Gori ≒ ppdwy632

〈ぼく〉の思索の一回性の偶然性の実験場。

映画

漫画「夕凪の街桜の国」こうの史代5


夕凪の街桜の国
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書評/歴史・時代(F)



双葉社より、”マンガを語る快楽”企画を開催する”本が好き!PJ”を経由して献本、御礼!
そう、”快楽(快感)”に辿り着かなきゃいけない!、というか、辿り着きたい!、素敵な企画。

ところで、第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカが広島原子爆弾を投下し、たった一発の爆弾により、一般市民十数万人が死亡し、都市が壊滅した歴史的な出来事があって、それは、実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃であり、都市を対象とした爆撃では史上最大の規模であった。その後の8月9日には長崎にも原子爆弾が投下されて、ついには8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、日本は敗戦し、戦争は終わった。〜Wikipediaより。戦争に負けてボロボロになった日本は、幸か不幸かそれ以降の60年以上の長い歳月に亘り、戦争をしていない。

1968年生まれの著者”こうの史代”も、広島に生まれ育ちながらも、東京で漫画家として生計を立てていて、ふとしたことから編集者に、
『広島の話を描いてみない』
と言われて揺れる胸の内を”あとがき”に書き記す、
『遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」・・・』
『何より踏み込んではいけない領域・・・』
そんな自らを、
『不自然で無責任だと心のどこかでずっと感じていた・・・』

それでも、60年以上の歳月が確実に刻まれていて、戦争や原爆の記憶は、良くも悪くも風化している。軽薄な言葉は慎むべきかも知れないけれど、戦争や原爆を直接的に伝えることができる人びとの存在さえもが希少になってしまった現在においては、悲劇や悲惨さを直接的に表現する今までの表現手法とは異なる、深い部分の記憶に訴え掛ける手法が、より自然で受け容れられ易いのかもしれない。
今を生きる、戦争も原爆も知らない世代が描く後世に遺すメッセージ(物語)は、歳月を超えて紡がれる記憶の糸に手繰り寄せられる。











本「小説 夕凪の街 桜の国」こうの史代、国井桂 著5

小説 夕凪の街 桜の国

小説 夕凪の街 桜の国
原作: こうの 史代
脚本: 国井 桂、佐々部 清
著者: 国井 桂
単行本: 175ページ
出版社: 双葉社 (2007/07)




あぁ〜、映画見て大泣きしておけばよかったかなぁ、やっぱりちゃんとグズグズになるまで泣いておかないと、しっかり吐き出しておかないとダメみたい。仕事の休みの都合や、何やらかにやらで一ヶ月以上も映画見てない、危ない危ない禁断症状。ホントは原作を読みたかったのだけれども、ハハハハハ!?、映画の脚本バージョン小説版。

電車の中では何とか堪えたけれども、深夜の静まりかえった住宅街を、小さく嗚咽をあげながら家路を急ぐ。まぁまぁ、他にも色々あってね、本はそのキッカケでしかなかったのだけれども、充分にキッカケに成り得る”本”。科学の分野の本では、どんなに泣きたくても決して涙することなど有り得ない。

しかし、映画の脚本家は巧い!、計算高い!?
僕は、この本を手にした段階で既に、実はとっても泣きたかった、泣かなければならない時期(タイミング)だったんだと、そう思わせるほどに徹底的に泣かされる仕掛けが、随所に鏤められる。
映画の観客のツボを心得たプロの脚本家が、その威信を懸けて巨額の資本と莫大な時間と労力を費やして仕上げる”映画”、その脚本は、計算ずくであることを充分に承知しながら、そんなことを頭の片隅に置きながら(イヤラシイ奴め!?)、それでもそれでも、えぇ〜い、辛抱堪らん、えぇ〜ん、えぇ〜ん、うっ、うっ。。。


う〜ん、、、広島と長崎に原爆を落とされて、昭和20年に戦争に負けた日本は、それ以来、長く戦争をしていない(様々な策略はここでは語らないが)、とっても平和な国”日本”。戦争によって破壊し尽くされた街は急速な復興を遂げ、今や世界に名立たる経済国家となった。
あまりにも平和すぎて、日常生活において戦争を意識する機会など皆無に等しい。平和を当然のものとして日々の生活を送る。
その平和な状態自体は、とっても素晴しいことに相違は無い。
「戦争を忘れるな!」なんて陳腐で軽薄なことは言えない、僕は戦争を知らない。










夕凪の街桜の国
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書評/歴史・時代(F)

映画「ヴィーナス VENUS」ロジャー・ミッシェル監督5

映画「ヴィーナス」表イギリス映画
ヴィーナス VENUS
監督:ロジャー・ミッシェル
出演:ピーター・オトゥール/レスリー・フィリップス/ジョディ・ウィッテカー/リチャード・グリフィス
配給:ヘキサゴン・ピクチャーズ/シナジー、2006年
HP:http://www.venus-cinema.com/

年老いた男の、飽くなき快楽への、性への欲求と、老人の悲哀が色濃く漂うヒューマンムービー。
映画「ヴィーナス」裏ネタばれになっちゃうけど、、、
老人の”死”。
とっても幸せな人生の結末。
老人は、思い出がいっぱいいっぱい詰まった冷たくほの暗い冬の海で、ヴィーナスに看取られて、ヴィーナスの腕の中で静かに死を迎えた。正直、羨ましい。
かつて二枚目俳優だった男は、家庭を顧みることなく、三人の幼い子供と妻を見捨てて、様々な女性たちと遊びまくった。なのに、年老いて、離婚した妻とも時折逢っていて、互いに体の不調を抱えているからか、歳月を経て、若かりし頃の過ちの赦しを得た。
ヴィーナスは、俳優仲間の姪の娘。田舎の実家を追い出され、俳優仲間の家に居候することなったんだけど、下品で不作法だから、俳優仲間の老人とは折り合いが悪く(彼は家政婦を雇うべきなのだ)、上手くいかない。しかし、とにかく若くて、肌に張りがあって輝いている。血が騒ぐというのか、自らが若い頃に駆使したあの手この手で、何とかしたい。何とかするといったって、既に不能だから、具体的な行為に及ぶ訳にはいかないけれど、共に過ごす時間の全てが生き甲斐。でも、彼女にしてみれば年上好きは聞いたことがあっても、老人好きはなかなかいないだろうし、加齢臭とか、やっぱりキツイだろうし、当然に、「近寄らないで!」とか、言われちゃう。
でもね、老人はさ、伊達に年齢を重ねていないんだよね。人生の様々な経験を積み重ねている(人それぞれだけど)。若者が、能天気に自由奔放に好き勝手に生きているようで、その実、いろんな傷を負っていて、悩みを抱えていて、だから、どうしようもなくって、若気の至りというのか、とんでもない行動に走ったりしちゃう。そんな、辛さや苦しみや哀しみを、その気になれば受け止める度量だって、備わっていたりする。
裏切られても、突き飛ばされても、老人にとって、若いヴィーナスは、ヴィーナスなんだよ。ヴィーナスは、とっても思わせぶりで、一筋縄でいかなくって、でもでも、だからこそ、老人が信じて、愛しく想って想って、想い続けて、様々な紆余曲折を経て、彼女は彼の本物のヴィーナスになった。
老人は死んじゃうんだけど、死ぬってことは、それまで生きていたってことで、描かれる老人の生き様は、とっても生に溢れて、とってもとっても素直に素敵だった。見た目は確かに、ヨボヨボの老人かもしれないけれど、間違いなくヴィーナスの心は、彼に射止められた。

もしかしたら、とっても陳腐なのかもしれないけれど、
僕の琴線に触れて、とってもとっても泣けた。

老人になるのも悪くない。




映画「この道は母へとつづく −ITALIANETZ」アンドレイ・クラフチューク監督5

映画「この道は母へとつづく」01表ロシア映画
この道は母へとつづく
2005年ベルリン国際映画祭 少年映画部門グランプリ受賞ほか、各国の42の映画祭で上映され、32もの賞を受賞。
「ほんとうのママに会いたい」
 世界中で涙と共感を呼んだ、衝撃の感動作!


極寒のロシアの孤児院を脱走する、六歳の少年ワーニャが、ほんとうの母親を探すために、たったひとりで列車に揺られ、バスを乗り継ぎ、、、
映画「この道は母へとつづく」01裏数多くのテレビドラマやドキュメンタリーを手掛けた実績を持ち、貧しいロシアの子供を題材にした映画を撮りたかった、アンドレイ・クラフチューク監督が、実際のニュースを基に作った映画。
ということは、現代のロシアの実情。リアルな現実の社会問題。
白い雪に閉ざされた大自然、北国の春を感じさせる線路端の緑、旧い街の旧い建物。画面に漂う薄暗い雰囲気。

遠くイタリアから孤児院にやってきた裕福なイタリア人夫婦。
養子を選んで決めていく。選ばれなかった少年少女の、嫉妬、羨望。孤児院のタコ部屋の二段ベットには、夢も希望もない。
年長の不良グループの搾取は厳しく、街で稼いだお金は、全て差し出さなければ、どんなに小さい子供であっても容赦なく厳しい罰が与えられる。闇の社会の縮図。少年は、ガソリンスタンドで、雪道を走ってドロドロになった車の窓やライトを拭いて小銭を稼ぐ。少女は、自らの体で稼ぐ。生きるためには仕方がない、とはいえ遣り切れない想いは拭えない。
映画「この道は母へとつづく」02表養子縁組の仲介業者のマダムが暗躍する。大きなお金が動くビジネスに、孤児院の院長も、後ろめたさを感じつつ、それでも、子供の将来と、自らの生活を考えると、仕方がない。
たとえ噂話で、臓器売買組織に、、、などと聞いたところで、仲介業者と、引き取り先を信じるしかない。

イタリア人の夫婦の元に引き取られることが決まった六歳の少年だって、彼ら(養父母)はきっといい人だよ、、、と、小声で呟くことしかできない。可能性に賭けるしかない。愛に溢れる裕福な暮らしが与えてくれる大きな可能性を否定できない。
映画「この道は母へとつづく」02裏少し前に養子に引き取られていった仲間の母親が、突然孤児院に現われ、「私には、あの子しかいないの・・・」と、泣き崩れる母親の複雑な想い、母の深い愛に気付いてしまった、少年の心。
”ほんとうのママに会いたい!”
少年の記憶に、母親の情報は一切ない。どうして孤児院に預けられたのか?、気が付いた時には、既に孤児院にいた。愛しい母親に会いたい気持ちを、どうしても抑えることができずに、悪いこととは思いながらも、決死の覚悟で金庫を破って探し求めた、自らの過去の出生情報、母親の手掛かり。
”ほんとうのママに会いたい!”
”ほんとうのママに会いたい!!”
”ほんとうのママに会いたい!!!”

既に決まっている養子縁組を反故にする何てことは、絶対に許されない。
仲介業者は、ペナルティを負わされて、信用を失ってしまうことにもなりかねない。孤児院としても、仲介業者との関係が絶たれてしまうと、それはそれで困ってしまうし、孤児の子供たちだって、甚大な機会損失を被る。
イタリアに養子に引き取られることによって、ほんとうの母親が会いに来た時に(その可能性はほとんどゼロに近いのだけれども)、母親に会えないことを躊躇している少年以外は、みんなが養子に行くことを強力に勧める。孤児院の不良グループの少年までもが、自らが母親に捨てられた過去を語り、理由の如何に関わらず、何らかの事情があるにせよ、自らを捨てた母親との再会が、いかにバカげたことであるか説く。
ちょっと冷静に考えれば分かるけど、一度捨てた(捨てられた)という事実は、何がどうあっても絶対に消えないのであって、そんな複雑な事情を有したままに上手くいく確率より、上手くいかない確率の方が圧倒的に高い。希望的には、そんな障害があるからこそ、それを乗り越えて深い絆が、、、といきたいところだけれども、現実は甘くない!?

