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〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

*ま 行の作家

本「午後の曳航 (新潮文庫)」三島由紀夫5

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午後の曳航 (新潮文庫)

○著者: 三島由紀夫
○出版: 新潮社 (1968/7 発行;1990/12 54刷改版;2005/11 70刷,文庫 181ページ)
○価格: 380円
○ISBN: 978-4101050157


十三歳の少年の自分(黒田登)、十三歳の首領。
「彼らは危険の定義がわかっていないんだ。危険とは、実体的な世界がちょっと傷つき、ちょっと血が流れ、新聞が大さわぎで書き立てることだと思っている。それが何だというんだ。本当の危険とは、生きているというそのことの他にはありゃしない。生きているということは存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を餌にして、一瞬毎に存在を造り変えようという本当にイカれた仕事なんだからな。こんな危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安というものはないのに、生きることがそれを作り出すんだ。社会はもともと無意味な、男女混浴のローマ風呂だしな。学校はその雛型だし……。それで僕たちは、たえず命令されている。盲らどもが僕たちに命令するんだ。奴らが僕たちの無限の能力をボロボロにしてしまうんだ」  (P.51)
刑法第四十一条、十四歳ニ満タザル者ノ行為ハ之ヲ罰セズ。  (P.159)
・・・
きくうちにみんなも笑わなくなった。事態の重大なことがだんだん呑み込めてきたからだ。彼らはそこに、自分たちの共通の夢の帰結と、おぞましい未来を読んだ。この世界には究極的に何事も起こらないのかもしれぬ!  (P.130)


≪目次: ≫
午後の曳航(えいこう)
第一部 夏
第二部 冬

解説 田中美代子(昭和四十三年七月、文芸評論家)

*この作品は昭和三十八年九月講談社より刊行された。


≪著者: ≫ 三島由紀夫 Mishima Yukio (1925-1970) 東京生れ。本名、平岡公威。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。


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本「川端康成・三島由紀夫 往復書簡 (新潮文庫)」川端康成・三島由紀夫5

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川端康成・三島由紀夫 往復書簡 (新潮文庫)

○著者: 川端康成三島由紀夫
○出版: 新潮社 (2000/10,文庫 254ページ)
○価格: 460円
○ISBN: 978-4101001265


・・・
ここ下田に十六日までゐて、十七日には、又自衛隊へ戻り、二十三日迄自衛隊にゐて、新入会員学生の一ケ月の訓練の成果に立ち会ふ予定であります。ここ四年ばかり、人から笑はれながら、小生はひたすら一九七〇年に向つて、少しづつ準備を整へてまゐりました。あんまり悲壮に思はれるのはイヤですから、漫画のネタで結構なのですが、小生としては、こんな真剣に実際運動に、体と頭と金をつぎ込んで来たことははじめてです。一九七〇年はつまらぬ幻想にすぎぬかもしれません。しかし、百万分の一でも、幻想でないものに賭けてゐるつもりではじめたのです。十一月三日のパレード(*「楯の会」結成一周年記念パレードを国立劇場屋上で挙行。)には、ぜひ御臨席賜はりたいと存じます。

ますますバカなことを言ふとお笑ひでせうが、小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。小生にもしものことがあったら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろひ出し、不名誉でメチヤクチヤにしてしまふやうに思はれるのです。生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護って下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら便(ママ)りにさせていただいてをります。
・・・  (P.199、昭和四十四年八月四日付 下田東急ホテル内三島由紀夫より鎌倉市長谷二六四あて)



≪目次: ≫

はじめに/佐伯彰一

川端康成三島由紀夫 往復書簡

恐るべき計画家・三島由紀夫――魂の対話を読み解く  対談 佐伯彰一川端香男里
往復書簡の系譜/早くも浮かび上がる三島・川端的宇宙空間/深まってゆく師弟関係/文学者、三島由紀夫へ/死の前年、自決を予告した手紙/最後の手紙はもう一通あった

一九六一年度ノーベル文学賞に川端康成を推薦する 三島由紀夫(署名)、佐伯彰一 訳

略年譜  川端康成・三島由紀夫


*この作品は一九九七年十二月新潮社より刊行された。


川端康成 Kawabata Yasunari (1899-1972) 1899(明治32)年、大阪生れ。東京帝国大学国文学科卒業。一高時代の1918(大正7)年の秋に初めて伊豆へ旅行、旅芸人の一行と知り合う。以降約10年間毎年、伊豆湯ヶ島湯本館に長期滞在する。菊池寛の了解を得て1921年、第六次「新思潮」を発刊。新感覚派作家として独自の文学を貫いた。1968(昭和43)年ノーベル文学賞受賞。1972年4月16日、逗子の仕事部屋でガス自殺を遂げた。著書に『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『山の音』『眠れる美女』など多数。

三島由紀夫 Mishima Yukio (1925-1970) 東京生れ。本名、平岡公威。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。


日本大通




本「三島由紀夫 (ちくま日本文学)」三島由紀夫5

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三島由紀夫 (ちくま日本文学)
著者: 三島由紀夫
出版: 筑摩書房 (2008/2/6,文庫本 480ページ)
価格: 924円




三島由紀夫が自決をしたのが1970年(昭和45年)11月25日で、その年の1月にぼくは生まれた。
ぼくが三島由紀夫を意識したのは、橋本治「「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮社,2002.1、新潮文庫,2005.10)」からであり、それまでは、ただ“三島由紀夫という名前を知っている”だけだった。といっても、その橋本治の論説によって、“三島由紀夫の存在(名前だけでなく)を知った”に過ぎず、“機会があれば理解を深めたい”と興味を覚えたのであって、しかし実際に三島由紀夫の著作を手にしたのは、実にその1年後、「恋の都 (ちくま文庫,2008,4)」であり、1954年に「主婦の友」に連載された小説だった。そして、本作(ちくま日本文学シリーズ)が、ぼくにとっての三島由紀夫 2作目。いわゆる代表作のひとつをも読むことなくしては、どうにも語りえない。

「一番ききたいことはね、……先生はいつ死ぬんですか」
この質問は私の肺腑を刺した。
(中略)
しかし少年の質問の矢は私に刺さったままで、やがて傷口が化膿をした。 (P.448「独楽」)



≪目次: ≫
海と夕焼 (昭和30年1月)「花ざかりの森・憂国 (新潮文庫)」
中世 (昭和20年2月)「三島由紀夫全集第1巻 (新潮社)」
夜の仕度 (昭和22年8月)「三島由紀夫全集第1巻 (新潮社)」
家族合せ (昭和23年4月)「三島由紀夫全集第2巻 (新潮社)」
幸福という病気の療法 (昭和24年1月)「三島由紀夫全集第3巻 (新潮社)」
真珠 (昭和38年1月)「三島由紀夫全集第13巻 (新潮社)」
三原色 (昭和30年8月)「三島由紀夫全集第21巻 (新潮社)」
喜びの琴 (昭和39年2月)「三島由紀夫全集第23巻 (新潮社)」
私の遍歴時代 抄 (昭和38年1〜5月)「三島由紀夫全集第30巻 (新潮社)」
終末感からの出発 −昭和二十年の自画像 (昭和30年8月)「三島由紀夫全集第27巻 (新潮社)」
わが魅せられたるもの (昭和31年4月)「三島由紀夫全集第27巻 (新潮社)」
不道徳教育講座より (昭和33年7月〜昭和34年11月)「不道徳教育講座 (角川文庫)」
人に迷惑をかけて死ぬべし
文弱柔和を旨とすべし
告白するなかれ
独楽 (昭和45年9月)「三島由紀夫全集第34巻 (新潮社)」
 
わが友ミシマ −解説:森 毅 (1928- )


≪著者: ≫ 三島由紀夫(1925-1970) 本名 平岡公威。東京・四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。


み〜つけた♪
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本「恋の都 (ちくま文庫)」三島由紀夫5

本「恋の都」三島由紀夫
恋の都 (ちくま文庫)
著者: 三島由紀夫
文庫: 314ページ
出版社: 筑摩書房 (2008/4/9)




ぼくにとっての三島由紀夫 (1925.1.14-1970.11.25)とは、橋本治 (1948- )で、つまりは論説「「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮社,2002.1、新潮文庫,2005.10)」である。と言ってしまうぼくにとっての三島由紀夫デビューとなる本作「恋の都 (1954)」は、どこを探しても見つからない!?、どうやら『主婦の友』の連載小説で、「決定版 三島由紀夫全集 4 (新潮社,2001.3)」をテクストに、文庫化。文庫化にあたって、改められた現代仮名づかいは、本来的には趣が削がれてしまうのであろうけれども、正直読み易くてありがたい。
手にしたキッカケにいたっては、同じくちくま文庫から再文庫化された、橋本治「貞女への道 (2008.2)」で、こちらも、主婦の友社から、1987年に刊行された著作だった。
こうした新たな文庫化は、今あらためて読んでおきたい著作に触れる好機。

しかし、三島由紀夫のへヴィーな、ガツンとくるやつ!?、を欲していたぼくは、すっかり肩すかし。26歳の女性の恋の物語は、女性読者を対象として、女性の立場や心情を深く想像するまなざしで描かれる。

