Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

文藝春秋

本「脳と日本人」松岡正剛、茂木健一郎5


脳と日本人
著者: 松岡正剛、茂木健一郎
単行本: 225ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/12)




茂木健一郎の著作を探していて、「何だか知らない人(ただただぼくが無知なだけ)との共著だから」という理由で、実は一度パスしていた。
そんな時に、池田晶子14歳からの哲学(トランスビュー,2003.3)」であり、「14歳の君へ(毎日新聞社,2006.12)」と、10代の多感な、その後の人生を方向付ける大切な時期にこそ、真剣に伝えたい真実のメッセージ♪、穢れを知らない若者だから、知識も経験も少なくて、人間的にも未成熟だからこそ、決して多くを語らず、大切なことだけ、理解し易く噛み砕いて。そう、ぼくは既に38歳だけれども、10代の時を振り返ると、自らの不勉強から、このような素晴らしい本との出会いを経ていない。20代の時にも勿論。38歳にして出会って、「あっ、ぼくはこの辺(10代)のレベルから始めた方がいいかも!?」と思った。そう思ったぼくは、「11歳の我が娘のための」などと言いながら、10代の若者に向けた著作を真剣に読み解く。自らのために。自ら乗り越えることをせずに来てしまった時間を取り戻すべく。
で、目に留まったのが、松岡正剛17歳のための世界と日本の見方(春秋社,2006/12)」、全363ページもある著作で、未知との遭遇。むふふふ「初めての経験は、やっぱり怖いんでちゅぅ〜♪」と臆病風を吹かしていたら、「ん?!、そう言えば確か」と記憶が蠢き出しちゃう不思議。「ぼくが既に知っている“茂木健一郎”との対話を愉しんだ後に判断しよう」と。

2006年11月12日と13日の2日間にわたって“二期倶楽部(栃木県那須町)”にて行われた対談の書籍化。
そう、対談の書籍化といえば、池谷裕二、糸井重里「海馬(新潮文庫,2005.6)」の、凸凹ぶりに目覚めてしまった興味、異分野のプロフェッショナル同士の巧みな絡みによって、思いがけず飛び出す知識の果てしない増幅!、ワクワクドキドキ、なるほどなるほど♪
で、そんな対談の舞台、秋の那須、「嫁に食わすな!」は秋茄子!?、挿し込まれる写真がまたまた味わい深い。煉瓦組みの暖炉、秋の穏やかな陽射しを受けた那須の森、紅葉。いい〜♪
[松岡] ありがとう(笑)。スタンド・アローンにはじまって、ニューロンの話をして、国民国家をめぐって、気がつくと伊勢神宮の話から「真水」になっていたというのは、ぼくにとって久々のことでしたよ。
[茂木] ぼくも、松岡さんと一緒にずいぶん遠くまで漂流して、それから自分の一番大切な場所に新たな気持ちで還って来たように思います。 (P223)
ホントに愉しそうな語らい。1944年生まれの松岡正剛と、1962年生まれの茂木健一郎には、18もの年齢差。専門分野だって異なるのだから、ピッタリ噛み合うどころか、何処までも果てしがなく展開される話題。僅かな関連性から見出されて飛び出す話題が、さらに互いの興味を刺激する。うっ、羨ましい、カッコいい♪、あんなに対話を展開させることができたら、そりゃぁ〜愉しかろう。紅葉する穏やかな秋の陽射しの下で、重厚な煉瓦造りの暖炉の前で、、、
[茂木] 毒って、体内に取り込むと、吹き出物とかになって外に出てきますよね。もともといらないものが出てくるわけですね。人間にとっては、二酸化炭素などもそうですね。だから、創造という現象も、毒出しというか、排泄という観点からみると面白い。脳の神経系による「毒出し」の行為が、すなわち創造でもあると。
[松岡] その通りでしょう。
[茂木] たとえば、こうやって話すと楽になりますよね。楽になるというのは、自分にとってやっかいなものを排出しているからかもしれない。普通、コミュニケーションというのは気楽なものだと思われているけれども、実は、毒出しかもしれない。
[松岡] お互いに毒を出させあっていたりして(笑)。
 (P.135)

≪目次: ≫
 第一章 世界知を引き受ける
 第二章 異質性礼賛
 第三章 科学はなぜあきらめないか
 第四章 普遍性をめぐって
 第五章 日本という方法
 第六章 毒と闇
 第七章 国家とは何ものか
 第八章 ダーウィニズムと伊勢神宮
 第九章 新しい関係の発見へ








本「トラや」南木佳士5


トラや
著者: 南木佳士
単行本: 196ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/11)




猫の“トラ”をめぐる小説。
子猫のトラとの出逢いから、15歳で生命を全うするまで。
最初に見掛けた時には5匹いた子猫が、ほんの1、2ヶ月後には2匹になってしまって、飼うつもりなどなかったのに、気が付けば欠かせない家族の一員に。トラとの出逢いと時を同じくして、―だから、鮮明に記憶しているのであり、家族にとって必要とされたのでもあり―うつ病に苦しんだ。
トラと共に歩んだ15年の歳月。自らの病、親や近しい人たちの介護、そして、死、、、、 当時、小学生だった二人の息子は大学生になって家を出た。互いに老いた夫婦二人の生活。トラの不在。


そう、これぞ“南木佳士”。
例えば、「相変わらずのいつもの展開でツマラナイ」と感じる人もいれば、「この感じがタマラナイ♪」と感じる人がいる。ぼくは、「この感じが好き!」 もっと言えば、「この感じを必要としている人も、少なからずいるだろうなぁ」と想像する。
1951年10月13日群馬県生まれ。現役の医師であり、小説家(芥川賞受賞)。56歳。
どうやら、少し前まで、100年くらい前(現生人類の十数万年の歴史から比較すると、ほんの少し前)までは、人間の寿命は50年だった。
最近手にした、池田晶子(哲学者)「暮らしの哲学(毎日新聞社,2007.6)」にも、池谷裕二(脳科学者)「進化しすぎた脳 (講談社ブルーバックス,2007.1)」でも、さらっと書き記していて、何気なく読み飛ばすところなんだろうけれども、医療技術の発展に伴い、飛躍的に伸びた(伸ばされた)寿命。一方では、種の保存の原理原則に従えば、本来生き延びるべきではない(?!)種さえもが、生き残ってしまっている!?
単純なぼくは、それまで何の考えもなしに、「100歳まで生きる!」と能天気に唱えてみたり、「最近は不健康な生活を送っているから、70歳くらいまでかなぁ」などと考えていたりしたものだが、果たして科学(医療)技術の力を借りて、そこまでして無理に長く生きる意義とは?








