January 04, 2014

緊張と緩和、めりはりきかせて尻ポリリ。

昼過ぎ。帰宅からの外出。祖母宅。
新年の挨拶をするも、いろいろと所用を
済ませることが頭にちらつき
どこか落ち着かない。

節目に節を作れるように、
間はしっかり整えて走りきらねば
ならない事を痛感。

夜。電話。
人の気持ちのなんたるかは
永遠の課題。慮る事で自体をゆがめてしまう
こともあるのであります。
受け止めすぎず、大事なポイントをはずさない
ことが何に置いても重要なのであります。 

走る、そして止まること。緊張と緩和。
集中と拡散。目覚めと眠り。

やらないことをはっきりさせて、
やることを少なく整理整頓。
今年こそは克服で来たと来春に思いたい。 

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January 03, 2014

1-2 半吉ジュンクのラガーフェルド

ぜんざい。餅柔。塩甘。
初詣の人々はある物語の中で
わさわさしながら、同じ目をして
水を汲み、手を合わせ、身体を折り曲げる
などしている。

栄。百貨店。男女ぞろぞろ右往左往。
初売りの人々はある物語の中で
わさわさしながら、同じ目をして
手を動かしものを買うなどしている。 

ラガーフェルドは全く違う物語のなかで、
確信犯のように物語を作り演じる。

繰り返される行為のなかで、
両者の違いは克明。

喧噪と静寂のなか、狭間にいる自分自身の
道筋に想いを馳せる。
具体的なイメージを目指すべきしるしとして掲げる
ことがべりーいんぽーたんとである。

 
 

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January 02, 2014

1-1 風邪ひき富士鷹さんなすび。

大晦日。喉痛。熱風。
ふらふらのままで、ゆく年を見送り来る年を迎え
ながらの朝。予定の富士山来訪に向かう道中、
新東名。突如どどんと現れる富士に、人間の小ささを知る。

美しさとは、己の小ささをしっかりと認め確かめ
させてくれるもの。ふもとっぱらで見た富士山の裾野広がる
その姿は、自分の輪郭をちゃんとしらせてくれるものでした。

今年はいろいろな美しき結びの中に身を置いて、
自分の裾野をどんどんと世界の中にしるしていきたい。

そんなことを考えていたら、空高くに鷹が現れ、
その後茄子のお寿司を食べました。

一富士二鷹三茄子。
今年は春から縁起がいい。
夏も秋も冬も全部縁起がいい。


今年もどうぞよろしくお願いします。




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August 02, 2013

オムレツのアーモンドと美しさの所在、だもの。

朝、熱気さめやらぬ眠気。
夢か現か、荒ぶる記憶。
愛犬がごはんを求めてスリスリ、ゴロン。
なで続けて15分。
ご飯を食べると違う犬になった様に
自分の居場所へ去っていく。

朝食、オムレツ。
あのアーモンド型には美しさの要素が
全て詰まっている、と言われたら
そうかもしれぬと頷くような、
趣きあふれるオムレツをパクつく。

店を開ける前に時計を見たら
針がとんでもない時間に。
けれど確認したら、とんでもないのは
自分の時間感覚で、針はしっかり
自分の仕事を全うしておりました。

なにかが大きくぐらぐらと変わる。
ぐりとぐらも大人になっていく様に。

そもそも子どもなのかも分からないけど。
だって、にんげんじゃないんだもの。 

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August 01, 2013

逡巡はY字路へ人を誘いいざなう、いざなぎ景気。

朝、暑さ、4時半起き。
歩きにいくかどうか逡巡。
出かけようと決意するも雨。むむむ。
あきらめず近場のルートを歩く。
いつもと違う朝の風景。

知らないところで、いろいろな朝が過ぎている。
それが世界。自分の裏側は未知のものが蠢く。
ただ、裏を見たくてもどこから爪を引っかけめくれるのか、
それがどうにも分かりにくい。

朝ご飯、ゆめぴりか炊飯。
魚沼産のコシヒカリよりも、食感にコシがない。
魚沼の実力が腑に落ちる。けれど香りや味はしっかりある。

毎日食べてる米でさえ、感じられていたのは上っ面。
比べてみると奥行きが見える。裏側の気配。

 

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May 02, 2013

人種、人種、そして人種。

彼はいつもその木の近くで絵を描いていた。
彼が描くのはいつも人の姿だった。
建物も、植物も、彼は描かない。

ただ人の姿形から、彼が見えたものを
ありのままに描くのだ。

この町には、たくさんの人種が住んでいる。
人種の種類や名前などには詳しくないので、
たくさんいる、としか言えない。

駅まで、たぶん700メートルくらい、の
道のりを歩くまでに、だいたい3種類くらいの
人種の人とすれ違う。

駅に入るとたぶん5種類ぐらいの人たちがいる。
それはそれはカオスである。

人種が5種類だとしても、人種ごとに老若男女いるわけで、
さらにそれぞれ背格好、髪型、服装、顔の様子、肌の色が、
少しずつ違う。話す言葉も、振る舞いの仕草も、いろいろと違う。
声の色、発生の強さ、テンポ、それぞれ全然違うのだ。 

彼はそんなるつぼの中で、いつも人を描いていた。
彼が描くひとには不思議な共通点があった。
絵を見ただけでは、そこに描かれる人に共通点があることは
誰にも分からない。それは外見的なことではなかった。

