Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

柳美里

本「月へのぼったケンタロウくん」柳美里 (2)5


月へのぼったケンタロウくん
著者: 柳美里
単行本: 159ページ
出版社: ポプラ社 (2007/04)



けんたろうくん
月へのぼっておいで
けんたろうくん
六さいになったら
会いにおいで
月で待ってるよ


けんたろうくんは、おじいさんに会いにいこう、と思いました。
どうしたら、おじいさんに会えるのかはわかりませんが、
・・・  (P.133)

実は、小学校六年生になる我が娘に薦め、彼女が読み終えた後、2007年12月16日読了以来の再読。
ぼくは基本的には再読をしないことにしているんだけど、人に薦めた手前、内容を再度認識しておきたかった。ぼくが再読を好まないのは、今のところ、より目新しい情報の習得を好んでのこと。歴然とした知識、情報不足を自負しているから。一方で、精読による理解の深化を求める意義だって否定できないのではあるけれども、限られた時間の活用方法として、今時点でのぼくが選択したのが、「新しい情報を読み込む」。いつ変わらないとも限らないし、方法に拘る理由もない。

柳美里(1968- )の著作を、その存在を、まだ若い(幼い)と言わざるをえない(?!)11歳の少女に与えることの是非は、少なからずぼくの頭を悩ませた。彼女はまだまだ少女であるとはいえ、世間のさまざまを、善しにつけ悪しきにつけ、急速に認識しつつある年頃で、それまでの社会全体(家族親戚、学校、地域社会など)の庇護の下から、独り立ちを果たすべき(?!)時期を避けることはできない。仮に、子どもの親という立場であっても、子どもの独り立ちに直接的な関与はできない。まさに、『独りで(自らの意思と行動によって自らが)立つ!』のであろうから。むしろ、近しい庇護者が積極的な関与を放棄(?!、干渉しない、無関心をよそおう)することが、より一層の独り立ちを助けようけれども、それでも反面、無関心であることは好ましくない。親の、子どもの教育に対する社会的責任を否定することはできない。ところが、子どもに対する親の社会的責任の範囲にもまた個人差があるものであり、一概に単純な判断ができるものではない。必ずしも親が子どもの教育の責任のすべてを担う必要性はないし、また、子どもの親とはいえ、それがすなわち教育者としての権能を備えているとは限らない。むしろ、教育者としての権能などとは無縁の場合が少なくない。








本「柳美里不幸全記録」柳美里5


柳美里不幸全記録
著者: 柳美里
単行本: 803ページ
出版社: 新潮社 (2007/11)




そう、2001年11月20日から2006年4月6日までの1599日、毎日ではないし、長期間の中断(2003年6月30日から12月31日)をも経て、“柳美里”が綴った『交換日記』は、新潮社月刊誌「新潮45」に2002年1月から2007年7月までの5年半に亘り連載されたものの書籍化。
全803ページに書き綴られる記録は、2000年4月20日に死した“東由多加”に渡す(渡したい!?)日記。しかし一方、その募る想いを自らの胸の内だけに留めることなく、言葉として文字として表出させたことによって(メディアに載せずとも!?)、“語られ”たものが、“騙る(かたる)”(“騙る”については、池田晶子「リマーク 1997-2007(トランスビュー,2007.7)」に詳しい)になることを避けられない。自らの想いを言葉として表現するには、どうしたって整理や編集が必要とされて、それは意識せずとも勝手に行われてしまうものでもあり、自らの胸の内に秘めた想いをそのままに表出させることは現実的な困難を伴う。ある意味で、ほんとうの“想い”とは、言葉以外の表出、例えば、表情やしぐさ、目や体の動きなどによって、理解を深めた当事者間でのみ執り交わされるもの。