本「うらなり」小林信彦5


うらなり
著者: 小林信彦
単行本: 202ページ
出版社: 文藝春秋 (2006/06)




先日、瑣末な勘違いから手にした、小林信彦のエッセイ集「昭和が遠くなって 〜本音を申せば(文藝春秋、2007.4)」の不思議な”縁”に導かれてなのか何なのか、あえて矢継ぎ早に続けてこの話題作(?!)を手にしたのは、とりあえず目に留まっちゃったから、であり、とりあえず読んでおいておこうかなぁ、であり、、、
でもホントのところは、この「うらなり」が、”小谷野敦の批判の対象”とされちゃった事件(?!)を目にしたから。ゲラにまでなっていた批判文を、文芸誌「文學界」に掲載するのしないのすったもんだの末に掲載はストップされ、しかも結果的に小谷野敦は「文學界」での連載を失っている。その事件(?!)の一部は、小谷野敦のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」に詳しい。ちなみに、小谷野敦は、『夏目漱石を江戸から読む(中公新書、1995年)』を著している。

という訳で、明治・大正時代の大文豪”夏目漱石(1867.2.9-1916.12.9)”の代表的な中編小説『坊っちゃん(1906年「ホトトギス」に発表)』を、僕は読んでいないので何も語ることができないのだけれども、どうやら、その登場人物のひとり”うらなり”と呼ばれる英語教師の視点を、あえて主人公として選択して浮き立たせ、昭和九年の東京を舞台に描かれる物語は、その他の書評においても、著者が、
愛すべき初期夏目漱石作品へのぼくのオマージュなのである。 (P.202)
と語られるのに対比して、文学的な評価には疑義が少なくない。
さらには、サラリと”百周年をあて込んで書いた、などと言われるのは不愉快である。(P.182)”とまで。

それでも、何はともあれ「話題を誘った」ことに相違はない。








本「昭和が遠くなって −本音を申せば」小林信彦5


昭和が遠くなって −本音を申せば
著者: 小林信彦
単行本: 258ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/04)




正直、僕は苦手かも!?、あくまでも、僕はね。
小林信彦(1932.12.12-)が、1998年(平成10年)から連載を続ける「週刊文春」に掲載されたエッセイの書籍化。何と第九作目の単行本(ハードカバー、第六作までは全て文庫化)だそうで、氏の人気の程が窺える。

実は、正月休暇対策にドカドカと入手した著作のひとつなんだけど、すぐに重大な勘違いを犯したことに気が付いたものの、「まぁいいかぁ、これも何かの縁だろう」と、いつもの通りの”Take it easy”。
そう、僕が好きな”橋本治”が年末(2007.12)に新潮社から刊行した論考「小林秀雄の恵み」の”小林秀雄(1902.4.11-1983.3.1)”であり、やはり僕が好きな”保坂和志”と交友が深かった”小島信夫(1915.2.28-2006.10.26)”であり、似ているようで全然違う。
「まったく、ちゃんと名前ぐらいは覚えなさい(怒)!」トホホホホ。

と言う訳で、”小林信彦”について、読了後の簡単な調査(Wikipedia)によると、とても多才で、交遊関係も広く、華々しい略歴を誇る。
メディアにも度々登場し、きっと誰からも好かれ、皆に愛されるキャラクターなのであろうと想像する。
あまり深く突っ込むことをしない、多少軽薄とも思える物言いは、世間や行政やメディアに対する軽い風刺で共感を呼び、民意を得易い。
あまり痛烈過ぎる批判の展開は、ともすると拒否反応を呼び起こす。
”石油の値上がりを騒いでいるが、それも、中心は中東でしょう。その現場からの報告(ナマの)はすべてフォトジャーナリストにたよる、というのも情けない。”(P.161)

僕だって、簡単に日常的に「分からない」と口にする。
それでも僕は、自ら「分かりたい」と強く望むから、分かるための最善の方法として、まずは無知である自らを徹底的に認めて、「僕は、どうしようもない無知なんだから、だから知りたい、どうしても知りたい!」を導き出すための『分からない』であると考え、充分に意識している。
分からないものは、どうしたって有り得る。人間は万能ではない。
むしろ、分かっていることの方が少ない。分からないことだらけだからこそ、限定された狭い領域で、決してひとりで生きることなく、誰かしらとの共同生活を営んでいる。
そう考えるに、僕は、「分からないことに簡単に口出しできない」。
迂闊に軽薄な意見を述べることを絶対に避けたい。状況も背景も何もかも充分に分かっている訳ではないのだから、「何も分かっていないのに何を言えようか?!」であり、それは当然に裏返すと、「何も分かっていない人の軽はずみな意見を、どうして簡単に、そのままに受け容れられようか?!」ともなってしまう。
そんなことばかりを考えてしまう人間は、なかなかに他人を信用したり、同調して協力し合うことに困難を伴い、結果的に周囲から疎ましがられてしまうのも、それはそれで仕方がない。
そして、そんな面倒なことを考えることなく、皆に広く愛されるキャラクターを、羨ましく思い、時に嫉妬心をも抱くものの、キャラクター(考え方、価値観)の違いは絶対的で、そうそう簡単に相容れるものではない。









本「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹5


走ることについて語るときに僕の語ること
著者: 村上春樹
単行本: 248ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/10/12)



日常的に文章を書き記すことを職業としている作家”村上春樹”が、四半世紀もの間の経験と実績を経て、ついに表現を得た”走ること”。
エッセイというよりも、メモワール(個人史、回顧録)のようなものだと考えている、と語る、ささやかならざる重みを有する著作。タイトルに、敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトルを用い、その想いを籠める。

自らを、作家であり、ランナーであることを公言する村上春樹は、専業作家となった1982年秋から”走ること”を始め、1983年に自らギリシャに赴いてオリジナルのマラソン・コース(マラトンアテネ)を一人で走破して以来、毎年のフルマラソン(42.195km)に飽き足らず、ウルトラマラソン(100km)、トライアスロンにまで挑み続けている。
1949年生まれ、現在58歳。
小説家として世界的な地位を確立し、多くの著作を精力的に発表している訳だから、簡単にエッセイなどをちょいちょいと書き記せそうな気もするが、その構想から何と10年以上もの歳月を要している。