だからその共通点を気づく人は彼以外にはずっといなかった。
それを見つけたのは彼の彼女だった。

彼が描く絵、彼が描く様子、モデルとなる人、彼の話。
彼の身近で接するうちに、なんというかずっと感じ続ける
感触のようなものに気がついた。
はじめは違和感のような、ほんの些細な感触だった。
けれど、次第にそれは一つの手触りとなっていく。

彼がこうして時間を費やし描いてるのは、
もしかして、彼にとって切実な理由があるんじゃないか。

その仮説はしばらくして確信に変わった。 

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May 01, 2013

世界の片隅の庭園。

1690年後半、ある庭師によってその庭は作られた。

名のある庭師ではなかった。
そのためその庭はだれかから注目されることもなく、
ただの個人宅の庭としてあるだけだった。

けれど、庭ができてから40年ほどたったころ、
とある僧が訪れ、称賛したたことから、その庭はその地域一帯で
評判となる。あっという間にその噂は国王にまで伝わり、
その庭はその全土で知られる名園と称されるようになった。

その庭を設計した庭師はその時にはなくなっていた。
その時手入れなどでかかわっていた別の庭師は、
設計者からとくに受け継いだものはなく、
その庭がどのような世界観でつくられたものかは
調べようがなかった。

けれど、その庭のあまりに特徴的なデザインと
それでいて庭園として破綻することなく
周囲の景観とも融合する姿が多くの庭師の
憧れとなり、さまざまな研究が行われた。

その流れは庭園づくりに一つのスタイルのようなものを
生み出し、18世紀末にはそのスタイルを踏襲した
庭園が全土各地に姿を現す。

しかし、あまりに個性的なスタイルゆえ、
その奇抜な部分ばかりが注目され、
本質的なことはないがしろにされていく
傾向が代を追うごとに強くなっていった。

見栄えの豪快さのみで、庭の本来を見失った、
庭園が主流のスタイルとなったとき、
とうとうそれは起きた。

1890年、ちょうど200年目を迎えたその庭は
近くの川の防波堤が決壊し、水害を受けた。
多くに庭木は欠損、おおきく姿は損なわれた。
さらに庭の持ち主がその水害で亡くなってしまったため、
修復作業もされず、結局その庭は失われてしまった。


2013年になり、いろいろな庭園のスタイルが
各地に現れている。けれど研究を進めてみると、
なにかを置き去りにして完成されている庭が多いことに
気が付く。

その大切なものとはいったいなんなのか。
それがはっきりと捉えられない。
そんな悩みを抱えながらも、庭師になり23年がたったとき、
その庭の存在を知った。

答えは何もわからないが、なにかの歯車が動き始めた気がした。

 

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April 30, 2013

背中で歴史は大きく動く。

この世には二種類の動物しか存在しない。

「人が背中に乗れる動物」と「人が背中に乗れない動物」。

前者は馬、象、ラクダなどで、後者は猫、リス、ライオンなど。

物理的に人が乗れるかどうかでだけなら
話は単純だが、動物は生き物であり、知性や感情をもつものなので、
その点において話は複雑になってくる。

そしてそこに、このテーマの深遠で根源的な魅力が隠されている。

「背中に乗る・乗られる」という行為は生き物同士の関係性にとって
大きな意味を持つもの。僕らは何気なく動物の背中に人が乗る光景を見ているが、
これは実はすごく大きな意味を持つことなのだ。

「背中に乗れる動物」の代表的な動物といえば、馬である。 
そもそも人間が馬の背中に乗ろうとおもい、
馬がそれを受容したことが、今の人間の歴史の行先を
大きく左右する出来事だった。 

それは人間にとって、発明や達成ともいえる偉業であり、
自然界の中での人間の立ち位置を大きく決定づける事件だったといえる。
 

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April 29, 2013

無数の命、彩のピンク。

「この世の中に無数にあるもの」と言われて、
いったい何を思い浮かべるか。

私はいつも「魚の卵」の姿をありありと思い浮かべる。

私はたらこが大好きで、朝食にはいつも少しあぶったたらこを
食べるのがここ10年来の習慣になっている。

あぶったたらこに包丁をいれたときの断面。
ピンク色をした中央の生の部分が
私の朝のささやかで華やかな彩である。
それはそのまま無数の命の姿でもある。

数直線上の線が無数の点の集合体であるのと同じく、
また星雲が無数の宇宙塵や暗黒物質から構成されているの同じく、
たらこは無数の魚卵が集合体として結合したものである。

わたしはこれまで、何粒の卵を食べたのだろうか。
10年間である。それはそれは数えきれない数に違いないが、
よく考えてみたら、数えようと思えば数えきれるものだ、
ということに気が付いたことがすべての始まりだった。

数直線上の点はその数値を細かくしていけばいくほど、
無限に新たな点が出現するため、理論上けっして数えきれることはない。
星雲にしてもはるか遠くにある巨大なスケールの物質である。
専門家の間でも不明な点が多く、素人の自分には数えきれないどころか
数え始めることさえできない。

けれどたらこは違う。
たらこの一粒一粒は数え方によって変化したりはしない。
また観測者が数え始めたからといって形を変えたりはしない。
たらこは量子ではない。
そして星雲と違ってはるか遠くではなく、近くのスーパーなどで
手に入る身近なものだ。
数えようと思うまでにいろいろな障害が待ち構えているかもしれないが、
一度思ってしまえば数えきれないことはない。
いつかかならず数えきれるのである。

