きみはポラリス
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書評/国内純文学



直木賞作家、三浦しをんが描く短篇小説集は、『ただならぬ恋愛小説!』とオビに表されている。

実は、三浦しをん、初読み!
1976年(昭和51年)9月23日生まれとあるから、現在30歳。
デビューが2000年4月とあるから、23歳の時。その就職活動の経験をもとにした小説を発表して以来、数多くの著作が生み出されている人気作家。人気が無ければ、多くの読者の支持が無ければ、需要が無ければ、これだけ多くの著作は出版されない。しかも、2006年7月には、名誉ある文学賞”第135回 直木賞”を受賞されたとなると、それだけ多くの幅広い人々の心を惹き付ける”何か”があるのであろう!?、と、大いに気になるも、今までは私には縁が無かった、ただただ無かった。
それだけに、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”の献本リストにピックアップされたときに、迷わず献本を申込み、きっと高倍率であったであろう抽選を勝ち抜いた時には、思わず小さなガッツポーズと、「神様が私にチャンスを与えてくれた・・・」などと、深い感慨に耽ったものである。それでも、当然に落選されてしまった方もいらっしゃる訳で、私如き人間が当選させていただいたことに、ある意味では申し訳無く想ってみたり、当選に浮かれる私自身の浅はかさを恥じてみたり、落選された方の無念さを想い、居た堪れない気分に陥ったりもするのではあるが、それでも、”全ては神様の思し召し”、などと開き直る。そう、私には縁があって、機会を与えられた、その必要があった、その必然に基づいて当然に与えられた権利で有り、それはまた与えられた義務でもあるのだ、と。この世の中は、バランスが保たれていて、得るものがあれば、一方では当然に失われるものがある訳で、得てばかりいることは有り得ない、一時的に得ることが多かったとしても、それはその瞬間を切り取った時に、その時は得ることが多かった、というだけであり、長期的に見た平均を採ってみると、どう考えたって得られたものの合計と、失われたものの合計は、ほぼ一致していたりする。それでも、人間は、ひとりひとりは、その自分自身の瞬間瞬間を一生懸命に生きているから、その瞬間にばかり目を向けてしまって、大きなものの見方ができなくなってしまって、日常の瑣末なことに、不平不満を漏らしてみたりもする。そんなことは、分かっているのに、なかなかそうは考えられなかったりする。何て身勝手な生き物なのであろうか。
私自身は無宗教であり、神様も、仏様も、守護天使さえも、その時の気分によって取捨選択している、全くもって失礼極まりない人間ではあるが、それでも、人生における必然であったり、宿命や運命みたいなものを信じていて、その自然な流れやお導きに、どっぷり身を委ねている私自身が在って、、、それ故に、『夜にあふれるもの』の真理子を笑えない。神憑りとでも言おうか、信じるものは救われるというか、その一途な想いと行動と。

著者”三浦しをん”像を探るために、Web上で検索すると、様々な評価があり、それは即ち、それだけの注目を浴びていることであり、人気があればこそ、嫉妬や羨望も生まれよう。
その中でも、幼少の頃からの”妄想癖”というか、”妄想”を得意とし、愉しんでいたとの記述に、大いなる興味を抱いた。
以下、バレバレのネタばれになるので、ご注意を!