そこに今、あらたに文庫化された狙いがあるのであろうか?!、すでに三島由紀夫を精しく知るベテラン読者よりも、むしろ、これから「三島由紀夫とか、読んでみようかしら?!」というような、若い人(女性?!)が読んで愉しいと思ったのかどうなのか、ぼくはすでに若くもなければ、何よりも三島由紀夫の著作を初めて読むのであり、語るに値しない。


Yellow
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本「脳と日本人」松岡正剛、茂木健一郎5


脳と日本人
著者: 松岡正剛、茂木健一郎
単行本: 225ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/12)




茂木健一郎の著作を探していて、「何だか知らない人(ただただぼくが無知なだけ)との共著だから」という理由で、実は一度パスしていた。
そんな時に、池田晶子14歳からの哲学(トランスビュー,2003.3)」であり、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」と、10代の多感な、その後の人生を方向付ける大切な時期にこそ、真剣に伝えたい真実のメッセージ♪、穢れを知らない若者だから、知識も経験も少なくて、人間的にも未成熟だからこそ、決して多くを語らず、大切なことだけ、理解し易く噛み砕いて。そう、ぼくは既に38歳だけれども、10代の時を振り返ると、自らの不勉強から、このような素晴らしい本との出会いを経ていない。20代の時にも勿論。38歳にして出会って、「あっ、ぼくはこの辺(10代)のレベルから始めた方がいいかも!?」と思った。そう思ったぼくは、「11歳の我が娘のための」などと言いながら、10代の若者に向けた著作を真剣に読み解く。自らのために。自ら乗り越えることをせずに来てしまった時間を取り戻すべく。
で、目に留まったのが、松岡正剛17歳のための世界と日本の見方(春秋社,2006/12)」、全363ページもある著作で、未知との遭遇。むふふふ「初めての経験は、やっぱり怖いんでちゅぅ〜♪」と臆病風を吹かしていたら、「ん?!、そう言えば確か」と記憶が蠢き出しちゃう不思議。「ぼくが既に知っている“茂木健一郎”との対話を愉しんだ後に判断しよう」と。

2006年11月12日と13日の2日間にわたって“二期倶楽部(栃木県那須町)”にて行われた対談の書籍化。
そう、対談の書籍化といえば、池谷裕二、糸井重里「海馬(新潮文庫,2005.6)」の、凸凹ぶりに目覚めてしまった興味、異分野のプロフェッショナル同士の巧みな絡みによって、思いがけず飛び出す知識の果てしない増幅!、ワクワクドキドキ、なるほどなるほど♪
で、そんな対談の舞台、秋の那須、「嫁に食わすな!」は秋茄子!?、挿し込まれる写真がまたまた味わい深い。煉瓦組みの暖炉、秋の穏やかな陽射しを受けた那須の森、紅葉。いい〜♪
[松岡] ありがとう(笑)。スタンド・アローンにはじまって、ニューロンの話をして、国民国家をめぐって、気がつくと伊勢神宮の話から「真水」になっていたというのは、ぼくにとって久々のことでしたよ。
[茂木] ぼくも、松岡さんと一緒にずいぶん遠くまで漂流して、それから自分の一番大切な場所に新たな気持ちで還って来たように思います。 (P223)
ホントに愉しそうな語らい。1944年生まれの松岡正剛と、1962年生まれの茂木健一郎には、18もの年齢差。専門分野だって異なるのだから、ピッタリ噛み合うどころか、何処までも果てしがなく展開される話題。僅かな関連性から見出されて飛び出す話題が、さらに互いの興味を刺激する。うっ、羨ましい、カッコいい♪、あんなに対話を展開させることができたら、そりゃぁ〜愉しかろう。紅葉する穏やかな秋の陽射しの下で、重厚な煉瓦造りの暖炉の前で、、、
[茂木] 毒って、体内に取り込むと、吹き出物とかになって外に出てきますよね。もともといらないものが出てくるわけですね。人間にとっては、二酸化炭素などもそうですね。だから、創造という現象も、毒出しというか、排泄という観点からみると面白い。脳の神経系による「毒出し」の行為が、すなわち創造でもあると。
[松岡] その通りでしょう。
[茂木] たとえば、こうやって話すと楽になりますよね。楽になるというのは、自分にとってやっかいなものを排出しているからかもしれない。普通、コミュニケーションというのは気楽なものだと思われているけれども、実は、毒出しかもしれない。
[松岡] お互いに毒を出させあっていたりして(笑)。
 (P.135)

≪目次: ≫
 第一章 世界知を引き受ける
 第二章 異質性礼賛
 第三章 科学はなぜあきらめないか
 第四章 普遍性をめぐって
 第五章 日本という方法
 第六章 毒と闇
 第七章 国家とは何ものか
 第八章 ダーウィニズムと伊勢神宮
 第九章 新しい関係の発見へ








本「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦5


夜は短し歩けよ乙女
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書評/国内純文学



純愛物語、青春恋愛小説 森見登美彦バージョン。
そう、”本が好き!PJ”でも、2/1受付開始にて献本されていた。その後、2007年4月 本屋大賞第二位、5月 第20回山本周五郎賞受賞、7月 第137回直木賞候補と、何かと話題になった作品。
直近の9月には、新作「有頂天家族」が刊行され、Amazonでは、何と12レビューが、全てオール星5つの高評価。人気の程が窺える。

黒髪の乙女への純愛を画策する男子大学生。
若者男子ならば、恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ弾ける若さと勢いで、真っ正面から猛烈アタック!
とは行けない若者だっている訳です。自分自身の身の程を知れば知るほどに、未熟さ、経験不足、で、愛とは?!
突き詰めていくと、
”私は性欲に流される、私は世の風潮に抗えない、私は一人の淋しさに耐えられない―”(P.294)
に尽きてしまう。
伝えたい想い、伝えることができない想い、気付いて欲しい、募る想いは、あくまでも偶然を装って、憧れの乙女の記憶に入り込みたい。「奇遇ですね」、とサラリと言い退ける心中は穏やかではないけれども、だからといって、他に何が言えようか。
二人を巡る仲間たちとの騒動の中、乙女の心に変化が顕れ、いつしか・・・
何とも、奇妙な展開の馬鹿馬鹿しさ。
日本の古都、京都を舞台に繰り広げられる、奥ゆかしき若者の、男女の清い純愛。想いのストレートさに反して、とっても回りくどい作戦は、当然に予想通りにいかないことの方が多い。思いもよらぬ馬鹿馬鹿しい展開に、気が付けば、運命の糸が手繰り寄せられ、、、

ごちそうさま。








本「風が強く吹いている」三浦 しをん5


風が強く吹いている
著者: 三浦 しをん
単行本: 512ページ
出版社: 新潮社 (2006/9/21)



ご存知、直木賞作家 三浦しをんが、箱根駅伝を走る、十人の男の子たちを描く、熱い熱い青春小説。
駅伝”が、たすきをつなぐ団体競技であり、一方では、長距離をただただ己の肉体を駆使して走る、原始的でシンプルな競技。走ることの速さだけでなく、強さをも求められる。むしろ、速いことよりも、強いことが求められる厳しい世界。
長い距離を、長い時間をかけて走るという行為の最中に巡る想い。同じ場面を走っている競争相手。たすきをつないで、共に走り抜く仲間。応援して、支えてくれる人々。自らとの対峙。

十人がそれぞれに個性を有したひとりの人間であり、だからこそ、それぞれに異なる想い、境遇。能力や素質だって絶対的に異なる。双子の兄弟だって、どんなに容姿や性格が似ていても、絶対的に異なる存在。完全な一致は有り得ない。

だから、十人の組織としての統制が、自主性に任せられて、強制されることなく、上手く機能する。マネジメントに長けたリーダーの、気配りや心遣いがあって、強固に結びつく関係、高まる士気。
ところが一方では、これが十人の組織ではなくって、勝利を義務付けられた巨大エリート集団だと、なかなかそうはいかない。大勢の人間が集まれば、それぞれの自由は制限される。エリートは、様々な視線に常に晒されて、自由奔放は許されない。


ところで、美しく描かれすぎている感がある”男の子”。
スポーツで鍛え抜かれた体躯から発する汗も、まるで甘いフルーツのような匂いが漂う。スマートに美しく、爽やかに。
異なる姓に対する憧れや、願望、想い。
だから(?!)物語として、面白くもあったりする。









本「言の葉摘み」宮沢和史5


言の葉摘み
著者: 宮沢和史
単行本: 235ページ
出版社: 新潮社 (2006/8/24)



宮沢和史(みやざわ かずふみ,1966.1.18-)は、ロックバンド”THE BOOM”のボーカリスト、シンガーソングライター。世界中を旅し、世界中で歌う。
アーティストとしての実績。音楽で世界中の多くの人を魅了する。
沖縄出身じゃない”宮沢和史”の大ヒット曲”島唄”。沖縄県糸満市にある慰霊碑”ひめゆりの塔”、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴する場所で受けたインスピレーションから書き上げた歌。1992年の発表から、長きに亘り、世界中の多くの人々に愛され続ける、日本のスタンダードソング。世界中の人々の涙を感動を誘う名曲。

