Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

*は 行の作家

本「ほんの少し、勇気をあげる To you from Fujiko Hemming」フジ子・ヘミング 著・画5


ほんの少し、勇気をあげる To you from Fujiko Hemming
著者(画): フジ子・ヘミング
単行本
出版社: オークラ出版 (2005/12)
価格: 1,000円




ピアニスト”フジ子・ヘミング (Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming ,1932.12.5- )”の魂の言葉と絵。
とつとつと語られる”幸福論”。
そう、いきなり、
すべてを望んでも、手には入らない。
愛する人も、温かい家庭を望まず、
私は、音楽と見捨てられた動物たちだけを
望んだ。
に始まる。

やっぱり、こっちが第二弾。
まずは、第一弾の『あなたに届けば』で、愛だの恋だの、ドロドロズクズク、涙なみだで盛り上げて盛り上がって、心の奥深くに鍵を掛けて閉じ籠めておいた固い扉を、そっと開け放ち、啓かれた心にス〜ッと沁み入る。
誰だって幸せになりたい!、幸せの青い鳥を求めて歩き廻る。「何処に居るの、私の青い鳥は?、ここかしら?、あそこかしら?、ず〜っと遠い異国の果てかしら??」、探し求めて追いかけて捕まえたかった、それは、”フジ子・ヘミング”に同じ。

穏やかに優しい素敵な絵に添えられた”勇気”。









あなたに届けば
著者(画): フジ子・ヘミング
出版社: オークラ出版 (2005/12)


本「あなたに届けば To you from Fujiko Hemming」フジ子・ヘミング 著・画5

あなたに届けば To you from Fujiko Hemming
著者(画): フジ子・ヘミング
単行本
出版社: オークラ出版 (2005/12)
価格: 1,000円




パラパラッと捲って、サラリと立ち去るつもりだった。
ピアニスト”フジ子・ヘミング (Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming ,1932.12.5- )”の魂の言葉と絵。
いいピアノの音色を出すためには、
恋も必要なこと。
に始まり、、、
あぁ〜、堪え切れない。
人を愛し、恋をすることの素晴らしさ、そして、、、

あのね、フジ子・ヘミングが自らの、苦難の人生なんて陳腐な言葉で簡単に表しちゃいけないような、だからこそ人びとの心を惹き付けて止まないピアノを奏でるんだろうけれども、ホントに言葉の、いや、文字のひとつひとつから滲み出る、あぁ〜、堪らない、短い言葉なのに、色濃く浮き立つ情景、切ない、辛い、苦しい、痛い、いたい、、、
だからこそ、
天使の微笑みがありますよう。
素晴らしい時間が訪れますように。

優しさに溢れる、豊かで穏やかな美しい絵。









ほんの少し、勇気をあげる
著者(画): フジ子・ヘミング
出版社: オークラ出版 (2005/12)

本「国家の品格」藤原正彦5


国家の品格 (新潮新書)
著者: 藤原
新書: 191ページ
出版社: 新潮社 (2005/11)




今更って気がしないでもないんだけど、僕にとっては今だった。
気にはなってた、何かと話題になってて、でも手にとるまでは至らなかった、、、とある本で目にして、「やっぱり読んでおかないとダメだ。語れないじゃん!?」って気が付いちゃった。
そのとある本”紙屋高雪『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』築地書館”は、30代の真面目なサラリーマンでオタクでコミュニスト(共産主義者)の著者が主催する漫画評論サイト「紙屋研究所」で語った広範で膨大な書評を書籍化した本なんだけど、締め括りがこの「国家の品格」の書評だった。だから、僕の中で、『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』がやっと終わった。しかし早速同僚の希望者にレンタル中で、振り返りようがない、しまった(笑)。

あまりにも話題の著作だから、その影響が大き過ぎたからか、僕が耳にする評価は押し並べてよろしくない印象。
確かに軽い。講演記録をもとに執筆した著作だとかで、しかも新書で、全191ページ、じっくり語るより、親しみ易く分かり易く広く世間一般に。
物足りなさは拭えない。それでも、ベストセラー新語・流行語大賞

