2007年02月14日

人間の罪について2

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 罪といっても「人間が考える罪」「神様の基準の罪」とは違います。
 あなたが通常考えている罪とは、「人間が考える罪」です。

 人間が考える罪は、一般的に「犯罪」と言われるものです。
 殺人や盗み等「人間が作った法律」にてらして違反した行為を罪と考えています。

 あなたは、「人間が作った法律」に照らしてこう言われるでしょう「私は犯罪を犯していない」、「他の人に比べて悪いことをしていない」と・・・
 
 しかし、あなたが基準としている罪は人間が定義したもので、国や人の価値観によって罪の基準が違ってきます。

 例えば日本では大麻を吸うことは犯罪ですが、オランダでは合法です。

 絶対的な基準ではなく、国や人の価値観によって変わる基準と比べて「罪はない」と本当にあなたは言えますか?

 「神様の基準の罪」とは「人間が考える罪」とは大きく違います。
 「罪」という言葉の原語は「的はずれ」という意味です。
 「神様なんていない、信じない」と神様(的)からはずれて自己中心に生きることが一番の罪です。
 
 神様を離れて生きる罪を聖書では「原罪」と言っています。
 人間は、この原罪の性質を持って生まれてくるのです。(生善説ではなく、生悪説ということです)

 次回は、何故原罪を持って生まれてくるようになったのかお話します。

2007年02月12日

人間の罪について1

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 あなたは、悪いことを悪いと知りながら、つい行ってしまった経験はありませんか?
 人に優しくしたい思っていても傷つけたり、嘘をつきたくないのに嘘をついてしまったり・・・
 つい悪いことをしてしまう。

 この私もそうです。

 何故でしょうか? 
 人間は罪の性質を持って生まれてくるからです。

 聖書記者の1人であるパウロは以下のように書いています。

 「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」ローマ7:19〜21

 子供は悪いことを教えなくても、いつの間にか親に嘘をつくようになりませんか?

 子供は良いことは教えないと覚えませんが、生まれながらに罪の性質を宿しているので、悪いことは親が教えなくてもしてしまうのです。

 これこそ人間は罪の性質を持って生まれてくる証拠の1つです。

 では聖書が言っている罪とは何でしょうか?

 そのことは次回にお話しさせて頂きます。

2007年01月24日

人から不当な行為を受けたとき

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 あなたが他人から不当な行為を受けたときどのような気持ちになりますか?
 「悔しい」、「何で私が?」「冗談じゃない!」などの気持ちが湧き上がって来ませんか?

 そのような時はどうしたらいいのでしょうか?
 
 「あれは相手の性格なんだからしょうがない」と自分の考え方を変えることです。

 そして、相手に嫌な感情を抱いても、「マイナスの感情」を持つことを選択せず、「やり過ごす」ことを選択するようにお勧めします。

 頭の中で嫌な思いを繰り返したりせず、ストレスをためないように、別のことを考えて早く忘れてしまうことです。

 相手が変わるまで待っていても、ただ時間が過ぎるだけで何の解決にもなりません。 

 基本的に嫌な相手と距離を置くにしても、あなたは相手に不満をぶつけないで、好意的に接することをお勧めします。

 あなたの不満を、相手にぶつければぶつけるだけ、相手の心はかたくなになり、あなたもどんどん不満がたまり悪循環になるだけです。

 聖書には人間関係を改善する秘訣が以下のように書かれています。

 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」,「与えなさい、そうすれば 与えられます」

 人間は「相手がこうしてくれないから」とか、「相手がそういう態度をとるから」と先に相手を責めてしまいます。

 相手を責めるのではなく、あなたが好意的に接することによって相手の心も徐々に開けてくるものです。

 人間は自分に好意を持って接してくれる人には、態度には出さなくても心の中で悪い気はしません。

 あなたの相手に対する好意的な態度の積み重ねにより、やがてあなたに対する相手の態度が変ってきます。

 自分の考え方を変えることは容易ではありませんが、少しづつ変えていってみませんか?

