Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

池田晶子

本「魂とは何か さて死んだのは誰なのか」池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編5

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魂とは何か さて死んだのは誰なのか
魂とは何か さて死んだのは誰なのか

○著者: 池田晶子NPO法人 わたくし、つまりNobody
○出版: トランスビュー (2009/2, 単行本 256ページ)
○価格: 1,575円
○ISBN: 978-4901510738
おすすめ度: 4.5
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ぼくはただただ善く生きたい。
ところで、善く生きるとは?、善いとは?、なにを基準とした〈善い〉であろうか。主体としてのぼくにとっての〈善い〉。果たしてぼくの考える〈善い〉は、ホントウに善いことなのか。もっとも、善く生きたいと欲するぼくは、そう欲している時点においては、〈善い〉状態に満たされているわけではなく、いまが善い状態にないからこそ、将来には善く在りたいと欲するのであり、すでに善い状態にある(と思っている)のであれば、わざわざ意識して欲することもないであろう。現時点において明白に善くない状態にあるぼくの考えや行動の判断は、善いものではないであろう。それでもぼくは、ぼくをして善く生きたい。生きるのは〈ぼく〉。考えや行動や判断が、いまだ善くない(場合が少なくない)ことを自覚しつつ。
善く生きたいと欲することができなくなったとき、善く生きることが絶望的に不可能事となったとき、それでも生きるべきかどうなのか(自死を選択する可能性)。それでも、(病死や事故死や突然死することなく)生かされている以上は、生きる(自死の選択を否定する)べきであろうとは。


≪目次: ≫
機〆欧鮃佑┐
ポスト・オウムの〈魂〉のために/〈魂〉の考え方/〈魂〉の感じ方/〈魂〉の理解のしかた/少年Aとは何者か/脳死と「人の」死/〈魂〉のインフォームド・コンセント/六月の病室で/何が生きているのか/読者からの手紙
供,修凌佑鮃佑┐
埴谷雄高大森荘蔵/大森荘蔵氏の印象/思索的想像力の形式について――埴谷雄高氏/般若豊さんのこと/情熱の形而上学――井筒俊彦氏/藤澤令夫氏のこと/哲学者・藤澤令夫さんを悼む/古い名前――中村元氏/新聞記者/普通のような普通でない人/いつもいつも一緒だった/犬の力ふたたび
掘〆欧鮓譴詈限里
ある人がその人である、という問い/考える不思議、「常識」の不思議/古い言葉を想う
検〆欧痢峪筺廚鮴犬てゆく
センチメント/謎の日々/天才の生き方について

あとがき(旧版『魂を考える』より)
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≪著者: ≫ 池田晶子 (いけだ あきこ) 1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。文筆家。専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。著作多数。とくに若い人々に、本質を考えることの切実さと面白さ、存在の謎としての生死の大切さを語り続けた。2007年2月23日没。その業績と意思を記念し、精神のリレーに捧ぐ「わたくし、つまりNobody賞」が創設された。本書は、同賞の運営団体であるNPO法人わたくし、つまりNobodyの編纂による。

池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編 『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社、2009/4) '09/08/16
池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編 『私とは何か さて死んだのは誰なのか』(講談社、2009/4) '09/07/30







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本「死とは何か さて死んだのは誰なのか」池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編5

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死とは何か さて死んだのは誰なのか
死とは何か さて死んだのは誰なのか

○著者: 池田晶子NPO法人 わたくし、つまりNobody
○出版: 毎日新聞社 (2009/4, 単行本 256ページ)
○価格: 1,575円
○ISBN-13: 978-4620319278
おすすめ度: 5.0
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カード型の健康保険被保険者証が更新されて新たに交付されて手渡されたのは数週間前のことと記憶しているのだが。ちなみに交付日は平成21年6月22日とある。もっとも使う気がない、医者の世話になる考えがないのだが、保険料を給与から天引きされて支払っているので携行してはいる。
そう、古い保険証との差異について。オレンジ色から水色に変わったことはどうでもいいこと。裏面の記述にしばらくのあいだモヤモヤと考えさせられていて、やっとなんとなく現時点での(結論めいた)方向性のようなものを見出したので書き記しておく。いわゆる「臓器提供意思表示カード」が兼ねられているようなのだ。
結論めいた現時点でのぼくの方向性としては、明確にノー、「3. 私は、臓器を提供しません。」。しかし、わざわざみずから書き記すことをしたくない、自筆署名や書名年月日などどうして書きえようか、ホントのところ目にすることも考えることも避けたい気分。急いで付け加えるなら、ずいぶんと迷った、提供すべきなんだろうなぁとボンヤリ思っていた、提供しないことは非人間的な人間として許されない行為なんじゃないかとまで真剣に考えた、と。
これは親に感謝しなければならないことなんだろうけれど、ぼくは健康に恵まれて、これまで大きな病気をしたことがない。来年早々には40歳を迎えるいまも、老化を感じていないわけではないけれど、万全で不安も心配ないというわけではないけれど(細かいことを言い出せばキリはない)、クロスバイクでのトレーニングの成果もあってか、おおむね健康体であると言っていい状態。むしろ、これまでに病苦を経験していないだけに、他者が病気にかかることにたいする理解に乏しいことをときどき懸念したりしないでもない。そんなこともあって、健康維持というのか体調管理もみずからの意思において主体としてかかわりたい!、などと考えるには、医者といえども他人にわが身を委ねて、主体として在ることができなくなるのであれば、さらには、医療技術の恩恵を享受しなければ健康を、もっと言うならば生命を維持できないのであれば、そこまでして生存するに値するのか?、などと、現在の健康体のぼくは考えてしまう。もしかしたら、実際にその場面に陥ったときに、医者であり医療技術に泣きついてでも、ぼくの生命をなにがなんでも維持したいからなんとかしてくれ!と欲する可能性を否定することはできないのだが、それでも。そう、明確に選択をしなければならない、というわけではないし、そんな必要もないのであることを承知してなお、ぼくはみずからの態度を明確にしたいのだ!、みずからの意思において、みずからを生きる主体として。
そうは言ってみても、たとえば、クロスバイクを駆っているとき、ヘルメットやグローブを装着していたとしても、高速走行には危険が伴う。路面の凹凸や障害物を見落としたり気づくのが遅れたり気づかないことだって考えられなくもない。ぼくの注意力には限界がある。無謀な運転や脇見運転の自動車に接触されないとも限られない。自動車とおなじ道路を走行している限り、横転した場合には自動車の下敷きになる可能性を考慮しないわけにはいかない。大袈裟に言うならば、死を覚悟してのライド、まぁつねに考えていないわけではないのだけれど、死んじゃっても仕方がないなぁ、とは。考えすぎかもしれないけれど考えないわけにはいかない、その可能性が完全にゼロでない限りにおいては。