そうか、そうだったのか。僕は読了後、書き記す前に一応簡単な調査をすることにしているんだけど、著者”藤原正彦”は、数学者だけの人だとばかり思い込んでいたら、しかもそれも「博士の愛した数学」がらみの記憶なんだけど、両親(新田次郎藤原てい)を作家に持つエッセイストとしても有名で、翻訳まで手掛け、国語教育の重要性を説いていて、それ以前のエッセイでも、しばしば「武士道」やら「祖国愛」やら「情緒」やらが登場していた。とWikipediaにあった。

気持ちよく語られる自論。








「真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-B -本多孝好」読みました。5


真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-B
著者: 本多孝好
単行本: 171ページ
出版社: 新潮社 (2004/10/29)




ハッピーエンド、爽快な物語。
読み易い。気持ち好く乗せられて、一気に読める。

どうしたって、村上春樹が頭にチラツキ、最新作「正義のミカタ 〜I’maloser〜」の展開が、イメージが気になってしまう。

それでも個人的には、あぁ〜愉しかった!、であり、なるほどなるほど、著者とほぼ同じ年齢の私は、執筆された5年前(2004年)の30歳を少し過ぎた頃の私と、現在の私、そして、主人公の”僕”の設定の20歳代後半の私、、、 を、逡巡する。
当然に年齢によって、その状況や環境によって、全く異なる部分を有し、それでも本質的には、深層の部分では何にも変わっていなかったりもする。


物語の展開として、side-B(下巻)と、side-A(上巻)の間の2年という時間の流れ、時間の流れによって新たな展開を見せる物語。
人間という生き物は、どうやら本質的な部分ではそう簡単には変わり得なくって、色々な出来事の中で表面的に取り繕って改善を試みても、どうしたっても深層部分では変わり得ないから、気が付くと元に戻っていて、何度も何度も同じ過ちを繰り返したりして、とどのつまり受け容れるしかない、、、 みたいな。その”受け容れる”って作業がなかなか困難で、特に年齢が若ければ若いほどに、可能性(!?)、があるだけに、絶対的に困難を極める。それでも、その困難の経験が無ければ、理解し得ることも無い訳で、困難との自己との対峙が必要であったりもする。
そして、2年という年月は、何か大きなことを成し遂げるには決して充分な年月では無いけれども、決して短い年月ではなくって、それでも、2年の歳月を経ることによって理解できることが、そこには存在する。
だから、敢えてその2年という年月を実感させるために、上巻・下巻に分けた理由もそこにあるのかなぁ、などと深読みしつつ、それでも、二巻に分けたら、一巻に纏めるよりも、ある意味では倍の売上げの可能性がある、とか、厚みを薄くすることによって手に取られやすく、読み易く、などの販売戦略的な部分の憶測をしてみたりする。
そして、その2年の間には、恋人の”死”があって、突然に天と地がひっくり返ってしまうほどの激しい衝撃と、その圧倒的に受け入れたくない現実と、それでもその痛みを苦しみを哀しみを受け容れて、それでもそれでも生きていかなければならない現実。だから、2年の年月を経ないと、展開させることができない物語。2年の年月を経たから展開することができる物語。

そして、資産家の、遣い切れないほどの大金持ちの事業家の援助を受けて始めた事業。富める者は、その富をもって更なる富を生み出す、富の還流。
その善悪を問うつもりも無いけれど、色々な必然の下に保たれるバランス。理想と現実には、絶対的なギャップが存在していて、そのギャップさえも、保たれるバランスのひとつの要素でしかない。

そうそう、主人公の”僕”は、実は、大学時代の彼女の死から、何と6年間も女の子との体の関係が無い。決して、もてない訳ではなくって、どちらかといえば、交際する女性には事欠かないのに。それでも、体の関係が無いことも、そのひとつの要因ではあろうが、長く交際が続くことが無い。でもでも、交際する女性が切れることも無い。興味深い傾向ではある。

一卵性の同じ遺伝子を持つ双子の姉妹が、お互いの存在が、記憶や経験までもが共有されて混同していて、好きになる男までもが一致しちゃって、当事者同士でさえもが混濁しちゃっているのに、その片一方の存在が失われる。
で、私は誰?!

