2018年04月23日

生まれ故郷 (PF711)

c530ac2f.jpg筆者の生まれは埼玉県飯能市河原町というところである。そこには母方の祖父母が住んでいた。母は5人兄弟姉妹の長女で、結婚後祖父母(母の両親)の家の近くに住んだ。そこで兄と筆者が生まれた。お産婆さんが自宅に来て、母は自宅で出産している。筆者4歳半のときに、家族は東京都福生市に引っ越しした。当時父が米軍横田基地に勤務していたので、勤務先の近くに移動したのである。従って、筆者は小学校入学から大学を卒業して就職するまで福生で過ごした。

福生に引っ越しをしたあとも、祖父母を訪ねることはたびたびあった。小学生までの間、週末や夏休みなどに飯能河原町を何度となく訪ねている。しかし、それ以後飯能市河原町を訪ねることがなくなった。祖父母が亡くなったからである。

先日飯能市に行ってみた。40数年振りになろうか。池袋から電車に乗り1時間弱で飯能駅に着く。飯能駅から大通りを西に向かって歩く。大通りにはまだ昔ながらの建造物がいくつか残っている。大正時代に建造された木造二階建ての旧飯能織物組合の建物もその一つである。うなぎの蒲焼きを供する「佃屋」の建物も古く、昭和初めの建造であろうか。飯能は昔養蚕で栄えた。織物組合の建物があったのはそのためである。この大通りも絹や織物の取引で繁栄したらしい。

大通りを西方に15分ほど歩くと、旧飯能市役所の建物が正面に現れる。この建物には幼少時代からの記憶がある。旧飯能市役所の建物の中央は通り抜けられる。中央を通り抜けると名栗川の河原が見えてくる。飯能河原である。急勾配の階段を下りる。幅の狭い道を歩く。この辺りの景観にも見覚えがある。

飯能河原を左手に見ながら、名栗川に沿って歩いてゆくと、まもなく左手に店舗が見えてくる。店舗は川に突き出ている。「橋本屋」である。ちょっとした飲食ができる。筆者が幼少の頃にも既に営業していた。ここで幼少期の夏、棒のアイスクリームを買って食べていた。アイスクリームを食べ終わると棒が露出し、そこに「当たり」と書いてあるともう1本無料でアイスクリームがもらえた。橋本屋の看板は今かなり寂れているが、春先から秋口までの間、河原に遊びに来る家族連れが今でも立ち寄るようである。

橋本屋のすぐ先には名栗川の堰がある。もっとも、いまは川の水量が少なく、流れを堰き止めることはほとんどないようである。筆者幼少の頃は常に堰き止め、堰の上流側で泳ぐことができた。観光用のボートも浮かんでいた。そのため、この周辺は「名栗川のボート場」と呼ばれていた。

堰の上は幅2メートルほどあり、人が歩いて川の向こう側に渡ることができる。川の向こう側は岩場が多い。小学校低学年の頃、父と一緒に大きな岩場の上から釣り糸を垂らし、魚釣りをした記憶がある。当時体長15センチメートルほどの鮠(はや)がよく釣れた。大きな岩場の上に立って川の流れをじっと見ていると、40年余の時間の流れがとても短く感じる。いまここで釣り糸を垂らせば、小学生低学年の頃の自分に戻れるような気さえする。


Posted by projectfinance at 00:23│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック プロジェクトファイナンス