今日から日記をつけることにしました。
むかし、わたしが東京キッドブラザースの研究生だったろき、日記を書くことが義務づけられていましたね。あなたは、「1冊の日記帳を劇場だと思って、1日1日に光をあてて、ドラマを創ってください」といいました。定期的に提出して、あなたに感想を書き込んでもらうことになっていましたが、わたしの日記帳だけは返してもらえませんでした。
日記を提出した翌日、あなたに呼ばれました。わたしは演出台の前に正座し、うつむいてあなたの言葉を待ちました。あなたとの交換日記のつもりで、あなたに対する思い(面と向かって口にしたら、関係が終ってしまうような怒りや憎しみや恨み)だけを綴ってあったからです。
「あなたは書く才能があります。演じるよりも書いたほうがいいかもしれない」
書く才能があるといわれたことよりも、演じる才能がないといわれた(のだと思った)ことが大きくて、うつむいたままつぎの言葉を待ちましたが、そのことについてはそれっきりでした。
もう1度、あなたに日記帳を渡します。
今度は感想を書いてください。 (P.8)

≪目次: ≫
 もう1度、あなたに日記帳を渡します―2001.11.20‐2002.1.3
 ハッピー・バースデー・トゥ・ユー―2002.1.9‐2002.5.4
 哀しみが夢の裂け目からあふれ出す―2002.5.5‐2002.6.16
 隅が黄ばんだ白い紙―2002.6.17‐2002.9.13
 命がけで護っているもの―2002.9.14‐2002.11.12
 あなたに向かって言葉を―2002.11.13‐2002.12.30
 今日から新しい日記帳になります―2003.1.1‐2003.4.10
 痛いッ!やめて!―2003.4.11‐2003.6.29
 美里 帰ろう―2004.1.1‐2004.4.20
 思い出にしないでよ!―2004.5.12‐2004.10.9
 難しいな、とつぶやく―2004.10.9‐2004.12.24
 たんじょうびはだいすきさ―2004.12.25‐2005.1.23
 雨の音が強くなりました―2005.1.24‐2005.5.3
 隠遁を夢みています―2005.5.4‐2005.6.17
 毎日書く走る―2005.6.18‐2005.8.9
 いつか、返事を書いてください―2005.9.3‐2006.4.6


7年が経ちました。
わたしは、あなたの死に慣れるつもりはありません。
わたしは、あなたの不在に適応するつもりはありません。
あなたは死に、わたしは生きています。
ふたりが、時間で隔てられることのないように、わたしはこの交換日記を書き始めたのだと思います。
言葉で、時間を堰き止めるために―。 (P.793-P.794)

どうしても、ぼくは簡単に軽薄に書き記すことをしたくない。
全803ページ、803分(読み飛ばせない、1ページに約1分を費やす)=13時間23分≒13時間。








本「雨と夢のあとに」柳美里5


雨と夢のあとに
著者: 柳美里
単行本: 283ページ
出版社: 角川書店 (2005/4/8)




濃密な”死”。
堪え切れない。流石に電車の中では、目を潤ませ、時折鼻を啜るくらいに止め、、、自室にも辿り着いた後に、ひとしきり嗚咽をあげて泣く。そういえば、しばらく泣いていなかった。
ぼくは、ときどき”柳美里”を読みたくなる。時にむちゃくちゃにキツイし痛いし、露骨に暴力的でグロテスクな表現を見せる。まぁ、その表現も嫌いじゃない(ちゃんと読んでしまう、ということは興味がある!?)んだけど、あえてその表現をする、せざるを得ない心情というのか、その部分に抱かれる深い興味。
破滅的!?、狂ってる??
そう、きっとぼくの中の破滅的な部分が反応する。目の奥がチリチリと焦げるような衝動、周囲が真っ白になり、ソレイガイニナニモカンガエラレナクナル・・・

死によって、現実の世界での存在は消失する。
死を迎える直前までは、そこに在った。平気でフツーに当たり前に。








本「月へのぼったケンタロウくん」柳美里5


月へのぼったケンタロウくん
著者: 柳美里
単行本: 159ページ
出版社: ポプラ社 (2007/04)




僕が本を読む時に心掛けることは、頭を空っぽにすること。
でき得る限り、先入観や固定概念を排除する努力をする。と既に”排除する”と言葉にしている時点で、先入観や固定概念の存在が自らの中に在ることが明確な訳で、宣言さえも必要とする、虚弱体質。
当然にその作業は、読む本を手にする前の段階から始まっているのであって、何らかの自然な流れに導かれるまま、ジャンルを問わずに本を手にする。