≪目次: ≫
機\鎖世鯊えてやまない謎
供,劼箸蠅世韻嚢佑┐
掘〔鬚卜たないからこそ
検/誉犬聾斥佞箸箸發
后‖減澆瞭罎蓮果てしなく

[付録] いいわけ
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池田晶子略歴


≪著者: ≫ 池田晶子 (いけだ あきこ) 1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。文筆家。専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。著作多数。とくに若い人々に、本質を考えることの切実さと面白さ、存在の謎としての生死の大切さを語り続けた。2007年2月23日没。その業績と意思を記念し、精神のリレーに捧ぐ「わたくし、つまりNobody賞」が創設された。本書は、同賞の運営団体であるNPO法人わたくし、つまりNobodyの編纂による。

池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編「私とは何か さて死んだのは誰なのか」(講談社、2009/4)







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本「私とは何か さて死んだのは誰なのか」池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編5

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私とは何か さて死んだのは誰なのか
私とは何か さて死んだのは誰なのか

○著者: 池田晶子、NPO法人 わたくし、つまりNobody 編
○出版: 講談社 (2009/4, 単行本 253ページ)
○価格: 1,575円
○ISBN: 978-4062154192
おすすめ度: 4.5
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こうして毎日毎日あきることなくただただひたすらに〈ぼく〉のことばかりを考えていられることの、しあわせ。
生活の糧を得るための仕事であり所属する会社という「居場所」があり、けっして満足なとは言えないものの(欲を言えばキリがない)なんとか暮らしていくには事欠かないレヴェルの給料をもらって、好きな読書に耽る。
不満や不安がないことない。むしろ、不満や不安にたびたびおそわれて、イライラすることは少なくない。不安や不満がどうあっても解消されることがなく、時間とともに記憶として薄れていって、ときに忘れてしまうことはあっても、解消されたり消失してしまうような印象をいだくことはできない。増大しつづける一方だ。


≪目次: ≫
「墓碑銘」と聞いて思い出す逸話がある……
『世界と私をを見つめる、私とは誰か』
機〔笋い了呂泙
デカルトを擁護して/「ソフィー」の効用、哲学の無用/わたくし、つまりNobody(1 自伝ふう哲学入門 2 哲学書の読み方 3 事件の読み方)
供,呂討覆凌偲
嘘つきって何?/学校って何するところ?/そんなに景気が気になる?/「意見」を言うということ/「国家」とは何か/「自己責任」を求める人々/自分はちっぽけなのか/「年金問題」を笑えるか?/素人に期待する司法/充実した孤独/ネットに群がる低劣/少子化と私/頭の中の宇宙/精神は鑑定できるのか/「他人事」と「我が事」/「人生いろいろ」の含蓄/酷暑の背広/夏休みの記憶/愛犬家として/BGMという騒音/安易な「表現の自由」/老いを味わう/考えるのは同じ人間
掘.蹈乾垢離ロニクル
「哲学」の貧困/「本物」は自分で考える人/読書と作文/もしも「脳外革命」ブームが起きたら/精神の豊かさ?/彼の仕事/知っている限りでは――私の上野/住民投票に思うこと/食の楽しみ/「徳目教育」の可能性と不可能性/苦難にも意味がある/私は非国民である/人間の価値って何だろう/哲学を持たなければ/「格差社会」なんて/私の幸福――明日への言葉/子供の人生相談(Q 友達をいじめるより、いじめられるほうがいい? Q どうしてお父さんはサラリーマンになったの? Q 人を信じていいの? Q どうして私の話を聞いてくれないの? Q つきあっていい友達と悪い友達は何が違うの?)
検,匹舛蕕任△襪砲擦
酒癖と嗜癖/外見と偏見/神秘と神秘主義/病気と元気/意識と魂/自由と設計/犬と人/教育と飼育/愛犬と犬猿/嫌犬と犬権
后ー由を求め、問いはつづく
同一性と自由/毒は毒ではない/「私とは誰か」から考えよう/成人の日に寄せて/新しき精神性のために

「付録」未来の読者のあなたへ――始まりの、池田晶子 空を飛べたら

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≪著者: ≫ 池田晶子 (いけだ あきこ) 1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。文筆家。専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。著作多数。とくに若い人々に、本質を考えることの切実さと面白さ、存在の謎としての生死の大切さを語り続けた。2007年2月23日没。その業績と意思を記念し、精神のリレーに捧ぐ「わたくし、つまりNobody賞」が創設された。本書は、同賞の運営団体であるNPO法人わたくし、つまりNobodyの編纂による。







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本「人生は愉快だ」池田晶子5

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人生は愉快だ
人生は愉快だ

○著者: 池田晶子
○出版: 毎日新聞社 (2008/11,単行本 288ページ)
○価格: 1,575円
○ISBN: 978-4620319155
おすすめ度: 5.0
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・・・年をとることはけっして退屈なことではなくなる。
自分の過去だけでなく人類の歴史や宇宙の存在にまで視野が広がっていく。そういうものへの味わいが深くなっていく。年をとることは、ある意味で個人を捨てていくことと思う。・・・  (P.280、エピローグ)

こんなに簡単に簡潔にサラッと書かれてしまうと、当然に書かれないことも少なくないのであって、切り捨てられてしまっている部分に、本来ことばを尽くして語られるべきであろう部分に、などと考えれば考えるほどに、、、、
逆説とは思想の情熱であり、逆説をもたない思想家は情熱をもたぬ恋人、そしてすべての情熱は自身の破滅を欲する、ゆえに理性もまたその極致において。
これがこの人の「信仰」のスタイルなのである。  (P.97、キルケゴール)

