August 24, 2014

日記8

やはり、魅力的なものを作ろうと思ったら、
何かにぬきんでた人の力を借りなければいけないとおもう。

自分で無理にやろうとしてはいけない。
むしろ全部任せたうえで、それが仕事にできるような
やりかたが求められると思う。

ありがたいことに、いろいろなことにぬきんでた人との
出会いがここのところたくさんある。

自分が全部やれないといけないと思い
いろいろなことを背負いあきらめ、自分を責めていたけれど、
そんな時代に別れを告げて、人とともに
いろいろな仕事を作り上げていきたいと思った。

今日、とても、それをおもった。


「猫と窓ガラス」のライブ。カルボナーラがおいしかった。

実印作成を頼まれていた友達に、
無事印を納品できた。
とても感動してくれていて、本当に良かった。

 

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August 23, 2014

日記7

今日はたくさんの人と話した日だった。

スポーツトレーナー、恩師、ディレクター、友人、旧友。
たくさんの話をしたけど、記録せずにあまりよく覚えていない。

油断をして、覚えていないこともたくさん。

和の扉、円と四角、いろいろとあったのに。

足助のゴエンナーレのお話、いろいろとおもしろい。
そして、じつは判子を頼まれたのに、
なんとなく忘れている。

焼き鳥屋にいって、
その後、近くの居酒屋でまた飲みなおし、
コンビニでも飲む。

人の縁は不思議である。
めぐりの中で、どのタイミングに会うか。
 それは大切だけど、関係性が付き合うほどに
変わっていく場合もたくさん。

やはり瞬間的に判断せずに、
長く続けることが大切だと思う。 

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August 21, 2014

日記6

自分の今やこれからについて書くことは、頭の中を整理することである。
整理すると、ひとつひとつに向き合うことが容易になる。
仕事は簡単になり、物覚えもよくなり、理解力も上がる。

整理することを繰り返すと、整理することが容易になる。
散らかっているものを整えることが億劫でなくなる。
乱れている物事をみると、片っ端から整えていきたくなる。

仕事がはかどるとは、こういうことを言うんだと思う。

朝起きるのが遅くなり、けっか始業も遅れて
やるべき仕事に着手できなかった。
朝の始め方がなかなかうまくいかない。
明日こそはしっかりと始めたいが、
やはり朝は時間の進みが早いし、
頭の動きはゆっくりになってしまう。

仕事に向き合う気持ちを持てるように
しっかり寝て、余裕を持った朝を迎えたい。

今日は制作作業のときに時間を計測した。
ひとつひとつの作業がどのくらいの時間で
おえられるのかをしっかり確認しておくことが
仕事をスムーズにこなすために
とても大切なことだと再確認。

やはり時計が必要だと思い、
日曜に時計を見に行くことに。
早く時計がほしい。

ポール・ランドのデザイン論が頭に
残っている。今までにはない、
革命的な余韻さえある。
本を読み続けていると
こういう出来事が起こることがあるから、
やっぱり本は読み続けなきゃいけない。

店の売り上げがよくなかったが、
それ以外の仕事でいい進捗が
あったり、発見があったりしている。
やはり、並行していろいろなことの
種をまいておくことが、商売においては
とても大切なことだとおもう。

新城の仕事、新城にしっかりとした
種をまくようなデザインにしたい。
ふつふつとその気持ちが湧いてきた。
それもポールランド先生の言葉が
きっかけでもある。

それもこれも記録しているからこそ
頭の中に残っている。

記録することがすべてである。





 

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日記5

朝、久々にお弁当を作る。

朝の時間はなかなか丁寧に整えられない。
頭が空っぽのなか、感覚を取り戻すのに
時間がかかる。

始業するまでに、いろいろ確認しなければ
いけないことがあったはずだけど、
ほとんど忘れてしまっている。
確かめることをしっかり確かめたい。

時間を意識し、ハンコをデザインすることが
とても大切である、とはっきりとおもった。
テストのような状態のモノ作りは
自分の頭と体を活性化させてくれる。

昼食は友人と港区の中華料理。
社長業について。
世界のこれからについて。

東南アジアで仕事をしている
その友人の視点、アジアでの出来事に
感じる世界と日本の今の話。
各種セミナーの情報。
社長だからこそ、他の人がやれない
仕事で会社に貢献しなければならないことなど。

いろいろと仕事においての方法論があるが、
覚えたてのものはよく切れる剣を
手にしたときと同じで、
切れ味を確かめたくてむやみやたらに
振りたくなる。

威力のありそうな理論や方法論を
しったときほど、切らなくていいものまで
切ろうとしていないか気をつけないといけない。


デザインとは関係である。
ポール・ランド先生の本を題材に読書会。
物事の関係性をしっかりととらえ、
良き関係性をつくるのが、よいデザインということである。

いままでの自分は良き関係性を
つくることに注力してきたのか、
思いをめぐらしてみる。

気配りというのは、不安定な誰かの心に
安定感をもたらそうとする行為で、
それ自体が良きデザインを生み出そうとすること。
意識はしつつあるものの、なかなか思うように
動けないもの。