そんなことをつぶやきながらわたしは数える方法を考えた。

一房の卵の粒を数えるために、数粒の卵を
0.001g単位で計測できるはかりの上に乗せる。
そこから一粒あたりの重さを計測し、
房全体の重さをその数値で割れば粒数が測定できる。

さらに正確さを期すために3カ月間、食べるたらこの房の
重さを計測し続け、その平均値を測定すれば、
10年間食べ続けたたらこの粒数を実際の数字に近い値で
計算できる。

その方法を思いついた私は、
それを実行に移すことを決意し行動に出た。

まずは量りである。

入手するため調べてみると、
安くはないが手も出ないほど高額というわけでもない。
さっそく発注し、その量りが届くのを待つことにした。
 しかし、量り自体けっしてポピュラーなものではないので、
注文してからきっかり7日間の時間を要すると連絡があった。

私はやろうとしていたことがお預けをくらい、
なにも手につかなくなってしまった。
こんな中途半端な気持ちで仕事をしていても
かえって迷惑ばかりかけてしまうと思い、
量りが来るまで休暇を取ることにした。

そして、せっかくならばこの機会にもっとたらこのことを
しっかり考えてみようとおもい、北海道に行くことにした。

そのときは、このたらこを巡る旅が
自分の未来を大きく変えてしまうことなど
予想もしていなかった。



 

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April 28, 2013

世界はチーズになり、チーズは世界へと溶けていく。

その島に牛は住めない。
だから山羊しかいない。

その山羊の乳を使って作るチーズが
この島の名産品で、彼の家はそのチーズを作ることで
有名な酪農家だった。

季節によって乳は味わいが変わる。
冬場に魚の脂がのるように、乳も冬場のほうがコクがあり、
夏場の乳はあっさりしている。

彼の管理する山羊たちは、天然の草しか食べない。
そして、搾乳機などは使わず一頭ずつ手で乳は搾られる。

気候や環境、食べる草の味わいや彼らの接し方によって
乳の味は変わり、チーズの味わいも違ってくる。
そのいろいろなものが反映された味わいの多様さこそ、
彼がチーズを作るにあたってこだわっているところだった。

彼にとっては、チーズは島そのものを濃縮し
カタチにしたもの。島を取り囲む海の潮風や
草原の青さ、太陽の明るさを山羊が吸収し、
山羊たちの生命力に乗って生まれた乳が
島に流れる時間に包まれて発酵して出来上がったチーズ。
食べただけで、島そのものが身体全体にしみわたっていく。

チーズをつくることで身体中すべての細胞が生き生きと動き始める。
チーズを作り上げることで、世界の一番深いところと
意思疎通ができる。彼にはその確かな実感があった。

出来上がったチーズは知る人ぞ知る名品で、
顧客は世界的なフレンチレストランや、
とある国の王室などのV.I.P。
限られた数しか作れないため、巷に出回ることは全くなかった。

もともと彼はこのチーズを誰かに売るために作っていたわけではなく、
自分たちが食べるために作っていただけだった。
しかし、この島の自然を撮影するため訪れた写真家が
撮影地を回っていた時に彼の家を訪ね、その時にこのチーズを知った。
とんでもない味がすると感じた写真家は、
弟であるシェフに彼から分けてもらったチーズを届けた。

島以外の人で初めてであったのが、この写真家とシェフの兄弟とだったことは
彼とこのチーズにとってとても幸運なことだった。

写真家の弟であるそのシェフはイタリアのとある富豪のもとで料理をしていた。
世界各国で三ツ星クラスのレストランを開いてきたそのシェフは
50歳で経営権をすべて譲渡して引退、いま仕えている富豪のもとで
手間と時間を惜しまないこれからの時代の料理を作っていた。

シェフはそのチーズがただのチーズではないことを即座に感じ、
写真家の兄とともに島を訪れ、酪農家の彼を訪問した。
シェフは作り手がどういう人で、そのチーズがどのような工程でつくられているか
を確かめに来たのだった。また主人に出すからには味だけでなく、
安全性なども確かめておく必要もあった。

シェフはチーズと相性のいいワインとパン、
その他さまざまな料理を用意して
彼のもとを訪れた。

島以外の人からわざわざ訪問を受けたことなど
なかった彼は、驚きと喜びのもと、その兄弟を歓迎した。

シェフ持参の食事とワインを楽しみながら、
彼はチーズのこと、島のこと、山羊たちのこと、
チーズ作りのことを語った。

シェフは彼の感性や世界観に深く感動した。
写真家は彼の生活に島の美しさの本質を感じとっていた。

その時の時間、そこで交わされたさまざまなことが、
世界の芽生えだった。
ここから、彼らと島と山羊達の世界は大きくカタチを変えて
いくことになったのだった。




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2036手記

「2036手記」、1ページ目、書き出しの言葉。

「記憶をたどるとは、過去という船に乗ることだ。
 人は好き好んでこの船に乗り込むこともあれば、
知らぬうちにこの船に乗り込んでしまっていることもある。」


4月8日のお昼過ぎ。神保町。
中途半端に空いた時間をつぶしにはいった古本屋の書棚に、
背表紙があきらかに書籍と違う冊子がまざっていた。
気になって手に取ってみると、それは随分と古い、1960年の日記帳だった。
中を見るとだれかが万年筆のようなもので手書きした文章が
ぎっしり書いてある。あきらかに出版された書籍ではない。