搾取されていた不良グループの隠し金を盗んだ少女に、そそのかされるように孤児院を脱走した少年。
母親に会いたい気持ち。そのために、必死に文字を覚えた少年の健気な姿が、少女の衝動を誘った。
何よりも、そそのかした少女が、少年よりも誰よりも、現状から、厳しい現実から逃げ出したかったのかもしれない。



『この道は母へとつづく ITALIANETZ 』
 公式HP http://eiga.com/official/konomichi/

監督:アンドレイ・クラフチューク
脚本:アンドレイ・ロマーノフ
出演:コーリャ・スピリドノフ マリア・クズネツォーワ ダーリヤ・レスニコーワ ユーリイ・イツコーフ ニコライ・レウトフ
2005年/ロシア/99分
配給:アスミック・エース



映画「サルバドールの朝」マヌエル・ウエルガ 監督5

映画「サルバドールの朝」salvadornoasa_wall01_10242006年、スペイン映画『サルバドールの朝 〜SALVADOR
http://www.salvadornoasa.com/

1970年代初頭のスペイン独裁者フランコ政権末期、不当な死の判決を受けた、25歳の青年”サルバドール・プッチ・アンティック”。
サルバドールの残された家族は、現在もなお、サルバドールの無実を主張し続け闘っている。真実の物語。

物語の、スペインの歴史的背景として、
軍人フランシスコ・フランコ(Francisco Franco,1892.12.4-1975.11.20)が率いる右派の反乱軍が勝利を収める、1936年から1939年のスペイン内戦に遡る。
左派の反ファシズム陣営である人民戦線政府との争い。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツイタリアが支持した、スペインを二分した大きな歴史的内戦
スペイン内戦に勝利したフランコは総統に就任し、ドイツ・イタリアの支援を受け、軍隊秘密警察による厳しい支配を行い、自由主義運動を厳しく抑圧する。
ほどなく崩壊するドイツ・イタリアのファシズム体制。しかし、スペインでは、実に30年間以上にわたって、フランコの独裁体制が維持され続けた。
その末期。既に、フランコは、高齢のために健康状態が悪化しており、後継者に前国王の孫”フアン・カルロス1世(現スペイン国王)”を指名していた。が、それはあくまでも世論対策であり、政治の実権は、あくまでも腹心の首相 カレロ・ブランコに与えようとした。しかし、ブランコ(名前が似ていてややこしい)は、1973年、民族組織EATのテロにより暗殺されてしまう。
皮肉なことに、その首相暗殺事件が、サルバドールの死刑執行を確実なものとしてしまう。充分な審議も検証もないままに、再審も恩赦も退けられ、残忍な鉄環絞首刑(ガローテ)が執行される。

その後のスペインは、1975年の独裁者フランコの病死後、ファン・カルロス1世により、政治の民主化を推し進め、現在に至る。
かつて、16世紀には栄華を誇り、”太陽の沈まない国”と謳われたスペイン。
後世に遺すべき、歴史的事件。


父親の存在感。
登場するシーンは少ない。何も語らない。実は、革命家の息子を持った父親自身も、かつては政治運動家だった。死刑執行を目前にして、恩赦で生き延びた過去。宿命の連鎖の呪縛。

誰かが立ち上がらなければ、何も変わらない。
独裁政治に自由を奪われ、黙って屈し続けるだけの人生に、何の意味があろう。
しかし、だからといって、銀行強盗や、破壊行為が赦される訳ではない。
力で立ち向かい奪ったものは、いずれ、力に屈服させられる。
それでも、誰かが立ち上がらければ、、、

想いが強いだけに、言葉(セリフ)以外の演技で魅せる。
恋人、姉妹たち、サルバドールの近しい人。自らの政治的想いや願いをも籠めて、懸命に闘う弁護士。サルバドールとの出会いによってに、閉ざしていた心の扉が開かれてしまった看守。
多くを語らず、説明せず。籠められる想い。烈しい憤り、そして、切なく、やるせなく。
多くの人に愛され支えられて迎える最期。

”恐怖は人を壊す”





映画「長江哀歌」ジャ・ジャンクー監督・脚本 5

映画「長江哀歌」映画『長江哀歌(ちょうこうエレジー)

中国の若き名匠 ジャ・ジャンクー監督・脚本。第63回ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(作品賞) 受賞作品。

呆気にとられるほどに、静かに淡々と流れる物語。
ふたりの男女の、ふたつの物語。それぞれの男女が、それぞれの離別して久しいパートナーを探すために、やがてダム湖の底に沈む街を訪れる。少ない情報を頼りに、それぞれのパートナーを求めて彷徨う。彼らは、何を想い、何を求める? 既に相当の歳月を経て、失われてしまった関係。誰も修復を望まない、修復不能。だから、ただただ現状を受け容れるためだけに、やがて失われる街に集い、そして、静かに元の場所に戻っていく。
街は、破壊の真っ最中。ダム湖の底に沈んだ後に、船の運航の邪魔にならないように、建造物は、労働者の人力により取り壊される。経済的には決して豊かとはいえない労働者たち。陽に焼けた顔、逞しい肉体。黙々と繰り広げられる破壊作業。振り下ろされるハンマー。酌み交わされる酒、紫煙を漂わせる煙草、時折こぼれる笑顔。

舞台は、中国最長の川”長江(揚子江)(全長6,300km)”の、2009年に完成予定の三峡ダムと共に、街の大半がダム湖の底に沈む都市”奉節”。世界最大の水力発電ダム事業は、国を挙げての大プロジェクト。必要に迫られての国家事業。
自然環境に大幅に手を加える大事業は、様々な問題を含む。
治水、電力供給源。一方、住民110万人の強制移転、名勝旧跡の水没、水質汚染や生態系への影響。
それでも、その必要性から、長い歳月を経て計画され、現実のものとして2009年には完成してしまう。

時間の経過と共に、じっくり込み上げる想い。
抑揚を抑えて、深い哀しみを湛えたままに、多くを語らない男と女。
静かに淡々と受け容れる現実。
多くの言葉や説明を必要としない。






映画「Life 天国で君に逢えたら」新城毅彦 監督5

映画「Life 天国で君に会えたら」表映画『Life 天国で君に逢えたら』
  http://www.life-tenkimi.jp/index.html

2002年6月に肝細胞ガンと診断され、2005年2月に38歳にしてこの世を去った、世界的プロウインドサーファー”飯島夏樹”の半生と、彼を支え続けた妻、四人の子供たち家族、仲間、愛の物語。


映画「Life 天国で君に会えたら」裏厳しいプロスポーツ界で日本の頂点に立ち、世界でもその名を馳せた男。常に勝ち続けなければならないプレッシャー、自らとの闘い。夢だけでは飯は食えない。人並み外れた能力と、能力を最大限に引き出す日々の努力。辛く苦しく単調な日々の努力の積み重ね無くして成功は有り得ない。勝って、実績を作って、スポンサー(金主)が付くまでは、商売(職業)として成り立たない。試合に参加する費用、機材の維持費、移動の交通費、宿泊費、食費など、全ての経費を自腹で出して、勝たなければ一円の金にもならない。道楽と言われても仕方が無い。
勝てるようになって、スポンサーが付いても、決して気を抜くことはできない。自らの体調や調子など構うことなく、活躍し続けなければならない。熾烈な競争社会。生きるか死ぬか、みんな必死。荒くれ者たちが、生き残りを掛けて、必死に挑み続ける。成功(勝ち組)のパイは限られている。一度手中に入れた成功は、既に成功を手にしていた誰かから奪い取ったものであり、いずれ誰かに奪われる。
だからこそ、勝ちを、成功を手にした時には、素直に「おめでとう!」と言いたい。私には決して手に入れることができないもの。羨望の気持ちは正直ある、無いとは言わない。それでも、その努力を認め、褒め称えたい。後に訪れる新たな試練への決意を固めて欲しいとの願いを籠めて。

行為や行動、言葉の裏側や隙間に在るモノ、感情。
セリフや演技など作為的な説明以外の部分から漂う、人間の本能の本質的な心の揺れ動き。聞こえてくる声、呟き、叫び。
真理、普遍の原理原則。

死と愛と人生、、、







天国で君に逢えたら
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書評/国内純文学


映画「厨房で逢いましょう」ミヒャエル・ホーフマン 監督・脚本5

映画「厨房で逢いましょう」 表厨房で逢いましょう
2006年、ドイツ=スイス、ミヒャエル・ホーフマン 監督・脚本。
2006年ロッテルダム映画祭観客賞。
2006年ペサロ映画祭観客賞。

大人の恋の物語。
太った天才シェフと、カフェのウエイトレスの美しい人妻の哀しい恋。
天才シェフが繰り出す官能的な料理は、大人の恋を彩るソース。

映画「厨房で逢いましょう」 裏出逢うべくして出逢ったふたり。それでも、彼らがどんなに互いを求め合ったとしても、決して叶うことの無い恋。互いが互いを必要とする深い深い大切な友人でしか有り得ない。互いに既に分別のある大人だから。圧倒的な現実。その瞬間の状況において、絶対的に必要であるのだけれども、、、

太ったシェフは、失われた母の愛から逃れることができない。給仕係として働いていた母の姿。母子の生活から一転、突然現れた義父に奪われた母の愛。弟を身籠った母の大きなお腹の鮮明な記憶。母の愛を奪った義父に対する激しい嫉妬、言葉にできない孤独感、喪失感。だから、ひとり黙々と食べることに執着し、注がれる料理への情熱。愛も恋も経験することなく、ただただ料理することにのみ感じる生き甲斐。時折眺める、給仕するウエイトレスの姿、重なる母の記憶。

ウエイトレスの人妻は、カフェを営む一族に嫁ぎ、気難しい夫と、五歳の愛娘との生活を送る。夫の両親との仲があまり上手くいってなくたって、夫が毎週夜な夜な友人たちとストリップバーに集っていたって、倦怠期を迎えていたって、娘がダウン症だって、次の子供に恵まれなくったって、細かい不満をあげたらキリが無いけれども、それでも、自ら行動を起こして何かを変えなければならない状況には無い。だから、カフェの客として来た、太ったシェフにぼんやり眺められたって、噴水の池に落っこちてずぶ濡れになった娘の介抱をしてもらったって、娘のプレゼントにチョコレートケーキをプレゼントされたって、だからと言って、何かが変わる訳ではなかった。それだけであれば、どんなに運命的な偶然が重なったとしたって。
太った中年のシェフからプレゼントされたケーキが、あまりにも官能的だった。もう一度味わいたい、と絶対的に思わせる官能的な味わい。居ても立っても居られないほどに。官能的な料理を創造する、天才的なシェフ。料理に込められた愛。
シェフが繰り出す料理に魅了され、下ごしらえと新作料理の研究に勤しむシェフの厨房を訪れ、官能的な味を堪能するために、たびたびシェフの元を尋ねる人妻。
人妻は、天才シェフの、愛を籠めた料理に、生きる力や明るさを取り戻し、夫との積極的な関わりを求める。当て付けとも思えるほどに烈しく。それでも、天真爛漫な女性の本能の行動。悪意(当て付け)は無い、と信じたい。