それはデザインに必要な知識や経験がなく、
手持ちの方法が頼りないからじゃないかとおもう。


幸せノートについて、友人より聞く。

希望と賛美、報恩と伝説。

昔の思い出をすこしずつたどっていくと、
自分が生まれるときのことを人は思い出すらしい。

それと同じように、感謝することや自分自身を褒めること、
そして未来の夢を書き連ねていくと、
自分自身が良き方向へと広がっていく。
これも自分と世界の関係性をポジティブな方向へと
バランスする行為ともいえる。

そのなかで大切なのは、漆塗りのように、
なんども続きを塗り重ねていくように
書き記していくことかなとおもう。
ぱらぱらと書いていると
たどっていく動きにならない。
これは自分自身のこれまでの活動が如実に
表している。

辿って行く前に、いろいろと別の事への興味がわいてきて、
すべてが中断されて取り残されてしまう。
塗りかけの漆の茶碗が無数に自分の部屋の中に
放置されている。ひとつひとつ淡々と塗り重ねる。
昨日を思い出し、今日を始めていきたい。

何かを得るとは何かを失うことと等しい。
つまり、なにかを失ったり、損なったりしている
その瞬間に、同時に何かを得ているということ。
大切なのは、得たことを意識し確認することだ。

思い出の中で傷となっているような出来事がある。
思い出すのがすこしつらいようなこともある。
その時に自分は何を得ただろうか。
教訓めいたことだけではなく、実際に自分を
支える大切なものをもらっているはずだ。

今日一日をとってみても、
ほんとうに運よくいただいたご縁で
すべてがまわっているなとおもう。
その傍ら、参加できなかった会などもあり
自分が導かれている方向がはっきりしてきた。

昔の自分の話を少しずつ思い出しながら、
未来の自分に思いをはせてみたい。


 

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August 19, 2014

日記4

毎日同じことの繰り返し。

それが仕事の持つ特徴の一つ。
もちろん、いろいろなことは変化しているけれど、
同じことが繰り返される印象が仕事にはある。

お金の出入りを記録することも、
延々と繰り返される行いの一つ。

記録という作業はとても単調なもので
しているときはあまり意味を感じない。
けれど、記録を振り返ることでしか、
自分自身がやってきたことを確かめることが
できないならば、記録とは自分の生きている意味すべて。

記録とは人生そのものを表しているような気がする。


今日はあまり仕事がこなせなかった。
仕事の段取りで戸惑う部分はずっと同じ。
そこをスムーズに解決するには時間がかかる。
考えながらも注意力や集中力が散漫になる。

こういうときこそ、仕事をしたくなるグッズが必要と思い
ペーパーアイテムなどでかっこよいのを探す。
それとともに、腕時計が必要で、探してみる。
お気に入りのが見つかり、テンションが上がる。

やろうとおもってやれなかった注文書のスキャンなど、
もういちどやり始められそうなタイミングに
いろいろな物事のめぐりあわせを思う。

記録することがすべて。
あきらめずにやるのみ。


メモ

村上龍の文学的エッセイ集で、坂口安吾に監視されているような
文章があったが、誰かに人生を見張られている感覚はとても
大切だ。自分がしっかりなすべきことを成しているかを見ていてくれる
ルールのような存在。

それを感じるには、たくさん本を読むといい。
著者の言葉を読み込むとその著者が
自分の内側に居つく。映像でみると
伝わるものが多くてわかりやすいけれど、
読み込んだほうが自分の中に取り込みやすい。

メモ2

曖昧な思考をさけよう。日本語に頼って曖昧に
綺麗な言葉でごまかすのはやめよう。

メモ3

朝が大切。朝の入り方を間違えると、
仕事を始めることができなくなる。
朝起きてから、テンションを上げていくように
頭と体をつかえるかどうか。
余計な仕事で消耗させないようにしたい。
ということは、もっと大事なのは、
その前の日の夜である。
夜にいろいろなことを済ませておけるかどうかで
その夜の眠りと朝の時間が変わってくる。

メモ4

新しい道具をかうことで、繰り返しのマンネリ感を払しょくし、
仕事や家事の効率とやる気を高めることの
大切さを思う。洗濯道具で選択の仕組みを変えたり。

メモ5

どんなことも自分自身から種が出てくる。
だから突破口はいつだって自分に向き合い
自分を認めたときにしかみつからない。

ダメダメだった20代があったからこそ
商売のネタができたり、必要な感覚を
身につけられたりする人がいる。
逆に熱心に努力を重ねていても
なにひとつ形にできない人もいる。