2006年06月29日

■ユダヤ民族の預言(世界への離散)

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前回は、ユダヤ民族のバビロン捕囚に関する預言をとりあげましたが、今日は、バビロンから帰還したユダヤ民族が、全世界に離散にされる預言と実際の歴史を比較したいと思います。

 紀元前536年ごろからユダヤ民族はバビロンからイスラエルの地へと帰って来ました。
 時は流れ、紀元前6〜7年ごろイエスキリストが”救い主(メシヤ)”としてイスラエルの地に誕生されます。

 イエスキリストが30歳の時に、「自分が神の子救い主であり、自分を信じる人は罪赦され天国に行くことができる」とユダヤ民族に伝道を始めます。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16
 これはイエスキリストが語った言葉です。

 イエスキリストは、自分が救い主であることを証明するために、盲人の目を治したり、死人を甦らせたり様々な奇蹟を行います。

 しかし当時のユダヤ民族はこのイエスキリストを救い主として受け入れるず、むしろ「偽救い主」として逮捕してしまいます。
 彼らは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ総督の所へ連れて行き、イエスキリストが「ローマに反逆する者」という嘘の罪を着せて死刑にするように願ったのです。ローマ総督も最終的に承諾し、イエスキリストは十字架で死刑にされました。

 神様は救い主として地上に送った、御子イエスキリストをユダヤ民族が拒否したことにより、ユダヤ民族を全世界に離散されます。

 そして実際歴史上、紀元70年ユダヤ民族は、ロ−マに独立戦争を挑みますが鎮圧され、エジプトから全世界に奴隷として売られ離散したのです。

 驚くことに、ユダヤ民族の世界離散が起こる1500年も前に、聖書にこのことが、預言として書かれていたのです。

 「主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。」申命記28:49
 ”わしが飛びかかるように”と書かれていますが、ローマ帝国のシンボルは”わし”でした。

 「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。」申命記28:64
 「私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。」申命記28:68

 このようにはっきりと聖書はユダヤ民族がエジプトから奴隷として全世界に散らされると預言しており、歴史も事実その通りになりました。
 ”敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい”と書かれていますが、当時多くのユダヤ人が奴隷となったため、奴隷の価格が暴落してただ同然で売られていったそうです。

 しかし、神様は愛なる方ですので、このユダヤ民族を三度イスラエルの地に帰らせます。



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2006年06月22日

■ユダヤ民族の預言(バビロン捕囚)

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前回は、ユダヤ民族のエジプトでの奴隷に関する預言をとりあげましたが、今日は、ユダヤ民族のバビロン(現在のイラク)に捕囚される預言と実際の歴史を比較したいと思います。

 紀元前1400年ごろユダヤ民族はモーセに率いられてイスラエルの地へと帰りました。しかし時代が流れるにつれてユダヤ民族の心は唯一真の神様から心が離れ、人間が作った神々を拝むようになりました。

 そのようなユダヤ民族に対して神様は何度も、そのような神々を拝むことをやめるように預言者を通して警告されました。(神様は人間を愛しているので、罰をくわえたくなかったのです)

 しかし、ユダヤ民族はその警告を無視し続けました。神様は愛なる方でもあり、義なる方です。ついにその罪を見逃すことができなくなり、バビロンがイスラエルを攻め、バビロンにユダヤ民族が捕われていくことを許されます。

 神様はエジプトから400年後ユダヤ民族を解放したように、バビロンからも70年後にユダヤ民族を解放するよう約束されました。

 聖書にはバビロン捕囚の前に下記のような預言が書かれていました。

 「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」イザヤ39・6

 「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」エレミヤ25:11

 では実際の歴史はどうだったのでしょうか?
 預言どおり、紀元前606年〜536年の70年間ユダヤ民族はバビロンで捕われの身となったのです。
 バビロンがメド・ペルシャに滅ぼされてユダヤ民族は、ペルシャの王様にイスラエルの地に帰ることを許されたのです。

 次回はバビロンから帰ってきたユダヤ民族が、今度は全世界に散らされる預言について書きたいと思います。

2006年06月19日

■ユダヤ民族の預言(エジプトでの奴隷)

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 前回は、聖書のユダヤ民族に関する預言をとりあげましたが、今日から数回に分けて預言と実際の歴史を比較したいと思います。

 ユダヤ民族とは、アブラハムという人物の子イサク、このイサクの子ヤコブ(又の名をイスラエル)、このヤコブの子孫をユダヤ民族と呼んでいます。

 聖書では驚くべきことに、ユダヤ民族の先祖であるアブラハムに、まだ生まれていない子孫(ユダヤ民族)が400年間エジプトの奴隷となると預言されています。
 「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」創15:13 〜14

 これは神様が、アブラハムにまだイサクという子供が生まれていない時に、語られました。聖書はやがてユダヤ民族がエジプトの奴隷となるが、400年後エジプトから解放され脱出すると預言しています。