実は倦怠期を気にするのは、妻だけでなく、夫も同じ。長年連れ添って、目新しいことなど何も無く、漫然と過ぎ行く日常生活。それでも、シェフとの出遭いによって、美しく輝きを取り戻した妻が、他人(シェフ)との逢瀬を重ねている事実を知った夫の衝撃。夫の努力不足が招いた結果なのに、今更ながら慌てふためく夫。おもちゃを取り上げられた子供の如く嫉妬に怒り狂う夫。我を忘れて見境い無く暴れ回る。ますます追い詰められる状況。


互いにおとなのふたり(シェフと人妻)は、互いに互いを求め合い、恋に落ちた。恋に落ちたのだけれども、ふたりは大人だった。若者のように烈しく求め合うだけの、奪い取る恋など、互いに演じるつもりなど毛頭も無かった。分別があった。哀し過ぎる現実を互いに充分に理解していた。

静かに抑えられた演技。表情に滲み出る複雑な感情。


嫉妬に怒り狂う夫が、実は誰よりも幸せなのかもしれない。





本「天国で君に逢えたら」飯島夏樹5


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書評/国内純文学



本が好き!PJ”からの献本の再読。
8月25日公開の映画『Life 天国で君に逢えたら』を、当然に意識している。既に予告で涙した。

思い返す、約半年前の3月3日読了、やっぱり涙した。鮮明な記憶、夜のマックでコーヒーを啜りながら浮かべた涙、あの頃。


泣きたいんだよ。
涙を流して、嗚咽をあげて。
泣くことによって満たされる感情を貪る。
幸薄い我が身を嘆き哀しみ、ひとり演じるヒロイン。
満足が得られるならば、それでいい!?


勢い込んで、読んで書き記して、、、のハズが、進まない。
本質的な感情。


汐留から、何気なく歩を進めた、国立がんセンター
小説の、物語の舞台として登場する、聳え立つ高層建築物を、暫しぼんやりと見上げる。休日の夕方、道路も築地市場も往来が少ない。


著者 飯島夏樹、元世界的プロウィンドサーファー・実業家。1966年8月生まれ。
2002年6月、肝細胞ガンと診断。
2005年2月、38年の生涯を全う。
合掌









映画「西遊記 -澤田鎌作監督」5

映画「西遊記」ORIGINAL SOUNDTRACK


映画「西遊記」
香取慎吾、ド迫力の熱演!
中国の広大な砂漠や王陵、宮殿が、歴史物語に彩りを添える。

原作は、16世紀の中国の時代に大成した伝奇小説。同時代に「三国志演義」「水滸伝」などの名作小説がある。(Wikipediaより)
三蔵法師が、孫悟空猪八戒沙悟浄をお供に従え、さまざまな苦難を乗り越えて天竺(インド)を取りに行く物語。
先日観た「サン・ジャックへの道 -コリーヌ・セロー監督・脚本」と同種の巡礼の旅、ロードムービー、かと思いきや、巡礼が聖地を巡るという宗教的行為とされ、キリスト教イスラム教及び、日本の神社寺院を訪ね巡り礼拝すること、との表記はあるものの、仏教に同種の宗教的行為が存在するかどうか確認ができない。それでも、三蔵法師が宗教的な目的の下に、お供を従えて旅をしたことに間違いはないであろう。だからこそ、その道中がどんなに険しく厳しくとも、ただひたすら進む。

映画としては、テレビドラマ「西遊記」(フジテレビ系、2006年1月〜3月)の影響、夏休みという時期もあり、観客に子供の姿が多く、簡潔なストーリーと派手なアクションで飽きさせない仕上がり。

旧い歴史物語であり、情報は人伝であり、闘いは個人の力と力の武力抗争。
孫悟空が悪者(金角大王、銀角大王)を力でねじ伏せる。
アクションムービーにおける、悪者を倒す、という単純な図式。自信に満ちた顔。悪い者だから、有無を言わさず倒され、排除される。善い者が悪者を倒した時、顔に浮かべる満足感は、観客の痛快。
孫悟空の顔に、その後に待ち受ける果てしない闘いの陰。
相手を力でねじ伏せた者は、その後も力でねじ伏せ続けなければならない。それでも、永遠の絶対は有り得ないから、いずれ力でねじ伏せられる時が訪れる。それでもそれでも、闘わなければならない無常。

エンディングのガンダーラに、思い起こされる記憶。
歌詞が自然に口から出る。ゴダイゴ
テレビドラマ「西遊記シリーズ」(日本テレビ系、1978年〜1980年)。そう、堺正章だった。





映画「魔笛 The Magic Flute -ケネス・ブラナー監督・脚本」観ました。5

映画「魔笛」豊かな音楽に彩られた物語、高い満足。
ミステリーやサスペンスなどの、捻りを加えた、凝った展開は無い。シンプルに描かれる、人間普遍の物語、人生と愛と死。美しい音楽と、豊かな歌声に乗せて描かれるが故に、深く心に沁み込む。

2006年公開のイギリス映画「魔笛 The Magic Flute」。
1791年にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)が作曲し、その生涯の最後に完成させたオペラ魔笛」は、最高傑作と謳われる。
シェイクスピア俳優としても有名な映画監督脚本家プロデューサーケネス・ブラナーが監督・脚本。

オリジナルのオペラの舞台を、第一次世界大戦前夜の軍の対立に舞台を置き換え、CGを多用した現代的な要素を加味したダイナミックな演出により、魔笛全22曲のナンバーをオペラ歌手が歌い継ぐストーリーが展開される。 〜Wikipediaより


美しい新緑が果てしなく広がる大地に咲く色とりどりの花。のどかな、幸せな風景から舞台の幕が開ける。
一転、リアルな戦争のシーン。敵の銃撃を受け、バタバタと倒れる歩兵たち。
超リアルに現実的な”死”を、強烈に印象付けられる。

戦場の最前線に陣取る兵士たち。勇敢に敵に立ち向かう兵士がいる一方で、鳥を愛し、争いを好まない男もいる。緊張を強いられる戦場にあっても、恋に焦がれていたりする現実。
だからこそ、美しい音楽を奏で、歌っていないと、やってられないのかもしれない。

王様の高い理想が、戦争に苦しむ人々に慈悲を与え、やがて敵との争いをも終わらせてしまう。
そのアイテムとして登場するのが、魔法の横笛、”魔笛”。

とにかく美しく豊かな歌声に圧倒され、満たされる清々しい心持ち。
オペラ”とやらに、挑んでみようかしら?!





映画「サン・ジャックへの道 -コリーヌ・セロー監督・脚本」観ました。5

DVD「サン・ジャックへの道」”本が好き!PJ”から献本を受けた、新潮社「旅 2007年 04月号」に紹介されていた、フランス映画『サン・ジャックへの道』。
いきなり目に飛び込んだのが、青空が広がる緑の景色。
そして、トボトボと、ひたすら歩く不揃いな集団。フランスからスペインの聖地サンティアゴへ向かう、悠々とした自然の美しいが続く1500kmもの巡礼路を、ただただ歩く、心温まる”ロードムービー”。
何だか気になった。
ところが現実は、献本を受けたのが五月(その号の「旅」の発売は2/20頃)であり、既に上映終了・・・ 更に調べると、以前から興味を抱いていた小さな映画館での上映(七日間限定)の予定があった。
手帳にメモを書き記すも、日常に忙殺され「縁が無かった!?」と、半ば諦め。記憶の存在。だから(?!)”縁”に導かれ、時間がポッカリ空いた。ある意味の”必然”。

世田谷区内の住宅街にある、小さな映画館”下高井戸シネマ”。都内には二路線を残すのみとなった路面電車東急世田谷線の発着駅でもある下高井戸駅の程近く。レトロな路面電車のある街、旧い趣きのある商店街を残す街。


映画は、大地に果てしなく続く1500kmもの巡礼路を九人の男女の集団が、ただただ共に”歩く”という、人間の原始的な行動に盛り込まれる物語。
行動(徒歩)が原始的であるが故に、登場人物それぞれが描き出すひとつひとつの物語も、人間としての本質に迫る。世知辛い、リアルな現実の世の中を生きる九人の男女には、それぞれにリアルな現実的な問題を抱えて、それでも生きている。生きているから、更に生きたいと思うからこそ、巡礼の旅に参加する。
特にメインとなる三人の兄弟が抱える問題には、現代社会が抱える問題が凝縮される。迫真の演技でオーバーに描かれるが故に、笑って傍観することができるが、自らの内または身近に潜む、他人事では済まされない。
社長業に忙しい長男ピエールは、片時も携帯電話と大量の常備薬を手放すことができず、薬に依存している。その妻は、アルコールに依存して、生きる気力を失っている。
高校教師の長女クララは、失業中の夫と沢山の子供たちのために、仕事に追われる。
アルコール依存症の次男クロードは、仕事も家族も失って、彷徨うように生きている。
当然に三人の生活に共通点も、接点も無い。
そんな三兄弟の元に、突然舞い込んできた弁護士からの手紙。
亡き母の遺産を相続するための要件は、”三人で協力して巡礼路を歩き抜くこと”。
同行するガイドにだって、その他の参加者にだって、それぞれに抱えている悩みや問題がある。幸せで、何も悩みや問題を抱えていなければ、過酷な巡礼の旅には参加しない。だから、そんな他人同士の集団に、団結なんて有り得ない。特に個性的な三兄弟にあっては、口汚く罵り合い、取っ組み合いの喧嘩まで始める始末。
便利な現代社会だからこそ、”歩く”という原始的な行為の”意義”。
自らの意思で原始的な”原点”に立ち戻る行為。

物語の開幕シーン、ポストに投函された郵便物が、集荷され、機械や人の手により選別され、三兄弟の自宅のポストに配達されるまでの、郵便物が辿る道のり。


”歩き抜いた先に見えるもの―”


私が映画に求める要素、笑って、泣いて、愉しめる、高い満足度。

DVD「サン・ジャックへの道」、9月26日発売予定。






映画「不完全なふたり -諏訪敦彦監督」観ました。5

毎月1日は、映画デー。
実は、参画させていただいている”本が好き!プロジェクト”から献本いただいた雑誌”旅 2007年8月号”の記事にて紹介されていた、映画『不完全なふたり -Un Couple Parfait 』が気になって、久し振りに映画館へと足を運んだ。ある部分では、映画デーだったから。
観て好かった♪

まるで鋭い切れ味の短篇小説のような映画。
ストイックなまでに、一切の無駄を削ぎ落とし、派手さや豪華さや煌びやかさは無い。ほの暗い雰囲気の中に、淡々と進行する映像、物語。音楽さえも、必要最低限のシンプルな調べが、時折効果的に挿入されるのみ。
正直、途中に退屈さを感じたことを否定はしないが、無駄を排除したが故に生じる、深さと奥行き。観るものに考えさせる、その展開と間合いの妙。
”女と男の心の揺れ動きを見事に描き出してる。”
と、まさに、評される通り。

流石は日本人監督。そして、第58回ロカルノ国際映画祭にて、審査員特別賞・国際芸術映画評論連盟賞受賞に納得。
舞台は、フランス・パリ。出演者も、スタッフの多くもフランス人。
監督の諏訪敦彦は、ヨーロッパでの圧倒的な評価を得ているらしい。