何かに価値を持たせるには、
自分の特徴をしっかり把握していないといけない。
東京のやり方を真似る地方都市を滑稽に思う前に
自分自身も同じことをいつもやりがちで、
しかもそのことに全く気が付いていないことに
思い至るべきである。

地方にはスカイツリーはないが、
そこにしかない風景があり、
それを使ってどう人を喜ばせるかを
考えるしか、地方都市が魅力的に輝く道はない。

自分もしかりである。
人を喜ばせる方法は
自分のなかにかならずある。



 

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August 18, 2014

日記3

今日から仕事が始まった。

落ち着いて、一度しっかり組み立てていこうと思う。
記録していけるような働き方をしていきたい。
それには規則正しい枠組みを作るのが肝心で、
始まりと終わりを明確にして、段階を丁寧につくって、
仕事の仕方に正しい順序を決めていきたいと思う。

だから朝起きる時間だけでなく、出社するまでの時間と
出社する時間、それからの時間を上手に進められるように、
起きてからの時間の使い方に工夫を持たそうと思った。

出社するまでの時間にエンジンを温める。
やることを書き出しながら、仕事をバリバリやりたい気持ちを
わきたてていく。お店についてから考え始めると
仕事が重たく感じられるので、家にいるうちに考え始めているのが
とてもいいとおもう。

店につき、制作物の整理やすこし制作をこなしたあとで、
今日のテーマのリズムづくりに入る。todoリストがほしかったので、
使いたくなるようなものを探して注文した。

その次は経理のことをやった。

いままでは制作の部分ばかりやっていたので、
商売の根幹ともいえる経理の部分をしっかりやっていなかった。
そこで今日は会計のことをいろいろと父親に習いつつやっていた。 

ひとつひとつの仕事を具体的な業務にわけて
箇条書きし、漏れのない正しい順番にならべていく。

いままでは、仕事をやりながら
次は何をやるかを考えていたけれど、
あらかじめやることがきまっていることを
淡々とこなしていくような仕事のスタイルに変えていきたい。
そういう型みたいなものを繰り返すなかで、生まれてくるものが
必ずあると思う。

その他、考えたことがいろいろあって
メモしていたのに、そのメモをお店に忘れてきてしまったので、
そのあたりはまた明日。


 

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August 17, 2014

日記2

今日は連休最後の日。
仕事をするため実家に向かうと、
祖母と叔母が東京から帰ってきている
甥っ子に会いに
うちに来ていた。

一歳ちょっとの甥っ子の成長の具合は
時の流れの速さをも追い越して行きそうな
くらいに目を見張るものがあり、
会える時にあっておかないと、
時分の花たる、その時々の可愛さを
見逃してしまう。
祖母がまめにうちを尋ねる理由が
よくわかる。

とある会社の判子を作る。

ちゃんと判子を作れるようになるまでに
どのくらいかかりますか?
という問いには二つの考え方がある。

「お客様を満足させる判子」ということなら、
何年ぐらいという答え方は難しい。

それこそ生まれて初めて作ったものでも
人によっては満足させられるかもしれないし、
一生を捧げても
満足させることはできないかもしれない。

「自分自身で満足できる判子」ということでも、
これまた難しい。

やりはじめた直後、それっぽいのができたときに
おお!という気持ちになるものの、
その後、自分で満足できるものができることは
ほとんどない。そしてその状態が永遠、
真摯につくるものに向き合うひとほど、
満足は訪れない。

つまり、何年くらいで一人前かは
自分基準でもお客様基準でも判断がつかない。

判断ができるのはただひとり、
自分の師匠や先生である。
師匠が伝えようとする世界、道の中において
いまどこの位置に居るのか。
それが「ちゃんとできる」を判断する方法で
それを判断できるのは、世界や道のりの全体像を
しっかりと認識できている師匠および先生以外には
いない。

つまり自分自身がしっかりできているという
確信と自身をもつには、師匠や先生の存在が不可欠なのである。

判子を彫りながら、そういう事を思った。
自分で決めて、自分で作り込んで行く事は、
自由とともにとても大きな不安を抱えながら、
不安定を見にまとい飛ぼうとすることである。

一つ一つの判子を、さまざまな先人の知恵を
身につけていくという方法で、磨いて行きたいと思った。

夜。花桔梗。
結婚式の贈り物を確認しに行く。
やっぱり何かを行うときに大切なのは、
できるひとに頼むことである。
お金はかかるが、お金をかけて作ったものは、
お金をもらえるくらい価値あるものになるので、
要はそれの使い方で、より高い価値を得る事ができる。
お金は使えば使う程価値が高くなる。
使わないと価値は目減りして行く。