例えば、『裏切らないこと』に登場する隣家の老夫婦は、実は姉弟だった。夫に裏切られ続けた母が、絶対にあなた(姉)を裏切ることが無い人、として産み落とした弟、互いにそれぞれの婚姻生活を送るものの、戦争という異常事態によって、互いが身内を失い、その結果として、導かれるように寄り添い合う姉弟。決して他人に話せる、褒められた行為ではないものの、それを誰が咎めることができようか?! 仮に近親相姦であるとしたとしても、仮に、母親なり姉なりが、夫であり父親である男の裏切りを受けていなければ、、、仮に、戦争という異常事態が発生することが無く、互いの婚姻生活が滞りなく継続していたならば、、、などなど、その仮にの偶然の連続技の、ほんの僅かな可能性の、その限りなく低い可能性の妙は、そこまで行くと、神憑りとかを超越しちゃって、”必然”になっちゃって、その善悪やら、そのこと自体を咎めることに、全く意味がなくなってしまう。それでも、その真偽は明らかにされそうになるものの明らかにされることはなく、明らかにされないから好いのでもある。真偽が明らかにされる必要が無いし、それは当事者以外の第三者の興味でしかなく、当事者にとってみれば、甚だ傍迷惑な第三者の、たかだか興味などに付き合う必要が無いのであるから。そしてまた実は、その驚愕の出来事は、この物語においては、あくまでも物語を盛り立てる、物語を構成するひとつの要素でしかないから。だって、この物語は、赤子の息子の男性器を口に含む、育児中の妻の行為を、偶然に見てしまった若い夫の、本来ならばその場で声を掛けて、笑い話で済まされちゃうところが、あまりの衝撃であり、日常の些細なすれ違いから生じた様々な偶然の積み重ねが、そこで感じてしまった肉親の血を分けた自分の最愛の息子に対する嫉妬であり、育児に専念するあまりに、夫に構ってくれない寂しさや孤独感、だからこそ感じてしまう息子に対する羨望であり、妻に対する不満が凝縮されていたりする。それでも、そんな血を分けた、契りを交わした一番身近な肉親に対する、そんな感情に、何処かで嫌悪感を感じている自分自身がいたりして、そんな自分自身を恥ずかしいと想ったりして、だからこそ、笑い話にできなくって、自らの心の内に抱え込んじゃうから、ますます、心の靄(もや)は晴れることなく、ますますの拡がりを見せる。当事者の妻に問い質せばいいのに、そんな自らの心の内に抱えた様々があるから、会社の同僚の育児を終えたパートの女性に聞いてみたりする。それでも、その彼女には娘しか居なくって、その感情が正しく明らかになることが無くって、ますます募る靄々に、婚姻生活に対する先行きの不安感まで生じてきちゃう。だから、妻の家族の、妻をひとりで育て上げた母の登場があったり、件の私の幼少の頃に隣家に住んでいた老夫婦の物語が登場しちゃう訳。それでも、この物語は、若い夫の視点で語られる物語だから、嫉妬や羨望に苦しみ揺れ動く心は、仮に夫婦という婚姻関係の契りが交わされていようが、子供という血縁関係があろうが、人間がそれぞれに独立した固有の心を有していて、その心が揺れ揺れに揺れて、何処か頼りなく、とっても不安定で儚くって、時折、嫉妬や羨望など、一般的には恥ずかしいから隠したい、と想うような感情を抱いてしまう、そんな存在でしかない、それでも、そんな存在だからこそ、互いに支え合って、共同生活を営む、みたいな。
『私たちがしたこと』では、高校生の時の彼氏が、いつもは家まで送ってくれるのに、その時だけ熱にうなされて、家まで送り届けることができなかった、その偶然にひとりで帰宅した夜の河原の土手で、中年のサラリーマン風の男にレイプされてしまいそうになって、何故か、何かを感じちゃったのか、熱をおして彼氏が駆け付けてくれて、それも物語だからといってしまえばそれまでなんだけれど、近くにあった鉄パイプで、怒りのあまり、勢い余って殴り殺してしまって、殺してしまった男を土手に穴を掘って埋めて、殺人のみならず死体遺棄まで犯罪行為を重ねちゃう。それはふたりの中で、ふたりだけの秘密であって、ふたりだけで秘密を共有しちゃっているから、特別な関係が出来上がっちゃうんだけれども、そのとっても特別な特異な極限状態の、興奮状態で、手を下した(人を殺めた)彼氏は当事者だから勿論のこと、彼氏をそんな状態に追い込んでしまった、という負い目とか感じちゃう私(彼女)の心の揺れ。彼氏としては、大丈夫だよ!、としか言えない。彼女の前では、絶対に不安を顔に出すことはできない。自分のためというよりも、自分以上に大切な彼女を、絶対に護らなければならない彼女を、彼女に辛い想いや、苦しみや不安を感じさせたくないから、、、だから離れることができなくって、それはそれは、お互いに辛いんだけれど、同じ学校に通っていたら、それは離れることの方が不自然で、卑怯で、逃げることになっちゃうから、彼氏は彼女を護り切らなければならなくって、、、彼女としたって、彼氏にしたって、不思議なバランスの下に保たれる不思議な関係。それでも、卒業を期に、音信不通になっちゃって、それでも時間が歳月が、その忌まわしい記憶を薄れさせ、それでも絶対に消え去ることが無い記憶だったりする。
『ペーパークラフト』では、浮気をしている夫の素行調査を依頼された高校時代の後輩が、頻繁に我が家を訪れ、我が子に渡すペーパークラフト。それでも妻は、”何か”を感じてしまって、自宅で肉体関係を結んでしまう、許せない、有り得ないけれど、それも現実!?
『森を歩く』では、経済能力が完全に欠落した、植物大好き探検男との恋愛。部屋に転がり込まれたって、同居したって、気が付いたら、何処かに行って何日も家を空ける。ある時、後を付けて行くんだけど、どう考えても現実離れしているけれども、それも現実!?
『春太の毎日』では、犬が主人公であり、犬の目線で、犬の口から語られちゃうから、人間との会話はどうしたっても成立し得ない。一方通行の、会話は会話にならないけれども、お互いがお互いを思い遣る気持ちは、やっぱり伝わる不思議。
時折、親の近しい肉親の不在が描かれる。時に、離婚であり、病死であり、不慮に死によって、片方または両方の親の愛情が欠落し、時に漂う憎しみすら感じたり、不遇とも言えたり、孤独であったりする、その人物像。人の死や、その不存在って、そこに在るべき存在が、不足している訳だから、不足しちゃって、欠落してしまった空間(穴)には、何かしらの埋め合わせみたいなものが必要で、その不存在を埋め合わせるものは、どうなんだろう、存在じゃないのかななどと安直に考えつつも、やっぱり存在では、その不存在の穴を埋め合わせることができなくって、じゃあ、何で埋め合わせをするんだ、ってことになるんだけれども、それは、時間や歳月であったり、経験や思考や思想、存在以外のものをいっぱいいっぱい埋め込んでいくしかないのかなぁ。

