなことをする暇があるならば、デモや集会を組織した方がいい。理屈ばかりこねていても世の中は変わらない」という。米岡君は「世の中なんか変わらなくてもいいじゃないか。世の中が変わるときは、悪い方向にしか変わらない。とにかくマルクスはきちんと読んでみたい。なんでマルクス主義が人々の心をつかむのか、その秘密を知りたい」という。最後に大山君が「なにも義務づけるんじゃなくて、来たい者だけがくればいいんだよ。佐藤、とにかく一緒に本を読もう」という。私は「わかった。どうせやるのなら、体系的にきちんと勉強した方がいいと思う。マルクスだけじゃなくて、ドイツ古典哲学や現代思想、それから神学にも幅を広げよう」と答えた。大山、滝田、米岡の三君は積極的に賛成した。
私は二、三日考えて、次のラインナップを作った。
マルクスエンゲルス『共産党宣言』、
エンゲルス『空想から科学へ』、
マルクス『経済学・哲学草稿』、
ルカーチ『歴史と階級意識』、
ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』、
宇野弘蔵『経済原論』、
宇野弘蔵『経済政策論』、
鎌倉孝夫『スタグフレーション』、
廣松渉『唯物史観の原像』、
廣松渉『マルクス主義の地平』、
バクーニン『連合主義・社会主義および反神学主義』、
ベルジャーエフ『ロシア共産主義の歴史と意味』、
オルテガ『大衆の反逆』
  (P.164-P.165)
ヨセフ・ルクル・フロマートカ (チェコ,1889〜1969)


≪目次: ≫
 1 ユダヤ教の刻印
 2 ブダペシュト
 3 やぶにらみのマルクス像
 4 労農派マルクス主義
 5 同志社大学神学部
 6 組織神学教授・緒方純雄
 7 ロシアレストラン「キエフ」
 8 黒旗の上に描いた魚の絵
 9 極めつけの嫌がらせ
 10 『美学の破壊』
 11 思想家・渡邉雅司
 12 襲撃
 13 『なぜ私は生きているか』
 14 天性の牧師・野本真也










本「柳美里不幸全記録」柳美里5


柳美里不幸全記録
著者: 柳美里
単行本: 803ページ
出版社: 新潮社 (2007/11)




そう、2001年11月20日から2006年4月6日までの1599日、毎日ではないし、長期間の中断(2003年6月30日から12月31日)をも経て、“柳美里”が綴った『交換日記』は、新潮社月刊誌「新潮45」に2002年1月から2007年7月までの5年半に亘り連載されたものの書籍化。
全803ページに書き綴られる記録は、2000年4月20日に死した“東由多加”に渡す(渡したい!?)日記。しかし一方、その募る想いを自らの胸の内だけに留めることなく、言葉として文字として表出させたことによって(メディアに載せずとも!?)、“語られ”たものが、“騙る(かたる)”(“騙る”については、池田晶子「リマーク 1997-2007(トランスビュー,2007.7)」に詳しい)になることを避けられない。自らの想いを言葉として表現するには、どうしたって整理や編集が必要とされて、それは意識せずとも勝手に行われてしまうものでもあり、自らの胸の内に秘めた想いをそのままに表出させることは現実的な困難を伴う。ある意味で、ほんとうの“想い”とは、言葉以外の表出、例えば、表情やしぐさ、目や体の動きなどによって、理解を深めた当事者間でのみ執り交わされるもの。


今日から日記をつけることにしました。
むかし、わたしが東京キッドブラザースの研究生だったろき、日記を書くことが義務づけられていましたね。あなたは、「1冊の日記帳を劇場だと思って、1日1日に光をあてて、ドラマを創ってください」といいました。定期的に提出して、あなたに感想を書き込んでもらうことになっていましたが、わたしの日記帳だけは返してもらえませんでした。
日記を提出した翌日、あなたに呼ばれました。わたしは演出台の前に正座し、うつむいてあなたの言葉を待ちました。あなたとの交換日記のつもりで、あなたに対する思い(面と向かって口にしたら、関係が終ってしまうような怒りや憎しみや恨み)だけを綴ってあったからです。
「あなたは書く才能があります。演じるよりも書いたほうがいいかもしれない」
書く才能があるといわれたことよりも、演じる才能がないといわれた(のだと思った)ことが大きくて、うつむいたままつぎの言葉を待ちましたが、そのことについてはそれっきりでした。
もう1度、あなたに日記帳を渡します。
今度は感想を書いてください。 (P.8)