まことや。
味噌煮込みうどんがおいしい。
まことやの人たちは、
とてもシンプルな幸せをちゃんと
わかっていらっしゃる気がした。

疑う事は、物事を理解するために
とても大切な事だが、
ときに疑わずにありのまま信じる事が
とても大切なのだなと思った。
いろいろなことをいろいろな角度から
考えてしっかり捕まえようとする
自分の思考をなんとなく煩わしく思った。

休みはこうして暮れていく。
なんとなく、休みじゃないような
休みであり、わりと長い時間のように
感じる事ができた。

明日からも、それほど変わらない意識で、
淡々と早起きと仕事を繰り返したい。
どうしたらそれができるかは
明日考えたい。

こんな長い文章を書いてしまうから、
すぐに日記が続かなくなる。

短ければ短い程、よい、
といっていたのはなんだったかな。




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日記1

今日から日記を書き始める。

「記録されない日々はないに等しい」というサルトルの言葉。

私は最近、本当にいろいろなことをすぐに忘れてしまう。
どんどんとあったことはなかったことになり、
考え至ったことも、忘却というもやもやした喫茶店の
奥に消えていってしまうような感じになる。

乗ってきた気分も、気が付いた野心も、
人生を盛り上げるあれこれも
すぐにいろいろな出来事に上書きされ
なくなってしまう。

だから日記を書くことにした。
できる限りでいいから、書き留めることにした。

すべてを手放さないような書き方はできないししない。
ただその夜に、手元に残ったものだけは手放さないようにしたい。

今日はしいたけとトルネードポテトの会
宵市、春日井。とんとんの会計、土砂降りの雨。
理由や目的からパワーをもらわずとも、なにかをやり始めることで
どんどんとでてくる力がある。

土砂降りの雨も
炭の火おこしも、一度やり始めると
どんなことでも夢中になってやれてしまう。
くたくたが気持ちいい感じで、
たくさん働けてしまう。

面白さはもともとあるものではなくて、
自分のかかわり方で決まってくる。
それは意味も目的もわからないけど、
とにかく上手にやってみるとか、
カタチにしてみるとか、
そういう動き出しから始まるんだなとおもった。

規則正しく毎日を繰り返し、
何かの作業に熱中し、
くたくたになって風呂に入り、
そして日記を書いて寝る。

そういう規則性のある活動を繰り返していくと、
かならずなにか授かりもののようなものに
巡り合える。

そうするためには、意味や目的のことは
ひとまずおいて、考えたほうがいいのかもしれない。 

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January 04, 2014

緊張と緩和、めりはりきかせて尻ポリリ。

昼過ぎ。帰宅からの外出。祖母宅。
新年の挨拶をするも、いろいろと所用を
済ませることが頭にちらつき
どこか落ち着かない。

節目に節を作れるように、
間はしっかり整えて走りきらねば
ならない事を痛感。

夜。電話。
人の気持ちのなんたるかは
永遠の課題。慮る事で自体をゆがめてしまう
こともあるのであります。
受け止めすぎず、大事なポイントをはずさない
ことが何に置いても重要なのであります。 

走る、そして止まること。緊張と緩和。
集中と拡散。目覚めと眠り。

やらないことをはっきりさせて、
やることを少なく整理整頓。
今年こそは克服で来たと来春に思いたい。 

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January 03, 2014

1-2 半吉ジュンクのラガーフェルド

ぜんざい。餅柔。塩甘。
初詣の人々はある物語の中で
わさわさしながら、同じ目をして
水を汲み、手を合わせ、身体を折り曲げる
などしている。

栄。百貨店。男女ぞろぞろ右往左往。
初売りの人々はある物語の中で
わさわさしながら、同じ目をして
手を動かしものを買うなどしている。 

ラガーフェルドは全く違う物語のなかで、
確信犯のように物語を作り演じる。

繰り返される行為のなかで、
両者の違いは克明。

喧噪と静寂のなか、狭間にいる自分自身の
道筋に想いを馳せる。
具体的なイメージを目指すべきしるしとして掲げる
ことがべりーいんぽーたんとである。

 
 

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January 02, 2014

1-1 風邪ひき富士鷹さんなすび。

大晦日。喉痛。熱風。
ふらふらのままで、ゆく年を見送り来る年を迎え
ながらの朝。予定の富士山来訪に向かう道中、
新東名。突如どどんと現れる富士に、人間の小ささを知る。