「エロスとタナトス」という言い方で、この人が言及しようとしてのは、おそらくこのことである。生の衝動としては性欲があり、死の衝動としては、攻撃欲や支配欲がある。  (P.123-P.124、フロイト)



≪目次: ≫
プロローグ――考える人生
第1章 死(あちら・ない)を問う人々──語り、騙り、物語る
仏陀老子荘子孔子イエス
ソクラテスプラトンピュタゴラスヘラクレイトスエピクロス
デカルトパスカルスピノザカントヘーゲル
キルケゴールショーペンハウアーニーチェマルクスシュタイナー
フロイトユングハイデガーヴィトゲンシュタイン西田幾多郎
臨済空海道元親鸞一休
第2章 生(こっち・ある)を問う人々──池田晶子の人生相談
Q 男性を本気で好きになったことがありません/Q お酒の席での失敗が多いんです/Q 部下を叱れなくて困っています/Q 他人の悪口が気になって仕方ありません/Q 自分にはどんな才能があるでしょうか/Q 出会いが少ないんです/Q 平気で嘘をつく自分が嫌です/Q 自分に自信が持てません/Q 仕事が面白くなくて、転職ばかりしています/Q 美しく年をとるってどういうことですか/Q 小さな後悔ばかりしています/Q ちょっとした会話が苦手です/Q ささいなことにカッとしてしまいます/Q 欲望をコントロールできません/Q 終わった恋の思い出だけを生きています
第3章 人生の味わい──モノローグ
言葉それ自体が価値である/究極の本質洞察(トランスビュー)/ガダマー氏のこと/出雲へ参る/苦しかった仕事ふたつ/「口伝(オラクル)・ヘーゲル論理学」、今のところ/小林秀雄に就いて/再会/いつものスランプ/靖国問題に想う/和食は人生の味わいだ/
エピローグ――無から始まる思索
池田晶子著作リスト


≪著者: ≫ 池田晶子 (いけだ・あきこ) 1960年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒。文筆家。専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを日常の言葉で語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。著書多数。とくに若い人々に、本質を考えることの切実さと面白さ、存在の謎としての生死の大切を語り続けた。2007年2月23日、没。その業績と意思を記念し、精神のリレーに捧ぐ「わたくし、つまりNobody賞」が創設された。◎池田晶子公式ページ http://www.nobody.or.jp/ikeda


Calendula officinalis




本「2001年哲学の旅 (コンプリート・ガイドブック)」池田晶子5


2001年哲学の旅 (コンプリート・ガイドブック)
編著者: 池田晶子、永沢まこと 絵
単行本: 289ページ
出版社: 新潮社 (2001/03)




池田晶子による、哲学の「聖地巡礼紀行」ガイド。
池田晶子らが巡るのはギリシャ、ドイツ、オーストリア、スイス、トルコの5か国、紀行の情報は全部で65ページ(22.5%)。
イラストと写真の彩りが視覚的にも愉しい♪

ドイツでは、100歳の哲学者 ガダマー教授との約1時間の特別対談企画、紀行のハイライト。そう、過去に存在して現存はしていない偉大な哲学者たちの足跡を辿る空想もいいけれど、やっぱり実在のドイツ哲学界の重鎮との生の対談、リアルなロゴス♪、通訳を介した対話に、なかなか的を得ないもどかしさを隠せないけれども、言語(ドイツ語と日本語)は違えど同じ人間、互いに“哲学”を愛し究める者同士、正直分かったんだか分かんないんだか、ぼくにはよく分からないけれども、どうやら最後には笑い合える愉しい対談に。
その他に、哲学者同士の対談であり、科学者との対談、死刑囚との往復書簡、謎解きや、お悩み相談、読者からの声などなど、雑多に内容盛り沢山。さらには、編集部による過去の著名な哲学者たちの簡易年表や、哲学三千年歴史年表、哲学者人名録、果ては名言集まであるから、浅く広く哲学に関する雑学を得て知識を体系的に関連付けるための資料として。

敵対心を露わに立ち向かう科学者との対談(?!)、苦笑いを浮かべて逃げ惑う生真面目な科学研究者は、専門外の質問に答える術を持たない。池田晶子が、あくまでも自らの専門分野である“哲学”での闘いにこだわって鋭い質問で挑み掛けても、挑み掛ければ挑み掛けるほどに、相手はのらりくらりと遣り過ごすしかない。そのノリの悪ささえ、後の哲学者同士の共通の言語での軽快に果てしなく、さも愉しそうに跳びまくる対談を引き立てる。


≪目次: ≫
 序・哲学卒業 ―あなたはなぜ哲学にこだわるのだろうか
 聖地巡礼紀行 ―あの大哲学は、こんな場所で考え出された!
   スイス、オーストリア、ドイツ
   ギリシャ、トルコ
 最先端の現場での考察 ―今最も進んだ科学と哲学との出会い
   「無」は、存在するか? VS 戸塚洋二(神岡宇宙粒子研究施設)
   ウイルスは生物か? VS 畑中正一(京都大学ウイルス研究者)
   「死」は、どこにある? VS 池田恢(国立ガンセンター東病院)
 古今東西大哲学者の系譜 ―さあ、哲学の神髄に触れてみよう
 哲学者との対話 ―本物の知と知がぶつかり合う興奮
   百歳の秘訣 VS H.G.ガダマー(ハイデルベルク大学名誉教授)
   語り得ぬことを語れ VS 藤沢令夫(京都大学名誉教授)
   なぜ善いことをするのか VS 永井均(千葉大学教授)
 池田晶子思う、故に池田晶子なり! ―人は如何にして、哲学者となるか
 帰ってきたソクラテス「対話編」
 なぜ人を殺すのは悪いのか?
 哲学99の謎
 結・哲学入門 ―ついに哲学の扉をノックしたあなたへ








本「あたりまえなことばかり」池田晶子5


あたりまえなことばかり
著者: 池田晶子
単行本: 219ページ
出版社: トランスビュー (2003/3/20)