 では実際の歴史はどうだったのでしょうか?
 預言どおり、紀元前1800年ごろユダヤ民族はエジプトで奴隷となりました。これは歴史的な事実です。

 更に、奴隷生活から400年過ぎた時にユダヤ民族は、モーセという人物に率いられて多くの財産を持ってエジプトを脱出しました。そして元々住んでいたイスラエルの地へと帰っていったのです。(この内容は聖書の「出エジプト記」に書かれています)
 このことも歴史的な事実なのです。

 このように聖書では、歴史上おこる出来事が何百年、何千年も前に預言されているので。
 次回はエジプトから脱出したユダヤ民族が、バビロンに捕われていく預言について書きたいと思います。

2006年06月16日

聖書について その4(預言どおり歴史は進む)

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 聖書はすべて、神の霊感によって書かれたものであることを”聖書について その3”でお伝えしました。
 今日はそのことを更に理解して頂くために、聖書に書かれた預言が歴史上実際成就した出来事の中でユダヤ民族に関する預言をとりあげます。

 ユダヤ民族は、三度も祖国を失い、各国を流浪し迫害されました。しかし、民族性を失わず、ナチスの大迫害でも滅亡することなく、1948年にイスラエルという祖国を再建したのです。
 驚くことに、これらの出来事は事前(何千年も前に)聖書に預言されていたのです。
 英国の有名な歴史家アノルド・トインビーは「ユダヤ民族が現存すること自体が奇跡である」と語っています。

 では次回ユダヤ民族の預言とそれが歴史上どう成就したか書いていきたいと思います。

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2006年06月15日

■聖書について その3(聖書の内容)

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 聖書は、天地万物の創造から、やがて来る新しい天と地が実現するまでの神様の壮大な計画が書かれた書物です。

 聖書の66巻の初めの書である創世記は、人間を含めた天地万物が神様によって造られたことから始まり、人類が罪を犯したこと、イスラエル民族の始まりについて書かれています。

 旧約聖書(39巻)は大きく4つに分類されます。
 1.創世記を含む、罪の基準等(律法)が書かれた書物。
 2.イスラエルに関する歴史が書かれた書物。
 3.格言、金言、詩が書かれた書物。
 4.ユダヤ民族の将来の運命、またやがて来られる救い主について書かれた預言の書物。

 新約聖書(27巻)も大きく4つに分類されます。
 1.イエス様の地上での公生涯を記した4福音書。
 2.初期のクリスチャンの活動と教会の進展が書かれた書物。
 3.クリスチャンがどのような信仰生活をおくるべきかが書かれている書物。
 4.最後はヨヘネの黙示録で、未来に起こる天と地と地獄のことが書かれています。

 聖書の内容を大きく分けて書きましたが、驚くことにすべての書は、”救い主イエスキリスト”をテーマに書かれているのです。ですから聖書はふつうの本ではないと言えるのです。


2006年06月14日

■聖書について その2

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 聖書は紀元前1500年ごろ〜紀元100年まで約1600年もの期間にわたって書かれた書物です。
 当然1人の人が聖書を書いたのではなく、約40人の人々によって書かれました。
 
 著者達の職業は様々で、王様、学者、猟師、医者など、いろいろな身分、職業、学識の人々がいました。

 しかもこの著者達は今のイラクからイタリア地方にいたる広大な地域に散らばっており、ほとんどの人とが、お互いに会ったこともなく、連絡も取り合っていなかったのです。
 
 このよに生きた時代、地位、環境を異にする著者達によって長年にわたって書かれた書物であるにもかかわらず、聖書には驚くほどの調和と統一があるのです。それは、それぞれの著者がイエスキリストについて書いているということです。

 なぜこのようなことができたのでしょうか?
 これは各著者の背後にすべての者お真理に導く神様の聖霊の働きがあったからです。著者はこの聖霊に促されて聖書を書いたので、このように調和と統一がとれた書物を書く事ができたのです。

 聖書にはこのように書かれています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」競謄皀藤魁Γ隠

 このように聖書は神様の言葉そのものなのです。


2006年06月13日

■聖書について その1

空5

 
 永遠の保険の保険が信用性は、聖書が信頼できるかということにあります。
 これからシリーズで聖書とはどんな書物か紹介したいと思います。

 聖書は1冊の書物ですが、実は66冊の書物がまとまって1冊とされています。
 さらに聖書は大きく分けると旧約聖書(39冊)と新約聖書(27冊)の2つに分かれます。続きを読む