日本は経済的に豊かな国に部類される。世界には、日々の生活にも困窮する多くの人々が存在する。豊かな日本は、島国だから、隣国との直接的な交渉も、陸続きで行われることが無い特殊な国家。原則的には、単一民族で構成される特異性。
江戸時代に鎖国していたように、豊かさ故に、異国との交易を図ることなくして、充分に経済は成立する。大変な思いをして、わざわざ外国に行って、何かを求める必要が無い。そんなことをしなくても、充分な豊かさを満喫できる。むしろ、日本国内に留まる方が、経済的な豊かさを享受できる。
経済的な側面から考えると、音楽で世界に挑戦するメリットは少ない。文化、言語が異なれば、受け入れられる可能性は限りなく低い。異国の、異民族の文化を受け入れて、真似てみたところで、マイノリティー(社会的少数者)としての壁。それは人間の自然な本能的な反応だから仕方が無いのだけれども、だからこそ文化は護られるのだけれども、豊かな日本で受け入れられて収めた成功が、異国でも受け入れられる保証は無い。負け戦は、しない方がいい。当然の心理。
宮沢和史は、インスピレーションに素直に従った。それだけの度量があった。飽くなき探求心。自然に、導かれるがままに。
それでも、弛まぬ努力と、自らを信じる強い意志、音楽への熱い想い、生真面目さ、いずれが欠けていても成し得なかった偉業。異国での音楽的成功、多くの人々の支持。

一方、その言葉に、軽さを感じない訳でもない。マスメディアに踊らされた軽薄さが垣間見えない訳でもない。日本の”歌手”(芸能人)に対する軽薄なイメージ。
様々な人々に贈るメッセージ。広く一般大衆に受け入れられるメッセージを贈る、ある意味では”責務”。若者に対するメッセージに、難解さは障壁ともなろう。若者の熱情を得て、どちらかといえば若者の未来に対するメッセージを意識する必要があり、若者が多くの支持を得られるマーケットでもあろう。

キューバブラジルシンガポールロシア、そしてアメリカ
それぞれの国の、リアルな現実を、目で、足で、鼻で、耳で、肌で感じた、その上で語られる”言葉”。
自らの興味の探究、行動、表現。









本「スコーレNo.4」宮下奈都5


スコーレNo.4
著者: 宮下奈都
単行本: 267ページ
出版社: 光文社 (2007/1/20)



ご存知、注目の新人(?!)作家 宮下奈都(みやした なつ,1967年生まれ)の初単行本、書き下ろし長篇恋愛小説。

恋愛が、付き合い始めのワクワクドキドキする時期が、やっぱりクライマックスなんだなぁ、、、とあらためて実感、などと嘯く。
クライマックスに向けた物語を紡ぐ、過去の記憶の物語たち。クライマックスを自然に盛り立てるために必要とされるソースを素材を、じっくりじっくり熟成させて、なるほど、心地好く緩やかに氷解する。ひとつひとつの記憶の点が線が、意識的に適度に複雑に絡み合って深みを増す物語。直接的な言葉や説明は、絶対的に必要としない。まるで、おばあちゃんの存在のように。何も言わなくても、伝わる空気、存在感。それだけの経験を有しているが故に成し得る技。
物語には、当然に終りがある。終りが無ければ、物語として成立し得ない。人生における”終り”が、ひとつには”死”というものがあって、それ以外には継続し続ける。「うわぁ〜、終わったぁ〜」などと、善きに付け、悪しきに付け、叫んでみたところで、それは次のステップへ経過するひとつのポイントでしかない。人生が、いくつもの重要なポイントを経て、その経験を積み重ねて形作られていくものであり、それでも、そのひとつひとつの経験というポイントさえもが、あらかじめ宿命付けられた人生の必然であり、それはまた、この世に生まれ出た時から定められていて、もっと言ってしまえば、生まれ出る前の親の代、その前の代の血まで宿命の連鎖の呪縛に操られていたりしちゃう。どんなに嫌悪して、否定して、遠くに離れてみたところで、決して逃れることができない宿命。巡り廻って辿り着く。
だから、物語の幕開けは、解けない記憶の回想シーン。蔵。湿った土の匂い。薄暗い穴倉。
物語を、「どの時点から書き始めるかが最も重要」と、亡き小説家”吉村昭”は語っていた。クライマックスに導く組み立て(説明)を始めるポイントの設定を誤って、200枚以上の手書きの原稿用紙を燃やして、あらためて最初から書き直した、とまで。

だから、田舎の旧家の古道具屋(骨董品屋)を祖父の代から受け継いで営む父と母の下に生まれて、祖母と六人で暮らす大家族の、三人姉妹の長女の恋愛小説なんだけど、その少女の恋愛が成就して婚姻によって新たに家族が築かれる前までの、少女の物語であり、だからこそ、そこに色濃く漂う家族の親姉妹の、血族の宿命をも織り込まれる。成就することによって、物語としては終わりを迎える恋愛だって、それまでの幾人かの深く心の底に残る男の子たちとの記憶や経験がベースになっていて、それは、父と母の関係であったり、もっと遡って祖母と亡き祖父との関係であったりする。
そしてそして、学校教育を終えて就いた貿易会社で配属された靴屋。いきなり興味も何も無い世界に放り出されたって、困ってしまうところなんだけど、「そうそう、そういうものなんだよねぇ〜、人生って♪」などとほくそ笑む。

不自由な関係には、やっぱり無理がある。それでも、一度築かれた関係は、全て何らかの必然や意味を有する?!









本「世界人類がセックスレスでありますように」目黒条5


世界人類がセックスレスでありますように
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書評/国内純文学



本が好き!PJ”からの献本。
戯曲などの翻訳文筆を手掛けてきた、目黒条の、初小説作品。
オビに評される、
斬新な形式を駆使して現代社会を切り裂く異色の長篇小説”、
そして、
驚くべき新人女性作家が誕生した!
とまで。


彼は、烈しく恋愛したい衝動に駆られた。愛の無い生活など、生きる価値を有しない、絶対的に有り得ない。だから、恋愛しよう、誰しもが恋愛する権利を有しているハズだ、と。
彼は、かつて婚姻生活を営んでいた時期があった。かつてあった、のであって、現在は婚姻による共同生活を営んでいない、ひとりでの生活。彼は、依存心が強く、孤独に恐怖を抱き、世間体を必要以上に気にした。本能的に相手の反応を窺い、自らの確固たる意志を有することを放棄してきた。一方では、自らが確固たる意思を有しないことを悟られることを怖れ、傍若無人な態度で虚勢を張って、無意味に相手を威嚇する。だから、彼はどんなに互いの婚姻関係に破綻をきたしていても、決してそれを認めようとしなかったし、それでも関係を継続したいと強く望んだ。人間関係の構築を不得手とした彼には、会社と自宅以外に居場所は無かった。社会生活に対する順応性が低く、生活能力に劣る彼の、ある意味では、当然の成り行き。
それでも、恋愛がしたいと、烈しい衝動に駆られる彼は、ひとりの寂しさに苦痛を感じている。孤独に耐えられない。現実を逃避したい。人間関係の構築を不得手とする彼は、当然のことながら良好な友好関係を築く努力を、永年に亘り怠っている。異性の友人はおろか、同性の友人ひとりいない現実。
さて、誰が好き好んで、そんな彼との恋愛に勤しもうか?! 若かりし一時期には、何かのキッカケから、まさに運好く、恋愛関係を経て、婚姻関係まで構築することができたが、それとて相当な努力の賜物であり、費やした労力と時間は果てしなく大きかった。費やした労力と時間の結果として得られる関係。ホイホイと、気軽に手軽に築くことができる関係では無い。
であるならば、彼は何を求めているのであろう?! 人間関係の構築を不得手とし、しかも破綻させた経験を有し、自覚しているにも拘らず。また、関係を構築するには、相当の労力と時間を有することを理解してもいるハズ。
仮に、人間という動物の、オスとメスであり、生理的な本能の行為としてのセックスを求め、その相手を求めているのであるとするならば、それは適切に処理をされなければならない。生理的な本能に背いても、何の意義をも有しない。溜まったものは放出されて然るべき。対価を支払って処理すべし。太古より産業として成立している、人間の基本原理。


残念ながら、人間の心は不安定で、常に変化し続ける。ず〜っと変わらないことなど有り得ないし、変わらないことの方が不自然でもある。時間の経過とともに、年齢を重ね、状況は刻々と変化し続ける。変化に順応する必要がある。形成された人間関係だって、その関係は刻々と変わり続ける。当然に恋愛関係だって、当初の盛り上がりは、やがて関係の安定とともに落ち着きを見せる。当初の関係は、互いの状況が何も分からず、絶対的に不安定だから、互いの関係を安定させるための必死の努力を重ねる。その必死の努力が盛り上がりであり、ドキドキ感であり、理解の深まりとともに得られる安定によって、盛り上がりやドキドキ感は消え失せる。人間とは勝手な生き物で、ドキドキ感に苛まれている時には安定を求め、結果的に得られた安定に満足することなくドキドキ感を求める、圧倒的な矛盾。婚姻関係においても、何ら変わりは無い。歳月の経過とともに、関係が冷めることは避けられない。

戦後の急激な経済発展によって、コミュニティ(共同体)が失われてしまった現代の日本。核家族化であり、少子化の進行。総サラリーマン化による不在の父親。母親ひとりに委ねられる育児。学校教育の限界。
地域社会などの多くの人間関係の中から自然に身に付ける重要性。
セックスレスだって、婚姻関係だって、恋愛だって、とどのつまりは”人間関係”。


だから物語では、人間関係に苦悩する女性が、”セックスレス”という時流に乗った、分かり易い”手段”を用いて、いびつな人間関係を形成し、組織し、暴走する。
その現象としての”セックスレス”であり、形成される”組織”であり、”殺人事件”であり、登場人物の関連性が、都会の中流幼稚園に通う四〜五歳の子供を持つ母親(女性)だった。


著者のブログ”目黒 条(翻訳、文筆)の目









「四畳半神話大系 -森見登美彦」読みました。5


四畳半神話大系
著者: 森見 登美彦
単行本: 290ページ
出版社: 太田出版 (2004/12)




やっぱり”森見登美彦”は、スゴイ!

