ドストエフスキー 謎とちから (文春新書)
著者: 亀山郁夫
新書: 262ページ
出版社: 文藝春秋 (2007/11)




佐藤優との対談著作「ロシア 闇と魂の国家 (文春新書,2008.4)」を読了した後に入手して、他に読んでる最中の本があって、さらに読み終えて書き記したい(記憶の喪失は抗えない)本もあるのに、堪らず割り込み♪

ロシア文学者、東京外国語大学長“亀山郁夫 (1949- )”が、「わたしの最終講義」(P.256)と位置づける本書は、2007年の6月から7月にかけて、東京外国語大学オープンアカデミーで行った6回(各2時間)の講義が出発点。ぎゅぎゅっと圧縮、要約して新書の枠に収めるべく、2007年7月15日に文藝春秋本社の会議室で、編集長と編集部員を相手に、午後1時から夜9時近くまで、ほとんど切れ目なしに続けられた口述筆記、新たな語りおろし。

恥ずかしながら、これまでの自らの不勉強と無関心から、日本語しか読み書き話すことができないのだけれど、日本人が著した本に拘る必要を感じていなくて、あくまでも自らの興味に貪欲にありたいと考える。知識も何もかもが限りなくゼロに近いところから始まっているので、理解に時間がかかるのは仕方がない。むしろ、理解できない、わからない、の前提にあっては、わからなくて理解できなくて当たり前で、興味を抱いた著者があれば(読み易さ、読み難さは、相性の問題として在る)、同じ著者の異なる著作を何冊も多角的に読み込んで、質(中身)が伴わない分を、数量でカバーする。さすがに数量を重ねるうちには、何となくも見えてくるモノがあったりして、それでも理解にはまだまだ程遠い。
そんなひょんなこと(?!)から、ぼくが好んで手にしてきた“佐藤優”が導いてくれた“亀山郁夫”に、「読みたい!」という想いを強くしたのが、前述の「ロシア 闇と魂の国家 (文春新書,2008.4)」でだった。その想いは、本書において、ますます高まる。高まる想いが向かう先は、当然に、““亀山郁夫”新訳の『カラマーゾフの兄弟 (光文社古典新訳文庫)』に他ならない。
まだ見ず読まず、理解し得ぬままに興味ばかりが募る、『フョードル・ドストエフスキー (Фёдор Михайлович Достоевский,1821-1881)』に、「だったらウダウダ考えてばかりいないで飛び込んじゃえば!?」と煽る一方で、「慌てるな、じっくりと機が熟すのを待て!」との小心な臆病風も吹く。いろいろと、あ〜でもない、こ〜でもないと考えて考えて考えて想いを巡らせているうちに、来るなら来るし来ないなら来ない、いずれにしても、ぼくはひたすらに流れに身を委ねて、目の前の著作を淡々と読み続けるだけ。

これからドストエフスキー文学の「謎」を考えるうえで、わたしが起点としたい歴史的な年がある。
それが、1866年である。
ビスマルク率いるプロイセンオーストリアが戦った普墺戦争の年といっても少し難しい。そこで、わが国で明治維新に続く大政奉還が行われ、マルクスが『資本論』も刊行を始める前の年といえば、おぼろげながらもこの1866年という年のもつ意味、140年前の世界の激動はご想像いただけるかもしれない。 (P.19)


≪目次: ≫
 序章 一八六六年 −終わりと始まり
 第一章 四つの「罪と罰」
  1 第一の罪と罰 −父の死とヒステリー症
  2 第二の罪と罰 −ぺトラシェフスキーの会と死刑宣告
  3 第三の罪と罰 −結婚と癲癇
  4 第四の罪と罰 −サディズムとマゾヒズム
 第二章 性と権力をめぐるトライアングル
  1 貧しき人々
  2 コキュの登場
  3 親殺しと二枚舌
 第三章 文化的基層との対話
  1 ミクロとマクロの視点から
  2 分離派と異端派
  3 ドストエフスキーの関心
 第四章 屋根裏のテロル −『罪と罰』
 第五章 反性的人間 −『白痴』
 第六章 「豚ども」の革命 −『悪霊』
 第七章 父と子の和解 −『未成年』
 第八章 大地の謎とちから −『カラマーゾフの兄弟』
 終章 続編、または「第二の小説」をめぐって
 あとがき
 参考文献


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