映画

2006年08月03日

- サイレントヒル -

三角

 








 映画版サイレントヒルを観る。さすが「ジェヴォーダンの獣」の監督の人らしく、奇天烈な映画を作るなぁという印象。サスペンス部分はほぼ支離滅裂ながら、クリーチャーや美術が圧倒的に素晴らしいもんで、原作ゲームファンとしては大満足の一品だった。真っ白い霧の中に一人佇む不安、禍々しいサイレンの音ともに異世界へ放り込まれる恐怖、容赦なく襲いかかる人外達の圧迫感。原作ゲームの不条理でおぞましい雰囲気を、巧いこと映画にとりこんだなぁという感じ。監督自身もゲームの大ファンらしいので、サイレントヒルを「わかっている」人が作ったのがよかったのかなと思う。特に三角頭が、大ナタをギーギー引きずりながら登場した時は大興奮。いい!物凄くいい! ただ出番がちょっと少ないのが残念。三角頭の映画にするわけにもいかないだろうけど、終盤で地獄の底が開く時に三角頭も登場して、邪教徒達相手にその無慈悲な大刀を思う存分振り回せるような場面があれば、もっと素晴らしかったと思う。邪教徒達の体を引き裂き、あるいは叩き潰し、容赦なく地獄に放り込んでいく三角頭。実際に登場するのはアレッサというボスキャラのみだけど、ここはお供を連なったりした方が「地獄絵図やー!」という迫力が出たかもしれない。三角頭が牛頭馬頭みたいな感じで。

 地獄と言えば、本当に地獄を味わったのは婦警さん。サブキャラの「いい人」が、一番無惨な死に方をするというこの歪み方、嫌いじゃない。むしろ真理かもしれない。世の中そういうことってよくあるもんなぁ。婦警焼殺前に母親が飛び込んでくると思った人達は甘い!(自分も)

 それにしても父親役のショーン・ビーンのヘタレっぷりには笑えた。地元警察に脅されて、「今度はもっと有能な奴を連れてくるからな!」という面白い捨て台詞を残し、異界に幽閉された家族を残したまま単身帰宅。新しい手法だなぁ。帰って何するのかと思ったら普通に寝てるし。これはやっぱり父性の権威がどんどん薄れてきてるっていうことのメタファーなんでしょうか。違うか。

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2006年05月12日

- 鬼畜 -

鬼畜(1977/日)

 零細の印刷屋を営む男の元に、妻に内緒で囲っていた愛人と3人の子供が訪ねてくる。修羅場の果て、愛人は子供を男に預けて姿をくらまし、妻は「誰の子だかもわからないこんな子供の面倒なんて見られるものか」と子供をほったらかし。生活苦と育児の煩わしさ、妻からのプレッシャーに責められ続けた男は、ついに自分の子供達を自らの手で…。

 少し前にTVドラマで、ビートたけし主演でリメイクされていた。子供を虐待する妻は黒木瞳で、愛人は室井滋。元祖のこちらの主演は緒形拳で、妻は岩下志麻、愛人は小川真由美。TV版と最も違うのは、やはり岩下志麻が黒木瞳とは別格に恐ろしいということだろうか。役作りのために、子役達には撮影が終わるまで一切笑顔を見せなかったそうで、虐待シーンは全部ガチに近い。特に凄すぎて笑ってしまったのが、末っ子の1歳児が食卓にイタズラした際、ブチ切れた岩下志麻が末っ子の口に無理矢理ご飯を詰めるシーン。↓

 



鬼畜

 









静止画では伝わらないが、本当に力いっぱい詰めていて子供もマジ泣き。凄すぎる!

 



 「子供の口にご飯を詰める」だなんて、現代じゃ絶対撮れないシーンだろうなぁ。これだけでももう見る価値がある。追い詰められた男は結局、実の子供を自分の手で捨ててしまうわけだが、そんな最悪の悲劇が人間の弱さ故、ちっぽけさ故に起こるのだということが本当によくわかる作品。とてつもなく非人間的で残酷な事をしているという自覚がありながら、緒形拳演じる父親は立ち止まれない。そこには開き直りすらないし、最後まで弱さが強さに裏返ることがない。終盤で緒形拳自身も不遇な幼少時代を送ったということが本人の口から語られ、不幸の連鎖に思わずゾッとしてしまう。そんな不幸な少年時代を送った人間が、なぜ今自分の子供まで捨てようとしているのか…。人間、小さい頃に染み付いた劣等感からは中々抜け出せるものではないということだろうか。本当に救いようのない話。そんな大人達の弱さを見透かすような、子供達の真っ直ぐで容赦のない視線が痛い。不快でやるせない映画だが、何故か画面から目を離すことができない。

