12月6日公開の映画「47RONIN」を鑑賞した。

この映画は忠臣蔵を海外から観た視点で解釈して制作した

リメーク作品で浅野内匠頭が吉良上野介の策略で斬ってしまった事で

切腹となり領地が吉良上野介の物になった事により

浪人となった大石内蔵助らが吉良上野介を討つために

47人の同志と共に吉良上野介の命を狙うストーリーである。

ストーリーは外国の解釈されているものの本筋はそれほど変わらないが、

忍者が妖怪になるなどハリウッド要素が加わっているために

この内容を受け入れられるかは観る人次第になるだろう。
ほぼ多くが日本人キャストというハリウッド作品も珍しいけれど

忠臣蔵を外国からの視点で観る上では当然当初の設定では

なかなか理解されないというのは私もわからないではない。

忠臣蔵が起きた時代は18世紀というのは日本は

世界で唯一戦争が無かった時代でありまさに平和の時代だった。

外国にとってはまさに未知の国だった訳で

そういう国ではどんな事が起きていたのか?

を知るという点で今回の作品を制作したのだろうけれど、

とはいえやはり日本人から見た忠臣蔵と外国人からの見た忠臣蔵では

見方が違うだけにこの解釈で描く事で果たして受け入れられるのだろうか?というのはある。

文化の違いを経て制作されたこの作品を観終わった時あなたはどう感じる事だろうか?

キャスト

カイ演じるキアヌ・リーブス

大石内蔵助演じる真田広之

ミカ演じる柴咲コウ

吉良演じる浅野忠信

ミヅキ演じる菊地凛子

大石主税演じる赤西仁

浅野内匠頭演じる田中泯

将軍綱吉演じるケイリー=ヒロユキ・タガワ

他多数のキャストでストーリーが進行する。

ストーリー

大石率いるサムライたちは、

吉良とミステリアスな女ミヅキのたくらみによって主君を殺され、

自然が豊かな赤穂の領地を追われてしまう。

さらなる謀略を企てる吉良の野望を阻止し、

主君の敵を討つべく集まった47人の浪士たちは、

はぐれ者の混血青年カイと手を組むことに。

わずかな人数の彼らは、明らかに戦力差のある敵の軍勢の戦いに命を賭して身を投じる。

結末は劇場で観てほしいけれど、

今回のレビューとしてストーリーの流れは殆ど忠臣蔵同様なので

攻める場所が屋敷から城になり、

忍者が妖怪になるなど地理的な条件は殆ど度外視されている。

まずカイは架空の人物であるけれど、

この時代の日本には日本人と外国人のハーフは殆ど存在しなかったゆえに

やはりこの時代にとってカイのような存在は特殊に見られるだろう。

その上でどうしてもカイが特殊な存在である必要があるという事で

架空の存在である天狗の元で修業した事になっている。

この解釈をどう考えるかにもよるが、

1番近い現実の存在で忍者と考えるのが妥当だろう。

それを外国人はある種の妖怪という位置づけにしたが

忍者は特殊な武器を使ってだましたり、

忍び込んだりする訳で暗殺を企てた存在であることを踏まえれば

ミヅキのような存在も妖怪というよりも忍者だったと解釈した方が良いだろう。

ただ忍者の設定にすると多少なりとも無理な設定になるだけに

あえてミヅキを女にして浅野内匠頭を幻覚で誑かしたとする方が

外国人には解り易いと解釈したのだろう。

そして浅野家はお家断絶とあいなり、

大石内蔵助らは1年以上浪人生活を余儀なくされるが、

1年後吉良を討たんと立ち上がる。

しかしここで相手に妖怪がいるという事を考慮した大石はそれに対抗できる唯一の人物として

かつて浅野に拾われていたカイを探しに出島に向かうという設定だ。

やはり何事も対抗できる存在がいなければ話にならない訳で

それを大石が良く解っていたという解釈だ。

そしてカイを救出し、そこからカイが修業を受けた樹海の奥へと向かう。

そこで吉良に対抗するための武器を手に入れる為だった。

外国からみればどうやってこの状況を打開するか?

という解釈を理解されるためには武器が重要と考える。

戦力に劣っても武器が良ければ大軍に勝てるという図式と解釈を描く上での流れと考える。

そこで天狗の試練を乗り越えて手にした武器で吉良を討ちに行く訳だが

果たして大石達47人の浪人は吉良を討つ事ができるのだろうか?

結末は劇場で観てほしいけれど、

元々外国の視点から観たという事を割り切って観ているので

私は外国から描けばこういう解釈になるのか?という感じで鑑賞していた。

文化の違いもあり、本来仇討を続けると泥沼の戦争に突入し

どちらかが滅ばなければ終わらないのが世界の歴史でも多い。

しかし忠臣蔵では仇討を果たした後には一部を残して

関わった者全員が切腹して役割を終わらしている。

これが日本から観れば文化として受け入れられても海外から観ればどうしてなのか?

という事になる。

それを解釈させる上では通常とは異なる設定やストーリーになるのは当然と言えば当然だ。

ただどんなにリメークされたとしても基本の解釈は変わらないという事だ。

屋敷が城に替わろうとも、忍者が妖怪になっても、基本は変わらない。

これは日本人では描けない作品である事は間違いないが、

外国人が外国人の視点で解釈するとこういう見方になるのだと

受け入れる事はできるのではないだろうか?

総評として様々な設定が変更されようとも忠臣蔵の基本は変わらないし、

日本人の精神を伝えるだけの作品にはなっている。

何事も争いの連鎖はあるけれど、何処かで争いの連鎖は止めなければならない。

その意味で忠臣蔵は復讐を果たしたらその役目を終えて連鎖を残さないという

日本人の精神を伝える作品を外国人が感じるためにはどうしたら良いのか?

という点では確り描かれていたと思う。

文化を受け入れる受け入れられないは人それぞれであり、必ずしも駄作とは思わない。

受け入れられないと感じるならその文化は受け入れられない

という事を自ら答えを出したという事になるのかもしれません。

視点が変われば解釈も変わる。

様々な解釈があると受け入れる事に必要なのかもしれません。

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47 Ronin
Ilan Eshkeri
Varese Sarabande
2013-12-24





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