≪目次: ≫
 もう1度、あなたに日記帳を渡します―2001.11.20‐2002.1.3
 ハッピー・バースデー・トゥ・ユー―2002.1.9‐2002.5.4
 哀しみが夢の裂け目からあふれ出す―2002.5.5‐2002.6.16
 隅が黄ばんだ白い紙―2002.6.17‐2002.9.13
 命がけで護っているもの―2002.9.14‐2002.11.12
 あなたに向かって言葉を―2002.11.13‐2002.12.30
 今日から新しい日記帳になります―2003.1.1‐2003.4.10
 痛いッ!やめて!―2003.4.11‐2003.6.29
 美里 帰ろう―2004.1.1‐2004.4.20
 思い出にしないでよ!―2004.5.12‐2004.10.9
 難しいな、とつぶやく―2004.10.9‐2004.12.24
 たんじょうびはだいすきさ―2004.12.25‐2005.1.23
 雨の音が強くなりました―2005.1.24‐2005.5.3
 隠遁を夢みています―2005.5.4‐2005.6.17
 毎日書く走る―2005.6.18‐2005.8.9
 いつか、返事を書いてください―2005.9.3‐2006.4.6


7年が経ちました。
わたしは、あなたの死に慣れるつもりはありません。
わたしは、あなたの不在に適応するつもりはありません。
あなたは死に、わたしは生きています。
ふたりが、時間で隔てられることのないように、わたしはこの交換日記を書き始めたのだと思います。
言葉で、時間を堰き止めるために―。 (P.793-P.794)

どうしても、ぼくは簡単に軽薄に書き記すことをしたくない。
全803ページ、803分(読み飛ばせない、1ページに約1分を費やす)=13時間23分≒13時間。








本「ひらめき脳 (新潮新書)」茂木健一郎5


ひらめき脳 (新潮新書)
著者: 茂木健一郎
新書: 198ページ
出版社: 新潮社 (2006/4/15)




ひらめき、閃き、ひらひらひらひらと、ひらひらひらひら跳んで飛んでとんでいけ〜、いたいのいたいのとんでいけ〜♪
あっ、でもね、ぼくの心のヒリヒリは、こいつばっかりは簡単にとばしちゃっちゃぁあいけねぇ。そう、とある瞬間にひらめいちゃった(覚悟!?)んだ、「ぼくはこの先ず〜っと、心の内にいたみを抱えて生きていくんだ、いたいままに生きなきゃいけないんだなぁ」って。ひらめいちゃっても、なかなかに受け容れることって困難で、「ママママ、ぼくこわいよぉ〜、たすけてよぉ〜、なんとかしてよぉ〜、ママ〜〜」とばかりに、いつもいつも心の葛藤が繰り返される、、、