何よりも、いきなりフルマラソンを走れてしまう高い運動能力に驚きを隠せないが、それはさておき、”走ること”への想いの深さ。
当初は健康維持が目的だった。専業作家になることによって、自らの体躯を動かして行う作業的な動作は著しく減少する。机に向かって黙々と、頭と心を駆使する労働。
ある意味では、自らの体躯が欲していたのかもしれない、”走りたい”と。村上春樹本人も何度も書き記しているが、第三者から強要される作業(学校での勉強!?)には全く身が入らず、長続きせずに何も得られない(そのことが無意味であることを習得した!?)。自らが欲して起こした行為や行動(それでも全てではない)は、習得の度合いが著しく速い。確かに、自らが興味を抱いた事柄は、頭への入り方がスムーズで、しっかりと記憶に残る。そして、新たに得られた知識が、さらに新たな興味を引き出して、加速度的な発展を見せる。
環境的には、作家という、ある意味では時間的な拘束が少なく(毎日会社に通勤をするサラリーマンに比較して)、自らの意志で自由に時間を使うことができる利点はあるのかもしれないが、それとて、自らの意志の成せる業であり、どんな環境に身を置いても、誘惑はとっても多い。そして、人間の意志は弱く儚い。
だって、”走ること”って、やっぱり辛く苦しい。人間に原始的に備わっている、基本的な動作ではあるが、現代社会においては、自らの足を使うまでもなく便利な自動車や自転車がある日常生活。目的地への移動ということを考えた場合には、絶対的に”走ること”は選択されない。
一見して、何の意味をも有しないと思われる”走ること”。果たして、本当に意味を有しないのであろうか? ある意味では、何の意味をも有しないということは、真実でもあろう。例えば、学校教育現場において、一律に強要される長距離走。それぞれ個人の都合も事情も何も関係なく強要される作業に、過去の記憶がよみがえり、憤りを感じる一方で、それが社会一般の在り方、特に学校教育現場の在り方であり、その状況を経ることによって、結果的には”走らされる”(強要される)ことによって自らが考えることに、意義がある側面をも否定できない。

”走ること”には、動作や作業としての効率や利便性を超越した概念が存在する。
高度に経済が発展し、機械技術が向上し、著しく高まった利便性によって、現代社会はさらなる効率を追い求め、忙しく追い立てられ、淡々と与えられた作業として遣り過すことによって、考えることをしなくなっている傾向を否定できない。
それ相応の時間を費やして行われる動作”走ること”。費やされる時間が多ければ多いほどに、流れる時間がゆっくりであればゆっくりであるほどに、本来のあるべき人間の本能が呼び起こされよう。
本当に大切なこと、本当の幸せが何であり、何によって得られるのか、慌ただしい現代社会の時間の流れから一歩身を引いて、客観的にじっくりと考えてみることも、時に必要とされよう。
”走ること”が、単純でシンプルな、人間の本能に基づく動作であり、そこに含まれる意義(私は断片的に限定的にしか理解できていない、というかほとんど分かっていない!?)が広汎であり、哲学的に文学的に、充分に”語る”に値する、と村上春樹が考えたかどうか、私は知らない。








本「マルシェ・アンジュール」野中柊5


マルシェ・アンジュール
著者: 野中柊
単行本: 254ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/10)




神聖(?!)な雰囲気が漂う、24時間営業の高級スーパーマーケット”マルシェ・アンジュール”を巡る、六組六様の”幸せ”についての物語、連作短篇六篇。
それぞれの日常生活の中の、好きな、心地好い場所。
だから、自然と足が向く。

幸せ、幸福、楽しく生きる。
言葉にするのは簡単だけど、生きることは、楽しいことばかりではない。むしろ、楽しくないことのほうが多い、といっても言い過ぎではない。辛く苦しいことは、少なくない。

幸せそうに見える人、楽しそうに見える人。
だからといって、必ずしも幸せで、楽しいとは限らない。むしろ、幸せじゃなくって、楽しくない人こそ、幸せで楽しそうに振舞う。
比較できるものではないが、大して辛さや苦しみを感じていない人の方が、よっぽど楽しそうにも、幸せそうにも見えなかったりする。


野中柊が紡ぐ物語の登場人物も、
結婚して小学生の子供がいて、夫との夫婦生活に大きな問題は無いけれど、結婚する前に恋愛していた頃の熱い想いが、時折よみがえり、不満とまでは言わないけれど、不安を感じてしまうときがあるようなないような、微妙な主婦。小さなベッドに寄り添って寝ていた頃が懐かしい。距離を保って並べたシングルベッドを、深夜にこっそり抜け出して、ちょっとめかしこんで向かう先。併設されたカフェでの出逢い、ときめき。
高校生の男の子が、ひょんなことから出逢って、交際することになった美しい女子高生は、フランスからの帰国子女で、立派な家に住んでいて、見るからにお金持ち。でもね、買えない訳じゃないのに、お金はあるのに、あ〜ぁ、どうしてそういうことをしちゃうのかなぁ〜。お母さんがいないからって、お父さんが連れてきた若い女の人との暮らしているからって、だからって何も・・・

何を抱えて考えて感じているのか、その状況は、本人以外には窺い知れない。


人間は変化する、そして、飽きる。
どんなに熱烈に愛し合ったとしても、その関係が永遠に継続することは有り得ない。
恋愛のヒリヒリする非日常的な体験が、熱い気持ちを更に盛り立てる。刺激を求める本能。
だから、永遠に続くと思われる熱い気持ちも、歳月を経て、当然のように熱は冷め、やがて日常と化す。日常にヒリヒリする感覚は無いから、更に新しい刺激を元める本能を責めることはできない。
永遠に変わらないものなど無い。

そして、楽しいことや幸せなことも、そんなに多くは訪れない。
自らが強く求めて、その代償を払って、そしてやっと手に入れることができる”幸福”。苦労して手に入れても、案外大したモノを手にできなかったりもする。労せずして、大したモノを手にできるときもある。
その大小やタイミングには、絶対的な違いがあって、決して平等に公平ではない。


だからこそ、ささやかな幸せ、楽しみを、大事にしたい・・・









初恋、予感、記憶、距離、星座、聖夜、、、

本「うさぎおいしーフランス人」村上春樹5


うさぎおいしーフランス人
著者: 村上春樹
イラスト: 安西水丸
単行本: 264ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/03)




「脳減る賞」方向に物ごとが勝手に流れていってしまって、作ってみたかった「村上かるた」みたいなもの。
世界の”村上春樹”の精神領域にある、
まじめに現実社会と対峙しようとすればするほど、「まったく世の中のためにはならないけど、ときどき向こうから勝手に吹き出してくる、あまり知的とは言いがたい種類のへんてこな何か」
が、あっという間にたまってしまった作品集。
ソウル・ブラザー(?!)”安西水丸”が、イラストを添える。