実は、久し振りの”森見登美彦”は、すっかり忘れていた公立図書館のWeb予約の準備完了メールから。独特の世界を、多彩で巧みな言葉たちを操って展開させる手法に、強い興味を抱き、単行本化されている著作「太陽の塔」、「きつねのはなし」、「新釈 走れメロス 他四篇」と、手にする度に深まる興味。それでも、人間は”忘れる”生き物であり、まぁ、それは一方では、だからこそ愉しく生きることができるのであろうが。
正直、300ページ弱の厚みのある著作で、ページに上下二段の、豊富な文字数に、軽い恐怖心を抱いた。たまたま、ここのところ、何冊か続いたリアルなビジネス書に惑い、個人的な情事から集中力を欠き、同時に図書館から準備完了の著作も500ページ近い著作であったこと、などなどが、重なったことに起因するのではあろうが。

そしてまた、物語の展開が、お得意の京都、大学生、不毛な青春、うら若き黒髪の乙女、、、
哀しいほどに、頭に入らない。それでも、「私は森見登美彦が好きなんだ! 畜生(!?)登美彦の世界を知りたいんだよ〜!?」、などと、自らとの闘いを挑み続け、ひたすら文字を追う。一方で、「だったら止めれば〜♪」、と囁く軟弱な自らとの闘いは、何とも面倒臭い自己満足の世界であり、きっと「だったら止めれば〜♪」が、圧倒的に正しい(?!)ことも承知しつつ。

であるから、ここからは”ネタばれ”になるのかな?!
物語が、タイトルにあるとおり”大系”として、四つに分かれていている。
京都大学三回生の春、”私”が振り返る二年間が、二つ目の物語で全く同じ始まり方をし、ほぼ同じ様な展開を見せ、似たシーンがフラッシュバックし、同じ結末を迎えた瞬間に感じた、軽い嫌悪感。正直に言っちゃうと、嫌悪感であり、違和感であり、を感じちゃった。それでも、同じような展開であろう三つ目の物語を、ほぼ予想通りに読み終えた瞬間に感じた期待感。
「さぁ、森見登美彦は、私にこれだけの根気を持たせて、これだけの文字数を読ませ、相当の時間を費やさせたということは、どれだけの”お愉しみ”を与えてくれるのであろう?!」、と。
何ともいやらしく、驕った考えであるが、心の底から、そう思った。この世の中は、ギブアンドテイクでしょ?!、選んだ私の自己責任は否定しないけれども、それでもやっぱり、提供したものの十分の一ぐらいは、せめて百分の一ぐらいは取り戻したい、それくらいの権利はあるでしょう!?、あ〜、面倒臭い奴♪


ワクワクしながら、物語を愉しんだ♪

流石に大満足とまではいかなかったけど、だって掛けた労力と同等以上の満足感を得ることができなかったから!?、「えっ、欲張り?!、さっき、十分の一でも、百分の一でも、って言ったじゃない?、人間の感情なんて、そんなものでしょう♪ コロコロコロコロ変わって、気紛れで。だから上手くいくことだって多いんじゃない♪?!」
で、映画の様な、映像が浮かび上がり、そして、ミステリーのように謎が謎を呼び、「あっ、なるほどね!、そういうことだったのね!!」、と紐解かれ、明らかにされる物語。

親友の”小津”との深い友情。若者(若い男)の、ある意味では、男女の愛より深い”愛”!?、絆、”青春”!
”四畳半”の美学。正方形の部屋の安定した空間。ひとりの居住空間としての正当性、決して広くはないけれど、必要最小限でありながら、身の丈に合った、支配可能な空間。四畳半の空間にに宿る哲学!?
占い師の予言。”コロッセオ”
黒い靄のような、蛾の大群。
「海底二万海里」
多分、表紙に描かれている?!可愛らしい「もちぐま」


小津は言い放つ、
「慰めるわけじゃないけど、あなたはどんな道を選んでも僕に会っていたと思う。直感的に分かります。それでいずれにしても、僕は全力を尽くしてあなたを駄目にしちゃうからね。運命に抗ってもしょうがないですよ」












 公式サイト(ブログ) 『この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ』 (http://d.hatena.ne.jp/Tomio/)

「きみはポラリス -三浦しをん」読みました。5


きみはポラリス
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書評/国内純文学



直木賞作家、三浦しをんが描く短篇小説集は、『ただならぬ恋愛小説!』とオビに表されている。

実は、三浦しをん、初読み!
1976年(昭和51年)9月23日生まれとあるから、現在30歳。
デビューが2000年4月とあるから、23歳の時。その就職活動の経験をもとにした小説を発表して以来、数多くの著作が生み出されている人気作家。人気が無ければ、多くの読者の支持が無ければ、需要が無ければ、これだけ多くの著作は出版されない。しかも、2006年7月には、名誉ある文学賞”第135回 直木賞”を受賞されたとなると、それだけ多くの幅広い人々の心を惹き付ける”何か”があるのであろう!?、と、大いに気になるも、今までは私には縁が無かった、ただただ無かった。
それだけに、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”の献本リストにピックアップされたときに、迷わず献本を申込み、きっと高倍率であったであろう抽選を勝ち抜いた時には、思わず小さなガッツポーズと、「神様が私にチャンスを与えてくれた・・・」などと、深い感慨に耽ったものである。それでも、当然に落選されてしまった方もいらっしゃる訳で、私如き人間が当選させていただいたことに、ある意味では申し訳無く想ってみたり、当選に浮かれる私自身の浅はかさを恥じてみたり、落選された方の無念さを想い、居た堪れない気分に陥ったりもするのではあるが、それでも、”全ては神様の思し召し”、などと開き直る。そう、私には縁があって、機会を与えられた、その必要があった、その必然に基づいて当然に与えられた権利で有り、それはまた与えられた義務でもあるのだ、と。この世の中は、バランスが保たれていて、得るものがあれば、一方では当然に失われるものがある訳で、得てばかりいることは有り得ない、一時的に得ることが多かったとしても、それはその瞬間を切り取った時に、その時は得ることが多かった、というだけであり、長期的に見た平均を採ってみると、どう考えたって得られたものの合計と、失われたものの合計は、ほぼ一致していたりする。それでも、人間は、ひとりひとりは、その自分自身の瞬間瞬間を一生懸命に生きているから、その瞬間にばかり目を向けてしまって、大きなものの見方ができなくなってしまって、日常の瑣末なことに、不平不満を漏らしてみたりもする。そんなことは、分かっているのに、なかなかそうは考えられなかったりする。何て身勝手な生き物なのであろうか。
私自身は無宗教であり、神様も、仏様も、守護天使さえも、その時の気分によって取捨選択している、全くもって失礼極まりない人間ではあるが、それでも、人生における必然であったり、宿命や運命みたいなものを信じていて、その自然な流れやお導きに、どっぷり身を委ねている私自身が在って、、、それ故に、『夜にあふれるもの』の真理子を笑えない。神憑りとでも言おうか、信じるものは救われるというか、その一途な想いと行動と。

著者”三浦しをん”像を探るために、Web上で検索すると、様々な評価があり、それは即ち、それだけの注目を浴びていることであり、人気があればこそ、嫉妬や羨望も生まれよう。
その中でも、幼少の頃からの”妄想癖”というか、”妄想”を得意とし、愉しんでいたとの記述に、大いなる興味を抱いた。
以下、バレバレのネタばれになるので、ご注意を!