美しさとは、己の小ささをしっかりと認め確かめ
させてくれるもの。ふもとっぱらで見た富士山の裾野広がる
その姿は、自分の輪郭をちゃんとしらせてくれるものでした。

今年はいろいろな美しき結びの中に身を置いて、
自分の裾野をどんどんと世界の中にしるしていきたい。

そんなことを考えていたら、空高くに鷹が現れ、
その後茄子のお寿司を食べました。

一富士二鷹三茄子。
今年は春から縁起がいい。
夏も秋も冬も全部縁起がいい。


今年もどうぞよろしくお願いします。




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August 02, 2013

オムレツのアーモンドと美しさの所在、だもの。

朝、熱気さめやらぬ眠気。
夢か現か、荒ぶる記憶。
愛犬がごはんを求めてスリスリ、ゴロン。
なで続けて15分。
ご飯を食べると違う犬になった様に
自分の居場所へ去っていく。

朝食、オムレツ。
あのアーモンド型には美しさの要素が
全て詰まっている、と言われたら
そうかもしれぬと頷くような、
趣きあふれるオムレツをパクつく。

店を開ける前に時計を見たら
針がとんでもない時間に。
けれど確認したら、とんでもないのは
自分の時間感覚で、針はしっかり
自分の仕事を全うしておりました。

なにかが大きくぐらぐらと変わる。
ぐりとぐらも大人になっていく様に。

そもそも子どもなのかも分からないけど。
だって、にんげんじゃないんだもの。 

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August 01, 2013

逡巡はY字路へ人を誘いいざなう、いざなぎ景気。

朝、暑さ、4時半起き。
歩きにいくかどうか逡巡。
出かけようと決意するも雨。むむむ。
あきらめず近場のルートを歩く。
いつもと違う朝の風景。

知らないところで、いろいろな朝が過ぎている。
それが世界。自分の裏側は未知のものが蠢く。
ただ、裏を見たくてもどこから爪を引っかけめくれるのか、
それがどうにも分かりにくい。

朝ご飯、ゆめぴりか炊飯。
魚沼産のコシヒカリよりも、食感にコシがない。
魚沼の実力が腑に落ちる。けれど香りや味はしっかりある。

毎日食べてる米でさえ、感じられていたのは上っ面。
比べてみると奥行きが見える。裏側の気配。

 

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May 02, 2013

人種、人種、そして人種。

彼はいつもその木の近くで絵を描いていた。
彼が描くのはいつも人の姿だった。
建物も、植物も、彼は描かない。

ただ人の姿形から、彼が見えたものを
ありのままに描くのだ。

この町には、たくさんの人種が住んでいる。
人種の種類や名前などには詳しくないので、
たくさんいる、としか言えない。

駅まで、たぶん700メートルくらい、の
道のりを歩くまでに、だいたい3種類くらいの
人種の人とすれ違う。

駅に入るとたぶん5種類ぐらいの人たちがいる。
それはそれはカオスである。

人種が5種類だとしても、人種ごとに老若男女いるわけで、
さらにそれぞれ背格好、髪型、服装、顔の様子、肌の色が、
少しずつ違う。話す言葉も、振る舞いの仕草も、いろいろと違う。
声の色、発生の強さ、テンポ、それぞれ全然違うのだ。 

彼はそんなるつぼの中で、いつも人を描いていた。
彼が描くひとには不思議な共通点があった。
絵を見ただけでは、そこに描かれる人に共通点があることは
誰にも分からない。それは外見的なことではなかった。

だからその共通点を気づく人は彼以外にはずっといなかった。
それを見つけたのは彼の彼女だった。

彼が描く絵、彼が描く様子、モデルとなる人、彼の話。
彼の身近で接するうちに、なんというかずっと感じ続ける
感触のようなものに気がついた。
はじめは違和感のような、ほんの些細な感触だった。
けれど、次第にそれは一つの手触りとなっていく。

彼がこうして時間を費やし描いてるのは、
もしかして、彼にとって切実な理由があるんじゃないか。

その仮説はしばらくして確信に変わった。 

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May 01, 2013

世界の片隅の庭園。

1690年後半、ある庭師によってその庭は作られた。

名のある庭師ではなかった。
そのためその庭はだれかから注目されることもなく、
ただの個人宅の庭としてあるだけだった。

けれど、庭ができてから40年ほどたったころ、
とある僧が訪れ、称賛したたことから、その庭はその地域一帯で
評判となる。あっという間にその噂は国王にまで伝わり、
その庭はその全土で知られる名園と称されるようになった。

その庭を設計した庭師はその時にはなくなっていた。
その時手入れなどでかかわっていた別の庭師は、
設計者からとくに受け継いだものはなく、
その庭がどのような世界観でつくられたものかは
調べようがなかった。

