Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

野中柊

本「マルシェ・アンジュール」野中柊5


マルシェ・アンジュール
著者: 野中柊
単行本: 254ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/10)




神聖(?!)な雰囲気が漂う、24時間営業の高級スーパーマーケット”マルシェ・アンジュール”を巡る、六組六様の”幸せ”についての物語、連作短篇六篇。
それぞれの日常生活の中の、好きな、心地好い場所。
だから、自然と足が向く。

幸せ、幸福、楽しく生きる。
言葉にするのは簡単だけど、生きることは、楽しいことばかりではない。むしろ、楽しくないことのほうが多い、といっても言い過ぎではない。辛く苦しいことは、少なくない。

幸せそうに見える人、楽しそうに見える人。
だからといって、必ずしも幸せで、楽しいとは限らない。むしろ、幸せじゃなくって、楽しくない人こそ、幸せで楽しそうに振舞う。
比較できるものではないが、大して辛さや苦しみを感じていない人の方が、よっぽど楽しそうにも、幸せそうにも見えなかったりする。


野中柊が紡ぐ物語の登場人物も、
結婚して小学生の子供がいて、夫との夫婦生活に大きな問題は無いけれど、結婚する前に恋愛していた頃の熱い想いが、時折よみがえり、不満とまでは言わないけれど、不安を感じてしまうときがあるようなないような、微妙な主婦。小さなベッドに寄り添って寝ていた頃が懐かしい。距離を保って並べたシングルベッドを、深夜にこっそり抜け出して、ちょっとめかしこんで向かう先。併設されたカフェでの出逢い、ときめき。
高校生の男の子が、ひょんなことから出逢って、交際することになった美しい女子高生は、フランスからの帰国子女で、立派な家に住んでいて、見るからにお金持ち。でもね、買えない訳じゃないのに、お金はあるのに、あ〜ぁ、どうしてそういうことをしちゃうのかなぁ〜。お母さんがいないからって、お父さんが連れてきた若い女の人との暮らしているからって、だからって何も・・・

何を抱えて考えて感じているのか、その状況は、本人以外には窺い知れない。


人間は変化する、そして、飽きる。
どんなに熱烈に愛し合ったとしても、その関係が永遠に継続することは有り得ない。
恋愛のヒリヒリする非日常的な体験が、熱い気持ちを更に盛り立てる。刺激を求める本能。
だから、永遠に続くと思われる熱い気持ちも、歳月を経て、当然のように熱は冷め、やがて日常と化す。日常にヒリヒリする感覚は無いから、更に新しい刺激を元める本能を責めることはできない。
永遠に変わらないものなど無い。

そして、楽しいことや幸せなことも、そんなに多くは訪れない。
自らが強く求めて、その代償を払って、そしてやっと手に入れることができる”幸福”。苦労して手に入れても、案外大したモノを手にできなかったりもする。労せずして、大したモノを手にできるときもある。
その大小やタイミングには、絶対的な違いがあって、決して平等に公平ではない。


だからこそ、ささやかな幸せ、楽しみを、大事にしたい・・・









初恋、予感、記憶、距離、星座、聖夜、、、

本「その向こう側」野中柊5


その向こう側
著者: 野中柊
単行本: 279ページ
出版社: 光文社 (2007/08)



光文社の月刊誌「本が好き!」、2006年7月号〜2007年6月号に連載された物語。

僕の中の”女の子”が疼く、理想と現実、何が正しくて、何が間違っているのか、彼らの心を駆り立て、その行動に至る、”その向こう側”にあるものに迫る。

恋愛と愛と結婚と、22歳の大学生三年生の女の子”鈴子”の視点で、大人の心、恋、愛、関係の超リアルな現実に、揺れ動く心が描かれる。
鈴子には、ちゃんとしたボーイフレンド(彼氏)もいるから、恋愛だってそれなりに経験している。父親がいない家庭に育ったから、母親とふたり暮らしとはいえ、独立心もあり、自立している。
それでも鈴子がこの世に生まれ出て、たかだか22年の人生経験。
鈴子を女手ひとつ、ひとりで育て上げた母親。経済的的な援助をしてくれて、精神面でも支えてくれた男性の存在があったとしても、強さ、したたかさを備える。母親の聡明さに含まれる”見て見ぬふりができること、考えても仕方がない事柄を考えずにいられる”、それが相手に対する信頼?!、長年の人生経験に裏打ちされた、生きる術。大人。
18年の交際の末に、母親と結婚を決意した男性”敏史さん”。インテリアプランナーの事務所を自ら営む、社長さん。車は、アルファロメオスパイダーとアウディ、チョイ悪オヤジ、格好良過ぎ。奥さんとの離婚が成立して、晴れて鈴子の母親にプロポーズ、めでたく結婚の運びに。父親がいない鈴子の、最初の男性の記憶は”敏史さん”、父親とは絶対的に異なる存在だけど、やっぱり何か気になる存在。恋とは違うんだろうけれど、絶対に恋じゃない、とは言い切れない、複雑な感情。だから、母親との結婚は、めでたく嬉しくもあり、何故か失恋の痛みに似た想いも。
そんな母親と、敏史さんとの関係を疎ましく思い、ひょんなことから、始めることになった横浜・山手での古い洋館でのひとり暮らし。といっても、敏史さんの知り合いの、女性オーナーの邸宅の間借り。鈴子も、もう子供じゃない、いずれ母親の元を離れる時が訪れる、遠くない時期に。結婚を控える母親と、敏史さんの同居生活のスタートへの配慮、大人の気遣い。古い洋館の女性オーナー、美しく、そしてこちらも、母親に似て、ひとりで強く、したたかに生きる。実は、同居人がもうひとり。放浪の旅を好む画家の女性。女性オーナーとの、濃密な、不思議な関係。決して軽々しく口外されない、”その向こう側”にあった過去の出来事。

そんな大人たちが繰り広げる、恋愛、恋、結婚に纏わる物語。
これから結婚し、新たな関係を始める母親と敏史さん。女性オーナーと敏史さんが、仕事の依頼を機に、一気に深める親交。
母親は、18年以上の長い歳月を経て、やっと手に入れることができる敏史さんとの結婚生活。もっと言えば、初めての結婚生活。一般的には、結婚によって得られる安定、などと言われるけれど、それまでの期間があまりにも長すぎて、結婚という制度によって得られるものと、その制度によって縛られるが故に、バランスを乱し、磁石の同極の如く、離別に向かう見えない力。束縛を嫌い、自由を求める、何とも身勝手な生き物、人間。