お店の人に確認したところ、売り物ではないようで、
だれかが棚に並んだ本の間に勝手においていったもののようだ。
表紙にはもともと印字されている「日記帳」というタイトルだけ。
名前などは書かれておらず、表紙には2036年10月13日と
書かれていた。

始まりを確認したところ、書かれていたのが上記の文章で、
このあとからしばらく「過去の船」について文章がつづいていた。
日記帳の体裁はまったく無視して、一続きの文章がずっと書き連ねられていた。

用紙の劣化具合から書かれたのはずいぶんと昔のようだ。
もしかしたら日記の年どおり1960年なのかもしれない。
筆跡はずいぶんとくずれてはいたが、書き方からして
品のある字面をしていた。

そのまま先を読み進めたいところだったが、
そろそろ次の予定がせまっていた。

お店の人にこの本を譲ってもらえないか頼んだところ、
誰かうっかり本棚に置いたまま忘れていったのかもしれないので
もうしわけないけどしばらくはお店で預からせてもらいますと言われた。

その店員のいうことももっともだと思い、僕は本を手に入れるのをあきらめた。
もししばらくたって、だれも持ち主が現れなかったら、
また中を読ませてもらっても構いませんか、と言ったら
それは構いませんよ、と言ってもらった。

鳥のえさと猫のトイレの砂を買いに行くために、
僕は三田線に乗った。途中巣鴨の駅で彼女と合流する予定だった。

車中、古い日記帳のことを考えていた。
ちらっと読んだだけなので当然だが、
あの日記帳には気になることがたくさんある。

なぜあそこに置かれていたのか。なぜ日記帳に書いてあるのか。
なぜあんな日付が書かれていたのか。
なにがあんなに長々と書かれているのか。

お客さんが忘れていったのかもしれない、と
古書店の人は言っていたが、よく考えてみれば
それはちょっと考えられないとおもった。

あんなものを鞄にも袋にも入れずに書店をうろつく人がいるだろうか。
書かれていたものを参照しながら本を探していた、と考えられなくもないが、
うっかり忘れてしまうような適当なものではない。
しかも棚への置かれ方がとても自然(もしくは不自然)だった。
同じような大きさ、雰囲気の書籍にいかにもまぎれるように
置かれてあったのだ。だれかが意図的にあそこにおいていったと考えるのが自然だ。

とはいえ、なんで古本屋においていったのだろう。
しかも書いた本人がおいていったとしたら、
ずいぶんと昔に書いたものだ。
それを長い時がたった今、あの古本屋にこっそりおいていく。

いったいなんのために。
僕は降りることを忘れ、あの続きがどんな文章だったのかを
ずっと考えていた。






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April 27, 2013

とある書店にあるという空洞の正体。

その書店には肝心なものがない。
じいさんは、いつもそうこぼしていた。
本が好きで、書店に行くのがなにより好きな人だった。

マイナーな本を買うときは、その書店に通っていたが、
帰ってくるとほぼ毎回のように
「あの書店はもったいない。そこさえよければ
 完璧だってところが欠けてるから、
 どうしようもない店になってしまってる」と
ぼやいていた。

じいさんが亡くなる前は、その言葉を話し半分で聞いていた。
僕は本にはあまり興味がなく、本屋にもほとんど通うことがないので
じいさんの話がほんとかどうか判断できなかったし、
別にあってるかどうか気になることもなかった。

けれど、とある用事で偶然その書店を訪れた時に、
じいさんの言っていたことがなんだったのか
すごく気になり始めた。

なぜならその書店は本当に素晴らしい書店だったからだ。

品ぞろえは充実、人気タイトルから子供向けの童話
マニアックな専門書、受験対策や医療関係などなど
扱わないジャンルはないほど棚には本のタイトルが
圧倒的数量で並んでいる。

店内のケアも細やか、通常の店なら店員を呼びとめるのに
時間がかかるが、ここはひとつのカテゴリーに一人といった
感じで店員が常駐、分からないことがあっても
いつでも視界には誰かしら店員がいる。
しかも本に対する見識も豊富で、
話がスムーズに通じ、端末などで確認せずとも
だいたいの見当でお目当ての書籍を探し当てる力を
全店員がもっている。

店内空間も快適で、そこかしこに椅子やベンチなど
すわってゆっくりできるスペースを設けている。
音楽も適度なボリュームであたりのいいクラシック音楽をかけている。

駐車場もかなりの台数を用意し、最寄りの駅も徒歩3分。
店内は妙な段差はなく、エレベーターも4機。
レジは各フロアに3か所もある。

誰もが口をそろえて、ここの本屋は
レベルが違うと評価し、本好きは
ここで休日の大半を過ごせるほど
快適な店である。
欠点を指摘するほうが難しい。

けれど、決定的なものが足りない。
あらゆるものがあるのに、
中心だけがぽっかり空洞になってしまったような
印象がこの書店にはある、とじいさんはこぼしていた。

空洞の正体。それはいったいなんなのか。

僕は自分なりに答えを探してみるつもりでいた。

はたして、その決定的に大切ななにかとは、
一体何なのか。


 