けれど、その庭のあまりに特徴的なデザインと
それでいて庭園として破綻することなく
周囲の景観とも融合する姿が多くの庭師の
憧れとなり、さまざまな研究が行われた。

その流れは庭園づくりに一つのスタイルのようなものを
生み出し、18世紀末にはそのスタイルを踏襲した
庭園が全土各地に姿を現す。

しかし、あまりに個性的なスタイルゆえ、
その奇抜な部分ばかりが注目され、
本質的なことはないがしろにされていく
傾向が代を追うごとに強くなっていった。

見栄えの豪快さのみで、庭の本来を見失った、
庭園が主流のスタイルとなったとき、
とうとうそれは起きた。

1890年、ちょうど200年目を迎えたその庭は
近くの川の防波堤が決壊し、水害を受けた。
多くに庭木は欠損、おおきく姿は損なわれた。
さらに庭の持ち主がその水害で亡くなってしまったため、
修復作業もされず、結局その庭は失われてしまった。


2013年になり、いろいろな庭園のスタイルが
各地に現れている。けれど研究を進めてみると、
なにかを置き去りにして完成されている庭が多いことに
気が付く。

その大切なものとはいったいなんなのか。
それがはっきりと捉えられない。
そんな悩みを抱えながらも、庭師になり23年がたったとき、
その庭の存在を知った。

答えは何もわからないが、なにかの歯車が動き始めた気がした。

 

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April 30, 2013

背中で歴史は大きく動く。

この世には二種類の動物しか存在しない。

「人が背中に乗れる動物」と「人が背中に乗れない動物」。

前者は馬、象、ラクダなどで、後者は猫、リス、ライオンなど。

物理的に人が乗れるかどうかでだけなら
話は単純だが、動物は生き物であり、知性や感情をもつものなので、
その点において話は複雑になってくる。

そしてそこに、このテーマの深遠で根源的な魅力が隠されている。

「背中に乗る・乗られる」という行為は生き物同士の関係性にとって
大きな意味を持つもの。僕らは何気なく動物の背中に人が乗る光景を見ているが、
これは実はすごく大きな意味を持つことなのだ。

「背中に乗れる動物」の代表的な動物といえば、馬である。 
そもそも人間が馬の背中に乗ろうとおもい、
馬がそれを受容したことが、今の人間の歴史の行先を
大きく左右する出来事だった。 

それは人間にとって、発明や達成ともいえる偉業であり、
自然界の中での人間の立ち位置を大きく決定づける事件だったといえる。
 

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April 29, 2013

無数の命、彩のピンク。

「この世の中に無数にあるもの」と言われて、
いったい何を思い浮かべるか。

私はいつも「魚の卵」の姿をありありと思い浮かべる。

私はたらこが大好きで、朝食にはいつも少しあぶったたらこを
食べるのがここ10年来の習慣になっている。

あぶったたらこに包丁をいれたときの断面。
ピンク色をした中央の生の部分が
私の朝のささやかで華やかな彩である。
それはそのまま無数の命の姿でもある。

数直線上の線が無数の点の集合体であるのと同じく、
また星雲が無数の宇宙塵や暗黒物質から構成されているの同じく、
たらこは無数の魚卵が集合体として結合したものである。

わたしはこれまで、何粒の卵を食べたのだろうか。
10年間である。それはそれは数えきれない数に違いないが、
よく考えてみたら、数えようと思えば数えきれるものだ、
ということに気が付いたことがすべての始まりだった。

数直線上の点はその数値を細かくしていけばいくほど、
無限に新たな点が出現するため、理論上けっして数えきれることはない。
星雲にしてもはるか遠くにある巨大なスケールの物質である。
専門家の間でも不明な点が多く、素人の自分には数えきれないどころか
数え始めることさえできない。

けれどたらこは違う。
たらこの一粒一粒は数え方によって変化したりはしない。
また観測者が数え始めたからといって形を変えたりはしない。
たらこは量子ではない。
そして星雲と違ってはるか遠くではなく、近くのスーパーなどで
手に入る身近なものだ。
数えようと思うまでにいろいろな障害が待ち構えているかもしれないが、
一度思ってしまえば数えきれないことはない。
いつかかならず数えきれるのである。

そんなことをつぶやきながらわたしは数える方法を考えた。

一房の卵の粒を数えるために、数粒の卵を
0.001g単位で計測できるはかりの上に乗せる。
そこから一粒あたりの重さを計測し、
房全体の重さをその数値で割れば粒数が測定できる。

さらに正確さを期すために3カ月間、食べるたらこの房の
重さを計測し続け、その平均値を測定すれば、
10年間食べ続けたたらこの粒数を実際の数字に近い値で
計算できる。

その方法を思いついた私は、
それを実行に移すことを決意し行動に出た。

まずは量りである。

入手するため調べてみると、
安くはないが手も出ないほど高額というわけでもない。
さっそく発注し、その量りが届くのを待つことにした。
 しかし、量り自体けっしてポピュラーなものではないので、
注文してからきっかり7日間の時間を要すると連絡があった。