何が正しくて、何が間違っていて、許されない行動であるのか、その行動に至る、その人間の状況の、”その向こう側”の理解なくして、判断し得ない。

ベタだけど、鈴子と彼氏のおみくじは、
失うことをおそれてはいけない。ほんとうにたいせつなものは、決して失われることはなく、失われたものは運命に従っただけ
であり、
マイナス5はプラス5に、マイナス10はプラス10に反転できる。マイナスが大きいほど反転したときプラスも大きくなる










「参加型猫 -野中柊」読みました。5


参加型猫
著者: 野中柊
単行本: 216ページ
出版社: マガジンハウス(2003/10/15)


・・・ 猫の摩訶不思議な行動様式と、そこに何かしら日常のファンタジーのようなものを見ようとする愛猫家の心理に触れると、良くも悪くも特に何の事件もない当たり前の毎日の生活が、それこそ宇宙の神秘、宇宙の必然、宇宙の了解に通じている ― ような気にさせられなくもない。そして、地面から足が三センチほど浮き上がって、世界や自分自身についてしゅっちゅう感じてしまう無力感やあくせくとした欲望から自由になって、何でもできる、何をしてもいい、だからこそ、何もしなくてもいいのだ、と大らかでのんびりとした気持ちにもなってくる。
野中柊”ワールド♪
物語は、緩やかに、優しさに溢れて、歩みを進める。
大好きなモノたちに囲まれて、愛猫「チビコ」と共に生活を営む若い夫婦「沙可奈(サカナ)」と「勘吉(カンキチ)」の、”引越し”に纏わるキュートな物語。

物語の中、夫婦の日常会話に飛び出す、
「後天性の精神分裂症(現在は統合失調症と呼ばれる)の原因」としてあげられる人生のイベント”引越し”。その他にも、転職、結婚、離婚、だそうである。環境の変化が精神に与えるストレスの影響。病むところまで行かずとも、環境の変化が与える影響は小さくない。

物語は、引越し屋さんがやってくる場面から幕を開ける。荷物の搬出入、そして新しい部屋での片付け。引越し休暇も終わろうとしているのに、まだまだちっとも片付かない新しい部屋の中。それでも、明日からは、新しい日常生活が始まる。
新しい生活が始まる期待と不安。それは、人間だけじゃなくって、生活を共にする愛猫だって同じこと。引越し屋さんが、知らない男の人たちがドヤドヤやってきて、ワサワサと落ち着かない、何事が起こっているやら!?

だから、「参加型猫」!?、物語に””という、人間の言葉こそ喋らないけれど、身近で親しみ深く愛らしく、そして時に化けて出る?!、生き物を介在させる妙。リアルな現実とのバランス。

”引越し”というイベントを通して浮き立つ”記憶”。
ふたりの出会いであり、結婚に至る様々な出来事、共に過ごす生活。共有する記憶、それぞれの記憶、それぞれが別個の人格を有する個人だから、それぞれの想いは異なるけれど、だからこそ紡がれる物語の妙。

それが時に、ふたりで食事をしたイタリアンレストランのパスタのメニュー、娼婦の味だったり、絶望の味だったりしちゃうから、可笑しい。
記憶が、歳月を経ることによって、多角的な奥行きや深みや味わいを増す。

だから、今現在の時点の瞬間的には、とってもとっても語るに耐えない、哀しく、苦しく、辛く切ないリアルな現実だって、それが然るべき歳月を経たとき、然るべきタイミングで、必要に応じて”記憶”として導き出されるのであろうか。
時の経過と共に記憶は薄れゆくものだ。決して忘れまいと心に誓ったところですら、その人の意思とはかかわりなく、脳の機能は情け容赦なく、記憶を消去してしまう ― 少なくとも、意識のレベルでは。それでいて、昔の写真を目にしたり、過去の遺物を発見したときなどに、思いがけず、鮮明に何かが蘇ってしまったりすることは日常において頻繁にあるわけだけれど、その記憶のヴィジョンは実は蘇ったわけではなく、現在の自分によって都合よく捏造されたものではないだろうか。そういう意味で、ふと昔の何かを思い起こしてしまうたびに、勘吉は思わずにいられない。記憶は決して過去のものではなく現在進行形なのだ、と。








「ジャンピング・ベイビー -野中柊」読みました。5


ジャンピング・ベイビー
著者: 野中柊
単行本: 173ページ
出版社: 新潮社 (2003/08)



ジュディについての不平不満を述べ立てはするけれど、おそらく、ウィリーはそんな彼女だからこそ、身近に引き寄せてしまったのだろう。痛々しい風情の女の子だったからこそ、彼女を好きになり、生活を共にするようになったのだろう。

やっぱり好い、野中柊ワールド♪
自然に深くゆっくりじっくり沁み込む、満たされる至福感。

正直なところ、「有り得ない!」って怒りとかの感情を否定はしない。「赦せない!」って気持ちも、どこか完全には拭い去れない。
それでも、「何がホントの幸せなのか?」って、一旦ガチガチに凝り固まった、世間の常識みたいなものとか、固定概念とやらを、ちょっとだけ隅に押し遣って、じっくり物語を読み込む。ヒートアップしがちな心を、静かにクールダウンさせて、ゆっくりじっくりと・・・
ますます訳が分からなくなっちゃう!?
まぁ、訳が分からなくなっちゃって、ちんぷんかんぷん理解できなくって、「そりゃおかしいよぉ!」とか想っちゃったんだけど、心の何処かに違和感を感じて、気になって仕方が無いから、”野中柊”を読み耽った私が、こんなことを言っちゃうのも、なんなんだけれども。