こればっかりは自分で考えなければ、どうにもこうにもならない問題で、これまでみたいに現実逃避してみたところで、本質的なところから取り組まなければ、いよいよどうしようもない状態。落ち込んでみたり塞ぎ込んでみたり、でもそれも結局は自らの受け容れ難い現実から(すべてが自らに起因する問題)、単に目を逸らしているだけ。
あぁ〜、考えるってタイヘン、なんて面倒くさいのだろう。
何だか、簡単に「分からない」と書き記すのも憚られる気がして、ますます言葉を失う。


「可笑しい」ということの核心は、「変である」ということである。変である、月が在ることが変である、「在る」ことが変である。なぜ、変なのだろう。なぜ変だと感じることが、笑うことになるのだろうか。
理性がそこで自爆するのだというのが、私の説である。論理の理詰めで存在を理解しようと思考してゆく。しかし、そのことの絶対不可能に気づいた刹那、笑いが炸裂するのは、あるいは、ひょっとしたら、理性の自己防衛の働きなのかもしれないと思うことがある。すなわち、笑いの裏返しは恐怖、絶対不可知な何ものかに直面することの恐怖である。
絶対的強者、絶対に対抗できないとわかっている相手に対して、弱者が笑うことで対抗しようとする心の動きは、形而下の世界でも見受けられる。庶民が王様に対して、愚者が賢者に対して、群小評論家が哲学者に対して。それと同じ防衛機制が、理性が存在に対抗しようとして働いているのかもしれないとも考えられる。しかし、これまたいったい何ゆえに?
言うまでもなく、発狂への恐怖であろう。ニーチェがそちらへ取り込まれてしまった、ウィトゲンシュタインがその接線に常に立ち尽くしていた、正気と狂気のあの接線、それを超えることへの理性の本能的な恐怖であろう。
しかし、ここで再び「冷静に」考えてみたい。正気といい狂気といったところで、そもそもなぜこっちが正気で、あっちが狂気なのか、それを言うことができないとはっきりと知ることが、正気すなわち理性的であるというそのことなのだから、やっぱり正気も狂気もないのである。あるいは、正気とはすなわち狂気なのである。理性は発狂を恐れることはできない。あるいは、理性は最初から発狂している。
そんなふうに考えると、存在が変だからと言って、べつに笑う理由もないわけである。笑うでもなく、笑わぬでもなく、わかっているのやら、わかっていないのやら、そんなふうなごく普通の、しかし何となくどこか妙な、そういう人が、たとえば一休さんのような「風狂の人」であろうと思われる。
そう、だいいち、「存在が変である」と言ったって、それなら、変でない存在を考えてくれ。
存在は変であるということが普通なのだから、変が普通なのだから、存在はじつは、べつに変でもない。何が何を今さら笑う理由があるのだろうか。
寂滅。  (P.67-P.69)


≪目次: ≫
 走りながら考える
 善悪を教えるよりも
 生命操作の時代
 プラトン、ロゴスの果て
 哲学と笑い
 考えるとはどういうことか
 生きているとはどういうことか
 幸福はどこにあるのか
 どうすれば癒されるのか
 孤独は苦しいものなのか
 本当の自分はどこにいるのか
 死ぬのは不幸なことなのか
 他者の死はなぜ悲しいか
 老いは個人の生を超え








本「リマーク re-mark 1997-2007」池田晶子5


リマーク re-mark 1997-2007
著者: 池田晶子
単行本: 229ページ
出版社: トランスビュー (2007/7/3)




なるほど、池田晶子の「謎の思索日記」♪

分からない、分からない、わからない、分かるわけなどあろうはずがない。分かりたくない、分かりたくない、分かってなんかなるものか、分かるなんて嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘っぱちだ。

ぼくには理解できないことだらけで、分からないことだらけで、分からない理解できないことを言葉にしたら、それは本当じゃないから、嘘になる。嘘を吐くこと自体は、単純にそれが“悪”であるとは言い切れないけれど、ぼくとしては、本当のことだけを言葉にしたい。本当のことだけを言葉に表し、自らの発した言葉に責任を持ちたい。責任を持てない言葉を発するくらいならば、黙した方がいいと考える。黙する、という表現だって、責任を果たせないような無責任な言葉を表さない、という、それはそれで充分に意義のある表現であろう。

受け容れられないこと、簡単に受け容れてしまうことができない事柄って、やっぱりどうしてもある。何でもかんでも、すべてを理解できるわけではない。分からないことがあって当たり前とも。
受け容れられない事柄は、無理をしてでも受け容れる必要があるのであろうか?、それは果たして本当に受け容れたことになるのであろうか?、表面だけを取り繕って、理解したふり、分かったふりをすることが、時に良好な人間関係や円滑な社会生活に必要とされることに、まったくの理解を示さないわけではないけれども、ぼくにはそんなに上手に遣り過ごすことができない。理解したふり、分かったふりをすることが、それを貫き通す自信が持てない。自信を持つことができない事柄は、それだったら遣らない、という選択も考慮するべきであろう、「遣ってみなければ分からない!!?!」を否定する気はないけれども、自信がないのに引き受けて遣ってしまった後の中途での投げ出し、その周囲への影響を考慮するに、ぼくには踏み切ることができない。
そう、ぼくが起こす行動によって、他者に何らかの影響を及ぼしてしまう(想像が出来得る)のであれば、ぼくは迷わず自らは何をもすることなく黙する、という選択を考慮しないではいられない。


“JUN.2007 15”の記述が、池田晶子が綴る“言葉”としての最期となるも、時間として、FEB.2007、MAR.2007、APR.2007、MAY.2007、JUN.2007、と続く空白のページ。ページの空白は“無”なのか?!、いや、ページがページとして在るではないか。ページとしての存在。ページに満たされる、空白という存在。空白は空白として、そこに在る。そう、在る。在る。在る。“無”ではない。


「われわれ」と語り出す時、言語は自ずから「人類」を指す。「われわれ・人類」と言い、「私・人類」と言うことは意味を為さない。この文法的事実は、「私」は言語内に存在せず、また人類でもないという哲学的事実を示すと同時に、しかしその複数形「われわれ」とは、したがって「人類」、言語を所有する人類であるという逆説的真実をも端的に示している。