と、僕は児童書を手にしている”おとな”を正当化する”言い訳”を展開する。あぁまったく、既に先入観バリバリ!?、素直に「柳美里が読みたかった!」でいいじゃないか!?、「あの柳美里が、どんな児童書を書き記すのか興味があった」んでしょ?!、「ハイ、そうです。。。」


堪らない、、、
濃密な”死”の世界を描く物語は、不思議な共感を覚える。思い起こされる自らの子供の頃の記憶、”死”に対する得体の知れぬ”怖れ”。

僕は、幸か不幸か現時点においては、ごく身近な大切な人を亡くしていない、経験が記憶がない。とはいえ、それなりの年齢を生きてきて、それなりの社会生活を送っているので、身近な仲間にまで対象を広げると、日常的という言葉は決して適当ではないと思いつつも、少なからず思い当たる。親であり、親友であり、、、、大切な人を失い悲嘆に暮れる仲間の姿に、僕は掛ける言葉を失う。その心中を察するに、落ち込んでいるからと言って簡単に励ますのもどうかと思うし、無理に元気を装う姿には痛々しさを感じてしまう、何をどうしたって当事者だって、どうしていいやら心中穏やかならざる状態で混乱をしているであろうし、その混乱を拭い去る術を僕は持たない、無責任な言動は失礼に当たると慎重にならざるを得ない、無力感。

”死”を迎えることによって、この世の中における”存在”は失われる。
それまで在った、人間の肉体という”存在”の”不存在”。日常の中に少なからず”存在”していた、空間であり、痕跡、記憶。無意識な程に日常的な”存在”は、無意識であったが故に、敢えて意識をせずとも、ふと思い起こされる、記憶、痕跡、空間、匂い、、、 ”死”が絶対的に”存在”を有しない訳だから、新たな上書き(更新)がされることは無いけれども、どうしたって歳月を経ることによって薄れていっちゃうことを否定できないけれども、だからこそ、だからこそ、だからこそ、募る想いがあろう。募る想いを大切にしたい、大切にして欲しい。
”死”について、真剣に考えれば考えるほどに、”生きる”ことが絶対的に浮き立つ。
”生きる”ことを全うすることなく、”死”してなるものか!!


一方では、どんなに抗ってみたところで、無情とも思える”死”の絶対的な存在。







本「山手線内回り」柳美里5


山手線内回り
著者: 柳美里
単行本: 499ページ
出版社: 河出書房新社 (2007/8/25)




え〜っ、何で死んじゃうの?!
「危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください。」

JR山手線に飛び込み自殺をして幕を閉じる物語、三篇。
自らの生命を、自らの意思と行動によって絶つに至るまでが描かれる。リズミカルなテンポで展開される物語に、”死”の翳(かげ)は見当たらない。(ただ鈍いだけなのか?!) 何気ない日常生活、気になることがない訳でもないが、さりとて、生きていれば何もないことなど有り得ない、重大な注意を払うまでもないレベル?! むしろ、その何気なさが、死に至らせる重要な要素。決して遠くない、身近な”死”。自ら手を下すか、宿命の訪れに因るものかの違いこそあれ。”死”を意識しないで生きられる人間はいない。

新潮』(新潮社)と『文藝』(河出書房新社)に発表された小説。
山手線のイメージカラーは、ウグイス色(緑色)。装丁も緑色。
柳美里、直前の小説「」(扶桑社,2007.7)も、実は、”黒”の時代から”白”(東由多加の死、たけはるの誕生)を経て、現在の”緑”状態を描く。
”緑”色の”柳美里”。
結構難しいよね。世間の印象は、柳美里=”黒”。悪、烈しく鮮明に描かれるセックスと暴力、人間の本能、衝動。愛と、その裏側に潜む憎しみ、ドロドロ、酒池肉林!?
ファンの心理。共感を覚え、崇め、縋り、支持してきた読者が求めるのは、”黒”。

人間は、日々変わる。年齢を重ね、経験や知識を重ね、学習して、周囲の状況の変化に順応する。常に同じであることは有り得ない。変化し続けること、それが生きている証し。

劇作家として二十年弱、小説家として芥川賞を受賞して十年。
生きたくなかった。自ら傷付けて、生命を絶ちたかった。
愛し、愛されることよりも、傷付き、傷付けることを求めた。
けれども、決して絶たれることが無かった自らの生命。
自らを好きになることができずに、滅茶苦茶をやって、いつ何時絶たれたとしても不思議ではない生き方をしてきたのに、それなのに、大切な生命が自らの目の前から失われていく。
”わたしの身代りに死んでしまった・・・”

与えられたのは、新たな生命体。
豊かに育つ。わたしを必要とする生命体。
それでも、”そのとき”が訪れれば、何があろうとも、何も無かろうとも、絶たれてしまうのかな?!