例えば、『裏切らないこと』に登場する隣家の老夫婦は、実は姉弟だった。夫に裏切られ続けた母が、絶対にあなた(姉)を裏切ることが無い人、として産み落とした弟、互いにそれぞれの婚姻生活を送るものの、戦争という異常事態によって、互いが身内を失い、その結果として、導かれるように寄り添い合う姉弟。決して他人に話せる、褒められた行為ではないものの、それを誰が咎めることができようか?! 仮に近親相姦であるとしたとしても、仮に、母親なり姉なりが、夫であり父親である男の裏切りを受けていなければ、、、仮に、戦争という異常事態が発生することが無く、互いの婚姻生活が滞りなく継続していたならば、、、などなど、その仮にの偶然の連続技の、ほんの僅かな可能性の、その限りなく低い可能性の妙は、そこまで行くと、神憑りとかを超越しちゃって、”必然”になっちゃって、その善悪やら、そのこと自体を咎めることに、全く意味がなくなってしまう。それでも、その真偽は明らかにされそうになるものの明らかにされることはなく、明らかにされないから好いのでもある。真偽が明らかにされる必要が無いし、それは当事者以外の第三者の興味でしかなく、当事者にとってみれば、甚だ傍迷惑な第三者の、たかだか興味などに付き合う必要が無いのであるから。そしてまた実は、その驚愕の出来事は、この物語においては、あくまでも物語を盛り立てる、物語を構成するひとつの要素でしかないから。だって、この物語は、赤子の息子の男性器を口に含む、育児中の妻の行為を、偶然に見てしまった若い夫の、本来ならばその場で声を掛けて、笑い話で済まされちゃうところが、あまりの衝撃であり、日常の些細なすれ違いから生じた様々な偶然の積み重ねが、そこで感じてしまった肉親の血を分けた自分の最愛の息子に対する嫉妬であり、育児に専念するあまりに、夫に構ってくれない寂しさや孤独感、だからこそ感じてしまう息子に対する羨望であり、妻に対する不満が凝縮されていたりする。それでも、そんな血を分けた、契りを交わした一番身近な肉親に対する、そんな感情に、何処かで嫌悪感を感じている自分自身がいたりして、そんな自分自身を恥ずかしいと想ったりして、だからこそ、笑い話にできなくって、自らの心の内に抱え込んじゃうから、ますます、心の靄(もや)は晴れることなく、ますますの拡がりを見せる。当事者の妻に問い質せばいいのに、そんな自らの心の内に抱えた様々があるから、会社の同僚の育児を終えたパートの女性に聞いてみたりする。それでも、その彼女には娘しか居なくって、その感情が正しく明らかになることが無くって、ますます募る靄々に、婚姻生活に対する先行きの不安感まで生じてきちゃう。だから、妻の家族の、妻をひとりで育て上げた母の登場があったり、件の私の幼少の頃に隣家に住んでいた老夫婦の物語が登場しちゃう訳。それでも、この物語は、若い夫の視点で語られる物語だから、嫉妬や羨望に苦しみ揺れ動く心は、仮に夫婦という婚姻関係の契りが交わされていようが、子供という血縁関係があろうが、人間がそれぞれに独立した固有の心を有していて、その心が揺れ揺れに揺れて、何処か頼りなく、とっても不安定で儚くって、時折、嫉妬や羨望など、一般的には恥ずかしいから隠したい、と想うような感情を抱いてしまう、そんな存在でしかない、それでも、そんな存在だからこそ、互いに支え合って、共同生活を営む、みたいな。
『私たちがしたこと』では、高校生の時の彼氏が、いつもは家まで送ってくれるのに、その時だけ熱にうなされて、家まで送り届けることができなかった、その偶然にひとりで帰宅した夜の河原の土手で、中年のサラリーマン風の男にレイプされてしまいそうになって、何故か、何かを感じちゃったのか、熱をおして彼氏が駆け付けてくれて、それも物語だからといってしまえばそれまでなんだけれど、近くにあった鉄パイプで、怒りのあまり、勢い余って殴り殺してしまって、殺してしまった男を土手に穴を掘って埋めて、殺人のみならず死体遺棄まで犯罪行為を重ねちゃう。それはふたりの中で、ふたりだけの秘密であって、ふたりだけで秘密を共有しちゃっているから、特別な関係が出来上がっちゃうんだけれども、そのとっても特別な特異な極限状態の、興奮状態で、手を下した(人を殺めた)彼氏は当事者だから勿論のこと、彼氏をそんな状態に追い込んでしまった、という負い目とか感じちゃう私(彼女)の心の揺れ。彼氏としては、大丈夫だよ!、としか言えない。彼女の前では、絶対に不安を顔に出すことはできない。自分のためというよりも、自分以上に大切な彼女を、絶対に護らなければならない彼女を、彼女に辛い想いや、苦しみや不安を感じさせたくないから、、、だから離れることができなくって、それはそれは、お互いに辛いんだけれど、同じ学校に通っていたら、それは離れることの方が不自然で、卑怯で、逃げることになっちゃうから、彼氏は彼女を護り切らなければならなくって、、、彼女としたって、彼氏にしたって、不思議なバランスの下に保たれる不思議な関係。それでも、卒業を期に、音信不通になっちゃって、それでも時間が歳月が、その忌まわしい記憶を薄れさせ、それでも絶対に消え去ることが無い記憶だったりする。
『ペーパークラフト』では、浮気をしている夫の素行調査を依頼された高校時代の後輩が、頻繁に我が家を訪れ、我が子に渡すペーパークラフト。それでも妻は、”何か”を感じてしまって、自宅で肉体関係を結んでしまう、許せない、有り得ないけれど、それも現実!?
『森を歩く』では、経済能力が完全に欠落した、植物大好き探検男との恋愛。部屋に転がり込まれたって、同居したって、気が付いたら、何処かに行って何日も家を空ける。ある時、後を付けて行くんだけど、どう考えても現実離れしているけれども、それも現実!?
『春太の毎日』では、犬が主人公であり、犬の目線で、犬の口から語られちゃうから、人間との会話はどうしたっても成立し得ない。一方通行の、会話は会話にならないけれども、お互いがお互いを思い遣る気持ちは、やっぱり伝わる不思議。
時折、親の近しい肉親の不在が描かれる。時に、離婚であり、病死であり、不慮に死によって、片方または両方の親の愛情が欠落し、時に漂う憎しみすら感じたり、不遇とも言えたり、孤独であったりする、その人物像。人の死や、その不存在って、そこに在るべき存在が、不足している訳だから、不足しちゃって、欠落してしまった空間(穴)には、何かしらの埋め合わせみたいなものが必要で、その不存在を埋め合わせるものは、どうなんだろう、存在じゃないのかななどと安直に考えつつも、やっぱり存在では、その不存在の穴を埋め合わせることができなくって、じゃあ、何で埋め合わせをするんだ、ってことになるんだけれども、それは、時間や歳月であったり、経験や思考や思想、存在以外のものをいっぱいいっぱい埋め込んでいくしかないのかなぁ。

そしてそして、私がこの恋愛短篇小説集で、最も感激しちゃって、グイグイと引きずり込まれちゃったのは、最初の『永遠に完成しない二通の手紙』であり、最後の『永遠につづく手紙の最後の一文』。同じ登場人物が、最初は社会人で、最後は学生で、そのふたつの物語の間に流れる歳月があって、歳月を遡ってしまう訳なんだけれど、それぞれの短い文章の物語の中に凝縮されちゃう、その歳月の重み。
実は、何よりもコミカルで、とっても読み易いのが、正直一番有り難い!

扱う題材と言うか、シュチュエーションとしては、奇抜で、どちらかといえば、一般的には嫌悪されて、隠したいという真理が働く状況であり、その状況が舞台と設定される。だからこそ、そのシュチュエーションによって描かれる物語自体を嫌悪する向きもあろう。それでもね、そのシュチュエーションや状況は、よくよく物語を読み込んでいって、その背景や、そこにいたる現実を考えると、それからその後の展開を考えたりすると、決して特異な状況ではなかったりする。人間であれば、みんながそれぞれ心の内に秘めている、結構現実的な問題だったりして、それってそれでも、隠したがる人が多くって、当然に隠されて表にはなかなか出てこない現実があったりして、だからこそ当事者は深く深く悩み、苦しみ、時に痛みを感じてしまったりもする。そんな、結構多くの人たちが、私は変なんじゃないか、とか、私だけおかしいんじゃないか、とか苦悶しちゃっている状況や現実って、実は結構私やあなただけではなくって、多くの人々が同じことで悩み苦しんでいたりするんじゃないかなぁ、何だか最近、そんなことばかり考えちゃっている私の方が、変だったり、おかしかったりするのかも。

だから、ここまで広大で壮大な妄想を繰り広げて、それをお話しとして紡ぎ、物語として仕上げちゃう、そして、その物語がひとりよがりじゃなくって、多くの人に受け容れられて共感を得て支持されて、それがこの世に輩出される、この才能を絶対的に感謝しちゃう、私はね、個人的にそう思う、絶対的にそう思う。

タイトルになっている、ポラリスとは、こぐま座で最も明るい恒星あり、所謂北極星のことらしい。人々が、旧くから、固定点としての、ひとつの基準とされたポイントでもある。
だから、オビにある”われらの時代の聖典(バイブル)”とも表されるのであろう。








「新釈 走れメロス 他四篇 -森見登美彦」読みました。5


新釈 走れメロス 他四篇
著者: 森見登美彦
単行本: 219ページ
出版社: 祥伝社 (2007/3/13)




今の俺は、万人を軽蔑する中身のない傲慢が、ただ人の形を成しているだけのものだ。だからこそ俺は天狗なのだ。
 〜「山月記」より抜粋〜

きっと自分を魅了するものができるだろうという確信があったからだ。僕が映画を撮るのは人を楽しませたり魅了するためじゃないんだ。僕はただ、自分を魅了するだけに撮る。
・・・
僕の見のうちでは嫉妬の炎がごうごう燃えて、彼女はその照り返しを受けている。だからいっそう美しいのだ。