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2006年05月04日

- 隠し剣 鬼の爪 -

隠し剣 鬼の爪(2004/日)

 やたら凄味のあるタイトルなので、鬼のように強い剣豪の話なのかなと勝手に思っていたら、意外に卑近というかリアルというか、身分の違う女性に恋をしてしまったりだとか、かつての親友を藩命で斬らなければいけないだとか、どちらかというと封建制と武士道に縛られた、サラリーマンとしての武士の悲哀に重点の置かれた物語だった(この辺り「たそがれ清兵衛」とほとんど同じ話らしいが、そちらは未見)。そもそも「隠し剣・鬼の爪」という必殺剣自体が、終盤になるまで一切出てこないのだが、しかしこの必殺剣をいざ使う場面がなかなか見事で、観客に予備知識を与えないままいきなりズバッとやるもんだから、えらくびっくりする。事前に「鬼の爪に関しては一切他言無用…」、「鬼の爪は尋常の勝負で使える技ではない…」みたいな思わせぶりな台詞も一応あるものの、まさかああいう技だったとは…。タイトルからずっと引っ張った割に出てくるのはほんの一瞬だけだが、非常に気持ちの良い一瞬だった。

 ただ惜しむらくは、主人公の追い詰められ方が甘くて、秘伝の必殺剣を使うまでの意義があまり感じられないことだろうか。「もう二度と人を殺したくない」とかナヨっぽいことを言ってる割には、案外簡単に、積極的に殺す。言ってることがいかにもポーズだけという感じで、これで武士の苦悩というにはいささかお手軽過ぎる感じも漂う。それでも映画自体にはかなり満足で、人を斬りに行く前夜に刀に細かい傷をつけることで斬れ味を増す「寝刃(ねたば)」をやっていたり、柄に麻縄をキリキリ巻いていたりするシーンなどは、リアルに人を殺す準備をしているという感じでドキドキした。美術も実に細かいところまで考証が行き届いていそうで、凄まじく「本物っぽい」。ただ月代が伸び放題という武士は、流石にいないんじゃあないか。

 あとは田舎娘を演じさせたら、これはもう完全に田端智子>>>松たか子だなぁと思った。この話、田端智子がヒロインの方が、断然胸キュンだったのではないだろうか。松たか子も無論素晴らしいのだが、この人だと酷い扱いを受けてもあまり可哀想に見えなくて…。

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2006年04月12日

- 妖星ゴラス -

妖星ゴラス(1962/日)

 「ゴラス」と名づけられた謎の恒星。地球の6000倍の質量を持つその星は、圧倒的な重力で他の星々を引き寄せながら、今まさに地球にも迫りつつあった。日本の宇宙艇・はやぶさ号が、乗組員の命と引き換えに入手したデータから割り出されたX-DAYは、約二年後。果たして人類はそれまでに、この未曾有の危機を回避することができるのか?

 地球の6000倍も重い星が、秒速1万キロを越えるスピードで地球に一直線に向かってくるのだから、これは凄まじい。直撃は避けても、ゴラスの重力圏の中に入れば、地上の物質は一瞬で宇宙空間に放り出されてしまうのだ。かつて人類が直面した危機の中でも最大級に絶体絶命な事態、それが「妖星ゴラス」だ。何しろ「アルマゲドン」の隕石の万倍はあろうかという質量で、表面温度は千数百度。とてもじゃないがブルース・ウィリスを送り込んで、チョチョイのドンというわけにはいかない。では「渚にて」のように、毒薬を飲んで終末を受け入れるか? しかしそもそも、「ゴラス」の大衆達に滅びの予感のようなものはない。全てを虚無に還す破壊の惑星がすぐそこまで迫っていようと、大衆は今日を生きることで精一杯だ。「ゴラスがきたらどうするのかね?」と問われたタクシーの運転手はこう言う。

「なあにお客さん、星が衝突するなんて話は大昔から何回もあってさ、まだ一度だってぶつかった試しはないんでさ。新聞やラジオは騒ぐのが商売だし、そりゃ学者の理屈からいくと衝突することになるんでしょうがね。そう理屈どおりにいってもらっちゃ困りますよ」