物語は、とある初夏の日曜日の昼下がり、別れた夫・ウィリーと、愛猫・ユキオの埋葬のため待ち合わせをした鎌倉駅に向かう”鹿の子”の、その日の夕方までのたったの数時間が描かれる。描かれるのは、たったの数時間であっても、ふたりと、ふたりの間に積み重ねられた想い出は、それだけで173ページの物語となる。
今現在は、それぞれに別々のパートナーと結婚し、営まれる日常の生活がある。それぞれが、その必要があって出会い、恋に落ち、結婚の契りを交わし、共同生活を送る。それまで全く接点を有しなかった、全く赤の他人である人間同士が、何かの不思議な必然に導かれる不思議。それでもやっぱり、所詮は赤の他人。互いに全てを100%理解し合えることは有り得ない。儚い関係。
実は、鹿の子もウィリーも、今現在のパートナーとの関係に、既に亀裂が生じている。だからって訳じゃないけれど、様々な”もしも”が思い浮かぶ。それでもやっぱり、人生における”もしも”は無くって、考えたところでどうしようもなくって、リアルな現実が全て。
ひょんなことから、ある意味では必然に導かれて訪れることになった、横浜のウィリーの自宅。既に、ウィリーをひとり残して、母子(赤ん坊)はカナダに無期限帰国することが決定していて、そんな話しを聞いてしまった鹿の子が、黙ってられなくなっちゃって、放っておけなくなっちゃって、不思議な共感を覚えちゃって、対面を果たす、妻ジュディと、ベイビー ウィリー。ジュディは、生まれ育った複雑な家庭環境から、心に大きな傷を負っていて、何か物憂げ、翳を帯びている。
そんな何かを抱えている大人たちとは対照的に、無邪気な”ベイビー”。
― どうして、こんなことになったんだろう?









「プリズム -野中柊」読みました。5


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書評/国内純文学



「ねえ。波子ちゃん、だれかを裏切ったり、裏切られたってことは、人生で最高の贅沢じゃないかなあ?」と言った。
妙にのんびりとした、穏やかな口調だった。
「だって、そもそも愛がなければ、裏切りだってないわけだものね。愛に恵まれただけでもすごいことなのに、それでも満たされなくて、裏切りをやらかすんでしょう?なんだか、ギャンブルみたい。気前がいいなあって思う。すべてを失う可能性だってあるはずなのに、自分の運を妄信して、生命力と感情を惜しみなくじゃんじゃん使ってるって感じだよね」
揺るぎないものなんて、なにもない。このバーの片隅に置いてあるガラスのクリスマスツリーのように、たいせつにしたいものほど、きっと壊れやすい。

誰にも薦めたくないほどに好き♪
野中柊、堪え切れなくて、夜更けに嗚咽をあげながら読み耽る、幸福感。痛い、切ない、哀しい、だから、好い。

物語は、幼少の頃の”記憶”から始まる。
実母の死。
幼少の頃に、妄想の中にも明確に描かれた実母の死、”葬儀”のシーン、三歳くらいの私。それでもそれは、父を捨て、私を捨て、家族をも全て捨て去り、目覚めてしまった真実の愛を貫くために、家を飛び出した実母を、その存在を否定したい忌避する感情と、それでもやっぱり寂しくて不安で恋しくて、何かを求める、その様々な存在に対する意識の混濁?!
そして、現実に訪れた、リアルな57歳の実母の死。
大切な人の”死”、存在の消滅が、その不存在が意識させる存在。
33歳、結婚7年目の女性『波子』の視点で描かれる。夫、家族、友人、恋愛、結婚。
勤務医の夫「幸正さん」とふたりの生活。自らも、薬剤師の資格を活かして、週に三回だけ街の薬局でのパートをする、経済的に豊かで何不自由なく、時に友人とのパーティーを愉しむ位に、満ち足りた生活。平穏無事で、他人も羨む仲睦まじい夫婦。誰がどう見ても、幸福に満たされた夫婦、としか見えない。
彼女の生まれ育った家庭環境はちょっとだけ複雑で、他の男の人との愛を貫いてしまった実母には、波子と八歳違いの弟「圭吾」がいて、ある意味では実母を奪い取った男「宮野さん」と、実母亡き後、男ふたりで暮らす。実母が生前の頃から親交がある。
父は、波子との長いふたり暮しを経て、若い女性(父の13歳下、波子の13歳上)の「香奈枝ちゃん」と結婚して、波子と13歳違いの妹「梨香」をもうける。家族という感覚が希薄な環境。
「結婚」という法律的な手続きを経た夫婦によって形成される「家族」。
不思議なバランスを保ちながら、それでも、互いが互いに何かを感じ合ってているからこそ、保たれる関係。血の繋がり、法的な制度、元々が他人同士の関係だから、何かのキッカケで共同生活を営むに至った、でしかない。
仲睦まじい夫婦は、夫の親友「高槻さん」夫婦との親交が深い。子供がいない、開業医の「高槻さん」は遊び人風な気さくな男性で、お洒落なレストランやバーで、四人の時間を愉しむ。奥さんの「紀代美さん」との女性同士、直接の連絡も取り合う仲に。こちらも、仲睦まじい夫婦。
それなのに、そんな高槻さんが離婚しちゃって、それぞれの関係に狂いが生じる。


だから、”プリズム”。
光が屈折して、はじめて虹になる。分散した光のベクトル。光の波長としての色。
光がまっすぐに降り注いでいるときには目にすることができない、美しい、あまりに儚い色の帯。光が屈折して分散したときに、七つの色が見える。

それぞれが、必ず心の内に有している、まるで”口の中で転がす大きな飴玉”のような”何か”。素直にまっすぐにありたいけれど、人間という生き物が、感情を有している以上、常に素直にまっすぐに、はいられない。絶対的な歪みを、自らの内に有している。歪みを有していない人間など、この世に存在し得ない。その歪みが、大木か小さいかの違いこそあれ。

自らの歪みの存在を認識することができて、それを全面的に自らのものとして受け容れることができて、初めて、相手の歪みを感じることができる。それでも、歪みの真相は、当事者以外には全てを理解し得ない。当事者以外の第三者が全てを理解することは、絶対的に不可能であろう。たとえそれが、血を分けた親子や兄弟姉妹であっても、結婚という契りを交わした夫婦であっても。
それでも、相手の歪みを、その痛みに理解を示し、共感を示すこと。

人間という生き物は、どうしてこうもすぐに過ちを犯すのであろうか?
それでも、私自身を考えても、絶対に過ちを犯さない、という自信は無い。
行為や行動が、必然に導かれて引き起こされる以上、”過ち”ということ自体が存在しないのかもしれない。世間一般、若しくは個人的な概念から考えるに、「過ちであろう」、と想定される事柄も、実は当事者にとっては必然でしかないのかもしれない。
結婚ってなんなのかしらね?