茂木健一郎のエッセイ、
今まで、脳についての本は幾つか書いてきましたが、本書はその中で最もやさしく、しかし本質的なことを書こうと努めた「作品」です。
お前の話は面白いのだが、文章が難しいとこれまで何度もお叱りを受けてきました。確かに、いつもコムズカシイことをあれこれ考えているので、ついつい文章もそうなってしまうのかもしれません。しかし、私が何を考えていようと、世間の人には関係のないことです。せっかく新潮新書から本を出すのだから、一つ自分の個人的な問題は棚上げにして、できるだけ世間の人の関心に寄り添ったことを説明しようと思いました。
その一方で、やはり、脳科学の最先端や、一番面白いところはお伝えしたい。また、私は人生というものを愛していると自負していますが、「ひらめき(「アハ!体験」)」を通して人生をもっと愛する、というコンセプトは絶対に外したくありませんでした。 (P.197)
と、あとがきに書き記す。なるほど、確かに最近のハイペースで刊行される著作たちと比較すると、初期の著作である「生きて死ぬ私 (1998.6)」であったり、「脳と仮想 (2004.9)」であったり、簡単に平易に過ぎなくってぼくは好きなんだけど、「欲望する脳 (集英社新書,2007.11)」も好かったなぁ、そう考えると、著されている内容も然ることながら、それを読むぼくの状態って、結構影響が小さくないのかも。などと考えながら、ぼくは電車の中では景色や吊り広告をも眺めることなく、誰とも目を合わせないよう(現実世界との断絶!?)に、ひたすらに読書に耽るのが常なんだけど、何と最近2回も、鮮やかな黄緑色の装丁の「脳を活かす勉強法 (PHP研究所,2007.12)」(未読)を読む人を、20代後半の女性と、50代の男性サラリーマンとを見掛けて、多くの人の読んでる本がブックカバーに隠されていることを考えると、黄緑色が目立つとはいえ、「流石に人気があるなぁ」と感心してみたり、「もしかしたら、普段は本など読まない人が読んでるのかな?!」とか考えたりしたりして、なるほど茂木健一郎の人気を感じたりもする。

言語のような一つの能力を獲得するという歓びは、別のある能力を喪失するという哀しみとともにあるということなのでしょう。 (P.135)

≪目次: ≫
  ひらめきの時代
  ひらめきを生む環境
  ひらめきの正体
  脳とひらめき
  ひらめきと学習
  記憶の不思議
  不確実性を乗り越えるために
  ひらめきとセレンディピティ
  ひらめきを掴むために








本「リマーク re-mark 1997-2007」池田晶子5


リマーク re-mark 1997-2007
著者: 池田晶子
単行本: 229ページ
出版社: トランスビュー (2007/7/3)




なるほど、池田晶子の「謎の思索日記」♪

分からない、分からない、わからない、分かるわけなどあろうはずがない。分かりたくない、分かりたくない、分かってなんかなるものか、分かるなんて嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘っぱちだ。

ぼくには理解できないことだらけで、分からないことだらけで、分からない理解できないことを言葉にしたら、それは本当じゃないから、嘘になる。嘘を吐くこと自体は、単純にそれが“悪”であるとは言い切れないけれど、ぼくとしては、本当のことだけを言葉にしたい。本当のことだけを言葉に表し、自らの発した言葉に責任を持ちたい。責任を持てない言葉を発するくらいならば、黙した方がいいと考える。黙する、という表現だって、責任を果たせないような無責任な言葉を表さない、という、それはそれで充分に意義のある表現であろう。

受け容れられないこと、簡単に受け容れてしまうことができない事柄って、やっぱりどうしてもある。何でもかんでも、すべてを理解できるわけではない。分からないことがあって当たり前とも。
受け容れられない事柄は、無理をしてでも受け容れる必要があるのであろうか?、それは果たして本当に受け容れたことになるのであろうか?、表面だけを取り繕って、理解したふり、分かったふりをすることが、時に良好な人間関係や円滑な社会生活に必要とされることに、まったくの理解を示さないわけではないけれども、ぼくにはそんなに上手に遣り過ごすことができない。理解したふり、分かったふりをすることが、それを貫き通す自信が持てない。自信を持つことができない事柄は、それだったら遣らない、という選択も考慮するべきであろう、「遣ってみなければ分からない!!?!」を否定する気はないけれども、自信がないのに引き受けて遣ってしまった後の中途での投げ出し、その周囲への影響を考慮するに、ぼくには踏み切ることができない。
そう、ぼくが起こす行動によって、他者に何らかの影響を及ぼしてしまう(想像が出来得る)のであれば、ぼくは迷わず自らは何をもすることなく黙する、という選択を考慮しないではいられない。