そしてそして、私がこの恋愛短篇小説集で、最も感激しちゃって、グイグイと引きずり込まれちゃったのは、最初の『永遠に完成しない二通の手紙』であり、最後の『永遠につづく手紙の最後の一文』。同じ登場人物が、最初は社会人で、最後は学生で、そのふたつの物語の間に流れる歳月があって、歳月を遡ってしまう訳なんだけれど、それぞれの短い文章の物語の中に凝縮されちゃう、その歳月の重み。
実は、何よりもコミカルで、とっても読み易いのが、正直一番有り難い!

扱う題材と言うか、シュチュエーションとしては、奇抜で、どちらかといえば、一般的には嫌悪されて、隠したいという真理が働く状況であり、その状況が舞台と設定される。だからこそ、そのシュチュエーションによって描かれる物語自体を嫌悪する向きもあろう。それでもね、そのシュチュエーションや状況は、よくよく物語を読み込んでいって、その背景や、そこにいたる現実を考えると、それからその後の展開を考えたりすると、決して特異な状況ではなかったりする。人間であれば、みんながそれぞれ心の内に秘めている、結構現実的な問題だったりして、それってそれでも、隠したがる人が多くって、当然に隠されて表にはなかなか出てこない現実があったりして、だからこそ当事者は深く深く悩み、苦しみ、時に痛みを感じてしまったりもする。そんな、結構多くの人たちが、私は変なんじゃないか、とか、私だけおかしいんじゃないか、とか苦悶しちゃっている状況や現実って、実は結構私やあなただけではなくって、多くの人々が同じことで悩み苦しんでいたりするんじゃないかなぁ、何だか最近、そんなことばかり考えちゃっている私の方が、変だったり、おかしかったりするのかも。

だから、ここまで広大で壮大な妄想を繰り広げて、それをお話しとして紡ぎ、物語として仕上げちゃう、そして、その物語がひとりよがりじゃなくって、多くの人に受け容れられて共感を得て支持されて、それがこの世に輩出される、この才能を絶対的に感謝しちゃう、私はね、個人的にそう思う、絶対的にそう思う。

タイトルになっている、ポラリスとは、こぐま座で最も明るい恒星あり、所謂北極星のことらしい。人々が、旧くから、固定点としての、ひとつの基準とされたポイントでもある。
だから、オビにある”われらの時代の聖典(バイブル)”とも表されるのであろう。