 近年でも「小惑星地球に衝突か?」という類いのニュースが、時折思い出したように報道されるが、それを目にする時の自分も正にこういう気持ちであった。このようなリアリズムを取り入れることによって、「妖星ゴラス」という大法螺が徐々に身につまされる話となってくる。その流れをバッサリ断ち切ってしまう後半の巨大セイウチの出現には流石に肝をつぶしたが、あれは志村喬が、迫り来る滅びのイメージを悪夢に見たという場面なのではないか。どう考えても現実にセイウチのお化けが出てきてしまっているが、とりあえずそういうことにでもしておきたい。びっくりした。

 結局人類がどのようにしてゴラスに立ち向かったかというと、南極に巨大なブースター装置を千基もおったてて、地球をゴラスの軌道から逸らせようとしたのである。思わず「嘘をつけ!」と言いたくなるが、まぁ嘘だ。しかし何と大きく清々しい嘘だろう。ゴラスを回避し、人類の希望を未来につなぐために、科学者達は結束してこの馬鹿げた計画に全力を注ぐ。人類が生き残る可能性は、最早自らの手で地球を動かす以外に残されていないからだ。我々はやらなければならない。どんな無茶でもやりとおさねばならない。接近するゴラスの引力によって海面は上昇し、南極大陸にも水没の危機が迫る。しかし海水に半ばまで浸かりながら、なおも火柱を噴き出し続ける地球推進装置。滅亡に瀕した人類の意地が、叡智が、願いが、炎となって天を突き上げ、地球を動かしていく。実に素晴らしいシーン。そして地球が元あった場所を、狂ったようなスピードで通過していく滅びの星ゴラス。どうだ?我々はやったのか?人類はやりとげたのか?We did it?


We did it!!

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2006年04月10日

- 至福のとき -

至福のとき

 失業者のおっさんが、お見合い相手の連れ子である全盲の少女を押し付けられ、おっさんには少女を養っていける財力なんてないものの、お見合い相手に見栄を張って「俺はでかい旅館の社長なんだ」と嘘をついていた手前、少女を引きとらざるをえなくなる。困ったおっさんは、失業者の仲間とともに廃工場に一室を設け、そこを「高級旅館のマッサージ室」と少女に偽り、按摩の仕事をさせる。勿論客などくるはずもないので、おっさんは仲間達に紙で作ったお金を渡して、代わる代わる少女の下へと通わせる。そこは少女の目が見えないのをいいことに、おっさんの嘘によって作られた虚構の世界。しかし父親が失踪してから継母にずっと苛められてきた少女にとって、それは人生で初めての「至福のとき」でもあった。

 結論から言うと、少女はおっさんの嘘に途中から気付いていて、最後は自らおっさんの元を飛び出し、たった一人で現実と闘っていくことを決意する。映画は少女が暗闇の中、杖をつきながら雑踏を歩く音が響いて終わる。少女の目が見えるようになるわけでも、生き別れた実の父親と再会できるわけでもない。目も見えず、何も持たない少女の行く先に待っているのは、とてつもなく苦しい人生だけかもしれない。しかしおっさんのついた善意の嘘は、目と同様に心すら閉じてしまった少女の中に、仄かではあるけれど、確かな光を灯した。父親に捨てられ、継母に苛められ、現実を拒絶しようとしていた少女が、自らの意志で過酷な運命と闘っていこうという決意をしたのは、おっさんの少女を想う優しい嘘があったればこそだ。他人のためを思ってついた嘘が(それは翻っては自分のためでもあるのだが)、逆にその人を傷つけてしまうというのは現実世界でよくある話だが、この映画ではその嘘が一人の人間に生きていく力を与えた。そのことに非常に感動する。虚構とはこういうものでありたい。

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2006年04月06日

- シンデレラマン -

シンデレラマン

 大恐慌時代、飢えと窮乏に苦しめられながらも家族のために闘い続け、ロートルから世界チャンピオンにまで昇りつめた実際のボクサー、ジム・ブラドック。彼の話を映画化する時点ですでにある程度の感動は保証されているし、実際映画の方もロン・ハワードらしい王道を行くハミ出さない作りで、本能的に「ええ話や」と思わされてしまう。観ればそれなりに楽しめるが、興奮の針が脳天を振り切れるというようなことはない。クライマックスの世界戦の前に、4回も「奇跡の勝利」があるというのも問題だ。中には戦っている最中に、貧困にあえぐ家庭の映像がフラッシュバックし、対戦相手の強打を浴びてもニヤリと笑って立ち上がる、みたいな快感を感じるシーンもあるが、基本的にはボクシングよりも、光熱費が払えないとか息子がサラミを盗んできたみたいなシーンの方が、印象に残る映画である。ボクシングどうこうよりも、「あぁ、このファイトマネーでしばらくは安泰に暮らせるなぁ」という方向に気をとられる。ボクシング映画としてはちょっとどうだろうか。

