ロシア 闇と魂の国家 (文春新書)
著者: 亀山郁夫+佐藤優
新書: 248ページ
出版社: 文藝春秋 (2008/04)




いずれ読みたい著作の筆頭に挙げられる、『カラマーゾフの兄弟 (Братья Карамазовы,1880)』、著者フョードル・ドストエフスキー (Фёдор Михайлович Достоевский,1821-1881)ロシアの文豪の最高傑作と謳われる。
新潮社の季刊誌「考える人 2008年春号」の特集“海外の長篇小説ベスト100”では、堂々の第三位。

やっぱり、新訳(光文社古典新訳文庫)の“亀山郁夫 (1949- )”にて愉しみたいと目論む。まだまだ早すぎると躊躇する気持ちもある。
読んで読めないことはないのだろうけれども、深い理解を得るには、知識も情報も不足している。一読して理解が得られるものでもなく、何度か精読すべきものでもあろうけれども、であればこそ、ますます今読むべきか迷うところで、今回がその一歩前進となるのかどうか?!


当時 同志社大学神学部の学生だった“佐藤優 (1960- )”と、当時 天理大学の助教授をしていて、非常勤で同志社に来ていた亀山先生とは、ロシア文学者たちの集まりで面識があった。23年ぶりの議論を重ねる二人の「ロシア」をめぐる対談の書籍化。

[佐藤] ・・・根源的に亀山先生の中にいいかげんなところがあるからかもしれない。こういう言い方をすると誤解を招くので、言葉をつけ足しますが、亀山先生はかなり本気で宗教の勉強をした。それだから、ロシア正教にある根源的ないいかげんさに気づいたのだと思います。だから、ドストエフスキーのテキストの中の宗教性に惑わされない。
[亀山] なるほどね(笑)。 (中略) ぼくは最近、ドストエフスキーかぶれが高じて、徐々にロシア正教とはなにか、わかってきたような気がしています。だからといって決して自分のなかに神の存在を信じているわけではない。ただ、神が存在すれば、少しは楽になれるのじゃないか、と思うことがあるんですね。つよい不安と恐怖にかられた瞬間です。加賀さんとの対談でとてもためになったのは、信と不信の間を揺れ動くことこそが進行だ、という一言です。その意味で、ドストエフスキーはやはりキリスト者だったのかな、と思うわけですが、この点についても、機会をみて佐藤さんのお話をうかがいたいと思っています。 (P.43)


[亀山] ・・・そこで佐藤さんにお聞きしたいのは、ロシアはいま、精神と物質、魂と闇の終末戦争を繰り広げているか、という問題なんです。
[佐藤] その勝負は既に思想の上ではついていると思います。カネですべての価値を測る新自由主義を既にロシアは拒否しました。物質に対しては、基本的に精神が勝利したのだと思います。この精神力によって、ロシア経済は復活したのです。
私の理解では、魂と闇は二項対立を作らないのだと思います。魂が闇を吸い込み、また闇の中に魂が偏在するというイメージを私はもっています。ロシアにとって苦難は今後も続くでしょう。そして、この苦難を積極的に引き受けることによって、いつか到来する千年王国を待ち望むというメシアにズムを、プーチン=メドヴェージェフ二重王朝のロシアは静かな形で待ち続けるのだと思います。 (P.248)