 〜「藪の中」より抜粋〜

「そういう友情もあるのだ。型にはめられた友情ばかりではないのだ。声高に美しき友情を賞賛して甘ったるく助け合い、相擁しているばかりが友情ではない。そんな恥ずかしい友情は願い下げだ!俺たちの友情はそんなものではない。俺たちの築き上げてきた繊細微妙な関係を、ありふれた型にはめられてたまるものか。クッキーを焼くのとはわけがちがうのだ!」
 〜「走れメロス」より抜粋〜

そこは空虚な場所なのだと、男は漠然と思いましたが、自分こそが空虚なのだとも思われました。
 〜「桜の森の満開の下」より抜粋〜


あとがきには、
これをきっかけにして原典を手に取る人が増えることを祈るのみである。
とある。


先日(2007年5月)、「夜は短し歩けよ乙女」で、第20回山本周五郎賞を受賞した、森見登美彦
通勤電車の中でも、読者が多い。「夜は短し歩けよ乙女」であり「きつねのはなし」であり「太陽の塔」であり。
多くの読者を惹き付ける魅力に溢れる。

表面的な(?!)、表現の言葉の美しさ。これは、豊富な知識と、類いまれなる豊かな感性から導き出される?! 巧い。趣きのある言葉や表現を巧みに織り込み、時に失笑を誘い、軽快なリズムが心地好い。
そして、世界観というか、哲学であり思想の部分に魅力を感じる。

誰もが、その心の内に秘めている不安や苦悩。
ある意味では、完全な人間って、何処にもいなくって、不完全だから人間味があって、それぞれが個性であり、それぞれの必然に基づいて存在の意義を有している。
そんな、自らの不甲斐なさや不安定さを、だからこそ敢えて物語の形式で曝け出す。
時に、小説家としての苦悩であり、それが公務員やサラリーマンであっても苦悩は絶対的に存在するし、男と女の愛情であったり、友情であったり、、、 人間が人間として、現実の世の中で与えられたフィールドで生きて、生活していくことが、絶対的に大小の違いこそあれ、必ず何らかの問題を抱えている現実。
それでも、その現実を受容れることって、格好の好いことでは無いし、泥臭い感じもするし、できれば避けたいことであろう。それでも、やっぱり避けて通ることができない現実があって、まずは自らを否定することから始まるのかなぁ?! 否定されて、嬉しい感情は絶対的に生まれないけど、自らの全否定無くして、飛躍は有り得ない?!
だからこそ、時に失笑を誘う表現などを用いて物語の中に織り込まれる、人間の本能的な行動の数々に、心を揺さ振られる。
あっ、一緒だ、えっ、いいんだぁ、何だ私だけでは無いんだぁ、、、 不思議な共感を覚え、湧き起こる安堵。


物語は、歴史的文学作品を、著者なりの勝手な解釈で、全く新たな物語として紡ぎ出される短篇集。
著者の思惑通り、原典を手にしたくなる。
故に、☆×5つ!






日本の旧き良きもの、、、
京都、行きたい〜!



「きつねのはなし -森見登美彦」読みました。5


きつねのはなし
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書評/



嫉妬した!
私は森見登美彦の才能に激しく嫉妬する!!

デビュー作『太陽の塔』に触れて、氏の魅力に取り憑かれ手にした。

四編の物語から構成される作品の全編に流れる不思議な感覚。
スッキリしないと言えば、まさにその通りでもあり、それでもそこに深い魅力を感じる。
旧い歴史が宿る京都の街を舞台に、歴史を彩る骨董品屋、その店主とお得意さん、その品々に紡がれた物語。琵琶湖隧道事業の歴史。京都の歴史。迷信、神話。語り継がれる歴史物語。
歴史的物語を描くには、京都の街は舞台としての輝きを取り戻す。失われた都としての威厳?!

狐(きつね)であり、獣(ケモノ)であり、魔物(魔)である存在は、人間であれば、誰もが必ずそのうちに有している存在とも言える?! どんな人間であっても、狐にでも抓まされたように魔が差す瞬間があろう。衝動的に、本意ではない行動に取り憑かれる、、、 そんな弱く儚い部分を有している。
そんな、人間の本質的な深層の部分を、巧みに表現していると感じる。

そして、その巧みな表現は、時に虚言癖(?!)を有する先輩の口から荘厳(?!)に語られる。断片的な事実や史実や、拾った旅行記のノートから得られた架空の経験から、自らの夢想や妄想の中に紡ぎ出される物語は、現実と妄想夢想の垣根も、時代や歴史やその存在さえも超越して、聴くものの心を捉えて離さない。何よりも、語る本人の活き活きとした語り口に、物語は色めきたつ。
妄想や夢想は、先輩だけに限らず、祖父や血縁者にも存在し、語り草となり語り継がれる。

元来、物語は、人々の口から口へと語り継がれてきたものであろう。文字を持たない庶民が、親から子へと、代々語り継がれるもの、物語。時にそれを文字にまとめて書き記したものが物語であり、小説であり、文学でもあろうかとも。


デビュー作にて、巧みな表現で私小説を書き上げた森見登美彦は、プロフィールから拝見するに、京都大学(大学院)在学中に作家としてデビューを果たしている。
当然に、勤め人としての社会経験を有しない訳で、ジャンルとして社会派小説は書き得ないであろう。学校教育と、在学中のアルバイト(?!)、その他の人生経験、研究や実験や書物などからの知識によって構成されている、若い(?!、私と比較して)人間が、深い自己分析の結果の私小説こそ描けても、その後は如何なるものか?!、などと、卑屈な想いを抱きながら手にした私を、その恥ずかしいほどに瑣末な、ちっぽけな、薄っぺらな、おこがましい自らを激しく恥じた。正直に、彼の才能を嫉妬した。


次は、どんな物語を愉しませてくれるのであろうか?!










「太陽の塔 -森見登美彦」読みました。5


太陽の塔
著者: 森見登美彦
単行本: 205ページ
出版社: 新潮社 (2003/12/19)



”現在の我々は過去の失敗の堆積の上に成り立っている。
ちょうど太古の生物たちの死骸が石油となり現代の文明を築く礎となったように、我々も過去の情けない馬鹿丸出しの自分を燃料としていまこそ見事に走ってみせねばならぬ。
そのためには赤裸々な過去を堂々と受け止めることが必要だ。”

  〜本文より抜粋〜

生理的に受け付けない人も多いであろうと想像しながら、心の底から”森見登美彦ワールド”を堪能した。 大好き!
愉しい、笑ってしまう!
流石は京都大学大学院卒(刊行当時は、大学院在学中)、豊富な知識と深い考察によって導き出される卓越した文章力。 農学部で生物機能科学学科 応用生命科学コース、地域環境科学 森林生化学研究室、何やら文学とは畑違いな経歴(学歴?!)ではあるが、だからこそ、深い分析、研究(探求)の末に導き出され、織り成される物語の妙。

明らかな私小説(?!)であり、一方では私小説であるが故に紡ぎ出された物語。
第15回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品、本作が氏のデビュー作品。
垣間見える粗さすら、磨き上げられていく様を、大いに期待させる。
全作品(他5作?!)を読破したい!

思うに、人間ってとっても恥ずかしい存在で、隠しておきたい事柄(性癖など)を必ず有している。 当然に私にも多分に漏れず、人様には決して口外できない、口にすることを憚れる隠し事、性癖、事実を数多く有している現実がある。 人間であれば、生きていれば誰でも必ず、大きいか小さいか、多いか少ないかの違いこそあれ。
今現在の私は、心の底からそう思っている、理解している。 そう思うこと、そう思えることによって、いかに平静な心持ちでいられることか、、、
私事ではあるが、元来「ええカッコしい」で人様の評価、特に少々のころより親の目を極端に気にして、異常とも思えるほどの注意を払って、神経をすり減らし、当然にその対象は行動範囲の広がりと共に変化し続けるものの、本質的な変革を見せることなく継続してきてしまったと自認している私にとって、その誰もが有している”恥ずかしい、隠しておきたい事実”を、長らく自らが受容れることができなかった、受容れようとしなかった。
事実を受容れたくなかった。 怖かった。 圧倒的な悲哀に満ちた現実。
しかし、事実を受容れないことによって、現実をを直視することを避けてきたことによって発生した、大きくなり過ぎた本質的な問題は、周囲を巻き込み、私というちっぽけな存在の周辺にも、少なからずの歪みの数々を生じさせ、良からぬ影響を及ぼしてしまっている、それもまた否定できない現実。
既に、平常に取り戻すには、膨大な労力を要する現実。それでも、一度失われてしまったものが、必ず戻るとは限らない、それもまた圧倒的な現実。
決して尽きることのない、逃げ通すことができない、がんじがらめの現実だらけが、宿命とも。

かのノーベル文学賞作家の川端康成にあっても、
”特に若い美しい女性を好み、初対面であっても自らの眼鏡に適う対象を見つけると無言のままじっと凝視する(見つめる)癖があったといわれる”〜Wikipediaより引用〜
とある。

この世には、男と女が存在し、それぞれは本能によって、時にそれが種の保存(?!)であり、欲求であり、それでもそれは、抗えない圧倒的な事実現実。


ジョニーは、自らの意思をもってコントロールするしかない!?
それが現実。
森見登美彦が、物語の形式で我々に表現したもの、人間の普遍の真理、原理原則。
物語は、往々にして現実の世界の事実を元に形成されるが、どこまでいっても物語は物語であり、現実の世界の事実とは別物である。しかし別物である一方で、物語と現実の世界を明確に区切る必要性を、私は全く感じることがない。
現実の世界での出来事は、物語の表現をもってして語り継がれ、人々はそれを愉しみ、実りある人生を謳歌する。
かのガブリエル・ガルシア=マルケスも語っている。
まぁ、実りある人生とするのか否かは、本人の意思次第でもあるが、意思があれば、その可能性が拓けるということでもあろう。


ところで、タイトルの”太陽の塔”は、1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO'70,大阪万博)の会場に、芸術家の岡本太郎が制作した芸術作品であり建造物。とWikipediaにはある。
やはり、水島さんとの思い出は、この物語の重要なファクターなのであろう。

そして、度々登場する叡山電車、正式には叡山電鉄というらしいが、こちらも気になる。

深く深く考えされられ、それでも笑ってしまう、人間は悲哀に満ち溢れているけれども、生きていかなくっちゃいけなくって、どうせ同じ生きるなら笑いたいよね!?
愉しい物語♪
  ☆×5つ!








