2007年10月22日
音楽でひとつになれ
新宿育ち ストリート日誌(時々脱線) - livedoor Blog 共通テーマ
今回はアーティストの紹介ではなく、個人的な音楽にまつわる体験を書く。
といって、昨日のことである。
昨日、私の通っている大学の創立記念日だった。
特に今年は特別な年らしい。
「らしい」というのは無責任な言い方かもしれない。
しかし、「らしい」とは、たぶん私の大学の関係者以外の方ならば誰もが感じると思う。
今年、うちの大学は創立125周年を迎える。
こんなハンパな年をなぜ祝うのか、疑問に思われるかもしれない。
そのわけはこんな感じだ。
私の通っている早稲田大学の創立者大隈重信の言葉がこんなハンパな年を祝う理由となっている。
大隈の言葉によると、人はまともに養生を(健康に配慮して)いれば125歳まで生きられるのだ、と彼は生前に言ったらしい。
もちろん、大隈はそこまではさすがに生きられなかった。
しかし、早稲田大学にとって、125年というのは、大隈の言葉によって特別な節目の年であるととらえられるようになった。
そこで、私がたまたま入学した年がその節目の年だったということになる。
私は今、早稲田大学合唱団というサークルで合唱をやっている。
今回、そのとても大切な(内輪では)年を音楽で祝おうということになった。
というわけで、昨日の創立記念日最後のイベント、ベートーベンの“第九”の演奏会に私も含めサークルのメンバーは参加することになった。
演奏会はソリストの歌手以外はすべて学生の演奏で行った。
本番は、あまりに予測不可能な事態に陥る。
この“第九”は1楽章だけでも歌って全精力を使い果たしてしまう。
とにかく、ほんのちょっとした間を除いて、ひたすら大音量の嵐である。
合唱の始めからデッドヒート状態になってしまう。
結局、別に指揮者の指示があるわけでもないのに全員が自分が出せる限りの音量でどうしても歌ってしまう。
というより、ベートーベンに無理矢理歌わされているような印象を受ける。
ところでこの“第九”の歌詞だが、突き詰めるとかなり単純である。
大まかには2つのメッセージがある。
一つは「全人類が兄弟になれる」ということ。
“歓喜”の魔力が人間を一つにするのだ、とさらに訴えている。
もう一つは「世界を創造した者を認めよ」というもの。
大きな星空を、天空を見つめてそれを無条件に認めよ、と迫ってくる。
ドイツ語も分からない私がこんなことを書くのは失礼だが、歌っているときには歌のメッセージを大まかにつかんで、それをもとに歌った。
人類みな兄弟、なんて言葉はちょっとうさん臭い。
しかし、音楽でひとつになれる、それは日ごろ感じている。
それを感じさせてくれる場が、私にとってのストリートなのかもしれない。
または、あえてその場所を選んで演奏をしているミュージシャンの方々なのかもしれない。
新宿の街はなぜか自分の存在がなくなってしまう、と錯覚させられる場所だ。
その中で、歌っている人の前で立ち止まるということが、私にとっての自分の存在の確認作業なのかもしれない。
しかし、そこに少しずつだが人が集まってくる、そこに一体感がある。
これもささやかな世界だと思う。
そのささやかな一体感というもので、自分が生かされていると、最近ふと思う。
ベートーベンとストリートのミュージシャン、ジャンルは違うが伝えたいことは一緒なのかもしれない。
もちろん、ストリートのミュージシャンのことを、ささやかながらも記事にしている私にとってもそれは同じなのだろう。
インディーズを楽しみたいならやっぱりここ。新宿東南口にもあります。


自分のブログでも音楽が楽しめる。
インディーズのアーティストの音楽の無料試聴サイト

このブログでリンクもしているベアーズラックの映像がYou Tubeにひとつだけあった、ストリートの模様がよく分かる、やはりかっこいい!!
今回はアーティストの紹介ではなく、個人的な音楽にまつわる体験を書く。
といって、昨日のことである。
昨日、私の通っている大学の創立記念日だった。
特に今年は特別な年らしい。
「らしい」というのは無責任な言い方かもしれない。
しかし、「らしい」とは、たぶん私の大学の関係者以外の方ならば誰もが感じると思う。
今年、うちの大学は創立125周年を迎える。
こんなハンパな年をなぜ祝うのか、疑問に思われるかもしれない。
そのわけはこんな感じだ。
私の通っている早稲田大学の創立者大隈重信の言葉がこんなハンパな年を祝う理由となっている。
大隈の言葉によると、人はまともに養生を(健康に配慮して)いれば125歳まで生きられるのだ、と彼は生前に言ったらしい。
もちろん、大隈はそこまではさすがに生きられなかった。
しかし、早稲田大学にとって、125年というのは、大隈の言葉によって特別な節目の年であるととらえられるようになった。
そこで、私がたまたま入学した年がその節目の年だったということになる。
私は今、早稲田大学合唱団というサークルで合唱をやっている。
今回、そのとても大切な(内輪では)年を音楽で祝おうということになった。
というわけで、昨日の創立記念日最後のイベント、ベートーベンの“第九”の演奏会に私も含めサークルのメンバーは参加することになった。
演奏会はソリストの歌手以外はすべて学生の演奏で行った。
本番は、あまりに予測不可能な事態に陥る。
この“第九”は1楽章だけでも歌って全精力を使い果たしてしまう。
とにかく、ほんのちょっとした間を除いて、ひたすら大音量の嵐である。
合唱の始めからデッドヒート状態になってしまう。
結局、別に指揮者の指示があるわけでもないのに全員が自分が出せる限りの音量でどうしても歌ってしまう。
というより、ベートーベンに無理矢理歌わされているような印象を受ける。
ところでこの“第九”の歌詞だが、突き詰めるとかなり単純である。
大まかには2つのメッセージがある。
一つは「全人類が兄弟になれる」ということ。
“歓喜”の魔力が人間を一つにするのだ、とさらに訴えている。
もう一つは「世界を創造した者を認めよ」というもの。
大きな星空を、天空を見つめてそれを無条件に認めよ、と迫ってくる。
ドイツ語も分からない私がこんなことを書くのは失礼だが、歌っているときには歌のメッセージを大まかにつかんで、それをもとに歌った。
人類みな兄弟、なんて言葉はちょっとうさん臭い。
しかし、音楽でひとつになれる、それは日ごろ感じている。
それを感じさせてくれる場が、私にとってのストリートなのかもしれない。
または、あえてその場所を選んで演奏をしているミュージシャンの方々なのかもしれない。
新宿の街はなぜか自分の存在がなくなってしまう、と錯覚させられる場所だ。
その中で、歌っている人の前で立ち止まるということが、私にとっての自分の存在の確認作業なのかもしれない。
しかし、そこに少しずつだが人が集まってくる、そこに一体感がある。
これもささやかな世界だと思う。
そのささやかな一体感というもので、自分が生かされていると、最近ふと思う。
ベートーベンとストリートのミュージシャン、ジャンルは違うが伝えたいことは一緒なのかもしれない。
もちろん、ストリートのミュージシャンのことを、ささやかながらも記事にしている私にとってもそれは同じなのだろう。
インディーズを楽しみたいならやっぱりここ。新宿東南口にもあります。

自分のブログでも音楽が楽しめる。
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このブログでリンクもしているベアーズラックの映像がYou Tubeにひとつだけあった、ストリートの模様がよく分かる、やはりかっこいい!!