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April 26, 2013

ぶら下がっている月の下に広がっている僕らの世界は、
賑やかに動いて、今日も沢山の香りを混ぜこぜにした
煙をせっせとつくっている。

甘い煙も苦い煙もそれは色とりどりで、
ふわふわしてたり、沈み込んだり。

煙がどこに吐き出されているかは
誰も知らないのに、今日も煙づくりのために
僕らは目を覚まし、顔を磨き、
靴をひっかけ、列車に乗る。

昨日の持ち物と今日の持ち物を
区別するのに悪戦苦闘するから、
すぐに傘を無くして、
ドアノブの回し方を間違えてしまう。

それでも味の無いガムを吐き出して、
分厚いメガネを箱にしまって、
お気に入りのジャケットを羽織れば、
もう靴下が互い違いになってたって
気にならない。

あの子の足音が聞こえてくる頃、
猫の鳴き声が遠く彼方から
鳥の背中にのって運ばれてくる。

落ち葉には古代人のメッセージが
所狭しと書き込まれていて、
太陽の光を今日も七色に変える。

唇が震え、指先は想いもよらない方向を
指し示す。

ぶら下がった月はコンソメスープの艶やかさを身にまとい、
世界中の煙にささやかな香りを着せて、夜空から祈りを捧げる。

星は猫の目になりすまし、
いつだって羨ましそうにそれを眺めながら、
透き通った空で瞬きする。





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April 24, 2013

鳥と猫の類似点と夕日の美しさについて

その飛行機が僕の家の上空を通り過ぎたその時、
僕はビールを飲みながら文章を書いていた。
もちろん僕はその飛行機が自分の頭の上を
飛んでいたことなんて知る由もなかった。
いつもと同じ部屋でいつもと同じ銘柄のビールを飲んでいた。

書いていた文章は「鳥と猫の類似点について」
というタイトルのエッセイだ。
気まぐれに書いて
いたわけではなくて、考え抜いたタイトルとテーマを用意し、
じっくりと文章を起こすところだった。僕はとある雑誌に
自分の連載を持っていて、そこに掲載するための原稿を作っていたのだ。
僕は物書きではない。本業は印刷物をデザインしたり、
雑貨を作ったりしながら小金をかせぐわりと真面目な職人である。
けれど文章を書くのが好きで、暇があればいろいろな
テーマを用意して文章を書き始める。とりたてて趣味が
あるわけではない僕が唯一日課にしているというか、
何も考えなくとも毎日やり始めてしまうことが文章を書くことだった。
 
「鳥と猫の類似点について」というタイトルのエッセイを
いったいどんな雑誌に掲載するのか、と疑問におもう人は多いと思う。
もちろんそんな内容の文章を期待している読者層はごくごく少数で、
そんな層をターゲットにした雑誌で商売は成り立たない。そこには
ぼくの奇妙な企みが潜んでいる。何事にも企みは必要だ。企みは
取り留めのない日常の時間をすこしだけ歪ませ、地平線と空の間に
奇妙な隙間を作ったりする。その飛行機が僕の頭の上を飛んで行った
のだって、そんな企みがもたらしたものだった。

繰り返すけれど、その瞬間を僕は自覚してはいない。後で知ったのだ。
すべてが終わった後で。物事を知る順序というのは、だいだいの場合
さかさまになる。知るべきことを知った時には、すでにそれは知らな
くてもいいことになっていたりする。

その時も僕は何も知らないまま不意に文章を書く手をとめていた。
そしてなぜだからわからぬまま何気なくメールをチェックした。
なぜ文章を書く手をとめたのか、そしてなぜメールをチェックしたのか、
今になってみれば、その理由はてもシンプルでわかりやすいものだ。
けれど当然そのときは何も知らない。ごく自然、なんの感動もない。

 
ちょうど1件メールが来ていた。

 

****************************


タイトル:課題作文の件

こんばんは。お待ちかねの課題作文です。今回のお題は下記の通り。


『電車の中で下世話な話をするくだらない主婦たちの背中越しに
映える夕日の美しさについて』、2000字程度で書け。


締め切りは通常通り。どんな書き方でもいいですが、
食欲がなくなるような内容は控えてください。


************************


これは僕が通っているとある講義の課題を知らせるメールで、
原則このメールが届いてから24時間以内に回答を送らなくてはいけない。

いい文章を書く秘訣は、最初のインスピレーションを手放さないことだ。
それが一番大事で、そこで浮かび上がった感覚を頼りに言葉を紡いで
いけたら文章はわりと容易に出来上がる。けれど、その感覚をひとたび
失ったら、二度と同じ感覚は取り戻せない。同じ鮮度で手に入れること
は不可能である。

だから今日もぼくはそのメールを目にした瞬間から、課題作文のテーマに
ついて頭を回し、すぐにキーボードに向かって文章を作り始めた。


++++++


人は時として下世話な話をする。『ベネディクト修道院の修道士たちが
いかに清貧で純潔であったか』という論文を執筆中の研究者も、ふと筆を
おき一服した時には下世話なことを考えている。人間はだれしも下世話だ。
だから下世話なことを責められる人はいない。しかし、その主婦たちの話の
下世話さと言ったら度を越していた。ピーナッツバターを口の周りにべっとり
つけたじいさんがサウナから出てくる光景を僕は見たことがあるが、
あれのほうがよっぽど清潔感があり、好感が持てたくらいだ。