“JUN.2007 15”の記述が、池田晶子が綴る“言葉”としての最期となるも、時間として、FEB.2007、MAR.2007、APR.2007、MAY.2007、JUN.2007、と続く空白のページ。ページの空白は“無”なのか?!、いや、ページがページとして在るではないか。ページとしての存在。ページに満たされる、空白という存在。空白は空白として、そこに在る。そう、在る。在る。在る。“無”ではない。


「われわれ」と語り出す時、言語は自ずから「人類」を指す。「われわれ・人類」と言い、「私・人類」と言うことは意味を為さない。この文法的事実は、「私」は言語内に存在せず、また人類でもないという哲学的事実を示すと同時に、しかしその複数形「われわれ」とは、したがって「人類」、言語を所有する人類であるという逆説的真実をも端的に示している。

 われわれ人類、言語を所有する人類が、その言語によって語っているところのものは、それが言語によって語っているというまさにその理由によって、そこに語られてはいない。それは語り得ない。だからこそ語るために、われわれは言語を所有したのだ。したがって、そこで言語によって語られているものは、それが言語によっては決して語り得ないということについての、悶えか叫びか嘆息に他ならない。したがって、裏返し、読むとは絶句の息遣いに耳を澄ますことである。

 われわれが存在しているというこの悩ましい事実について、それらの言語は語ろうとする。何故それは悩ましいのか。謎は悩ましい。思索の開けとは謎への参入である。思索するとは謎を呼吸することだ。その時、論理ですらも現象となる。居ることの気配、在ることの感受、折に触れ、存在に触れ、息を凝らし、息を呑み、長大息は再び明確な疑問符へと収斂(しゅうれん)しては、絶命する。

 形式は内容を規定する、逆もまた真。必然であることによって自由である、その逆もまた真。語り得ないという必然を、語ろうとすることの自由、両者の一点交差するそこにのみ言葉は立つ。悶えや叫びや嘆息でさえも、そのようであらざるを得ないことによって、どのようにでもあり得ることを示すだろう。

 ところで一方、語るとは、騙る(かたる)ことである。語り得ないことを語るとは、語り得ないことを騙ることである。語るとは嘘を騙ることである。語られていることは、すなわち嘘である。真実在に迫る思索日記は、大嘘を語る。神聖文字ヒエログリフとて、そのように見れば、諧謔(かいぎゃく)の粋である。われわれにとって、言語とは遂に判じ物である。思索の象形文字、あるいは謎の落書き。

 けれども一方、存在するということは絶対的事実である。古代における神は、現代における言語である。しかし、存在は存在する。謎は、謎である。謎である限り思索せざるを得ないわれわれ人類の必然と自由は、時と場所を選ばない言葉として出没する。したがって、誰が考えたかを言うことはできいない。存在が存在を考えた。エジプトにおいて、ギリシャにおいて、あるいは現代日本の某において。
 さらに聴き馴れない異形の言葉を待つ。
 存在はいよいよ真実の嘘と化す。
  (P.3-P.5)








本「17歳のための世界と日本の見方 −セイゴオ先生の人間文化講義」松岡正剛5


17歳のための世界と日本の見方 −セイゴオ先生の人間文化講義
著者: 松岡正剛
単行本: 363ページ
出版社: 春秋社 (2006/12)




そう、タイトル“17歳”(若者、ビギナー向け!?)に惹かれて、それでも未読(未知)の著者の著作に対する不安から、茂木健一郎との対談共著「脳と日本人(文藝春秋,2007.12)」読了の後に手にした。とにかくぼくは不勉強で、世界情勢も、世界史も、日本史も、地理も、宗教も、民族も、様々な文化も、何〜んにも知らない、超ド級の“無知”。今でこそ「知らない!」と言い放ってしまって、だからこそ知る努力をコツコツコツコツと励むんだけど、正直つい最近までは、知る努力を一切することもなく、それでも知らないのはカッコ悪いってことだけは小賢しくも何となく気が付いていて、時に知ったかぶりをしてみたり、誤魔化してみたりして遣り過ごしてきちゃった。
で、いい歳して色々あって、色々と考えさせられて、何だかくだらないことにカッコつけてるのが馬鹿らしくなってきて、かつ純粋に「知りたい!」って思ってきて、じゃぁ「知らない!」って言っちゃった方がいいんじゃないか!?、「知らない!」って言っちゃわないとホントに知ることができないんじゃないか?!、「えぇ〜い、知りた〜い!、くそ〜、基礎から教えを乞おう!!」、「だって、ぼくは知らないんだも〜ん♪」