 ラストのレフェリーが勝者をコールする場面もどこか座りが悪く、普通ならば「勝者は…→両陣営の固唾を呑む表情→自宅で勝利を祈る家族→静まりかえる客席→…ジェームズ・J・ブラドック!(ウオー!)」とするべきところのように思うが、実際にはそういう「ため」が一切なく、「勝者…そして『新』世界王者は…(ここでもうウオー!が始まる)…ジェームズ・J・ブラドック!」という爽快感を欠く感じになっている。何故このような演出にしたのか?というと、実際の試合がそうだったからなんだそうだ。そう言われてしまうと文句の付けようもないが、ロン・ハワード、ちょっといい人過ぎるのではないか? フランク・キャプラの映画とか好きだろう、きっと。そう言えばラストでもう一つ盛り上がらない所なんかも似ている。

 「右手を骨折して、左手だけで働いてたから強くなったんだ!」という部分だけ、妙に中学生っぽくて笑った。

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2006年04月05日

- ケンタッキー・フライド・ムービー -

ケンタッキー・フライド・ムービー

 この前、深夜にテレ東で放送していたのを録画して鑑賞。モンティ・パイソンと同じようなノリで、散々な内容のショートムービーが80分間に渡って詰め込まれているわけだが、その内の30分が「燃えよドラゴン」のパロディで占められているというわけのわからなさ。ハンを倒した後に、ブルース・リーが靴のカカトを3回合わせてカンザスに帰っていくのには笑った(「オズの魔法使い」のパロディ)。全体的にかなりどうしようもないネタのオンパレードだが、想像していたよりはずっと面白く、いくつか本気で笑ってしまう箇所もあった。特に気に入ったのは「ウィラー」というビールのCMのパロディ。インド僧が布教終わりに酒場に寄って、さぁウィラータイム。「たった七度の転生ならば、せめて飲もうよ旨いビール」というコピーとともに、インド僧がビールをプハァ〜!と飲み干すのだが、この時のやたら旨そうにビールを干す表情が絶品。そこにいかにもビールの宣伝っぽいユルい音楽がビタッとはまって、かなり笑える仕上がりになっている。巧い。他にも「パム・グリアみたいな人と、敬虔なユダヤ教徒が機関銃を撃ちまくる」映画の予告編パロディとか、「危険を求める男」が黒人達の真ん中で「ニガー!」と叫んだりだとか。まっことくだらない。くだらなずきて偉い。

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2006年04月04日

- レナードの朝 -

レナードの朝

 中学生ぐらいの頃に見て、ボッロボロに号泣した記憶が鮮烈に残っている映画。少年期に「眠り病」を発症して、以来30年間を病院で半死人のように生活してきたデ・ニーロ演じるレナードが、新薬の投与によって奇跡的に覚醒する。鏡で中年になった自分の姿を見、抜け落ちてしまった人生の重みに打ちのめされながらも、「ただ生きていること」の素晴らしさを実感するレナードだったが、薬の効果は一時的なものに過ぎなかった…。というまぁ泣かざるをえないようなお話で、特に終盤、薬の副作用で痙攣が酷くなり、まともに話せなくなってしまったレナードの手をペネロープ・アン・ミラーがとり、美しいピアノの旋律ともにゆっくりとダンスするシーンが絶頂の号泣シーン。当時はどれだけ泣いたかわからないぐらいに泣いたものだったが、この前昼にテレ東で放送されていたのを見たら、「確かにいい話だけど、こんなもんだったっけ?」と感じてしまった。むしろロビン・ウィリアムズの「いい医者」役に食傷すら覚え、デ・ニーロが本を開きながら頭をグワングワン回して、「痙攣が酷すぎて本が読めなくなっちゃったよ〜」とやる場面では爆笑。10年の月日が流れ、「レナードの朝」は自分の中で「泣ける映画」から、「笑える映画」へと昇華された。昇華っていうのかそれ。