3人いた主婦の一人は花柄のワンピースを着ていた。もちろん年相応の
格好にはとても見えない。若作りも甚だしい。ワンピースの花が綺麗に
描かれているだけに悲しい。その花柄ワンピの主婦は中央に座る別の
主婦にむかって、近所の佐々木さん(仮名)という若い奥さんの髪型が
どれだけ滑稽かという話を彼女なりに面白く演出を加えながら語っていた。
それを聞いていた中央の主婦はとても太っていた。シートにずっしり身体を
埋め込みながら、これ見よがしに二重あごを震わせ頷いている。
うんうんとうなづくたびに体が埋まっていくようだ。

花柄ワンピとは逆側に座っていた主婦は、明るすぎる茶髪に20代のような
カジュアルでアップテンポなファッションをしていたが、その若すぎる服装の
せいでくすんだ瞳と張りのない素肌が余計際立ってしまっていた。

中央の太った主婦はどんどんと頷きつづけた。本当にシートに体が埋まって
いくようだった。きっと彼女はもう立ち上がることはできないんじゃないだろうか
と心配になった。花柄ワンピの主婦はそんな危険が彼女に迫っていることも
知らずに、どんどんと彼女をうなづかせるべく下世話な話を繰り返す。

その後中央の主婦が語った、
「佐々木さんがあれだけ変な格好をしながら
自分でそれに気が付かないって
いうのはある意味すごい。尊敬する。」
という発言で三人はそろって
大爆笑していた。
電車の縦揺れがその笑いの横揺れに巻き込まれ、
車内が一瞬だけ無重力になった。

「人を傷つけながら、自覚もなく、自分は傷つくこともなく自爆する」
という方法が
世の中にはあることを、僕は知った。彼女たちは身を持って
それを証明していた。
けれどもちろん、僕は彼女たちを尊敬はしない。 


相変わらず彼女たちの背後では美しい夕日が電車を追いかけている。
沈みゆく太陽は、地平線に近づくにつれてどんどんと大きさを増してきて
いるようだった。このままいけばもしかしたら地球も飲み込まれるのかも
しれない。そうなると車窓からこちら側に侵入してくることになる。まずは
ガラスが溶け出して、穴が開く。そして車両全体が温めたざる豆腐のように
緩く変形してくる。僕らはその暑さのなかで、頭の中がぼわーとなって、
だれもが不思議な言葉をつぶやきながら眠りに落ちていくだろう。そうやって
すべてが美しさの中に溶け出していっても、この三人の主婦たちは
その美しさとは一番遠い位置に居座っていて、話すのをやめない。やめられない。


++++++


ここまで一気に書き進めたところで電話が鳴った。
もしも、この電話をかけているのがこの下世話な三人の主婦の
誰かだとしたらどうしようか。ワンコール目が鳴り終わった時に、
そういうことをふと思った。もしそうだとしたら、三人のうちの
だれがいいだろうか。花柄ワンピだとしたら、僕はきっと一言目から
誹謗中傷の嵐に巻き込まれるだろう。彼女の一言目は
あんたは何様なの!という一言だろうか。そう思った時に
ツーコール目が鳴り終わった。

僕は4回目のベルが鳴り終わるまでじっくり考えてみようと思った。



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April 23, 2013

春、参道、橙と4人の食事会。

その日、4人がその店に集ったのは
ちょっとした偶然がいくつか重なったことによる。

・4人のうちの二人がとある用事で再会した。
・食事会をやろう、という話になり、もう一人に連絡をした。
・そのときに4人のうちの一人が住んでいる、あの町に集まろうという話になった。
・僕らにはその町には、一度行きたいと思っていたお店があった。
 (つまりその町に用事があった。ただ食事会とは違う趣旨のお店だった。)
・また、その町には夜遅くまで楽しめる飲食店がたくさんあった。
・当初は3人で集まる予定だったが、そのうちの一人がもう一人誘った。
・そのもう一人は女性だったので、雰囲気の素敵なところを探した。

こんな進行から導きだした条件の下に
なんとか見つけたお店がそのお店だった。

そのお店は大通りから細い路地を入って
少し歩いたところにある
小さく奇麗なマンションの一階にあった。

オレンジ色を貴重にした看板が
白熱色のライトに照らされ浮かび上がる。
店内の様子が見える大きな窓ガラスがあり
さわやかな木目調のインテリアと
歓談しながら料理を楽しむ女性二人の姿が見える。
ゆったりとした座席の配置、
奥にはカウンターとオープンキッチン。

どこか洋食屋さんのようなカジュアルさもある
そのビストロは、家族やカップルはもちろん、
男同士でも入れなくはない明るく開放的なお店だった。

座席に案内されると、
予約した僕の名前宛のメッセージカードが
おいてあり、手書きのきれいな字で
挨拶とお礼、そして春なのに寒かった今日の
天候のことなどが簡単に書かれていた。

僕ら4人はそれぞれ仕事も職場もまったく違うので、
それぞれが違う場所から、仕事の世界を切り離して
その町に集合した。夜7時の集合時間に間に合ったのは
3人。その3人のうち二人は初対面だった。

初対面の会話は取り立てて特別なこともなく
スムーズに進行した。
お酒も入り、会話が弾み始めたころに
遅れていた一人が到着した。

それからしっかりとしたメニューを注文し、
ワインもボトルを頼み、そこから話に話して
気が付いたら4時間が経過していた。

何を話したかは覚えている。
そのときに楽しく話していたこともしっかり覚えている。
けれど、その記憶の手触りがなぜか希薄なのだ。
フィクションの世界に身を浸していたような感触。
ぼくらは台本もなく、気の向くままにとある芝居を演じていたのかもしれない。