もしも、幸正さんと私のあいだに決して切れない絆があるならば、また出会えるかもしれない、ふたたび一対一で向き合う勇気を持って。その可能性に賭けてみたいとも思う。わからない―
まだ、わからないけれど。


「ひな菊とペパーミント -野中柊」読みました。5


ひな菊とペパーミント
著者: 野中柊
単行本: 228ページ
出版社: 講談社 (2005/6/21)


じたばたせずに、なりゆきに任せてみよう。
なにがどうなっても、私はだいじょうぶ。
パパもママも幸せになれる、ぜったい。
これからは、自分で自分に、力強く呪文をかけていくのだ。どんなときも光が射すほうに向かって、ゆったり無理なく進んでいけば、なにもかもが落ち着くべきところに落ち着いて、こうなるはずだったんだね、よかったね、と納得できる日が来るに決まっている。そんな風に信じられた。

いい歳したおっさんがベタ甘ラブロマ好きで何が悪い?!(有川浩「クジラの彼」あとがきのパクリ)、電車の中で薄ら笑み浮かべて、目頭を熱くして・・・
あ〜、止められない、野中柊ワールド。切ない、哀しい、痛い、、、、 だから?!、好き♪

物語の主人公は13歳、中学二年生の少女。
微妙なお年頃の”少女”とはいえ、既に立派な人格や自我を有した”大人”。経験が不足していて、発展の途上にあるから、当然に不安定で不確定な要素を多分に含んでいるけれど、それでも、やっぱり既に無邪気で可愛いだけの”子供”ではない。
10年以上の歳月を、この世で生きている訳だから、少ないながらも人生経験を身に付けて、自立への道を自らの足で歩む。
そして、その10年以上の歳月は、彼女たちの世界で一番大きな存在であろう”家族”の形をも、大きく変える。状況は刻々と変化を続ける。変わらない方が不自然でもあろう。
大人であっても、所詮は人間。人間は過ちを犯す生き物であり、絶対など有り得ない。状況に応じて変化できる順応性や、適度な曖昧さが、この世の中の平穏の秘訣。その平穏の、何事も無い、何の変哲も無い生活がもたらす、本質的な幸せ。「何〜にも無くてツマンナイ」とか「フツー」だからこそ得られる幸福感。


挿入される鼻歌は松田聖子「渚のバルコニー」、1982年4月発表。
物語では、父親の十代の頃のCDコレクションに紛れていた。









「ガール ミーツ ボーイ -野中柊」読みました。5


ガール ミーツ ボーイ
著者: 野中柊
単行本: 221ページ
出版社: 新潮社 (2004/9/29)




野中柊に興味を抱いて、七作品目。
ますますもって、よく分からない。
だから好い。
何を理解したいのであろう、何を理解する必要性があろう?
野中柊は野中柊でしかなく、私は私でしかなく、一見して何の関連性を有することなく、この世の中に別個に存在し、何の交わりもなく、それぞれの日常生活を営む。何を今更、当たり前田のクラッカー!?

リアルな現実のフィクション作品を手にしていて、ふと思い付いて、手にした。
やっぱり虚構の世界が好い。
いくら日曜日の夜の電車が混雑していないからって、それでもたったひとりの空間ではない。疎らながらも人影を感じる。
す〜っと、入り込めちゃう、心地好さ。
気が付いたら、視界がグッと狭まり、ひとりの世界に浸る。込み上げる想い。堪え切れない。このままでは、、、 一刻も早く、ひとりの空間に退避したい。
口にしたアルコールのせいだけではない。
描かれる世界に、その背後に、その水面下に横たわる現実に、哀しみに、痛みを伴う苦しみに、、、


表題の中篇小説と、書き下ろしの短篇小説「ボーイ ミーツ ガール」。
いずれの物語も、小学校一年生の男の子たち(太朗くんと鈴木くん)と、友達と、その家族と、その友人たち。
どちらかといえば、太朗くんに代表されるように、家族の形が、世間一般に良しとされる状態を満たしていない登場人物たち。
太朗くんのお母さんは、お父さんが蒸発しちゃったシングルマザーであり、現在30代前半。25歳のときに、勢いで合コンから運命の出逢い→同棲→妊娠→結婚→出産→蒸発→仕事しながらの育児。やっと、小学校に入学して、保育園から解放されて、ホッとひと息?!、嬉しくもあり、寂しくもあり。家賃13万円、都心の旧いマンションにふたりで暮らす。
ふたりだけの生活は、何かと不便だけれども、経済的にも精神的にも辛いときは少なくないけど、それだからって、決して不幸ではない。周りが心配するほどに、悪くない。
同じマンションに住むフリーライターの女性や、同郷のスチュワーデスの元同級生が、休みの日に子守りを請け負ってくれたり、大変だけれども、ホントにホントに大変だけれども、それでも何とかやっていくしかないし、それはそれで現実。
彼女(太朗くんのお母さん)の子供の頃には、父と母の双方の愛を、当たり前のように受けて、何不自由の無い生活を送ってきただけに、時に不憫に思うときもない訳ではない。将来に対する不安だって、絶対的に消えることがない。田舎の実家の両親に、夏休み中の太朗くんを預けちゃおうと画策するんだけれども、母の想いと、子の想い、親の想い、、、 太朗くんは、母と離れたくない、そばに居ないと、失われてしまうような不安に苛まれて。
太朗くんの不思議な友達の、中学生の女の子は、父とのふたり暮し。母親は、交通事故で亡くしているんだけれど、何故か四人で海に行く。不思議な組合せの四人が乗るレンタカー。


おとなの女性と子供たちの物語は、ある意味では、対象となる読者層は広くない。私だって、今じゃなければ、まず手にすることがなかったであろうし、仮に手にしたとしても、きっと読み切ることができなかったであろうし、ここまで深く染み込むことがなかったであろうから。

著作に描かれる物語は、往々にして私小説の部分を多分に含む。
野中柊は、太朗くんのお母さん、フリーライター?
そんなことは、どうでもいいことなんだけれども、自分以外の第三者の、虚構の世界と、リアルな現実の世界に、明確な線引きをする必要も、そんな権利も無いのであろうから。









「フランクザッパ・ア・ラ・モード -野中柊」読みました。5


フランクザッパ・ア・ラ・モード
著者: 野中柊
単行本: 217ページ
出版社: 筑摩書房 (1999/12)




「嫌いじゃない」
と言ってみて、
村上春樹であれば、「悪くない」だろう、
とか、橋本治だったら、「分からない」かも、、、
などと考える。
要するに、
「好かった!」
なのであるが、どうして人間という生き物は、こうも素直になれないものであろう。好いのか、悪いのか、どちらかしかないのに。それでも、その曖昧さが好さでもあり、曖昧が存在するからこそ、この世の中は上手く廻っていく。