橋本治は、その著作『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』において、
”三島由紀夫にとって重要なのは、「欲望」ではなく、「意思」である。”と、書き記している。
意思があれば、
”「冷蔵庫とだって結婚できますよ」”
なのである。
滅茶苦茶な理論構成ではあるが、その通りであり、とどのつまり、一卵性双生児の双子の姉妹が、どちらが”かすみ”であっても”ゆかり”であっても、何だったら”水穂”であっても?!、問題とされるのは意思であり、意志の問題でしかないのであり、、、

『愉しかった』、と書き記す。









「真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-A -本多孝好」読みました。5


真夜中の五分前 five minutes to tomorrow side-A
著者: 本多孝好
単行本: 205ページ
出版社: 新潮社 (2004/10/29)




ふと、発売前に手にさせていただいた「正義のミカタ 〜I’maloser〜」が、5月下旬の予定だったなぁ、などと呑気なことを考えながら、この作品を手にした。
side-Bが下巻で、このside-Aは上巻なので、中途で書き記すことに軽い違和感を感じながら、それでも、敢えて二つに分けた理由もあるのだろうなどとも考えながら、結局のところ書き記すことにした。

何処か、村上春樹を思わせる物語。
ちょっとお洒落な生活を送る、26歳の”僕”が主人公で、僕は決して目立つ存在ではないんだけど、周りに流されることなく我が道を行くタイプで、だから付き合う女の子には不自由しなくって、大きな野望を抱くこともなく、淡々と日常を過ごす。何にも無い訳じゃないんだけど、取り立てて何か大きな出来事が起こる訳でもなく、日常の小さな変化を感じつつ、それでも大きなスタンスで物事の判断を下していく。
それでも、仕事ができる女性の上司が、ふと決して見せることが無かった弱みを見せたり、一卵性双生児の双子の姉妹が登場したり、、、
村上春樹だったら、もっともっとぶっ飛んだものが出てきて、もっともっととんでもない展開になっちゃったりするんだろうなぁ、、、 などと、どうでもいいようなことを考えながら、それでもやっぱり、すっかり乗せられて、一気に読み切り、この後の展開のワクワク感を抱いたままに、何だったら他の本を読んじゃおうかなぁ、とか意地悪を考えながら、色々読みたい本があるんだよねぇ、、、 なのである。

どうしてか、橋本治の後には、頭の中の理論展開を、そのまま書き記したい激しい衝動に襲駆られる。特に、難解な『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』などを読んでしまったら、混乱から抜け出すのに、やっぱり時間が必要でもあろう。


2007年6月には、文庫本(新潮文庫)になるらしい!?
人気の小説家なのでしょう。
ちなみに、著者は1971年生まれ、私とほぼ同じ年齢である。









「子どもの隣り -灰谷健次郎」読みました。5


子どもの隣り
著者: 灰谷健次郎
文庫: 191ページ
出版社: 角川書店 (1998/04)




「やっぱり夫婦は赤の他人か」
「ママが死んだとき、パパはかなしかった?」

  〜本文より抜粋〜


言葉が、只の文字の列(?!)が、これほどの痛みを有して心に突き刺さるこの驚き、それでも心地好い、灰谷健次郎の魅力。
何処までも自然に、何も飾ることも隠すこと無く、全てが曝け出される。
人間が深層の部分に有して、恥ずかしい、カッコ悪いから、表に出すことなく隠している本質の部分を、だからこそ敢えて、時に純真無垢な子どもの姿を借りて、残酷なまでにストレートな言葉によってに放たれる真理。 人間がいかにちっぽっけで、どうしようもない存在であるのか、激しく思い知らされる。 正直辛い。 時に込み上げる涙。

「わたしの出会った子どもたち」、「兎の眼」に続いて、久し振りに手にすることとなった訳ではあるが、、、
先週目にした時には、手にすることがなかった。 手にしたくなかった。 手にすることが怖かった。 私が壊れてしまいそうな気がしたから? 受容れる態勢になかった?
それでもやはり気になっていたのであろう。 手にしてしまった。 ある意味、その必然があるのであろう。 心の準備を整える。
そう、準備が必要なのである。
それ位、衝撃は激しく、体力も精神も消耗する。

今、私の頭には、本多孝好の『正義のミカタ 〜I'maloser〜』が渦巻いている。
世の中的に見ると、『loser』、俗に言う、『負け馬』(⇔gainer)に分類されるのかもしれない。 まぁ、俗に言う必要も、分類する必要も無く、比較するものでも無い、絶対的に揺るぎ無い信念であり、普遍の真理でもあろうが・・・

そんなことを考えつつ、
物語では、病に臥し、病院に入院する場面が描かれる。
「病いは、「死」に至る経過点のひとつとしても位置付けされるのであろうか。 そしてまた、目前に迫る「死」の恐怖に、人間の本質も垣間見ることができる?!