物語は、結婚15年になる夫婦の、離婚を決意して、それを夫が友人夫婦との酒の席で、妻の前でポロリと口にした、そのことで急展開を見せる互いの心の揺れ。友人の結婚式に参加するためにやってきたパリの、ホテルに向かうタクシーから、物語の舞台は開く。流れ行く街の風景、噛み合わない会話、沈黙、漂う倦怠感。ホテルの部屋に到着しても、互いに冴えない雰囲気。ダブルベッドの部屋には、エキストラベッドが運び入れられ、一向に噛み合う気配が無い。
そりゃ、友人夫婦とのディナーに、思わず口走る男の気持ちも分からなくはないけれども、「言っちゃ〜いけないこと」ってあるよね。往々にして、そういうことほど、結構口から飛び出てしまって、取り返しがつかない事態に陥っちゃうんだけれど、、、

それ自体は、嘘や偽りの無い正直な言葉なんだけれど、言葉にしないことで保たれている微妙なバランスが、言葉にされてしまったことによって崩れ始める関係。それでも、それさえもが、ある意味では必然であり、現実的には崩壊している関係なのだから、時間の問題だけでしかなく、それが、「このタイミングだった」、というだけなのであり、一概に非難することはできない。
そしてまた、それで崩壊する関係であれば、「そこまでの関係だった」、というだけなのであろう。無理をして、互いに違和感やストレスを感じながら継続される関係が、決して正しいとも思えない。それでも、今まで現実的に形成されていた関係が、崩壊してしまう訳だから、絶対的な痛みは伴う訳で、その痛みは、時に孤独であり、自らの環境の変化に対する恐怖であり、出来得ることであれば避けたい、と思う感情は否定できない。
どうして、人間の感情とは、こうも揺れ動くのであろう・・・



久し振り(今年1月以来)の映画、実は結構しんどかった。
本(文学)にすっかり慣れ親しんで、読書のペースが身に染み込んでいる私は、本質的に自分本位な性格も相まって、気が付いたら、他人のペースに合わせることに苦痛を感じるようになっていた。映画の途中に退屈さを感じたり、何か落ち着かない感覚に陥ったのは、きっとそのせいであり、作品のせいではない。
それでも、理解力に劣る私にとっては、監督であり、出演者の微妙な感性を理解する作業に、不足があるのかも知れない。
だから、やっぱり文学がいい。などと考えつつ、様々な表現方法の理解であり、習得が、それもまた、ひとつの経験でもあり、私に必要とされる要素のひとつでもあろう。



”別れを決めるとき、
人は初めて愛することを知る。”


「私たち、何をしたの?」「何をしなかったの?」


不完全なふたり 表不完全なふたり 裏

「愛の流刑地(下) -渡辺淳一」読みました。5


愛の流刑地〈下〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 334ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/05)




ご存知、男女の愛とエロスの物語。
55歳の元ベストセラー作家で、妻とは別居しているけれど離婚はしていない男(菊治)と、36歳の幼い三人の子供がいるエリートサラリーマンを夫に持つ人妻(冬香)が、惹かれ合い、互いに真実の”愛”に目覚め、本能から求め合い、エロスを追求し、追求しちゃったが故に選択されちゃったのが”死”であり、心の底から愛する者(女性)を、自らの手で殺めてしまう。自らの手で殺めてしまっちゃったら、それは明確な犯罪行為であり、愛やエロスなどという何処か現実離れした感覚から、一気に引き戻される超現実社会。超現実社会を支配する”法律(刑法)”は、超現実主義であって、実証できる証拠を論点に解釈されちゃうし、解釈するしかないから、愛だのエロスだの人間の本能的な美学や理論が存在する余地など、微塵も無い。仕方が無いよね、社会のルールとして機能させるには、原則的には事務的に処理していかないと不都合が生じるし、止むを得ない。そんなことは、大御所 渡辺淳一だって、誰よりもよく分かっているから、裁判制度の、制度としての矛盾をチクリとだけは刺しておきながら、、、 だからだから”愛の流刑地”なんだよ。

物語がシンプルで、複雑じゃなくって分かり易くって、だからこそ、人間の深層に潜む心理本質本能の部分を如何に描くか、その技術であり手法がポイントであったりして、だからこそ、ふたりが出逢ってから、愛とエロスを紡ぐ詳細な描写(殺めるまで・・・)に、上巻(382ページ)の全てと、下巻の94ページ、何と476ページもの記述を要する。その476ページもの文字数であり、空間であり、時間であり、著者の労力でもある膨大な記述は、この物語の展開における絶対的に必要な要素(ソース)であり、ひとつひとつの出来事のソースが積み重ねられて、積み上げられて、紡ぎ出されているからこそ、このシンプルな物語が美味しく、味わい深い、美しい物語が創り出される。ただの助平小説として、その性的描写に捉われていたら、絶対的に勿体無い。誰がどんなに否定したって、人間という生き物が、動物としての本能を有していて、だからオスでありメスであり、の保存行為である生殖の意義からも、また快楽を得るための手段としても、性行為に勤しむ。本能だから、恥ずかしくったって、隠したって、どうにもこうにもならない。あんまり開け広げにするのもどうかとは思うけど。

だからこそ、社会的に大人である”ふたり”が、大人であり、特にふたり共に社会的地位が高い知識人といってもいい部類の人間であるにも関わらず、一般的には善しとされない行為に溺れ、その末に犯罪行為(人を殺める)を犯す、「そこまで辿り着いてしまったのは何故?」、と思う訳でもあるし、「なるほど、だからふたりは、そこまで辿り着いてしまったのね!」と自然に導かれ、納得させられる物語であり、揺れ動く素直で正直な心の描写があれば、私は満足しちゃうのである。だって、人間が普通に生きているだけでは、ひとりの個人が経験できることって、絶対的に限界があるし、それでもこの世の中には自分以外の他人が数限りなく大勢存在していて、その他人はそれぞれの個性を有した唯一の存在でもあって、でもでも意外に大した違いなど無かったりして、みんな一緒的な部分を有していたりして、だからこそ人生の様々な経験が絶対的に必要。時に、主人公の菊治であり、冬香の夫であり、父(菊治)の貫いた真実の愛に理解を示し応援する息子であり、性別を超越して冬香にだって、女性検事にだって、エクスタシー(オーガズム)に理解を示すバーのママにだって、どんな人物にだって成り代わってその経験を疑似体験できちゃう。現状の現実の私では、菊治にはちょっと成り得無いんだけど、だから願望や羨望を籠めたりもして、正直なところ、冬香の夫かなぁ・・・、登場する場面としては絶対的に多く無いんだけれど、直接的な登場場面は、刑事裁判における検察側の証人として一度限りなんだけれど、当然にふたりが重ねる逢瀬の陰には、必ず彼の存在があって、その存在が無ければこの物語は成立し得なかったりもしちゃう、実は最重要人物であったりもする。しかも、彼はエリートサラリーマンで、男の存在における、絶対的に多数の存在であったりもして、社会的には普通の存在。普通に普通の全く普通の存在であるにも関わらず、この”男と女の愛とエロス”の物語にあっては、彼は異分子なのである。男として、外でバリバリ仕事をして稼いで、家の事は妻に全てを任せ、妻は自らの支配下にある生殖と家事の目的の存在、社会的地位と経済力によって家族を護る。それはそれで間違ってはいないし、それがひとつの家族としての在り方であることは否めない。
それでもやっぱり、「悪い男にたぶらかされた」と憤る男であり、そんな男の圧倒的な現実。

人間が本能の生き物であり、どんなに恥ずかしがって隠したところで、本能は本能でしかなくって、隠して抑えて抑え切れるほどに理性的ではなかったりしちゃうから、全くもって困った存在なのである。
どんなに困った存在であっても、人間のひとりひとりが、何らかの必要に求められて、必然に導かれて存在している訳で、その必要や必然を果たすために生きていかなくっちゃいけない訳だし、その必要や必然を全うするまではこの世に生かされちゃう訳だから、、、 愛する者に心も躯(からだ)も満たされて、その生きる命さえも奪われて、辛かった現生を全うしちゃって”死”を受け入れちゃった冬香は、圧倒的に幸せとも思えちゃう訳で、それでも、それまでの、認識の有る無しの判断はあろうが、辛い現実的生活を無視することはできないし、またまた一方では、その満たされる悦びを知り得なければ、決して現実社会を辛いとは思わなかったでもあろうから、、、 その一方で、愛する者を溺れさせ、ある意味では溺れさせてしまった責任の果てに手を下してしまった菊治は、得られた快楽以上の社会的責任をも負うことになって、それが社会的秩序が重視される法治社会の現実社会における圧倒的な現実でもあったりする。

今から10年前の1997年に、一世を風靡した『失楽園』の印象があまりにも強烈だっただけに、その記憶が脳裏に焼き付いているだけに、どうしたっても越えられない壁であったり、似通った印象を受けてしまう部分は否めないのではあるが、、、
それでも、とどのつまりが、男がオスであり、女がメスである、人間という動物の、本能的な本質の部分が圧倒的に存在しちゃう、現実の、圧倒的に現実の物語は、普遍の物語なのでもあろう。









「愛の流刑地(上) -渡辺淳一」読みました。5


愛の流刑地〈上〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 382ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/05)




”誰でも現実の生活があることは否めない。表面とは別に、他人にはあまり知られたくない、もうひとつの裏面を秘めている。そして自分も、冬香には知られたくない、沢山の現実を抱えている。その裏面をいいだしたら、冬香の比ではないかもしれない。
菊治はそこで、自分にいいきかす。たとえ夫がいて、幼い子供がいたとしても、冬香は冬香である。”



とりあえず中途ではあるが、上巻の読了に際して書き記す。

ちなみに、今年1月に劇場公開された映画「愛の流刑地」は観なかった。前評判や、平井堅の主題歌、メディア戦略的には心を揺さ振られたのではあるが、劇場公開の後の反応は残酷なまでに正直だから、「そういうことなのね!?」との判断。早速、7月にはDVDが発売されちゃうみたい! やっぱり何ともメディアって残酷、少しでも資金回収しないと、商売だからね!?