表題作”うさぎおいしーフランス人”は、
フランス人と、子豚の釣り師と、あしかと、村の貸家と、噛み合わない会話が繰り広げられる。『小鮒釣りし、かの川』であり、『うさぎ追いし』であることに、意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。

五十音の”かるた”があって、それだけじゃ”ネタ”が収まりきらなくって、本採用されなかった”ネタ”まで、合わせて百八篇。
これだけ揃えば、本になる。
これがまた売れちゃうんだよね、そこそこに。”村上春樹”を欲している人は多い。当然に私もそのひとり。


思い起こせば、私に読書の愉しみを教えてくれたのが”村上春樹”であり、しかもそれは、昨年夏以降の出来事。
小説であり、エッセイであり、翻訳作品まで、村上春樹を片っ端から読破しようと企てた。それまで、読書の習慣がなく、時折ビジネス書を読んで表面的な啓蒙に満足感を得るだけで、小説を読むことができなかった。作り話を愉しむ心の余裕もなく、ただただいきがっていた。
その後に、気が付いたら、いつの間にやら、すっかり”読書依存症”に陥り、片時も本が手放せなくなった。興味の赴くままに、とりあえず先入観なく読んじゃう。なかなか全ての理解には至らないけど、そんなの当たり前。理解できると思う方がおこがましい。それでも、経済活動の一環としてこの世に出版されている”本”には、出版社というプロ集団が、それなりの商機を感じて市場に流通させている訳で、私がその本を読む行為に費やす2〜4時間が、無駄になることはない。どんな本にも、ひとつくらいは、気付きがある。

海外で高い評価(ブッカー賞など)を受けている現代文学作品など、「えっ?!!、何が面白いの?!、分からない!?」と言葉を失う表現を多く目にする。
そう、虚構の世界の崇高(?!)な言葉遊び♪








本「ひとり旅」吉村昭5


ひとり旅
著者: 吉村昭
単行本: 247ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/07)



長年連れ添った妻であり、小説家の津村節子の、
”この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。”
と書き記す「序」章から幕を開ける。
平成十八年の夏の盛りに、七十九年の生涯を閉じた小説家”吉村昭”が、晩年に精力的に書き遺したエッセイ集、対談。
同業のライバルであり、共同生活を長く営んだ人生の伴侶でもある、津村節子の想い。吉村昭の、裏も表も知る。長い歳月に積み重ねられた記憶。

タイトルにもなった「一人旅」。
吉村昭の、生真面目に自らに厳しく、潔い生き様。
「茶色い犬」、「老女の眼」に漂う深い哀しみ。
商売を営む裕福な大家族の末っ子に生まれ、戦争を経験し、青年期に大病を患い覚悟したであろう”死”。
経済的な心配の無い生活、大病からの奇跡の復活があったからこそ、養生して自らとの対峙、そして深く親しんだ文学。幼少の頃に作文が上手じゃなくったって、吉村昭は、その必然に導かれて、時代の後押しをも受けて、小説家として、記憶を記述として後世に残す偉業を成し遂げた。戦争を経て、高度な経済の発展によって世情は大きく変わった。大きなキッカケを成す戦争。戦争に至る歴史、文化、歴史的事件。二・二六事件生麦事件鎖国していた江戸時代、なるほど興味深い。
戦争の後の急激な経済発展を経た現在。現在を紐解く歴史。

鎖国をしていた江戸時代、江戸人が実は大変に優秀であったという事実。高度な道路工事、街づくり、造船技術、高い識字率。日本近海の太平洋を流れる黒潮にさらわれて漂流して、海難事故によって命を落としたり、異国の地に辿り着く事件こそあったものの、高い識字率に裏打ちされて記述を残す漂流記の数々。
人や馬が一日に歩く距離ごとに設けられた宿場。宿場を結ぶ整備された、松並木には、風除けだけでなく、涼をとり休憩する機能も。飛脚によって、整備された情報の機構、組織。
鎖国だって、自国で全てが賄えるから、他国との交流の必要が無かった。

歴史の事実を、自らの目と足で地道に丹念に綴り、書き残した作業。
遺された膨大な歴史的事実の記述は、どんな時代にあっても、語り継ぐべき人間普遍の原理原則。

合掌








「見えない橋 -吉村昭」読みました。5


見えない橋
著者: 吉村昭
単行本: 232ページ
出版社: 文藝春秋 (2002/07)




”人間は、過ちを犯す生き物であり、そして誰しもが必ず死ぬ・・・”

吉村昭、短篇小説全七篇。じんわりと、静かに深く、心に沁み込む。
それでも、描かれる世界は、あくまでも”吉村昭”の世界でしかない。
吉村昭が、その人生において、描きたいと心に強く感じた物語たち。
最後の50年前に描かれた作品「夜の道」の妙。若かりし20歳代、自らが大病を患い、最愛の母を癌による闘病の末に亡くした時の私小説。その記憶や想いは、50年の歳月を経てもなお不変。それだけの大きな出来事。


実は、本に依存して生きている私は、携える本が絶えることを避けるためにも、併読を常とする。この著作が、500ページ超の獄中における記録の著作の読中に、割り込む形となった不可思議。多少の混同は、深まる相互理解を優先する。必然に導かれる心地好さを堪能する。

共同生活における秩序の維持、社会的必要悪などから、法に触れ、罪を犯し、国家(刑務所・拘置所など)の世話になる人たち。果たして、彼らは特別に”悪い人間”なのであろうか?
結果的に、彼らが起こしてしまった行為が、決して許されるものではないことに、異論は無いし、何ら変わりは無い、変わりようが無い、結果的に”悪かった”から、それなりの制裁を受けた。自らが引き起こした行動は、自らが最後まで責任を負うべきである。それが、どんなに些細なことであろうとも。時間を巻き戻して、行動を取り消すこと、遣り直すことはできない。
人間が過ちを犯してしまうという事実が、絶対的に存在する以上、既に犯してしまった罪は、その自らの責任において償えばいい。その過ちを犯すに至った心の内は、本人以外には理解し得ない。理由無くして、行為が引き起こされることは有り得ない。何らかの理由が存在して、行為が引き起こされる。だからこそ、犯してしまった罪を自ら認め、自らの責任において全てを受け入れ、自らとの対峙。自分自身以外の第三者には知り得ない、自らの内に秘められた理由の追求。特に、橋本治曰く”若い男”をはじめとして、この世の中には「相手の気持ちを考えない」存在に溢れる。考える必要を感じることなく、何となく生きてきてしまって、考えることをしなかった、のであって、考えたことが無い、でしかない。
残念ながら、その必要に迫られて、悩み苦しみ、時に烈しい痛みを伴い、初めて自らとの対峙を果たす。ある意味では、その機会が訪れることが無い人生を”幸せ”、とも。
何をもってして、”幸せ”とするのか?