ただただ、オレンジ色の内装と白熱灯の光だけが
記憶の中に独特の空気感を残している。

次に訪れたときには、もうそのお店はないかもしれない。
そんなところにレストランがあったなんて話は
一度も聞いたことがない、と言われるくらいに
何の気配もないかもしれない。

けれど、ぼくら4人はたしかにその店で、
いろんな偶然が重なった結果、同じ時間を過ごした。

その希薄で不思議な時間の記憶は、
からっぽなまま濃密に残り続ける。
僕がこの世界からいなくなってもずっと。



 

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April 21, 2013

五感、予感、祝祭の瞬間。

車通りの割に高い建物もほとんど見当たらず、立ち並ぶ家屋の間には
畑や田んぼも数多くあるという、静かな雰囲気の郊外の一角。
そこには30周年を迎えたレストランがある。

そのレストランにその日集まったのは店主の関係者の絵描きさんが招いた
音楽家と彫刻家とその友人知人。

絵描きさんが描いた森の絵が店の壁面に舞台をつくり、
彫刻家さんが彫りこんだ動物たちがその舞台に
温かく居座っている中、音楽家の方たちが多種多様な演奏と
ふんわりした歌声で僕らをさまざまな世界へといざなうというのが
今日のイベントだった。

家庭的でシンプルな料理と飲み物が提供される中で演奏されたのは、
ギターとボーカルの二人組によるアットホームでありながら
どこか幻想的なセッションと
鍵盤ハーモニカのアンサンブルを中心に、
バイオリンや鉄琴、さまざまな打楽器など
いろいろな音色が折り重なったセッション。
演奏されたのはジャズの名盤から
クラッシックの名作、そしてジブリ音楽のメドレー。
僕らは料理をほおばりながら音楽に身を預け、
ときに手拍子で答えたり、自然と一緒に歌いだしたりした。

構えることも、身を乗り出すことも必要のない
カジュアルで自然な音楽会。

「祝祭」というものは、こうあるべきなのかもしれない。
集まった人たちが自分の得意なことをゆったりと披露しあう時間。
そんな自然に五感を預けられる緩やかな時間こそ、
自分の今と未来をつなげて受け入れられる幸せな時間
なんだとおもう。





 

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April 17, 2013

とあるバー、とある談義。

「言葉とはいったい何のためにあるんでしょうか」
ホテイさんが3杯目のビールを飲み始めながらそうつぶやいた。
夜も更けてきて、そのワインバーには僕らのほかに数人のお客さんしか
残っていない。けれど僕らの話はいよいよ煮詰まってきていた。

「物事を伝えるためじゃないですか、たとえば。」
ジューロウさんが汚れた手をおしぼりで拭きながらそう答えた。
ジューロウさんはなぜかずっとカニを食べていた。

「でも、だったらなんでこんなに伝わらないことが多いんでしょうか。
 伝えるためにあるもので、こんなに長いこと存在しているものなのに
 まったくもって不完全。本当に伝えるためのものだったらとっくに
 完全なものに整っていてもおかしくないはずです。」
ホテイさんがすでに語りなれたように反論する。

「でも伝えてることもたくさんあるんだから、つまりそういうものなんじゃないの。
言葉って。ものを伝えるためにある。
それに長いこと存在してるって言っても、たかだか数千年でしょ。
それくらいで整うとおもうほうがおかしいと思うよ。
だって、ぼくらの身の回りに昔からあるもので
 完全に整ったものってひとつでもある?」
ビシャさんがスケールの大きな考察で切り込んでいく。
ビシャさん以外の全員がうーんといいながら上方をみつめ、
「完全に整ったもの」について思いを馳せる。
ビシャさんはスコッチベースのカクテルをロックグラスでずっと飲んでいる。



「そうだね、そうだね。物語がこの世に誕生してから3000年くらいたってる。
 音楽なんて、どこを起源とするかにもよるけど、もっともっと昔だ。
 けれど、物語も音楽も完全なものなんてない。破綻と魅力が背中合わせになりながら
 人の心身を揺さぶったり固めたりしつづけている。」
少し離れた席に座るエビさんが大きな声で同意するように語る。
「完全に整ったもの」への空想をストップさせ、破綻と魅力のせめぎあいについて意識を傾ける。

エビさんはお酒が飲めないので、梅こぶ茶をすすっていた。
何杯目なのか本人もおぼえていないくらい飲んでいる。

皆がエビさんのほうを向いてうなずいているなか、
ホテイさんだけビールジョッキを握りしめながら
ややうつむき加減で頭を回転させているようだった。

その時、店の入り口のほうで一人グラッパを飲んでいた紳士風の
おじさんが近寄ってきた。
「なにやら面白そうな話をしていますな。私も混ぜてもらってもいいかな。」
といいながら、ホテイさんの隣の隣の椅子に腰を掛けた。

「私の名前は田中といいますが、ある方面の人からはカミュと呼ばれています。
 どうぞよろしく。」
その髭のおじさんはそう話してお辞儀をした。
ほとんどの人が無言でお辞儀を返した。
ホテイさんだけはそのおじさんをじっと見つめて
なにやらいいたそうな顔をしていた。