最近の興味津津、野中柊。とはいうものの、直近のストイックな物語が好きなのであって、実は、デビュー作「ヨモギ・アイス(文庫本)」に、そのストイックさの片鱗は見受けられたものの、私が強く求めていた、大きく期待していたものとの、ギャップに、小さからず衝撃を受けて、違和感を感じて、だからこそ、「もっと知りたい!」となって、手にした。
動機に、ある部分では不純な、作為的な側面を有するものの、本の愉しみ方に絶対的なルールや禁止事項は無い訳で、広く世間に公開(出版)し、著者がその対価を得ている時点で、ある意味では著者の手を完全に離れ、世間の荒波に晒される宿命を、決して逃れることはできない。故に、著者の裏側の探索の目的で、私は手にした。あ〜、何とも、驕った考えでおこがましい、何様のつもりでしょうか?!、と思いつつも、それが私である以上、そう考えてしまった以上、それを恥ずかしがって、そして隠したとしても、その隠すこと自体が、すでに嘘臭く、それであるならば、それが私という人間の本質であり、変わり得ないものである以上、明らかにしてしまった方が、実はよっぽど私らしい、のでもあろう。


物語は、動物たちが登場して、人間は誰ひとり登場することが無くって、既にそこで、妄想に溢れた非現実的な世界の出来事でしかないのであるが、それは、この物語における表面的な表現方法でしか無く、私としては目的が目的であるだけに、物語の設定などは、どうでもいい(?!)のであるが、とにかく軽快なテンポで展開される奇想天外な、それでいて何処か日常的な物語。
舞台は、アメリカ、フランクザッパ・ストリート。この街で一軒しかないダイナー(食堂)。
素敵な料理は勿論、アイスクリームやスイーツたちが自慢のお店に、多くの仲間たちが集まって、日常的に繰り広げられるドタバタ劇。
登場人物を、あえて人間ではなく、動物たちに設定することによって、誰憚ること無く、自由に物語を展開できる利点があろう。動物たちではありながらも、人間と同じように恋愛をして、子供を出産して、クリスマスを、サンタクロースと祝う。
物語は、これくらいにハチャメチャであって好い。だって、物語だから。あくまでも、著者の妄想の世界の書き記しだから。文学的要素が盛り込まれていて、受け容れる読者が一定数以上存在していれば。受け容れる読者が一定数以上存在していないと、それは出版社からの依頼が無くなり、結果的にその存在が抹殺されてしまう。とっても現実的な甘くない世界。夢や妄想だけでは、飯は喰えない。


この本のタイトルにも織り込まれる、フランク・ザッパ(Frank Zappa, 1940-1993)は、アメリカ合衆国の男性音楽家(ロック、ジャズ・フュージョン、現代音楽)らしい。疎い私は、当然に知り得ない。
愉しい物語は、当然に”野中柊ワールド”な訳だから、フランクザッパのみならず、音楽家たちの名前が、多数登場する。多趣味な、豊かな知識を有する、博学なお方と、私の妄想は果てしなく膨らむ。

そして、人気モデルのパンダのワイワイが、サンタクロースに手紙を宛てる、
”「サンタさん、あなたは素晴らしい人ですね。
皆にとてもやさしいんだもの。
でも、そんなあなたたちにちゃんとやさしくしてくれるひとはいるのかしら?
クリスマスに誰があなたの靴下にプレゼントを入れてくれるの?
僕はいつもそのことが気になってならないのです。
何か欲しいものがあったら、サンタさん、ぜひ僕にリクエストしてください。
僕はまだ子供だから大した経済力はないけれど、できるだけのことはします。
    ワイワイより」”

で、10余念の歳月の文通を経て、サンタクロースから、クリスマスプレゼントの準備と配達を頼まれちゃう。

また、歯をへし折っちゃっても、
”「悪気はなかったのよ・・・ と言いたいところだけれど、どうかしらね? まあ、結局のところ、こっちに悪気があろうがなかろうが、あなたは痛い目をみた。その事実に変わりはないのよね。悪気がなければ何をしても許されるなんて甘ったれた考えを、私は持ち合わせちゃいなから、こうして誤っているわけだけど、だからと言って、謝れば何でも許されると思っているわけでもないの。ま。礼儀として一応謝ってみせてはいるけどね。」”

やっぱり好い!!、のである。









「きみの歌が聞きたい -野中柊」読みました。5


きみの歌が聞きたい
著者: 野中柊
単行本: 279ページ
出版社: 角川書店 (2006/4/22)




ん〜、何が私をここまで惹き付けるのか?!
野中柊、好きなんです♪
とっても切なくって、哀しくって、ついつい眉間に皺が寄ってしまう。
痛い、痛すぎるんだよ! だから好いのかな?!
共感できる部分もあるんだけれども、それでも、個人的には絶対に受け容れ難い部分も結構あって、絶対的に受け容れたく無い部分もあるから、「どうして?、どうしてそういうことになっちゃう訳?!」、ってな具合に、裏側や、その心の内を知りたくって、探りたくって、ついつい読み込んでしまう。「なるほどなるほど、だからそうなっちゃう訳ね!」って、その登場人物たちの状況の、背景の、その人格が構成されるに至る経験や事件や出来事、幼少の頃の記憶、生い立ち、家族環境や、両親の不仲や離婚、死別だったり、、、その行動や言動や思考に至る、現在までの過去の歳月に刻まれた数々の経験。しかも、今だって、現在進行形で生きている訳だから、その現在の様々は刻々と変化し続ける状況だって、そこには加味されてきちゃう。その直前に厭な事があれば、機嫌や、虫の居所が悪くなっちゃうことだって、ごくごく普通に有り得る。そんなところまでは、本人だっても、ある意味では不可抗力的要因に抗うことができないのに、だから完全な理解やコントロールをすることは、自分自身のことであっても絶対的に不可能だ。だから、自分自身をも理解し得ないのに、自分以外の第三者への理解だなんて、”よく分かんない”の世界、橋本治ワールド。