ぼくは、宿命を信じる。
死ぬべき時が来れば、死ぬだけ。どんなに抗ってみたところで、宿命に対抗はできない。対抗する必要がない。時期が訪れた、ということだから、無理して生きるべきではない。
生きている今は、生きる宿命にあって、生きる意義があって、生かされている。どんなに辛く苦しくったって、生かされているってことは、生きる意義があるってことで、その意義が何か分からなかったとしても、とりあえず与えられた生命を、人生を生きるしかない。考えたって仕方がない。分からなくったって仕方がない。生きているって事実だけ。与えられて生きるだけ。
ただただ生きるだけ。
ただ生きるだけ。
生きるだけ。








本「黒」柳美里5



著者: 柳美里
単行本(ソフトカバー): 208ページ
出版社: 扶桑社 (2007/7/21)



おれのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)はただひとつ・・・柳美里の一員として創作活動をつづけること・・・二人三脚で・・・いっちにッ、いっちにッ・・・
二〇〇〇年四月二十日に、五十四年の生涯を閉じた”東 由多加”は、今現在も、小説家”柳美里”の創作活動に、日常生活に携わる。十五歳の少女の頃に出逢い、共に過ごした歳月、記憶。

今現在の小説家”柳美里”は、”緑”。
2007年4月には、初の児童書を出版し、ますます創作活動に勤しむ。
”やなぎたけはる”という、自らの腹を痛めてこの世に生み出した生命体を得て。たけはるとの生活は、時に自らの幼少の頃の記憶をよみがえらせる。今現在の自らを形成するに至る過去の記憶。

壮絶な癌との闘いの末に、”東 由多加”がこの世を去って、経過した七年の歳月。新たな記憶が上書きされることはない。
日々積み重ねられる日常生活、埋もれ行く記憶。一方で、鮮明に自らを支配する記憶。決して消え去ることがない記憶。

二〇〇〇年四月二十日の”白”を迎えるに至る、一九九五年二月一七日、”黒”。
運命の分かれ道。
人生に”もしも”はない。今現在の現実の実体が全て。過去を振り返って、どうにかなるものではない。どんなに悔いても、過ぎ去った歳月を取り戻すことはできない。
それでも、それだからこそ、自らの心の内に深く刻み込まれる。
あまりにも鮮明な記憶に、そっと寄り添う愛猫”クロ”。クロの命日、一九九五年二月二十七日。
一九九五年二月一七日、本日は晴天なり、本日は晴天なり。








「名づけえぬものに触れて -柳美里」読みました。5


名づけえぬものに触れて
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書評/エンタメ・タレント



・・・ もちろん偶然ですが、意味のない偶然などない、とわたしは思っています。
 〜2005年04月15日 夢のあとで 〜

で、わたしはなんでもかんでも書く作家だと思われているでしょう?
わたしは秘密を明かしたことはありません。
わたしにとって、秘密も、秘密にすることも、とても大切なことだからです。
だって、秘密にするほどのことなんだから。
ヒ、ミ、ツ。
 〜2004年10月25日 ひそひそこそこそしないヒミツ 〜

芥川賞作家 柳美里のエッセイ集。
公式サイト「La Valse de Miri -柳美里オフィシャルサイト」内のブログ「名づけえぬものに触れて」(2004年1月7日〜2005年7月7日)に、柳美里自らが書き綴った130篇の著作化。