「田中さん、といいましたね。あなたはなぜ今のような話に興味を持ったんですか。」
ホテイさんがすこしつっけんどんな口調で質問をした。

「言葉に関する考察というだけでおもしろいのに、そこに壮大な 
 時間軸が挿入されてきて、音楽や物語の起源にまで話が及んだ。しかも
 話が始まってからあっというまに。ここからどんな世界の話に向かっていくのか
 非常におもしろそうだと思ったんだと思います。」
田中さんは左手でグラッパグラスを揺らしながらそう答えた。
グラスの中はすでに空になっていた。

「田中さん、あなたはどうおもわれますか。言葉のレーゾンデートルについて」
しばらく口を開かなかったオオグロさんが突然言葉を放った。
レーゾンデートルの発音が尋常でないくらい流暢で、そこにいる皆の視線が
ぴくっと動いた。

「レーゾンデートル。なかなかいい言葉をお使いになりますね。」
田中さんは空っぽのグラッパグラスをさらにふりふりと揺らしながら
その言葉を味わうようにつぶやいた。

「まさにそのレーゾンデートルこそが言葉あってのものなのでしょう。
 私たちは何事の存在価値も言葉なくしては認識できない。というより、
 存在価値なんて考え方は言葉があるからこそ出てきた概念です。
 猿や犬は物事を認識することはあっても、存在価値なんてものに思い至ることは
 ありえない。存在価値自体、言葉が生み出したもの。言葉は人間が世界で気持ちを
 狂わせることなく生きていくために必要不可欠なものなのです。」
田中さんは終始ほほえみながら話している。
話を聞いている全員がわかったようなわからないような顔をして黙っていた。

僕はなぜ田中さんがカミュと呼ばれているのか、そしてここにいる人は
僕も含めて田中さんのことをカミュとは呼べないのは
なぜなんだろうということばかり考えていた。


つづく



 

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March 27, 2013

向かうべき場所、猫、ボルサリーノを粋に決め。

目の前には大通り。車通りの少ない時間、
一台の真っ黒な車がゆっくりと走り去っていく。
どんな人が乗っていて、
どんな場所に行くのかはまったく分からない。
でも分かることが一つだけ。
あの車に乗っているドライバーにはどこか向かうべき場所があるのだ。

隣町の猫があるときこんなことを言っていた。

「僕らにとって「向かうべき場所」とは、とても何気ないものである。
 でもだからこそ、ぼくらはそれを無視することも、それに逆らうことも
 実はまったくできないのだ。自由とは思い込み、解放は夢のまた夢。」

だれでも毎日向かうべき場所があり、
その設定によって僕らはモゴモゴと動き始める。
トイレや台所もそうだし、最寄り駅や学校などもそうである。
愛するあの子のもとや、卵が激安のあのスーパーもそうである。

それを僕らは自分で選び取っている訳ではない。
何かをたよりに行きたい場所を思いつく。
芋づる式に向かうべき場所が登場する。
自分でひとりでに思いつくことはほとんどない。

目標とか夢とか使命とか、そういう大それた場所も、
こういった場所の延長線上として、僕らの前に現れる。
日常を見失わずに、何気なく生きた毎日のつながり。
それが一つの輪郭をみせる時が瞬間的にある。
それの名前を夢とかかんとか人は呼ぶのである。
見つけたら最後、そこから僕らに出来るのは
衣装化粧を粋に決め、素直にまっすぐ進むだけ。

とかく人生とは、ほとんど成り行きである。
その成り行きに素直になれるかどうか。
そこが生きることの意味を分ける分水嶺。

そうなのである。
猫はともかく、人にとっては。






 

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March 25, 2013

桜のしたにて春死なむ、西行お茶の子サイサイの頃。

丸一日の間にJAF三度。春の空気に心身硬直の日々。
卵とヨーグルトを喰らっても、動物とのつながりを
思い出せぬ日々。

寝転がっても、転がりださない心持ちは、
何をしたなら晴れるだろう。

美しさがないのではない、
美しさを忘れているのだと、
あの子は海を見つめてつぶやくだろうか。
 
貝殻を拾いながら、
貝達の命の存在がどこにあるのか、
空虚な真空を覗き込む。

寿司は回っても、頭は回らない。
確かに言えば、寿司は移動しているだけで
回ってはいない。

ということは、地球だって回っていないのかもしれない。 
だって、元のところにもとのようにもどることなんてないんだから。

桜のしたにて狂いそうな頭を
日常の作業がなんとかこちらにつなぎとめつつ。 

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March 14, 2013

春、修羅、滅却と陽気な猫。

春と修羅。

「修羅」という言葉。争うこと一般、という説明では
もちろん語れない世界観。シュラシュラモーリスグレイービー。

春こそ、修羅場。
あー、春だなぁとつぶやいている頃には、
その修羅場はおわっている。
戦いきった気だるさで桜の木のもとに
いられたらいい。

春は、修羅である。
修羅とはしっかりと向き合えなかったら、
ただの怖くて不気味なもの。逃げてしまえばそこは
修羅ではない。

そういう意味で春は、否応無しにやってくる
修羅。さわやかな風貌で近づいてくる分たちがわるい。

修羅。春の修羅に感じる美しさと退廃的な感じ。
それはいったいなんだろう。

空が青い。それはとてもいいことだ。
君と出かけたい。それもとてもいいことだ。
修羅が僕らを待っている。それもとてもいいことだ。

春の修羅は先が見えない。きっとそれがいちばんいいことだ。

猫は陽気に昼寝をするなか、
ぽかぽかとした日差しに、大事だと思っていたなにもかもが
すべて焼き尽くされる気がする。




 

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