私は、入院中の恩師を見舞う。
私が見舞う必要とその意義に、頭を悩ます。
見舞うというひとつの行為に垣間見える物事。
「死顔」の吉村昭は、見舞われる者の負担に触れている。 患者は入院の必要に迫られ、ある意味では弱っている。 その弱っている姿を見られたくないという思いもあるであろう。 弱った、ある意味では恥ずかしい姿を見せたくないとの思いから、無理をして健気に振舞い、体力を消耗することもあろう。 患者に家族がいれば、家族の想いも負担もあろう。
それでも、そこまで理解したうえで見舞う意義と、その必要と。
私の”自己満足”になっていないのか?
悩みは尽きない。
何よりも患者本人、その家族の痛み、辛さは、当事者にしか分かり得ない。
何もできないもどかしさ。
それすらも”おごり”ではあるまいか?

私という存在自体すら、深く考えさせられる。








「正義のミカタ 〜I’maloser〜 -本多孝好」読みました。5


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「不公平だ」
僕は口に出して言ってみた。


真夜中の五分前」で直木賞の候補にもなり、ミステリーや恋愛を中心に描いてきた「本多孝好」の新境地の王道青春小説、5月下旬発売予定とある。

参加させていただいている「本が好き!プロジェクト」より献本いただいた作品で、手にした直後より、まさに寝食を忘れて、413ページを一気に読了してしまった。
あまりの興奮に、深夜にそのまま書評を書き始めることを考えるも、逸る心を抑えて一晩クールダウンさせてからじっくり熟成の後に書き記すこととした。
それなりの年齢を重ねていると自負している私としては、この著作が5月下旬に発売予定であることから、私個人のブログ上の戯言とはいえ、書き記すことに不思議な緊張感すら身に覚えている。

著者は、1971年生まれとある。 私とほぼ同じ年数の人生経験を重ねている、年数的には。
35〜36歳の男(著者)が、18歳の人間(主人公ら登場人物)を描くときに想定される物語を想像する。
自らが18歳だった頃に、考えていたこと、その行動。 現在の私(37歳)が振り返る、18歳の頃の自分自身。
そこには、15年以上の人生経験年数が積み上げられていて、その分のアドバンテージが存在していて、積み上げられた経験の分だけ分析や解析や考察を重ねることができて、冷静な理解や見解による自らの哲学的な経験則や理論の下に、いい意味でのメッセージを織り込むことができる。
そのメッセージは、書き記した者(著者)の思惑通りの結果をもたらすことは稀なことであり、それでも数多くの幅広く世間に読者に語ることにより、またそれが語られることにより、様々な効果をもたらすことになる。 当然に私自身においても、圧倒的に不足していると自負している青春時代の経験を、その時期に経験すべき身を呈してぶつかり傷付いて痛みを感じて乗り越えることを避けてきてしまった後悔の念、しかし決して時間を巻き戻すことができない現実、今からでも取り戻したい、今からでも避けることなくどんな辱めも痛みも甘んじて受容れたい、そしてまともな人間に近付きたいと、切望しているのである。 その積み上げるべき経験のひとつとして、ジャンルを問わず幅広く文学に触れたい。 自らの人生経験と重ね合わせたときに、垣間見える人間の深層心理の普遍の真理。
私が青春小説を愛し、好んで手にする理由のひとつでもあろう。


