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新編 分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)
新編 分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)

○著者: 木村 敏
○出版: 筑摩書房 (2012/12, 文庫 478ページ)
○定価: 1,680円
○ISBN: 978-4480094971



Schizophrenie


実践的な臨床の経験から、分裂病(統合失調症)を治療すべき異常なものとする論理に与することなく、人間という矛盾に満ちた存在そのものに内在している自己分裂に根差したものとする地平から紡ぎだされた珠玉の初期論文。西田哲学における自‐他論や時間論を敷衍し、分裂病者の自閉性や体験の基本的構造に注目することにより、自我障碍よりも人と人との「あいだ」における自己の自己性の危機、自己と身体との乖離を論じる。


≪目次: ≫
第一章 序論

第二章 ドイツ語圏精神病理学の回顧と現況
 一 戦前のヨーロッパ精神病理学の流れ
 二 ドイツ語圏における精神病理学の現況
   1 了解の概念をめぐって――内容と形式
   2 病的過程の問題――分裂病の本質と診断
   3 体験と構造――自我と人格の精神病理学
   4 妄想知覚の構成――精神病者と彼の世界
   5 状況と誘発の概念をめぐって
   6 性格と精神病
   7 病める人間――精神療法の発展
 三 ブランケンブルクの「自然な自明性の喪失」について

第三章 精神分裂病の自覚的現象学
 一 精神分裂病症状の背後にあるもの
  I 自覚的現象学の方法
   1 序論
   2 「分裂病一般」の判断
   3 我の自覚としての「分裂病性」
   4 自と他の問題
   5 自覚的現象学
  II 精神分裂病の基礎障碍
   1 精神分裂病の自覚的根源
   2 個別化原理の危機としての精神分裂病
   3 結語
 二 プレコックスゲフュール(Praecoxgefühl)に関する自覚論的考察
  I はじめに
  II プレコックスゲフュールの概念
   1 臨床像の印象と人間的印象
   2 プレコックスゲフュールと「分裂病性」
   3 「分裂病性」認知の根拠としての「自覚」
   4 個別化の問題性とプレコックスゲフュール
  III 臨床の場におけるプレコックスゲフュール
 三 精神分裂病の症状論
  I 精神医学における「症状論」の意味
  II 精神分裂病の基礎的過程
  III 特異的症状
   1 原発的自閉
   2 無媒介的な妄想的自覚
   3 自然な自明性の喪失
   4 自他の逆対応
  IV 非特異的症状
   1 妄想気分
   2 妄想知覚あるいは異常意味体験
   3 妄想体験
   4 幻覚体験
   5 心的な流れの非連続性
   6 その他の精神症状
  V 結語
 四 精神分裂病論への成因論的現象学の寄与
 五 身体と自己――分裂病的身体経験をめぐって
   1 間の事態としての分裂病
   2 ノエマ的身体とノエシス的身体性
   3 自己と身体との乖離
 六 妄想的他者のトポロジィ
   1 はじめに
   2 無媒介的妄想的自覚
   3 実像と虚像
   4 生活状況への妄想的他者の出現
 七 分裂病の現象学

付録 離人症の現象学


跋 (一九七五年 春  木村 敏)
文庫版あとがき (二〇一二年九月  木村 敏)

解説 もえいづる現象学  内海 健


※本書は一九七五年六月二五日、弘文堂より刊行された『分裂病の現象学』より「第四章 精神医学の思想」を割愛し、付録として「離人症の現象学」(一九六三/二〇〇〇年)を付け加えたものである。


≪著者: ≫ 木村 敏 (きむら・びん) 1931年、旧朝鮮生まれ。1955年、京都大学医学部卒業。京都大学名誉教授、河合文化教育研究所所長・主任研究員。専攻、精神病理学。著書に『自覚の精神病理』(紀伊國屋書店)、『異常の構造』(講談社現代新書)、『時間と自己』(中公新書)、『木村敏著作集』全8巻(弘文堂)、『関係としての自己』(みすず書房)、『臨床哲学講義』(創元社)、『あいだ』『自己・あいだ・時間』『分裂病と他者』(ちくま学芸文庫)など。訳書多数。1981年にシーボルト賞、1985年にエグネール賞、2003年に和辻哲郎文化賞、2010年に『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)で毎日出版文化賞を受賞。