それが近しい夫婦関係や身内や家族、恋人であったって、自分以外の第三者には変わりなくって、ついつい全部理解している気になってしまうのだけれども、とどのつまりは、よく分かんない。
だから私も、野中柊の物語が、よく分かんない!
よく分かんないから、それでも知りたいから、理解したいから読むのであって、そこには、知りたい、理解したい欲求が絶対的に存在していて、投げ遣りな、いい加減な感情よりも、むしろかなり真摯な態度であったりもする。


描かれる物語は、日常の、とっても日常の、人間が、それぞれ個人が固有の人格として、淡々と一生懸命に精一杯に生きていく、生きていく三人の男女の姿。幼馴染みと、アクセサリーの製作会社を営む、美和と絵梨。そこに、根無し草の不思議な少年、ミチル。三人共に、それぞれに、それぞれの胸の内に、そっと抱えているものがあって、だからこそ、互いが互いを必要として、共に生きる必然に導かれて、保たれるバランス、関係。
居る場所や、帰る場所を、それぞれが求め、感じている。
その存在が、五つの物語に分かれていて、それぞれ三人の視点で語られる。それぞれの語り口によって、自らのこと、相手とのこと、今現在と、過去に遡って、揺れ動く心の様子や、その胸の内が、そこに何の恥じらいも無く、ズバリはっきりと明かされる本音、正直な気持ち、自己分析。

大好きな人の死があり、離別があり、それでも新しい出会いがあり、新たな生命の誕生もあり、そこに描かれる迷いや悩み、苦しみ。


実は、野中柊は、「祝福」から、最近の著作から手にし、デビュー作(1991年)の「ヨモギ・アイス(アンダーソン家のヨメ)」に違和感と衝撃を感じた。もっとも私は、最近の著作を好んでいるのではあるが、、、その刻まれた約15年の歳月に、私は深い興味を抱いている。 何が、現在の私が深い興味を抱く”野中柊”を形成しているのであろうか?!、違和感を感じながらも惹き付けられる、よく分からない”何か”を探りたい。









「ヨモギ・アイス(文庫) -野中柊」読みました。5


ヨモギ・アイス
著者: 野中柊
文庫: 258ページ
出版社: 集英社 (2007/04)




最近、興味津津の”野中柊”の処女作品!
デビュー(1991年)より15年近く経過した最近の、密度の濃い短篇を手にしていた私と、その私が勝手に創造する著者に対するイメージ。著者のオフィシャルなプロフィール情報が少ないが故に高まる興味。ミステリアス。え〜、どうしてどうして、そんな深く鋭い感覚や、素敵な表現ができるの?、どんな経験を積み重ねてきたのかしら??、と。
敢えて短篇という表現形式を採るが故に、極限まで削ぎ落とされ、全てが必要であり、その必然に導かれて構築される物語。どうしたって、パターンは似てくることがあっても、そのバリエーションの豊富さと、一方では表面的な特異さにある意味では惹き付けられつつも、その実、人間の本能の本質的な部分の行動とその描写に、すっかりどっぷり魅せられている。
生真面目に正直に真剣に一生懸命なストレートさが心地好い。
当然に、その物語を紡ぎ出す著者に抱かれる興味、、、となる。


物語は二篇で、いずれも日本人の若い女性が、アメリカ人の男性と国際結婚をして、アメリカで送る新婚生活「ヨモギ・アイス」であり、アンダーソン家にヨメ(夫婦別姓を主張するけど、受け入れられない・・・、自由の国アメリカにだって絶対的に存在する旧体質?!)として迎え入れられる結婚式のそのパーティーに綴る思い「アンダーソン家のヨメ」であり。
著者の私小説かと。
男と女の”結婚”に纏わる物語であり、赤の他人同士が共同生活を営み、しかも、当事者同士だけでなく、親や兄弟姉妹、親戚縁者まで巻き込む、色々な思惑や、時に血や私欲まで絡み合う、人生の一大イベントであったりする訳で、当然にそこには思想や文化や階級(?!)の差異があって、それが国際結婚であれば、さらに宗教であり人種や、マイノリティーとかマジョリティーとか、であり、何だか考えただけでも眩暈がしそうなほどの圧倒的な現実がある。共感や共有できる(したい!?)部分を有しているから、互いに”結婚”という共同生活を営むのではあろうけれども、どんなに頑張ったところで、個々に独立した人間という存在である以上、絶対的に完全な一致は有り得ない。まぁ、完全に一致する必要も有り得ない訳で、完全な一致を目指し、求めてしまう部分に、実は既に無理が生じている。結婚の理想と現実。
先日手にした「失楽園の向こう側 -橋本治」にあって、妙に感心させられた記述があって、人間の在り方として、夫婦ではあっても、ひとつの”家族”という丸の中にふたつの丸(ふたり)が存在する在り方ではなく、それぞれの個人の独立した人間としての丸が重なり合っている部分の、その部分が”夫婦”としての生活である・・・、みたいな。結婚したばかりの時であれば、重なり合う部分が大きくって、年月を経れば当然に小さくなっていって、、、 それでも、それ(家族)だけでは生きていけなくって、当然に、現実的に生活していくための”仕事(または会社)”の丸が在り、その重なり合う部分もあり、大抵は、そのふたつ(家庭と仕事)の丸の重なり合う部分で結構いっぱいいっぱいになっちゃうんだけど、それ以外のその他の丸の重なり合う部分の存在が重要だ!、って理論。世に言うマザコンでファザコンで、自立していない依存症の人間が陥る不自然な在り方が曝け出されていて、正直、ドキッとさせられた。否定できない。

そうそう、自立した女性、― 頭が良くって、お家(上流階級)も良くって、ちゃんとした教育を受けて、環境を与えられて、深い深い考察と高度な判断能力と豊富な知識と教養を持ち合わせていて―、だからこそ、doing nothinng(家事とか何もしない・・・)をモットーに、異国の地で、自力で生きていける。嫉妬しちゃうほどに、羨ましい、尊敬に値する。


実は、短篇の爽快な心地好さのイメージで挑んだ私には、中篇の内容盛り沢山の、哲学や思想が熱く籠められた物語に、正直、違和感を感じつつ、、、
もうもう、色々考えさせられて、
ひとつには、やっぱり15年もの年月を、多くの読者の支持を受けて、活躍されている人気作家の、バックボーンの底知れない深さと、その哲学と思想と豊富な知識。
だからこそ感じてしまう、自らの不甲斐なさ。自らの不勉強が招いた、やるべき時にやるべき努力を怠った絶対的な自らの責任を、それでもやっぱりなかなか受容れ難くって、ついつい現実逃避して、誰かのせいや、社会や世間のせいにしたくなる、どうしょうも無い存在であり、その現実。
多角的な側面、時に現在を形成するに至る過去であり、その深層に踏み込んだ解釈を求め、導き出すために、だからやっぱり、ますます深まり高まる興味。









