秘伝 大学受験の国語力 (新潮選書)
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書評/教育・学習





かつて、ぼくが参画している“本が好き!PJ”経由で新潮社より献本があって、タイトルの“大学”であり“受験”への拒否反応(ぼくは大学受験に失敗し、大学教育を受ける機会を逸している)を感じつつ、それでもどうしても拭い去れない興味♪、コンプレックスとマイナス思考が強いぼくは、素直に“憧れ”と表現できない。まずは否定して拒絶して、そしてやっと認識に到る。しかし、認識に到っても、すぐには興味と感じることができない認知障害!? 何ともややこしい作業と時間をも余計に費やして、ようやっと行動へと。ふぅ〜っ、、、という訳で、やっとのことで手にして、ボチボチボチボチッと拒否反応と闘い(のらりくらりと付き合い)ながら、それでもやっぱり取り上げられた過去問に挑めない。どうしようもない頑固で偏屈、救い難い、、、それがぼく♪
だから、結構な苦痛を伴う。本来、その制度やら意義やら云々の前に、乗り越えるべき受験勉強に挑まなかった。あれやらこれやら色々な理由を並べて、それは結局自分自身への言い訳でしかなく、とどのつまりは「回避しちゃった、現実逃避!」。ただそれだけ、問答無用。

しかし、今のぼくは文字を追うことには慣れている。拒否反応なんて当たり前。そんなのものは、いつだって(毎日毎日毎日)感じている。煩わしい人間関係に比べれば(比べるものでもないのだが)、余裕のよっちゃん♪、そう、ここ最近、“うつ”状態がよくなくて、目の奥がチリチリすること数知れず、かぁ〜っと熱くなって(外はまだまだ寒い)、何だかどうでもよくなっちゃったり、何事もヤル気が失せてしまったり、朝は起きられないし、まったく調子が優れない。仕方がないんだよ、上手く付き合っていくしかない。出来得る限り独りで引き籠って、無用な対人関係を避ける(もう誰も傷付けたくない!?)しかないのかな!?、などと考えながら、鬱鬱と読む本じゃぁないんだろうけどねぇ〜♪

ぼくは、今さら大学受験をする気もないし、受験のための特殊なテクニックやらを習得する必要もない(知っておくことは有益であろうが)から、“受験”であり“大学教育”が抱える問題、大学教育現場の現状とその歴史的背景などの知識として愉しんだ。
そうだよね、二項対立整理能力やら文脈要約能力やら、文学作品を読み解く手法の解説もあったりして、なるほどなるほど、、、 それでも僕の理解には遥かに及ばないのだけれども、頭に脳にインプット♪、ホントにぼくに必要なのであれば、いずれか必要とされるその瞬間に、きっと浮かび上がってくる!、と信じて、それ以上の深追いはしない。その辺りのいい加減さが、ぼくの悪癖で諸悪の根源なのかもしれないけれど、仮にそうであるのであれば、それはそれで仕方がない♪


≪目次: ≫
 第1章 大学受験国語は時代を映す
 第2章 近代の大学受験国語―教養主義の時代
 第3章 大学入試センターが求める国語力
 第4章 私立大学受験国語は二項対立整理能力
 第5章 国立大学受験国語は文脈要約能力








教養主義は階級社会とセットになっていたのだ。教養主義は階級社会に支えられ、上流階級は教養主義を自らの階級を他の階級と差別化する目印としていた。だから、教養主義は上流階級によって再生産され続けたのである。したがって、片方が消滅すればもう片方も消滅する運命にあった。こうして、教養主義と階級社会が消滅することで、近代日本は階級という桎梏(しっこく)を離れて多くの人が大学に進学する大衆教育社会を実現することができたのだ。
近代日本は教養主義の終焉という代償を払って階級社会と手を切ったのである。だとすれば、教養主義を復活させるためには階級社会をも復活させて、大学進学率を最大でも二十パーセント程度まで落とさなければならないことになる。それは、幸せな社会だろうか。
 (第2章 近代の大学受験国語、P.107-P.108)

構築主義の前提には、「言語論的転回」という言語にかかわる発想の転換があった。「コペルニクス的転回」をもじって言語論的転回と言っているので、「転回」はこの文字を用いる。これは一言で言えば「世界は言語である」とする思想である。もとはヴィトゲンシュタインの思想だが、この言語論的転回があってはじめて構築主義が成り立ったと言える。コペルニクスは、宇宙が動いていると考える「天動説」に対して、動いているのは地球の方だと「地動説」を唱えて、それまでの宇宙観をひっくり返した。「言語論的転回」はそれに匹敵する哲学上の「大発見」というわけだ。
僕たちはふつう世界が存在していて、それを言葉によって人に伝えていると思っている。しかし、これは言語道具説といういまや古くなった考え方だ。言語論的転回では、僕たちは言語を通してしか世界を理解することができない、いや、言語としてしか世界はぼく達にやってこないと考える。ベクトルが逆なのだ。世界から人間の方にベクトルが向いているのが言語道具説で、人間の方から言語を通して世界にベクトルが向いているのが言語論的転回の考え方である。
ただし、この説明は厳密ではない。もう少し厳密に言えば、言語論的転回においては、言語のベクトルの先に実体としての世界は想定されていないからだ。僕たちはモノそのものにふれることさえできない。「世界は言語である」と考えるのだから、言葉がすべてなのだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言語で汚染されている。言語の外に世界はない。僕たちはまるで言語の世界に閉じ込められている。だから、言語論的転回のような考え方を、別の言い方で「テクストに外部はない」とか、やや否定的に「言語の牢獄」と呼ぶ人もいる。
 (第4章 私立大学受験国語は二項対立整理能力、P.151-P.152)