知らないことによる”幸せ”もあろう。知ることは、ある意味では”辛い”。辛く厳しい現実を受け入れることは、時に痛みを伴う。

戦争により、最愛の夫を失った女性に、歴史小説の取材で知り得た、夫の残酷な死際を伝える「夜光虫」。充分な調査によって書き綴った歴史小説における、重要な部分であるから、その詳細な記述を避けることはできない。知り得てしまったが故に、その歴史的事実を後世に遺す必要を強く感じたからこそ、書き記した物語。物語として、広く世間一般に発表するからには、親族には、知り得た事実を事前に知らせ、その真実と真意を伝える配慮が必要とされる。現実を突き付けられる親族も辛いが、伝える著者も辛い。それでも、その歴史的な崇高な意義に駆り立てられ、その職務(?!)を全うする。取材によって知り得る悦び、伝え遺す現実の重み。
それだけに、その記憶が決して消え失せることは無く、その真意の理解が得られたときの安堵感。それは、ひとつの優れた短篇小説を生み出す物語と成り得る。


この世に生を受け、生まれ出でたその瞬間から、”死”に向けた人生の歩みが始まる。
それでも、決して”死”を美化することに、意義を感じることは無い。”死”が人生におけるゴールであるとも思えない。

現実的に、現在に私に”死”は訪れない。
仮に、自らの命を絶つ行為に、衝動に駆り立てられたとしても、きっと、命を落とすことが許されず、ただただ生き恥を晒す結果を、明確に想像できる。あまりにも自らの人生が中途半端すぎて、このままでは、死なせてもらえる気がしない。自分自身の命でありながら、第三者がその自由さえも許さないなど、大いなる矛盾に満ちた概念ではあるが、そう感じるのだから仕方が無い。

だから、生きる。
自らが過ちに満ちた存在であるが故に、全てを受け容れて”生きる”、
この世に存在し得た、その意義を全うしたい。
生きたい・・・









「急な青空 -南木佳士」読みました。5


急な青空
著者: 南木佳士
単行本: 228ページ
出版社: 文藝春秋 (2003/03)




直木賞作家”南木佳士”著作に漂う雰囲気は、当然ながら大差が無い。それでも、手にする度に、噛めば噛むほどに、新たな側面が垣間見え、決して飽きることが無い。

それでも実は、小説家吉村昭の生い立ちと混同している。幼少の頃から病弱であって、肉親を幼くして失い、自らが大病を患い、常に身近な”死”。
そして、吉村昭「死顔」の書き出しが、人間の記憶に関する記述であったことを、ふと思い出す。
人間の本能。

軽井沢の病院住宅での日常生活から紡ぎ出される物語。厳しい冬、零下二十度の世界。大気の水分が凍結して浮遊する”ダイヤモンドダスト”。
自然が織り成す”美”。
日曜大工の”水車”。
なるほど、直木賞受賞作品「ダイヤモンドダスト」。
一度読んだ著作の世界を、あらためて別の角度から見ることができると、理解が深まる。

エッセイには、短い”書評”が顔を出す。
つくづく実感する、
「私は全く本を読まずに、これまでの時間を過ごしてきてしまった。」
既に過ぎ去った時間を悔いても仕方が無い。時間を取り戻すことはできない。
であるならば、今、”本が好き!プロジェクト”に参画させていただいて、新刊本を手にさせていただくことができること、図書館の幅広い豊富な蔵書を手にできる、現状の現実の目の前の幸せを噛み締めたい。そして、今がその時期なのであり、今、自らの意思で深く強く求めててにしているからこそ、深い理解が得られ、深く沁み込む幸せ。
感謝。









「こぶしの上のダルマ -南木佳士」読みました。5


こぶしの上のダルマ
著者: 南木佳士
単行本: 220ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/04)




南木佳士の作品が嫌いだ。
しかし、それは即ち、自らの否定に他ならない。

読書を心の拠り所として、日々を遣り過ごす。手にする本が絶えることが、正直怖い。ほぼ依存症状態。
参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”からの献本の他に、二箇所の公立図書館を愛用する。その時の気分で、あまり深く考えることなく手に取る。気になる本は、予約で気長に待つ。
そして、深く考えることなく手にした本であっても、手にしたからには、何らかの必然に基づいていると考えるから、読み続けていけば、いずれは終わりが来ると考えるから、とにかく最後まで読む。この世に生み出された本には、全てその必要に基づいている。
そんな頑なな考えが、自らを更に追い込むことを理解していながら、それでも性格だから仕方が無い。

人里離れた山奥の廃屋同然の古家に住み、人知れず轆轤(ろくろ)を回し自給自足の生活を営む・・・


南木佳士との出会いは、やはり図書館の新刊本コーナーにて「からだのままに」。まるで魔が差したかのように、引き寄せられた。
そしてまた、何故か手にしてしまった。
それでも、1988年に芥川賞を受賞して、特別に目立つ活躍をされている印象を受けることが無い(?!、私が知らないだけ??)ものの、今現在も著作を出し続けている。大手出版社”文藝春秋”だって、供給が見込まれない著作は、過去の栄光だけでは出版することがないであろう。


派手さは無い。漂う空気は、重く暗い。
父親との確執。死。自らの病い。山。
決して明るい、楽天的な物語ではない。深く深く沈み込んで、苦しみや痛みさえも感じさせる物語。
静かに正直に素直に語られるが故に、深く沁み込む。決して心地好さは無い、出来得ることであれば、逃げ出したい。それでも、逃げ出して、放棄したところで、自らの内に秘められた”何か”が、それを圧し止める。










「ダイヤモンドダスト -南木佳士」読みました。5

ダイヤモンドダスト -南木佳士

ダイヤモンドダスト
著者: 南木佳士
単行本: 203ページ
出版社: 文藝春秋 (1989/02)




”「私の家のような百姓と別荘の客達が親外の分をわきまえていた時代が、この町のいちばんいい頃だったのね。差別じゃなくて、区別がはっきりしていたのよね」”
 〜「ダイヤモンドダスト」より〜