だから、手にしたキッカケは、著者の渡辺淳一への興味。先日読了した「失楽園」の文学作品としての感銘、その物語のネタ(?!)となった、大正時代の白樺派の主要なメンバーのひとりであり文人の「有島武郎」の歴史的事件とその存在。
この著作も、やっぱり優れた文学作品、人間のどうしょうもない動物的な本能の物語。


心の揺れ動く様が、その描写が、私の心に響く。
切ない切ない、とにかく切ない、ただただ切ない。
どうしてこんなに切ないの? 切な過ぎる。
あ〜、切ない。

お互いに深く深く愛し合っているのに、愛し合って求め合って、心も躯(からだ)も求め合って、満たし合って、互いに深く深く満たされているハズなのに。
互いの関係が深まれば深まるほどに、溢れる切なさ。


ズバリ『不倫』って、基本的には許されない行為であり、旧くから「姦通罪」などという犯罪が存在していて、現在の日本では廃止されて久しいのではあるが、それでも外国においては、イスラム圏や韓国などでは、現在でも規定されているらしい。(Wikipediaより)
「婚姻して配偶者のある者が、他の者と姦通すること」が犯罪行為の構成要件となる訳だから、まさに『不倫』は、ズバリその適用を受ける訳で、理由の如何に関わらず、その行為自体に違法性が存在する。

それでも、人間という生き物は、それが犯罪である、許されざる非道徳的な行為であることを承知で、充分に承知した上で、その激しい衝動に駆られて、本能のままに行動してしまう。
人間が過ちを犯す生き物であることに間違いは無いのであろうが、それにしても、、、である。ところで、お前は絶対に不倫しない自信があるのか?、と問われると、回答に窮する。現時点においては、明確に否定をすることができるが、将来に渡ってと考えると、、、願望や羨望を含めて否定できない現実がある。心の何処かでは、羨ましいなどとも考えてしまう私を否定できない。

そしてまた、「恋愛(たとえそれが不倫であっても!?)」においては、その必要や必然が絶対的に存在していて、それを、何かを求めているから、その関係に辿り着き、関係が成立し得る。「恋愛」が、ひとりでは成立し得ない行為であり、当事者同士の双方の合意の下に成立する行為だから。
ということは、不倫に至るには、婚姻関係にある配偶者という存在がありながら、それでもなお第三者に関係を求める必要を有している、という、ある意味では歪みを抱えた状況にあるということであろう。仮に、人間性や性格や性癖などに起因する行動があったとしても、それでも「婚姻」もまた双方の意思と努力の下に成立する関係であることに相違は無く、だからこそ、婚姻関係を継続しているのであれば、その当事者同士は努力を怠ることは、とどのつまり怠慢でしかない、どんな言い訳をしようとも。婚姻の関係とは、本来的には、その辺までの相当に高いレベルまで求められる関係でもあろうし、だからこそ、男子が18歳、女子が16歳という年齢制限を設けて、年齢が若いために人生経験が少なく、判断に未熟さを残す子供に婚姻を認めないのでもあろうし、また一方では、その能力を有し、その責任を果たせる人間にだけ許される法律行為なのでもあろう。

とどのつまり、人間は過ちを犯す生き物であり、当然に婚姻においても、その過ちを犯してしまう可能性は少なくない。
だからといって許されるものではないが、表面的に善悪を判断することには違和感を感じないでもない。仮に不倫であっても恋愛が、双方の意思の下に成立する行為であり、双方の意思が無ければ成立しない行為であり、婚姻という法律行為を反故してまでも、その意思を一方だけでなく互いが有した、その圧倒的な現実は如何に。その圧倒的な現実を直視することなく、表面的な解釈に何の意味があろう?!

快楽に溺れるのも、快楽を得たい、快楽を得られなければやっていられない、という何処かに歪みを有する現実からの、現実逃避であったり、内面に有する深層にある本質的な問題が解消されていないが故に表出する歪みであったりする側面もあろう。

その圧倒的に弱く、儚く、不安定で、ちっぽけで、どうしようもない存在の人間が、必ず誰しもが心の内に抱えている問題が絶対的にあって、それでも人間という生き物が本能の生き物でしかなくって、抱えている問題が完全に解消することが絶対的に有り得なくって、そんな側面からも、文学などの芸術が必要とされて存在するのであろう。









「象の背中 -秋元康」読みました。5


象の背中
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書評/国内純文学



「情けない親父だよな? がっかりしただろう?」
「そんなことないよ。堅物に見えた親父の”人間くささ”を垣間見たような気がした」
「そこだ。俺が、五十年近く生きて来てわかったことは・・・。”人間、みんな、同じ”ってことだ。とびきりの善人もいなければ、とびきりの悪人もいない。多少、運がいいとか、悪いとかの差はあるにせよ、どんぐりの背くらべのような人生を送って、最後は、みんな、死ぬんだ。美空ひばりの『時の流れのように』だ」
「『川の流れのように』でしょ?」

  〜本文より抜粋〜


小説家 秋元康が描く『死』、映画化(2007年秋公開)も決定。
オビには、産経新聞連載時から「理想の死」「男の身勝手」と論争を生んだ 今、話題の小説!!、とある。

物語は、肺ガンで「余命半年」宣告された48歳の男の、残された時間の生き様が描かれる。中堅(上場)不動産会社の取締役部長という中間管理職で、経済的にも恵まれ、妻と大学生の長男と高校生の長女の平和な四人家族があって、帰る(?!)場所がちゃんとあって、ちゃっかり15歳年下(33歳)の愛人までいて、それがまたしっかりした独立心の強い女性で、経済的な負担無く、精神的な支えになってくれていて、保たれていた微妙なバランス。正直、羨ましい限りである。
何気なく受けた検査で発覚した末期ガンに戸惑いつつも、自らの”死”を受け入れ、延命措置を講じることなく、天命を全うしたい。それを自らの宿命と捉え、残された時間を自らと、自らが関わった人たちのために費やす時間。
それでも、確実に迫り来る”死”。
そして、終わりを迎える”生”の”時間”。

自らの”死”を受け入れたからこそ、今までは無限であると感じていた”時間”に限りがあり、終わりがあることに気が付かされる。限りがある”時間”であるからこそ、無為に過ごすことは耐え難いことであり、焦りや怖れや不安を抱く。それでも、焦っても、怖れても、怒っても、何をしても、それでも確実に”時間”が過ぎていく現実。絶対的に受け入れたくは無いけれど、それでも、受け入れないことには、どうにもこうにも仕方が無い。どうにもこうにも仕方が無いから、受け入れざるを得ない。それでも、何処までいっても、絶対に解消されない不安。
それでも、圧倒的な不安を抱えているからこそ、どうしようもない現実に苦悶しているからこそ、だからこそ、正直に素直な気持ちで物事に対応できる部分もあろう。そして、ある意味では弱った心に、普段は気付かなかった、見逃していたであろう些細なことが、響く。


なるほど、多くの読者の話題となり、映画化される所以も理解できる。
かくいう私も、息付く間もなく読了させられた。
当然に多くの涙を流した。
家族との対応は当然のことながら、互いに必要を感じ合って同じ時間を過ごした愛人でさえも、その胸の内を想像するに忍びない。愛人の存在は、決して褒められたことでも、許されることでも無いけれども、それでも現実的に、その存在が必要に導かれ、その存在により保たれていたバランスと、その現実を考えると、単純に否定することはできない。仮に否定したところで、取り残された現実は何処へ?、ある意味では、よっぽどバランスが悪い。

男は、大学生の長男に全てを託す。
病魔に侵され余命が半年であること、延命措置を受けず天命を全うすること、愛人がいたこと、、、



それでも、残念ながら、全てが「男の身勝手」であろう。
善悪を問うつもりは毛頭も無い。
私は、あくまでも「男の身勝手」であると考える。
確かに「理想の死」である部分を否定はしない。
正直な素直な言葉で表現で、自らの心を完全に開放(オープンに)して、ある意味では開き直って、思うがままに生き抜く人生。それも悪くは無い。

もしかしたら、私のイメージとして、秋元康おニャン子クラブ ⇒ 軽薄なメディアのプロデューサー、、、
という図式が確立してしまっている部分もあろう。
イメージとは恐ろしいもので、夢中で物語を読み進めているときには感じ得なかった軽薄さが、不思議と後から押し寄せてくる。
人の心の”ツボ”を押さえることを”業”とする、メディアの著名プロデューサーだからこそ、多くの読者の心を捕らえて離さない術を心得ていて、巧く自然に涙を誘われる、正直に上手い。そして、”業”としての目的である、より多くの”報酬”を得るための手段としての”映画化”。
悪くない、それが資本主義経済社会の、ひとつの形でもあろう。その形が、資本主義経済社会の、更なる発展を加速させていく、大きな原動力のひとつでもあろう。その形無くして、資本主義経済社会の発展は成し得ない。


「男の身勝手」の物語だけど、男に限らず人間という生き物が、本能的に身勝手で、圧倒的にどうしようもない存在である現実。
身勝手に生きられるのであれば、身勝手を貫き通して生き切ってしまう方が、本人にとっても、周りにとっても、ある意味では”幸福”なのかもしれない。








「失楽園(下) -渡辺淳一」読みました。5

失楽園〈下〉
著者: 渡辺淳一
単行本: 282ページ
出版社: 講談社 (1997/02)




「人を愛することは、怖いことだわ」

「男があくせく働くのは、とどのつまり、いい女を捕まえて、自分のものにするためで、これは自然界のすべてに共通する。
オスは懸命に餌を獲り、相手を倒して、最後に得ようとするのは、メスの体と愛情だ。 それが欲しいばかりに死闘をくり返す」



著者 渡辺淳一は、医学博士であり、直木賞作家であり、伝記、医療、性的描写の濃い男女関係を得意とする。
氏との出会いは、大正時代に活躍した有島武郎の文学作品「小さき者へ・生れ出ずる悩み」からであり、川の流れの如く自然に導かれてきた。 衰えぬ、死と愛と人生への興味。 まさに、かのガブリエル・ガルシア=マルケスも語っていた、「ドラマティックな状況の方は、実際にはそんなにないんで、人生と愛と死の三つだけだよ。」なのであろう。


物語は、53歳の上流階級の、一流企業の出版社に勤める、それでもエリートコースからは外されてしまって閑職に追い遣られた男と、やっぱり上流階級の、38歳の書家の女性が、所謂”不倫”の末に、それでも心も軀(からだ)も互いを深く求め合い愛し合い、真実の愛を貫く生への選択としての心中を図る。

はっきり言って、羨ましい物語である。
二人は、出会ったタイミングの問題で、不倫という関係に陥ってしまった訳であるが、それでもそれさえも宿命と言わざるを得ないが、人生の生きる意義、生きる悦びを、はっきりと感じることができた訳であり、それは素直に喜ばしいことであり、まさに羨ましい出来事であろう。果たして、どれほどの人間が、男と女の関係において、これほど強く深く心も軀も満たされ合うことがあろうか。ある意味では、そこまでの真実の愛、生きる意義、悦びを得てしまうと、それは与えられた生の意義を全うしたことでもあり、そこに残されるのは、生の終わり、すなわち”死”のみなのかもしれないとすら。
また、別の側面から考えると、互いのその時点での状況、年齢や経験さえもが、その宿命の必然的な要素であり、互いが婚姻関係が営まれていない状態で出会い、仮に肉体的な関係が結ばれても、ここまでドラマティックな展開には成り得なかったであろうし、それは互いのパートナーとの関係からも明らかなことであろう。互いに、恋愛感情を抱いて、永遠の契りを誓い合い、家族としての生活を営んできたにも拘らず、経済的に満たされた生活を営んできたにも拘らず、大きな不満を感じることも、強い不審を抱くことも無く、綿々と営まれてきた夫婦関係。それさえもが、このドラマティックな状況や出来事を構成する、重要なファクターになってしまう現実。その圧倒意的に凡庸な日常があったからこそ成し得た物語。

人間であれば誰もが持ち得る嫉妬の感情。
それは、物語を盛り上げる、重要な要素でもあろうか。
物語の設定上、男は、年収は額面で二千万円近く、親から受け継いだ家が世田谷にあり、一人いる娘はすでに嫁いで、さらに妻は陶器のメーカでアルバイトをしているから、かなりの小遣いを自由に費うことができる。という、何とも羨ましい身分である。
だからこそ、ここまでの深い関係が積み上げられた現実もあろう。
物語とはいえ、この世の中に、絶対的に存在する”階級社会”であり、不公平な現実。それでも、世の中は、それでバランスが保たれている部分が多分にあり、それは現実として受容れる以外にはないのでもあるが。

「勝ち組」として、闘い続ける人生より、与えられた限られた中に、自らを見出す「真理先生」的人生を選択したい私にとっては、それでもやっぱり物語のヒーロー・ヒロインとして酔いたい気分、それでもそれは辛く切なくもあるのではあるが、、、と、一方では、ヒーロー・ヒロインのパートナーの立場や心情に圧倒的な関心を抱かずにはいられない現実。
私が激しく涙したのは、いずれを想ってのことであろうか?!







