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8日大河ドラマ「八重の桜」第49話を視聴した。

今回は政府が清国と戦争になろうとする直前の状態で

学生を徴兵し戦に備えようとするムードが国中に広まっていた。

そんな中で同志社英学校では学生の入学志願者が減っている状況を危惧していた。

そんな中で覚馬が最後の力を振り絞って戦を学ばずという言葉を残して

覚馬が亡くなり、それを追うように容保もこの世を去った。

次々とかけがえのない人を失う八重だったが襄の言葉を思い出し、

今できる事として赤十字の活動で戦地へ向かう事を志願するシーンがメインだった。
ストーリー

1890(明治23)年に教育勅語が発表されると、

覚馬は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱いていた。

そんな覚馬のもとに東京から健次郎が訪ねてきた。

健次郎は兄・浩に代わって川崎尚之助の会津戦記を仕上げるために、

京都でどのように薩長と戦っていたかを覚馬に詳しい話を聞く。

しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、

健次郎も八重も激しく反論する。

その後、同志社の卒業生たちに不戦の精神を説いた覚馬は、

荷を下ろし、安堵したかのように病床に就いた。

以上NHK大河ドラマ「八重の桜」HPより


今回は日清戦争直前となった1891年に政府が

戦時には全国民が一致団結し天皇への忠義を課す事という一文に覚馬は懸念を示していた。

まあ戦争をせずに済むなら1番なんだと思うけれど、

当時の情勢としてロシアも進出してきており、

清国は欧州列強の植民地化が進んでいる状況だった。

これで朝鮮半島までロシアに支配される事があれば

日本に砲火が飛び火する事は時間の問題だった。

時代背景を考えたら開戦は仕方ない事だったとは思う。

本土決戦になっていたら今頃日本はさらに違った形になっていたかもしれない。

それでも清と違い欧州の文化と技術を吸収しようとしていた

日本にとってその発展と進化は急速だった。

その中で覚馬が亡くなり、亡くなる直前に会津の出来事を語っていた訳だけれど、

既に時代は覚馬の想いと違う方向に進んでいた。

そして容保もそれと同じようにして亡くなり、八重は次々とかけがえのない人たちを亡くす。

しかし八重は襄の意志を受継ぎ、自らができる事をしようと赤十字の活動に身を投じる。

果たして八重は日清、日露戦争で何を感じ、そして何を見て会津を思う事になるのだろうか?

その最後に注目だ。

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