≪目次: ≫
 魂のロシア  亀山郁夫
 ロシアの闇  佐藤優
 第一章 スターリンの復活
 第二章 ロシアは大審問官を欲する
 第三章 霊と魂の回復


Yellow
Powered by PICS






[亀山] 居心地のよさを権力が感じているときに芸術に金を出すという構造が、これだけ二極化した日本では機能しないから困ってしまいます。文化に対してダイナミックな態度ができるところに、ロシアの魂の力を感じます。
[佐藤] 確かにこれは「ロシアの魂」の力だと思います。亀山先生が追究している「政治と文学」は古臭いどころか、今の新自由主義の堕落が蔓延する世の中だからこそ必要とされる、極めて現代的なテーマです。今の日本の政治家は、官僚になるのが夢という、どうもスケールが小さい学校秀才みたいな奴が多い。「総理になりたい」というだけで、志が高いと言われる。政治家ならばそんな小さな夢ではなく、「全世界から貧困を一掃する」とか、「戦争を絶滅し、恒久的平和を実現する」というぐらいの「不可能の可能性」に挑む大きな夢を持ってほしい。そのためには、国民から信託された権力を使わせてもらうという、「大審問官」型の政治家が出てくることが日本にとって重要なのだとぼくは考えるのです。
[亀山] 大審問官型の政治家、というのをもう少し説明していただけませんか。非常に重要な示唆を含んでいるように思えるのですが、きっと読者は理解できないでしょう。
[佐藤] 読者に理解していただける言葉を見いだす自信はありませんが、試みてみます。政治家が、自己の政策なり理念なりを実現するためには権力を必要とします。しかし、権力というものがくせ者で、そこには魔物が潜んでいるのです。潜んでいるというよりも、自分の内部にこの魔物を飼っていかなくては、政治家になれないということなのだと思います。そして、この魔物を飼っている人たちが独自の磁場を作り出すのです。ここでは永遠に戦いが続きます。 (中略)
・・・キリストは基本的に大審問官のあり方を認めます。キリストを通じて神が大審問官と共犯関係に入るのです。
私はほんものの政治家とは、大審問官の道だと思うのです。ときに暴力を行使してでも、人類が生き残ることができるようにするために、自らの優しさを殺すことができる人間がほんものの政治家なのです。愛と平和を実現するために、常に人々を騙し続けるのが政治家の業なのです。私は日本では、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗という三人の内閣総理大臣、ロシアではエリツィンとプーチンという二人の大統領を目の当たりにしました。この五人にはいずれも大審問官と共通するところがありました。大審問官になって、有象無象の阿修羅を力で押さえつけるのが自らの歴史的責務であると考えていました。ただし、これらの政治家は、そのため自分の魂は地獄に堕ちることになる。政治家にはその覚悟をもってもらわなくてはなりません。
[亀山] 一種の自己犠牲の上に成り立った最大幸福のための決断とでもいうのでしょうか。ここでもほんものの「決断」が試される……。 (P.224-P.227)


[亀山] ・・・50代半ばにきて、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を思い立ち、何冊か新書を書いているうちに、はっきりと見えてきたものがあるんです。結局、文学というのは、幸福の一形式なのであって、幸福のさまざまな形を人に伝えるのが、その使命なのだ、ということです。要するに、生きる力を与えるのが文学なんですね。
でも、生きる力を与える、というのは、自分から死なない力を与えるか、というとそうじゃない。それぞれの人間が、人生の果実を味わいつくすための宣伝活動だ、といったら叱られるでしょうか。佐藤さんはどうお考えになりますか。文学って何だとお思いになりますか。
[佐藤] 私は、文学とはインテリになるための方便だと考えています。これは私の考えではなく、日本の傑出したマルクス経済学者だった宇野弘蔵の見解を踏襲しています。宇野は、インテリとは、自らが置かれた状況をリアルに認識している人と考えました。私は、認識してるだけでは不十分で、その認識を自分の言葉で表現することができるということをこれに付け加えるべきだと思います。
宇野は、インテリになる一つの方法を、体系知(科学)である経済学を体得することと考えました。もう一つの方法は、小説を読むことで、心情によって、自分の置かれた位置のリアリティーを認識するることと考えました。この意味で、インテリにとって文学は不可欠と考えます。
[亀山] ぼくはいま、学長という立場でいろいろな仕事をしていますが、法人化、少子高齢化という厳しい状況のなかで、いかに大学のプレゼンスを高めるか、というのがもっとも大きな課題です。それを実現できれば、人文・社会系の小規模大学でも生き残れると思います。また、文学者がこうした立場に立つということを、少なからず危惧する人がいるわけですが、この半年の間に、ぼくはとても重要なことを発見したんですよ。
文学的な想像力を持っている人間と持っていない人間というのは、決定的に違うということです。
結局、自分が、大学人として、あるいは研究者、教育者としてやっていることにいかに批判的であるか、という一点にすべてはかかっているということです。ぼくは、ドストエフスキーから出発しているわけですが、ドストエフスキーをとおして何を学んだか、というと、人生は何か、ということを学んだ、としかいいようがない。でも、文学よりも人生からのほうが、はるかにたくさん学んできたように感じます。そして人生から多くを学ぶには、やはり、文学から多くを学ぶための力が欠かせないのです。教養です。
[佐藤] 外交官にとっても、難しい交渉をまとめあげる上で、教養はとても重要です。また、私が会った優れたインテリジェンス・オフィサー(情報機関員)は、一人の例外もなく、優れた教養人でした。 (P.233-P.235)