大正十二年、ときの文壇の寵児、有島武郎は、婦人公論の美貌の女性記者、波多野秋子と、この地(軽井沢)にあった別荘で心中した。
ときに有島武郎は四十五歳。 妻はすでに亡かったが、まだ幼い三人の子供を残し、秋子は三十歳、子供はいなかったが、人妻であった。
二人は縊死で、ともに並んで首を吊ったが、六月半ばから七月半ばまで、梅雨どきの一ヵ月間、誰にも気づかれなかったので、発見されたとき、二人の遺体は完全に腐乱していた。
発見者は、「全身に蛆が生じ、天上から、二本の蛆の滝が流れているようだった」と、告げている。
有島武郎と波多野秋子との心中事件は、当時の文壇のみならず、世間を騒がした華麗なスキャンダルであったが、その実態はかなり凄惨なものであったようである。

 〜本文より抜粋〜



「失楽園(上) -渡辺淳一」読みました。5


失楽園 (上)
著者: 渡辺淳一
単行本: 306ページ
出版社: 講談社 (1997/02)




どうしても、手にせずにはいられなかった!
いまだ上巻のみの読了ではあるが、深い満足感に浸る。

男と女の愛だ恋だなんて、ちっぽけな概念を超越した、人間の、もっと言うなれば、人間という生き物の、普遍の原理原則、深層真理、その深い深い悲哀に満ちた性を、丁寧に克明に描いた文学作品!

刊行されたのが 1997年といえば、今から遡ること10年前。10年ひと昔とはよく言ったもので、多少の時代の経過を感じるものの、というか、当時は今よりも不倫がタブー視されていて(今でも決して容認されている訳ではないが・・・)、それが故に話題騒然となり、ドラマ化され、映画化され、一世を風靡した記憶があるからでもあろうが。それでも、全く色褪せていない、男と女の人間の真理は、何時の時代にも普遍であることの証明とすら。

何よりも、本作が、大正時代に白樺派で活躍した文人『有島武郎』の歴史的心中事件をモチーフにした物語ともいわれ、その事件が最近私が深い興味を抱いている事柄だから。
事件当時45歳の、上流階級出身で、学習院卒業後に留学の経験も有り、西欧文学や西洋哲学の影響を受け、芸術にも造詣が深い、思想青年で、崇高な理想主義者で、生真面目なひとりの男が、、、確かに数年前に愛する妻を、疫病で失った哀しみ、心の隙間もあったであろう。既婚とはいえ美しい容姿を持った女性編集者(波多野秋子)に惹かれたことも、宿命であったのかもしれない。その既婚女性の夫(波多野春房)に情事を知られ、彼から姦通罪での提訴、金銭の要求などの脅迫を受けていたとの噂もあり、精神的苦痛、深い絶望感もあったであろう。道徳的に許されない圧倒的な現実と認識、惹かれてしまった抑え切れない衝動的な本能(愛情、心も躯も)と、激しく苦悩し悶絶する心の内は、想像に難くない。
社会的立場の高い常識人と言われる人間であっても、衝動的に、取り憑かれたかの如き行動に走る現実、事実。


この作品を、表面的な性描写の激しさのみを捉えて判断することは、余りにも浅はかでなないか。
ドラマ化、映画化により、映像によって表現され、マスコミに騒ぎ立てられたが故に、本質的な文学的部分が薄まり、興味本位に取り上げられたことを勿体無く思う反面、それでも、私の記憶に残っていたが故に、手にすることができた現実に、素直に喜びを感じたい。


物語の結末は、きっと切ない現実が待ち受けているのであろう。
それが分かっていながらも、その切なさの、人間の、男と女の、本質的な深層の感情の精神の揺れ動く様を、その美しい描写を、心行くまで堪能したい。








「モーツァルトとクジラ」読みました。5


モーツァルトとクジラ
著者: ジェリー・ニューポート、メアリー・ニューポート、ジョニー・ドッド
訳者: 八坂ありさ
単行本: 293ページ
出版社: 日本放送出版協会 (2007/01)



あのねあのね、あたしね、どれくらい前かなぁ、躁鬱病なんじゃないかって思ってね、周りからも言われたしね、それで精神病院に行ってみようとも思ったんだけどね、勇気が出せなくって(見栄、世間体、虚栄心?!)結局は行かなかったんだけどね、自分の感情をコントロールできなくなっちゃうの、特に怒りの感情が尋常じゃなくってね、普段は平気なんだけどね普通に日常生活も送れている(そう思っているだけ?!)しね、きっかけはほんの些細なことなんだけどね、いったん頭に血がのぼっちゃうとね、もうどうにもこうにもにっちもさっちもどうしょうもなくなってしまってね、全く周りのことが見えなくなってしまってね、あたり構わず後先考えずに、相手の気持ちを顧みることも周囲の状況を考えることもできなくなってしまってね、何も考えずに怒りをぶちまけてしまってね、でもね、怒りをぶちまけた後にはすぐに冷静になるんだけどね、冷静になると今度は何でこんなことをしちゃったんだろう、どうしてどうして訳分かんないって自己嫌悪に陥っちゃってね、自己嫌悪に陥ってどうしようもない自分を責めて責めてね、でもでも何度も何度も懲りずに同じことを繰り返してね、それでねそれでね、大切な人に大きな心の傷を負わせてしまってね、だからねだからね、、、



物語(ノンフィクションだけど、映画化されており、そう呼ぶのが相応しい)は、アスペルガー症候群サヴァンのジェリーが、運命の女性と感じて生涯初めての交際の後に結婚した同じアスペルガー症候群サヴァンのメアリーとの愛の生活が打ち砕かれ離婚し別の道を歩み、その失意の末に睡眠薬による投薬自殺を図るところから始まる。薄れ行く意識の中で思い起こされる運命の出会いと、その楽しかった充実した日々。やっぱりメアリーは運命の女性だったのでは、と。
一方その時を少し遡る頃、メアリーもまた、貧困と失意に打ちひしがれ、投薬とリストカットによる自殺を図る。メアリーもまた、ジェリーと同じように、薄れ行く意識の中で、その困難に満ちた生涯と、運命に男性ジェリーとの出会いを振り返る。やはり、ジェリーを運命の男性だったのでは、と。
運命の出会いは、ハロウィンパーティーでの、メアリーがモーツァルトに、ジェリーがクジラに扮している姿で、パーティー会場のトイレだった。

訳者の”あとがき”によると、
アスペルガー症候群は、「高機能自閉症」、つまり「知的障害や言語障害を伴わない自閉症」と考えられ、「コミュニケーション能力の欠如」や「想像力の欠如」などの特徴から、しばしば「対人関係における困難」が生じ、本人は、自分の思いが言葉で正しく伝えられないもどかしさ、相手の気持ちが汲み取れない苛立ちを感じている、と。
サヴァン症候群は、フランス語で「賢い人」「賢者」を意味し、数学や芸術などの分野での超人的な才能や記憶力を発揮し、半数以上が自閉症で、約90%が男性といわれ、有名なところでは映画「レインマン」のモデルとなったキム・ピークであろう、と。
そして、妻のメアリーはモーツァルトとゴッホを愛し、音楽と絵画に優れた才能を持ち、夫のジェリーは数学に驚くような才能を見せる。

物語は、ジェリーとメアリーとそれぞれの口から、それぞれの生い立ち、そしてそれぞれが現在の彼らを形成するに至る過去の出来事が詳細に語られる。そのそれぞれの物語は、余りにも鮮明に、その豊かな表現力をもって、事実が、そしてそのときに受けた痛み、辛い思い、苦悩、苦悶する様が、淡々と語られる。

仮に、アスペルガー症候群を患っていなかったとしても、人間は誰しも、生きていくうえで、痛みを伴う辛い思いというものを、決して避けて通ることができない。その思いが経験が、その人物の人格を形成する要素のひとつひとつとして重要なパーツとして、その人物の本質的な深みとして活かされる。ある意味では、そのパーツの数が、その人間の本質的な魅力の深さにも表れる。決して表面には現れることが無い、本質的な部分において。

彼らは、繊細で、敏感で、純真で、誰よりも大きな傷をその心にも体にも数多く負った。
純真で汚れていない分だけ、残酷で、残忍な仕打ちを、その事実を現実を、真正面から受け止めてしまう。繊細で敏感なだけに、その傷や痛みはよりいっそう大きく深くなる。

物語は、そんな彼らが、そんな彼らだからこそ、真実の愛(もしかしたらそれは愛ではないのかもしれないが!?)に、運命的な導きにより、再び夫婦として、アリゾナの砂漠を見渡す家で、お互いが穏やかな安らいだ心持ちで過ごすところまでが語られ、その幕を閉じる。

特にメアリーの言葉が表現が、その心の内が、その心の底から溢れ出る言葉が、その言葉から滲み出る心の叫びが、私の心にこだまする。余りにも多くの言葉が、怒涛のように押し寄せる。堪え切れない。

わたしたち、人生でほしいものは、なんでも手に入れられると思うの。心の傷と怒りを全部捨てればね

圧倒的な感動を呼び起こす秀作。文句無しの☆×5つ!







「天国で君に逢えたら -飯島夏樹」読みました。5


天国で君に逢えたら
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livedoor BOOKS
書評/国内純文学




著者の魂の叫びがビンビン響いてきちゃって、もうどうにも我慢ができない。 込み上げてきちゃってもう大変。 あ〜、どうしよう。
感動します。 泣けてくる。
これ、映画化したくなる気持ちがよく分かるし、きっと感動して大泣きしちゃうだろうなぁ。 だってさぁ、小さい子供を残してこの世を去る無念さとか、考えただけでも、あ〜もうだめ〜〜(泣)!
うわ〜、残された公認ブログとか見ても、ビンビンきちゃう〜

自らがガンに侵され、38歳の生涯を閉じた世界的ウインドサーファー 飯島 夏樹 の魂の小説。
そう言われてみれば、世間に疎い私でも、テレビで拝見していた記憶がある。 スポーツ界での活躍、その後の実業界でも成功を収め、4人の子供にも恵まれ、順風満帆な人生を突然襲った病魔。 その苦しみや、痛みや、憤りや、様々な苦悩の中から紡ぎ出された小説のことだったのか、単なるニュースだったのか?!、そのときは特に気に留めることなく、美人薄命ならぬ、天才短命なんてことを思っていたのかしらん。

今回何かに導かれるように、本が好き!プロジェクトの献本を申し込んでいた不可思議。 何と、著者がその生涯を閉じたのが、私とほぼ同じ38歳というではありませんか! とても尋常ではいられません。

当然に、著者は職業文人ではありませんし、病魔と闘いながら僅か3ヶ月で紡ぎ上げられた物語ですから、その体裁に過度な期待をする由もありません。 美しい言葉や表現を期待する必要すら感じ得ません。
圧倒的な魂の叫び、それだけで充分です。 充分過ぎるほど、その叫びが、その想いが、私のハートに突き刺さり、激しい揺さ振りを掛けてきます。 その想いだけで、言葉は言葉を超越した力を持った圧倒的な存在です。
所詮、言葉って文字も集合体でしか有り得なくって、それでも一方ではその絶大な力が成し得ることも小さくなかったりするのですが、その表面に現された物事だけで判断することって、私はしたくないと思っている。 行間を読む、何て表現があるけど、正にその表された文字に込められた想いや背景までも読み取りたい。 そんなこと考えて、想像を膨らませていくと、圧倒的に堪え切れなくなってしまうんだけど・・・

人間は、その”死”を以って肉体的存在が消滅します。 しかし、肉体的消滅を迎えた後にも、スピリチュアルな魂の存在は、決して消滅することは無い、と、ジャンポルスキーは記していました。 残された者たちの心の中にその魂を残すことの必然に導かれて、著者が魂を込めて紡いだその物語は、深い悲しみや怖れすら癒す力と成り得るのでしょう!?!