 われわれ人類、言語を所有する人類が、その言語によって語っているところのものは、それが言語によって語っているというまさにその理由によって、そこに語られてはいない。それは語り得ない。だからこそ語るために、われわれは言語を所有したのだ。したがって、そこで言語によって語られているものは、それが言語によっては決して語り得ないということについての、悶えか叫びか嘆息に他ならない。したがって、裏返し、読むとは絶句の息遣いに耳を澄ますことである。

 われわれが存在しているというこの悩ましい事実について、それらの言語は語ろうとする。何故それは悩ましいのか。謎は悩ましい。思索の開けとは謎への参入である。思索するとは謎を呼吸することだ。その時、論理ですらも現象となる。居ることの気配、在ることの感受、折に触れ、存在に触れ、息を凝らし、息を呑み、長大息は再び明確な疑問符へと収斂(しゅうれん)しては、絶命する。

 形式は内容を規定する、逆もまた真。必然であることによって自由である、その逆もまた真。語り得ないという必然を、語ろうとすることの自由、両者の一点交差するそこにのみ言葉は立つ。悶えや叫びや嘆息でさえも、そのようであらざるを得ないことによって、どのようにでもあり得ることを示すだろう。

 ところで一方、語るとは、騙る(かたる)ことである。語り得ないことを語るとは、語り得ないことを騙ることである。語るとは嘘を騙ることである。語られていることは、すなわち嘘である。真実在に迫る思索日記は、大嘘を語る。神聖文字ヒエログリフとて、そのように見れば、諧謔(かいぎゃく)の粋である。われわれにとって、言語とは遂に判じ物である。思索の象形文字、あるいは謎の落書き。

 けれども一方、存在するということは絶対的事実である。古代における神は、現代における言語である。しかし、存在は存在する。謎は、謎である。謎である限り思索せざるを得ないわれわれ人類の必然と自由は、時と場所を選ばない言葉として出没する。したがって、誰が考えたかを言うことはできいない。存在が存在を考えた。エジプトにおいて、ギリシャにおいて、あるいは現代日本の某において。
 さらに聴き馴れない異形の言葉を待つ。
 存在はいよいよ真実の嘘と化す。
  (P.3-P.5)








本「ロゴスに訊け」池田晶子5


ロゴスに訊け
著者: 池田晶子
単行本: 229ページ
出版社: 角川書店 (2002/06)




ホントに“善く生きる”ってタイヘン
花粉症のせいにしてみたり、風邪のせいにしてみたり、うつだの神経症だのと、どんなに言い訳したところで、ますます苦しみが増すのは明白なんだけど、ついつい現実逃避ばかりを繰り返して、大事な言葉(ロゴス)を疲弊させてしまう。
そう、どうしても“池田晶子”を読みたい、とは思うんだけど、なかなか手にして読み始めることができないでいて、いよいよ積読書籍に三作品を蓄え、やっと覚悟を決める。覚悟して挑まないと、いや、覚悟して挑んだとしても、ぼくは池田晶子が解き放つ“ロゴス(言葉・論理・真理)”の力に、ヘロヘロの腑抜けにされてしまう。何よりも、ぼくは自らが正しい言葉で語れない不甲斐なさを身に沁みて味わわされることになり、いつも以上に言葉を繰り出すことができなくなる。
これでも、自らが書き記す言葉に対する責任を感じ、無責任な放言を避けているつもり。つもり、と書き記さざるを得ないのは、これまで無意識の内に、散々他者への攻撃の目的で、大事な言葉を繰り出してきてしまった反省から。自らのエゴイズムを剥き出し、目の奥をチカチカさせながら、目を吊り上げて睨みつけて。あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。既に起こしてしまった事柄は、どんなに言い訳しても、謝っても、泣いても、喚いても、その事実は何ひとつ変わることがない。時間の経過とともに、仮に記憶として薄れることがあったとしても、決して完全に消え失せることなど有り得ない。何かの機会に想い出されれば、その過去の事実の記憶は上書き更新され、更新された記憶に再び鮮明さが取り戻される。何者にも抗えない、在るままに受け容れるしかない。
・・・風邪をひいたら気が滅入るのは、風邪をひいた「から」気が滅入るわけじゃない。風邪をひくということと、気が滅入るということが、「なぜか」対応しているということなのだ。
説明としては、この方がスマートである。論理的に正しいし、現実の在りようを取り落としてもいない。物質と非物質の無関係の関係、その摩訶不思議を説明して過不足がない。私はこの同じことにもっと動きをもたせて言うために、「物質は非物質の物質的表現である」という言い方をしているが、これは要するに、風邪をひくこと「すなわち」気が滅入ることである。
何を言ったことにもなっていないように聞こえるかもしれない。じじつ、何も言っていないのである。しかし、風邪のウイルスが喉に入り、炎症が起きると、脳内の何じゃら物質が分泌されて気が滅入るなんて説明は、破綻するに決まっている。非物質の気分は、脳内の何じゃら物質ではないからである。
しかし、げんに何らかの薬物によって、人の気分は変わるではないかと、人は言うかもしれない。むろん、それはその通りである。しかしそれは、その薬物が「原因して」気分が変わったのではない。その薬物とその気分が「なぜか対応」しているのだという以上のことを言うことはできない。なぜなら、やはり物質はどこまでも非物質ではないからである。
説明はどうあれ「現実には」同じことではないかと、次に人は言うかもしれない。むろん、それもその通りである。しかし、現実が「なぜか」そうなっているという、この「なぜか」の自覚の有無は決定的に違うことだ。なぜならそれは、身体が死ぬことによって精神も死ぬという、人類永遠のかの難題に直結しているからである。自分とはこの物質的身体であると思い込んで、考えたことのないあなた、さて、死んだらどうなると思ってますか? (P.70-P.72)