 精神病の歴史は人間の歴史とともに始まる。すでにギリシャの昔から、精神病の症状はさまざまに記載され、これに対する治療も種々に試みられて来た。中でも今日われわれが「精神分裂病」(Schizophrenie)の名で呼んでいる一種の病像は、その示す多彩な精神的身体的症状と、完全な人格荒廃に至る悲惨な経過とによって、最もよく人の眼を奪い、古くから精神病という概念の中核をなしていたものと考えられる。……   (p150)


……個の立場に立って見た場合、各人はすべて一回的で交換不可能と考えられるが、今もし視点を改めて「種」というものの立場に立ち、生物学的人類一般、あるいは民族、国家のごときものを考えてみた場合にはどうなるであろうか。種の立場に立つ時、自分と他人、我と汝というも、すべては人類一般あるいは一つの人類、国家を構成する員数として存在するにすぎなくなり、すべては量的関係に還元されてしまう。個的立場と種的立場の対比をもっと端的に示しているのは死の現象であろうと思う。種の立場に立つ限り、個人の死ということはまったく意味を失う。一人が死んで一人が生れるということは、種的立場に立てばなんらの変化も意味しないし、むしろそれは種が維持されるための自然法則であると考えられる。個の立場で死と言われるものは種の立場では新陳代謝の過程に他ならぬ。そこでわれわれはひとまずハイデッガーとともに、死を勝(すぐ)れた意味での「個別化の原理」と考えたいと思うのである。
 死を個別化の原理としてみなすことにより、自他の区別はきわめて具体的現実的な様相を呈してくる。われわれは普通、自分と他人とは何よりもまず、それぞれ別個の身体を有することによって独立していると考えるが、単なる物質、単なる生命としての身体は真に自他を区別するものではありえない。身体が個別化の原理たりうるためには、それは死の可能性を含んだ身体であらねばならぬ。単なる生命に死は含まれていない。生物一般にとっては、生命とは永遠なるものである。生命的物質としての身体は、ただそれが死の可能性を含むことによってのみ、自を他から分つ個別の原理たることができる。身体が死の可能性を含むということは身体が歴史をもつということである。一回性を欠いた種の立場、死の可能性なき永遠の生命の立場からは歴史というものは考えられない。一回性といっても、それは単に自分と他人との間についてのみ言われることではない。正しくは真の個別者はその一瞬一瞬において一回的であると考えねばならぬ。昨日の我と今日の我は同一の身体の単なる存続とは考えられない。昨日の我が死んで今日の我が生れるのである。個別化の立場から見れば、われわれが生きているということの一瞬一瞬が死を含んでいなければならぬ。それがすなわち歴史ということに他ならない。自と他を区別するものは単なる生命的身体ではなくて、歴史的身体でなければならない。
 しからば、絶対的に区別された自分と他人との間に、我と汝というごとき関係が生じるのは如何にしてであろうか、人間がそもそも他人と意志を交流せしめうるのは何故であろうか。……   (p178-179)


……今もし分裂病者について「接触欠如」あるいは「共感不能」という表現をやめ、これを「接触回避」あるいは「共感忌避」という表現に替えてみたらどうであろうか。私はこれによって分裂病者から受けるわれわれの印象は、より鮮明に具体的に表現されうると思う。分裂病者は他人との間に我と汝の二人称的出会いの場に立つことを回避したがっている。他人と真に気を通じさせることは彼らにとっては何か自らの存在を脅かすようなことを意味するのであって、彼らはこれに抵抗しようとしている、と見ることができるのではないかと思うのである。われわれが普段、分裂病者の態度は「自閉的」(autistisch)であると、言っている言葉の意味はこのようなところにあるのではなかろうか。
 精神分裂病の基礎的な存在様式としてのこの「自閉性」(Autismus)を考えたのは、周知のごとくブロイラーであった。……   (p189-190)



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