記念すべき、第100回 芥川賞受賞作品。
先日、何気なく手にしたエッセイ集「からだのままに」から、南木佳士に興味を抱いた。


小説「ダイヤモンドダスト」の他に、エッセイ(?!)が三篇。
長野県の佐久総合病院の医師として勤務し、日常的に”死”と向かい合う日々。
大きな夢を抱いて医師を志したものの、それでも生真面目な性格故に、現実的な”死”を常に目にする苦悩。”死”の淵に立たされながらも、奇跡的な生命力によって生き返る人がいれば、突然に呆気なく訪れる”死”があり、高度に発達した医療技術によって、延命措置を受けている人。
特に、カンボジア難民医療団として赴任した経験が、より一層、人の”死”の不条理や宿命を浮き立たせる。カンボジアの、度重なる内戦などによる貧困や階級格差。経済的に豊かな(?!)国、日本から経済支援の名の下に派遣される医師団が、酷暑や不衛生などの過酷な環境にあって、支援できる範囲には限りがある。個人的な感情に流される行動は許されない。異国の地、しかも劣悪な環境にあって、救いたくても救うことができない命もある。それさえも、宿命であり、抗うことができない現実。それは、カンボジアだけでなく、高度に医療技術が発展した日本にあっても変わらない。
一方、日本においては、高度に発展した医療技術によって、人工的に生かされている人もいる現実。家族からの要望がある場合があり、時には医師の名声のためであったりもする。意識も無いままに人工的に、自然の流れに反してコントロールされる”死”。医師としての評価は、学会での論文の発表(?!)であり、手術の件数や、その後の延命の長短であったりする部分もあり、それを商売のネタにするメディアは、当然の如く、目に見えて分かり易い材料として、盛んにあおり立て、患者側の心理としても、ついつい目に見える数字や評判を判断材料とする。資本主義自由経済化にあっては、当然の流れでもあろう。
当然に医師も人の子であり、地位も名声もお金も欲しい、人の命を救う、高度な専門性を有した高貴な職業であることに、全く異存は無い。仮にそれが医師の私利私欲であったとしても、人の命が助かり、長くこの世に生を受けることができて、喜ぶ人がいる事実に相違は無い。必要な存在であることに間違いは無い。
それでも考える、喜ぶ人がいるけれども、喜ぶ人がいるってことは、その陰には、絶対的に、喜べない、喜んでいない、不幸な人が存在することを。コップの水は常に満杯で、新たに水が入ってくれば、絶対的に溢れ出る。
それでも世の中は上手くバランスが保たれていて、様々な種類の人が存在していて、医師だって人間だから、医師の中にも色々な人が存在する。

生真面目で真剣で一生懸命すぎちゃって、時に痛々しい。
趣味の釣りだって、アユは131匹、ワカサギは560匹。

とても他人事とは思えなくって、だから私は手にする。








「あなたのそばで -野中柊」読みました。5


あなたのそばで
著者: 野中柊
単行本: 264ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/9/8)




”はじめて千鳥ちゃんに会ったとき、なんだか、僕は懐かしい気持ちになった。なぜなのか、すぐにはわからなかった。でも、今は、こんなふうに思っている ―彼女は、明信さんや僕の心の隙間にぴたりと合うかたちをしているせいじゃないかな?と。”
 〜「さくら咲く」より抜粋〜

”「知ってるんでしょう?気づいているんでしょう?なのに、恭子さんは、そんなふうに悠然と構えて」
鼓膜と唇が凍ったように感じられて言葉もなく立ち尽くしていると、彼女はさらに言い募った。
「私はおふたりの世界から、いつ追放されちゃうのかと、いつもびくびくしているんですよ。こわくってしょうがない。私、俊さんのことも好きだけど、恭子さんのことは、もっと、もっと好きなの。私が恭子さんに成り代わりたいくらい好き。あなたなんて消えてしまえばいいのに」
椿ちゃんは涙をぽろぽろこぼした。
孤独の扱いを心得ていないのだろう。痛々しい。でも、気前よく盛大に涙を流すことがでっきる彼女が羨ましくもあった。
私は手を伸ばし、椿ちゃんの手首をつかんだ。そして、ゆっくりと引き寄せ、彼女の涙にくちづけた。
・・・
死んでも、生まれ変わって、また出会える。私たちはふたたび共に生きることができる。なんとなく、そんな気がした。”

 〜「運命のひと」より抜粋〜


最近、お気に入りの”野中柊”、心を揺さ振られて、堪え切れない。どっぷりと、深く深く沁み込んで、電車の中では堪えることができても、ひとりの部屋では嗚咽が涙が止まらない。
結構、本質的な心の深層に踏み込んだ、生々しい”物語”なだけに、所謂、世間的に”常識”的といわれる方には、嫌悪感を感じるのかな?!、とも。

心を揺さ振る短編が、緩く微妙に絡み合う、連作六篇。
時に痛く、それでも、本能にびんびん響いて、やっぱり心地好い。

だってね、「運命のひと」では、
結婚して互いにフリーなデザイナーとして共同事務所で一緒に仕事をしている夫婦でありながら、男は、アルバイトの女子大生(椿ちゃん)と、肉体関係があって、主人公の女性(恭子ちゃん)は薄々気が付いていながら、それでも、敢えて容認しちゃっていて、だからという訳では無いんだろうけれど、輸入雑貨屋さんの吉田くんと、やっぱり肉体関係がある。狭い世界に絡み合う人間模様、愛?、恋?、本能?、欲!
で、物語の締め括りは、それなのに”運命のひと”なのである。

おいおい、ちょっと待て!!、倫理とか、貞操観念とは!?、、、
何てことを持ち出そうモノならば、話しは早い、”野中柊”を読まなければいい。ただそれだけ。要は、手にして、読み切っちゃう人は、それなりに何か思うところがあるのであって、世間の”常識”と、自らの本音の心との”矛盾”であったり、運命やら宿命やらの、ある意味での”悪戯”みたいなものに、何か思うところがあるのだから。それが、善いとか悪いとか、そういう次元を超越しちゃって、自らの気持ちに正直に素直に生きる、当然に風当たりは強く、波風は立つけれど。だって、みんな生身の人間で、それぞれに真剣に一生懸命に生きているんだもんね。
それでも正直、いまだに私にはとてもとても理解し得なくって、受容れ難い事実であったりするんだけど。

時に、身近な大切な人(妹、父親、母親、祖父母)の”死”が、与える”心の痛み”。
誰かに話したところで、その痛みは、一度刻み込まれた”傷”は、決して消えることが無い。誰かに打ち明けて、年月を経て、記憶が徐々に薄れ、傷が少しずつ小さくなり、痛みが薄らぐことはあったとしても、一度受けた痛みや傷は消えない。
それでも、運命や宿命に導かれて、ある意味では必然に導かれて、引き起こされる現実。どんなに抵抗しても、足掻いたとしても、やっぱり、その必然には抗えない?!、それさえも現実。
であるとするならば、その必然の流れに身を委ね、圧倒的に現実を受容れちゃうしかない?!
それでも、それにもやっぱり時間が必要であろう。時間では解決されることが無い現実もあるけれど、決して、時間が経過しても消滅することが無い現実。
とどのつまり、心の持ち方であり、考え方でもあろうか。
やっぱり、心の整理は、自らが付けるしかない!、頭では理解した気になっても、それでも、そんなに簡単なことではない。