物語は、超ド級のいじめられっ子の18歳の少年が、新しい大学生活の一歩を踏み出す春の場面から幕を開ける。
いじめられていじめられて、体にも心にも深い傷を受けて痛みを感じて、だからこそ理解できる他人の痛み。
生きている人間であれば、誰もが必ずその胸の内に抱えている悩みがある。 悩みを有していない人間は存在しないのであって、その悩みが大きいか小さいか、表面に出すか出さないか、ただただそれだけでしかない。
母親も父親も妹も、いじめを受けていることを薄々感じながらも、自らが生きることで精一杯。 母親は、夕方から深夜までのパートは生活のために仕方なくやっていて、くだらない上司に苛められて辟易している。 父親もいい歳して花見の場所取りを押し付けられる出向社員で、主任になったかと思えば、派遣社員の首切りの伝達役(派遣社員もいい大人で生活が懸かっていて、一家の主だったりする訳で、圧倒的に切ない)まで押し付けられている。 そんな中流以下の、考えようによってはワーキングプア的な家庭の現実。 そしてその血(?!)が脈々と受け継がれてしまう宿命の呪縛。
登場する人物が、全員が全員、何かしらの心の痛みを抱えていて、それでも当然に普通(?!)に日常生活を送っている訳で、現実の社会でも然り。
人間は表現することができて、それは自らが自らの意思でコントロールすることができて、だから敢えて、ある意味では偽りの自分自身をも表現しているという事実を否定できない。 自らがその部分を恥ずかしいと否定的に感じていて、それが故に隠したいという本能の下に、演じられて表現される自分自身。
虚勢を張っている人が、本当に強いのか、それとも自らの弱さを、その弱さを自認しているからこそ、強く見せるために虚勢を張っているのか?!

そしてまた一方では、本質を見ること無く、表面に捉われた見方による判断をされてしまうケースもあるであろう。
主人公の少年が好意を寄せる少女は、とっても可憐で華があって、街を歩いていても男たちは振り返る。 そんな彼女だって、高校時代には改造した50ccの原チャリを特攻服を着て乗り回す片田舎のヤンキーのいじめっ子で、帰省した時に、いじめていた子が明るく振舞うバイト先で、心に痛みを受けている。 彼女の父親は、典型的なガチガチ堅物公務員だったりする。 いじめを受ける側だけでなく、いじめをする側にも、それなりにその胸の内に歪みを有していて、その歪みに起因して、その心の内から変な形で噴出す行動が、いじめだったりする側面もあろう。 とはいえ、如何なる要因があろうが、いじめという行為は、決して許される行為ではないが、それでもそれさえも、その必然に応じて、ある意味ではそれによって微妙なバランスが取れているという側面も否定できない。 不公平や不平等ではあるけれども、それさえもが必要とされてしまう現実。
部の先輩女性も、美人で頭脳明晰にして正義感の塊(かたまり)で、とっても男気のある女性なんだけど、ナイスバディ(?!)の持ち主。 男どもが、まずは、美しい顔立ちとナイスバディを目で嘗め回し(?!何と表現してよいのやら??)、でれっとするのが癪に障って、それ故に、劣等感とは異なるのであろうが、憤りを感じている。 周囲が羨ましく思う部分(パーツ)も、当事者にしてみれば悩みの種であり、それによる拘束を受ける事実も否定できない。 美しいものには美しいのもなりの、美しくないものには美しくないものなりの、無いものには無いものなりの、有するものには有するものなりの悩みがある。

と、まぁ、色々と考えていくと、何が本当で、何が本心であるのか、全くもって分からなくなる。 下手をすると、本人すら分かり得ないことの方が多いのかもしれない。
であるならば、当事者以外の他人が、その人間の深層心理の本質を正確に理解することは、不可能であると思える。 相手のことを全てを理解し得る状況を想像すると、何か末恐ろしい気もする、、、
相手のことを理解し得ない者が、相手のその行動に起因する深層部分での状況や背景まで含めた本質を理解し得ていない者が、その行為に対する判断を下すことができるのであろうか?
このテーマについては、楡周平『陪審法廷』においても、深く考えさせられた。 人間が、人間を裁く。 私は他人を裁く権利を有するのであろうか?

そして今回の『正義の味方』である。
何が『正義』であり、何が正しくて、何が正しくないのか、誰がそれを判断し、何を根拠に、何処までの理解をもってして判断を下されるのか?