「レベル7(セブン) -宮部みゆき」読みました。5


レベル7(セブン)
著者: 宮部みゆき
文庫: 665ページ
出版社: 新潮社 (1993/09)



気鋭のミステリー作家が放つ力作長編と、本の裏表紙に解説されている。
宮部みゆきの比較的に初期の著作!?

たった4日間の物語。記憶喪失の男女と謎のジャーナリスト、失踪した女子高生の行方を捜すカウンセラーを両軸に、謎が謎を呼び解き明かされて集約していくひとりの黒幕と、そこに渦巻く人間模様が克明に描かれる。
あぶりだされるひとりひとりの物語のひとつひとつに浮かび上がる人間の欲望や欲求や利権や恐怖や不安や迷いや悩みや苦しみや痛みや、大人には大人の、老人には老人の、少女には少女の、男には男の、女性には女性の、子供はいずれ守ってくれる親の手を離れ、子供は愛に包まれた親の元から飛び立ち、母親の愛は深く優しく暖かく、親は親でどこか子供に依存していたり無関心だったり、男は威張るだけで頼りなくってどうしようもなくって、婚姻関係を結び堅い契りを交わした夫婦であってもその関係はとっても儚くって、常に付き纏う孤独や絶望との果てることの無い闘い、金持ちや資産家にはそれがあるが故の、貧乏人やフツーのサラリーマンにはお金が無いが故の、またフツーであることさえが、それぞれの悩みや苦しみであり、誰もが必ず生きていればその心の内に抱えている何かが有り、何も無い訳が無くって、それが大きいか小さいか、それが我慢できるかできないか、どのように処理されて表出して、それぞれの人生における現実世界のバランスが保たれているか、ただただそれだけでしかない圧倒的不条理な現実。

当然に人間が生きていくうえでは、ひとりで生きていくことはできない訳で、生まれたばかりの赤ん坊は、母親のおっぱいと深い愛情に守られて成長し、やがてひとり立ちしたとしてもその血の繋がりや関係は決して絶えることが無く、また血が繋がっていない全くの他人同士が婚姻関係などにより新たな血の繋がりが生じ、その血の繋がりの更に新たな展開をも形成していく。そしてまた、血の繋がりは無くとも、日常の生活の中において出会い支え合って助け合って生きている仲間や友達がいて、それぞれがそれぞれの生活の中でその必要や必然に基づいて、それぞれの関係が構築されていて、それぞれに保たれるバランス。
だから人生は愉しくていいんじゃないかな!?


会社の同僚(20代の女性)に、おもむろに「お薦めの本は?」って聞いたら、即答されたのがこの著作で、実は恥ずかしながら”宮部みゆき”初体験なんです。その著作を目にする機会は当然に多く、いずれ手にするだろうと思っていたのですが、それがまさに今回で、この著作はどうやら比較的初期の作品?! 著者のブログ『大極宮』も要チェック!
細かい部分を突付いていくと、取り立てて突飛なところも目新しいところもびっくりさせられるような展開もない気もするけれど、丁寧に丁寧に織り込まれて紡ぎ出された謎の数々と複雑にパズルのように組み合わされた展開と、その人間模様やその背景や情景の妙に、心地好く乗せられて、650ページ超の長編小説なのに、あっという間に読了させられる爽快感♪ 圧倒的に愉しめる!

きっと題材とされた、ホテル・ニュージャパン火災事件(1982年)と、宇都宮病院事件(1984年)と、なるほど、それをミステリー小説を構築するうえでのひとつの材料とするも良し、またそこから発展してその事件の本質や人間の深層心理を探るもよし、そして過去に引き起こされた凄惨な事件を風化させない、経験として刻み込み同じ過ちを繰り返さないとするも良し、色々考えさせられる。

そして、私もひとつ賢くなれた?!

薦めてくれたセニョリータ、ありがとう!
☆×5つ!


”でもねえ、あなた、これはみんな夢にみたこと、夢のお話。
  −グリム「盗賊の花むこ」”








「ほしいあいたいすきいれて -南綾子」読みました。5


ほしいあいたいすきいれて
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書評/国内純文学



人生で初めて、あたしはあたしに決まりごとを作った。・・・ それがいいとか悪いとかの問題じゃなく、女としてのプライドとか、人間の尊厳とか、職業蔑視とか、貞操観念とか、そういうことは全部関係なく、とにかくあたしだけのすごく個人的な理由で、あたしはここに踏みとどまることにする。・・・”

あたしみたいにバカで先のことをいくつになっても考えられないような女は、暴走しないかわりに、這い上がることも勝ち上がることも、足場を固めることもできない。ただ、何かにつかまって流れるだけ。・・・”

”「初めて、純のこと、見たときね、あの、学校の前で、見たとき、この女、絶対に、亜咲より、不幸だーって、思ったの」・・・”


流石、第4回「R-18文学賞」大賞受賞作。
あっという間に一気に読み切らせる、ぐいぐいと引きずり込ませる魅力に溢れる。
24歳の、ある意味では大人になりきれていない女性の、その赤裸々な性嗜好の表現描写の部分は、あくまでもその女性の抱える人間的な部分の詳細な描写の内の一部分であり、その表現無くしてここまでの人物描写を成し得ず、ここまでのめり込まされることも無いのであろう。
大人になりきれていないが故に、必要以上に孤独を恐れ、身近な誰かに安易に依存する。 そう言う私も、実は非常に耳が痛いのだが。
そんな誰もが必ずその自身の胸の内に抱いている(抱いていた)、不安定な人間の本質的な部分を、その揺れ動く様を、痛み、傷付き、そしてそれを乗り越えていく様を、丁寧に、時に衝撃的な描写を用い表現されている。

小学生の登場人物にも衝撃を受けるのではあるが、それすらも、その時期が24歳なのか、小学生なのかだけの違いでしかなく、ただその人がおかれた環境や、その状況、全てはその人それぞれの必然に基づき、その必然に導かれる。 ある意味では恐ろしく残酷で、不条理とすら思える現実が、それすら必然なのであろう。

そんな人間普遍の原理原則が織り込まれた小説を、このような手軽な形に表現して、是非ともそれを伝えたい読者層に送る。 そんな意義すら感じられる”文学作品”といったら、言い過ぎであろうか?!

そう考えると、早熟な高校生、いや中学生くらいから(ん?、もっと早くに?!)、この作品を手にして欲しいとすら思う。 表面的な描写にのみ捉われて、本質を見失ったら”もったいない!?”







「花宵道中 -宮木あや子」読みました。5


花宵道中
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書評/国内純文学




生きてゆくのは、諦めちまえばそんなに辛くないよ
”何があろうとも、見世は開き、女郎は身体を売る 何を諦める余地もない”
”目を瞑って、愛しい人を胸に思って、他の男に抱かれるんだ”


官能小説」と分類されることに違和感を感じる。
確かに、江戸吉原の小見世で生きる女郎(遊女)たちとそこを訪れる男たちによって紡がれる物語であるが故に、表現される性描写は官能的ではあるが、その描写や表現は物語の流れの中での必然に導かれ、必要に基づくものであり、その描写や表現により登場人物がより鮮明に彩られ、物語全体の奥行きがより一層深められる。
官能小説と分類されることにより人目を引き、通常の文学作品では想定し得ない種類の幅広い読者の獲得には有効であろう。一方では、官能小説に分類されることにより、手にすることを躊躇う読者が生じることによる機会損失の恐れも否定できない。それでもなお、官能小説という分類とする必然があるのであろうが。
第5回 R-18文学賞&読者賞ダブル受賞作品。
著者のブログも要チェック!