著作の数に比較して、プロフィール情報が極端に少ない、ミステリーに満ちた小説家に、私の興味は尽きない。








「からだのままに -南木佳士」読みました。5


からだのままに
著者: 南木佳士
単行本: 168ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/02)




”人の真実はそれぞれに多様で、表現するのは難しそうだけれど、現実をそのまま活字に置き換えるよりも、虚構を用いたほうがより雑多な真実を作品のなかに取り込めそうな気がした。そうしなければ、書かれた人物の輪郭や陰影を表せないと直感した。だれかにきちんと読んでもらえなければ、悩みを開示する意味はないのだから。
昭和五十六年二月の寒い朝、育ての親だった祖母が死んだ。
・・・
語り合う者を亡くしたとき、見慣れたはずの風景さえもがらりと形相を変える。医師になって四年目で、他者の死には慣れたはずだったが、想い出を共有した人を亡くすのは初めての体験だった。一人の人間の死が、永遠の不在が、これほどまでに強烈に、遺される者の世界を変容させる一大事なのだと、このときになってようやく気づいたのだった。”

 〜「浅間山麓で書く」より抜粋〜


著者の南木 佳士(1951年生まれ)は、大学卒業後の三十年を、九百ベッドを有する大規模総合病院佐久総合病院に勤務する、現役の医師であり、第53回文學界新人賞、記念すべき第100回芥川賞受賞の小説家である。

自らが、「母が三十代前半、祖父も五十そこそこで逝っている短命な家系」との宿命を感じていて、そして、現実に三十八歳でパニック障害、その後のうつ病、肺の手術を経て、五十五歳の今を生きる、その想いを綴るエッセイ集。

あとがきに
”過去は絶えず新たに制作されてしまうものだから、これもいまの想いにすぎないのだが、五十五年の頼りない足跡は、これまでの人生がまさにからだが生き延びるためのものであったことを明確に教えてくれる。・・・”
とある。

人の”死”が日常茶飯事となっている医療現場に携わっているが故に、”遣り甲斐”などとチープな言葉では表現し切れない複雑な想いがあろう。
一方では、不謹慎かもしれないが、ある意味では”商売”であるとの割り切りから、無頓着に感覚を麻痺させる選択肢、または考え方もあろう。考え過ぎて、結果的に好いことは無い。真剣に考えれば考えるほどに、悩み、苦しみ、精神的に尋常ではいられなくもなろう。特に、性格的に生真面目な場合、その精神的負担は、想像に難くない。私には耐えられる自信が無い。
それでも、世の中は上手くできたもので、その善悪を問わず、精神的に負担に感じない方も絶対的に存在する。ある意味では、”正義のミカタ”的な存在。絶対的に必要な存在。その存在無くして、正常な社会秩序(?!)が保たれない。また一方では、誰でも成り得るものではない。
そしてまた、精神的な負担と、深い苦悩の中から、それだからこそ生み出される、新たな側面と、その可能性を否定できない。順調な人生の中からは、決して窺い知ることができない事柄。
その必然に導かれて、そして保たれるバランスもあろう。



足繁く通う区立図書館の”新刊本コーナー”で目にして、何気なく手にした。
実は、かのガブリエル・ガルシア=マルケスの新刊『族長の秋 他6篇』(2007年4月27日発売)の予約準備が整った旨のメールが届いていたこともあり、それでも、現在は別の海外純文学の超大作(やはり新潮社のクレスト・ブックス!)に挑んでいる真っ最中にため、心の何処かで手軽な(?!)著作を求める弱い心が顔を出していて、一気に読めると思しき著作として手にした三冊のうちの一冊。こんな支離滅裂、気紛れな読み方をしているから、本格的な作品への理解が深まらないとの思いを有しつつも、それでも、本格的文学作品の”読了”に対する意義に重きを置く現実も。悩ましいが、とにかく本が読みたいのである。








「楽園のしっぽ -村山由佳」読みました。5


楽園のしっぽ
著者: 村山 由佳
単行本(ソフトカバー): 276ページ
出版社: 文藝春秋 (2005/7/14)



とっても素敵です!

図書館で何気なく手にして、何となく何かを感じて、借りてきました。
当然に、著者(村山 由佳)が、直木賞作家だということも、大自然に囲まれた農場暮らしをされていることも、全く存じ上げませんでした(恥!)。

人生を、目一杯楽しまれています。 とっても羨ましい!


好きなこと!を、とことん楽しむことって、私を含めた多くの人々は、成し得ていない。 当たり前の話しだけど、好きなことを楽しむには、まず自分自身が、何が好きなのかを分かっていなければならない。 自分自身のことが分かって、始めてそれを成し遂げることができる。
塾講師をも経験された著者が、後半で”ゆとり教育”について語るところで、ふと、教育の目的、また、人生の目的とは?と、考えさせられた。 何を目的とした”ゆとり教育”であり、何の”ゆとり”を求めるのか、その本質を見誤ることの愚かさを。
著者曰く、できることなら、ゆとり教育によって生まれた”ゆとり”が、
”子どもたち一人ひとりが<回り道>や<失敗>を自ら試せる余裕の時間” であってほしい、と。
そして、
”子どもたちを一度もつまずかせずに、無駄なく最短距離で<成功>へと導こうとする親や教師たちの<親心>こそが、結果として彼らを自分で何も選べないほど無気力にしてしまったり、やたらと挫折に弱い人間へと育ててきちゃったんじゃなかったろうか。当たり前のことだけど、失敗は成功からは学べないのだ。” とも。
まさに、そのあたりが、私自身が現在のところ人生を楽しみ切れていない要因のひつとかとも・・・ あくまでも、現在のところ。

色々な人生が、色々な楽しみ方があっていい。
優しくつよいメッセージ、たっぷりいただきました!