特に意識することなく手にする著作に、波状攻撃のように押し寄せる”病い”の陰に、不安を感じ怖れ慄く私がいる。 しかし、私もまたた、その必然に導かれて生き永らえている人間であるが故に、私の身に病魔が襲い掛かる必然があるのであれば、あまんじてそれを受け入れたい心境にすら覆われる不思議。

登場人物に、何度も何度も著者の自分自身の魂を織り込み、紡ぎだされた私小説。 圧倒的な感動を覚え、残される爽やかさすら感じる心地良さを、心行くまで楽しんだ。



私もこの世に何かの必然を求められて、生かされているとすら感じる。 どんなスピリチュアルな魂を残すのであろうか? その導かれるままに必然を全うすることを、心から楽しみたい。







「夜のピクニック -恩田睦」読みました。5


夜のピクニック
著者: 恩田 睦
単行本: 342ページ
出版社: 新潮社 (2004/7/31)



ただただ80kmを歩くだけなのに・・・
凄い! 感動しまくり!!

風景が鮮明に浮かんできます。
登場人物の心の内まで、心の揺れや動きが、手に取るように分かります。
単調にさえ思える行動(歩行祭)が、淡々と進行していくだけなのに、ぐいぐい引きずり込まれて、気が付いたらどっぷり浸り切っていました。 もう、圧倒的されました。 感動の嵐です。
なるほど、映画にもしたくなります。

何だろう、この心地好さは?!
本当に、丸一日間、学校行事「鍛錬歩行祭」を歩く高校三年生の物語でしかないのに、そこに凝縮されたものが、丁寧に丹念に描写され、しっかりクライマックスに向かって積み上げられて、高貴な美しさすら感じてしまう。
ただそれだけだから、全ての無駄を一切排除したからこそ生まれた美しさなのかしら?!

やっぱり、ベストセラーには、それなりの理由がある。 多くの人が手にして、手にしたくなるそれだけの充分な理由が。
もう圧倒的な感動と興奮に心を奪われた。

ところで、私が高校生の頃って、何していたかな?、何を考えていたかな?、と振り返ると、言いようのない恥ずかしさが込み上げてくる。
彼ら(登場人物)のように、悩み、揺れ、傷付き、切ない思い、確かに色々な思いはあったのだろうけど、何となく何も考えることなく、無為に過ごしてきてしまったなぁ・・・、と恥ずかしく思うのである。 それでも、今こうして生きさばらえてしまっている訳で、後悔しても、懐かしがっても、その時間を取り戻すことはできない。
今日の自分自身が、昨日までの過去の行動の積み重ねの結果であることは疑いようのない事実であり、今の自分が恥ずかしい、どうしようもない存在であることも、否定しようのない事実である。
であるとするならば、今を精一杯一生懸命、明日の私、3日後の私、1週間後の私、1ヵ月後の私、3ヵ月後の私、1年後の私、3年後の私、5年後の私、10年後の私、60歳の私、80歳の私、100歳の私のために、この瞬間に何をすべきであるのか、真剣に考えていきたい。

青春小説に感動している歳でもないのかもしれないが、そこ(青春時代)での経験が、圧倒的に不足していると自認している以上、乗り越えて積み上げる必要を感じている私がいる。 その必要に求められて、私はきっとこの感動作を手にしたとすら感じているのである。







小説「魂萌え! -桐野夏生」読みました。5


魂萌え !
著者: 桐野 夏生
単行本: 477ページ
出版社: 毎日新聞社 (2005/4/21)



失うものがあれば、必ず得るものもある。

これいいです! とっても面白い!!
NHK土曜ドラマ や、映画にしたくなる気持ち、とっても良く分かります! どちらも見ていないし、見る気もないけど(笑)!
すっごく深い、深くて深くて、どうしても遣り切れない気持ちに襲われて、グッと込み上げてきちゃうものがあって、もう大変。 でもね、出てくる人たちが、みんなみんな素直で正直で、ある意味とっても理解できちゃう部分があって、500ページ弱の長編小説なのに、どっぷり引き込まれて、一気に読みきれちゃう。 でもって最後には、ちゃんとすっきりした気分になれちゃうのに、それだけじゃないところが素敵!

凄いよね〜、桐野夏生
何年か前に「OUT」読んだ衝撃や感動って未だに何となく心に残っているし。 あれはあれで、その恐怖とか猟奇性というより、人間の心理的な描写がとっても良かった。
そんなこともあって、映画化されて話題になって(NHKのドラマは、今回ネットで調べて知りました。)、早速手にしたのでした。
結構ミーハーなんです。 というより、世間一般に評価されているもの(ベストセラーとか、ドラマ化、映画化など)って、ある意味外れがない、何か引っ掛かるものがあるだろうという、自分自身に対する自信の無さの表れ?! 私、見る目が無いですから(子供みたいに不貞腐れてみせる・・・)、完全に経験不足、自覚症状あり(笑)。
それでもやっぱり、本当にいい著作って””が一番かな。 映画やドラマにされちゃうと、映像では描写しきれない背景や心理的なものの著者からのメッセージが、脚本家や監督や役者や制作会社などなど多くのフィルターを通して見ることになっちゃうから。 それはそれで楽しめることや、意外性があったり、また別の面が引き出されちゃうこともあるのでしょうが。 それでもやっぱり、作家が自分自身の””を削って、その著作に打ち込んでいる大きなものを感じてしまうとね。 比べるものでも無いんだろうけど、全くの別ものだから。
だから、どんな本読んでも、全く否定することってできない。 著者が魂を入れてるから、魂が入っているの感じちゃうから。 甘いのかもしれないけどね。 いろんな考えがあっていいんじゃないかな。


人間って、悲しくて、可笑しいよね。
この世に生まれ出て、死に向かって生きて。
私の今の歳(37才)にして思うのは、老いとか、病とか、孤独が怖いってこと。 怖がっていて不安を感じていても、どうしようもないよね。 間違いなく必ず訪れることだからね。 どうしてもそれが嫌だったら、自ら死を選ぶしかなくなっちゃう。 まぁ、それもひとつの選択なんだろうけどね。 それでも人間は全くひとりで生きている訳ではないし、それでもひとりで生きていかなくちゃいけない訳だし。 どっちなんだよって、どっちもだよね。 やっぱり、どんな人でも(こんな私でも)、世の中にひとりくらいは、その人が死んじゃったことを悲しむ人はいるだろうし、それがその生を全うすること無く自ら命を絶ったということになれば、悲しみだけでは済まされないよね。 上手く表現できないけど、残されちゃった人たちの痛みとかって考えると許されないよね。
で話を戻すとね、ホントに人それぞれ、色々な事情を抱えて生きているんだよね。 何一つ不自由なく生きている人って、きっといないよね。 その抱えているものが、大きいのか小さいのかはあるだろうけどね。 後は、もう考え方だけだもんね。 うわー、何て不幸なんだ、何で俺だけ私だけ、って考えちゃうと、当然に周りはみんな幸せで、ひとり取り残されちゃった気分になって、周りを羨んだり妬んだり・・・ まさに、私がコレ! 代表選手みたいなね(笑)! 可笑しいよね、恥ずかしいよね!

きっと、まだまだ失うものが全然足りていないんだろうなぁ。
そういうことなんだろうね。
流れに身を任せて、風の音を聴こう。







小説「かもめ食堂 -群ようこ」読みました。5


かもめ食堂
著者: 群 ようこ
単行本: 204ページ
出版社: 幻冬舎 (2006/01)



映画「かもめ食堂」の感動がフツフツとよみがえり、グッと込み上げてくるものがあります。 涙が溢れそうになります。
映画も良かったけど、映画を観たからこそ、小説で文字による描写によって、更に味わいがその理解が深まった!
漂う美しさに、ただただ呆然と心地好さを楽しんだ。

何だろう、人間の優しさというのか、温かさというのか、その人から自然に涌き出て漂うものを時に強く感じる。
どんなに表面的に綺麗な言葉を発したとしても、言葉って所詮どこまでいっても言葉でしか無くって、何とでも表現できてしまうし、その時の気分で度々コロコロ変わるものだし、あまりにも頼りない。 だから、言葉だけをそのまま受取ることって、ある意味できない。
その点、醸し出される雰囲気って、じっくりその人のことを見ていると、不思議と言葉以上に語り掛けてくるものがある。 いいところも悪いところも、その口から発せられる言葉と、表情、姿勢をじっくり、心を静めて感覚を研ぎ澄ますと、聴こえてくる見えてくるものってある。

な〜んて、偉そうなこと言っちゃったりするけど、実際のところ全くトンチンカンだったりする。 笑っちゃうけどね!


どうやら、小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、実力派女優の味のある演技に魅せられてしまったようである。 あの、姿勢良くスッと直立して何かを見据える、その雰囲気が好き(笑)。







かもめ食堂
出演: 小林聡美, 片桐はいり, もたいまさこ
監督: 荻上直子
DVD発売日: 2006/9/27
時間: 102分


「シャーロットのおくりもの -E.B.ホワイト」読みました。5


シャーロットのおくりもの
著者: E.B.ホワイト
単行本: 223ページ
出版社: あすなろ書房 (2001/02)




ドリアン先生がいいです!
物語ってくれています!!

1952年に初版が出て以来、世界中で愛されてきた、アメリカを代表するファンタジーの古典、児童文学の傑作、日本でも映画「シャーロットのおくりもの」公開中です。
我が娘(小4)が、クリスマスプレゼントにいただいた本を、面白かったからということで薦めてられて読みました。

なるほど、面白い!
動物(豚や蜘蛛や鼠や羊やガチョウ・・・)たちが主人公で、少女とお話しができちゃいます。 動物たちが少女だけに分かる言葉で話すのか、動物たちの会話を少女だけが理解できるのか、その辺は、ファンタジーとして楽しむとして・・・ 
動物たちは、人間の言葉と、その習性を理解して、知恵を絞って、協力して、奇想天外な「奇跡」を起こして、友達の子ブタを救います。 児童ならではの、夢あふれる物語です。

一方では、ブタが、小さく弱く生まれたら、すぐにでも殺されてしまうこと。 また、人間の食用のためにも殺されてしまうこと。 そして、クモが虫を食べるという、ある意味では残酷なことが、クモが生きていくために、そして、生態系のバランスを保つためにも必要なことであること。 クモが、その一生をたまごを産むことによって終えてしまうこと。 などなど、当たり前のことなんだけど、なかなか受け入れ難い、自然界の摂理を説いています。 その辺りも、児童書の傑作たる所以とも・・・

ところで、ドリアン先生は、少女が動物たちとばかり遊ぶ(眺めて、話しをしている)ことを心配する母親を諭します・・・
「動物が話すのを、わたしはまだきいたことがありません。 しかし、だから話さないとはいえませんぞ。 動物がていねいに話しかけていたとしても、こっちが注意をはらっていないためにわからないということだってありえます。 おとなよりは、子どものほうがきちんと注意をはらっているのでしょう。 ・・・ もし人間がこれほどおしゃべりじゃなかったら、動物はもっと話しをするのかもしれませんな。 ・・・ 」
そして、母親はほっとひと安心してしまうのです。
素晴らしい・・・

最後にしっかり泣かせる場面もあり、まさに傑作です!