物語に流れるテーマに、”人生の悲哀と不条理”を色濃く感じる。
舞台は江戸時代の吉原
悲しいけれど、生まれながらにして自らでは抗えない事情によって、そこで生きていくことを宿命付けられた女性たち。その生い立ちから、幼くして常に痛みや心の傷を受け続け、その必然に導かれるように、売られ、時にさらわれて納まるべきところ(女郎屋!?)に落ち着く。しかもそれが、現代であれば小学生前後の幼子から”禿(かむろ)”として上級遊女に仕えて見習いをし、やがて”新造”を経て、一人前の”女郎(遊女)”として独立し、”遊郭”のある意味において閉ざされた囲いの中に、それ以外の世界を知ること無く生きていく訳で、全くもって不条理極まりないことだけど、それが現実で、本人の意思を差し込む余地の無い、圧倒的な事実なのであろう。
しかも、一度そこに足を踏み入れてしまった者は、時に前借金で縛られることにより、そこから逃れることが許されない状況に陥らされ、一切の自由も人格も人権すら否定される側面がある。基本的人権と市場資本主義が確立された現代においては、当然に認められている職業選択の自由や、個人の尊厳に関わる権利がある訳で、全く想像すらし得ない世界でもあるが。
そしてそこでは、当然に”恋愛の自由”など有り得ないし、許される筈も無い。一切の自由や権利が否定され、しかも不条理な身体的拘束すら受けている訳で、年季が明けるまでは、当然に結婚も、恋愛すら許されない。許されないというよりも、むしろ、恋愛などしてしまうと、本人が辛くてやってられなくなってしまう、客と相対することが辛くなる、気持ちが入らない、ということなのでしょうが、懲罰まであることから鑑みるに、やっぱり行き着くところ、”駆け落ちするしか無くなっちゃう”っていう圧倒的な現実があるのでしょう。本人は勿論、相手だって相当に辛い。確かに、仕事であり、本意では無い、ただの行為でしか無いとはいえ、やっぱり愛しているからこそ、有り得ない。間違いなく私には受け入れられない、残念ながら。

ところで、現代においても”吉原”は、その必要に求められて、その表面的な形のみを変えて、その本来の機能を有したままに存在し続けている。
いつの世にも男は”買淫”に勤しむ。
ある意味それは男の”本能”であり、生理的必然に基づき行われる。
それが良いも悪いも、全くもって”本能”でしかない、ある意味”悲しい性”?!

そしてまた、女性もある意味においては、そこに必要を求める。
誤解を恐れずに、ある側面だけを書いてしまう訳だけど・・・
可笑しなもので、高度資本主義自由経済下においても、江戸時代とは異なる理由において、そこで金銭を得る必然に導かれる状況がある。自らの物質的欲求を満たすための場合もあろう、中には興味や趣味嗜好に基づく必要も人によってはあるかもしれない、やっぱり不条理な事柄によって必要に求められて不本意ながら他の選択を成し得ない状況も今もってあるのかもしれない。
そこにも、それが良いも悪いも、全くもって”必然”しか感じられない。

著者が、その興味を注ぎ、徹底的な探求の末に魂を込めて紡ぎだされた物語。江戸言葉(?!)を用いることによって、気品高き趣きに溢れた作品に仕上がっている。
登場人物が複雑に絡み合って、それによって浮き彫りにされるその背景描写に感嘆し、感服した。
だからこそ、「官能小説」というカテゴリーによる先入観によって排除されること無く、多くの方に手にして欲しいと願う。
 
それがたとえば、子供であったとしても・・・?!


思うに、ある部分においては”諦める”ことが、本質的な幸せを得るために必要とされるともいえるのであろう。








白い木蓮に、高い気品と溢れる趣き・・・

小説「かもめ食堂 -群ようこ」読みました。5


かもめ食堂
著者: 群 ようこ
単行本: 204ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/01)



映画「かもめ食堂」の感動がフツフツとよみがえり、グッと込み上げてくるものがあります。 涙が溢れそうになります。
映画も良かったけど、映画を観たからこそ、小説で文字による描写によって、更に味わいがその理解が深まった!
漂う美しさに、ただただ呆然と心地好さを楽しんだ。

何だろう、人間の優しさというのか、温かさというのか、その人から自然に涌き出て漂うものを時に強く感じる。
どんなに表面的に綺麗な言葉を発したとしても、言葉って所詮どこまでいっても言葉でしか無くって、何とでも表現できてしまうし、その時の気分で度々コロコロ変わるものだし、あまりにも頼りない。 だから、言葉だけをそのまま受取ることって、ある意味できない。
その点、醸し出される雰囲気って、じっくりその人のことを見ていると、不思議と言葉以上に語り掛けてくるものがある。 いいところも悪いところも、その口から発せられる言葉と、表情、姿勢をじっくり、心を静めて感覚を研ぎ澄ますと、聴こえてくる見えてくるものってある。

な〜んて、偉そうなこと言っちゃったりするけど、実際のところ全くトンチンカンだったりする。 笑っちゃうけどね!


どうやら、小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、実力派女優の味のある演技に魅せられてしまったようである。 あの、姿勢良くスッと直立して何かを見据える、その雰囲気が好き(笑)。







かもめ食堂
出演: 小林聡美, 片桐はいり, もたいまさこ
監督: 荻上直子
DVD発売日: 2006/9/27
時間: 102分


「楽園のしっぽ -村山由佳」読みました。5


楽園のしっぽ
著者: 村山 由佳
単行本(ソフトカバー): 276ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/7/14)



とっても素敵です!

図書館で何気なく手にして、何となく何かを感じて、借りてきました。
当然に、著者(村山 由佳)が、直木賞作家だということも、大自然に囲まれた農場暮らしをされていることも、全く存じ上げませんでした(恥!)。

人生を、目一杯楽しまれています。 とっても羨ましい!


好きなこと!を、とことん楽しむことって、私を含めた多くの人々は、成し得ていない。 当たり前の話しだけど、好きなことを楽しむには、まず自分自身が、何が好きなのかを分かっていなければならない。 自分自身のことが分かって、始めてそれを成し遂げることができる。
塾講師をも経験された著者が、後半で”ゆとり教育”について語るところで、ふと、教育の目的、また、人生の目的とは?と、考えさせられた。 何を目的とした”ゆとり教育”であり、何の”ゆとり”を求めるのか、その本質を見誤ることの愚かさを。
著者曰く、できることなら、ゆとり教育によって生まれた”ゆとり”が、
”子どもたち一人ひとりが<回り道>や<失敗>を自ら試せる余裕の時間” であってほしい、と。
そして、
”子どもたちを一度もつまずかせずに、無駄なく最短距離で<成功>へと導こうとする親や教師たちの<親心>こそが、結果として彼らを自分で何も選べないほど無気力にしてしまったり、やたらと挫折に弱い人間へと育ててきちゃったんじゃなかったろうか。当たり前のことだけど、失敗は成功からは学べないのだ。” とも。
まさに、そのあたりが、私自身が現在のところ人生を楽しみ切れていない要因のひつとかとも・・・ あくまでも、現在のところ。

色々な人生が、色々な楽しみ方があっていい。
優しくつよいメッセージ、たっぷりいただきました!

「老師と少年 -南直哉」読みました。5


老師と少年
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書評/宗教・哲学




やっぱり、私には分からない(笑)!
あまりに深過ぎて理解し得ない・・・
しかし何故か、心地良い爽快感に包まれている・・・

ライブドアの「本が好き!」PJの書評を拝見していて、思わず手にしてしまった(思惑通り?!、笑!!)作品です。 ところで、今どきの図書館は素晴らしい(笑)! インターネット予約して、比較的すぐに手に入れられる(あっ、これは思惑に反する?!、笑!!)。 表紙から受ける印象も、黒と白と、そして金色(?)の月の醸し出す、静かなのに堂々として厳かな、とってもいい雰囲気(笑)! 手にできて、もう嬉しくって、帰宅の電車内でワクワクしながら没頭する(笑)! それ位、何故か手にしたい欲求に駆られた! そして、グイグイグイグイ引き込まれて、どっぷり浸っている間に、あっという間に読了! ん〜、印象に違わず大大満足(笑)!

そういえば子供の頃、かなり不明確な記憶なのですが、真っ暗い中をひとりで、死んだらどうなるのだろうか?と、死や孤独、生きる意味など、取り留めの無い恐怖感や不安感の中を、ただただ打ちひしがれて、何もできずにボーっとしていて・・・ 結局、どうやってそこから抜け出し、自ら命を絶つことなく、今に至っているのかすら思い出せないのですが(笑)! 何歳頃の記憶なのだろうか?
そして今、この歳(そろそろ37歳!)にして、そろそろ人生の折り返し地点に差し掛かり、私がこれまで生きてきたこと、そしてこれから生きていくことなどなど、色々と考えさせられ、その考える必然を感じている。 そして、そのタイミングに、この作品との出会い・・・ だから人生は”オモロイ”のかなぁ(笑)!

辛く、苦しく、耐え難いこと、深く悩むことを、その重荷を、自ら排除することをせずに、引き受けて、受け容れて、内包する・・・ 他者から作られ、他者から磨かれる器を、自らの内に存在させ、自らの中から、搾り出され、滴り落ちる水で、その器を満たす・・・ 方法は自分で見つけるしかない・・・

心に沁みる・・・

何度か熟読すると、また新たな解釈が得られそうな気がする・・・
楽しかった・・・





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主として“本”が織りなす虚構の世界を彷徨う♪

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▲ロスバイク TREK 7.3FX(神金自転車商会 since 2008.8)
写真 Canon IXY900IS(since 2006.12.4) & EOS40D + EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM(since 2008.7.23) + EF100mm F2.8 Macro USM(used, since 2008.9.10) + EF-S55-250mm F4-5.6 IS(used, since 2008.9.30) + EF50mm F1.8 供used, since 2009.4.4)

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