「はじめての文学 村上春樹」読みました。5


はじめての文学 村上春樹
著者: 村上春樹
単行本: 272ページ
出版社: 文藝春秋 (2006/12/6)



実は、10歳(小4)の娘の"クリスマスプレゼント"として購入したものです(当然に内緒です!)。
私が敬愛する「村上 春樹」が、はじめて"文学"に触れる方向け(きっと児童と限定してないのでは?!)の入門編というのでしょうか、出版社のそんな企画に参画され、自身が過去に発表した中から厳選した作品集(2006年12月刊行)です。

やっぱり凄いわぁ、村上 春樹・・・
グイグイ引き込まれて、全て一度は目にしている作品ばかりなのに、決して飽きることなく熟読、そしてその軽快な心地良い感覚をたっぷり楽しみつつ、しっかり心に沁み込んでくる・・・ 夜のマックで、100円コーヒー片手に、一気に読破しちゃいました(笑)!
メタファー爆裂〜〜!
楽しかった〜、大満足です!!

中ではやっぱり「沈黙」が好きだなぁ・・・
最初に読んだときから、これ大好きで、何と言うのか、淡々と穏やかにそして静かに語られつつ、しっかりずっしり、ずど〜ん・・・ みたいな(笑)!
すご〜く丁寧に綿密に描かれています。


ところで、本当は今"フランツ・カフカ"中なんです。
「審判」、かれこれ5〜6日間も読破できずにいます(笑)!
これがなかなか読み進めるのが困難で、途中、何度も他の本に手を出しつつ、それでも少しずつ、その歩みは確実に進んでいます。
そうこうしているうちに、次の本(新刊)が3冊届きました(笑)!
師走は、何だかとっても気忙しくて、落ち着いて読書を楽しむ余裕を生み出すのが困難ですが、マイペースを貫き、思いっきり楽しんでいきますよ〜(笑)!


何はともあれ、娘がプレゼントを喜んでくれるといいのだが・・・
そして、文学に楽しみを感じてくれるといいなぁ・・・

「約束された場所で―underground(2) -村上春樹」読みました。4


約束された場所で―underground〈2〉
著者: 村上春樹
単行本: 268ページ
出版社: 文藝春秋 (1998/11)



村上春樹、1998年11月刊行のノンフィクション作品です。
オウム真理教により、1995年3月20日に引き起こされた「地下鉄サリン事件」の関係者(被害者及び家族)のインタビューを綴る、1997年3月刊行のノンフィクション「アンダーグラウンド」の続編という位置付けの作品であり、本作品においては、加害者側(オウム真理教の信者及び元信者)のインタビューが綴られている。


久し振りに、読み進めるのが辛かった!
何故辛いのか、何が辛いのかを、自分自身に問い掛けながら読み進めた。悶々とした気持ちは、なかなか晴れることが無い・・・


心理学者・心理療法家(セラピスト)の「河合 隼雄」先生との対話に、さらに奥深く深く考えさせられる。

私の理解が及ばないレベルの話しに到達しているため、私はひとり取り残されているような不安感に襲われる。
私は、過去に新興宗教に入信したことが無い。「宗教」について自分自身に深い考察を加えたことが無い。それは、私自身の無知、不勉強を悟られないために、あえて避けてきてしまったのかもしれない。
また、「哲学」についても同じことがいえる。求めて勉強すること無く、深く追求すること無く、書物すら手にすることが無かった。
私には、明確な、人に語れる「指針」が無い・・・

にもかかわらず、まるで分かったかのようなフリをして、自分自身をも誤魔化して生きてしまったのかもしれない・・・ 不安に襲われて、自分自身が辛くなる。


あらためて認識しよう、私自身が無知で、無力で、凡庸な人間であることを!
そして、学習を地道に重ね、深い考察を加え続けよう!!


「手紙 -東野圭吾」読みました。5


手紙
著者: 東野圭吾
文庫: 428ページ
出版社: 文藝春秋 (2006/10)



映画「手紙」の公開が待ち遠しくて、文庫本を買っちゃいました(笑)!
(図書館の予約は、52人待ちでした・・・)
ちょっと前まで、ハードでヘビーな本(Shot in the Heart)に苦戦(?!)していたため、気軽に手にした作品でしたが・・・
いや〜、引き込まれてしまいました(笑)
とんでもなく、ヘビーな作品でした!!
そして、泣けます!!

「東野 圭吾」、読み易くて(笑)、真面目(?!)に丁寧に描かれていて、さすが「直木賞」作家、他の作品を手にしたくなりました!

映画が楽しみです!!

「心臓を貫かれて -マイケル・ギルモア」読みました。5


心臓を貫かれて〈上〉
著者: マイケル・ギルモア
訳者: 村上春樹
文庫: 405ページ
出版社: 文藝春秋 (1999/10)



心臓を貫かれて〈下〉
著者: マイケル・ギルモア
訳者: 村上春樹
文庫: 383ページ
出版社: 文藝春秋 (1999/10)



『心臓を貫かれて(Shot in the Heart)』著者 マイケル・ギルモア、1996年刊行の「村上 春樹」翻訳のノンフィクション作品を読みました。

非常にヘビーでハードな内容でしたが、引き込まれるように読み進めることができました。
他のライト(?!)な内容の本に、何度か手が伸びそうになりました(笑)が、どうしても最後まで読み切りたい!結末を見たい!! という思いが勝りました!
本当は「楽しかった!」の一言で終わらせてはいけない(?!)のかもしれませんが・・・ 適当(?!)な言葉に表現することができません。 ハートに、ズキズキとくる「何か」が、たくさんありすぎて・・・

楽しかった! 読んでよかった!
(少しクールダウンが必要なようです・・・)

「レキシントンの幽霊 -村上春樹」読みました。4


レキシントンの幽霊
著者: 村上春樹
文庫: 213ページ
出版社: 文藝春秋 (1999/10)



村上 春樹、1996年11月刊行の作品です。
10年前、当時、私は何をしていたかな?
子供が生まれたばかりで、今とは別の「ふどうさんやさん」で、営業の仕事をしていて・・・
この10年で、何か変わったのだろうか?
何も変わっていないのかもしれない・・・

今は、村上 春樹に救われて(?!)いる。
読み進みたいと、心から欲している。
そこに何かを求め、その答えを見つけることができる可能性を感じている。
自然に生きよう!
求めるままに、求められるままに・・・
Take it easy!?

「パン屋再襲撃 -村上春樹」を、読みました。4


パン屋再襲撃
著者: 村上春樹
文庫: 221ページ
出版社: 文藝春秋 (1989/04)



村上 春樹、1986年4月刊行の作品です。
今から20年前、私が高校生の頃です(笑)
その頃に読んでいて、何か、感じることができていたならば、きっと今とは全く違う人生を歩んでいたことだろうと想像するが・・・ 当時の私には、興味すら抱けなかった、そして今、触れ合うことができた、という事実だけである。

今日は、一気に読みたくて、とにかく読み切りたくて・・・ 満足です!
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