≪目次: ≫
 人生の価値は本質にある
 ネットの言葉に自由はない
 サルにだって言葉は書けるぞ
 哲学は誰にでもできます
 ビジネスか、生存か
 責任を取れない言葉を語るな
 主語はいつでも「われわれ」である
 居ながらにして宇宙旅行
 見よ、若者の直観力
 遺伝子であるわけがない
 物質は非物質の物質的表現
 生活すること、存在すること
 まず霊の存在を証明していただきたい
 存在するとは何が存在することなのか
 老犬介護で夜も眠れず
 天与の権利は誰のもの
 わが闘争、革命評議会
 生きている、ただそれだけで価値なのか
 哲学の神髄は逆説にあり
 汝に敵は存在しない
 テロでなくても人は死ぬ
 思弁的名月観賞
 すべての死者は行方不明
 哲学は勉強じゃないのよね
 理性は知性を超えて
 わかると何がわかるのか
 善悪は存在する
 オカルトよりも不思議なこと
 世界は神々の遊戯である
 言葉と書物の厄介な関係
 書けない!
 プラトン的政治
 われわれの永久革命









改めて思うと面白いのは、「自分」とは「自らを分かる」ことである。あるいは、「自らを分ける」ことである。全体=根源としての大文字の自己は、自らを分かるために自らを分ける。宇宙の創世とは、要するにこれである。全学問、全表現、全人類の全活動は、これの一環として理解することができる。 (P.178)

本「人生のほんとう」池田晶子5


人生のほんとう
著者: 池田晶子
単行本: 192ページ
出版社: トランスビュー (2006/6/2)




うぅぅぅ〜、ますます深まる混迷♪
哲学者“池田晶子”が、2004年4月〜6月と2005年10月〜12月に、西武池袋コミュニティ・カレッジで、『人生を考える』というタイトルの下に行なった連続講義全6回分の書籍化。

そう、実は講義形式の書籍に恵まれていて、池澤夏樹「世界文学を読みほどく −スタンダールからピンチョンまで (新潮選書,2005.1)」であり、池谷裕二「進化しすぎた脳 (講談社ブルーバックス新書,2007.1)」であり、、、まるでぼくだけのために特別個人講義が行われていて、語り掛けるのはぼくに向かってなんだけど、進行状況やら理解度やらを推し図る目的に、大勢の観客、他者の笑顔(信愛)であり、困惑(理解不能の拒絶)であり、恍惚(きっとぼくはこれ、うっとり)であり、お疲れで夢見ちゃってる人だっていない訳じゃない!?、などなどなどが存在している不思議な臨場感。

と書き記して、「こう書き記しておけば、とりあえず恰好だけは保てるかな!?」などと計算している自分自身に触れずにいられない、ちょっとピリピリ、危険モード。不安定な精神状態は、体調からくるものなのか?、風邪なのか?、花粉症なのか??、鼻水、頭が重い、無気力、、、はたまた、“うつ”状況の悪化かしら?

例えばぼくは、平気で簡単に「分からない」と書き記す。
ある意味では能天気に開き直って放り投げちゃったような無責任とも取れなくもない書き記しは、その裏側に「何だか少し分かっちゃったかも?!」という興奮やら高揚感を感じているから、だからこそ敢えて正反対の意味の言葉を使ってみたり、「そうは言っても、完全な理解には及ばないからなぁ」というジレンマであったり、「分かりたいんだよぉ」という熱望であり、、、たった「分からない」という言葉を書き記すのに、「あぁでもない、こうでもない、やっぱりそうでもない、、、」と果てしない思索があっての、たったひと言。

それは、本を読むことによって顕著に研ぎ澄まされる。そう、本の中から浮き立つ。表出している言葉なんか、言葉通りに素直に受け取れない。背景を想像して、いわゆる行間を読む作業に入り込んだら、その想像だけで堪えられなくなっちゃう。
だから、現実の日常生活でも、口から吐き出される言葉を、どうしてもそのままに受け取ることができなくて、口調やら表情やら、目の動き、体の動きなどから感じる何かを頼りに、本質に迫ってしまう。でもね、できれば知りたくない、気が付きたくない。
知ってしまったら、気が付いてしまったら、やっぱりそれは、対応しない訳にはいかない。ところで、ぼくに対応して問題を解消する能力が具備されているのか?、と鑑みると、自ずと行動に制約が生じる。相対する人物が内包する問題に気が付いてしまったのに、あまりにも問題の本質が根深すぎて、対処する能力を持ち合わせない自分自身。
仮に、善意から対処を買って出たとしても、決して本質的な解消には到らない。そんなに簡単に解消されるような、単純な問題ばかりではないし、むしろ表面的な取り繕いで、その場を濁して回避するだけの無責任な対処は憚れよう。だから、余計に簡単に手を差し伸べることができない。よっぽど、そんな面倒臭いことに気付くことなく、表面的な取り繕いのみに腐心して、善意の行動を振り撒いた方が、社会的に良好な関係が築けるのでもあろう。

既にぼくは、テレビも新聞も雑誌も一切手にしたり目にすることがない生活が丸一年を経過した。社会性に著しく欠けている。ひとりの世界に籠って、読書と書き記し、読書、書き記し、読書、、、それまで積極的に取り組んでいた、映画、絵画や彫刻などの鑑賞、写真撮影なども、2007年11月14日を最後に遠ざかっている。そんな程度の興味だったのか?!、孤独感を紛らわすためだけの行為だったのか?!、何事にもまったく気力が起きない。

ということは、もっと本を読め、もっと書き記せ、もっともっと真っ当な理解を得て、真っ当な考察を論考を得られるように、さらに励め!、と解釈することにした。


≪目次: ≫
  常識 −生死について
  社会 −その虚構を見抜く
  年齢 −その味わい方
  宗教 −人生の意味
  魂 −自己性の謎
  存在 −人生とは何か








本「人間自身 −考えることに終わりなく Philosophical Essays」池田晶子5


人間自身 −考えることに終わりなく Philosophical Essays
著者: 池田晶子
単行本: 157ページ
出版社: 新潮社 (2007/04)




