元内閣総理大臣麻生太郎氏は吉田茂の三女和子の長男で、吉田茂の孫に当たる。吉田茂の実父竹内綱は旧土佐藩伊賀家家臣で政治家・実業家。幼くして吉田健三の養子となり姓が変わった。自分が養子であることを知ったのは吉田茂17歳のとき。養父吉田健三は実業家でその妻は佐藤一斎(儒者で「言志四録」の著者)の孫に当たる。吉田茂の妻雪子の家系もまた秀でている。父は牧野伸顕(政治家)、その父つまり雪子の祖父は大久保利通(旧薩摩藩士、政治家)である。雪子の母方の祖父は三島通庸(旧薩摩藩士、内務官僚、政治家)である。
実業家の養父吉田健三は遺産を残した。現在の貨幣価値で約60億円。しかし、吉田茂は生涯でこれをほとんど使い果たした。養子は養父家の資産を増やすのが使命ではないかと揶揄されたとき、生前吉田茂は資産は使うものだと答えたと言う。吉田茂は資産を残せなかったので、麻生太郎氏が資産家なのは実母和子(吉田茂の三女)が麻生家に嫁いだためであろう。
第一次世界大戦後のパリ講和会議の全権大使は牧野伸顕である。41歳の外務官僚であった吉田茂は随行員として同行した。しかし、補佐役としてはほとんど何もしなかったという。「首相は務まるが、秘書官は無理です」と云ったとか(p127)。
本書は吉田茂の英語力について触れている(p165以下)。
イギリスの外務省書記官セシル・ドーマーは「吉田氏は実に見事な英語を話す。彼ほどざっくばらんに自分の考えを述べる日本人には会ったことがない」と書いた。一方、ジョン・ダワーはその著書「吉田茂とその時代」の中で米国の駐日大使グルーの発言として「彼(吉田)の英語理解力と表現力は大いに劣っており、言いたい狙いが何であるか正確に分かりにくいことがときどきある」と紹介している。また、三宅喜二郎(元スウェーデン大使、チョコスロバキア大使)の発言には「会話はいいが、正式の演説となると貧弱だった」とあり、吉田に仕えた加瀬俊一は「吉田さんの英語は感心するほどのものではなかった」「吉田さんは語学が得意でなかったから、英語の達者な人を重用した。その結果、素養の無い小粒な軽薄才子が政治・外交を弄ぶというような不幸な事態も一時はあった」とまで書いている。総じて、吉田茂は英語が得意ではなかったようである。
吉田茂は明治39年に外交官として外務省に入省した。同期入省者に広田弘毅がいる。同期入省者は11名。広田弘毅の名は記録の上では筆頭に記されている。吉田茂は11人中7番目である。著者いわくこれはおそらく成績順であろうと(p66)。
2・26事件(昭和10年8月)を機に広田弘毅首相が生まれる。吉田茂は首相就任につき広田を説得した。しかし、内閣組成になると人事に随分陸軍の干渉があった。広田が推した吉田の外務大臣就任も陸軍の反対で実現しない。難産の末の内閣成立である。吉田は外務省を退官していたが、広田内閣の成立でイギリス大使に任命され、6ヶ月ぶりに現役に戻った。しかし、広田内閣は僅か10ヶ月で崩壊する。成立から崩壊まで常に陸軍に揺さぶられ翻弄され続けた。この間中国戦線は拡大を続け、終戦後広田は戦争責任を問われる(広田弘毅の生涯を描いた城山三郎の「落日燃ゆ」にその事情は詳しい)。仮に吉田が広田内閣の下で外務大臣を務めていたら、終戦後A級戦犯か軽くても公職追放であったであろう。そうであったら、戦後政治における吉田の登場はあり得なかった。広田内閣崩壊を知った吉田はロンドンで天を仰ぐ。「俺なら我慢なんかしないが、あいつは辛抱だけが取り柄のような男だからなあ」と吉田(p225)。
吉田はイギリス大使を2年半務め昭和13年11月帰任した。その後終戦まで6年半浪人生活を送る。
昭和21年4月連合国軍総司令部(GHQ)の指示の下衆議院総選挙が行われた。鳩山一郎率いる日本自由党が第一党となる。鳩山内閣成立かに見えたが、鳩山一郎はその直後公職追放となりこのときは首相就任の機会を逸する。その代役として鳩山から自由党総裁並びに首相就任を依頼されたのが吉田茂である。吉田はこれを受諾するに当たって、3つの条件を出した。金作りはしないこと、閣僚の人事に口を挟まないこと、嫌になったらいつでも辞めさてもらうこと。鳩山はこれを了として第一次吉田内閣が誕生する。当初吉田は首相を長くやるつもりはなかったに違いない。しかし、吉田内閣は第5次まで組閣され首相在任期間は7年余に及ぶ。
当時の政治課題のひとつは国民の食料事情の悪化を解決することである。戦争で疲弊した食料事情は悪化の一途を辿っていた。首相吉田はマッカーサーに食料の提供を要請する。当時の農林省の推計では約450万トンの穀物が至急必要で、これがなければ何百万人もの餓死者が発生しかねない。吉田はマッカーサーに450万トンの穀物の輸入を要請。マッカーサーはまず70万トンの穀物を準備した。それでどうにか餓死者を出さずに収まった。マッカーサーは吉田を呼んで文句を言った。「穀物70万トンでも餓死者は出なかったではないか。日本の数字はいい加減で困る。」これに吉田が応じた。「もし日本の統計が正確なら、あんな無茶な戦争は致しません。また、統計通りなら、日本が勝っていたでしょう。」(p328)。これにはマッカーサーも思わず笑った。
諧謔、反骨、洒脱、異才。読後に筆者が感じた吉田茂の印象である。そして、広田弘毅と吉田茂の生涯に見え隠れする人生の禍福に思いを馳せた。あざなえる縄の如しである。
なお、書名にある「赫奕」は「かくやく」と読み、光り輝くという意味である。やや難解な言葉であるが、この言葉を書名に使ったが故に本書の書名は記憶に残る。著者の意図は成功したに違いない。