本が好き!PJ”からの献本。


読み慣れない横書き、上下開き。ページを捲る手が覚束ない。
柔軟性を失い、凝り固まった頭には、正直キツイ。

その表記の意図に、”ブログ”という新たな表現形態の、その表示状態に酷似させることによる臨場感があろう。

不思議な感覚なんですが、死者であるはずのらばるすさんも、現実にはお目にかかっていないネット上の人物だからこそ、まだこの世に存在しているような気がするんです。性別、年齢、国籍 ― ネットは境界のないメディアですが、生死の境さえも、いい意味においても、曖昧にするのではないでしょうか。
 〜インタビュー 日経クリック2005年3月号「日本人とデジタル Vol.7」〜

何の脈略も、緊張感さえも無く、唐突に展開される書き込み。
生活感。生きて、日常生活を送る情景が目に浮かぶ。
好いことだって、悪いことだって、日常の中には、フツーに溢れている。どちらかといえば、好いことは少なく、悪いことは結構多い。それでも、淡々と過ぎ行く毎日。

ブログという表現形態で、気軽に書き込みできるが故に、推敲を重ねた小説作品には見られない、本音が垣間見える。
小説作品に見られる、緊張感に研ぎ澄まされた言葉たちとは、趣を異にする。

息子との生活。自らの腹を痛めて、この世に産み落とした”命”。
亡き東由多加との思い出。
大ベストセラー作”命 四部作”に感動を覚え、全四作とその他何作かを貪るように読み耽った記憶が鮮やかに甦る。ある部分では強い違和感を覚えながら、それでも、目を背けることができず、それでも受け容れることもできなかった、過日の私。

そして、今のカレと幼稚園に通う息子との、三人での共同生活。
カレは学生?!で、創作活動と育児に追われる”柳美里”との、不思議な関係。
子供が居れば、幼稚園での生活リズムや付き合いがあり、地域社会との近所付き合いだってある。面倒臭いけれども、それが現実であり、どんなに避けたとしても、完全にシャットアウトはできない。

書き綴られる言葉。
時折、グッと来る。
堪え切れない。
言葉の力。


ブログが開設された日は、2002年11月に自ら命を絶った”らばるす”さん(柳美里の読者のひとり)の29回目の誕生日。
その日の意義。
そしてその日は、「天才をプロデュース?」著者のオフィス北野 代表取締役 森昌行の誕生日でもあり、何を隠そう私の誕生日でもある偶然。

そして、柳美里の誕生日、6月22日。            
 to Y・・・

空がきれいだね、・・・ ひとりでも思わず口にしています。
 〜2004年11月18日 空 〜









「男 -柳美里」読みました。5



著者: 柳美里
文庫: 234ページ
出版社: 新潮社 (2002/06)



平成12年2月刊行、「柳 美里」著作のエッセー集です。

人間の本質である欲望、特に性に関するあまりにも克明過ぎる表現に溢れるため、電車の中では、周囲の視線を気にしながら、読むことにはなりましたが・・・

何はともあれ、楽しく読み進めることができました。
人間が 煩悩 の塊であり、種類の差こそあれ、常にそれに苛まれて生き続けていくものであることを、あらためて認識させられるのである。

しかし、作家とは、何と過酷な職業であろう。
自分自身の『魂』を削り取り、それを世に送り出す作業にその人生を費やす。
私のような凡人には無縁な、殊勝さを痛感する。
そして私は、それに触れることができることに、心から感謝をしたい。

「ゴールドラッシュ -柳美里」読みました。3


ゴールドラッシュ
著者: 柳美里
文庫: 398ページ
出版社: 新潮社 (2001/04)



いつもの図書館で、借りたい「村上 春樹」が見当たらず、何気なく手にした「柳 美里」。
1998年11月刊行の作品です。
何年か前に、「命 4部作」に深い感銘を受けたことを思い出し、その欲望を剥き出しにした激しい作風に触れたくなったのです。

私の期待は裏切られませんでした!
決して、軽やかなリズムに乗った爽快感が得られることは無いのですが、ぐいぐいと引き込まれ、その展開と表現方法、人間の本質的な欲望を包み隠すことなく、全てを曝け出し、克明に描き出す手法に、あらためて感服です。
多くの普通の人達が、表現されることを嫌悪する性欲、暴力を、ここまで詳細に言葉として刻み込む作業は、常人の域を超えた特殊な才能と、その人生に刻み込まれた激しく、厳しい経験によるものであるとの想像が難しくないのです。
荒々しさも堪らない・・・
あ〜、楽しかった!
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