松岡正剛が、1996年4月から2004年3月まで教授を務めた帝塚山学院大学人間文化学部での「人間と文化」をテーマに行われた講義全5回分の書籍化。
講義の書籍化といえば、京都大学での池澤夏樹「世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで (新潮選書,2005.1)」であり、慶応義塾ニューヨーク学院高等部での池谷裕二「進化しすぎた脳 (講談社ブルーバックス新書,2007.1)」であり、西武池袋コミュニティ・カレッジでの池田晶子「人生のほんとう (トランスビュー,2006.6)」であり、、、まるで目の前で語り掛けられているかのような臨場感というのか、ワクワクドキドキする高揚感が堪らなく好き♪
この著作の講義は、150名くらいの大学生を前に行われているのようなので、全体のザックリとした大まかな雰囲気を掴みながらの緩やかな緊張の下に、まるで語り部が語る物語、神話の如く♪、世界も日本も、洋の東西をも問わずに、歴史も民族も宗教も国家も、縦横無尽に繰り広げられつつ、普遍の関連性に導かれる。
なるほどなるほど、へぇ〜へぇ〜へぇ〜、そうだったのか!、うわぁ〜うわぁ〜、ふぅ〜ん、ひぇぇぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜♪、黙って読むことができない、うなずきながら、うめき声をもらしながら、感心し切り。

そう、世界文学のロシアの文豪ドストエフスキーだって、古代ギリシアからのフィロ・ソフィア(哲学)やら、キリスト教イスラム教仏教儒教であり、日本の古事記日本書紀ですよ!、ぼくが自らの言葉で語りたい、書き記すためにどうしても必要としたい基礎知識、理解するべく熱望している情報の波状攻撃♪、しかも、歴史的展開、背景、関連性までもが解き明かされる、あぁ♪

例えば、「キリスト教を知りたい!」と考えたぼくが、仮にキリスト教に詳しい著作を読んでも、残念ながら今のぼくには理解が及ばないであろうし、難解な専門知識そのものに興味を抱くことができないであろう。馴れ親しんで信頼を寄せる著者が、その言葉(ロゴス)を尽くして語る著作の中に在ってこそ、ぼくの興味となり得る。僅かな情報から見出される関連性が興味の糸を手繰り寄せ、活きた情報としてぼくの中に刻み込まれる。
そう、ぼくが興味を抱くのは、キリスト教そのものではなく、今さら特定の宗教に傾倒する気もないし、何故にキリスト教がここまでの勢力を拡大して、現在までその勢力を保つに到ったのか?!、であり、その歴史、変遷、その他の宗教、民族、国家、文化などとの関連性。
正直、まだまだ分からないことだらけで、ユダヤ人とか、聖地エルサレムとか、、、ぼくが欲していると、欲して求めてさえいれば、求め続けて、その努力を怠らなければ、日々求めて取り込む情報(読書)の中から、必要に応じて、然るべき時期に、やがて訪れるのであろう♪
「編集」という見方をすると、いろいろなわかりやすく見えてきたわけですね。(中略) 言語が物語をつくったのではなくて、物語を編集することが各国の言語をつくったんですよ。 (P.352-P.353)

≪目次: ≫
 第一講 人間と文化の大事な関係
 第二講 物語のしくみ・宗教のしくみ
 第三講 キリスト教の神の謎
 第四講 日本について考えてみよう
 第五講 ヨーロッパと日本をつなげる








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写真 Canon IXY900IS(since 2006.12.4) & EOS40D + EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM(since 2008.7.23) + EF100mm F2.8 Macro USM(used, since 2008.9.10) + EF-S55-250mm F4-5.6 IS(used, since 2008.9.30) + EF50mm F1.8 供used, since 2009.4.4)

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