何時からか私は、それが正しいのか正しくないのかを判断することを放棄した。

人間の行動は、全てが何らかの必然に導かれて起こされている。
既に起こされた行動は、結果でしかない。 決してそれを覆すことができない。 誰であろうと、どのような手段を駆使しようとも。
覆すことができず、何らかの必然に導かれて、既に過去のものとして引き起こされてしまった行動。 その行動を咎めることに何の意味があろうか?
それでも、自らが引き起こした行為に対する責任を逃れることは許されない。 引き起こした行動の全ての責任は、必ず自らが果たすべきものである。 既に起こしてしまった行動の責任は、ある意味では、その責任さえ果たせばいいのである。
人間は過ちを犯す生き物であり、誰しもがその危険性や可能性を有している。
そう考えるに、私は善悪の判断を下すことに意義を感じないのである。

それでも、そこに意義を感じて、冷静に公正に判断を下すことができる人間が存在しなければ、正常な世界が成立しない。


『正義の味方』は、この世の中に、絶対的に必要だけど、
それでも私は、敢えて『loser』を選択する。









「兎の眼 -灰谷健次郎」読みました。5


兎の眼
著者: 灰谷健次郎
文庫: 339ページ
出版社: 角川書店 (1998/03)



ん〜、感動しました! 泣きました!!

先日(11月23日)、72歳でお亡くなりになられた、児童文学作家「灰谷 健次郎」、昭和49年刊行の小説です。
友人に薦められて、初めて知ることになったわけですが、ずっぽし、どっぷりはまってます(笑)!

「ぼくは心がずんとした。」
私は、朝の通勤電車の中でも、眼をウルウルさせ、そして溢れてしまう涙を抑えることができませんでした。
私の心は、痛みでいっぱいです。
痛くて痛くて、仕方がありません。
しかし私は、その痛みを、常に私自身の心の中に留めておきたい、刻み込みたいと思うのです。

私が無意識のうちに、また私の無知が故に傷付けてきた、そして傷付けている多くの人々に、詫びて許しを乞えるものならば、今すぐにでも頭を下げたい。
しかし、いくら詫びて頭を下げたとしても、一度傷付いてしまったもの、そして一度傷付けられた心は、二度と元に戻ることは無い。
であるならば、結果として「詫びる」と言う行為自体が、自己満足であり、自慰行為であり、相手の心を無視して、さらに相手を深く傷付けてしまうことにもなりかねない。

バクじいさん、教員ヤクザ足立先生のような、大きな優しい人間になりたい・・・

「わたしの出会った子どもたち -灰谷健次郎」読みました。5


わたしの出会った子どもたち
著者: 灰谷 健次郎
文庫: 281ページ
出版社: 角川書店 (1998/06)



先日亡くなられた「灰谷 健次郎」の、昭和56年に刊行された、「兎の眼」「太陽の子(てだのふぁ)」の作者の自己形成史と位置付けされる作品です。

友人が自身のブログ上で推奨していたので、何も考えずに手に取りましたが・・・
激しく落ち込んでいます。
電車の中で、溢れそうになる涙と嗚咽を堪えるのに苦慮しました。
叩きのめされて、混乱から抜け出せずにいます。
痛みを伴うような苦しみを感じています。
言葉を失っています。


肝苦りさ(ちむぐりさ)』 ・・・ 古くからの沖縄の言葉には、”かわいそう”といった同情的な表現はない。 他人の苦しみに対して、それを分かち合うニュアンスを持つ「肝苦りさ」(胸が痛い)という表現をつかう。


何よりも「やさしさ」をもちたい・・・

「手紙 -東野圭吾」読みました。5


手紙
著者: 東野圭吾
文庫: 428ページ
出版社: 文藝春秋 (2006/10)



映画「手紙」の公開が待ち遠しくて、文庫本を買っちゃいました(笑)!
(図書館の予約は、52人待ちでした・・・)
ちょっと前まで、ハードでヘビーな本(Shot in the Heart)に苦戦(?!)していたため、気軽に手にした作品でしたが・・・
いや〜、引き込まれてしまいました(笑)
とんでもなく、ヘビーな作品でした!!
そして、泣けます!!

「東野 圭吾」、読み易くて(笑)、真面目(?!)に丁寧に描かれていて、さすが「直木賞」作家、他の作品を手にしたくなりました!

映画が楽しみです!!
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