ロゴス”の愉しみ♪
ギリシャ語にて、「言葉」、「論理」、「真理」を意味する。 そう、「正しい言葉」。誰にとっても、紛れもなく「正しい」、普遍のロゴス。

哲学者“池田晶子”、4作目にしてやっと少々の冷静さを保つ。
正直、「14歳からの哲学(トランスビュー,2003.3)」と、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」に漂う気高さに、まるで隙のない聖人仙人かと思わせる語りに、すっかり魅せられた。
一転して、おとな向けのエッセイに見せる人間味。怒りを、感情を露わにする。出だしから、
 たぶん手遅れである。子供にはとりあえず、これだけは教えておこう。人を殺したくなったら、自分が死ね。それが順序というものだと。 (「自殺のすすめ」P.11)
と、息巻く。この部分だけ切り取ると、ちょっと危険な感じがしないでもないが、「自らを省みよ!」、「考えろ!」、「悩め!」と。
世俗のことに煩わされながら、自ら「本質」のみを追求し続ける生き方、考え方は、決して社会的に楽な生き方ではない。「まぁまぁ、そう固いことを言わずに」であったり、「法律には規定されていないから」が、この世の中を円滑に動かしていることをも否定をしない。「それでいいのか!?」と糾弾したとしても、あっさりと「それでいいんじゃないの」と何も考えることをしない、大多数のおとなたち、世間。ある意味では、無理に考えさせるのは酷だったりもする。どうしたっても考えてしまう人間がいて、その一方では、考えることをしなくても何とかなってしまう人間がいて、、、
そんな現実は、判断能力が未成熟で、真っ白で染まり易い“14歳”には語れない。大切な時期だからこそ、期待を籠めて、厳しく、真っ直ぐストレートに! 演じて、魅せることだって、時に必要!、ロゴス♪

 生死の本質など、幼い子でも、勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。
 癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。すべての人間の死因は、生まれてたことである。どこか違いますかね。 (「生死は平等である」P.26)







本「暮らしの哲学」池田晶子5


暮らしの哲学
著者: 池田晶子
単行本: 288ページ
出版社: 毎日新聞社 (2007/6/29)



 先般、父親が亡くなったのですが、・・・〈中略〉
・・・いや逆に、今でも腹が立つこと、いっぱいあります。思い出しては腹が立つ。この感情は彼が死んでも変わっていない。その意味では彼のその所行を私は未だ許していないと言える。しかし、許せなくとも、許せないまま、それでもいいんですよ。なんというか、とにかく彼はそこに居た、そのことだけでもう全部いいじゃないか、そんな感じなんですね。
 たまたま彼は父であり、たまたま私は娘だった。なぜか二人は親子としてしばしの時間を共にした。このことがこのことだけで、ありがたいこと、奇跡的なことだと感じられるので、この出会いの奇跡に思いが及ぶと、得難いなあ、在り難いなあ、ありがとう。と、素直にこうなるようです。
 (「あなたの親は親ではない」P.215-P.216)

やっぱりぼくは書き記すことができない。
池田晶子「14歳からの哲学」と、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」と、若者向けの著作を終え、う〜ん、“基礎講座”(?!)から、“実践(日常)編”へと?!
やっぱり堪らない。時折込み上げてくる。ビシビシバシバシ痛い痛い痛い痛い。軽く流すことができない。かといって、纏めて要約して自らの言葉にできるほどに、ぼくは理解を得ていない。そう、「言葉の力」
2007年2月23日、没(46歳)。遺された数多くの著作。
 ところで私は哲学科の学生だった頃、例によって一人で考え込んでいた時に、問いがあるということは、答えがあるということだ、答えがあると知っていれば問いは存在しないじゃないかという驚くべきことを発見した。そして、ああなんだそうか、そういうことだったのかと、深く納得して大笑いした。弁証法(ダイアローグ)を発見した瞬間とも言えますが、今ならこれを、すべてのロゴスイデアへ到るとか、ロゴスイデアを内包するとか、もっとうまくいうことができます。
 で、この内なる弁証法を発見して以来、私は、話せる他者と話すことが一段と面白くなりました。・・・
 (「どうしても知りたい」P.144-P.145)








本「14歳の君へ −どう考えどう生きるか」池田晶子5


14歳の君へ −どう考えどう生きるか
著者: 池田晶子
単行本: 191ページ
出版社: 毎日新聞社 (2006/12/23)




ふぇ〜、ぼくはひどく混乱しちゃっていて、堂々巡りの空回りが行動を停止させる。考えれば考えるほどに、ぼくの行動は規制を受け、ますますに混乱の渦に巻き込まれて、どうにもこうにも抜け出せない。
正直、気ばかりが急いてしまって落ち着かない。だから「思い切って考えることを放棄して、しばらく何も考えない。あえて考えすぎない方が、リフレッシュされて効果的かも!?」などと考えてみて、それでもやっぱり、考えることを放棄できない。先の見えない不安、自分で考えるって、だって何処にも答えはない。正しいか間違っているかなんて、今は誰にも分からないし、後に振り返った時に、「あっ、あの時のぼくは、間違ってなかった」となるのかどうなのか。間違っていたら間違っていたで、それもひとつの経験だから、正しいことから学ぶことよりも、間違ってしまったことによって気付きを得て、正しい理解が得られることだって、それはそれでとっても意味がある。そう考えると、考えることを放棄することの意義が見出せない。正しいか正しくないかではなく、とにかく自ら考えて行動に移し、経験を積んで、また考えて考えて、果てしなく繰り返し繰り返し繰り返し、、、


2007年2月23日、46歳の若さで逝去された哲学者池田晶子”が、14歳の中学生に向けて語り掛ける“大切なこと”。
ぼくは保護者の部類に属している(11歳の娘の父親)んだろうけれども、これまでちゃんと考えることを怠ってきたので、とてもとても客観的に読むことができず、ジンジンヒリヒリしながら読み耽る。「ありがたい、ありがたい。あぁ、どうしてぼくはこれまで、こんな大切なことを、ちゃんと知ろうとせずに、のうのうと生きてきてしまったのだろうか。」と軽い自己嫌悪に陥りつつも、そこはすぐに「今からでも遅くない。ここで知ったのも何かの縁。残念ながら、これまでのぼくだったら、こんなにありがたいことを知っても、素直に聞く耳を持てなかったし、受け容れて理解しようともしなかっただろう。この機会だからこそ、知り得たことに感謝しよう、ありがたい、ありがたい」
ホントにホントにありがたくって、涙を浮かべながら読み耽る。