「あなたのそばで -野中柊」読みました。5


あなたのそばで
著者: 野中柊
単行本: 264ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/9/8)




”はじめて千鳥ちゃんに会ったとき、なんだか、僕は懐かしい気持ちになった。なぜなのか、すぐにはわからなかった。でも、今は、こんなふうに思っている ―彼女は、明信さんや僕の心の隙間にぴたりと合うかたちをしているせいじゃないかな?と。”
 〜「さくら咲く」より抜粋〜

”「知ってるんでしょう?気づいているんでしょう?なのに、恭子さんは、そんなふうに悠然と構えて」
鼓膜と唇が凍ったように感じられて言葉もなく立ち尽くしていると、彼女はさらに言い募った。
「私はおふたりの世界から、いつ追放されちゃうのかと、いつもびくびくしているんですよ。こわくってしょうがない。私、俊さんのことも好きだけど、恭子さんのことは、もっと、もっと好きなの。私が恭子さんに成り代わりたいくらい好き。あなたなんて消えてしまえばいいのに」
椿ちゃんは涙をぽろぽろこぼした。
孤独の扱いを心得ていないのだろう。痛々しい。でも、気前よく盛大に涙を流すことがでっきる彼女が羨ましくもあった。
私は手を伸ばし、椿ちゃんの手首をつかんだ。そして、ゆっくりと引き寄せ、彼女の涙にくちづけた。
・・・
死んでも、生まれ変わって、また出会える。私たちはふたたび共に生きることができる。なんとなく、そんな気がした。”

 〜「運命のひと」より抜粋〜


最近、お気に入りの”野中柊”、心を揺さ振られて、堪え切れない。どっぷりと、深く深く沁み込んで、電車の中では堪えることができても、ひとりの部屋では嗚咽が涙が止まらない。
結構、本質的な心の深層に踏み込んだ、生々しい”物語”なだけに、所謂、世間的に”常識”的といわれる方には、嫌悪感を感じるのかな?!、とも。

心を揺さ振る短編が、緩く微妙に絡み合う、連作六篇。
時に痛く、それでも、本能にびんびん響いて、やっぱり心地好い。

だってね、「運命のひと」では、
結婚して互いにフリーなデザイナーとして共同事務所で一緒に仕事をしている夫婦でありながら、男は、アルバイトの女子大生(椿ちゃん)と、肉体関係があって、主人公の女性(恭子ちゃん)は薄々気が付いていながら、それでも、敢えて容認しちゃっていて、だからという訳では無いんだろうけれど、輸入雑貨屋さんの吉田くんと、やっぱり肉体関係がある。狭い世界に絡み合う人間模様、愛?、恋?、本能?、欲!
で、物語の締め括りは、それなのに”運命のひと”なのである。

おいおい、ちょっと待て!!、倫理とか、貞操観念とは!?、、、
何てことを持ち出そうモノならば、話しは早い、”野中柊”を読まなければいい。ただそれだけ。要は、手にして、読み切っちゃう人は、それなりに何か思うところがあるのであって、世間の”常識”と、自らの本音の心との”矛盾”であったり、運命やら宿命やらの、ある意味での”悪戯”みたいなものに、何か思うところがあるのだから。それが、善いとか悪いとか、そういう次元を超越しちゃって、自らの気持ちに正直に素直に生きる、当然に風当たりは強く、波風は立つけれど。だって、みんな生身の人間で、それぞれに真剣に一生懸命に生きているんだもんね。
それでも正直、いまだに私にはとてもとても理解し得なくって、受容れ難い事実であったりするんだけど。

時に、身近な大切な人(妹、父親、母親、祖父母)の”死”が、与える”心の痛み”。
誰かに話したところで、その痛みは、一度刻み込まれた”傷”は、決して消えることが無い。誰かに打ち明けて、年月を経て、記憶が徐々に薄れ、傷が少しずつ小さくなり、痛みが薄らぐことはあったとしても、一度受けた痛みや傷は消えない。
それでも、運命や宿命に導かれて、ある意味では必然に導かれて、引き起こされる現実。どんなに抵抗しても、足掻いたとしても、やっぱり、その必然には抗えない?!、それさえも現実。
であるとするならば、その必然の流れに身を委ね、圧倒的に現実を受容れちゃうしかない?!
それでも、それにもやっぱり時間が必要であろう。時間では解決されることが無い現実もあるけれど、決して、時間が経過しても消滅することが無い現実。
とどのつまり、心の持ち方であり、考え方でもあろうか。
やっぱり、心の整理は、自らが付けるしかない!、頭では理解した気になっても、それでも、そんなに簡単なことではない。


著作の数に比較して、プロフィール情報が極端に少ない、ミステリーに満ちた小説家に、私の興味は尽きない。








「このベッドのうえ -野中柊」読みました。5


このベッドのうえ
著者: 野中柊
単行本: 205ページ
出版社: 集英社 (2007/02)




正直なところ、達矢に出会って、自分のことがわからなくなった。彼について知らないということ、以上に私は私自身を知らないということに怯えているのかもしれない。理性を失った闇の中で、恋する者たちは、たぶん、だれもひとりぼっちだ。それでいて、日常の中で、彼も私も、今ここにある、からだと言葉を使って、互いを確かめ合おうとする。凡庸で当たり前のやり方で。ほかに方法がないことをもどかしく感じつつも。

「うん。そう。食べちゃった。男のひとからもらったアクセサリーも、洋服も、本も、小物も、喜びも、悲しみも、痛みも、なにもかも、むしゃむしゃ食べて、血になった。皮膚になった。肉になった。骨になった。身につかなかったものは、きっと排泄しちゃったのね。トイレでざぁぁぁっと水に流しちゃった。すっきりした」

 〜「なんでもない感情」より抜粋〜


前日読了の「歳月 -茨木のり子」に引き続き、新潮社の女性誌「旅 2007年06月号」の”旅に持って行く本”で紹介されていて、手にしました。実は、先に「祝福」を手にしていたので、野中柊、2作品目となりますが、ますます高まる興味、関心。まだまだ遡って理解を深めたい。