 現代ならレナードの「眠り病」を「引きこもり」に置き換えて、一つ映画が作れるかもしれない。12歳から30年もの間自宅に引きこもった主人公が、父親の死をきっかけに突然覚醒し、バイトを始める。夜に眠り、朝に起き、三食飯を食べ、人間らしく暮らすことの喜びに浸る主人公。バイト先の親子ほど年の離れた女子店員も、自分のことが嫌いではないみたいだ。しかし主人公の鈍くさい行動と、気弱な性格に次第に周囲の風当たりは強くなっていく。自分より若い店長からの執拗ないじめ、バイト仲間からの軽蔑の視線。ストレスから次第にチック症状に悩まされ始める主人公。手足の痙攣が止まらず、仕事が手につかなくなってバイトをクビになる。主人公のことが心配になった女子店員は、彼の自宅に様子を見に出かける。全てに疲れきった主人公は、再び暗い部屋の中の生活に戻ろうとしていた。それは同時に彼の人間的な死をも意味する。「やや、やっぱり、ぼぼ僕には、こ、こういう生活しかできないんだ…。ももももう、会わない方がいい…」。そう言う主人公の前で、女子店員はそっと洋服を脱ぎ、散らかった万年床の上でセックスを始める。雨の中、傘を差した女子店員が帰る後ろ姿を窓から見送る主人公。3日後、母親の刺殺体と主人公の首吊り死体が、彼の自宅から発見されるのであった。こんな暗い話、全然見たくない。

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2006年03月28日

- さらば冬のかもめ -

さらば冬のかもめ

 今にもジャック=ニコルソン汁が溢れ出して手がベトベトになりそうな濃すぎるジャケットだが、内容は意外にもしみじみとした人情話だった。窃盗の罪で懲役8年の刑を言い渡された若き水兵メドウズを、ニコルソン演じるパダスキーともう一人の黒人が海軍基地から刑務所まで一週間かけて護送するというロードムービーの一種で、軽い罪で青春を棒に振ってしまったメドウズの境遇に同情したパダスキー達が、母親に会わせてやろうとしたり、ビールの味を教えてやったり、筆おろしをさせてやったりと、道中色々な情けをかけてやる。言わば通過儀礼をさせて「男」にするわけだが、それ等の経験によって人生を楽しむことを学び、見違えるように成長したメドウズを、パダスキー達は最終的には刑務所に送らなくてはならない。


 よかれと思って囚人にかけた情けが、今度はそっくり運命の残酷さとなってパダスキー達の上にのしかかる。他方パダスキーから様々な人生の楽しさを教わったメドウズは、それがためにかえって俗世への未練を断ちがたくなり、パダスキー達の前から脱走を企てる。メドウズを見逃すこともできるが、それは今度はパダスキー達自身が罪人になることを意味している。運命の理不尽さに怒りながらも、人は運命の虜囚であることをやめることができない。「見逃してくれ」と泣きながら訴えるメドウズを、「許さんぞ!」と思い切り殴りつけるパダスキー。彼を「矮小だ」と笑うことのできる人間などいるだろうか。結局メドウズを監獄に送り届け、苦渋に満ちた表情で理不尽な現実へと帰っていくパダスキー。何ともアメリカン・ニューシネマらしい砂のような後味だが、それが良い。寂しい結末だからこそ、それまでの旅の中での人間模様が愛しく思える。途中で何の脈絡もなく創○学会が出てきたのには驚いた。

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2006年03月16日

- ペイルライダー -

ペイルライダー

 横暴な鉱山主に抵抗するか弱き勢力の元に謎のガンマンが現れ…という話だが、とにかく謎の男「牧師」を演じるイーストウッドの登場シーンが素晴らしい。鉱山主の一味に虐げられる少女の、「神様がもしいるのなら、我々に一度だけ奇跡をお示し下さい」という祈りに呼応するかのように、青白い馬に乗って現れるイーストウッド。「ペイルライダー」とは、ヨハネ黙示録に登場する終末を告げる四騎士の一人「青白き乗り手」のことであり、映画でも少女が聖書の一節を朗読するシーンがある。

「見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は『死』と言い、それには黄泉が従っていた」

 その朗読と同じタイミングで、少女の家の窓の外に現れるイーストウッド。このシーンを見ただけですでに鳥肌が出た。劇中、イーストウッドはただ「牧師」とだけ呼ばれ、その目的も、敵対する悪徳保安官との過去の因縁も語られることはない。ただイーストウッドが服を脱いだシーンでアップにされる、背中の六つの弾痕が、この男がすでに「死んだ」男であることを雄弁に語る。ジョン・ウェインの遺作「ラスト・シューティスト」で、ウェインともに死んだ西部劇の亡霊が彷徨う姿、それがこの「ペイルライダー」なのだろう。心地よくも哀しい物語であるが、親娘丼の意味はよくわからない。

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