ぼくが初めて手にした“池田晶子”は、「14歳からの哲学 −考えるための教科書(トランスビュー,2003.3)」で、その時も涙が溢れて堪らなかったんだけど、今回はもう少しだけ冷静に読むことができた。
それでも本当の理解には程遠い。ぼくはちゃんとした理解を得たい。ちゃんとした理解はぼくの中でしかできなくって、ぼくが考えて考えて考えて、考え続けた時に、ある時にフッと見えてくる何かがあるのかなぁ?、そんなことすら、ぼくには分からないし、分かっているのは、ぼくはすっかり混乱しちゃっているってことだけ。
混乱したままに生きていると、周りにも迷惑かけちゃっているんだろうなぁ、などと考えて、でも混乱してない時だって、果たして周りに迷惑かけずに生きているのか?!、って考えると、そうたいして変わりはないかも、とか考えて、ひとりで生きてる訳じゃないんだなぁ、とか、ひとりじゃ生きていけないんだなぁ、などとも思い当たる。
果てしもなく、とんでもない方向にばかり、ぼくの思考は巡り続けて、どこにも辿り着くことがない、困った。


ぼくは、この本を我が娘に読んで欲しいと願う。ところで11歳の我が娘は、父親のぼくから無理矢理に(自らの意思に在らず)渡される本を手にして、どう考えるであろうか? 前述の通り、ぼくには激しく否定的な思い込み癖、現実逃避癖があった。何者にも氷解を赦さない頑ななまでの。でもそれはきっとぼくだけの悪癖、心配するに及ばない。


そう、“生きる”ってスゴイことで、そんなに簡単なことじゃない。簡単なことじゃないから、やっぱりちゃんと生きなきゃいけない。
でもね、正直やっぱり“死ぬ”のが怖い。ホントのところ、“死”について、ぼく自身がちゃんと考えたことがないから「分からない」と言うのが正しいのかもしれないけど。
さあ、14歳シリーズを終えて、まだまだ続く“池田晶子”を、ぼくはどこまで読み解いて、自らのものにできるかな?、しばらくは混乱の中のぼくを愉しもう♪


≪目次: ≫
  ほんとうの自分 ほんとうの友達
    友愛、個性、性別、意見
  考えれば知ることができる
    勉学、歴史、社会、道徳
  君は「誰」なのだろう?
    戦争、自然、宇宙、宗教
  どう考え どう生きるか
    言葉、お金、幸福、人生









 自分を認め、他人をねたまず、何かを誰かのせいにもしない。すべてそのまま受け容れる。そういう心が、不幸でない幸福な心だ。人は心で不幸になっている、自分で自分を不幸にしていると気づくなら、君の心はきっと幸福になるはずだ。
 そんなこととてもできません、て言いたくなるよね。だって、不幸は外からやってくるものだもの、私にはどうしようもないものだもの、とね。でも、外からやってくるものを受け止めるのは、やっぱり君の心でしかないよね。不幸も幸福も、すべて君の心次第なんだよ。(P.175)

本「14歳からの哲学 −考えるための教科書」池田晶子5


14歳からの哲学 −考えるための教科書
著者: 池田晶子
単行本: 209ページ
出版社: トランスビュー (2003/3/20)




ひとしきり泣いて泣いたところで何かが変わる訳ではない、何も変わらない。ぼくにとっての“池田晶子”は、この著作が初めてで、今まさに始まったばかりなのに、、、

どうにも纏まりを得ない頭で、「ぼくなんかの陳腐な言葉で汚してしまっては申し訳が立たない」などと言い訳を考えながら、やっぱり言葉が浮かばない。


そう、この本、本屋で平積みされていたのを何気なく見掛けたんだけど、ぼくの目を惹いたのは「14歳」、そして「哲学」。でも、すぐに手にすることはなかった。
うん、「哲学」を知りたい、学びたい欲求の高まりを感じていた。
それでもぼくは、理解力、知識不足を自負しているから、いきなり難解な論説に挑む勇気はなかった。だから、「14歳のレベルから始めてみよう!」と。

一方では、ぼくの小5(11歳)の娘の口から、少し前に、「将来のこととかって考えるんだけど、どうしたらいいのか、ぜんぜん分からないんだ」と。ぼくだって、11歳の頃なんか何も考えていなかったし、その後もずっと考えなかった、38歳の親をやってる今だって、こうして迷いまくっている。
それでもぼくは、「何とか娘の力になりたい!」と考えて、でも、ぼくが娘にできることは、一緒に考えることだけで、「ぼくの都合や考えを、一方的に押し付けるのは、きっと違う」と思った。「自分で考える方法、考え方こそが、大切なんじゃないかなぁ」、そう考えて、橋本治「勉強ができなくても恥ずかしくない(ちくまプリマー新書)」を一緒に読んだ。ぼくはまだまだだけど、読んだ本から学んだことは少なくない。
力になり得る、ひとつの方法としての“読書”。


この本を手にする前に、著者“池田晶子”についてネットで調べて、でも気が付かなかった。1960年生まれ、慶応義塾大学卒の哲学者、多くの読者を集める。ぼくの10歳年長。


実際に読み進めて、分かり易い、沁みる。素晴らしい出逢いに感動して、中途で再度“池田晶子”をネットで検索した。
ぼくは言葉を失った。茫然自失。考えられない。今思い返しても新たな涙が溢れる。
それ以降、読了まで、そして時間を経た今だって、どう理解していいやら、どう受け容れたらいいのやら、、、
『2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去』

数多く遺された著作、、、
ぼくは安易な言葉を繰り出したくない。


≪目次: ≫
  14歳からの哲学[A]
   1.2.3. 考える
   4.5. 言葉
   6. 自分とは誰か
   7. 死をどう考えるか
   8. 体の見方
   9. 心はどこにある
   10. 他人とは何か
  14歳からの哲学[B]
   11. 家族
   12. 社会
   13. 規則
   14. 理想と現実
   15. 友情と愛情
   16. 恋愛と性
   17. 仕事と生活
   18. 品格と名誉
   19. 本物と偽物
   20. メディアと書物
  17歳からの哲学
   21. 宇宙と科学
   22. 歴史と人類
   23.24. 善悪
   25. 自由
   26. 宗教
   27.28. 人生の意味
   29.30. 存在の謎








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