8編の恋の物語。
明確な年齢設定と状況設定、呼び戻される過去の記憶。やっぱり、自らが積み重ねた過去の経験って、現在の人格というか、性格というか、環境や状況を理解するのに、圧倒的な関連性を有する。浮かび上がる背景。
どんなに取り繕っても、本心を隠したとしてもで、無理をしていると、何処かに歪みが生じて、安定性を欠いた状態は、長く継続できない。まぁ、それもこれも、全て経験だから、自らがやってみないと分からないことで、やってみたから、経験したから理解できることって少なくない。失敗して、痛みを感じて、やっと気が付くことが結構あって、それまでは周囲の好意からの忠言も、なかなか受容れ難かったりもする。
それだけに、自らの経験は、その過去の記憶が呼び戻される時点で、より一層、その現在の人格形成に影響が大きかったことも事実であろう。それは、時に、大切な人の”死”でもあり、、、

物語で、恋する登場人物たちは、皆アルコールを口にする。
アルコールの効用(医学的な根拠も無く、想像の域で書き記すことの無責任さを承知で!?)として、気分の高揚と、現実逃避があろう。
実は、先日手にした「祝福」では、かなり具体的な性描写が盛り込まれていて(詳細は既に記憶に無いが・・・)、ちょっとした驚きを感じた。またその表現が、素直で自然であったから、全く違和感を感じることが無かったのでもあるが。当然に、恋物語を描くのであれば、愛する者同士の自然な、生理的な行為として、欠かすことが、むしろ不自然でもあったりする!?
その表現が、本作品「このベッドのうえで」では、マイルドな印象を受けた。人間の、特に私の記憶など、全くもって不確かで、いい加減なものであるので、あくまでも印象であるのではあるが、、、 ここにも、口にされたアルコールの効用があるのかな?、などと想像した。アルコールによる高揚感と、一方で繰り広げられる、現実逃避の妄想や想像の世界。妄想や想像の世界は、それだけで愉しい世界でもあり、現実を描くよりも、ある意味ではよりリアルであったりする。それ故に、現実を厳しく直視する必要性が薄れた?! まぁ、初出誌のカラー(読者層)の違いなのであろうが。
かくいう私も、ついつい、現実逃避の妄想の世界に耽るために、太陽がまだ高い時間から、アルコールを口にしてしまう。

素敵な装丁も、溢れる感性の物語に色を添え、手にするだけで、豊かな気分になれる。









”不在という存在感”の妙。

「祝福 -野中柊」読みました。5


祝福
著者: 野中柊
単行本: 206ページ
出版社: 角川書店 (2006/9/26)




私はずいぶんと大人げなかったと。思う自分だけが傷ついていると思いこみ、その痛みに耐えるのに精いっぱいで、貴義さんの気持ちをほとんど考えることもせず、残酷に振舞ってしまった。私はいつだって、そうなのだ。「危ないよ」と止められようと、勝手に愛し、勝手に求め、勝手に離れていく。男のひとが傷ついて血を流そうが、そこに美しい花や果実を見てしまう。
・・・
「きみに去られるとき、どうしていいか、わからないくらい、つらかったからなあ。精いっぱい、かっこつけて、とにかく自分を救いたい一心で、口走った科白だったのかもしれないね」

 〜「しゃぼん」より抜粋〜

姉も私も、幾度かの出会い恋と別れを経験して、知ってしまった。わかってしまった。赤い糸なんてものはない。そんな丈夫な糸は、この世には存在しない。
代わりに、あるとしたら、銀の糸。・・・
たぶん、銀の糸は、運命に導かれつつも、自分の責任で選んだ相手と意思的に結ぶもの。しかしながら、意思だけではどうにもならないこともあって、儚く、もろく、切れやすいものなのかもしれない。その一方で、思いがけず強いものであるのかもしれない。たいせつにしてね。姉の言葉が胸にしみる。
銀の糸も、やはり目には見えないけれど ―
光を受けて、きらりと輝く瞬間がある。
その美しさは、せつないほどだ。

 〜「銀の糸」より抜粋〜

めちゃくちゃにして、と懇願する。
どうせ、ひとはいつか死ぬのだから ― だれもが、この世から消えてしまうときが来るのだから、たった今だけでも、生きることをおそれるのはやめましょう。目の前にいる愛しいひとに言いたいことがあるとすれば、それがすべてだと思う。

 〜「遊園地」より抜粋〜

なんといっても、生きていくのは、たいへんな大事業だ。つらいことや悲しいこと、苦しいことを避けて通ることはできない。それが骨身に染みてわかっているからこそ、私たちは、ささやかなキュートなものに慰められ、励まされる。女の子だったら、程度の差こそあれ、だれもが日常の中で感じていることではないかしら?
 〜「祝福」より抜粋〜


六つの短篇集。
深い悲哀に満ちた物語。
どちらかといえば、相当に痛い?!
痛すぎて、痛くて痛くて泣ける。
丁寧に詳細に描かれる人物やその背景、過去の出来事。情景や景色、その背景や雰囲気までもが匂いまで感じるほどに、言葉で、文字だけで表現される。
短篇だからこそ、必要最小限の、一切の無駄を排除し、削ぎ落とされて、紡ぎ出された物語。ひと言が、ひと文字が、重い。その重さが、心に沁み込む。離れ難い感情に覆われる。
深夜のひとりの部屋では読むべからず!?


著者の野中柊は、1964年生まれとあるから、現在43歳前後。
ネットで調べても、あまり詳細な情報が得られない。 ちょっと、秘密のベールに包まれた(?!)、お写真からは可愛らしい感じの細身の女性と。
とっても気になります。


そして、物語に、必ず年齢が詳細に書き記されるのは、そこに意味があるのであろうか。
20歳代であり、30歳代の、女性であり、男の視点からも描かれる。
結婚生活が平穏に営まれる日常の物語もあるが、断然興味を惹かれるのは、20歳前後の過去の若い(?!)恋愛経験の想い出から導き出される、現在の生活。子供がいてシングルマザーになっていたり、不毛な関係中であったり。それでも、様々な思いを胸に、淡々と今を生きる現実。

上手く表現できないけれど、もっと知りたい。


新潮社の女性誌「旅 2007年06月号」の記事”旅に持っていく本。”に「このベッドのうえ」が紹介されていて、何か気になって、何となく手にした、不思議な縁。
本との出合いも、ある意味では、その必然に導かれていて愉しい。









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