映画『かもめ食堂』観ました。5

かもめ食堂(フィンランド版)とっても美しい作品で、静かな感動を覚えました・・・
またまた、今更かもしれませんが、映画「かもめ食堂 -ruokala lokki-」、嵐のような激しい雨の六本木で楽しんできました(笑)! カード会員になっている映画館の”セレクト2006年 邦画傑作選”特別企画ということで、HPでチェックしたのですが、実は友人のブログの古い記憶に、微かに引っ掛かっていた”何か”にヒットし、導かれるように足を運ぶこととなった訳です(笑)!

何だろう? とっても心地良い安心感に包まれて、静かに、しかし堂々と美しく、時に微笑ましく・・・ 色といい、構図といい、スクリーンに映し出されるものひとつひとつの全てが、と〜っても素敵で・・・ フィンランドの美しい街並、建築物、港、森、風景、街の人々・・・ 料理、食材、調理器具、キッチン、家具、調度品、もちろん食堂の内装も・・・ そして何よりも、出演者(小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ他)がみんな凄い! とってもゆったりと、全てが優雅で美しい・・・ 立ち居振る舞いから、表情、醸し出す雰囲気が、とにかく美しく、グイグイと引き込まれて、ひとときも目を離すことができない・・・ あっという間に終わってしまった(笑)!
舞台となったフィンランドでも、当然に好評のうちに上映されているようで、上記のポスターは、フィンランド版だそうです!

軽快なテンポで、溢れるユーモアに、誘われる心地良い笑い・・・
しかし、ここにもしっかりと、人間が必ずその内に秘めている”大きなもの”悩み、孤独の恐怖、逃れられない宿命を強く感じる。 そして、そこに涙を誘われる・・・ 泣くつもりは一切無く、豊かに満ち足りた心地良さのままに劇場を後にする筈だったのに(笑)・・・
ひとつは、主人公サチエ(小林聡美)が、かもめ食堂のメインメニューの”おにぎり(梅・鮭・おかか)”について後半で語る、自身の子供の頃(学生時代)の回顧シーンで、「日本人のソウルフードということもあるけど・・・ 母を早くに亡くした私が食事を全て作っていたが、年に2度だけ、必ず父が作ってくれたのが、梅・鮭・おかかのおおきなおにぎり・・・ 遠足と運動会のお弁当は、他の人が作ってくれたものの方が、美味しいんだよ・・・ と」、普段は決して人に語ることの無い、最愛の母を失ってしまった大きな悲しみを、その心の内に抱えたまま、それでも家族と共に、自分自身が生きるために、健気に家事をする娘。 当然に、父も最愛の妻を亡くした悲しみを、その心の内に秘めている。 そして、時に垣間見せる、大きく深い愛と優しさに包まれた、その父の”こころ”に、思わずグッときてしまった・・・ 一瞬のうちに、涙が頬を伝う・・・
ふたつめは、やはり愛する夫を失意のうちに失い(ひとりになりたいと残して、家を飛び出してしまった)、茫然自失のままに、かもめ食堂で強いアルコールに溺れる、フィンランド人の中年女性。 その彼女が、かもめ食堂の仲間たちの温かい厚い介抱を受け、そして自信を取り戻し、その美しさを取り戻し、何と失った夫がその手に戻るときが訪れる・・・ その全身から溢れる嬉々とした様に、深い喜びと安堵の涙が溢れる・・・
そして、彼女たちの美しい姿、表情・・・ 何と美しく、清々しいのであろう・・・ 何とも言えない、威勢を撒き散らすことなく、静かに厳かに堂々とした美しさに、強く惹かれる・・・
顔の造形(?)の美しさとはまた異質な、人間としての本質的な何かが醸し出されている印象を強く受ける・・・ 私も、そんな深く美しい人間になりたい・・・


とても心地良い・・・ 楽しかった〜(笑)!

映画『佐賀のがばいばあちゃん』観ました。4

佐賀のがばいばあちゃん観たい映画と同じ映画館の”セレクト2006年 邦画傑作選”企画で、上映されていることを知りました。 映画「佐賀のがばいばあちゃん」。 先日(1/4)TV放映されたドラマも、19%という高視聴率を獲得し、原作者島田洋七著作はベストセラー、何となく観てみようという気にさせられてしまいました。
泣ける・・・ ともありましたし(笑)! 出演者も、味のあるベテラン揃いで・・・ 大御所の友情出演も、豪華絢爛(笑)!

きっと、原作を読むと感動するのだと思います・・・
ベストセラーになる、多くの方が手にする、それ相応の理由があるのでしょう・・・

嵐のような雨降りの午前ということもあり、ガラガラに空いた都心の映画館の暗闇の中で、様々なことを想う・・・


小説「フラガール」読みました。5


フラガール
著者: 白石まみ,李相日,羽原大介
文庫: 222ページ
出版社: メディアファクトリー (2006/08)



やっぱり感動して、ウルウルしちゃいました(笑)!
”宿命”とでも言うのでしょうか、それぞれが必然に導かれて、それぞれの人生を一生懸命に生きている・・・ 当たり前のことなんだけど、その当たり前のことが、背負って抱えている”何か”が、大きければ大きいほど、そしてその”何か”が、どうにもすることができない、どうにもならないことであればあるほど、私の心は大きく揺さ振られ、込み上げる涙を堪えることができない・・・
先日、やっと観ることができた映画「フラガール」の、その興奮と感動が、鮮やかに蘇ってきました!
とても美しく、とても気高い・・・

また、文字という形態にて表現される”本”の世界と、映像という形態にて表現される”映画”とは、異なる楽しみ方ができるため、その両方を行うことにより、幅広く深い解釈ができることに、大きな楽しみを感じています。 特に、映画が先行して企画され、それに基づく著作の場合、映像での表現では、私が見落としてしまったり、理解できなかった部分が克明になるため、結構好きなんです(笑)! ある意味では、作り手の主導により観させられる”映画”と、私自身の意思で読み込む”本”と、どちらにもそれぞれの特長があり、どちらも捨て難い(笑)!

一方では、原作の著作の映画化の場合には、映画化という商業ベースを考慮しなければならないため、また、限られた時間の中で、幅広いターゲット(老若男女)を対象にする必要があり、著者の趣旨の本質が深ければ深いほど、その表現の困難さが際立つ。 当然に、原作の著者に対する読者の解釈が同一である道理が無く、映画製作者(監督、脚本)の解釈についても然り。 だから面白いとも言えるのかなぁ・・・?!


何はともあれ、とっても楽しくて、電車の中でちょっとウルウルしながら、一気に読んじゃいました(笑)!
ん〜、楽しかった〜!

映画『フラガール』観ました。5

フラガール今更かもしれませんが・・・ 大泣きしてきました(笑)! す、凄くいい!! もうダメ〜って感じ(笑)!!! 涙流し過ぎて、鼻水じゅるじゅるで、酷い頭痛に未だに悩まされています(笑)! もうそれ位いい〜!! 超大満足です!

実は、この映画『フラガール』、観たい!と思ったときには既に公開終了してしまっていて(ある意味鈍い・・・ 笑!)、1月6日〜12日にワーナー・マイカル・シネマズ 多摩センターにて上映されるのを楽しみにしていたのですが・・・ 何かの拍子にチェックしたところ、何と新宿(新宿武蔵野館)で、しかもファーストデイ(1,000円で映画が楽しめちゃう日)にやっているではないですか(笑)! 喜び勇んで駆け付けたことは、言うまでもありません(笑)! そして、当然早めに出掛けて、前の方の真ん中の席を確保して、準備万端です(笑)!


背負っているものが、どうすることもできない、どうしようも無いもののとき、大きいもののとき、そして、その避けることのできない現実に立ち向かうとき、その姿に、込み上げる涙を我慢することができません!

だって、炭鉱ですよ! どうひいき目に見たって、悪くなることはあっても、良くなることが有り得ない産業で、しかし一時期はその栄華(黒いダイヤ!?)を極めちゃったものだから、その栄光から離れられなくて・・・ そこに身を置くものの意地みたいなものもあったりして・・・ 家族も当然に巻き添えをくって・・・ みんなそんなこと、とっくに気が付いているのに、その現実を認めたく無くって・・・ だって、過去が否定されたことにもなりかねないから・・・!?
んで、先生(松雪 泰子)だって、抱えてちゃっているもの、捨てきれないものが、しっかりとその存在が大きくって・・・ もう、その美しさと、気高さが、余計にグッときちゃう(笑)!
豊川 悦司、富司 純子、岸部 一徳の、ベテランの味のある演技! 蒼井 優の弾けるような爽やかな、そして、南海キャンディーズのしずちゃんの味(?!)のある(笑える!?)演技! また、雰囲気を盛り上げるジェイク・シマブクロの軽快な音楽! それらを巧く引き出して、ひとつにまとめ上げた監督(脚本)の李 相日!
す、凄い! 様々な賞を受賞されたり、ノミネートされたり、そりゃ〜当然でしょう!!

思わず、常磐ハワイアンセンター(今は、スパリゾートハワイアンズと言うようです!)、足を運んでみたくなりました(笑)!

いや〜、よかった〜! いまだ興奮冷めやらず(笑)!
とにかく大満足! 楽しかった〜(笑)!



映画『劇場版 どうぶつの森』観ました。5

劇場版 どうぶつの森映画『劇場版 どうぶつの森』を、娘(小4)と観ました。
任天堂DSのゲーム「どうぶつの森」キャラクターなんですかね?! よく分かりませんが(笑)、どうしても観たい!とお願いされていたので、前売り券まで購入して「きんのアイテム」(まだデータ引き換えしていません・・・)入手しています!

何だかのどかで、優しくなれた気がします(笑)!
あいとブーケとサリーの仲良しな三人の女の子(?!)が、どうぶつの森の住民たち(?!)とのふれあいの中で、大切な何かを感じて・・・

たまにはいいですね〜(笑)! あ〜楽しかった〜(笑)!!

映画『トンマッコルへようこそ』見ました。5

トンマッコルへようこそ

韓国映画『トンマッコルへようこそ』を見ました!
「800万人が笑って泣いた、感動のエンタテイメント!」というだけあって、楽しかった〜!!
たくさん笑って、しっかり泣きました!
出演者の表情がいいです!!
舞台が1950年代の朝鮮戦争最中ということもあり、秘境「トンマッコル」村のほのぼのとした雰囲気と、一方では戦争の厳しさと、そのアンバランスさが絶妙です!
ん〜、大満足です(笑)!!

久し振りに休日の昼間の映画館に行ったのですが、いや〜すごい人出でした(笑)!
大きくないスクリーンでしたが、ほぼ満員でした!!
大笑いする人や、泣いて鼻をすする人、あの一体感がいいですね!
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