私はやろうとしていたことがお預けをくらい、
なにも手につかなくなってしまった。
こんな中途半端な気持ちで仕事をしていても
かえって迷惑ばかりかけてしまうと思い、
量りが来るまで休暇を取ることにした。

そして、せっかくならばこの機会にもっとたらこのことを
しっかり考えてみようとおもい、北海道に行くことにした。

そのときは、このたらこを巡る旅が
自分の未来を大きく変えてしまうことなど
予想もしていなかった。



 

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April 28, 2013

世界はチーズになり、チーズは世界へと溶けていく。

その島に牛は住めない。
だから山羊しかいない。

その山羊の乳を使って作るチーズが
この島の名産品で、彼の家はそのチーズを作ることで
有名な酪農家だった。

季節によって乳は味わいが変わる。
冬場に魚の脂がのるように、乳も冬場のほうがコクがあり、
夏場の乳はあっさりしている。

彼の管理する山羊たちは、天然の草しか食べない。
そして、搾乳機などは使わず一頭ずつ手で乳は搾られる。

気候や環境、食べる草の味わいや彼らの接し方によって
乳の味は変わり、チーズの味わいも違ってくる。
そのいろいろなものが反映された味わいの多様さこそ、
彼がチーズを作るにあたってこだわっているところだった。

彼にとっては、チーズは島そのものを濃縮し
カタチにしたもの。島を取り囲む海の潮風や
草原の青さ、太陽の明るさを山羊が吸収し、
山羊たちの生命力に乗って生まれた乳が
島に流れる時間に包まれて発酵して出来上がったチーズ。
食べただけで、島そのものが身体全体にしみわたっていく。

チーズをつくることで身体中すべての細胞が生き生きと動き始める。
チーズを作り上げることで、世界の一番深いところと
意思疎通ができる。彼にはその確かな実感があった。

出来上がったチーズは知る人ぞ知る名品で、
顧客は世界的なフレンチレストランや、
とある国の王室などのV.I.P。
限られた数しか作れないため、巷に出回ることは全くなかった。

もともと彼はこのチーズを誰かに売るために作っていたわけではなく、
自分たちが食べるために作っていただけだった。
しかし、この島の自然を撮影するため訪れた写真家が
撮影地を回っていた時に彼の家を訪ね、その時にこのチーズを知った。
とんでもない味がすると感じた写真家は、
弟であるシェフに彼から分けてもらったチーズを届けた。

島以外の人で初めてであったのが、この写真家とシェフの兄弟とだったことは
彼とこのチーズにとってとても幸運なことだった。

写真家の弟であるそのシェフはイタリアのとある富豪のもとで料理をしていた。
世界各国で三ツ星クラスのレストランを開いてきたそのシェフは
50歳で経営権をすべて譲渡して引退、いま仕えている富豪のもとで
手間と時間を惜しまないこれからの時代の料理を作っていた。

シェフはそのチーズがただのチーズではないことを即座に感じ、
写真家の兄とともに島を訪れ、酪農家の彼を訪問した。
シェフは作り手がどういう人で、そのチーズがどのような工程でつくられているか
を確かめに来たのだった。また主人に出すからには味だけでなく、
安全性なども確かめておく必要もあった。

シェフはチーズと相性のいいワインとパン、
その他さまざまな料理を用意して
彼のもとを訪れた。

島以外の人からわざわざ訪問を受けたことなど
なかった彼は、驚きと喜びのもと、その兄弟を歓迎した。

シェフ持参の食事とワインを楽しみながら、
彼はチーズのこと、島のこと、山羊たちのこと、
チーズ作りのことを語った。

シェフは彼の感性や世界観に深く感動した。
写真家は彼の生活に島の美しさの本質を感じとっていた。

その時の時間、そこで交わされたさまざまなことが、
世界の芽生えだった。
ここから、彼らと島と山羊達の世界は大きくカタチを変えて
いくことになったのだった。




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2036手記

「2036手記」、1ページ目、書き出しの言葉。

「記憶をたどるとは、過去という船に乗ることだ。
 人は好き好んでこの船に乗り込むこともあれば、
知らぬうちにこの船に乗り込んでしまっていることもある。」


4月8日のお昼過ぎ。神保町。
中途半端に空いた時間をつぶしにはいった古本屋の書棚に、
背表紙があきらかに書籍と違う冊子がまざっていた。
気になって手に取ってみると、それは随分と古い、1960年の日記帳だった。
中を見るとだれかが万年筆のようなもので手書きした文章が
ぎっしり書いてある。あきらかに出版された書籍ではない。

お店の人に確認したところ、売り物ではないようで、
だれかが棚に並んだ本の間に勝手においていったもののようだ。
表紙にはもともと印字されている「日記帳」というタイトルだけ。
名前などは書かれておらず、表紙には2036年10月13日と
書かれていた。

始まりを確認したところ、書かれていたのが上記の文章で、
このあとからしばらく「過去の船」について文章がつづいていた。
日記帳の体裁はまったく無視して、一続きの文章がずっと書き連ねられていた。

用紙の劣化具合から書かれたのはずいぶんと昔のようだ。
もしかしたら日記の年どおり1960年なのかもしれない。
筆跡はずいぶんとくずれてはいたが、書き方からして
品のある字面をしていた。

そのまま先を読み進めたいところだったが、
そろそろ次の予定がせまっていた。

お店の人にこの本を譲ってもらえないか頼んだところ、
誰かうっかり本棚に置いたまま忘れていったのかもしれないので
もうしわけないけどしばらくはお店で預からせてもらいますと言われた。

その店員のいうことももっともだと思い、僕は本を手に入れるのをあきらめた。
もししばらくたって、だれも持ち主が現れなかったら、
また中を読ませてもらっても構いませんか、と言ったら
それは構いませんよ、と言ってもらった。

鳥のえさと猫のトイレの砂を買いに行くために、
僕は三田線に乗った。途中巣鴨の駅で彼女と合流する予定だった。

車中、古い日記帳のことを考えていた。
ちらっと読んだだけなので当然だが、
あの日記帳には気になることがたくさんある。

なぜあそこに置かれていたのか。なぜ日記帳に書いてあるのか。
なぜあんな日付が書かれていたのか。
なにがあんなに長々と書かれているのか。

お客さんが忘れていったのかもしれない、と
古書店の人は言っていたが、よく考えてみれば
それはちょっと考えられないとおもった。

あんなものを鞄にも袋にも入れずに書店をうろつく人がいるだろうか。
書かれていたものを参照しながら本を探していた、と考えられなくもないが、
うっかり忘れてしまうような適当なものではない。
しかも棚への置かれ方がとても自然(もしくは不自然)だった。
同じような大きさ、雰囲気の書籍にいかにもまぎれるように
置かれてあったのだ。だれかが意図的にあそこにおいていったと考えるのが自然だ。

とはいえ、なんで古本屋においていったのだろう。
しかも書いた本人がおいていったとしたら、
ずいぶんと昔に書いたものだ。
それを長い時がたった今、あの古本屋にこっそりおいていく。

いったいなんのために。
僕は降りることを忘れ、あの続きがどんな文章だったのかを
ずっと考えていた。






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April 27, 2013

とある書店にあるという空洞の正体。

その書店には肝心なものがない。
じいさんは、いつもそうこぼしていた。
本が好きで、書店に行くのがなにより好きな人だった。

マイナーな本を買うときは、その書店に通っていたが、
帰ってくるとほぼ毎回のように
「あの書店はもったいない。そこさえよければ
 完璧だってところが欠けてるから、
 どうしようもない店になってしまってる」と
ぼやいていた。

じいさんが亡くなる前は、その言葉を話し半分で聞いていた。
僕は本にはあまり興味がなく、本屋にもほとんど通うことがないので
じいさんの話がほんとかどうか判断できなかったし、
別にあってるかどうか気になることもなかった。

けれど、とある用事で偶然その書店を訪れた時に、
じいさんの言っていたことがなんだったのか
すごく気になり始めた。

なぜならその書店は本当に素晴らしい書店だったからだ。

品ぞろえは充実、人気タイトルから子供向けの童話
マニアックな専門書、受験対策や医療関係などなど
扱わないジャンルはないほど棚には本のタイトルが
圧倒的数量で並んでいる。

店内のケアも細やか、通常の店なら店員を呼びとめるのに
時間がかかるが、ここはひとつのカテゴリーに一人といった
感じで店員が常駐、分からないことがあっても
いつでも視界には誰かしら店員がいる。
しかも本に対する見識も豊富で、
話がスムーズに通じ、端末などで確認せずとも
だいたいの見当でお目当ての書籍を探し当てる力を
全店員がもっている。

店内空間も快適で、そこかしこに椅子やベンチなど
すわってゆっくりできるスペースを設けている。
音楽も適度なボリュームであたりのいいクラシック音楽をかけている。

駐車場もかなりの台数を用意し、最寄りの駅も徒歩3分。
店内は妙な段差はなく、エレベーターも4機。
レジは各フロアに3か所もある。

誰もが口をそろえて、ここの本屋は
レベルが違うと評価し、本好きは
ここで休日の大半を過ごせるほど
快適な店である。
欠点を指摘するほうが難しい。

けれど、決定的なものが足りない。
あらゆるものがあるのに、
中心だけがぽっかり空洞になってしまったような
印象がこの書店にはある、とじいさんはこぼしていた。

空洞の正体。それはいったいなんなのか。

僕は自分なりに答えを探してみるつもりでいた。

はたして、その決定的に大切ななにかとは、
一体何なのか。


 

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